日中友好その3。

戦時中の中国の子供たちの作品を返しに、創立者・現校長・現理事長が初めて中国を訪れた1984年のことです。

創立者が「日本にも書法はある」と題して中国人民対外友好協会本部講堂において中国書法家協会の当時の高名な指導者達を前に講演をすることになり、五十四母字結構法の元字とその応用方法について準備を整え、北京を訪れました。当日、会場は五十人ほどの部屋でしたが、会場一杯に人が溢れ、その熱気が肌に伝わってくるようでした。

中国書法家協会との交流32


中国書法家協会との交流41


中国書法家協会との交流35


開始直前になり、一人の初老の方が現れると会場は一瞬シーンとなり、続いて拍手がおきました。その時、友好協会の世話役がそっと耳打ちをしてくれ、「今入ってきたのは中国書法家協会主席の啓功先生です。熱があるから今日は欠席すると言っていたのですがよく来てくれました。」と。

啓功先生が着席すると、進行役が言葉を発し、啓功先生の挨拶の後、創立者の講演が始まりました。
通訳をまじえての講演は創立者も初めてで、友好協会の通訳も創立者の言葉が難しいと言って、なかなか思うような進展ができませんでした。
その時、雰囲気を察したのか啓功先生が突然「先生のいわんとしていることはむずかしいけど、よくわかります。続けてください。」と声を掛けてくれたので、会場の雰囲気が一気に和らいだのです。

この機をとらえ、創立者に「哲仙が自分の理論に基づいて、どういう字を書くか見せてみよう。」となり、その場で持参した大色紙に揮毫しました。
すると啓功先生が「おう、書法交流か」と言って自分も持っていた筆で大色紙にさらさらと書いてくれました。

啓功先生との書法交流⑦


啓功先生との書法交流④


啓功先生との書法交流①


「藝海梯航」 芸術は梯子を渡るように一歩ずつ一歩ずつ進む。という意味だそうです。
この時の作品が、長い間東京校入って正面に飾ってありました。現在も大切に保管しています。

創立者は啓功先生に、

啓功先生との書法交流②


啓功先生との書法交流③


「愛全人類」という四字を書いて啓功先生へと贈呈しました。
「パンダ」の愛称で親しまれていた啓功先生、いつも穏やかでニコニコしているのが印象的です。

啓功先生は、この時体調も悪く、まさか書法交流をすると思っていなかったので、雅印を持参していませんでした。大変申し訳なく思い、作品を持ち帰り、押印の上、わざわざ届けてくれたのです。

そして先生が創立者に「是非北京で個展をしてください。」と提案されたのですが、創立者は「個展はお断りしますが、堀野書道学校展ならさせていただきます。私の指導法をご覧いただければ幸いです。」と言って、翌年6月に第1回堀野書道学校書法展が北京故宮内労働人民文化宮東配殿で開催されたのです。
この場所で展覧会を開催したのは、書道人としては初めてのことでした。

これ以降、中国の堀野書道に対する評価は創立者は勿論、生徒の作品も高く評価され、大都市での展覧会開催が要請されてきたのです。

啓功先生は残念ながら2005年に病気でお亡くなりになりましたが、その意思はきっと後世にも受け継がれていると思います。
中国書法家協会トップの人間が認めてくれた書法を学んでいるということを、生徒さんはもっと自信に持ち、又私たち学校も書道・書法の発展、継承に力を注いでいきたいと思います。