2009年09月13日
空に浮かぶ月は赤い
鬼が出たと噂を聞いた桃太郎は、和歌山県に出かけた。キジは「消防署に任せておけば何とかなるだろう」といつものクールな調子で言うのだが、桃太郎が鬼と聞いて黙っていられるはずがなかった。
和歌山県は静岡海岸からちょうど三キロほど離れた孤島の県である。海から山が飛び出たような外見をしており、昼間は海の暖流によって暖かいのだが、夜になると山の高い場所はものすごい冷え込む。それゆえにか、美味しいミカンの産地としてよく知られていた。しかし、切り立つ海岸や、複雑な山の地形ゆえに隠れ潜むには絶好の場所で、各地から逃げてきた鬼達がときどきたどり着くのだ。
やる気のなさそうなキジを説得するのは諦めて、桃太郎はサルにも話をした。いつもは任務に忠実な猿であったが、このときばかりは「拙者、体がサイボーグで生みは苦手でそうろう」と遠征を固く断ったのである。引きこもりの犬は、明日の朝から限定発売されるフィギュアを求めて、昨日の朝からいなかった。
しかたなく桃太郎が一人で和歌山県にやってくると、そこは平和そうな場所で、ミカンは噂通りに美味しかった。これ以上美味しいミカンは食べたことがないと言ってもいい。島ではなにやら祭りが催されている最中だったらしく、港に着くなり桃太郎は盛り上がる群集からミカンを嫌というほど食べさせられた。「本土から来た人間にはぜひ、本物の和歌山ラーメンを食べてほしい。カップラーメンの和歌山ラーメンなど偽者である」とはちまきをまいた壮年の男性が、桃太郎に特上のラーメンをご馳走してくれた。このように島はいたって平和な様子だった。鬼の出た噂は間違いだったのだろうと、桃太郎は島を観光することにした。
和歌山県は特に観光名所があるわけでもなく、しいて言えば自然の豊かな場所であった。また、名産の赤土で焼いた壷が自慢のようでもあった。しかし桃太郎は壷にも植物にもとくに興味はなかったので、なにか他に面白いものはないかとぶらぶらとあちこちを見て回った。すると、通りがかった道の脇に小道があり、「この先、三年坂」という看板がかかっていたのだ。桃太郎の気を引いたのは、その看板の下の落書きで「オーラルセックス、そして二十七センチのヒール」という書き込みだった。通りがかった住民にあれはどういうことかと聞くと「ああ。この先の坂には伝説があって。一度転ぶとあと三年しか生きられないのだそうだ」とどうでもいいことをのたまった。桃太郎は興味を引かれてその坂へと言ってみようという気になった。
坂はものすごい急勾配で、登りきった桃太郎は胃のミカンとラーメンを戻しそうになった。だが「そこのお侍様」と若い女の声が聞こえたために、桃太郎の理性は胃の叛逆に打ち勝つことが出来たのである。辺りを見回すのだが、しかし桃太郎には女を見つけることができない。「ここです。木の上です」といわれ、桃太郎が坂の上に立つ一本松を見上げると、そこには振袖を着た若い女性がいたのだ。ヒールは履いていなかった。
桃太郎が女に素性を尋ねてもいないのに、女は「私は瓜子姫と呼ばれています」と勝手に名乗った。自分のことを姫というような女を桃太郎は信じる気にはなれなかったが、彼女が続けて「川から流れてきた瓜から産まれて来たからこの名がつきました」と言うと、途端に親近感が沸いた。木の上にいる事情を聞くと、どうやらこの坂の上で鬼に襲われ、生皮をはがれて殺されてしまったのだという。「つまり私は幽霊でして。鬼は、私の皮を被り、この島の貴族と結婚してしまいました。結婚式の祝賀会が、昨日から三日間、港で行われているはずです」と言う。なるほど、それでミカンを配っていたことも合点が行く。あの果物も皮をむく。鬼はきっと、皮をむくのが好きなのだ。桃太郎は一人納得しました。
桃太郎は瓜子姫に同情し、鬼を責めました。自分もミカンをたらふく食べたのだが、飽き飽きしてしまった。鬼め、なんて酷いやつだ。おかげでしばらくは桃を食べる気にならない。瓜子姫は「和歌山のミカンは食べ過ぎると、当分は甘いものを食べたくなくなりますよね。あ、糖分は当分いらない、というか」と、喋っている途中で思いついただろうことを言う。上手いことを言ってやったぜというような満足げな顔をした。桃太郎は少し腹が立ち、幽霊なら幽霊らしくもうすこし陰気臭くしてはどうかといった。そもそもお前には足がなく、ヒールが履けないではないか。瓜子姫は少し考え「いちまーい、にーまい、さんまーい」と何か数え、九の後に「ああ一枚足りない」と言った。四谷怪談のマネか。井戸の中ではなく、木の上で数えるのでは立ち居地があべこべではないかと桃太郎は意見する。「いいえ違います。天の羽衣の最後の一枚が盗まれてしまって空に帰れない天女のマネです」と瓜子姫は言い返す。「十枚で一組の羽衣なんですよね。つまり、テンの羽衣」、瓜子姫はまた得意げな顔をした。
坂を下りた桃太郎は、看板に書かれた落書きをアセトンをつかって消した。アセトンは油性マジックを良く消してくれる素晴らしい液体である。それから結婚式の新郎と新婦に祝いの言葉を送り、お礼にミカンを一箱もらった。この島では特にやることはなかった。本土でサルと一緒にミカンを食べるつもりだ。
和歌山県は静岡海岸からちょうど三キロほど離れた孤島の県である。海から山が飛び出たような外見をしており、昼間は海の暖流によって暖かいのだが、夜になると山の高い場所はものすごい冷え込む。それゆえにか、美味しいミカンの産地としてよく知られていた。しかし、切り立つ海岸や、複雑な山の地形ゆえに隠れ潜むには絶好の場所で、各地から逃げてきた鬼達がときどきたどり着くのだ。
やる気のなさそうなキジを説得するのは諦めて、桃太郎はサルにも話をした。いつもは任務に忠実な猿であったが、このときばかりは「拙者、体がサイボーグで生みは苦手でそうろう」と遠征を固く断ったのである。引きこもりの犬は、明日の朝から限定発売されるフィギュアを求めて、昨日の朝からいなかった。
しかたなく桃太郎が一人で和歌山県にやってくると、そこは平和そうな場所で、ミカンは噂通りに美味しかった。これ以上美味しいミカンは食べたことがないと言ってもいい。島ではなにやら祭りが催されている最中だったらしく、港に着くなり桃太郎は盛り上がる群集からミカンを嫌というほど食べさせられた。「本土から来た人間にはぜひ、本物の和歌山ラーメンを食べてほしい。カップラーメンの和歌山ラーメンなど偽者である」とはちまきをまいた壮年の男性が、桃太郎に特上のラーメンをご馳走してくれた。このように島はいたって平和な様子だった。鬼の出た噂は間違いだったのだろうと、桃太郎は島を観光することにした。
和歌山県は特に観光名所があるわけでもなく、しいて言えば自然の豊かな場所であった。また、名産の赤土で焼いた壷が自慢のようでもあった。しかし桃太郎は壷にも植物にもとくに興味はなかったので、なにか他に面白いものはないかとぶらぶらとあちこちを見て回った。すると、通りがかった道の脇に小道があり、「この先、三年坂」という看板がかかっていたのだ。桃太郎の気を引いたのは、その看板の下の落書きで「オーラルセックス、そして二十七センチのヒール」という書き込みだった。通りがかった住民にあれはどういうことかと聞くと「ああ。この先の坂には伝説があって。一度転ぶとあと三年しか生きられないのだそうだ」とどうでもいいことをのたまった。桃太郎は興味を引かれてその坂へと言ってみようという気になった。
坂はものすごい急勾配で、登りきった桃太郎は胃のミカンとラーメンを戻しそうになった。だが「そこのお侍様」と若い女の声が聞こえたために、桃太郎の理性は胃の叛逆に打ち勝つことが出来たのである。辺りを見回すのだが、しかし桃太郎には女を見つけることができない。「ここです。木の上です」といわれ、桃太郎が坂の上に立つ一本松を見上げると、そこには振袖を着た若い女性がいたのだ。ヒールは履いていなかった。
桃太郎が女に素性を尋ねてもいないのに、女は「私は瓜子姫と呼ばれています」と勝手に名乗った。自分のことを姫というような女を桃太郎は信じる気にはなれなかったが、彼女が続けて「川から流れてきた瓜から産まれて来たからこの名がつきました」と言うと、途端に親近感が沸いた。木の上にいる事情を聞くと、どうやらこの坂の上で鬼に襲われ、生皮をはがれて殺されてしまったのだという。「つまり私は幽霊でして。鬼は、私の皮を被り、この島の貴族と結婚してしまいました。結婚式の祝賀会が、昨日から三日間、港で行われているはずです」と言う。なるほど、それでミカンを配っていたことも合点が行く。あの果物も皮をむく。鬼はきっと、皮をむくのが好きなのだ。桃太郎は一人納得しました。
桃太郎は瓜子姫に同情し、鬼を責めました。自分もミカンをたらふく食べたのだが、飽き飽きしてしまった。鬼め、なんて酷いやつだ。おかげでしばらくは桃を食べる気にならない。瓜子姫は「和歌山のミカンは食べ過ぎると、当分は甘いものを食べたくなくなりますよね。あ、糖分は当分いらない、というか」と、喋っている途中で思いついただろうことを言う。上手いことを言ってやったぜというような満足げな顔をした。桃太郎は少し腹が立ち、幽霊なら幽霊らしくもうすこし陰気臭くしてはどうかといった。そもそもお前には足がなく、ヒールが履けないではないか。瓜子姫は少し考え「いちまーい、にーまい、さんまーい」と何か数え、九の後に「ああ一枚足りない」と言った。四谷怪談のマネか。井戸の中ではなく、木の上で数えるのでは立ち居地があべこべではないかと桃太郎は意見する。「いいえ違います。天の羽衣の最後の一枚が盗まれてしまって空に帰れない天女のマネです」と瓜子姫は言い返す。「十枚で一組の羽衣なんですよね。つまり、テンの羽衣」、瓜子姫はまた得意げな顔をした。
坂を下りた桃太郎は、看板に書かれた落書きをアセトンをつかって消した。アセトンは油性マジックを良く消してくれる素晴らしい液体である。それから結婚式の新郎と新婦に祝いの言葉を送り、お礼にミカンを一箱もらった。この島では特にやることはなかった。本土でサルと一緒にミカンを食べるつもりだ。
2009年09月03日
スイートハートは潰れない
芦屋太郎は内閣調査室の一員である。内閣調査室とは、内閣の重要政策に関する情報の収集及び分析、その他の調査に関する事務をつかさどる情報機関である。芦屋太郎の近頃の仕事は、ある人物の身辺調査及び監視であった。対象の名前は小波凪江。女性。十一歳。学生。
「って、小学生じゃねーか!」
電柱の影から少女を見守りながら、芦屋が吠えた。
「静かにしろ。これも任務だ」
芦屋の腕に抱かれたつぶらな瞳のトイプードルが注意する。あらゆる任務の優秀な相棒となるべく高度な忍犬訓練された、トイプードルのプルート君だ。可愛い外見に反し、重低音の耳心地のいい声だ。
「だけどよう。小学生の監視って」
「小波凪江は、重要な立場にいる。無論、本人はそれを自覚していない。だからこそ、こうして影から彼女を見守らなけれワンワンクーン」
プルート君が喋っている途中で、ランニング中のおじさんが通りかかった。優秀な忍犬は、普通の犬の振りをつとめる。故に、一般人の前では人語を喋るわけにはいかないのだ。人がいなくなったのを確認して、プルート君は話の続きをする。
「報告によるとだ。彼女は一ヵ月後、コンサートホールでワンワンクーン。コンサートホールでピアノを弾くそうだ。その催しに、お忍びでロシアの大使がくる。その大使は彼女の演奏をワンワンクーンキャーン。つまり小波凪江の身に何かあり、大使の機嫌を損ねるとクーンクーン」
「俺だってもう事情は知っているから。別に、無理して話さなくていいぞ」
「なら文句を言わずにさっさと監視を続けろ!」
プルート君が怒り、芦屋の腕の中で前足をばたばたとさせる。モンゴリアンチョップのように両前足が芦屋の首元に叩き込まれた。「ふごぅ」と芦屋が苦痛のうめき声を上げる。プルート君の愛らしい姿とは裏腹に、忍犬として訓練された手刀はコンクリートを粉砕することすら可能である。
小波凪江は校門で教師に挨拶をすると、いつもならば商店街を通って家へと向かう。しかし今日は違った。商店街でお菓子屋にたむろする、クラスの男子グループと遭遇してしまったのだ。彼らのメンバーである昼野トリスケはことあるごとに小波凪江にちょっかいをかける困った子供だった。メンバーに見つからないように人ごみに早足で店の前を通り過ぎようとする小波凪江だったが、昼野トリスケは目敏くか彼女に気がついた。彼は駄菓子屋の軒先に積んであった爆竹を手に取ると、小波凪江に見せ付けて嘯いた。
「よーよー、小波。知ってるか? 爆竹をカエルのケツに突っ込むと、カエルが爆発するんだぜ。すごいぞー、げこげこーパーンって破裂してよう。腹がパクリと割れてさ、内臓が飛び出すんだぜ。見せてやるから一緒に三角池に行こうぜ」
昼野トリスケの話は、繊細な少女には刺激が強すぎた。話の途中から耳をふさいで、涙目で聞くまいと小波凪江は抵抗する。しかし昼野トリスケは身振り手振りを交えて、蛙が爆発する様を彼女に伝えようとするのである。
物陰から一行を見守る芦屋太郎は頭を抱えた。多感な時期の子供が残酷な光景を見ると、悪夢にうなされることがままある。小波凪江がそのようになれば、ピアノの演奏に当然影響が出てくるだろう。
「おい、プルート。おまえ行って何とかしてこいよ。忍犬だし、尻に爆竹こめられても平気だろう」
「馬鹿言うな。尻をそこまで鍛えるにはあと二年はかかる。それよりもおまえがなんとかしろ。給料もらっているんだろう、国家公務員」
芦屋太郎は舌打ちをすると、すっと物陰から出る。一見、特別な歩き方をしてはいないのだが、昼野トリスケの背後に立つまで、誰も芦屋太郎の存在に気がつく者はいなかった。昼野トリスケ少年は、連発花火を使ったときとネズミ花火を使ったときとで蛙がどう爆発するのかを熱く語っており、芦屋太郎に気がつく様子はない。異常なまでの影の薄さは、芦屋太郎の悩みの一つであった。内閣調査室員の採用試験で、「いいね、その影の薄さ! 採用!」と言われたときの芦屋太郎の抱いた、嬉しくもあり悲しくもある苦渋の気持ちを適切に表す言葉はない。
昼野トリスケの腕を掴み、話をやめさせよう。そうしようと芦屋太郎がしたときである。
「やめろよトリスケ! 小波さんがいやがってるだろ」
通りがかった片野大輔が、小波凪江と昼野トリスケの間に入った。片野大輔も小波凪江のクラスメイトであり、正義感溢れる少年であった。
「また大輔は、かっこつけたがるな。面白いぜ、かえるの尻に」
「お前の目は節穴か? 小波さん、耳をふさいでこんなに嫌がってるのに」
「女はキャーキャーいって怖がりながら、本当は楽しんでるんだよ」
「本当は嫌なんだよな、小波さん」
「小波はかえるの話、興味あるだろ」
二人の少年が小波凪江に問いかけた。だが、小波凪江はそれに答えず、片野大輔の後ろに隠れ、恐怖におびえるように芦屋太郎を見ていた。彼女の様子に不信を感じ、その視線の先を追いかけ、ようやく二人は、いやそれ以外のクラスメイト達はみな、芦屋太郎の存在に気がついたのだった。
昼野トリスケにとって、突然背後にあらわれたその男は恐ろしくてたまらなかった。
「だ、誰だよおっさん!」
「いや、誰といわれても……っていうかおっさんっていう歳じゃないし」
芦屋太郎は努めて冷静を保とうとしていたが、内心は驚きに溢れていた。まさか、ピアノが上手いただの少女だと思っていた小波凪江が、芦屋太郎の存在に自発的に気がつくとは。忍犬であるプルート君の鼻と耳を持ってしても、芦屋太郎が見つかることはそうあることではない。なるほど、内閣調査室が監視を命令するだけあり、この少女は只者ではないようだ。
「なんだこの人。小波さんの知り合い?」
片野大輔も、驚きながら小波凪江に尋ねた。小波凪江はわなわなと肩を震わせながら、
「この人……ここ一週間くらいずっと私の跡を付けてるの」
「いや、それじゃまるでストーカーみたいじゃ」
「このひとストーカーなの……!!」
通報された。
昼野トリスケが池のある公園を歩いてると、蛙がぴょんと飛び出してきた。昼野トリスケは、にんまりとする。幸い鞄の中には爆竹が入っている。しかも火薬の量を三倍に増やした特製爆竹だ。かえるを見失わぬよう目で追いながら、そっと爆竹を取り出す。
「ワンワン」
声が聞こえたときに、アッと思ったらもう遅かった。取り出した爆竹は昼野トリスケ少年の手から消えうせ、どこからともなく現れたトイプードルの口にくわえられていたのである。
「くそ! 返せ!」
昼野トリスケは犬を捕まえようとしたが、犬はまるでアニメの忍犬のように飛び跳ね、木と木の間をすりぬけて茂みの向こうに消えていった。あわてて昼野トリスケは茂みを掻き分けるが、その姿はどこにもない。
「畜生! 折角、かえるを見つけたのに!」
「少年……」
どこからともなく声が聞こえた。重低音の耳心地のいい声だった。
「だれだ!」
「何故お前は、蛙をそこまでして殺そうとする」
問われて、昼野トリスケはきょとんとする。
「そりゃあ……さっきのカエルは、カエルツボカビ病にかかっていた。だからっさっさと殺さないと。他のカエルに病気が移ったら、ここら辺一体のカエルが全滅しちまう」
「意外とまともな理由でビックリだ。お前は心優しい少年なのだな……だが、嫌がる少女に蛙を殺す方法をくどくどと言うのは嫌われるぞ」
「そ、そうか……俺、自分のやっていることに意義を感じてたから……小波にはわかってほしくてさ」
ひらりとどこからともなく、電車の切符とコンサートのチケットが落ちてきた。
「来週、とある場所でコンサートがある。そこに行ってみろ」
「カエルツボカビ病に罹ったカエルがいるのか?」
「カエルから離れろ。そこでお前は小波凪江と出会う。お前が行った非礼をわびるんだ。それから、そこでお前が思った感想を彼女に言うといい」
「感想……」
気配が、こくりと頷いたような気がした。
「褒められるのは気持ちがいいものさ。もしもお前が自分のやっていることを分かってもらいたいのならば、まずはもっとお互いを知り合え。理解しあうよりもさきに、人は認め合わなければいけない」
「認め合う……」
「俺が言いたいのはそれだけだ。これは返そう」
ぽとりと、木の上から爆竹をいれた袋がおちてきた。昼野トリスケが見上げると、枝の影を犬が飛び跳ねて去っていく影が見えたような気がした。
公園から出たプルート君は、留めてある車の中に開けっ放しの窓から入り込む。車の中には誰もいないが、飲みかけのジュース缶はまだひんやりとしていた。助手席で丸くなり一息つくと、「おつかれさま」と声が掛けられる。顔を上げるといつの間にか運転席に芦屋太郎が座っている。そして疑問を芦屋太郎にぶつける。
「言われたとおりのことを、少年に言ってやったぞ。どうしてお前は、あの少年にコンサートチケットを渡させた。出来るだけ近づけたくないんだろう? 彼女に」
「分かってないなあ、人間の機微って奴を。不器用な男って応援したくなるたちでさ」
「不器用か? 彼はカエルツボカビ病に罹ったカエルを見つけて素早くその尻にいれられるほどワンワンクーン」
人が通りがかったので、プルート君が犬の鳴きまねをした。
「ああ、傍で大体聞いてたから、さっきの会話は知ってるよ。そういうことじゃなくてだなあ、どう説明したらいいものか」
芦屋太郎は車のエンジンをかけた。小波凪江の監視はまだ続いている。今度からは、もう少し離れた場所から見守ろうと考えている。
「って、小学生じゃねーか!」
電柱の影から少女を見守りながら、芦屋が吠えた。
「静かにしろ。これも任務だ」
芦屋の腕に抱かれたつぶらな瞳のトイプードルが注意する。あらゆる任務の優秀な相棒となるべく高度な忍犬訓練された、トイプードルのプルート君だ。可愛い外見に反し、重低音の耳心地のいい声だ。
「だけどよう。小学生の監視って」
「小波凪江は、重要な立場にいる。無論、本人はそれを自覚していない。だからこそ、こうして影から彼女を見守らなけれワンワンクーン」
プルート君が喋っている途中で、ランニング中のおじさんが通りかかった。優秀な忍犬は、普通の犬の振りをつとめる。故に、一般人の前では人語を喋るわけにはいかないのだ。人がいなくなったのを確認して、プルート君は話の続きをする。
「報告によるとだ。彼女は一ヵ月後、コンサートホールでワンワンクーン。コンサートホールでピアノを弾くそうだ。その催しに、お忍びでロシアの大使がくる。その大使は彼女の演奏をワンワンクーンキャーン。つまり小波凪江の身に何かあり、大使の機嫌を損ねるとクーンクーン」
「俺だってもう事情は知っているから。別に、無理して話さなくていいぞ」
「なら文句を言わずにさっさと監視を続けろ!」
プルート君が怒り、芦屋の腕の中で前足をばたばたとさせる。モンゴリアンチョップのように両前足が芦屋の首元に叩き込まれた。「ふごぅ」と芦屋が苦痛のうめき声を上げる。プルート君の愛らしい姿とは裏腹に、忍犬として訓練された手刀はコンクリートを粉砕することすら可能である。
小波凪江は校門で教師に挨拶をすると、いつもならば商店街を通って家へと向かう。しかし今日は違った。商店街でお菓子屋にたむろする、クラスの男子グループと遭遇してしまったのだ。彼らのメンバーである昼野トリスケはことあるごとに小波凪江にちょっかいをかける困った子供だった。メンバーに見つからないように人ごみに早足で店の前を通り過ぎようとする小波凪江だったが、昼野トリスケは目敏くか彼女に気がついた。彼は駄菓子屋の軒先に積んであった爆竹を手に取ると、小波凪江に見せ付けて嘯いた。
「よーよー、小波。知ってるか? 爆竹をカエルのケツに突っ込むと、カエルが爆発するんだぜ。すごいぞー、げこげこーパーンって破裂してよう。腹がパクリと割れてさ、内臓が飛び出すんだぜ。見せてやるから一緒に三角池に行こうぜ」
昼野トリスケの話は、繊細な少女には刺激が強すぎた。話の途中から耳をふさいで、涙目で聞くまいと小波凪江は抵抗する。しかし昼野トリスケは身振り手振りを交えて、蛙が爆発する様を彼女に伝えようとするのである。
物陰から一行を見守る芦屋太郎は頭を抱えた。多感な時期の子供が残酷な光景を見ると、悪夢にうなされることがままある。小波凪江がそのようになれば、ピアノの演奏に当然影響が出てくるだろう。
「おい、プルート。おまえ行って何とかしてこいよ。忍犬だし、尻に爆竹こめられても平気だろう」
「馬鹿言うな。尻をそこまで鍛えるにはあと二年はかかる。それよりもおまえがなんとかしろ。給料もらっているんだろう、国家公務員」
芦屋太郎は舌打ちをすると、すっと物陰から出る。一見、特別な歩き方をしてはいないのだが、昼野トリスケの背後に立つまで、誰も芦屋太郎の存在に気がつく者はいなかった。昼野トリスケ少年は、連発花火を使ったときとネズミ花火を使ったときとで蛙がどう爆発するのかを熱く語っており、芦屋太郎に気がつく様子はない。異常なまでの影の薄さは、芦屋太郎の悩みの一つであった。内閣調査室員の採用試験で、「いいね、その影の薄さ! 採用!」と言われたときの芦屋太郎の抱いた、嬉しくもあり悲しくもある苦渋の気持ちを適切に表す言葉はない。
昼野トリスケの腕を掴み、話をやめさせよう。そうしようと芦屋太郎がしたときである。
「やめろよトリスケ! 小波さんがいやがってるだろ」
通りがかった片野大輔が、小波凪江と昼野トリスケの間に入った。片野大輔も小波凪江のクラスメイトであり、正義感溢れる少年であった。
「また大輔は、かっこつけたがるな。面白いぜ、かえるの尻に」
「お前の目は節穴か? 小波さん、耳をふさいでこんなに嫌がってるのに」
「女はキャーキャーいって怖がりながら、本当は楽しんでるんだよ」
「本当は嫌なんだよな、小波さん」
「小波はかえるの話、興味あるだろ」
二人の少年が小波凪江に問いかけた。だが、小波凪江はそれに答えず、片野大輔の後ろに隠れ、恐怖におびえるように芦屋太郎を見ていた。彼女の様子に不信を感じ、その視線の先を追いかけ、ようやく二人は、いやそれ以外のクラスメイト達はみな、芦屋太郎の存在に気がついたのだった。
昼野トリスケにとって、突然背後にあらわれたその男は恐ろしくてたまらなかった。
「だ、誰だよおっさん!」
「いや、誰といわれても……っていうかおっさんっていう歳じゃないし」
芦屋太郎は努めて冷静を保とうとしていたが、内心は驚きに溢れていた。まさか、ピアノが上手いただの少女だと思っていた小波凪江が、芦屋太郎の存在に自発的に気がつくとは。忍犬であるプルート君の鼻と耳を持ってしても、芦屋太郎が見つかることはそうあることではない。なるほど、内閣調査室が監視を命令するだけあり、この少女は只者ではないようだ。
「なんだこの人。小波さんの知り合い?」
片野大輔も、驚きながら小波凪江に尋ねた。小波凪江はわなわなと肩を震わせながら、
「この人……ここ一週間くらいずっと私の跡を付けてるの」
「いや、それじゃまるでストーカーみたいじゃ」
「このひとストーカーなの……!!」
通報された。
昼野トリスケが池のある公園を歩いてると、蛙がぴょんと飛び出してきた。昼野トリスケは、にんまりとする。幸い鞄の中には爆竹が入っている。しかも火薬の量を三倍に増やした特製爆竹だ。かえるを見失わぬよう目で追いながら、そっと爆竹を取り出す。
「ワンワン」
声が聞こえたときに、アッと思ったらもう遅かった。取り出した爆竹は昼野トリスケ少年の手から消えうせ、どこからともなく現れたトイプードルの口にくわえられていたのである。
「くそ! 返せ!」
昼野トリスケは犬を捕まえようとしたが、犬はまるでアニメの忍犬のように飛び跳ね、木と木の間をすりぬけて茂みの向こうに消えていった。あわてて昼野トリスケは茂みを掻き分けるが、その姿はどこにもない。
「畜生! 折角、かえるを見つけたのに!」
「少年……」
どこからともなく声が聞こえた。重低音の耳心地のいい声だった。
「だれだ!」
「何故お前は、蛙をそこまでして殺そうとする」
問われて、昼野トリスケはきょとんとする。
「そりゃあ……さっきのカエルは、カエルツボカビ病にかかっていた。だからっさっさと殺さないと。他のカエルに病気が移ったら、ここら辺一体のカエルが全滅しちまう」
「意外とまともな理由でビックリだ。お前は心優しい少年なのだな……だが、嫌がる少女に蛙を殺す方法をくどくどと言うのは嫌われるぞ」
「そ、そうか……俺、自分のやっていることに意義を感じてたから……小波にはわかってほしくてさ」
ひらりとどこからともなく、電車の切符とコンサートのチケットが落ちてきた。
「来週、とある場所でコンサートがある。そこに行ってみろ」
「カエルツボカビ病に罹ったカエルがいるのか?」
「カエルから離れろ。そこでお前は小波凪江と出会う。お前が行った非礼をわびるんだ。それから、そこでお前が思った感想を彼女に言うといい」
「感想……」
気配が、こくりと頷いたような気がした。
「褒められるのは気持ちがいいものさ。もしもお前が自分のやっていることを分かってもらいたいのならば、まずはもっとお互いを知り合え。理解しあうよりもさきに、人は認め合わなければいけない」
「認め合う……」
「俺が言いたいのはそれだけだ。これは返そう」
ぽとりと、木の上から爆竹をいれた袋がおちてきた。昼野トリスケが見上げると、枝の影を犬が飛び跳ねて去っていく影が見えたような気がした。
公園から出たプルート君は、留めてある車の中に開けっ放しの窓から入り込む。車の中には誰もいないが、飲みかけのジュース缶はまだひんやりとしていた。助手席で丸くなり一息つくと、「おつかれさま」と声が掛けられる。顔を上げるといつの間にか運転席に芦屋太郎が座っている。そして疑問を芦屋太郎にぶつける。
「言われたとおりのことを、少年に言ってやったぞ。どうしてお前は、あの少年にコンサートチケットを渡させた。出来るだけ近づけたくないんだろう? 彼女に」
「分かってないなあ、人間の機微って奴を。不器用な男って応援したくなるたちでさ」
「不器用か? 彼はカエルツボカビ病に罹ったカエルを見つけて素早くその尻にいれられるほどワンワンクーン」
人が通りがかったので、プルート君が犬の鳴きまねをした。
「ああ、傍で大体聞いてたから、さっきの会話は知ってるよ。そういうことじゃなくてだなあ、どう説明したらいいものか」
芦屋太郎は車のエンジンをかけた。小波凪江の監視はまだ続いている。今度からは、もう少し離れた場所から見守ろうと考えている。
2009年05月21日
期限切れの言葉
回線を開きっぱなしのラジオから、満州国の今までの歴史がとうとうと語られていく。
それを聞きならが、私はクッキーの箱を開けた。六十年も前に父から送られたクッキーはとっくに食べ終え、いまでは期限切れの券が敷き詰められている。五年前に買ったテーマパークの一年間フリーパス。買い物割引券。地域振興券。五枚あつまると一回だけおみくじを引ける券なんかもある。どれにも漢字とひらがなで「有効期限はいついつまでだ」とかかれていて、どれもがその期限をとっくにすぎている。どれをみても、その券をもらったときの思い出が湧き出てくる。私は昔から、なかなか物を捨てられない性格なのだ。
私は自分の財布から千円札を引き抜き、この箱に入れた。かわりに千元札を箱の底から探し当てて抜き取る。六十年も前に父からもらったお小遣いだった。
次はタンスの奥にある本をしまったダンボールから中国語辞書を探さなければならない。確か父からもらったものがあったはずだ。明日から満州は中国になる。
それを聞きならが、私はクッキーの箱を開けた。六十年も前に父から送られたクッキーはとっくに食べ終え、いまでは期限切れの券が敷き詰められている。五年前に買ったテーマパークの一年間フリーパス。買い物割引券。地域振興券。五枚あつまると一回だけおみくじを引ける券なんかもある。どれにも漢字とひらがなで「有効期限はいついつまでだ」とかかれていて、どれもがその期限をとっくにすぎている。どれをみても、その券をもらったときの思い出が湧き出てくる。私は昔から、なかなか物を捨てられない性格なのだ。
私は自分の財布から千円札を引き抜き、この箱に入れた。かわりに千元札を箱の底から探し当てて抜き取る。六十年も前に父からもらったお小遣いだった。
次はタンスの奥にある本をしまったダンボールから中国語辞書を探さなければならない。確か父からもらったものがあったはずだ。明日から満州は中国になる。
2008年11月25日
クッキングサリー
「げっへっへっへ! これは良いハーブだ」
ああっ!? 大変。
悪の組織「台所は男のもの」団が、花壇のハーブを勝手に積んでいるわ?!
「くくく。料理とはもともと男のもの……! 女の味覚なんて信用できん! 男が働いて稼いだ金を、クソ不味い料理の材料に変えられてたまるか!」
ぶちぶちと花壇のハーブが積まれていきます。可哀想に。あんなに滅茶苦茶にちぎられたらきっと痛い。ハーブちゃんたち、泣いているわ。
「くくく。次は魚だな……今日はヤマメの香草焼きだ……」
「待ちなさい!」
あ! アレを見て。戦う乙女戦士、クッキングサリーよ!
「誰にでも料理をする権利はあるは。でもね、人の権利を踏み潰していく奴らは、その権利を自分から放棄しているようなものなのよ!」
「また邪魔しに来たなクッキングサリー!」
男達が、現れたクッキングサリーを取り囲みます。あいつらはいつも、サリーにその悪行を潰されているので、サリーを目の敵にしているのです。自業自得なのです!
「サリー。お前は女にしては見所がある。俺達の軍門に下れば、給仕くらいにはさせてやるぞ!」
「だまらっしゃい! 美味しい料理のためには、ヤマメを取るのもザリガニを取るのも手伝うわ。でもあなたたちのしていることは単なる暴力よ! 台所から女の人をいなくして、あなたたちは一体どうしようというの! 男も女も大事なの。翼は二つ無いと飛べないのよ!」
「黙れ黙れ!」
あっ、リーダーらしき男がサリーを殴りました! 最低です! サリーはクッキング以外のことに関してはとても非力なのです。サリーがまるでダンプカーに跳ねられたスーパーボールみたいに、壁という壁にバウンドして大地に倒れ臥しましたよ……?!
がんばってサリー! 立ち上がってサリー! 泣かないでサリー!
「あ、すまねえ。厨房の男だってのに、牛肉をやわらかくする以外のことに拳を使っちまった」
男が悲しい顔をして、自害しました。あの首の骨を折る鮮やかな手つきは、きっと凄腕の料理人だったに違いありません。サリーがむくりと立ち上がり。
「ふふふ、思ったとおりだわ」
黒いわ、サリー?!
「台所は男のもの」団の男達がざわつきます。
「ひでえ!」「サリー、なんてやつだ」「副コック長が!?」「今夜のサラダどうするんですか!」
え? いま、変な言葉が聞こえたわ。
なんてこと、この男は副リーダーだったのです!
「ふふふ、サリー。その程度の男を倒したぐらいで、良い気にならないでもらいたいものだな」
人垣のむこうで、巨大な男が立ち上がりました。今まで座っていたみたい。なんででしょうか。
「あなたも私を殴るの? ふん、私は殴られるのが好きだから、ちょっとやそっとのパンチじゃ効かないわよ」
「勘違いするなサリー。俺たちは厨房人だろう。……ならば勝負のつけ方はたった一つ!」
くわっとリーダーが目を見開きました。なんという形相でしょう。こわいわ!
「そうね……っ」
サリーが魔法瓶を取り出します。さっとお皿を広げて、魔法瓶の中身をもりつけました。
ああっ! ビーフシチューだわ!?
「うふふ。ただのビーフシチューじゃないのよ。お肉にはタンを使ってるの」
「タンシチューだと?」「そんな! ただの女子高生が……」「しかもこの香りは……百パーセント手作り!?」
ざわめく男達。ざまあみろです! サリーは最強のコックさんなのよ!
「うふふ、料理は愛よ。さあ、食べて御覧なさい」
リーダーがフォークを丁寧に使って、ビーフシチューを食べます。一口一口を。いいえ、一噛み一噛みを大事に味わい、目を瞑り、鼻腔の香り、歯の食感、あわ立つ肌、刺激される第六感。全てを総動員して料理を味わっています。「いまから舌を噛むからやさしくして」と、そんな感じです。
「ふむ」
五口ほど味わってから、リーダーが不満そうに鼻息を漏らしました。
「少し塩気が足りないな」
「なんですって?!」
「やはり、女の味覚などこの程度。おい、アレをもってこい」
リーダーの男が手を上げます。出されたのは白い、シーフードシチュー!?
「これを食べてみろ」
サリーがごくりとのどを鳴らして、
「い、いやよ。そんなの不味いに決まっているわ」
と、後ずさりしました。
その気持ちも分かります。シチューは完璧すぎて、身もよだつほど完璧すぎるのです。
シチューの見た目が白銀ならば、その匂いは黄金でした。おいしそうに浮かぶニンジン、ブロッコリー、ジャガイモ、タマネギ。ああ……なんてことでしょう。
「食わせろ」
リーダーが指図すると、サリーを後ろから数人の男達が捕まえます。前から一人の男が、木のスプーンでシチューをすくい、サリーの口に入れました。
「ああ……っ!?」
サリーの口から溜息が漏れます。赤くてかわいい唇が割れ、充血した真っ赤な舌がスプーンについたシチューを隅々まで舐めとります。木のスプーンがすっかり舐め取られると、サリーは口の中全体でシチューを味わっているようでした。しかし誰もが知っているように、美味しいものほど、喉を速く通り過ぎてしまうものなのです!!
「そんなっ、こんなの、ちっとも美味しく……」
口では強がるサリーでしたが、その視線はシチューのさらに釘付けでした。
「素晴らしいだろう。小麦粉は最高のものを使用している。牛乳も取れたてのものだ。牛のどの部分が一番素晴らしいか。ミノでもタンでもない。ミルクだ」
「そんなっそんなっ、認められない!!」
息を粗くして、髪を振り乱して、サリーが首を振ります。でも、そんな抵抗も、男の一人が皿をサリーの目の前に持ってくるまででした。後ろから腕も体も拘束されたサリーは、精一杯力を入れて上体を前に突き出すと、シチューを犬食いで食べ始めたのです。
「ああっ。美味しい?! 何でこんな……ああっ?! もぐもぐ!」
「ホタテは天然モノ、もちろん野菜はすべて無農薬だ。ジャガイモには形の崩れにくいメイクイーンをつかってある」
「すごい……こんなシチューがあったなんて……」
「調味料にもこだわっている。塩一粒、胡椒一粒の狂いが、シチューをダメにしてしまう。わかるか?」
お皿の中のシチューが無くなってしまったのでしょう。サリーが顔を上げました。直接顔につけて食べたのに、口の周りはまったく汚れていません。長いまつげの先に少しだけ白いシチューがくっついていましたが、それにしてもしかし、あんな食べ方なのに汚れないと言うのは。サリーという少女の尋常でなさを如実にあらわしているようでした。でも……今回の敵は強敵すぎる!!
「まだおかわりはあるぞ?」
「お願い! 頂戴?!」
「分かっているじゃないか。どうだ? 男が女よりも優れていると認めたか?」
「そっ、それは……」
まだサリーには理性が残っていたようです! 良い淀むサリーに、リーダーはにんまりと笑いかけました。
「まだシチューが足りないようだな」
男達が列に並び、サリーの前にシチューの皿を持ってきます。
「ああ止まらない……もうおなか一杯なのに……」
「ふふ、やまない雨はない。だが食べ終わらない料理はある」
リーダーは自己陶酔に陥っているようでした。
そのとき、ざわざわとサリーを取り囲む男達がざわめきました。
あっ、見てください! サリーが! うずくまってシチューを食べていたサリーが、シチューの皿を投げ捨てて立ち上がりました。まだ中にシチューが入っているのに!
リーダーの男もその光景を見たのでしょう。驚いたように目を剥きます。
「なんだと!? 何故だ!」
「やまない雨は、ないってことよッ」
サリーが手元のシチューを周りの男達に投げつけます。
「熱いッ」「この女、バカか!」「新調のコック服なのにっ」「世界には食べたくても食べられない子が……うわああーー!」
男達がサリーの周りから離れました。
「なぜだ! なぜ食べるのを止められる?!」
リーダーはまだ分かってないようです。
「ふん、こんなことも分からないで料理長気取り?」
びしぃ!っとサリーがリーダーを指差します。
「どんなに美味しい料理も、ずっと同じ料理ならそのうち飽きるのよ!!」
「な、ん、だ、と……」
「それにね、食べて御覧なさい」
サリーが持参したビーフシチューをリーダーの前に持って行きました。意気消沈したリーダーは言われるままにビーフシチューを一口食べます。
「……?! おかしい! このビーフシチューは塩が薄かったはずだ?! だがそれが今は……ちょうど良い美味しさ!? どういうことだ?!」
「ふふ……分からない? 冷めたのよ?」
冷めた?
「冷めると、物の味はより濃く感じられる。ここみたいな屋外で食べる料理の場合、すぐに料理が冷めてしまうことを考えて、少し薄めの味にしておくとちょうど良いのよ。ただし、運動部のカレは、疲れていて濃い物を体が要求しているから、わざと普通より濃い味付けにする」
サリーが得意げに話しました。
「わかる? 料理って言うのは完璧に作れるとかが問題じゃないの。いつも同じ味が食べたいのならば、レストランに行って既成の料理を食べれば良いわ。そっちの方が美味しいもの。手作りってのはね、味が濃かったり薄かったり、人によって味をかえたり、日によって味を変えたり、気分によって味が変わるの。だから、飽きない」
「何てことだ……」
リーダーが膝をつきました。
「俺達の負けだ……」
サリーがリーダーの肩を叩きました。
「立って。あなたのシチューも素晴らしかった。あなたがどんなヤマメの香草焼きを作るのか、楽しみになっちゃった」
「サリー……俺にまだ、料理を続けて良いというのか」
「当たり前じゃない。私は言ったわ。どんな人間にも、料理を作る権利があるって」
ああ、素晴らしき友情が芽生えたようです。リーダーとサリーががっしりと肩を組み合いました。
シチューは美味しい料理です。一つの鍋に入ったシチューは、テーブルのみんなに分けられます。分け合った料理をみんなで食べるということはどんなに素晴らしいことでしょう。
ありがとうサリー。君は私達に、大切なことを教えてくれました。
食べると言うこと。それは生きると言うこと。愛するということ。
ああっ!? 大変。
悪の組織「台所は男のもの」団が、花壇のハーブを勝手に積んでいるわ?!
「くくく。料理とはもともと男のもの……! 女の味覚なんて信用できん! 男が働いて稼いだ金を、クソ不味い料理の材料に変えられてたまるか!」
ぶちぶちと花壇のハーブが積まれていきます。可哀想に。あんなに滅茶苦茶にちぎられたらきっと痛い。ハーブちゃんたち、泣いているわ。
「くくく。次は魚だな……今日はヤマメの香草焼きだ……」
「待ちなさい!」
あ! アレを見て。戦う乙女戦士、クッキングサリーよ!
「誰にでも料理をする権利はあるは。でもね、人の権利を踏み潰していく奴らは、その権利を自分から放棄しているようなものなのよ!」
「また邪魔しに来たなクッキングサリー!」
男達が、現れたクッキングサリーを取り囲みます。あいつらはいつも、サリーにその悪行を潰されているので、サリーを目の敵にしているのです。自業自得なのです!
「サリー。お前は女にしては見所がある。俺達の軍門に下れば、給仕くらいにはさせてやるぞ!」
「だまらっしゃい! 美味しい料理のためには、ヤマメを取るのもザリガニを取るのも手伝うわ。でもあなたたちのしていることは単なる暴力よ! 台所から女の人をいなくして、あなたたちは一体どうしようというの! 男も女も大事なの。翼は二つ無いと飛べないのよ!」
「黙れ黙れ!」
あっ、リーダーらしき男がサリーを殴りました! 最低です! サリーはクッキング以外のことに関してはとても非力なのです。サリーがまるでダンプカーに跳ねられたスーパーボールみたいに、壁という壁にバウンドして大地に倒れ臥しましたよ……?!
がんばってサリー! 立ち上がってサリー! 泣かないでサリー!
「あ、すまねえ。厨房の男だってのに、牛肉をやわらかくする以外のことに拳を使っちまった」
男が悲しい顔をして、自害しました。あの首の骨を折る鮮やかな手つきは、きっと凄腕の料理人だったに違いありません。サリーがむくりと立ち上がり。
「ふふふ、思ったとおりだわ」
黒いわ、サリー?!
「台所は男のもの」団の男達がざわつきます。
「ひでえ!」「サリー、なんてやつだ」「副コック長が!?」「今夜のサラダどうするんですか!」
え? いま、変な言葉が聞こえたわ。
なんてこと、この男は副リーダーだったのです!
「ふふふ、サリー。その程度の男を倒したぐらいで、良い気にならないでもらいたいものだな」
人垣のむこうで、巨大な男が立ち上がりました。今まで座っていたみたい。なんででしょうか。
「あなたも私を殴るの? ふん、私は殴られるのが好きだから、ちょっとやそっとのパンチじゃ効かないわよ」
「勘違いするなサリー。俺たちは厨房人だろう。……ならば勝負のつけ方はたった一つ!」
くわっとリーダーが目を見開きました。なんという形相でしょう。こわいわ!
「そうね……っ」
サリーが魔法瓶を取り出します。さっとお皿を広げて、魔法瓶の中身をもりつけました。
ああっ! ビーフシチューだわ!?
「うふふ。ただのビーフシチューじゃないのよ。お肉にはタンを使ってるの」
「タンシチューだと?」「そんな! ただの女子高生が……」「しかもこの香りは……百パーセント手作り!?」
ざわめく男達。ざまあみろです! サリーは最強のコックさんなのよ!
「うふふ、料理は愛よ。さあ、食べて御覧なさい」
リーダーがフォークを丁寧に使って、ビーフシチューを食べます。一口一口を。いいえ、一噛み一噛みを大事に味わい、目を瞑り、鼻腔の香り、歯の食感、あわ立つ肌、刺激される第六感。全てを総動員して料理を味わっています。「いまから舌を噛むからやさしくして」と、そんな感じです。
「ふむ」
五口ほど味わってから、リーダーが不満そうに鼻息を漏らしました。
「少し塩気が足りないな」
「なんですって?!」
「やはり、女の味覚などこの程度。おい、アレをもってこい」
リーダーの男が手を上げます。出されたのは白い、シーフードシチュー!?
「これを食べてみろ」
サリーがごくりとのどを鳴らして、
「い、いやよ。そんなの不味いに決まっているわ」
と、後ずさりしました。
その気持ちも分かります。シチューは完璧すぎて、身もよだつほど完璧すぎるのです。
シチューの見た目が白銀ならば、その匂いは黄金でした。おいしそうに浮かぶニンジン、ブロッコリー、ジャガイモ、タマネギ。ああ……なんてことでしょう。
「食わせろ」
リーダーが指図すると、サリーを後ろから数人の男達が捕まえます。前から一人の男が、木のスプーンでシチューをすくい、サリーの口に入れました。
「ああ……っ!?」
サリーの口から溜息が漏れます。赤くてかわいい唇が割れ、充血した真っ赤な舌がスプーンについたシチューを隅々まで舐めとります。木のスプーンがすっかり舐め取られると、サリーは口の中全体でシチューを味わっているようでした。しかし誰もが知っているように、美味しいものほど、喉を速く通り過ぎてしまうものなのです!!
「そんなっ、こんなの、ちっとも美味しく……」
口では強がるサリーでしたが、その視線はシチューのさらに釘付けでした。
「素晴らしいだろう。小麦粉は最高のものを使用している。牛乳も取れたてのものだ。牛のどの部分が一番素晴らしいか。ミノでもタンでもない。ミルクだ」
「そんなっそんなっ、認められない!!」
息を粗くして、髪を振り乱して、サリーが首を振ります。でも、そんな抵抗も、男の一人が皿をサリーの目の前に持ってくるまででした。後ろから腕も体も拘束されたサリーは、精一杯力を入れて上体を前に突き出すと、シチューを犬食いで食べ始めたのです。
「ああっ。美味しい?! 何でこんな……ああっ?! もぐもぐ!」
「ホタテは天然モノ、もちろん野菜はすべて無農薬だ。ジャガイモには形の崩れにくいメイクイーンをつかってある」
「すごい……こんなシチューがあったなんて……」
「調味料にもこだわっている。塩一粒、胡椒一粒の狂いが、シチューをダメにしてしまう。わかるか?」
お皿の中のシチューが無くなってしまったのでしょう。サリーが顔を上げました。直接顔につけて食べたのに、口の周りはまったく汚れていません。長いまつげの先に少しだけ白いシチューがくっついていましたが、それにしてもしかし、あんな食べ方なのに汚れないと言うのは。サリーという少女の尋常でなさを如実にあらわしているようでした。でも……今回の敵は強敵すぎる!!
「まだおかわりはあるぞ?」
「お願い! 頂戴?!」
「分かっているじゃないか。どうだ? 男が女よりも優れていると認めたか?」
「そっ、それは……」
まだサリーには理性が残っていたようです! 良い淀むサリーに、リーダーはにんまりと笑いかけました。
「まだシチューが足りないようだな」
男達が列に並び、サリーの前にシチューの皿を持ってきます。
「ああ止まらない……もうおなか一杯なのに……」
「ふふ、やまない雨はない。だが食べ終わらない料理はある」
リーダーは自己陶酔に陥っているようでした。
そのとき、ざわざわとサリーを取り囲む男達がざわめきました。
あっ、見てください! サリーが! うずくまってシチューを食べていたサリーが、シチューの皿を投げ捨てて立ち上がりました。まだ中にシチューが入っているのに!
リーダーの男もその光景を見たのでしょう。驚いたように目を剥きます。
「なんだと!? 何故だ!」
「やまない雨は、ないってことよッ」
サリーが手元のシチューを周りの男達に投げつけます。
「熱いッ」「この女、バカか!」「新調のコック服なのにっ」「世界には食べたくても食べられない子が……うわああーー!」
男達がサリーの周りから離れました。
「なぜだ! なぜ食べるのを止められる?!」
リーダーはまだ分かってないようです。
「ふん、こんなことも分からないで料理長気取り?」
びしぃ!っとサリーがリーダーを指差します。
「どんなに美味しい料理も、ずっと同じ料理ならそのうち飽きるのよ!!」
「な、ん、だ、と……」
「それにね、食べて御覧なさい」
サリーが持参したビーフシチューをリーダーの前に持って行きました。意気消沈したリーダーは言われるままにビーフシチューを一口食べます。
「……?! おかしい! このビーフシチューは塩が薄かったはずだ?! だがそれが今は……ちょうど良い美味しさ!? どういうことだ?!」
「ふふ……分からない? 冷めたのよ?」
冷めた?
「冷めると、物の味はより濃く感じられる。ここみたいな屋外で食べる料理の場合、すぐに料理が冷めてしまうことを考えて、少し薄めの味にしておくとちょうど良いのよ。ただし、運動部のカレは、疲れていて濃い物を体が要求しているから、わざと普通より濃い味付けにする」
サリーが得意げに話しました。
「わかる? 料理って言うのは完璧に作れるとかが問題じゃないの。いつも同じ味が食べたいのならば、レストランに行って既成の料理を食べれば良いわ。そっちの方が美味しいもの。手作りってのはね、味が濃かったり薄かったり、人によって味をかえたり、日によって味を変えたり、気分によって味が変わるの。だから、飽きない」
「何てことだ……」
リーダーが膝をつきました。
「俺達の負けだ……」
サリーがリーダーの肩を叩きました。
「立って。あなたのシチューも素晴らしかった。あなたがどんなヤマメの香草焼きを作るのか、楽しみになっちゃった」
「サリー……俺にまだ、料理を続けて良いというのか」
「当たり前じゃない。私は言ったわ。どんな人間にも、料理を作る権利があるって」
ああ、素晴らしき友情が芽生えたようです。リーダーとサリーががっしりと肩を組み合いました。
シチューは美味しい料理です。一つの鍋に入ったシチューは、テーブルのみんなに分けられます。分け合った料理をみんなで食べるということはどんなに素晴らしいことでしょう。
ありがとうサリー。君は私達に、大切なことを教えてくれました。
食べると言うこと。それは生きると言うこと。愛するということ。
2008年11月16日
toriさんのパクリ
私の装備はダンボールの服と、ゴミ捨て場のおじさんからもらったタオルだけだった。道行く人たちが、ダンボールのはこから首と手足をだしてベンチに座っている私を、遠巻きに見ては立ち去っていく。私の目的はお兄ちゃんを殺そうと、それである。殺すには凶器がいるし、狂気もいる。とか思い付くと、なんだかこの言葉遊びは西尾維新っぽくていやだわとなんとなく思った。とりあえずどうやってお兄ちゃんを殺そうかと私は考えている。タオルを凍らせておにいちゃんの後頭部に殴りつけるか、後ろから忍び寄ってタオルで首を絞めるか、濡らしたタオルを寝ているお兄ちゃんの顔の上にそっと乗っけるか。
「お嬢さん、お茶を飲まないかい」
誰かに話しかけられて、私は辺りを見回した。しかし誰もいない。
「下だよ、もう少し目線を下にしてごらん」
そこにいたのは、ネズミだった。シルクハットを被っていて、紳士服を着て、ステッキを握っていた。それがベンチの、私の隣に座っている。
「ちょっと疲れてね。お茶をのまないかい。寒いだろう」
「いらない」
「それは失礼」
ネズミはすぐに諦めて黙った。このネズミはもしかして、長靴をはいたネコとかの親戚だろうか。格好からしてそれはありえる可能性だと私は考えた。ネコとネズミは、物語で良く一緒に出てくるし、縁のあるものなんだろう。それにしても、ネズミがぱりっとした服で決めているのに、人間の女の子で、大学生の私はダンボールの服なのだ。情けない気持ちになった。タオルが濡れていたら、私はそっと自分の顔に濡れタオルを置いていただろう。このネズミは私よりも上等な服を着ていたし、お兄ちゃんよりも高度な知能を持っていそうだった。つまり私<ネズミ、お兄ちゃん<ネズミ。つまり、このネズミの存在は、私とお兄ちゃんのどちらが上なのかというものを定義できない存在である。そのことは、いまお兄ちゃんに対して少なからず敗北感や屈辱感を抱いている私にとって、ネズミのことを好きになるのには十分な理由だった。見上げるネズミと目が合ったのだが、真っ黒な目はムーミンを連想した。
「やっぱりお茶を飲みたい」と、言うと、
「そうかそうか」と、ネズミは嬉しそうに立ち上がった。このネズミ、二足歩行をするのだわ。
「しかし、その前に服屋に行かなければならないな。ダンボールは住む物であって、着る物ではない」
ネズミがダンボールを見て言った。実にネズミらしい発想だなと私は思った。ネズミは前後の長さが五メートルはありそうな長いタクシー(ネズミはハイヤーと呼んでいた)を携帯電話で呼び出すと、それに乗り込んだ。
「君も乗りたまえ」
中は広々としていて、ネズミがシートの真ん中にちょこんと座っていた。「遠慮することはない、そこに座りなさい」と、ステッキで向かいの座席をさす。ネズミの大きさならばこんなに広い車はいらないだろうと言ったら、「大きな空間は、心に余裕をもたらすのだよ」と言われた。狭い部屋にお兄ちゃんと二人で住んでいた昨日までを思い出す。私は心に余裕が無かったのだろうか。考えたが、とくに興味のある問題ではなかったのですぐに考えるのを止めた。
私達はお互いに自己紹介をした。ネズミは「アーチボルト・ガップルフィード・オットット・ボレサリーナ・ウィル・オットットだ。気軽にオットット伯爵と呼びたまえ」と自己紹介をした。私は口頭では「オットット伯爵」と彼を呼ぶことになったが、「ネズミ」と呼んだ方が字数の節約になる。節約は大事だ。私は心の中で彼を「ネズミ」と呼び続けることにした。口でどう呼ぶかと、心の中でどう呼ぶかは、まあ大体違うものだろうとおもう。私も、お兄ちゃんを声で呼ぶときは「お前」としか言わない。
ハイヤーが青い看板の店前で止まった。看板を見上げるとスーツ青山で、私はそこでレディースのスーツを一着買ってもらった。「スカートをはくと、私のアングルからは丸見えだから良くない」とネズミが言った。このネズミはパンチラ派なのだなと私は思った。それからハイアーは自動販売機の前に止まって、ネズミは「おーいお茶」をペットボトルで二つ買った。「喫茶店に入れば気がきいているのだろうが、私を入れてくれる店はあまりなくてね」とネズミは言った。残念そうに首を振るネズミの仕草が少しだけ可愛くて「オットット伯爵」と心の中で呼んでやろうかと思ったが、「金を積めば入れてくれるのだが、君はそういうのが好きかね」と彼が言ったので、呼ぶのは止めた。
それから私達はもといたベンチに戻ってきて腰掛けた。私が座ると、その横にベンチを登ってきたネズミが服のホコリほ払ってから座る。小さいと大変なようだ。
「さて」
とネズミが言った。
「お茶を飲もう」
ぼそぼそと話をしながら私達は話をした。たいしたことは話していない。ネズミは私がどうしてダンボールを着ていたのか聞かなかったし、私が何者なのかは名前以外どうでもよいようだった。ネズミは自分の話をして、昔にいた魔女の使い魔だったこと、魔女が昔に死んだこと、自分は魔法が使えないことなどをユーモア溢れる話し方で私に語った。ドキドキするような物語や、涙がこぼれるような話があって、ネズミがスキー場で雪女にコーヒーをおごる話では大いに笑ったりもした。私一人だけがおーいお茶を飲んでいて、途中でネズミ一人ではペットボトルの蓋を開けられないのだと気がついたときは、ごめんなさいという気持ちになった。
いつのまにか夕方になっていて、そろそろ帰ろうかとネズミが立ち上がる。私は楽しかったですよとネズミにお礼を言った。
「それはよかった。家まで送ろう」
私は、忘れていたお兄ちゃん殺害計画について思い出した。そういえば肝心のタオルを青山においてきてしまった。これではおにいちゃんを殺せない。バールかなにかが落ちていないか探しながら帰ろうと思って、
「いいわ。家は近いから」
と、ネズミに断ると、
「それはいけない」
とネズミは言った。
「ここら辺は人気も少ないし、危険だ。それに、君は朝のように、放っておくわけにはいかない顔をしているね」
どんな顔だろう。私は右手で顔をなぞってみたが、鼻と目と口があることくらいしか分からなかった。そういえば化粧をしていないのに街を歩いていたなと思って、そして化粧もしていない顔でこのネズミとずっと話していたことが急に恥ずかしいことのように思えた。
「行こうか」
というネズミを断りきれず、私はネズミの後について歩く。ネズミは私が何処に住んでいるのかを知っているかのように正しい道を先導した。
そして昨日、私が一晩中いたゴミ捨て場の前に来ると、ネズミが振り向いた。
「昨日ここで君を見た」
一瞬何を言われたのかわからなかった。頭が真っ白になって、目の前が真っ暗になって、このまま世界が終わってしまえと思ったら、やっと視界が元に戻った。私は、恥ずかしさのあまりこのネズミを殺して自分も死のうかと考えた。ネズミは私がなにかを言うのを待っているようだったので、
「あれはあいつに無理やりやられたのだし、私の趣味じゃない。それから首輪は痛かったし、鎖の音って響くから、近所迷惑だったと思うわ」
「そうだね」
ネズミは頷く。私は言いたいことが伝わったような気がしてホッとした。
「しかし私は、君に魅了されてしまったようなのだ。お茶に誘ったのは君と話がしたかったからだし、服を着せたのは他のやつらに君の惨めな格好を晒したくはなかったからだ。しかし、君の惨めな格好を見たいとも思う」
「最低ね」
「そのようだ。優しくしたいが、乱暴にもしたい。そう思ってしまうものなのだ、男とは」
「最低ね」
とは言うものの、私はなぜかこのネズミをお兄ちゃんと同列に見ようとはしていなかった。どうしてだろうか。
「君を公園で見たとき、君はまるで獣のような目をしていた。私はそれを見て、裸であったらあの獣のような目つきは十二分に似合うだろうと思った。しかしあの獣の目が見据えているのは、おそらく君をここに連れてきた男にだろう。私を最低だと思うのなら、その目の狙いは私に向けたまえ」
ネズミが言って、それからゴミをよじ登って私の目線と同じ高さまでやってきた。
「君が獣だと言うのなら、君の着ているものは、不要で、襤褸のゴミに過ぎない。もしも君にその気があるのならば、人間の皮を脱ぎ捨てて、私とともにこないか」
この提案に心惹かれるものがあった。もしかして私は、プロポーズされているのだろうかと途中で気がついて、心が浮かれているのだ。しかし、人間でなくなりそうな大きな選択で、私にはスグに決めることが出来ない。
ネズミがステッキの先をちょいちょいと動かして、近くに来いと誘った。私が顔を近づけると、ネズミの口が私の下唇に触れ、ささくれを噛み、剥がした。
「ほら、君の体は脱皮しようとしている」
キスかな、今のはキスかな。私はドキドキしながら、今のネズミの行動で私の未来を決定した。買ってもらったスーツを脱ぐ。靴から足を抜いて、ジャケットも、ズボンも、ワイシャツも、靴下も、ブラジャーも、下着も全部全部放りなげた。
「寒いわ」
「でも美しいよ」
とネズミが言って、それから彼は携帯電話でハイアーを呼んだ。
改めてハイアーに乗って気がついたのだが、車内は寝転がるにはちょうど良い大きさだった。
「お嬢さん、お茶を飲まないかい」
誰かに話しかけられて、私は辺りを見回した。しかし誰もいない。
「下だよ、もう少し目線を下にしてごらん」
そこにいたのは、ネズミだった。シルクハットを被っていて、紳士服を着て、ステッキを握っていた。それがベンチの、私の隣に座っている。
「ちょっと疲れてね。お茶をのまないかい。寒いだろう」
「いらない」
「それは失礼」
ネズミはすぐに諦めて黙った。このネズミはもしかして、長靴をはいたネコとかの親戚だろうか。格好からしてそれはありえる可能性だと私は考えた。ネコとネズミは、物語で良く一緒に出てくるし、縁のあるものなんだろう。それにしても、ネズミがぱりっとした服で決めているのに、人間の女の子で、大学生の私はダンボールの服なのだ。情けない気持ちになった。タオルが濡れていたら、私はそっと自分の顔に濡れタオルを置いていただろう。このネズミは私よりも上等な服を着ていたし、お兄ちゃんよりも高度な知能を持っていそうだった。つまり私<ネズミ、お兄ちゃん<ネズミ。つまり、このネズミの存在は、私とお兄ちゃんのどちらが上なのかというものを定義できない存在である。そのことは、いまお兄ちゃんに対して少なからず敗北感や屈辱感を抱いている私にとって、ネズミのことを好きになるのには十分な理由だった。見上げるネズミと目が合ったのだが、真っ黒な目はムーミンを連想した。
「やっぱりお茶を飲みたい」と、言うと、
「そうかそうか」と、ネズミは嬉しそうに立ち上がった。このネズミ、二足歩行をするのだわ。
「しかし、その前に服屋に行かなければならないな。ダンボールは住む物であって、着る物ではない」
ネズミがダンボールを見て言った。実にネズミらしい発想だなと私は思った。ネズミは前後の長さが五メートルはありそうな長いタクシー(ネズミはハイヤーと呼んでいた)を携帯電話で呼び出すと、それに乗り込んだ。
「君も乗りたまえ」
中は広々としていて、ネズミがシートの真ん中にちょこんと座っていた。「遠慮することはない、そこに座りなさい」と、ステッキで向かいの座席をさす。ネズミの大きさならばこんなに広い車はいらないだろうと言ったら、「大きな空間は、心に余裕をもたらすのだよ」と言われた。狭い部屋にお兄ちゃんと二人で住んでいた昨日までを思い出す。私は心に余裕が無かったのだろうか。考えたが、とくに興味のある問題ではなかったのですぐに考えるのを止めた。
私達はお互いに自己紹介をした。ネズミは「アーチボルト・ガップルフィード・オットット・ボレサリーナ・ウィル・オットットだ。気軽にオットット伯爵と呼びたまえ」と自己紹介をした。私は口頭では「オットット伯爵」と彼を呼ぶことになったが、「ネズミ」と呼んだ方が字数の節約になる。節約は大事だ。私は心の中で彼を「ネズミ」と呼び続けることにした。口でどう呼ぶかと、心の中でどう呼ぶかは、まあ大体違うものだろうとおもう。私も、お兄ちゃんを声で呼ぶときは「お前」としか言わない。
ハイヤーが青い看板の店前で止まった。看板を見上げるとスーツ青山で、私はそこでレディースのスーツを一着買ってもらった。「スカートをはくと、私のアングルからは丸見えだから良くない」とネズミが言った。このネズミはパンチラ派なのだなと私は思った。それからハイアーは自動販売機の前に止まって、ネズミは「おーいお茶」をペットボトルで二つ買った。「喫茶店に入れば気がきいているのだろうが、私を入れてくれる店はあまりなくてね」とネズミは言った。残念そうに首を振るネズミの仕草が少しだけ可愛くて「オットット伯爵」と心の中で呼んでやろうかと思ったが、「金を積めば入れてくれるのだが、君はそういうのが好きかね」と彼が言ったので、呼ぶのは止めた。
それから私達はもといたベンチに戻ってきて腰掛けた。私が座ると、その横にベンチを登ってきたネズミが服のホコリほ払ってから座る。小さいと大変なようだ。
「さて」
とネズミが言った。
「お茶を飲もう」
ぼそぼそと話をしながら私達は話をした。たいしたことは話していない。ネズミは私がどうしてダンボールを着ていたのか聞かなかったし、私が何者なのかは名前以外どうでもよいようだった。ネズミは自分の話をして、昔にいた魔女の使い魔だったこと、魔女が昔に死んだこと、自分は魔法が使えないことなどをユーモア溢れる話し方で私に語った。ドキドキするような物語や、涙がこぼれるような話があって、ネズミがスキー場で雪女にコーヒーをおごる話では大いに笑ったりもした。私一人だけがおーいお茶を飲んでいて、途中でネズミ一人ではペットボトルの蓋を開けられないのだと気がついたときは、ごめんなさいという気持ちになった。
いつのまにか夕方になっていて、そろそろ帰ろうかとネズミが立ち上がる。私は楽しかったですよとネズミにお礼を言った。
「それはよかった。家まで送ろう」
私は、忘れていたお兄ちゃん殺害計画について思い出した。そういえば肝心のタオルを青山においてきてしまった。これではおにいちゃんを殺せない。バールかなにかが落ちていないか探しながら帰ろうと思って、
「いいわ。家は近いから」
と、ネズミに断ると、
「それはいけない」
とネズミは言った。
「ここら辺は人気も少ないし、危険だ。それに、君は朝のように、放っておくわけにはいかない顔をしているね」
どんな顔だろう。私は右手で顔をなぞってみたが、鼻と目と口があることくらいしか分からなかった。そういえば化粧をしていないのに街を歩いていたなと思って、そして化粧もしていない顔でこのネズミとずっと話していたことが急に恥ずかしいことのように思えた。
「行こうか」
というネズミを断りきれず、私はネズミの後について歩く。ネズミは私が何処に住んでいるのかを知っているかのように正しい道を先導した。
そして昨日、私が一晩中いたゴミ捨て場の前に来ると、ネズミが振り向いた。
「昨日ここで君を見た」
一瞬何を言われたのかわからなかった。頭が真っ白になって、目の前が真っ暗になって、このまま世界が終わってしまえと思ったら、やっと視界が元に戻った。私は、恥ずかしさのあまりこのネズミを殺して自分も死のうかと考えた。ネズミは私がなにかを言うのを待っているようだったので、
「あれはあいつに無理やりやられたのだし、私の趣味じゃない。それから首輪は痛かったし、鎖の音って響くから、近所迷惑だったと思うわ」
「そうだね」
ネズミは頷く。私は言いたいことが伝わったような気がしてホッとした。
「しかし私は、君に魅了されてしまったようなのだ。お茶に誘ったのは君と話がしたかったからだし、服を着せたのは他のやつらに君の惨めな格好を晒したくはなかったからだ。しかし、君の惨めな格好を見たいとも思う」
「最低ね」
「そのようだ。優しくしたいが、乱暴にもしたい。そう思ってしまうものなのだ、男とは」
「最低ね」
とは言うものの、私はなぜかこのネズミをお兄ちゃんと同列に見ようとはしていなかった。どうしてだろうか。
「君を公園で見たとき、君はまるで獣のような目をしていた。私はそれを見て、裸であったらあの獣のような目つきは十二分に似合うだろうと思った。しかしあの獣の目が見据えているのは、おそらく君をここに連れてきた男にだろう。私を最低だと思うのなら、その目の狙いは私に向けたまえ」
ネズミが言って、それからゴミをよじ登って私の目線と同じ高さまでやってきた。
「君が獣だと言うのなら、君の着ているものは、不要で、襤褸のゴミに過ぎない。もしも君にその気があるのならば、人間の皮を脱ぎ捨てて、私とともにこないか」
この提案に心惹かれるものがあった。もしかして私は、プロポーズされているのだろうかと途中で気がついて、心が浮かれているのだ。しかし、人間でなくなりそうな大きな選択で、私にはスグに決めることが出来ない。
ネズミがステッキの先をちょいちょいと動かして、近くに来いと誘った。私が顔を近づけると、ネズミの口が私の下唇に触れ、ささくれを噛み、剥がした。
「ほら、君の体は脱皮しようとしている」
キスかな、今のはキスかな。私はドキドキしながら、今のネズミの行動で私の未来を決定した。買ってもらったスーツを脱ぐ。靴から足を抜いて、ジャケットも、ズボンも、ワイシャツも、靴下も、ブラジャーも、下着も全部全部放りなげた。
「寒いわ」
「でも美しいよ」
とネズミが言って、それから彼は携帯電話でハイアーを呼んだ。
改めてハイアーに乗って気がついたのだが、車内は寝転がるにはちょうど良い大きさだった。
2008年07月10日
かつては人間だったもの
ただ広いだけで、土は悪く、草木もなく、天候も優れない。旅人達はできるだけ急ぎ足で通り過ぎていく。そんな土地があった。
ある日、青年ハホヒフーヘがこの大地の真ん中で立ち止まった。二日も三日も、二年も三年も突っ立っていた。
時々通りがかる旅人が、「何かあるんですか?」と彼に問う。いつもならばこんな場所は通り過ぎるだけだった。「何も」ハホヒフーヘは答える。遠くだか、近くだかを見ていた。
旅人が去った後、商団が通りすがり立ち尽くす青年に道を聞いた。彼らが去った後、駆け落ちの男女が現れ、一晩ここで休んだ翌日立ち去った。鳥達が木の代わりになると、ハホヒフーヘの肩に留まった。雨が降ると青年の服が濡れ、足元に水溜りが出来た。街では彼のことが話題に上り、見物に人が集まるようになった。人々はテントを張り、店を構え、いつの間にかこの不毛な大地に街が出来上がっていた。いつのまにか、この街がどうやって出来たのかをみんな忘れてしまった。
ある夜、青年は気が変わってこの場所を立ち去る。残されたこの街の名をハホヒフーヘと言った。
ある日、青年ハホヒフーヘがこの大地の真ん中で立ち止まった。二日も三日も、二年も三年も突っ立っていた。
時々通りがかる旅人が、「何かあるんですか?」と彼に問う。いつもならばこんな場所は通り過ぎるだけだった。「何も」ハホヒフーヘは答える。遠くだか、近くだかを見ていた。
旅人が去った後、商団が通りすがり立ち尽くす青年に道を聞いた。彼らが去った後、駆け落ちの男女が現れ、一晩ここで休んだ翌日立ち去った。鳥達が木の代わりになると、ハホヒフーヘの肩に留まった。雨が降ると青年の服が濡れ、足元に水溜りが出来た。街では彼のことが話題に上り、見物に人が集まるようになった。人々はテントを張り、店を構え、いつの間にかこの不毛な大地に街が出来上がっていた。いつのまにか、この街がどうやって出来たのかをみんな忘れてしまった。
ある夜、青年は気が変わってこの場所を立ち去る。残されたこの街の名をハホヒフーヘと言った。
2008年06月29日
適当コマネチ
日本の文化が世界にだんだんと受け入れられている。もちろんコマネチだって例外ではなかった。テレビの中でアメリカ大統領が「KOMANECHI! KOMANECHI!」とマイクに向かって叫んでいる。
小林健太がそれの光景を見ながら「世界は終わったな」と呟いていた。博識な男で、私が畏友と認めるただ一人の人間である。ネズミの絵を脛に刺青しているので、それは何かと聞いたことがある。「おれは猫が好きだから、こうすれば野良猫が集まってくるだろう」頭のよい男だ。
コカコーラのCMが流れ、なかで外国人たちがいっせいにコマネチをしながらコーラの瓶を開けていた。小林健太が「コーラは終わったな」と呟いた。
「コーラは嫌いなのか?」
尋ねると、小林健太は首を振った。
「好きだ。コーラは好きだ。コーラを見ると思わず口をつけてしまう。だがコマネチは嫌いだ」
そうなのか。
私は外に出かけ、太ももにコーラの刺青を彫った。帰ってから小林健太にその絵を見せる。「私は小林健太が好きだ。こうすれば小林健太が絵に集まってくるだろうか」
彼は少し照れた様子で「おまえがコマネチをしなければ」と言った。
小林健太がそれの光景を見ながら「世界は終わったな」と呟いていた。博識な男で、私が畏友と認めるただ一人の人間である。ネズミの絵を脛に刺青しているので、それは何かと聞いたことがある。「おれは猫が好きだから、こうすれば野良猫が集まってくるだろう」頭のよい男だ。
コカコーラのCMが流れ、なかで外国人たちがいっせいにコマネチをしながらコーラの瓶を開けていた。小林健太が「コーラは終わったな」と呟いた。
「コーラは嫌いなのか?」
尋ねると、小林健太は首を振った。
「好きだ。コーラは好きだ。コーラを見ると思わず口をつけてしまう。だがコマネチは嫌いだ」
そうなのか。
私は外に出かけ、太ももにコーラの刺青を彫った。帰ってから小林健太にその絵を見せる。「私は小林健太が好きだ。こうすれば小林健太が絵に集まってくるだろうか」
彼は少し照れた様子で「おまえがコマネチをしなければ」と言った。

