2021年01月24日

入ゼミ課題をご提出頂いた皆さまにお礼申し上げます

ちょうど、私のゼミの入ゼミ課題提出の期限が、1月22日でした。何より、今年はコロナ禍のあまりにもいつもとは異なる雰囲気の中でのゼミの募集ということもあり、2年生の皆さんも何かと不安であったかと思います。そのような不安がある上に、さらに担当教員が今年の9月末からイギリスの在外研究で日本を不在にするということも加わり、期日直前になって困惑された入ゼミ希望の方も少なくなかったかも知れません。

そのようなこともあり、今年はどの程度の入ゼミ希望者がいらっしゃるか、不透明なところが大きかったのですが、頂いた大切な皆さんの入ゼミ課題の書類を数えてみましたら、合計で68と、過去で最大の応募となりました。しかも、少しずつ目を通し始めた限りでは、あまりの皆さんの提出書類のレベルの高さに、驚いております。本当にご丁寧に、時間をかけてご準備をされたことが伝わってきます。手を抜いたり、いい加減だったり、適当だったりする書類は、管見の限りは一つもありません。相対評価ではなくて、絶対評価で選考をするならば、少なくとも私が目にした限りでは、不合格となるような書類はまったく見当たりませんでした。ご丁寧な準備をして頂き、また私のゼミを希望する情熱を語って頂き、心から感謝申し上げます。

あらためて、慶應義塾大学の学生の皆さんのレベルの高さ、そしてこのような書類を提出するにあたっての礼儀正しさ、マナーの良さに、感銘を受けています。最近は、ゼミ生の皆さんがあまりにも優秀で礼儀正しくて、コミュニケーションの能力も高いので、嫉妬してます。自分があのような、優秀な学生だったら、さぞや楽しい学生生活を送れるのだろうと。

さて、ここで今度は私の方が困惑しています。どうしましょう。

よい「解答」が見つかりません。これだけ熱心に入ゼミ課題に取り組んで頂き、相応しい素晴らしい内容となっており、その意欲も能力も、私のゼミにご参加頂くのに必要な水準をはるかに上回っております。

そういえば、ふと思い出しますのが、京都大学法学部で高坂正堯教授のゼミ出身者の方々が、おっしゃっておられたことです。慶應と異なり京大の法学部は学生数はだいぶ少人数ですので(慶應が一学年1200人なのに対して、京大は330人)、事情は異なるかと思いますが、それでも高坂先生のゼミは大変に人気で、毎年多くの希望者がいたようです。それで、はたしてどのように選考していたのかと思いきや、ゼミの定員の半分は筆記試験、残りの半分はくじで決めたようです。というのも、人生の半分は実力で、残りの半分は運だ、という高坂先生の発想を反映したものという、嘘のような本当の話のようです。

他方で、慶應の法学部の国分良成教授(現在、防衛大学校長)のゼミもまた、大変な人気のゼミでして、国分先生に聞いたところ、かなり厳しい課題を出しながらも、毎年40人から50人ぐらいの入ゼミ希望者がいて、優しい国分先生はそれだけがんばった学生を落とすのが可哀想だからと全員合格として、それで毎週厳しいゼミを行うと一年で半分ぐらいがやめて、適切な人数に落ち着くとのことです。

さて、もうすでに今年の選考方法は例年通りと「予告」をしてしまったので、今から変えるわけにもいきません。そうしますと、私のゼミの入ゼミ課題は、おそらくは政治学科でも一番大変だと思うのですが、合計で1万5千字の課題となっておりまして、自己紹介文と、記憶に残った5冊の紹介、そして指定図書の書評と、普通にやっても半月ぐらいは最低では必要とするような大変な作業です。もともとは、もっと課題は少なかったんです。でも、毎年有り難いことに多くの学生の方に入ゼミを希望して頂き、ある程度「ハードル」を高くして本当に意欲のある学生のみに来て頂こうと、年々課題を厳しくしていったら、むしろそのような「高いハードル」に挑戦したいと思う、ちょっと変わったまじめな学生の方が毎年多く出てくるという、想定外の結果になってしまいました。それでも、さすがに1万5千字の課題の書類を書くのが大変なので、毎年途中で挫折して断念される方もおられると、耳にしています。今の時代の学生の皆さん、けっこうまじめなのかもしれません。

それで、慶應の法学部での国際政治部門での人気ゼミの教授の先生方が、ここ数年で続けてご退職されて一時的に人数が減っておりますので、きっと入ゼミ希望者が増えるのではないかと懸念して、入ゼミ課題の字数を1万5千字から、読むのが大変だから1万字ぐらいに減らそうと、今の現役の3年生のゼミ生の皆さんに相談したところ、多くの方が、「いや、先生にしっかりと読んでもらいたいと思っているので、1万5千字のままのほうがいいと思います」とのこと。やれやれ。皆さん、どれだけまじめなのでしょう。

それで、結局、1万5千字で、68人の応募ということですから、これから10日ほどで、約100万字の、2年生の入ゼミを希望される皆さんが心を込めて大切に書いて頂いた文章を読ませて頂き、選考の評価を行うことになります。100万字?!

さらには、期末試験が今年は教室での対面の実施ができなくなったので、レポートとなりまして、300人分のレポートを、各2000字の字数で書いて頂いたものを読み、こちらも評価をせねばなりません。え、合計で60万字?!

年末から先週までは、修士の大学院生7名の修士論文と、学部のゼミ生30名ほどの卒業論文とを読み、必要な水準を超えられるように指導を行ってきました。まあこれらもあわせると、100万字ぐらいだと思うのですが。

人間って、そんなにたくさん、活字を読めるのでしょうか?もちろん、楽しい小説を読むならいいのですが、何せ政治学、あるいは国際政治学を学ぶ優秀な学生の皆さんが、時間をかけて熱心に書いた文章を、こちらで採点をしたり、評価をしたりしないと行けないわけですから、読みながら常に緊張感があります。ミスがあれば、学生の皆さんの人生を左右しますので。ですので、慎重にミスがないように、これらの250万字ぐらいの学生の皆さんが書いた文章を、約一ヵ月ほどの間に読む。ちょっと、大杉??

でも、一番楽しいのは、入ゼミ課題で書いて頂いている、学生の皆さんの「自己紹介文」。本当にいろんな学生の方がいらっしゃって、ここに辿り着くまでの歩んできた道のりの、楽しかったこと、つらかったこと、悲しかったこと、嬉しかったことなどを、率直に書いて頂いています。文章力がある学生の方の文章の場合は、その情景が目に浮かんで、読みながら笑うこともあれば、涙が込み上げてくることもあります。事実は、小説より奇なり。本当に色々な人生があるのですね。

とはいえ、人の人生には、優劣、上下などはないはず。人柄を知ることができても、それを「採点」することなど本来はできません。あくまでも、ゼミに入って頂いた学生のみなさんが、「こういったすばらしいゼミ生たちと一緒に勉強をできて、本当によかった」と思ってもらえるような、そういった魅力的な学生の方にお入り頂ければ、とても有り難いことですよね。そうなんです。魅力的なゼミ生に囲まれていたら、結局は担当教授なんて、どうてもよいのかも??まあ、そんなことはないのかもしれませんが、ともかく真摯に課題の文書を読ませて頂きたいと思っています。

それにしても、本当にやばい原稿が私、いくつもあるんですが、こちらもどうしましょう。もう散々、迷惑をかけているので、ちょっとまずいんですよね、色々と。大学からお給料を頂き、大学教員であることが私の職業である以上は、こちらを最優先する義務があると思うのですが、なかなか先を見通して計画を立てて作業を進めることができない性格なので、いつも困ったり、怒られたりしています。まじめで、きちんと計画的に必要な作業を終えるゼミ生の皆さんに、「弟子入り」したい気分です(ときどき怒られます)。

それで、さすがにもともと皆さん優秀ですから、ゼミを出てからさまざまな世界で活躍されています。たとえば、政治学科の西洋外交史のゼミなのですが、卒業生の11期生までのうちで、司法試験に合格したゼミOBOGが4人。外交官となったゼミのOBOGが9人(院ゼミOBOG、そして今年4月着任も含め)、研究者志望の方も多く、1期生のゼミOBの大久保明君は、今は名古屋大学法学部准教授(大学院では、私が在外研究に出たり、准教授で博士課程の指導ができなかったこともあり、田中俊郎先生と田所昌幸先生のご指導を頂きました)。所属や肩書き、職業で人間の価値が決まるわけではありませんが、ゼミにいたときにはまさか、皆さんがそれほどまで高い地位で近い将来に活躍するとは思っていませんでしたので、本当にそれぞれ一人一人のご努力の結果なのだろうと思います。

ということで、これから本当に忙しい、活字を読み続ける日々が始まる前に、ちょっとした気分転換でブログを書いてみたくなりました。もちろん、活字を読むのも好きなのですが、私の場合は書く方がはるかに好き。こういったストレス発散に、おつきあい頂きお読み頂き有り難うございます。そして、あらためて、素晴らしい内容の、そして誠実で熱心にご準備をされた入ゼミ課題の書類をご提出頂いた2年生の皆さんに、感謝申し上げます。


hosoyayuichi at 03:29|Permalink

2021年01月20日

『迷走するイギリス』のKindle版、今日発売!

ちょうど今日、『迷走するイギリス ーEU離脱と欧州の危機』のKindle版が発売です!といってもこちら、5年前に紙のものを刊行しており、時間が経ってからのKindle。でもちょっと嬉しいです。イギリスは迷走し続け、5年経ってもまだ読んでもらえそうで。でもイギリス外交を学んできた者として、本当は悲しむべきかも?

こちらの本は、すでにほかのところで書きましたが、2016年6月23日のイギリスのEU加盟継続を問う国民投票での離脱の結果を受けて、急いで2ヵ月ほどで書いてまとめて、10月5日の後付けで刊行しています。なんとも綱渡りで、使命感のようなものを感じながら一気にまとめました。

というのも、私の慶應での修士論文のタイトルが、「イギリス外交とヨーロッパ統合の起源、1948-50年」(1997年)というもので、どのようにイギリスが欧州統合の起源において重要な役割を担ったかということと、そしてなぜそこから離れる決断をしたのかを論じたものです。バーミンガム大学大学院留学中に集めた一次史料を用いて書いたものです。

その後、20年近く、研究の関心を拡散し続けてきましたが、やはりイギリスとヨーロッパとの関係はつねに関心を抱き続けてきたために、その研究対象が「消える」ことは自分の中での研究者としての1つの「区切り」になるのではないかと、感じました。

私の慶應での師匠の田中俊郎先生が、まさにイギリスとシューマンプランの関係についての研究をしており、その門下の庄司克宏慶應義塾大学大学院教授、そして鶴岡路人慶應義塾大学准教授と、三人揃って、「ブレグジット本」を刊行するというのも、ちょっとした嬉しい偶然です。庄司克宏先生は、『EU危機 ーBREXITショック』(2016年)と、『ブレグジット・パラドクス ー欧州統合の行方』(2019年)、そして鶴岡路人さんは『EU離脱 ーイギリスとヨーロッパの地殻変動』(2020年)です。

いよいよ2021年1月1日に完全にEUから離脱したイギリス。それを記念して、四冊まとめて、読んで頂くのはいかがでしょうか。「ブレグジット博士」になれるかも?!三者三様で、まさにそれぞれの専門と個性が色濃く出ていると思いますので、どれか一冊だけで済ませるというよりも、続けて読む方が深く、立体的に、理解が進むと思います。

今振り返って、ぱらぱらと読み返してみても時間が経過しても、中で書いていることが大きく間違っていないということが、なんとも安堵しているところです(そうでなければ、Kindle版ははずかしくて刊行できませんので…)。とはいえ、研究者の使命は将来を予測することでもありませんし、細かいところで私の想定と異なる軌跡を描いているところも多々あります。歴史はわれわれの想像を超えて、多様な要因が相互作用して、曲折しながら進んで行きます。

アイザイア・バーリンがかつて語った、人間性という曲がった木材からは、一切直線的なものはつくられてこなかった、という言葉がとても気に入っています。人間が政治を動かしているのだから、政治もまた曲がりくねった、紆余曲折したものとなるのもやむを得ません。

歴史を基礎に現代の国際政治を語るという、北岡伸一先生や田中俊郎先生の研究スタイルを気がついたら、影響を受けているのだろうと思います。もちろん、お二人と違って才能の欠如した私の場合は、かたや歴史家の方々からは史料の利用が少ないと怒られ、政治科学を行っている方々からは科学性が欠落していると怒られ、その間の空間をさまよい続けています。

何ごとも、複数の美徳を総合して、適切な均衡を得ることが重要だと考えています。同時に、アリストテレスが倫理の中で語った、極端を排する中庸の価値をいつも感じています。そのような観点から、イギリスとヨーロッパの関係や、現代の国際政治、さらには日本外交についてなど、今後も色々と独自性と斬新性のある見解を論じて行ければと思っています。

hosoyayuichi at 01:24|Permalink

2021年01月10日

私のゼミを希望されているみなさんへ

2021年が幕を開けて、新しい一年が始まりました。
日吉で勉強されている2年生の皆さんは、入ゼミの課題に取り組んでおられ、あるいは最後の段階で志望するゼミで悩んでおられるところかもしれません。

私のゼミについては、すでにゼミのホームページで入ゼミ課題があげられており、ご覧頂いた方も多いかも知れません。1月22日が締め切りとなり、課題内容もそちらに記載されております。

この段階でお伝えすることになりまして恐縮に思いますが、12月の教授会で認められまして、2021年10月から1年間、イギリスで在外研究を行う予定となりました。コロナ禍となりまして、受け入れ先の大学が来年度に訪問研究員を受け入れるか、判断に時間がかかり、それが確定してから申請をして受理され、9年ぶりに海外で研究をさせて頂く時間を頂くことになりました。

それに関連して、ゼミ14期生となる今回の入ゼミは、予定通りに募集を行うことになり、2021年4月から9月までは通常通りに可能であれば教室での対面のゼミを行うことになりますが、2021年10月から22年9月まではイギリスに滞在予定で、その間は主にオンラインでのゼミの実施を考えております。入ゼミ課題の変更もありません。

2年間のゼミの進め方、そして活動内容については、これから詳細を検討して、後日にご報告をしたいと思います。基本的には新しく3年生となりゼミにお入り頂く皆さんには、もし可能な場合は私がイギリスに滞在している期間も、三田で教室に集まって頂きまして、そこでオンラインで繋げて私がゼミを進行できればと考えています。教室では、一つ上の学年の4年生、あるいは大学院生にお手伝いをして頂きゼミの進行をサポートをして頂き、可能な限りスムーズに通常にちかいかたちでのゼミが行えればと考えています。また、毎年行っている個別面談はオンラインで行い、可能となった場合は夏合宿なども、2021年8月の出発前、そして2022年9月の帰国後に通例通りに行えればと希望しています。

コロナ禍で何かと不透明、流動的な状況ではございますが、2020年4月以降のゼミで、オンラインのゼミでも思った以上の教育成果が得られると手応えを得ておりまして、また10月以降はハイブリッドというかたちで安全を確保したかたちでの教室での対面授業が可能となりさらに実際のゼミ生同士の交流や会話での有意義なゼミ活動が行えていると喜んでおります。

在外研究の予定が固まるのが、コロナ禍の影響で例年よりも遅れてしまい、それにあわせてご報告も遅れまして恐縮ですが、2021年度の入ゼミ募集を予定通り行うこと、そして在外研究にあわせて2021年10月から22年9月までのゼミ活動がハイブリッドで三田とイギリスを繋げたかたちで行うことを、お伝え致します。可能な限り、通常のゼミと同様の成果が得られるように努める予定ですが、コロナ禍の影響もあり何かと不透明な状況が多いということをもあわせてご理解を頂ければ幸いです。また、一年間、ゼミの皆さんとの交流が主にオンラインを通じたものとなりますことにつきましても、ご報告をできるのが遅れてしまいましたこともお詫び申し上げます。

今学期の期末試験も、教室での対面での実施予定からレポート提出のかたちに変更となりましたようで、皆さんにおかれましても何かと困惑をしたり、大変な思いをしておられるかも知れません。世の中は、何かと理不尽なことも多く、不満を感じておられる方も多いと思います。

他方で、皆さんは、「ウィズコロナの時代」そして「ポストコロナの時代」の「第一世代」になることと思います。新しい時代は、これまでの時代とは異なります。新し時代に相応しい教育、生活、仕事を想定して、いわばその「準備」をやむを得ずしてせざるをえなくなった皆さんは、その新しい時代を先導することが可能となるはずです。2年間のゼミの活動のうちで1年間を、オンラインを含めたハイブリッドなかたちででの私の指導を受けることになることもまた、そのような一環とご理解頂ければ、有り難く思います。

色々と今までできたことができなくなったことを数えることも重要ですが、これまでできなかったこと、やらなかったことができるようになったと考えることも重要です。デジタルトランスフォーメーション(DX)が生活の基礎となり、これまでとは異なるコミュニケーションをニューノーマルとなる世界のなかで、大学四年間をその思考の転換、活動の転換の時期と捉えて、是非とも有意義な時間をお過ごし頂ければと願っております。また、私のゼミにご参加した時間は、そのための価値あるものとなるように、可能な限りでお手伝いをさせて頂ければと願っております。

hosoyayuichi at 12:26|Permalink

2021年01月01日

2020年のゼミの回顧と、2021への希望

新年、明けましておめでとうございます。

2020年。私の大学での授業は、いままで経験したことのない挑戦の連続であり、新しい試みの摸索の連続でした。そのなかでも、多くの喜びや、学び、刺激を得て、新しい環境にふさわしい、最良の教育をいまだ、模索中です。

1月には、最後の授業のあとに卒業する4年生のみなさんと教室で集合写真。さすが、このときには、まさかコロナ禍でその後教室での授業ができなくなるとは創造もしていませんでした。まだ国際社会も、メディアも、新型コロナウイルスについて深刻に受け止めていない一方、中国国内では武漢で感染爆発により、病院などが大変な状況になっていました。それは後に分かることです。

2月には、入ゼミ選考を通常の対面の面接で行い、その直後には歓迎会も行っています。このときにも、東京は至って平常。一方で、横浜に停泊中のダイヤモンドプリンセス号の船内では感染が拡大して、世界でも注目されていました。この頃から次第に、感染拡大の不安や懸念が広がっていきます。

3月は、感染拡大により、混乱や不安が広がっています。卒業式は中止。しかし、多くの人が日吉キャンパスに行き、卒業写真を撮りに。私もゼミの卒業生と一緒に、記念写真。すべて、屋外で撮影しており、風通しもよく、一応感染拡大をせぬよう、留意。また、検温や換気などを徹底して、ギリギリの判断で卒業生の歓送会の追いコンも。これが、対面でゼミ生と会食する最後の機会に。

4月からは、緊急事態宣言を受けて、講義もゼミも全て、オンライン。未知の経験です。新歓コンパ、新歓合宿、個別面談など、毎年行っているイベントも全て中止し、あらゆるコミュニケーションがオンラインで。それと同時に、家族以外は誰とも会わない、自宅での「ステイホーム」生活が開始。

もともと学生の頃から、自宅にこもって読書をするのが最良の楽しみであった故に、本来はそれほど困難と思わないはず。ところが、何をしたらよいのか、これからどうなるのか、などをかんがえると、なかなか集中して読書に没頭することもできません。気がついたら、毎日、ネットサーフィンで、感染に関する情報収集すると同時に、国際政治学者、ヨーロッパ外交史研究者として、歴史的および国際政治学的観点から、次第にメディアで発信する機会も増えていきました。

秋学期からは、はじめて対面での授業が可能となり、三田キャンパスで、大学院ゼミと学部のゼミを教室で行っております。換気、マスク、検温、などなどあらゆる可能な安全対策をとり、さいわいまで教室内での感染例は発生していないようです。

一方で、ゼミコンパ、ゼミの特別講演会、OBOG会、合同ゼミなど、すべてをオンラインで実施するという新しい試みも。意外とオンラインでも楽しめて、有意義と感じることもあれば、さすがにオンラインでは難しいな、と感じることも。春に流行した「ZOOM飲み会」は、その後、あまり普及しませんでした。画面を見ながらの飲み会は、楽しむのも難しい。他方で、対面での会食があまり行えない状況で、どのようにコミュニケーションをとったらよいのか、まだまだ暗中模索といった感じです。

どうか、2021年がより安全で、快適で、充実した大学での授業が可能となりますように。ワクチンも開発され、接種と流通が始まりました。また、この一年で、膨大な数の新型コロナ関連の論文が発表されて、科学的に多くのことが分かってきました。

人間の叡智、科学の進歩と、新しい感染症との、はてしない格闘。どうじに、それらを乗り越え、適応し、免疫を就けることで、人類はこれまで前進してきました。文明論的に、この危機を正しくうけとてめて、2021年が希望と喜びに溢れた一年となりますように、切に願っています。そして、またふたたびゼミ生のみなさんと、くだらない話から、真剣な話まで、ざっくばらんに歓談できる時間がふたたび戻ってくるように願っています。


hosoyayuichi at 00:21|Permalink

2020年11月19日

なぜインド太平洋地域で日本が「自由」と「開放性」を守るべきなのか ー「人はパンのみにて生くる者に非ず」

少し前に執筆しました「インド太平洋地域における「自由」と「開放性」の終わりとなるのか?」が、私の予想を上回る大きな反響を生みまして、多くの方にお読み頂きました。

11月16日午後の加藤勝信官房長官の定例会見での発言や、17日の菅義偉首相のスコット・モリソン豪首相との首脳会談の際の日豪首脳共同声明、そして18日の衆議院外交委員会での山尾志緒理国民民主党議員の質問への茂木敏充外相の応答と、政府の中枢にいる指導者の方々により、力強く「自由で開かれたインド太平洋」を日本が引き続き促進していく政治的意思が示され、少なくとも当面はこの路線が継続することが明確となりました。


私が前の投稿で書いたことが杞憂となり、引き続き日本政府が「自由で開かれたインド太平洋」構想を促進していくとすればそれはとても良いことだろうと思います。

少なくとも、私が抱いた危機感を政府の内外の多くの方に共有して頂き、そしてそのような疑念を払拭するような政府の明確な立場が示されたことで、警鐘を鳴らしたことに一定の意義があったのではないかと感じております。




そもそも、なぜ「自由」と「開放性」を日本が擁護することが重要なのか。そして、なぜ「自由で開かれたインド太平洋」が「平和で繁栄したインド太平洋」という言葉になることに問題があるのか。この点については、残念ながら依然として多くの方に、十分にご理解を頂いていないようです。

「平和と繁栄」とは、ナチス政権の下でも、スターリン政権の下でも、金正恩政権下でも、可能です。隷従や独裁が、平和や繁栄を生むことができるからです。むしろ、権威主義体制は、それに対する抵抗を抑圧して、安定性と平和を確保することを重要な目的とします。ですので、どのような「平和と繁栄」なのかを問うことが重要なのです。20世紀の歴史を直視する者には、それはあまりにも自明ではないでしょうか。

冷戦終結の頃には、「繁栄」を手にするためには自由民主主義が不可欠であるという認識が、浸透していました。それはたとえば、フランシス・フクヤマ氏の「歴史の終わり」論によって示されました。また、冷戦後のアメリカ外交は、自由や民主主義、そして市場経済を拡大することで、それにより平和が確立し、またより豊かになることを楽観的に唱えていました。

ところが、2009年のリーマン・ショックは、そのような楽観論を打ち砕きます。というのも、その後の世界経済の成長は、中国という非民主主義的な社会主義国家によって牽引されたからです。それ以後の十年、欧米の民主主義と、中国とで、どちらがより早い経済成長を実現したのか。そしてどちらがより高度な科学技術の発展やデジタル・トランスフォーメーションを進めたのか。AIや次世代通信網など、どちらがより先進的であり、優位な地位にあるのか。自由民主主義諸国がこの間に、ポピュリズムや、格差の拡大、政治の混乱を示す一方で、世界の多くの諸国が中国により大きな期待をするとしても不思議ではありません。つまりは、より早く、より確実に「繁栄」を手にするために、必ずしも自由民主主義体制は必要ではないと認識されるようになったのです。

また、「平和」とは、多くの場合に現状維持を意味します。南シナ海で、中国が係争状態にあった多くの島嶼を力による現状変更で実効支配をして、現在は軍事基地化を完了させつつあります。そうなれば、南シナ海で「現状維持」を求める勢力は中国となり、その延長線上の将来に防空識別圏(ADIZ)を設定して、中国に敵対的な諸国のそこへの航空機の進入に対して圧力をかけたり制限をすることが想定されます。だとすれば、われわれはそのような「奴隷の平和」に甘んじなければならなくなる将来も、想定しなければなりません。「中国による平和」です。

それは日本にとっても、深刻な問題です。現在、東シナ海では、中国が巨大な軍艦を転用し、そのような中国の海警の「公船」(実質的な軍艦)を尖閣諸島の周辺で大量に航行させています。たとえば来年の夏に、巨大な台風が尖閣諸島周辺海域に到来して、海上保安庁の比較的規模の小さな艦船が安全確保のために避難したときに、中国の海警の大型船がそのまま尖閣諸島周辺にとどまっていたら、台風が過ぎたあとには尖閣諸島が中国の海警によって実効支配されている状態になっている可能性があります。

そうなったときに、中国政府は東シナ海の「平和」を維持するために、偶発的事故を防ぐという名目で、日本の海上保安庁の船を「中国領」である「釣魚島」周辺に近づけないため、海警が保有する大量の「軍艦」を配備する可能性もあります。そうなったときに、中国は東シナ海の「平和」を壊すような、日本政府による離島奪還作戦を厳しく批判するかもしれません。「平和と繁栄のインド太平洋」をつくると語った日本は、自らの領土を奪還することはできなくなり、「中国による平和」を受け入れねばなりません。

これが、日本政府が求める目標でしょうか?

権威主義体制がもたらす繁栄と、中国が圧倒的な軍事力で維持しようとする平和。日本政府は、東南アジアとともに、そのような「平和で繁栄したインド太平洋」をつくっていくことを約束したのでしょうか?

これからアメリカは、国内の政策を優先するようになっていくでしょう。コロナ禍で苦しみ、コロナ対策と国内経済対策、そして失業対策に巨大なエネルギーを費やす必要があるバイデン民主党政権は、中国を批判する数多くの言葉を語ることになるでしょう。だとすればはたして、地球の裏側である東シナ海で上記のような緊張が発生した際に、日本が行う離島奪還作戦を全面的に支持してくれるのでしょうか。あるいは、「平和」を維持することを優先して、日本が尖閣諸島の領有を断念するように説得し、「隷従の平和」を受け入れることに圧力をかけることになるのでしょうか。

アメリカ政府の基本的な立場として、尖閣諸島の日本の主権は認めず、あくまでも日本の施政権を認めているにすぎません。トランプ政権は踏み込んで、日本の主権を認める発言を示しましたが、民主党政権で同様の態度をとるかは未定です。

バイデン次期大統領は、日本の施政権が及ぶ領域における日米安保条約5条の適用を約束しています。それはすなわち、上記のようなかたちで尖閣諸島における日本の実効支配が失われたときには、安保条約第5条に基づいて米軍が出動することは困難になるはずです。尖閣諸島の防衛について、施政権を失った場合には、それを奪還することも、またそのために米軍の支援を得ることも、けっして容易なことではないのです。

「平和と繁栄のインド太平洋」という言葉が、どのような問題を含んでいるかがこれでご理解頂けるのではないでしょうか。世界中で、「平和」と「繁栄」に反対している国は、私が知る限り、一国もありません。誰もが反対しないスローガンというものには、実質的には何の意味もありません。

他方で、「自由」と「開放性」となると異なります。なぜならば、上記で説明したように、中国政府は将来において、南シナ海、さらには東シナ海での「航行自由原則(freedom of navigation)」に制限をもたらす可能性があるからです。それは、東シナ海の尖閣諸島上空での防空識別圏を中国政府が2013年に設定する際に示唆したことです。国際法上の慣行とは異なり、中国政府は、自らに敵対的な諸国に対して、たとえそれば公海や公空であっても、侵入することを阻止することが考えられます。だから、インド太平洋地域においては、「自由」と「開放性」を強く求める諸国と、むしろそれを嫌う諸国に分かれるのです。

また、同時に、中国は2014年5月のアジア相互協力信頼醸成(CICA)首脳会議以降、「アジアによるアジアの安全保障」を求めて、「域外国」の関与を排除しようとする動きを見せています。アメリカ、ヨーロッパ、オーストラリア、インドなどが、中国の考える「東アジア」の域外国となります。他方で、そもそも、そのような中国の動きに対抗するためにも、日本政府は2005年に始まる東アジアサミットでは、そこにアメリカや、オーストラリア、ニュージーランド、インドのような民主主義諸国を加えたのです。

すなわち、実質的に「ASEAN+3」を基礎として狭い「東アジア」をつくろうとする中国政府と、それに抵抗して広い「東アジア」を求める日本政府とで、これまで地域秩序形成をめぐる対抗が見られたのです。上記のような民主主義諸国を排除しようとする中国と、むしろ上記のような民主主義諸国を加えることで日本自らが孤立せぬように努力をしてきた日本と、「東アジア」をめぐる認識が大きく異なるのです。

前者の中国型の「東アジア」であれば、中国はASEANや韓国に圧力をかけて、自らが優越的な地位を確立して、いわば自らの「勢力圏」を確保できます。他方で、アメリカやインドが入れば、そのような中国の排他的な優位性は失われます。日本が「自由で開かれたインド太平洋」構想を進めてきたのには、そのような圧倒的な中国の優位性を相対化するためにも、アメリカ、オーストラリア、インドなどの民主主義諸国の参加が不可欠と考えたからでしょう。

その鍵となる用語が、「開放性(openness)」です。

そのような「自由」と「開放性」という、インド太平洋地域の将来を考える上での二つの鍵となる規範を失うことが、いったいどのようなことを意味するのか、おおよそ理解して頂けるのではないでしょうか。

さらに重要なのは、コロナ危機が生み出した現在の新しい趨勢です。そのような政治的意図や戦略とは無関係に、コロナ危機によって感染が比較的抑制されている東アジア諸国と先行してビジネス往来を再開しております。それと平行してRCEPの締結、さらには欧米諸国の感染の再拡大の深刻さを考慮に入れれば、今後2,3年の間に、日本の貿易構造に少なからぬ変化が生じることが想定されます。すなわち、日本経済の「アジア化」と、感染拡大が深刻な欧米諸国経済との実質的なデカップリングです。とりわけ、デジタル庁を設置して、さらにDXを進めようとする現在の菅政権の政策の優先順位を考えれば、そのためには台湾、中国、韓国、シンガポール、ベトナムなどの諸国との協力がよりいっそう重要となってくるのでしょう。

そのような経済的実態の帰結として、日本はアメリカやヨーロッパ、オーストラリアなどの民主主義諸国との経済的な一体性を弱めて、むしろ上記のような東アジア諸国との結び付きが強化される可能性があります。そうなれば、この地域のなかで、「自由」や「民主主義」が少なくなり、より「開放的」ではないインド太平洋のなかに自らが位置していることに気がつくことになるのかも知れません。

コロナ禍による世界のパワーバランスの変化や、今後のグローバル経済の構造の変容を考慮に入れるならば、日本がそのような現実によって翻弄され、漂流するだけではなく、明確な政治的意思と戦略性を持って、むしろ望ましいインド太平洋秩序を構築する上で、イニシアティブを示すことが重要になります。その際には、RCEPと、CPTPP、日EU間EPAをどのように組み合わせて、グローバルな貿易体制のスタンダードをつくっていくのかを、世界に示すことが重要です。

日本が目指すのは、自由や開放性、法の支配、人権といった規範に基づく、そして日米関係や日欧関係など、自由民主主義諸国との関係を引き続き重視していく「自由で開かれたインド太平洋」なのでしょうか。あるいは、中国がより優越した地位を占めて、「域外国」の軍事的関与を拒否して、より権威主義的な制度により安定性を志向するような「平和で繁栄したインド太平洋」なのでしょうか。

「平和で繁栄したインド太平洋」。そして「自由で開かれたインド太平洋」。この二つに、実質的には違いがない、という説明には私は十分に賛同できません。

なぜならば、新約聖書マタイ伝で書かれているように、「人はパンのみにて生くる者に非ず」、言葉によっても生きるからです。




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