2009年11月27日

外交の民主化の憂鬱

インターネットで日本のニュースを見ていて、事業仕分けが相当な話題を呼んでいるようです。私もちょこちょこ見ていて愕然としたのは、相当程度が仕分けの判断をする方々の主観が入っているのではないか、ということです。結局は何が「必要」で何が「不必要」かは、きわめて判断が難しい問題なのでしょう。

たとえば、それを判断する政治家の方々が芸術に関心がなければ、それらの活動への支援は「無駄」ということになるのでしょう。ご承知の通り、ロンドンでは大英博物館やナショナル・ギャラリーをはじめとする多くの博物館・美術館が入場料無料です。これらの活動をまさに、国が支えているわけです。同様にパリでも、街の美しい景観を保つために大きな予算がその保全・修復に費やされているわけですが、これもフランス人にとってパリの美しさを守ることが「無駄」ではない「必要」なことと思っているからこそだと思います。


いうまでもなく、フランスやイギリスの政治家の多くにとって、国家や国民にとって美しい景観を守ることや芸術や文化活動を守ることに大きな予算を計上することは、「必要不可欠」なことです。もちろんだからといってそれがチェックをされずに計上されることは、「公共事業化」してしまいます。民主党政権になって、民主的なチェックが入り、「陳情」や省庁内の密室的な議論だけでなく、オープンな議論がなされるようになったことはよいことだと思います。

そこで問題となるのが、「民主主義の質」です。結局はそれは、国民の質や政治家の質、ということになるのだと思いますが。それでは、日本の政治家の質は、どうか。彼ら、彼女たちにとって、何が必要で何が必要でないのか。

一つの傾向として明らかになっているのは、科学技術、大学教育、研究活動、国際交流、芸術活動、外交広報などの多くは、彼らや彼女たちにとっては「無駄」な不必要なもの、と映っているということです。そこにまだまだ無駄があるのは言うまでもないのですが、それでも政治家の発言を聞いていて、それらに対する「侮蔑」とも思えるような発言がときおりでてきます。そもそも、何が必要かという問題に、最初から答があるわけではありません。それは政治的な意志と決断によって、判断されるべきものです。

そのような経緯の中で、都市出版社の刊行する『外交フォーラム』の買い上げ費用が「廃止」とされる方向で議論が進められているようです。

たしかに、きちんとした説明や根拠がなく外務官僚や国会議員に配布するということは批判される点もあって然るべきだと思いますし、位置づけに関しても政府広報誌なのか民間の商業誌なのか、不明瞭な部分も多いと思います。ただ、そもそも外交広報の必要性が生まれてきた経緯を、ほとんどの「仕分け人」や民主党議員は知らないのではないでしょうか。

第一次世界大戦時に、ウッドロー・ウィルソン大統領が「民主的外交」を唱え、世論の重要性、パブリック・ディプロマシーの重要性が論じられるようになりました。民主化が進み、国民に支えられなければ実効的に外交が行われないからです。それゆえに、イギリスでは王立国際問題研究所(RIIA, Royalは後についた)や、アメリカのCouncil of Foreign Affairsが設立されました。国民が外交をよく知らなければ、よい外交は行えません。しかし戦間期の日本にはそれが不十分でした。国民の間の外交に対する関心や知識は不十分で、それがときおり外交をゆがめてきたのです。たとえば、日露戦争後の日比谷焼き討ち事件や満州事変後の拡大行動への世論の熱狂的支持など、明らかに国民の外交議論に不健全な要素が見られました。それを反省したのが吉田茂で、従って戦後吉田茂首相が中心となって、日本国際問題研究所を設立する経緯となったのです。

それらがどこまで政府の財政的支援で行われるべきか、裁量的な余地は少なくありませんが、菊田真紀子・民主党衆院議員の「必要なら自分で買う」という発言には愕然とします。つまりは、あらゆる出版物が自由競争にゆだねるべきで、よいものが必ず売れるという信仰であれば、これはとんでもない「ネオリベラル」な発想です。これを突き詰めれば、政府の役割がなくなるではありませんか。日本の外交広報予算が、たの先進国と比べて桁が1つから2つ少ないという危機的状況にこれまであったということを、おそらくご存じないのでしょう。それは外交広報予算のみならず、国際交流予算、芸術支援、大学支援なども同様です。日本での大学交付金が極端に少ないことは、津最近にもOECDから注意が喚起されていました。「はこもの」でなければ、日本では大きな予算をとるのは難しかったのだと思います。

ちなみに「よいものが売れる」はずだから、「売れないものは悪い」ということであれば、総合雑誌を見るならば、「文藝春秋」の60万部という例外を除くと、もっとも売れているのは「潮」です。41万部。なぜ「潮」が売れているか、読者諸賢はよくご存じなはずです。政府が買い上げずとも、ある程度買い上げてくれる組織が協力しているからなはずです。次が「正論」の7万部。「中央公論」は4万部で、「世界」は非公表ですが1万部ともいわれています。「中央公論」も「世界」も、これは歴史ある老舗ですが、これも背後に有力な出版社が一生懸命に支えて理解しているから刊行可能なはずです。つまりは、「文藝春秋」は芥川賞などの文芸雑誌としての側面が強いわけですので、外交や政治、経済を中心にした論壇誌としては、もしも「中央公論」と「世界」がなくなれば、「潮」と「正論」のみになります。すでに、「論座」も「諸君」も「現代」もなくなりました。圧倒的に伸びているのは、やや性質が異なりますが、「Will」です。

その結果として、「Will」と「正論」のみが、外交を論じる総合雑誌としてもし残るような事態があれば、それははたして民主党政権がのぞんでいることなのでしょうか。もちろん両雑誌ともとても熱心に編集をしていたからある程度の部数を維持できているのでしょうが、「必要なら買う」ということであれば、民主党政権にとってはイデオロギー的に方向性の異なる「Will」や「正論」の議論を、「必要」な議論であり、良質な議論と、皮肉にも証明していることになります。「正論」もここ数年で相当に販売部数を落としているようです。「中央公論」や「世界」は、単なる経済合理性を越えて、おそらく社内で歴史的使命感や、健全な世論を喚起したいという使命感から、全力で刊行を支えてくださっているのだと思います。

「よいものが売れるはず」というのであれば、40万部の部数の写真週刊誌の「Friday」や50万部の「週刊現代」は、「中央公論」や「世界」よりも圧倒的に「よいもの」であるはずです。売れなくても良質なものを刊行したいという地道な出版社の努力を、民主党議員の方は侮蔑しているのではないでしょうか。そのような怒りは、某出版社の社長のブログでも書かれていました。

ちなみにイギリスでは、Royal Institute of International AffairsとRoyal United Services Instituteと、どちらも「王立」です。健全な外交防衛論議を支えるために、見識ある政治家の方々が、知恵を絞りまた財布を絞って、多様な支援をしてます。日本にはまだ「贅肉」が残っていて絞れるところがあるのでしょうが、安易に「廃止」と極端な方向にぶれるところが怖いところです。

これは拙著『外交』でも書いたことでありますが、私たちの生活に直接影響を与える年金の問題、税金の問題、公共事業の問題、教育の問題などと比べて、その影響がはるかに長期的で目に見えにくい外交問題は、民主主義国の中ではどうしても軽視され、粗末にされます。それゆえに、アメリカのリップマンも『世論』の中で、「国境の外側の生活はその内側のどんな生活よりとびきり縁遠い」から、民主主義国では外交論議が粗末にされることが少なくありません。そのことがこれまで多くの外交的な悲劇を生んできて、その反省から、健全な外交論議が発展するように政府がいろいろと知恵を絞ってきたのだと思います。それを「インターネットでやればすむ」というのは、それらの経緯を知らない暴論だと思います。それほど簡単ではありません。

不健全な部分は存分に削って欲しいと思いますが、外交や防衛に問題は、国家にとってその存亡にもかかわるとてつもなく大きな問題だという意識が、やはりとても薄い用に感じてしまいます。それはそのまま、戦後の日本の教育や政治で、経済や財政、法律論に比べて、外交が防衛がどうしても低い地位にあったことと深い関係があるのかもしれません。

今の日本の大きな問題は、外交論議が左派的な平和主義と、エキセントリックな右派的なナショナリズムに二分化していることです。30年代初頭のドイツが、共産主義者とナチスとに二分化されて、中道層が弱まったことと似ています。今の民主党の動きは、それらのバランスの取れた少数派の中道的な議論を抹殺することにつながるかもしれません。今の段階ですでに、民主党の外交はかなり危うい要素が多いのですが、これから国民世論の間で外交への関心が弱まり、健全な理解への努力が弱まり、過激な議論、稚拙な議論が横行することになるのでしょう。

私が大学院生の時に図書館に行けば多くの外交関連の雑誌がありました。その後、『外交時報』が廃刊、『国際問題』誌面が廃刊(来年度から一部希望者に製本を開始するようですが、日本国際問題研究所自体が「仕分け」の「見直し」の対象となっています)、『世界週報』が廃刊、そして『論座』、『諸君!』、『現代』の廃刊。それゆえに『外交フォーラム』は、「日本で唯一の外交総合雑誌」と名乗っていました。それも廃刊となるのであれば、長期的に見るととても大きな転換点となるような気がしてしまいます。

故高坂正堯教授は「外交が世論の強力な支持を得たとき、日本は外交政策を持つといえるようになるのだ」と語り、日本における「外交政策の不在」を嘆いたわけですが、そのような時代と比べてもこれからの外交ははるかに難しい時代に入っていきます。科学研究に対しては、ノーベル賞受賞者が「仕分け」への批判を論じ、大学交付金削減に対しては9大学が反対の意見表明をしました。しかし、外交について、国際交流基金、日本国際問題研究所、「外交フォーラム」についての「見直し」と「廃止」へは、ほとんど反対の声が上がりません。もともと外交とは「族議員」もほとんどおらず、国会での理解度も著しく低かったことがよく指摘されていたわけですが、もう一度民主党政権が、この辺りの問題をしっかりと考えてから決断をしてくれることを願っています。

hosoyayuichi at 18:01│