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2011年04月03日

海を見よ

今、立教新座高校の校長先生の卒業への祝辞が、ずいぶんと話題になっているようです。どうにも、とても感動的なのだとか。私が知ったのは、妻がFMラジオのJ−Waveで触れられていたと、教えてくれたからです。

妻が教えてくれたのは、私がこの学校を卒業したからです。卒業してから、ラジオで母校の名前を聞くことなど、まずない。ということで、ちょっと驚いたのですが、まあ別にどうでもいいかな、と思っていました。

でも、色々なところで目にすると、ちょっと気になる。ということで、読んでみました。渡辺憲司校長のメッセージはこちらです。

「時に海を見よ」というメッセージを、少し前に学校で配布予定だったようで、どうやら渡辺校長は「海を見よ」というのが、哲学のようです。「海を見よ」とは、「立ち止まる自由を得よ」ということであり、「現実を直視する自由」、そして「真理を見る自由」ということになります。高校までは「学校、保護者の下で管理されている」。そして会社勤めではまた管理される。管理されない自由。そして、ふらっと海を見に行ける自由。

とても詩的です。とても美しい言葉ですね。日本では、詩的な言葉は少ない。日本政治における言葉の貧困の一因は詩の欠如だと思っています。西欧の政治家で、偉大な演説をする政治家の多くは、空気を吸うように詩を吸う。美しい言葉が、どれだけ人間にとって栄養となるか。それを再確認しました。

とはいえ、渡辺憲司先生とは、私が高校生だった二十年以上前にはいませんでした。調べると、立教大学文学部の教授だったようですね。その後、立教新座高校校長へ。ふと調べると、確か私の立教時代の友人の父親の親友では。話では、大学院修了後、定時制高校や短大勤務が長く、立教に戻るまでかなり苦労したとのこと。文学への愛情や、豊かな人生の経路が、そのような美しい言葉を生み出す滋養となったのかもしれませんね。

それともう一つ、ふと思い出しました。渡辺校長の言葉では、次のように書かれています。「池袋行きの電車に乗ったとしよう。諸君の脳裏に波の音が聞こえた時、君は途中下車して海に行けるのだ。高校時代、そんなことは許されていない。働いてもそんなことは出来ない。家庭を持ってもそんなことは出来ない。」

何を思いだしたのか。「許されていない」はずですが、私は高校三年生の時に、よく高校を休んで「海を見に」行っていました。天気が良かったり、気分が良いときは、高校をさぼって、原付バイクでよく船橋や幕張の砂浜で、海を見ていました。鞄に文庫本を入れて。もちろん、大学時代も。「波の音が聞こえた」からなのかは覚えていませんが。

立教高校、立教大学は、自由でした。これほど自由な世界はなかった。渡辺校長も、そのような自由を吸い続けてきたのでしょう。私の場合は、奔放で、怠惰で、堕落していた。勉強もしないので、成績は常に下位。不真面目。二流。ただ、自由があった。満喫していました。それをふと、思いだしました。今でも、自由がないと息苦しくなります。大学時代に読んだ本で、一番好きな本の一つは、ジョン・スチュアート・ミルの『自由論』だった。哲学的に自由とは何かを考えるのが、無性に楽しかった。

怠惰で不真面目で、何もかもがあまりうまくいかなかった高校時代を思い出すと、何とも微妙な心境になるのですが、渡辺校長の詩的な卒業メッセージの中に「自由の精神」が書かれていて、ふと高校時代の自由を思い出してしまいました。

自由から活力が生まれる。活力から、向上心が芽生える。そして向上心から日本復興の芽が出る。それほど単線的ではありませんが、新年度がはじまり、桜の花が咲き始め、空気があたたかくなり、街にも少しずつ人と灯りが戻ってきた中で、一歩前に踏み出すときが来たのかもしれません。春です。

毎年春が来る限り、自由がある限り、歓びは戻ってくる。人生は捨てたものではありません。渡辺校長のメッセージが広く読まれている理由が少し分かりました。お会いしたことはありませんが。何となく、今の私につながる一つの出発点として、高校時代を思い出しました。

hosoyayuichi at 01:03│
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