国際政治チャンネルは今日です!科研費はどのように使われているのか

2018年05月06日

研究者にとって大切なこと

いま話題になっている、山口二郎教授の科研について、その中枢でプロジェクトを担当していた遠藤乾北海道大学教授によるその経緯の説明です。この説明に、その意義は尽きているように感じます。政治学を少しでもご存じの方であれば、旧帝国大学の中でも過去20年ほどの間の北大の貢献の大きさや、研究成果の充実を、十分にご理解を頂いているのではないでしょうか。

そのことは、巨大科研プロジェクトで一切の不備や欠点がなかったことを意味しません。国会議員であれ、メディアであれ、人間であれば必ず何らかの不備や欠点がつきものです。重要なのは、政治家を批判する場合も、政権を批判する場合も、あるいは研究者や研究プロジェクトを批判する場合も、公平な精神で、その問題点がどの程度深刻なものであり、どの程度批判すべきものであるかを、判断することだろうと思います。私なんかは、不備だらけ、欠点だらけの人間なので、どうしても他者の欠点には甘くなる傾向があるのかもしれませんし、何事も完璧にこなす方は、自然と他者にも厳しくなる傾向があるのかもしれません。それはもちろんのこと、必ずしもあらゆる問題を看過するということと同義ではありませんが。

それにしても、言葉の一部のみを切り取って情報操作することは、いつの時代でも繰り返しなされていることですが、受け手はその全体を慎重に理解する努力が必要なのだろうと思います。批判のための批判は、必ずしも長く続くものにも、一定以上の広がりを持つものにもならないように感じます。

今の、安倍政権に対する野党の一部やリベラルなメディアの粘着質な攻撃が繰り返されていることには、率直に申し上げてかなりの不毛感を感じています。かつて、麻生太郎首相の時代に、麻生首相が高級ホテルのバーでお酒を飲んだことが批判されたこともありましたが、これもまたほとんどジョークのような、ためにする議論だったと思います。きちんと、公平で、適切な判断力で、全体を見ながら、政策についてより真摯な批判や論争をするべきでした。同様に、現在の、文系の研究者の研究に対する批判も、同様にきわめて不毛なものが多くあります。成果報告書などをきちんと読み、その政治学的な不足点や問題点を学術的に批判することが肝要だともいます。高度な専門性がある、一般市民には理解の難しい理系の学問よりも、比較的内容の理解が難しくない政治学や歴史学は、どうしてもその分だけ、印象論的な批判の対象になることがおおいのではないでしょうか。

もちろん、大学教員は使命感と謙虚さと責任感を持って、研究に専念して、相応の研究成果を出して社会に還元し、貢献することも重要です。今までの日本の大学教授は特権的な地位に甘んじて、十分な努力を怠ったり、社会に貢献する意識が欠けていたり、市民に対して横柄な態度を示すことがあり、そのようなことはもはや許されないのだろうと思います。

われわれ大学教員が反省すべきこと、襟を正すべきことは、決して少なくはありませんし、これまで「学問の自由」や「大学自治」という壁に守られて、甘えがあったのも事実だろうと思います。ですから、批判に対して耳を傾ける謙虚さも必要です。

他方で、大学の活力は、国家の力の源泉のひとつです。ですので、大学の力が弱まり、大学教員の体力が低下すれば、それは国力の減退につながります。私はその点で非常に悲観的であり、他方で中国の大学の活力と、政府の費用の投入は、もはや日本とは比較になりません。それは単純に日本の大学教員に愛国心が足りないからでも、努力が足りないからでもなく、圧倒的に政府支出の額が少ないからです。下記のグラフもご覧下さい。ですので、大学教員いじめは、いつの時代も楽しい娯楽かもしれませんが、そのことが自らが愛すべき国家の将来を傷つけ、そして日本の衰退につながりかねません。

ナチス体制下のドイツでも、共産主義体制下のソ連でも、知識人や大学教員は、愛国心が足らないという格好の標的の対象となりました。歌手には歌が必要で、野球選手には野球が必要なように、知識人や大学教員にとって必要なのは、何よりも真理を探究する心であり、研究に専念する誠実な姿勢であり、それを教育や社会活動を通じて社会に還元する努力ではないでしょうか。


http://endoken.blog.fc2.com/blog-entry-103.html

【主要国の研究費の伸びの国際比較】
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【対GDP費の高等教育への公的支出】
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hosoyayuichi at 17:40│
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