2007年08月06日

美人コンテスト

日本初の美人コンテストは、明治17年、東京下谷で開かれた「美人共選会」というが、くわしい記録はのこっていない。ついで23年には、上野の上広亭で「美人品評会」というのが催されているが、一般の話題にはならなかった。25年、浅草の凌雲閣という東京タワーの元祖のようなところが、「百美人投票」を行なったが、これは広く知られたレジャー施設であったため、満都の話題となった。

当時は良家の子女がこのような催しに加わることはなく、参加者は新橋、柳橋、日本橋などの芸者100名、それも写真コンクールだった。見物の入札(投票)の結果、第一位は、新橋の吾妻(本名中岡せい、17歳)が獲得した。身長150センチぐらい、ちょっと中山千夏に似ている。

この百美人投票は、その後も2回行なわれたが、芸妓のパトロンが票を買い占める傾向があらわれ、人気を失った。35年には「やまと新聞」が京浜5美人投票を募集した。5美人とは、芸妓、半玉、娼妓、女中、むすめ義太夫である。芸妓では吉原の松川家「とび助」が、11万5000票を獲得してトップになった。

bi01シロウト女性を対象とした美人コンクールは、ようやく明治41年になって、「時事新報」が「全国美人写真コンクール」というのを行なっている。応募条件は「良家の淑女にして、いやしく、も容色をもって職業の資となすがごとき、品下がれる者にあらず」となっており、1位は小倉市長の娘、末広ヒロ子が獲得したが、学習院女子学部に在学中だったため、乃木校長のゲキリンにふれ、あっさり退学処分となってしまった。

大正から昭和にかけても、この種の写真投票が流行したが、戦争ですっかり影をひそめた。戦後は22年の「ミス東京」、28年の「ミス・カーニバル」が有名だが、このほか「ミス脚線美」「ミス・オッパイ」「ミス逆立ち」のようなゲテ物も、20年代後半に大はやりだった。

トラックバックURL

コメントする

名前:
URL:
  情報を記憶: 評価:  顔   星
 
 
 
Recent Comments
Profile
QRコード
QRコード
Free

livedoor 天気
livedoor Readerに登録
Syndicate this site
livedoor Blog(ブログ)