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中国・甘粛省蘭州のイスラム学校

   







 物語の海で方向を見失った子どもたちも、語りの技術を覚えれば泳ぐことができる。それは物語を構成し、理解し、検証し、見通し、展開、結果を見つけ出す方法である。それを教えるべき学校でその方法が失われていることを、ブルーナーは「教育という文化」の中で語っている。語りの力の根源は習慣(仕方、作法)であり、家族、親戚、隣近所の習慣が壊れ、それを補うべく作られた学校も、受験勉強という薄っぺらな習慣しかない。習慣を組織していた大きな物語はもはや存在しない。それでもそれにすがりたい人は多数いる。

 語りの仕方とは歌や演劇や作り話などでもある。重要なのはその内容ではなく形式であり、なぜかはわからないが、今、音楽、映画、小説、絵画など異なる世界を見せてくれる媒体の形式が力を失っている。マスコミ(巨大な媒体)の落ち込みはひどい。さらにそれぞれの個人も物語を紡ぐ力も弱くなっている。
 
 「1つの集団の歴史をここで挙げよう。8人から12人より成る前青春期の親密集団である。14歳の時に1人が「失調」を起した。かすかな物音が聞きのがせないというのである。もう一人が夏休みいっぱい彼の家に通って、不審な物音がするたびに1日に数十回でも階段を登ったり裏木戸を開けたりして、確かめに行った。「普遍症候群」には無効愚劣とされる行為であるが、それが奏功したのか否か症状は1カ月で消失し、再出現しなかった。
 もっとも魅力的人物として友情をもとめられた人たちは、いくぶん分裂病親和的な人である。彼らはよき聞き役であり、聞き流し役でもあった……いくぶん分裂病親和的な人への憧憬とそれによる呪縛が、この集団の青少年期におけるかくれた凝集力の一つであった可能性がある。」 

 以上は中井久夫 の「治療文化論」の一節。「個人症候群」の着想が彼の人生の一部から発していることを示している。狐憑きは「文化症候群」で、欧米的なDSMのマニュアルが「普遍症候群」。狐憑きは「比較的直接に理解しうる。激烈だが短期的かつ可逆的な過程よりなる比較的良性の病いである。」
 だがこれは「治療集団」であり、現在の日本にあるかどうかわからない。欧米が普遍症候群なのは個人主義が基礎にある社会であり、歴史的に時間と空間の基準を世界的に広めた社会だからこそである。さまざまな普遍的概念をふりまいたのは欧米。現在の日本では、地縁・血縁は消失しても「治療集団」の可能性はあるのか。普遍症候群に飲み込まれてしまおうとしてしているようにも思える。