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 養老孟司の方法は意識(概念)・脳内と感覚・脳外の二分法が基礎にある。これはレヴィ=ストロースの概念と知覚の二分法に似ている。「概念が現実に対して全的に透明であろうとするのに対し、記号の方は現実の中に人間性がある厚みをもって入り込んでくることを容認し、さらにはそれを要求することさえする。」記号は具体的なモノとして、現実の只中にあり、感じることができる。

 科学者は無限の容量をもつ「概念」を扱う。現実の拘束を乗り越え、道を開こうとする。クオリアの問題でも、脳内の物質的解決を目指そうとする。「赤」は網膜に映り、神経系で伝えられ脳内でどのように処理されるのか、解明されるのであろうか。 生命がDNAなど遺伝物質で形成されていることはわかっている。だが、アミノ酸などの物質をいくら集めても、生命は作れない。同じように感覚と脳内神経系は階層が異なる。意識は神経系の電気信号に物質的基礎を持っているようだが、それを刺激したら赤のクオリアがうまれてくるメカニズムはわかっていない。  

 動物でも昆虫でも視覚を持ち、単純ではあるが色彩を区別している。それだからこそ蝶々が花に集まる(これは視覚だけというより、嗅覚、聴覚、触覚など共通感覚的な機能がありそうである。人間も同じ)。昆虫での実験は人道上?可能だから、視覚のメカニズムは解明されているだろう。しかし、ヒトと同じく、色彩は見えているのか。メカニズムはわかっていてもその視覚的な感覚はわからない。昆虫は言葉を話さないからではない。言葉が通じるヒト同士でも本当に同じ赤色が見えているかはわからない。わかりやすく言えば感覚は主観であるからだ。

 主観だけでは社会はつくれない。共通の了解が必要、その最たるものが言語であろう。主観・感覚・芸術が一方にあり、客観・意識・科学が他方にあり、コインの表裏であり、相互に不可欠である。純粋に概念だけで構成されている科学は数学だけである。物理学でも実験でモノとして感覚的に見れるものにしないと確証されない。理系的なデザイン・建築でも頭のなかで考えているときは概念であるが、完成させるには感覚的なモノにしないといけない。ブリコラージュと科学の境目は曖昧である。

 科学的概念は無限であるがやはりその時代の様々な 制約をうける。その点ではありあわせの材料でモノを作るブリコラージュと似ている。でも違う、それはレヴィ=ストロースでも翻訳困難と言った「It addresses somebody」に表れている。冒頭に引用した人間性をそのまま受けとめよう。しかし科学的概念は人間には向けられていない。そこに危うさがある。