2005年10月06日

連載ルワンダ史第4回〈植民地期 前編〉

 1895年、ルワブギリ王が世を去る。その後継者争いの混乱に乗じたのが、いち早くルワンダ入りしていたドイツだ。ドイツはツチ・エリート層と手を結び、1897年、ルワンダはブルンディとともにドイツ総督領となった。
 ドイツがルワンダに割ける人員はごく限られていたため、現地の支配者を介しての間接統治の形式が自然と採用された。ツチのエリート層はドイツ人の力を借りながら、中央集権化、周辺国の併合をさらに押し進めた。ドイツの支配の終わりまでに、ルワンダの領土はほぼ現在と同じ大きさにまで拡大した。
 
 だが、ドイツの支配は短かった。本格的にルワンダ社会が変容を遂げるのは、第一次世界大戦後にドイツを引き継いだベルギーの手によってである。

 〈フツとツチとは何か?〉の回に述べたように、ハム族神話はサハラ以北の大半と大湖地方(大小の湖を有し、文化的に共通性のあるウガンダ・ルワンダ・ブルンディ・コンゴの最東部など)を包含していた。ヴィクトリア湖の「発見者」であるイギリス人ジョン・ハニング・スピークは、現在のウガンダにあった王国に暮らす「半セム的ハム族」と「ニグロ」について自著で長々と述べたてた。
 それなのに、なぜルワンダ(とブルンディ)だけがこの人種思想の破壊的な影響を受けることになったのだろうか? おそらくその主因は、ルワンダにおいてハム族神話が単なる人種思想であるにとどまらなかった点にある。ハム族神話は植民地体制に組み込まれ、優越人種であるとの理由でツチは数々の特権を享受したのだ。
 
 ハム族神話を広めるにあたって独占的な役割を果たしたのがカトリック教会だった。
 ドイツ、ベルギーの植民地官僚は任期が終われば植民地を去るが、教会の人間ははるかに長くルワンダに滞在する。住民をキリスト教化するという使命の都合上、現地の言語や習慣に通じる必要もある。つまるところ、カトリック伝道団こそルワンダ最初の民族学者であり、人類学者だったのだ。こうした事情があり、植民地当局はルワンダ問題の権威であるカトリック教会の知恵に頼った。
 だが、神父たちのルワンダ理解は当時の人種思想に首まで浸かっていた。早くも1902年の時点で、のちのルワンダ司教レオン・クラッセは「アーリア人とセム族(ユダヤ人)の特性を組み合わせた優越人類の」ツチについて語っている。カトリックの神父たちは様々な著述や発言を通して、〈フツとツチとは何か?〉で述べたような人種思想を練り上げていった。ルワンダを文明化・キリスト教化する使命を成し遂げるにはツチの手を借りるほかない。これが教会の結論だった。
 
 理論付けられたツチの人種的優越を現実に反映させるために2つの方法が採られた。教育と地方行政である。
 
 教育もまたカトリックが独占していた。1905年ホワイト・ファーザーズがルワンダに西洋式の学校を開校して以来、いくつもの学校がルワンダ各地に開かれていく。だが、学校に入学を許されるのはほとんどがツチ、とりわけ首長の息子に限られていた。
 高等教育はツチの独占状態だったといってよい。たとえフツとツチが同じ学校で学ぶことがあっても、ツチはフランス語で教育を受けたのに対し、フツはスワヒリ語だった。教育を通して、ヨーロッパの人種思想はルワンダ人にも浸透していった。

(後編に続く)

gomadintime at 23:22│Comments(0)TrackBack(0) ルワンダの歴史 

トラックバックURL

この記事にコメントする

名前:
URL:
  情報を記憶: 評価: 顔