ルワンダの歴史

2006年01月10日

連載ルワンダ史第15回〈凶兆〉

《ブルンディの悲劇》
 ルワンダに“最終解決”へ向けて最後の一歩を踏み出させたのは、(またしても)隣国ブルンディでの政治展開である。

 72年の大虐殺以後、軍政下にあったブルンディは、数度の政変を繰り返しながら徐々にフツ・ツチ融和の道を進んできた。87年にクーデターで政権を奪取したピエール・ブヨヤ少佐も、国民和解と民主化を方針として掲げ、憲法の制定、政党結成の解禁などの政策を打ち出した。
 こうした流れの中で、93年6月に国際機関の監視のもと、ブルンディ独立後初の民主的で公正な選挙が行われた。この結果、メルヒオール・ンダダエが勝利し、ブルンディ初のフツ大統領となる。さらに国民議会選挙では、ンダダエが党首を務めるFRODEBUが81議席中65議席を獲得した。ブヨヤはただちに選挙結果を認め、大統領の職を辞するという並はずれた度量をみせた。ンダダエが組閣した内閣はフツが15名、ツチが7名、首相にツチを任命するなど、ブヨヤの融和路線を踏襲する穏健なものだった。
 この大規模な政治的転換に恐れをなしたのが、ツチがコントロールする旧権力の牙城、ブルンディ国軍である。選挙前に民主化後の軍の役割について会議を催すなど、ブヨヤは調停に努めてはいた。だが、肥大化した軍の影響力の縮小は民主化に不可欠であり、ンダダエ政権と国軍の対立は避けられなかった。
 93年10月、ツチの過激派将校のグループがンダダエと数人の閣僚を拉致し、殺害する。長年の苦闘の末に、ようやく芽生えた希望を無残にも摘み取られたフツたちの怒りはすさまじかった。FRODEBU党員や普通の農民は暴徒と化し、ツチを片端から殺戮した。ブルンディ国軍は「秩序の回復」にすぐさま乗り出した。この全国的な争乱で約3万人のツチ、約2万人のフツが殺された。30万人のフツが国境を越え、ルワンダへ逃げ出した。

 ブルンディの悲劇はルワンダに大きな衝撃を与えた。
 フツ至上主義者たちにとって、この出来事はツチの邪悪さと狡猾さの反駁しがたい証拠となった。RPFのツチが本当に望んでいるのは、権力の掌握と少数派支配の樹立にほかならない、というわけである。RTLMはすぐさま奔流のようなプロパガンダを放送。ブルンディからの難民は恐怖の体験をルワンダに伝え、フツ・パワーの論理に重みを付け加えた。
 野党穏健派もRPFの真意に疑念を抱いた。ンダダエと似かよった立ち位置の穏健派は、自らのよって立つ足場の不安定さをまざまざと感じた。アルーシャ協定はトロイの木馬で、最後にはRPFのクーデターが待っているのではないか? RPFとの融和に関して、穏健派の確信は揺らいだ。

 ルワンダのジェノサイドの独自性は、一般市民の大規模な参加にある。この点を考慮すると、ジェノサイド計画者の論理がそれなりに広い理解を得られなくては、計画の成功はおぼつかないはずだ。成功は、俺たちか奴らか、フツによる支配かツチの支配か、殺るか殺られるか、という二分法を広汎な層に納得させられるかにかかっていた。何より恐怖が鍵だった。ブルンディの虐殺はフツ・パワーに必要なものを与えてしまった。
 また、ブルンディから逃げ出してきたフツ難民は、ルワンダの国内難民同様、フツ・パワーの主張に強い理解を示した。一定数の難民は実際にフツ・パワーの“民間自衛”プログラムに組み込まれ、ルワンダ南部の難民キャンプで、訓練と武装が受けていた事実が確認されている。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)は難民の武装を認めておらず、これに抗議したが、効果はなかった。

 ブルンディの悲劇は別の意味でもルワンダ情勢に大きな影響をもたらした。援助諸国はブルンディの民主化にプレッシャーをかけてはいたものの、殺戮が終わったときに首謀者や実行犯の処罰を求めはしなかった。ルワンダのフツ・パワーは教訓を得た。おそらくルワンダで同じような殺戮を繰り広げても、大した罰を受けずに済むだろう、と。
 
 93年11月に国連平和維持軍が到着。12月末にはRPFの主要メンバーも到着し、アルーシャ協定の履行を遅らせる理由はもう無かった。だが、分裂した野党は統一した決断を下す能力がなく、フツ至上主義者はデモを繰り返した。
 アルーシャ協定で取り決められた権力分配は、結局何一つ実行に移されることはなかった。

《西欧諸国と国際機関》
 8月に結ばれたアルーシャ協定の取り決めにしたがって、国連平和維持部隊がルワンダに展開することになった。その国連ルワンダ支援団(UNAMIR)の指揮をとるのは、カナダ軍少将ロメオ・ダレール(『ホテル・ルワンダ』のオリバー大佐のモデル)である。
 
 ダレールは、前回述べたような協定をめぐる情勢の危うさについて、ほとんど知らなかった。国連は既に1993年4月の時点で、ジェノサイドの可能性をはっきりと警告する報告書を出していた。にもかかわらず、この報告書がダレールに届けられることはなかった。ミシュランの道路地図、アルーシャ協定の写し、百科事典のルワンダ史の項目──ダレール一行がルワンダについて得た情報は以上で尽きていた。
 
 ダレールはルワンダの状況について乏しい知識しかなかったが、アルーシャ協定の履行を支援するには、少なくとも5000名の兵士が必要になると考えていた。だが、アメリカは当時ボスニア、ソマリア、ハイチに米軍を派遣しており、これ以上は兵士も金も出す気はなかった。また、当時の国連は世界各地の17のミッションに70000名の平和維持軍を派遣しており、コフィ・アナン率いる国連平和維持活動局は過重任務に頭を痛めていた。ルワンダの優先順位は低かった。
 結局、ダレールは2500名に要求を削った。安保理はゴーサインを出した。
 
 安保理でUNAMIRが承認されたのとほぼ同時期に、ソマリアで重大な帰結をもたらす出来事が起きていた。
 91年から続く内戦のため、ソマリア国内では飢餓が進行し、国際的な食料援助が行われていた。だが、国内の武装勢力が食料を略奪、売買し、援助物資は必要な場所に届かず、餓死者が続出した。こうした状況を前に、人道活動の援護を目的とした国連平和維持軍の派遣がアメリカ主導で開始される。
 93年5月、ソマリアに平和維持軍として派遣されていたパキスタン兵士24名が、アイディード将軍率いる反抗勢力の1つに待ち伏せを受け、殺害された。平和維持軍が反抗勢力の武装解除を行おうとした矢先の攻撃だった。この攻撃に対し、米軍はアイディード将軍の氏族を攻撃することで応じる。
 そして10月3日、映画『ブラックホーク・ダウン』で広く知られるようになった作戦が実行される。ソマリアの首都モガディシュでアイディード派要人を拘束しようとした米軍特殊部隊は、予想外の激しい抵抗に直面した。ブラックホーク・ヘリはRPGで撃墜され、最強の伝説に包まれた特殊部隊隊員が19名死亡した。特殊部隊隊員の死体がモガディシュの街路を引き回される模様はテレビ放映され、アメリカの威信を大きく傷つけた。クリントン大統領は国内で猛烈な批判を浴びた。
 クリントン政権はそれまで国連の軍事的支援に積極的だったが、この失敗により態度が一変した。「大統領決定指令25」(PDD-25)がただちに起草され、軍事力行使の非常に厳格な基準が定められた。武力行使を許されるのは、アメリカの枢要な国益が関与している場合のみに限定されることが決められた。米軍と国連平和維持活動の短い蜜月は終わった。
 
 93年11月、ブルンディでの暗殺とモガディシュの戦闘により活動環境が大きく変化するなか、ダレール率いるUNAMIRはルワンダに到着する。UNAMIRの中核を占めていたのは練度の高いベルギー人兵士(400名)で、そのあとにバングラデシュ(1100名)、ガーナ(800名)が続く。
 上述の通り、ダレールはルワンダの状況について知識はほとんどなく、平和維持軍には情報収集の能力はない。だが、ルワンダの不穏な状況にダレールが気づくまでに、大して時間はかからなかった。政治的暗殺が幾度も発生していた。大統領親衛隊のメンバーが群衆を扇動し、協定の履行を妨害していた。フツの上級将校の穏健派から殺戮計画の存在を警告する手紙が届いた。RTLMは、UNAMIRがツチの「同調者」だとこき下ろしていた。
 
そして94年1月、匿名の情報提供者から驚くべき情報が届く。この情報提供者は元大統領親衛隊隊員で、現在はインテラハムウェの訓練を行っているという。国連本部に送られた通称「ダレール・ファックス」(原文(PDFファイル))にまとめられたこの情報は、概略以下のようなものだった。
 
・インテラハムウェは「自衛」が目的だとされていたが、ここ数ヶ月で本当の計画が明らかになってきた。
・情報提供者と同僚は各地のツチを全員リストアップするよう命じられた。目的はツチの絶滅ではないかと思われる。自分のところの人員だけで20分間で1000人のツチを殺害できる能力がある。
・情報提供者はRPFを憎んではいるが、民間人の殺戮は認められないと考えている。
・民兵はベルギー兵を挑発して、多数を殺害する計画である。これにより、ベルギーをルワンダから撤退させる。これが第一段階である。
・ハビャリマナは政府や軍内部に多数存在する過激派をコントロールできていないのではないかと思われる。
・インテラハムウェはこれまでマチェーテ(山刀)やマス(釘を埋め込んだ棍棒)などの伝統的武器しか持っていなかったが、AK-47や手榴弾などがいきわたりはじめている。
・ルワンダ全土にそうした武器を隠した秘密の集積地がある。情報提供者はそのいくつかに案内する用意がある。その代償として、パスポートと家族の保護を要求している。
 
 罠の可能性はあったが、ダレールには十分根拠のある情報に思えた。それに、アルーシャ協定の違反である武器集積地を押さえるのは、UNAMIRの目的にも適っている。「意思あるところに道は開ける。やろうぜ!」ダレールはファックスの最後に書き付け、国連本部に送った。
 国連にその意思はなかった。「UNAMIRに付託された権限の外」であるとして国連平和維持活動局はダレールの武器集積地急襲計画を却下した。だが、国連平和維持活動は「自衛権を持ち、これには任務を遂行するうえでの障害を取り除くための先制攻撃も含まれる」とは、アナン自らの言葉だ。
 結局、国連には襲撃の結果生じるであろう予測不可能な事態に応じる余力も気概もなかったのだ。ソマリア直後の時期にあって、平和維持活動は防戦を強いられていた。フランスやアメリカとの対立を恐れ、この情報が安保理の議題にのせられることさえなかった。
 武器集積地急襲の代わりにダレールが本部から求められたのは、平和維持部隊の「透明性」を維持するため、協定違反の事実をハビャリマナに知らせることだった。情報提供者からの連絡は途絶えた。

 ダレールがアメリカ、ベルギー、フランスの大使に情報を伝えると、3人はそれぞれの政府に報告し、対応を協議すると言明したが、情報の内容に驚いていないようだった。こうした情報は周知の事実を確認しただけだったに違いないとダレールは感じた。
 事実、上述の三国は、情勢の著しい悪化と切迫した暴力の兆候について、ある程度の知識をすでに得ていた。
 アメリカについては、93年1月の時点で、CIAの報告書が大規模な暴力行為の可能性を警告している。さらに同年12月、4000万トンの小火器がベルギー経由でポーランドからルワンダへ流れ込んでいることが、CIAの調査で明らかになる。停戦中の国としては驚くべき量である。94年1月、アメリカ政府の情報分析官は、ルワンダの紛争が再開すれば「最悪のシナリオだと50万人が死ぬ」と予測した。
 ベルギーもルワンダの危険な情勢を十分知悉していた。ある外務省官僚は94年2月、情勢の危険性を表現するのにジェノサイドという語をためらわず用いている。ルワンダに人員を派遣しているため、ベルギーはUNAMIRの権限強化を求めるなど状況の改善に努力したが、成果は得られなかった。
 フランスはその立場からして、当然上記2ヶ国以上の情報を得ていたはずである。前ルワンダ大使マートルは、93年10月の時点でジェノサイドは予見されていたと語っている。だが、そうした知識は特段生かされることもなく、フランスは従来の外交路線を踏襲し続けた。

 こうしてダレールは要人暗殺や民兵の武装をただ見守ることしかできなかった。ダレールは2月23日に書いている。「政治的議論の時間は尽きようとしている。セキュリティ面でわずかな火花でも散れば、カタストロフが起きるだろう」

《大統領機墜落》
 3月に〈カングラ〉は奇妙な記事を掲載した。記事によると「ハビャリマナは3月中に殺される」というのだ。それも裏切り者のフツの手で。この予言は実現しなかったものの、フツ・パワーと大統領のあからさまな決裂と、渦巻く陰謀を露わにしている。ついで4月3日、RTLMは3日後に「ちょっとしたことが起こる」と再び予言めいた発言を行った。

 その4月6日、ハビャリマナはタンザニアの首都に大統領機で向かった。ダルエスサラームに周辺諸国の首脳クラスが一堂に会した。主要議題はブルンディ情勢についてだったが、当然ルワンダにも議論は及び、ハビャリマナはアルーシャ協定の不履行を厳しく咎められた。ンダダエの後任に就いたフツのブルンディ大統領ンタリャミラまで、ハビャリマナに厳しい言葉を浴びせた。
 会談が終了すると、ンタリャミラはハビャリマナの大統領機に同乗を願い出た。大統領機のファルコン50ジェットはミッテラン仏大統領からの贈り物で、ンタリャミラの乗ってきたプロペラ機とくらべ、乗り心地ははるかに快適である。ハビャリマナは同乗を承諾し、首都キガリに機を向かわせた。
 現地時間の20時30分、空港に近づく大統領機目がけて、対空ミサイルが2発発射された。機は直撃を受け、墜落、炎上。搭乗者は全員死亡する。
 
 この墜落がジェノサイド開始の合図となった。


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2006年01月06日

連載ルワンダ史第14回〈アルーシャ協定〉

《2つの流れと大統領》
 前回と前々回で見たように、ルワンダ国内には和平派と強硬派の2つの流れが存在していた。では、最高権力者であるハビャリマナはどちらに与していたのだろうか?
 大統領の態度は、控えめにいっても一貫性のないものだった。92年7月には軍指導者層に存在する強硬派の排除を新内閣に依頼するなど、フツ至上主義者と距離を取る動きもみられた。その一方では、同年12月、ハビャリマナの地元ルヘンゲリでの演説で、休戦協定など「政府が尊重する義務などない紙クズ」だと言い放った。
 この種のどっちつかずの対応により、ハビャリマナが何を狙っていたかは定かではない。援助諸国の目もあり、民主化を行わないわけにはいかない。しかし、RPFと野党に力を与えすぎれば自分の権力が危うい。そこで、両者のバランスを取ることで時間稼ぎをし、危機をやりすごそうとしたのかもしれない。だが結局、野党和平派とフツ至上主義者双方の大統領に対する信頼を失わせるだけの結果となったように思える。
 
《RPFの再攻撃と国内難民》
 休戦協定が結ばれたあとも、RPFと政府の交渉は継続し、93年1月には権力分配の協定が結ばれた。フツ・パワーはこれに猛反発し、民兵組織や兵士、農民を動員して北西部で数百人を殺戮した。
 93年2月、RPFは休戦協定を破り、ブユンバ県を攻撃する。引き続く虐殺を止めようとしたのだと公式には説明されているが、虐殺は一週間以上前に終わっていた。虐殺に対する怒りも当然あっただろうが、一向に進展を見せない政府との交渉に業を煮やした示威的作戦というほうが実情に近いと推測される。
 給料の未払いと新兵の大規模な加入で士気と練度の落ちていたルワンダ軍は、なすすべもなく潰走した。RPFはこの攻勢で占領地域を2倍にし、首都キガリまで30kmまで迫ったところで、再び休戦に応じた。首都を攻撃しなかったのはフランスとの直接対決の可能性を避けたためともいわれる。
 
 この攻勢は、振り返ってみれば戦略的に失敗だった。それまで野党は、武力征服を狙う封建主義者RPFというフツ至上主義者の非難をたわごとだと退けてきたが、その考えに強い疑念が差し挟まれる形になった。また、はじめてRPFによる数百人単位の報復的フツ殺害が報告された。フツ至上主義者は、RPFの“ジェノサイド”により4万人が殺戮されたとメディアで盛んに喧伝した。
 さらにこの攻撃により、決して一枚岩ではなかった主要野党内の対立は決定的となり、「穏健派」と「フツ・パワー派」に分裂をはじめた(PSDはわりあい無傷だった)。穏健派は現体制に反対し、RPFと共闘できると考えた。これに対しフツ・パワー派は現体制に反対する点は同じだが、RPFを不倶戴天の敵とみなした。穏健派野党勢力がRPFと交渉をただちに再開したが、MRND内強硬派、CDRと野党のフツ・パワー勢力は対抗して統一戦線を設立した。また、一般市民の自衛プログラムやインテラハムウェの武装化が加速したのもこの攻撃以降である。マチェーテ(山刀)の輸入も開始され、最終的にフツ成人男子の3分の1に行き渡ることになる(約60万本)。
 さらに、CDRはプレスリリースで、RPFがフツのジェノサイドを計画していると警告し、一般市民の自衛を呼びかけた。「鏡像の告発」の手法を思い出すと、フツ・パワーの心中に何が渦巻いていたのか理解する助けになるだろう。

 RPFは軍事的には勝利を収め続けたが、その勝利を政治的前進に変えることができなかった。RPFの占領した地域に住んでいたフツは、「ツチの封建支配」を恐れて一斉に逃げだした。80万人が住んでいた地域に、たった1800人のフツ農民しか残らなかったと伝えられている。そのため、RPFの目標に掲げられたような公平な統治を実現し、フツの一般市民がツチに対して抱く不安と恐怖を払拭する機会は、RPFに与えられなかった。
 実際のところ、アフリカにはびこる他の反政府組織と比較すると、これまでのRPFの抑制は驚くべきものといえた。兵士個人による少数の復讐的殺人はあったにせよ、RPFが殺人に組織的関与をしていた例はほとんどない。RPFによる物資の「接収」は行われたと思われるが、個々の兵士の略奪や強姦は厳罰で処された。だが、この種の「何かをしないこと」の美点は伝わりにくいものである。
 一方、RPFの侵攻によって発生した国内難民の問題は深刻だった。92年の時点で30万人を数えていた国内難民は、93年2月の大規模攻勢で90万人弱にまで急増した。キャンプで苦しい生活を送る国内難民たちは自然とRPFに恨みを抱き、フツ・パワーの主張に理解を示した。実際にインテラハムウェや軍に加わる者も多かった。

 加えて、経済的状況はこの間も悪化し続けた。防衛費は戦争前の2.8倍に増大し、厳しい予算を圧迫した。街には失業した若者が溢れ、軍や民兵組織に加入した。さらにRPFの大攻勢で穀倉地帯のブユンバ県が占領されると、食料供給ががた落ちし、飢餓が生じた。

 悪化した経済は軍にも影響を与えた。ルワンダ国軍はRPFの侵攻当初、5200名を数えるにすぎなかった。ルワンダ国軍は〈フツ革命〉後に新設されたため、革命の正嫡子としての誇りを持ち、アフリカの軍隊としては相当高い規律を維持していた。だがRPFの侵攻後2年間で10倍に増員されると、兵士の質は急低下した。さらに予算不足から給料が滞ることも稀ではなくなり、これが質と士気の低下に拍車を掛けた。

《再びフランス》
 ここでフランスに再び目を向けよう。このあいだ、フランスは何をしていたか? 
 ハビャリマナ一派の全面的、無条件、無批判の支援、これである。ブゲセラの虐殺の知らせがニュースになると、OECD諸国の外交団が暴力の増加についてハビャリマナに懸念を表明したが、フランス大使ジョルジュ・マートルは参加を拒否した。キガリの外交官サークルでは、マートルは駐ルワンダ・フランス大使ではなく、駐フランス・ルワンダ大使に違いないというジョークが交わされた。
 
 武器や弾薬は、仏大統領府の高官の直接命令によってキガリに届き続けた。行政上の問題により武器輸送が滞ると、フランスはエジブトや南アフリカを仲介役にして武器供給に遅れがでないよう取りはからった。
 フランス軍は「在住フランス人の保護」を名目に駐留を続けたが、はるかに積極的な役割を果たしていた。ゲリラ戦の指揮から、増加する一方のルワンダ軍や民兵の訓練まで請け負っている。
 かつては精強で規律正しかったルワンダ軍も、新兵の急増や給料の遅滞によって質を大きく低下させていた。また、住民の「自衛」のため、インテラハムウェやインプザムガンビなどの民兵の訓練がルワンダ政府から要求されると、フランスは十分な選別もなしに新兵や民兵を訓練し、図らずもジェノサイドの実働部隊を育て上げてしまう。
 92年頃から、フランス人ルワンダ学者やジャーナリストがフランスの不明瞭な役割に警告を発したが、フランスは耳を留めなかった。

 フランスは「フツ過激派の不作法と乱行にイメージが汚されてはいるが、穏健民主派」(仏外交筋の談話)であるハビャリマナを支援しているつもりだったかもしれない。だが、当の過激派はフランスを自分たちの味方だと考えていた。〈カングラ〉がミッテラン大統領の写真の下につけたキャプションのとおり、まさに「困ったときの友こそ、真の友」であると。

《アルーシャ協定》
 RPFの2月攻勢以降、政治的対立はとどまるところを知らず、ルワンダの治安は悪化の一途をたどった。政治的暗殺が常道となり、暴力事件は毎日のように発生した。兵士の乱行が猖獗を極め、ハビャリマナが公に譴責しなければならないほどだった。
 野党穏健派の何人かは身に迫る危険を(正しくも)感じ、国外に逃亡した。7月、MDRの穏健派メンバー、アガート・ウウィリンギィマナが首相に選出され、新内閣組閣に向け努力したが、他の閣僚の選出は杳として進まなかった。

 国内の事情はこのように緊張に満ち、RPFとの協定調印は先延ばしにされた。遂に我慢の限界に達した援助諸国は最後通牒をつき付けた。8月9日までに協定に調印しなければ、援助を停止するとハビャリマナに通告したのだ。この結果、1993年8月4日、アルーシャ協定がようやく調印された。

 アルーシャ協定の主な内容は以下の通りである。

・軍の40%、士官の50%をRPFが占める。
・内相はRPF。
・国会は70のうち11議席、21の閣僚のうち5がRPF。閣僚の残りはMRNDが5、MDRが4、PSDが3、PLが3、その他が1。
・国内難民を含めた全難民の帰還の権利
・国連平和維持部隊の派遣
・旧政権の恩赦条項を認めず

 しかし、平和と和解をもたらすはずのアルーシャ協定は、実質的に暴力的解決以外の道を閉ざしてしまった。
 失敗の理由は大きく3つある。1つ目は軍にRPFが占める割合が大きすぎる点である。最初、一般兵士の20%が政府側から提案されていたが、結局40%で協定は結ばれた。数の膨れ上がったルワンダ軍にとってこれは大量解雇命令も同然であり、軍が唯々諾々と従うとは考えられなかった。
 2つ目は、ハビャリマナら閣僚の恩赦を認めなかった点である。内閣の3分の2が賛成すれば、大統領以下を訴追できるとしたのだ。この結果、野党の穏健派とフツ・パワー派の票をめぐって、熾烈な争いが繰り広げられた。
 そして3つ目にして最大の理由は、CDRを協定から完全に排除した点にある。CDRには暫定内閣と国会に一席も与えられなかった。この決定に関して、アルーシャ協定に関わったタンザニア、ウガンダ、アメリカすべてがRPFに警告した。「強硬派をテントに入れなくては、連中がテントを燃やしてしまう」。しかし、警告はRPFに容れられなかった。

 結果、軍とCDRはアルーシャ協定の履行を全力で妨害することになる。議席と閣僚の椅子をめぐって野党内の穏健派とフツ・パワー派の争いも深刻になり、連立内閣は結局最後まで組閣されることはなかった。


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2006年01月02日

連載ルワンダ史第13回〈フツ・パワー〉

《フツ至上主義》
 フツとツチの和解を掲げるハビャリマナ時代には目立たなかったものの、ルワンダ政治の底流として常に存在していたもの。それは、フツのみがルワンダの真の国民だとするフツ至上主義だ。フツ至上主義者──やがてフツ・パワー、あるいは単にパワーと呼称されるようになる──にとって、RPFの侵攻は自らの主張の正しさの証明であると同時に、フツ至上主義のイデオロギーが再び表舞台に立つ好機だった。
 
 RPFの侵攻と前後して、過去の人種に基づいた言説が復活した。ツチはハム族あるいはナイロート系(ナイル川に由来する名前)であり、バンツー系のフツとは根本的に異なる。バンツー系のフツこそが、中央アフリカの正当な継承者であり、ルワンダにツチの居場所はない。ルワンダの国民として認められるのはフツだけである……。

 こうした言説は、かつての人種思想の単なる回帰ではなく、政治的武器だった。RPFの脅威は、軍事的であると同時に政治的なものだったからだ。RPFの政治プログラムに掲げられた独裁・腐敗の終結、政治的平等、難民帰還の権利は、どれも正当な政治的要求といえた。フツ至上主義者にとって重要なのは、RPFを正当な政治的アクターとして認めないことだった。フツ/ツチの“部族対立”は、この目的にうってつけだった。
 まず、RPFは本質的にツチのグループであるとされる。そしてツチであるかぎり、本当の目的はただ1つ──かつてのツチ少数派支配、封建体制への復帰である。こうしてRPFは60年代の王制派の“ゴキブリ”と同一視される。RPFの響きのいい政治プログラムは、狡猾なツチが正直者のフツを騙そうとしているにすぎないというのだ。
 
 では、ツチはツチであるかぎりどれも一緒だというなら、ルワンダ国内のツチはどうなるのか? もちろんRPFの同調者であり、内通者だということになる。国内のツチの85%はRPF内通者であるとみなされた。また、フツ至上主義者によれば、ルワンダの富裕層の70%はツチである。また、ツチは国連や人権団体に潜入し、ルワンダの悪いイメージを広めている。そして、自分たちが入り込めないところには、ツチの女を送り込んで、フツの男を誘惑していると難じた。

 RPFの侵攻からしばらくして、野党勢力が力を得てくると、“フツの連帯”も重要課題となった。フツが連帯し、多数派を維持していれば、少数派であるツチに負ける理由がない。フツに分裂が起こるのは、金で買われたか、ツチの女に誘惑されたかしたフツが、ツチの同調者になっているからだ。それにフツだと偽っているツチも実に多い。フツを名乗っている野党にも、実際はツチの連中が大勢いるに違いない。正体を隠したまま権力を握り、ツチに国を売り渡す魂胆だろう。こうしたプロパガンダが繰り返され、野党の信用を傷つけようとした。

 上述のようなプロパガンダを広めるにあたっては、主に新聞などの出版物とラジオが利用された。
 新聞でもっとも有力だったのは〈カングラ〉(目覚めさせよ)だった。発行者のハッサン・ンゲゼはプロパガンダ作者としての才能を遺憾なく発揮し、「ゴキブリ(=ツチ)は蝶にはなれない」、「フツの十戒」など印象的な記事を次々とものした。
 ラジオは、最初国営の〈ラジオ・ルワンダ〉がプロパガンダ放送を担っていたが、野党の改革により情報局のフツ至上主義者が罷免されると、フツ至上主義者が所有する〈千の丘の自由ラジオ〉(RTLM)が93年8月に開局された。RTLMは、国営ラジオのような堅苦しさのないインタラクティヴなラジオ局として、ただちに大きな人気を獲得した。人気歌手がフツ・パワーを唱道する合間に、DJがウィットに富んだ人種ジョークを飛ばす。リスナーはリクエストや意見、街の噂などを寄せる。あまりに魅力的であるため、RPFの兵士まで耳を傾ける始末だった。

 フツ至上主義者は、タイミングを計算した虐殺も政治的道具として用いた。この時期のどの虐殺も政治的、軍事的展開を追うようにして実行されている。90年10月キビリラの虐殺はRPFの侵攻10日後である。91年1月にはRPFのルヘンゲリ攻撃の報復として、ブゴグウェで約1000人のツチが殺されている。
 こうした虐殺の諸手順はジェノサイドでも繰り返されるので、ここで流れを簡単に見ておくことにする。
 まず、周辺の農民を集めて政治集会が開かれる。集会を仕切るのは、農民がよく知っている地方当局の人間であるが、たいてい首都から代表者が来て、集会に公的性格を付け加える。集会では、殺す相手がRPF(つまりツチ)の「同調者」であることが周知徹底される。ツチによるフツ殺害計画やRPFとの協力の証拠、秘密の武器庫の発見などの報告がある。
 十分に教育が済むと、やがてキガリの内務省か、各県の県知事から命令が下る。フツの農民は「特別な」共同労働に呼び集められる。この共同労働を指す単語ウムガンダは、慣習になっていた強制労働を指す語と同じである。農作業のボキャブラリーはほかでも用いられる。市長は農民に「藪刈り」を行う必要があることを告げる。「藪」は隣人のツチである。「雑草を根こそぎにする」という表現も使われている。
 後半の虐殺になるほど、民兵組織などの役割が大きくなっていくが、普通の農民も一定の割合で最後まで参加していた。

 プロパガンダに信憑性を植え付ける手法についても触れておく。
 ブタレ県で見つかった文書「支持者拡大のプロパガンダについての比較覚書」では、プロパガンダで大衆を操る方法が検討されている。この文書のなかで著者は、プロパガンダの理念について述べたあと、2つの具体的テクニックを提案している。
 1つ目が出来事の「創作」である。これは単純なテクニックで、プロパガンダに信憑性を与えるような出来事をでっちあげて、各メディアで伝えるのだ。RPF侵攻直後のキガリでの銃撃戦がそのわかりやすい一例である。他にも、武器やラジオ通信機の発見、荷物を抱えたよそ者の目撃談、殺害計画書の存在などがまことしやかに報告される。
 2つ目は「鏡像の告発」と名づけられているテクニックである。これは自らが行おうとしている行動をもとに、敵を非難する手法を指す。例えば、フツ至上主義者がこれから虐殺を行うつもりの場合は、ツチの虐殺計画が見つかったと発表する。文書の言葉を使えば、これにより「テロを行っている集団が、敵はテロを行っていると非難できるようになる」。このテクニックはまた、自衛というレトリックを持ち出すのにも好都合である。こうしたテクニックを用いることで、プロパガンダの内容はフツの一般市民に浸透していった。

 ここまでの段階では、RPFとの挙国一致の戦争体制を作るのがフツ至上主義者の目的だったように思われる。92年はじめにMRNDの青年グループを母体に結成された民兵組織インテラハムウェ(ともに立ち上がる者たち)は、もともとRPFの攻撃に対して住民を自衛させることを目的としていた。もっともフツ至上主義の思想を貫徹すれば、フツとツチの全面戦争に行き着かざるを得ないはずだが、それはあくまで論理的な可能性に留まっていたといえる。

 しかし、フツ至上主義者の策動にもかかわらず、野党は勢いを止めず、ハビャリマナは92年3月、屈辱的な妥協を行った。野党との連立内閣結成と、RPFとの和平交渉の開始を認めたのだ。この妥協によって、フツ至上主義者とハビャリマナのあいだに亀裂が生じ始めた。
 その結果、92年3月、最後の野党として共和国防衛連合(CDR)が誕生する。CDRはフツ至上主義者の党で、ハビャリマナとMRND内穏健派の弱腰に痺れを切らした過激派が結成した。CDRにとって、RPF=ツチはルワンダ=フツ国家の敵であり、ツチとの和平や権力の分割など決して許されない裏切り行為だった。CDRは、MRNDのインテラハムウェのように民兵組織インプザムガンビ(目的を同じくする者たち)を結成し、デモや野党との衝突など様々な目的に用いはじめた。
 また、同じく3月、ツチに対してフツの隣人を殺戮せよと要求する自由党(PL)のパンフレットが「発見」された。次いで国営ラジオでフツ住民への警告が5回繰り返された。こうした下準備を経て、首都の南部ブゲセラで「自衛」のための殺戮が行われた。6日間で推定で300人が殺された。今回は、敵に野党が含まれていた点が、前回2つの虐殺とは異なっていた。

《ジェノサイド機構》
 おそらく92年秋頃、フツ至上主義者の脳裏にツチ問題の“最終解決”のシナリオが姿を現したと推測されている。この頃に公的機関と平行して「ジェノサイド機構」とも言うべき対応組織が登場しはじめた。
 シークレット・サービスはラテンアメリカ式の処刑部隊ゼロ・ネットワークとして、秘密裡に再結成された。軍内では「弾丸」という名の強硬派グループが立ち上がった。MRNDのインテラハムウェ、CDRのインプザムガンビが虐殺(=「ツチに対する自衛」)の実働部隊として活動する可能性も考慮されはじめた。
 また、この頃に市長に秘密指令が出され、要注意人物のリストが作成されている。さらに軍内でもRPFの「同調者」とみなされた者のリスト作成が行われた。
 しかし「ジェノサイド機構」はこの時点では国家の命令系統を掌握しておらず、“最終解決”など、フツ至上主義者のなかでも最過激派の夢想にすぎなかった。このため、過激派も暗殺や小規模な虐殺などのテロにより、野党やRPFの譲歩と服従を引き出そうとするに留まっていた。

 この時期のフツ至上主義者の先鋭的な考えをうかがわせるものとして、MRNDの幹部レオン・ムゲセラの演説がある。ムゲセラの演説は、もっとも早い時期に公の場でジェノサイドを扇動したものとして悪名高い。この演説は録音され、各メディアに再録されて、広く知られるようになった。
 92年11月、ムゲセラはMRNDの党集会で次のように演説した。ルワンダはRPF(ツチ)の“ゴキブリ”と、野党のツチ同調者という2つの敵に征服されようとしている。国益に背く“ゴキブリ”と野党政治家たちは、法により死刑を求刑されている。法がこの罰を実行しないなら、われわれ人民が武器を取り、「クソどもを根絶する」権利がある。“ゴキブリ”についていえば、そもそも1959年に奴らを逃がしたのが間違いの元だった。奴らの故郷はエチオピアなのだから、ニャバロンゴ川に投げ込んでナイル川経由で故郷に送り返してやるべきだ。
 「なぜわれわれは待っているのか?[...]責任をわれわれ自身の手で引き受け、連中を一掃しなくてはならない。奴らを皆殺しにしろ!」と、ムゲセラは結んだ。
 
 ムゲセラの演説は時期尚早だった。野党や改革派に限らない多数の人間が、ムゲセラの演説に憤りを露わにした。元MRND中央委員会メンバーのジャン・ルミヤは公開書簡でムゲセラを激しく非難した。PLの党員で司法相のスタニスラス・ムボナムペカは逮捕状を請求した。ムゲセラは最終的にカナダに逃亡した。
 
 しかし、ほんの1年足らずのうちに、ムゲセラの演説は過激派のたわごとではなくなる。

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2005年12月30日

連載ルワンダ史第12回〈民主化と和平交渉〉

(前回書こうとして忘れていましたが、ルワンダの比較的詳細な地図にリンクしておきます。Réseau Grands Lacs、"Cartes du Rwanda"の"format PDF 164ko"を参照しています。)

《RPFの再編》
 RPFは90年11月初めまでには散り散りになり、その命運は尽きたかにみえた。急遽アメリカから帰国したポール・カガメは、建て直しに向け思い切った手段に出る。ルワンダ人離散コミュニティに集結の号令をかけると、敵の手の届かないルワンダ北西に聳える5000m級の高山地帯(ビルンガ国立公園周辺)に密かに基地を設営。寒さと病気で多数の死者を出しながらも、カガメは各地から流入してくる志願者に猛訓練を施し、精強なゲリラ軍へと鍛え上げていく。
 この結果、RPFは1991年の初めまでに5000人にまで増員する。世界各地からやってきた外国亡命者たちは平均して教育程度が高く、RPFはおそらくアフリカで最も知的なゲリラ勢力となる。上層部も一様に質素な生活を続け、アフリカの反政府組織につきものの腐敗の噂はなかった。
 
 91年1月、RPFは満を持して北西部の都市ルヘンゲリに攻撃を仕掛け、これを占領。全政治犯を釈放する。ただちにフランス軍の支援を受けたルワンダ軍に奪い返されたものの、ルワンダ全土に心理的かつ政治的なショックを与えるのに十分だった。
 これ以後も、RPFは北東のブユンバ県でゲリラ攻撃を継続していく。
 
 執拗なRPFの攻撃を前にして、ルワンダの国内勢力は、軍事的にRPFを敗北させるか、交渉し政治的妥協を行うかの選択を迫られることになった。
 
《複数政党制の開始》
 ハビャリマナとMRNDは、RPFの侵攻を理由に民主化を遅らせようとした。だが大量逮捕やプロパガンダでは、国内に渦巻く不満を抑えることができなかった。

 勢いを増し続ける国内反対派の運動と国際的圧力に負け、91年7月、ハビャリマナは複数政党制の導入を宣言する。これを受けて、いくつかの政党が正式に結成された。これら政党に共通しているのは、ハビャリマナとMRNDの一党独裁体制に不満を持つ点でのみで、すべてが“民主的”勢力とは言い難かった。ハビャリマナ体制でうまい汁を吸えず不満を覚えていた者や、この機に権力を狙う日和見主義者も含まれていた。しかし、結成された政党には、心から改革を望む民主派も確かにいた。決して、外国の目を欺くことのみを目的とした、形だけの民主化ではなかったのだ。
 
 結成された主要政党を簡単に見てみよう。最大野党の共和民主運動(MDR)は旧カイバンダ政権の後継者を自認する政党で、ポピュリスト的傾向を持つ党である。社会民主党(PSD)は南部の大学町ブタレを拠点とした大学人や教師、公務員など知識人が中心の党で、野党の中で最も民主的な勢力だ。自由党(PL)はビジネスマンが中心で、実業界では優勢なツチが多数入党している。政治的には中道右派である。
 上記の主要野党は連立政党を組み、MRNDの特権の実質的解消、議会の解散と国民総会の開催、ラジオ放送権の自由化などを要求した。

 独裁体制から民主主義体制への移行は、たとえ経済的に順調で戦禍に悩まされていない国においても、途方もない難事業である。ルワンダでは、この難事業が不況と内戦のさなかに行われた。前途には最初から暗雲が立ちこめていたともいえる。

 こうして複数政党制はルワンダに導入されたが、MRNDが独占的権力を握っている状態に変化はなかった。一党独裁国家として党=国家だったのだから、当然といえば当然である。MRNDは公用車を使用し、国営の〈ラジオ・ルワンダ〉を党の宣伝機関として利用し続けた。地方当局は相変わらずMRNDの党員が占め、公務員としての役割とMRNDの活動を区別できていないと野党は厳しく非難した。
 91年12月末、ハビャリマナの命により新内閣が組閣されたが、野党からは上記主要野党以外のマイナーな党から1人選ばれただけだった。野党は当然ながら反発し、92年1月、5万人を集めキガリでデモを行った。
 
 度重なる暴力事件や逮捕にも野党の活動は収まらず、ハビャリマナはついに歴史的な妥協を余儀なくされた。ハビャリマナは92年3月、野党との連立政権の結成とRPFとの和平交渉の開始を約束した協定にサインする。

 92年4月、野党最大党のMDRメンバーが首相の座に就き、そのほか19の閣僚の椅子のうち10を野党が分けあった。内務省、国防省など重要ポストは未だMRNDが握っていたため、完全な勝利とは言い難かったが、民主化に向けて大きく飛躍したことは確かだった。
 
 新内閣は改革へ向け、大胆な攻勢をかけた。新教育相のアガート・ウウィリンギィマナは“積極的差別是正措置”と見なされていたフツ/ツチの割り当て制度を廃止した。恐怖の的だったシークレット・サービスは解体され、4つの別々の省に再配置された。悪評の高い知事は罷免され、野党のメンバーが後を継いだ。司法の独立が奨励され、いくつかの大統領命令は憲法違反だと宣言された。
 また、フツ過激派だった情報局局長は解任され、出版物とラジオ放送に対する過激派の影響力は減少した。これにより、国営の〈ラジオ・ルワンダ〉は独立した報道を徐々に行いはじめる。

 さらに3月の協定にしたがって、5月に新政府の外相(野党MDRのメンバー)とRPFのあいだで直接交渉が行われ、7月にパリで正式な和平交渉を開始することが宣言された。
 6月、野党三党とRPFがブリュッセルで直接交渉すると、RPFは「武装闘争は終結し、これからの闘いは政治の場で行う」と宣言。7月にはパリで和平プロセスの大枠について合意が成される。間髪おかずに実際の交渉がタンザニアのアルーシャで始まり、92年7月14日、RPFとのあいだに休戦協定が調印される。
 平和はすぐそこまで来ているようにみえた。


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2005年12月27日

連載ルワンダ史第11回〈危機のはじまり〉

《経済の悪化と政治変革の声》
 アフリカの一国としては比較的順調だったルワンダ経済も、80年代末になると激しく失速する。
 89年夏、ルワンダの外貨獲得手段の75%を占めるコーヒーの国際価格が大暴落する。コーヒー輸出による所得は、85年から93年のうちに約5分の1になった。IMFの構造調整プログラムにしたがうため、ルワンダフランの平価切り下げが実行されたのも、コーヒー所得の減少に一役買った。しかし、構造調整プログラムを完全に遵守できなかったので、IMFの財政援助は行われなかった。その結果、ルワンダの実質GDPは89年に5.7%減少、負債は80年の2億USドルから10億USドルに跳ね上がった。
 また、人口増から農地の不足も深刻になり、十数年ぶりに飢餓が発生した。

 経済的難局はハビャリマナ体制の腐敗を際だたせる結果となった。割り当て制度によるツチ差別だけではなく、フツ内部のえこひいきが存在することは以前から明らかだった。ハビャリマナの出身地であるギセニィは、10ある県の1つに過ぎなかったが、政府要職の3分の1、軍や保安関係の長のほとんどすべてを占めていたのだ。比較的好調だった経済のおかげで抑えられてきた不満が、経済的苦境で噴き上がった。激減した政府予算をめぐって、体制内部での権力闘争も苛烈さを増した。

 こうした情勢を受けて、ルワンダ国内で政治改革を要求する声が高まっていく。同時に冷戦の終結という国際的な政治環境の変化を受け、西欧諸国からの民主化要求も強まる。ベルギーに代わってルワンダの後見国となっていたフランスが、アフリカ諸国とのサミットにおいて、民主化の進展次第で援助額を考慮すると発表したのが決定打となった。
 90年7月、ハビャリマナは改革を論議する委員会の設置を布告。1ヶ月後、委員会は複数政党制の復帰を求める声明を発表する。反対派や知識人は政党結成に動き出し、学生はデモを繰り広げ、ルワンダに政治危機の雰囲気が広がった。

《RPFの侵攻》
 この状況を好機と考えたのが、ルワンダ人難民組織RPFである。今ルワンダを叩けば政権は崩壊するとの報告を受けたRPFは、侵攻の準備を開始する。フレッド・ルウィゲマは世界中に離散しているルワンダ人難民から資金を集めるべく、アメリカとヨーロッパに飛ぶ。RPFのナンバー2であるポール・カガメは、疑いを呼ぶのを避けるため、米軍の将官訓練プログラムにウガンダ軍の同僚とともに予定通り参加する。
 RPFはウガンダのルワンダ人難民が組織のバックボーンにあるため、ツチが大多数を占めていた。だがRPFは、政治ブログラムにはフツとツチの平等、独裁と腐敗の終結、難民帰還の権利を掲げ、いくつかの重要ポストには政治亡命者のフツが就いていた。反RPF論者は、単なる名目上のポストに過ぎないと一蹴したが、ある意味では正しい指摘である。だが、RPFがフツ/ツチのレトリックを注意深く避けていたのも確かだ。RPFは92年に独自のラジオ放送を始めるが、そこでは人種/民族的レトリックは用いないよう努めていた。
 
 1990年10月1日、約50人の男がルワンダ入りすると、すぐ数百人のウガンダ軍脱走兵が後に続く。RPFはこの時点で約2500名を数えている。こうしてルワンダの内戦が開始された。RPFを率いるのは、無論フレッド・ルウィギェマである。
 しかし、この侵攻はどうひいき目にみても失敗だった。まず、戦争につきものの予測不可能な不運が原因で、フレッド・ルウィギェマが侵攻2日目に戦死する。また、奇襲の利もあり、最初の数日はRPFは順調に進撃し続けたが、ほどなくしてフランス提供の軍備で身を固めたルワンダ軍に阻まれる。さらにミッテランの直接命令で、フランス外人部隊が中央アフリカ共和国から後方支援と居留外国人保護に駆けつけると、ルワンダ軍の士気はいやがうえにも高まった。ベルギー兵もフランスに遅れて到着するが、ルワンダの不穏な情勢と本国での高まる批判を受けて撤退した。
 こうしてルワンダ軍は反撃を開始し、10月の終わりまでにはRPFを国境のむこうまで追い散らしてしまう。30日にルワンダ政府は宣言する。「戦争は終わった」。

 ハビャリマナ政権はRPFの侵攻を反対派の鎮圧に最大限利用した。10月4日から5日にかけて、首都キガリで敵戦闘員との銃撃戦を偽装すると、外国通信社は欺かれしまい、このニュースを世界に伝えた。政府は「ツチ封建主義者の脅威」を喧伝し、RPFの侵攻と63年の復古派ツチの襲撃を同一視する。さらに、国内にRPFの同調者が存在するとして、大量逮捕を行う。実際はRPFの支援者について政府は情報を得ていないにもかかわらず、教育のあるツチや民主派のフツなど約8000名が拘束された。
 首都での偽装攻撃は本物だと一般に信じられ、いつなんどきRPFの攻撃があるかも知れないという緊張した雰囲気がルワンダを覆う。防衛大臣は国営の〈ラジオ・ルワンダ〉で「侵入者を追跡し拘束せよ」と命令を出す。
 RPF侵攻から10日後、交戦地域だったギセニィ県キビリラの住人が、地方当局の命令に応じた。3日間でツチの一般市民350人が殺され、500以上の家が焼かれた。この虐殺により、20年に満たないフツとツチのはかない平和は終わりを告げた。

《フランスの介入》
 ここまでの展開で不可解なのは、アフリカのちっぽけな貧乏国に対するフランスの迅速すぎる介入である。混乱したあるアメリカ人ジャーナリストは「フランスは理由があるときに介入するんじゃない。ないときにするんだ」と結論付けている。
 
 だが、ルワンダ研究者はいくつかの理由をあげている。代表的なものは次の2つである。

 1.仏大統領フランソワ・ミッテランは息子ジャン=クリストフを大統領府アフリカ室の一員として取り立てていた。アフリカ室はアルジェリア危機に際してのドゴールの改革以来、大統領官房の一部として相当の独立的権限を持ち、アフリカ問題の代替的外交チャンネルとして機能している。フランスとアフリカの独特な関係も相まって、このアフリカ室はアフリカの独裁者とフランスの政治家の癒着の焦点となってきた歴史がある。
 ミッテラン親子はハビャリマナ一族と親密で個人的な付き合いがあり、これがフランスの強力な支援に繋がったとも言われる。この関係をめぐって、様々な後ろ暗い噂が取り沙汰されている。

 2.もう一つは文化/政治的説明である。フランス人アフリカ研究者のジェラール・プルニエはファショダ事件からこれを“ファショダ・シンドローム”と名付けている。ルワンダはベルギーの植民地としてフランス語を教育されたため、フランス語圏の一国として、フランスの大いなる庇護の対象となる。一方、RPFはウガンダから侵攻し、その支援を受けている。ウガンダは旧イギリス領なので、当然英語を話す。また、ウガンダとアメリカの緊密な同盟関係は周知の事実だ。
 以上を考慮すれば、RPFはルワンダ人難民組織なのだから今回の戦いは内戦にすぎない、などという認識はお笑いぐさである。実際には、RPFはウガンダ=イギリス=アメリカら、アングロサクソンの操り人形である外国勢力なのだ。つまり、これはアングロサクソン(RPF)対フランス語圏(ルワンダ)の闘争なのだ。フランスはアフリカの同胞国家とフランス文化を守るために、勇躍馳せ参じたのである。

 いかなる理由があったせよ、ルワンダ情勢が悪化し続けたにもかかわらず、フランスはルワンダに対し強力な軍事的・財政的支援を続けたのは事実である。フランスが同時にルワンダに民主化の要求を突きつけていた点を考えると、奇妙な行動だ。キビリラで殺戮があったのちも、フランス軍はルワンダ国内に留まり続けた。フランス軍の駐留は結局93年末まで続く。

 こうしたフランスの盲目的な支援は、重大な帰結をもたらした。どんなことが起ころうとも、フランスの支援が止まることはあるまい──ルワンダ国内の過激派はそのように信じたのだ。のちの展開を考えてみると、まさに正しい予測だった。


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2005年11月27日

連載ルワンダ史第10回〈ルワンダ人難民問題〉

 フツ革命とハビャリマナのクーデター前の危機によって生まれたツチ難民は、約30万人と推計されている。ルワンダの人口増加率を考慮すると、1990年の時点で60-70万人程度が難民として各地で生活していたと推定できる。1964年時点での避難国の内訳としては、約60%がブルンディ、25%がウガンダ、10%がタンザニア、5%がザイールといった具合である。1990年頃には、ある程度の人数が世界各地に離散していたが、各地のツチは連絡を絶やさず、国外亡命者のネットワークを形成していた。
 
 特にルワンダとの関連で問題になったのは、ウガンダのルワンダ難民である。タンザニアに移住した難民は比較的容易に市民権を得ることができた。ザイールの場合は状況が複雑で、政治状況や移住地によって市民権を獲得できたり、できなかったりした。だが、ウガンダにおいては、難民の子は常に難民で、市民権は獲得できなかった。ルワンダ人難民はウガンダ西部のキャンプで厳しい生活を余儀なくされた。1990年の時点で、こうした難民の数は約20万に達している。
 ただし、難民の地位にもまったく利点がないわけではなかった。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)に難民として認定されることで、奨学金をもらい、高校、ときには大学に通うことができた。これはウガンダ人の貧民層には手の届かない特権であり、彼らの嫉妬を買うことに繋がった。

 イディ・アミン失脚後の1980年に、ミルトン・オボテが疑惑の多い選挙でウガンダ大統領の地位に再び就くと、ウガンダ各地でゲリラが蜂起した。反アミン闘争を繰り広げ、暫定政府の防衛大臣に就いていたヨウェリ・ムセヴェニも、こうしたゲリラの1つである国民抵抗運動/軍(NRM/A)を開始する。彼とともに蜂起したのはたった27人だったが、そのうちの2人がルワンダ人難民だった。この2人、フレッド・ルウィギェマとポール・カガメは、ムセヴェニが反アミン闘争を行っていた頃からの仲間で、ムセヴェニのゲリラで重要な地位を占めていく。
 ゲリラ戦が激化すると、オボテはプロパガンダ戦術に訴えた。ムセヴェニの出身地であるウガンダ西部のアンコレ州には、ルワンダと類似したヒマとイルという区分があった(それぞれツチとフツに対応)。ムセヴェニはヒマの出身であり、祖母はツチの家系と繋がりがあった。オボテはこの血縁を過大に喧伝し、ルワンダ人の外国人組織がウガンダに手出しをしていると非難したのだ。カトリックとプロテスタントという宗派の違いもあり、もともとオボテの党とルワンダ人難民の関係は良好ではなかった。
 このプロパガンダはルワンダ人への大規模な迫害に青信号を点した。オボテの党の青年グループが難民キャンプを襲い、略奪をほしいままにした。しかし、まさにこうした迫害が原因となって、ルワンダ難民の若者が大挙してムセヴェニのNRMに加わる結果になった。NRMが1986年に首都カンパラを攻略した時点で、ゲリラの20%、4000人がルワンダ人だったと言われる。
 
 ムセヴェニのNRMはゲリラ戦争に勝利したが、北部と東部には旧政権の抵抗勢力が残っていた。北部ゲリラの鎮圧作戦において、2人のルワンダ人将校(ルウィギェマ、カガメとは別人)が、残虐行為をはたらくと、軍内のルワンダ人への風当たりは強まっていく。さらにフレッド・ルウィギェマが軍副総司令官、防衛副大臣に昇進し、ムセヴェニに次ぐウガンダ軍ナンバー2の地位に就くと、ウガンダ人の懸念は強まった。ルワンダ人難民は初期からゲリラ戦に参加していたため、自然と軍で高い地位を占めがちだった。ウガンダ人は、オボテのプロパガンダが現実のものとなるのではと恐れを抱いた。
 また、ムセヴェニの勝利によって、世界各地に離散していたルワンダ難民がウガンダに集まってきたことにも、ウガンダ人は危機感を募らせた。ルワンダ人に経済まで支配されかねないと脅威を覚えたのだ。
 首都掌握直後、ムセヴェニはウガンダ居住後10年を経た者すべてに市民権を与える決定を出し、協力したルワンダ人難民に報いようとした。だが、ウガンダ国民の反発は根強く、大農場の不法居住難民問題をめぐって、ついにムセヴェニと激しく衝突した。
 
 最終的にムセヴェニは妥協を余儀なくされた。市民権はウガンダ出身者のみに与えられるという、かつての基準に戻された。軍内でのルワンダ難民の昇進はストップした。1989年、ルウィギェマが軍副総司令官と防衛副大臣辞任に追い込まれたのが、ルワンダ人失寵の明白な表れだったといえる。
 それまでムセヴェニに力を貸し、ウガンダに同化しようとしてきたルワンダ難民は、ムセヴェニの変節にショックを受けた。ルウィゲマの辞任が最後の一押しとなり、ウガンダ市民として同等に扱われるという希望はしぼんでいった。
 この結果、それまで知識人が中心だったルワンダ人難民の政治組織は、1987年にルワンダ愛国戦線(RPF)と名を変え、ルワンダへの帰還という以前からの目標を前面に押し出すようになる。栄達の望みの潰えたルワンダ人将校がRPFに加わることで、ルワンダへの武力帰還の道が開け、目標は現実味を増しはじめた。
 
 ハビャリマナは1988年に難民問題でウガンダと交渉するなど、解決へ向け一応のジェスチャーを示していた。しかし、人口過剰のルワンダに難民の居場所はない、これがハビャリマナの基本姿勢だった。そして、ルワンダが実際的な問題解決に向けて動き出す時間は残されていなかった。
 脆弱ながらそれなりの安定を見せていたハビャリマナ体制は、1990年を前後して崩壊の道をたどりはじめる。

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2005年11月17日

連載ルワンダ史第9回〈ハビャリマナ独裁〉

ひさしぶりの更新ですみません。がんばります。



 1975年、ハビャリマナはMRND(開発国民革命運動)を設立し、全ルワンダ人は年齢を問わず自動的に党のメンバーとなった。ハビャリマナは共和国大統領と党総裁を兼任し、一党独裁体制が樹立される。
 これ以後、ハビャリマナの全盛時代は1990年前後まで続くが、当時の状況は、ジェノサイドの現場の1つであるヌタラマの教会の壁に貼り付けられていたポスターの文言に要約できる。すなわち、平和──平等──開発。
 
 ──平和。ハビャリマナは「国民の和解と平和」を目標に掲げていた。この目標は単なる修辞的なジェスチャーに留まらず、実質的な政策をいくつか採用している。カイバンダ時代に禁止されたツチの政治参加は、この時代にごく限定的ながら許されるようになった。1974年にハビャリマナが組閣した内閣には、ツチが1名含まれている。それに、1982年に行われたMRNDの党内選挙では、2名のツチ、2名のトゥワ、9名の女性が立候補している。
 ただし、軍や地方自治体ではツチの参加が著しく制限されるなど、ツチが実質的権力を握らないよう留意されてはいた。そのため、ツチの政治参加などお飾りにすぎないと片づける論者も多い。だが、この時期にツチへの暴力がほとんど報告されていない点は評価してもよいだろう。
 
 ──平等。ツチとの平和を命じる一方で、ハビャリマナ政権はツチを歴史的な特権階級とみなし、フツとツチの平等を達成するには積極的差別是正措置が必要だと考えた。こうして公務員、教会、教育、企業の採用者をフツ85%以上、ツチ10〜15%、トゥワ1%と定める割り当て制度が採用される。
 ただし、この割り当て制度を厳格に実行するのは不可能だったようだ。非公式ながらも、上記のパーセンテージ以上のツチが各領域に受け入れられていた。
 また、割り当て制度は外国企業や大使館などには適用できなかった。そのため、この時期にルワンダを訪れたあるフランス人研究者は、外国人に雇われたツチの数が不釣り合いに多いと記録している。

 ──開発。ハビャリマナがなににも増して熱心だったのが開発だった。まず住民の動員力を高めるために行政改革が行われた。ルワンダ全土は10の県に分割され、県は143のコミューンに区分けされた。さらに各コミューンは8つの丘(Collines)から成り、丘は管区(secteurs)に……といった具合に、各家庭に至るまで、アフリカでは類例のないほど高度な細分化・組織化がなされた。移住は申請なしにはできず、奉仕労働が義務づけられた。知事や市長は選挙ではなく、ハビャリマナの任命によって選出されるようになり、この点ではカイバンダ時代から後退した。知事や市長、特に後者は、かつての植民地時代の首長に似た司法と行政を兼ねた独裁的権力を持ち、同様に独裁的にふるまった。この行政改革によって得られた住民への支配力は、のちに、ある大きな帰結をもたらす。
 国家的目標として掲げられた「開発」は、事実めざましい効果をあげた。1962年の時点で世界ワースト3位だった1人あたり所得が、1987年には16位上昇し、下から19番目になった。周辺国のなかで最下位だったGNPも順調に上昇した。周囲のウガンダ、ザイール、タンザニアが、独裁者支配のもとでGNPを減少させていった状況とは対照的である。一次産業(それも主に自耕自給農業)に大きく偏った産業構造もかなり是正された。乳幼児死亡率も減少している。農業生産力も増大し、人口の急激な上昇にもかかわらず、飢饉は起こらなかった。こうした記録は、誇ってもよい成果だったといえる。
 ハビャリマナ政権は、先進諸国の財政支援を取り付けるのにも相当の手腕を発揮した。まず、フランス語話者の国というカードを使って、フランスの援助を獲得した。さらに軍事支援が開始されるなど、ルワンダとフランスの関係はこの時期にかなり親密になった。同時にハビャリマナは、東部の旧イギリス領と結びつくことで、世界銀行などのより国際的な支援も得ることを忘れなかった。
 殺し合いに明け暮れる他のアフリカ諸国とは一線を画したルワンダは、援助諸国のお気に入りでもあった。ドイツ、アメリカ、スイス、カナダなどから援助がどっと流れ込んだ。こうして手に入れた援助や、住民に義務づけられた無給の奉仕労働によって、道路・電気・電話などのインフラストラクチャーが整備された。
 
 このように概観してみると、ハビャリマナ体制はそれほど悪い体制ではなかったといってもいいかもしれない。もちろん、独裁体制につきものの問題はあった。汚職ははびこり、権力はハビャリマナの出身地であるルワンダ北西部人が独占した。富は政府関係者に集中し、大多数の農民はたいてい貧しいままだった。賛嘆されたルワンダの良好な治安は、市民の自由を犠牲にした全体主義体制の産物だった。
 ただ、周辺諸国の惨憺たる政治状況と、ルワンダのこれまでの歴史を考えると、ハビャリマナ時代は相対的にいって「まし」だったといえる。事実、この時期にルワンダ史を記した研究者の何人は、かなり楽観的な調子でルワンダの前途を語っている。

 しかしながら、ハビャリマナがまったく手を着けずにいた問題が1つあった。
 かつてのフツ革命によって発生したツチ難民問題である。

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2005年10月25日

連載ルワンダ史第8回〈カイバンダ政権とクーデター〉

 独立直後のルワンダに話を戻そう。
 
 フツ革命後、ツチ政治家は大きく2つの勢力に分かれた。フツとの協調を目指す宥和派と、かつての体制を取り戻そうとする復古派である。
 宥和派のツチは、PERMEHUTUの独裁傾向に業を煮やしたフツ政党と連合を組み、独立時の政権に参加できた。しかし、この危うい協同体制は、復古派のツチの活動のあおりを受けて崩壊する。

 ツチの復古派は国外脱出し、ウガンダやブルンディから散発的な攻撃を繰り返した。反乱組織はルワンダ国内の支援が得られないため、ゲリラというよりテロ的な攻撃に終始する。この反乱組織はフツから「ゴキブリ」と呼ばれ、攻撃があるたびに国内のツチが報復の対象となった。
 1963年12月、状況を打開できないことに業を煮やした反乱組織は、ブルンディから決死の攻勢を仕掛けた。首都キガリまで20kmのところまで迫ったが、軍備の不足は否めず、結局ルワンダ軍に撃退された。これで亡命ツチの活動はとどめを差された。
 だが、政府は勝利に満足せず、ツチが攻撃を手引きしたと非難を浴びせ、前例のない規模の報復を開始する。主なターゲットは政治家やインテリ層だったが、一般市民や女子どもも容赦されなかった。約1万のツチが殺され、生き残った者は国外の難民居住地に逃げ散った。残された財産や土地は襲撃者のあいだで分配された。1967年までに国を離れたツチは合計で約30万人と推計されている。
 この報復は犠牲者の数もさることながら、政治的暴力と経済的利得が結びつけられた点でも、一線を画した出来事だった。そういう意味では、フツ革命ではなくこの虐殺こそが、のちのジェノサイドの種を撒いたといってもよい。
 PERMEHUTUはこの好機を逃さなかった。政権参画者を含めたツチの主要政治家を逮捕すると、一週間後に処刑した。この結果、ツチは政治領域から一掃され、90年代になるまで政治参加から遠ざけられることになる。

 カイバンダの第一共和制時代については二つの相反した意見がある。ジェノサイド前に優勢だったのは、フツ革命を高く評価する視点だ。
 たしかに今回の革命は、多数派を代表している点で少数派支配より「まし」だったといえる。少数派支配が危機に際したとき、権力を多数派に奪われるのではないかとの恐れから、過剰な報復とテロリズムに訴えがちである。隣国のブルンディの対応と犠牲者数を、ルワンダと比較すればこの評価は理解できるだろう。
 加えて、カイバンダ体制では、強制労働の廃止やツチ有力者の占有地の分配など、さまざまな社会改革もたしかに実行されている。ジェノサイド後の論者がシニカルに採用しがちな「エリートからエリートへの権力の移行」とは片づけられない。
 
 しかし、新生ルワンダにおいて、ツチは単なる少数派になったわけではなかった。
 「フツ宣言」にも表れていたように、PERMEHUTUはハム族神話をヨーロッパ人から継承する。そのため、ツチは外部からの侵略者であって、ルワンダ本来の住民ではないということになる。「ルワンダ人」とはフツのみを指すのだ。
 こうしてルワンダのツチはある意味で「居留外国人」、あるいは植民地主義一般の文脈でいえば一種の「入植者」として扱われる結果となる。そのような地位を与えられたため、ツチは公民権的次元の保護は享受するが、政治的次元の権利(被選挙権など)は制限されることになった。

 王政復古を狙う旧ツチ勢力とコンゴの共産主義勢力を恐れたルワンダは、周囲から孤立していった。道徳色の強い保守主義の雰囲気が国土を覆い、国民は質素勤勉を旨とするよう指導された。イメージとしては権威主義的な農業主体のカトリック教国があてはまるだろう。ルワンダのこの姿勢はヨーロッパの保守層から歓迎され、ドイツ、ベルギー、スイスなどから援助が届くようになる。



 一方、ブルンディではフツとツチの対立が勢いを増していた。それと同時に、ツチ内部の権力争いも激化し、過激派は穏健派を「フツに対して手ぬるい」と弾劾、前者が主導権を握るようになる。
 過激派による権力掌握の結果、1969年にフツのクーデター計画が発覚したとの政府発表があり、政府内と軍内部でフツの大規模な粛清が実行された。こうしてフツは追いつめられていき、実際に武装蜂起に訴えるしか手が無くなっていく。
 1972年4月、数百人のフツがタンガニーカ湖沿いのブルンディ南部や、首都ブジュンブラで蜂起した。二千から三千人のツチが犠牲になったが、反乱は数週間で鎮圧される。
 報復は速やかに開始された。フツによる大がかりなクーデター計画がほのめかされ、王に雇われた白人傭兵の侵入、ザイールの反乱軍の襲撃などの噂が広がり、ツチたちは恐怖した。UPRONAの青年グループと軍が反乱者狩りを先導した。
 まず自宅軟禁されていた王が殺害される。次にフツのインテリ層、ホワイトカラー、教師、教会人、大学生、果ては中等学校の生徒までが組織的に殺戮を受けた。徐々に対象は一般のフツにまで拡大していった。控えめな見積もりで10万のフツが犠牲となり(20万人との推計もある)、15万人が国外に脱出した。まさにジェノサイドと呼称してしかるべき規模の殺戮が行われたのだ。



 ブルンディの虐殺にルワンダは激しい衝撃を受けた。その結果、一時はなりを潜めていたツチへの弾圧が再び開始される。
 フツの学生が公安委員会を自ら組織し、ツチ学生のブラックリストを掲示した。運動は国営企業や私企業、大使館にまで広がり、ツチはフツ運動家の脅迫をうけた。数十人のツチが殺害され、十万人が国外脱出した。
 全土が強い緊張に包まれたが、政府は手をこまねいて見守るばかりで、事態を収拾する力がないことを露呈した。じきに不満はフツ/ツチ関係だけではなく、社会的・地域的不平等に向けられ、ルワンダ全体が無政府状態に近づく。
 この状況に介入したのが、ルワンダ軍准将ジュベナール・ハビャリマナである。准将は軍を率いて1973年7月に無血クーデターで権力を奪取すると、国土の治安回復を行った。ハビャリマナのクーデターは、フツ・ツチ問わず多くのルワンダ人に歓迎された。
 こうして、カイバンダの第一共和制は終わり、第二共和制のルワンダが誕生した。

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2005年10月18日

連載ルワンダ史第7回〈ブルンディ情勢〉

 ここでブルンディの歴史について簡単に触れておきたい。ルワンダとブルンディの以降の歴史では、一方の国で起こった出来事が、もう一方の国に大きな反響を引き起こすという関係が続いていく。そのためルワンダ政治の展開を理解するために、ブルンディ史を簡単に押さえておく必要があるからだ。
 
 ヴィクトリア湖とタンガニーカ湖に挟まれた大湖地方は、文化的・社会的な共通性を保持しているが、中でもルワンダとブルンディのあいだには相当の類似がある。王を表す語(ムワミ)は同じであり、ルワンダと同一の区分、すなわちフツ、ツチ、トゥワもみられる。
 ただしブルンディには、上記3つとははっきり分かれたガンワという王族階級が存在する点で、ルワンダとは異なっている。ルワンダとブルンディは植民地時代まで一体となることはなく、それぞれ独自の歴史を歩んだ。
 植民地化以前のルワンダの歴史は、ツチの権力拡大の過程として要約できる。一方、ブルンディの歴史で中心的役割を果たすのは、ガンワ間の闘争である。ルワンダと同じく、フツとツチの区分はブルンディにもあったのだが、二極化の度合はルワンダほど進行しなかった。フツ・ツチともにガンワの支配下にあると同時に、ガンワは他のガンワとの争いに勝つため両者の協力を必要としたからだ。

 ブルンディは16世紀に現在の領土の北方で成立したというはっきりしない伝承が残っている。確実なのは17世紀前半に現在のブルンディの中央部で成立したという口伝だ。ルワンダ同様に小国としてはじまったブルンディは、周囲の小国を臣下に納めつつ、徐々に版図を拡大していく。
 ルワンダの征服王ルワブギリにあたるのがンタレ・ルガンバである。ルガンバは19世紀前半ブルンディを統治し、数々の征服行により国土を倍加させた。
 ルガンバが1852年に死ぬと、バタレ(ンタレの息子)とベジ(王ムウェジの後裔)という2つのガンワ王統のあいだで後継者争いが持ち上がる。王位はベジであるムウェジ・ギサボが継いだが、ブルンディの領土はベジとバタレのあいだで二分された。この時期は混迷を極め、「反王(anti-roi)」と呼ばれる理想の王を擁立しようとする反乱が勃発し、疫病、飢饉も発生した。この混乱期にヨーロッパ人がやってくるのである。
 
 以前の連載で述べたとおり、19世紀末ブルンディはルワンダとともにドイツ領となり、次いで第一次大戦後にベルギー領となった。二王国の類似性を見てとったヨーロッパ人は、ルアンダ-ウルンディとして両者を一括統治し、ハム族イデオロギーに従って政治体制の再編を行おうとした。そのため、大枠はルワンダと同様の政策が採られた。ガンワは便宜的にツチとして分類された。ガンワの側も、西欧人を上手く利用して権力闘争に勝利を得ようと画策した。
 この闘争を勝ち抜いたのはベジだった。1929年の時点での首長数の内訳はバタレ(41人)・ベジ(35人)・ツチ(30人)・フツ(27人)だった。こうして内訳をルワンダと比較すると、フツも権力をある程度保持していたことが見て取れる。しかし、この状況は徐々に「改善」された。植民地統治の効率化のために首長の数が漸減させられると、最終的にフツの首長はゼロになり、半数をベジ、残りをバタレとツチで二分するという結果になった。この権力再編が原因となって各地で蜂起が頻発した。
 
 権力は王を擁するベジが保持したが、ベルギー人に最も重用されたのはバタレのバラニャンカという男だった。バタレの傍系に生まれたバラニャンカは、ドイツ植民地時代の早い時期に外国語を学ぶと、総督府の公式通訳として足がかりを得、ついにはベルギー総督府顧問の地位にまで昇った。
 ベルギーはベジの対抗馬として、また貴重な情報源としてバラニャンカに頼った。バラニャンカはこの立場を利用して、最大級の首長領を得ると、住民の搾取をほしいままにした。こうしてバラニャンカの一族(バタレ)はベルギーの走狗としての悪名を獲得する。
 
 第二次大戦後にはルワンダと同様、独立へ向けて政党運動が始まった。ここでもまず表舞台を占めたのはフツとツチの対立ではなく、2つのガンワの争いである。ベジである王の長子ルイ・ルワガソレ率いるUPRONA(国民統一進歩党)と、バラニャンカの息子たちであるバタレの党PDC(民主キリスト教党)が独立後の権力掌握を競った。
 ベルギーはPDCを全面支援するとともに、UPRONAの活動を妨害しはじめた。ベルギーにとってUPRONAは「ラディカルで反ベルギー、親ルムンバであり、危険なほど共産主義びいき」で「馬鹿げたナショナリズム」(ベルギー人副総督の回想録の言葉)を奉じる組織だった。
 ルワガソレは確かにベルギーが恐れるに足る相手だった。王の長子として、ブルンディ社会の権威の象徴である王位の正統性を受け継いでいた。西洋教育を受けた知識人として、都市エリートに理解があった。商業組合を創設し、各地に人脈を築いていた。何より外見(参照)がステレオタイプなフツに近かった。さらにフツの女性を妻にしたとされ、これがフツのあいだで人気を完璧なものにした。
 1961年9月の議会選挙で、UPRONAは80%の得票率で圧倒的勝利を得た。ルワガソレは総理大臣に指名され、独立へ向けて議会の反対を恐れることなく政策を推し進めると期待された。
 選挙から2週間後、ブルンディ人の希望は打ち砕かれた。PDCに雇われたギリシア人暗殺者がレストランでルワガソレを襲ったのだ。
 背後でベルギーが手を引いていたという者も多い。コンゴのパトリス・ルムンバ殺害がベルギーの指揮によるものだったことを考えると(これはベルギーも認めている)、こうした考えは的外れな陰謀論とはいえない。真相がどうであれ、ルワガソレは銃弾を受け、世を去った。
 ルワガソレは悲劇的な死を遂げ、その存在はブルンディ人のあいだで伝説的地位にまで高められている。彼が生きていれば、フツとツチが融和した新生ブルンディが生まれていただろうか? それはわからない。なんにせよこれで、ブルンディを統一しうる可能性を持ったリーダーはいなくなった。
 
 1962年、ブルンディは立憲君主国として独立する。
 この時期を前後して、フツとツチの対立がブルンディにおける政治の前面に出てくることになる。そしてルワンダとブルンディの一方で始まった活動が、他方に反動を呼び起こす。このような関係が1994年のジェノサイドまで続いていくのだ。
 
 ルワガソレの求心力を失ったUPRONAは、隣国の「フツ革命」の影響をまともに受け、党はフツとツチに分裂する。1962年の終わりまでに議会はモンローヴィア・グループ(フツ)とカサブランカ・グループ(ツチ)に二分される。ツチの難民がブルンディに避難してくると両者の対立はますます深まっていく。ブルンディのフツは両国のツチの協同に怯え、ツチはルワンダの革命が波及するのではないかと恐怖した。
 ルワガソレの父である王ムワンブツァは、フツとツチの調停役を務めようと試みた。権力の中心を議会から宮廷に移すことで、ムワンブツァは対立を和らげようとしたが、かえって両者の反発を招く。さらには、内戦下のコンゴ介入を狙う共産中国がツチに近づき、事態は完全に収拾不可能になった。

 1965年2月、フツの総理大臣が、ルワンダのツチ難民に暗殺される。同年10月、今度はフツの軍人と憲兵の一団がツチの総理大臣を射殺。一団はそのまま王宮に向かいクーデターを敢行するが、王の護衛に阻まれ失敗。大きな賭けに出たフツが仕損じた結果、フツの政権奪取の道は途絶えた。フツの軍将校、政治家が多数処刑され、一般市民も数千人犠牲になった。
 これで、政権掌握を目指すツチの軍人を阻むものは王だけになった。ミコンベロ大佐率いるツチの将校団は、1966年11月、ついに王を退位させ、共和制を宣言する。ミコンベロはすぐさま大統領の座に着き、UPRONA以外の党活動を禁止。こうしてブルンディにツチ主導による親社会主義の軍事政権が誕生した。


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2005年10月13日

連載ルワンダ史第6回〈フツ革命とルワンダ独立〉

 第二次世界大戦後、ルワンダは国連の信託統治下に置かれる。アフリカ各地の動きに呼応し、独立への期待が高まると、様々な動きが活発化した。
 ツチのエリートはベルギーと距離を置きはじめ、権力を一手に握ろうとした。1950年代はじめには、白人聖職者とほぼ同数に達していたルワンダ人聖職者(ツチが大多数)もツチによる自治を求めた。こうしてツチに対するコントロールを失いつつあったカトリック教会は徐々にフツ支持に回りはじめる。
 カトリック教会の方針変更には別の理由もあった。ベルギー自身、かつては少数派のワロン人が多数派フラマン人を支配していた「人種」分断国家だった。このような背景があったため、40年代以降になってフラマン人聖職者がルワンダに多数赴任しはじめると、当然ながらフツに肩入れしたのだ。教会は機関誌の発行や、協同組合の設立を手助けし、フツ知識人層の育成に手を貸した。

 しかし、国連の監督下に50年代中頃に行われた改革は十分な結果を得られなかった。
 ウブレトゥワの廃止が決議されたにもかかわらず、実際はフツに権力が移行するまで、変わらず実行され続けた。フツ政治活動家たちが最高議会に参加を望んだが、王によって拒否された。決定的だったのは1956年の総選挙である。直接選挙によって選ばれた副首長以下の下級官吏はフツが過半数を得たが、首長以上の上級職は内部投票によってツチが占め続けたのだ。この結果、政治権力の委譲が改革によっては起こらないことが明白になった。
 不十分な改革はツチ・エリートには特権を失うのではという恐怖を与え、力を得はじめたフツ知識人には挫折感と不満を残した。こうしてフツとツチの双方が急進化していく結果となる。

 1957年に国連の脱植民地使節団の訪問とともに出された「フツ宣言」がこの急進化を如実に示している。
 「フツ宣言」は正式名称を「ルワンダにおける人種・現地人問題の社会的側面についての覚書」という。題名に現れた「人種」という言葉どおり、宣言は西欧のハム族神話をそのまま受け入れる。
 宣言によれば、ツチはハム族、つまり外部からの侵略者にすぎず、ルワンダの正統な支配権は元々の居住者だったフツにある。また「統計的法則によって現実が確立されるのを妨げるおそれがある」ため、人種IDカードの廃止には反対する。つまり、人種で政治的立場は自動的に決まる。ツチ=少数派=封建主義者であり、フツ=多数派=民主主義者というわけだった。
 
 政治状況も「フツ宣言」の思想を後押しするかのように推移した。
 リベラルなツチ政党や人種的枠組みを越えた政党は力を得られず、UNAR(ルワンダ国民連合)とPERMEHUTU(ツチ解放運動党)の急進党2党が有力になった。UNARはツチ・エリートの保守王党派で、ベルギーに敵意を燃やし、ルワンダの即時独立を要求していた。PERMEHUTUは「フツ宣言」の起草者の1人グレゴワール・カイバンダ率いるフツの党で、宣言に見られるようなルワンダ式の民主主義を求めていた。
 冷戦下の「敵の敵は味方」式の論理でUNARが共産主義諸国から援助を受けはじめると、ツチの没落は定まった。

 1959年11月1日、PERMEHUTUの活動家である副首長がUNARの青年団に袋叩きにされた。副首長死亡の誤報がルワンダ中に広まると、フツのグループが政府機関やツチ首長、UNARの活動家を襲いはじめる。じきに襲撃の対象はツチ全体に拡大し、略奪、放火、殺戮が繰り返された。王とUNARのツチ側はこれにさらなる暴力で応じた。フツとツチという対立軸で暴力的な衝突が起こったのはルワンダ史でこれが初めてである。
 ベルギーは、暴動の初期段階からフツ側についた。コンゴから派遣された軍を率いるギー・ロジスト大佐は事態の収拾に動こうとせず、静観を決めこんだ。
 さらに、暴力が散発するさなかの1960年のはじめ、植民地政府の手でツチ首長の約半数がフツにすげ替えられた。その結果、同年の夏に行われた地方選挙ではPARMEHUTUが難なくポストの8割を得る。
 1961年1月にカイバンダとロジストは新市長を集め会議を開き、君主制の破棄と、ルワンダ共和国の設立を宣言した。
 こうして「フツ革命」は終わった。1962年、ルワンダは正式に独立し、カイバンダは初代共和国大統領となる。
 この政変により、1963年の終わりまでに13万人のツチが国外に脱出した。

(次回は独立までのブルンディ情勢です。)

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