稲川聖城の修羅➀

 

作家 大下 英治

 

 わたしがヤクザをテーマにした小説を書くことになったきっかけは、東映の岡田茂社長からの電話であった。

「稲川会の稲川聖城会長の半生記を映画化することになった。まず小説を発表して、それを映画化したい。筆者は、あんたがええという声がある。徳さん(徳間書店・徳間康快社長)との間で、連載は『アサヒ芸能』でやることに決まっとる。ひとつ、頼むよ」

 わたしは、それまで、ヤクザ映画の熱狂的ファンであっても、自分でいわゆるヤクザ物を書いたことはなかった。ヤクザ映画では、そのはしりといわれる内田吐夢監督の『飛車角』をはじめ、山下耕作監督の『総長賭博』など、いわゆる“任侠映画”を好んで観ていた。実録路線と言われる深作欣二監督の広島ヤクザを描いた『仁義なき戦い』も好きであった。が、自分では、ヤクザを描いたことはなかった。

 なお、岡田さんをわたしに紹介したのも、スポニチの脇田巧彦さんであった。

 岡田さんは、わが故郷広島の出身でもあった。のちに、わたしは岡田茂さんを中心にした東映の物語『映画三国志』をスポニチに連載し、テレビドラマにもなった。

 さて、稲川会長をモデルにした映画の打ち合わせがおこなわれた。銀座の料理屋で、俊藤浩滋プロデューサー、当時東映の常務で、のち東映社長となる高岩淡さん、それに脇田巧彦さんと打ち合わせに入った。

 俊藤さんは、わたしの好きな『緋牡丹博徒』の主役緋牡丹のお竜を演じた藤純子(現・富司純子)の実父である。日本の仁侠映画のほとんどをプロデュースしていた。それだけでなく、藤プロダクションを持ち、鶴田浩二、高倉健、菅原文太、若山富三郎、藤純子……など錚々たる俳優を抱えていた。

 俊藤さんには、是非一度会ってみたかったので、いっしょに仕事ができることがうれしかった。

 俊藤さんが、関西弁で言った。

「『仁義なき戦い』のような実録路線もええけど、あまりに醜い滑稽な面ばかり抉り出してつづけると、観客に飽きがくる。かといって、昔の任侠映画にそっくり戻るわけにはいかん。そこで、任侠の心を残しながら、実録映画のタッチで映画をつくりたい。小説も、そのようなタッチで書いて欲しいのや」

 わたしは、さっそく取材をはじめた。稲川会長だけでなく、九州のヤクザ、山口県のヤクザと、日本中を取材して歩いた。俊藤さんは、取材のアポをすべて取り、わたしの取材にすべて同行した。俊藤さんは、それまで『山口組三代目』をはじめ、ほとんどのヤクザ映画をプロデュースしていたから、日本中のヤクザに顔が利いていた。

 小説のタイトルは、そのまま映画のタイトルとなる。俊藤さんと、タイトルについて話し合った。

「首領」など、いくつか使いたい言葉を出し合った。わたしは、「修羅」という言葉が好きで、是非使いたかった。

「修羅という文字は、是非入れたいですね」

「それはええ。『修羅の首領』か」

 ふたりで、修羅を使ったタイトルを出し合い、最後に決まった。

「修羅の群れ」

 俊藤さんは、じつに満足そうであった。

「『修羅の群れ』、ええなぁ」

 東映側も、このタイトルでいこうと、ただちに決まった。

 

 のちに、ヤクザ物の映画やビデオのタイトルに「修羅」が多く使われるが、この「修羅の群れ」から発している。

 わたしは、『アサヒ芸能』昭和五十八年八月十八日号から、『修羅の群れ』の連載をスタートさせた。

 稲川会長は、自分の人生を振り返って言った。

「売り出し中のときは、賭場で勝っても、勝った金を持って帰ることはしなかった。その賭場を仕切っている若い衆に『ご苦労さん』といって、勝った金すべてを、そっくりはずんで帰った。そうして全国を歩くうち、『稲川というなかなか威勢のいいやつがいる』と噂になっていった」

 

 稲川会長は、さらに言った。

「強い者に油断はあっても、弱い者に油断はない。強い者は、おれは強い、とつい慢心してしまう。そのため油断が生じ、殺られる。弱い者は、おれは弱いと自覚しているから、油断はない。強い者は、相手が弱いと舐め、油断をするから、殺られる。どんなに弱いやつでも、舐めないで全力で戦ってきた」

 この小説を、たんなるヤクザのアクション小説にしたくなかった。戦後裏面史として描きたかった。政治との関わりについても描きたかった。稲川会長から、その点を特に詳しく訊いた。

 稲川会長は、右翼の大立者児玉誉士夫との関係についても語った。

 いわゆる一九六〇年の「六〇年安保」のとき、全学連のデモに対し、稲川会も、鎮圧する側で動いたという。

 小説で、次のように書いた。

 「稲原(稲川)親分、今日は、ひとつ頼みたいことがあってきたんですが……」

 総会屋の古川明と連れだってきた右翼の大沼正(小沼正)が、あらたまった口調で言った。

          つづく