稲川聖城の修羅➁

作家 大下 英治

 

 前号で稲川会の稲川聖城会長の半生記を東映で映画化することが決定され、東映の岡田茂社長から直接筆者に小説として書いてくれとの依頼があり、タイトルを「修羅の群れ」とし早速任侠の世界に身を置く人達との取材を始めて、いよいよ主役である稲川親分に直接会い、聞きにくいことも含めて、あらゆる角度から遠慮なく、しかも長いインタビューとなった。

 小説の書き出しは次のような会話からスタートした。

《「稲川親分、今日は、ひとつ頼みたいことがあってきたんですが……」

 総会屋の吉川明と連れだってきた右翼の小沼正が、あらたまった口調で言った。

 昭和三十五年六月初旬のことであった。

 前年二月に銀座七丁目の南欧ビル四階に新しく出した稲川組の興業事務所であった。

 六月十九日の日米安全保障条約の締結を前に、左右両陣営の激烈な対決が続いていた。

 この事務所にも、「安保反対!」という共産党の宣伝カーの声がひびいたと思うと、「ソ連に日本を売る売国奴どもは、散れ!」と右翼の宣伝カーのがなり立てる声もひびいてくる。

 全学連や労働者の、「安保粉砕!」と叫ぶシュプレヒコールの声もひびいてくる。

 小沼正が、外のひびきに声をかき消されないような声で言った。

「ごぞんじのように、六月十九日には、アイゼンハワー大統領が、国賓として日本にやってくる。ところが、いまの警官の警備では、間に合わない。そこで、自民党筋から頼まれたんだが、任侠団体のみなさんに、警備の協力をしてもらいたい」

 小沼の話によると、十九日当日、天皇陛下は皇后陛下をともなって、羽田空港までアイゼンハワー大統領を出迎える。

 羽田から皇居まで、アイゼンハワー大統領と天皇、皇后両陛下を乗せたオープンカーが十八・七キロをパレードする。その沿道を二メートル間隔で警備するには、一万八千七百人の警官が必要となる。ところが、警視庁の全警官数は、二万四千人。警備動員数は、一万五千人が限度であるという。

 警視庁内に設置された大統領警衛警備事務推進委員会は、パトカー二百八十台の全出動、私服警官三千人、機動隊精鋭千五百人をこのほかに配置することに決定した。しかし、連日十万人単位のデモ隊が国会近辺を取り巻いている。それだけの警備体制では、防禦はしきれない。その警備力の不足を補うために、自民党安保委員会が組織したのが、「アイク歓迎実行委員会」であった。委員長は、橋本登美三郎であった。

 稲川聖城は、小沼正から詳しい説明を聞くなり、即座に答えた。

「できるかぎりの協力を、させていただきましょう」

 稲川は、思っていた。

 〈おれたちは、常日ごろ、ムダ飯を食っている人間だ。少しでも国のために役立つことができるなら手銭、手弁でも協力しなくてはならない……〉

 アイゼンハワー大統領訪問日まで、残された日数は、八日しかなかった。

 デモ隊と対決する戦闘服も、高島屋デパートから一万着買った。夏と冬用として、うすいベージュ色と紺色のものを五千着ずつ買いそろえたのであった。

 左翼勢力との対決は、六月だけで終わるとは思っていなかった。冬を越すことにもなりかねない。長期戦に入る用意もしていた。

 ヘルメットも、五千個買いそろえた。

 兄貴分の横山新二郎が、稲川に言った。

「機動隊の立場もある。武器はもちこめない。三尺の樫の棒に、紙の日の丸でいい、つけさせろ。アイゼンハワー大統領を出迎えるための日の丸の旗に見せかける。いざというときには、その樫の棒が、武器にかわる」

 さすがに“天一坊”とまで言われた頭の切れである。

 稲川は、井上喜人に命じた。

「動員数は、一万人だ。静岡、神奈川のバスを、当日すべてチャーターしておけ。バスのまわりには、稲川組の幕をはる準備をしておけ」

「アイク歓迎実行委員会」は、最終的には、稲川組など、博徒一万八千人、テキヤ一万人、旧軍人、消防関係、宗教団体など一万人、右翼団体四千人、その他五千人が動員可能と読んでいた。

 六月十日には、アイゼンハワー大統領秘書のハガチーが日本にやってきた。

 しかし、羽田で学生、労働者のデモに包囲され、アメリカ軍のヘリコプターで脱出。在日アメリカ大使館へ入った。

 いよいよアイゼンハワー大統領訪日が五日後に迫った六月十四日、熱海の稲川邸の広間に、稲川組の幹部が集められた。横山新二郎が、具体的な作戦指令をはじめた。

「アイク訪日の当日は、早朝、川崎市の競輪場に全員集合し、バスを連ねて、明治神宮に参拝する。それから、五千人は、羽田空港に近い消防署付近に配置する。あとの五千人は、見物人にまじって、左翼のデモ隊と対決する」

 稲川が、幹部一同に念を押した。

「バスをふくめて全ての用意は、できているな」

 一同が、深くうなずいた。

 アイゼンハワー大統領訪日を四日後にひかえた六月十五日―「安保阻止!」を叫ぶ全学連七千人が、国会になだれこんだ。

 夕刻、右翼の維新行動隊百三十人が、トラックで国会裏側をデモ行進中の全学連や新劇人会議に突っこみ、双方で三十人近い負傷者を出した。

 この事件により、警官隊とデモ隊のあいだにいっそう激しいもみあいが起こった。

 乱闘の末、東京大学文学部国史学科の樺美智子が死亡した。

 彼女の死は、政府にも深刻な衝撃をもたらした。

 六月十六日、岸信介首相は、記者会見で、

「アイゼンハワー大統領訪日は、延期いたします」

 と発表。事実上の中止であった。

 アイゼンハワー大統領の訪日する予定であった六月十九日―新安保条約は、参議院の議決をへないまま、国会周辺に坐りこんだデモ隊の「不承認」のシュプレヒコールのなかで、自然承認となった》

 わたしは、安保を全学連の側から見ていたが、ヤクザ側の動きを知り、興味深かった。

 なお、稲川会長は、この六〇年安保の動きをきっかけに、児玉誉士夫と手を結ぶことになる。その場面を、こう書いた。

 それから一週間後、稲川は伊豆長岡の旅館の二階で開かれた賭場で、博打をしていた。その日は、あまりいい目は出なかった。

〈つかないときは、こういうものさ……〉

 稲川は、賭場を立ち、玄関を出ようとした。そのとき、玄関の前にタクシーが止まった。林一家総長の林喜一郎が、巨体をゆるがせるようにして車をおりてきた。怒った顔をしている。林は、怒ったときには、正直に顔にあらわす男であった。

「親分、児玉が……」

 林はまずそう言って荒い息を吐き、続けた。

「アイゼンハワー大統領が日本にやってくるのにそなえ、自民党の安保委員会とやらが、財界からこの日のために、六億円近い金を集めていたらしいんです」

 稲川にも、それは初耳であった。

「ところが、その六億もの金が、アイゼンハワー大統領が来なかったのに、どこへやら消えちまったというんです。どうやら、その金を児玉(こだま)誉士夫(よしお)が自分の懐に入れてしまったというんです」

 稲川は、カッとなった。

〈いくら児玉でも、許せねえ……〉

 児玉は、このような関係から、保守党の裏で、黒幕として隠然たる力をもちはじめた。

 昭和三十四年、岸信介が、党人派の大野伴睦に、次期総裁委譲契約書を書いた場面にも、立ち会っていたほどであった。児玉は、同時に、右翼、ヤクザへも睨みをきかせていた。

 しかし、稲川は、相手がいくら大物であろうとも、許せねえものは、許せねえ……と思っていた。

 それでなくても、自民党筋から、あれほど今回、博徒、テキヤの親分たちに声をかけて応援を頼んでおきながら、「御苦労さん」のひと言もなかった。そのことで、全国の博徒、テキヤたちは怒りの声をあげているときであった。

つづく