2022年05月25日

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降誕会は、親鸞聖人ご生誕の法要です。
1173年5月21日京都日野の里に誕生された聖人は、私たちに生まれてきた意味・生きる意義を問うてくださり、生きるための本当のより所となる南無阿弥陀仏(お念仏)のみ教えをお示しくださいました。
私たちの人生の柱が定まり、自他共に心豊かな社会の実現に向けて、及ばずも一歩一歩あゆんでいくことができるのも、親鸞さまとの出遇いのおかげです。
今回の西正寺降誕会はお勤めのあと、来年お勤めされます聖人御誕生850年慶讃法要の愛唱歌「みんな花になれ」を歌い、女流変面師「彩華」さんのパフォーマンスを楽しみました。

(15:33)

2022年04月08日

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本日4月8日は、お釈迦さま(釈尊:しゃくそん)の誕生日です。紀元前6〜5世紀の人です。
父は、スッドーダナ王、母はマーヤー夫人と伝えられています。
王家に生まれて不自由のない生活をしていましたが、29歳のとき無常の現実と出遇い出家します。
修行の後,35歳で悟りを開きます。
しかし釈尊はすぐに悟った内容を説法することに躊躇(ちゅうちょ)します。悟った内容が、当時インド一般の教え(バラモン教等)の内容とかけ離れていて、人々には理解されないだろうと思ったからです。
だが梵天(ぼんてん)の勧めを受け、苦悩する人々を救うために教え(法)を説くことを決意します。
以後、80歳で亡くなられるまで苦悩する人の数だけ教え(法)を説いて旅をされました。
亡くなられるときには、おそばにいつもついておられた阿難に、法を拠り所にして自らの人生の道を歩むべき(自灯明法灯明の教え)と説かれました。
つまり釈尊の法(仏教)を学ぶことは、私がそのまま仏道を実践することであります。

(18:19)

2022年03月09日

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 2月25日の朝、ロシアはウクライナに軍事侵攻した。
 お釈迦さまの経典『ダンマパダ』に「すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。すべての生きものにとって生命は愛しい。己が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ」を柱に私は、軍事力で問題解決をするということに反対し、何とか対話の道を探ってほしいと考えています。と同時に、ロシアのこともウクライナのことも何も知らないので、もっと他国のことを勉強して自分のこととして捉えられるようにならなければいけないと思っています。
 少しそれますが、昨今の言ってみれば有事であるコロナ禍も、地球規模で考えるならちょっとした自然破壊(ウィルス)によって世界中が振り回されているわけです。地球環境の健全化は、今この時の近々の課題だと思っています。
 この度の戦争で報道されています原子力発電所を攻撃する、核兵器使用による威嚇など核使用が実際に起これば、地球そのものの破壊につながるでしょう。核爆発による灰や放射能によって自然環境はあっという間に壊されていきます。これがどんなに恐ろしいことかを各国の首脳は今一度襟を正して思考を深めてほしいものです。
 私もできるところで、#nowarを発信していきたいと思います。







(16:45)

2022年02月15日

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今日2月15日は、お釈迦さまが亡くなられた日つまり、ご命日です。この日に勤修される法座を涅槃会(ねはんえ)と言います。誕生された4月8日は花まつりとして広く承知されていますが、ご命日は意外に知られていません。
先日九州国立博物館の特別展に行きましたら、国宝「釈迦金棺出現図」という立派な絵図が展示されていました。亡くなられたお釈迦さまが、お浄土から遅れてお参りに来られた母親マヤ夫人に対して、お棺から起き上がられて最後の説法をされるという絵図です。
亡くなられた方が起きて説法をすることは現実にはありえませんが、浄土真宗のみ教えに照らしますと、お釈迦さまは、人間の真実の姿(生・老・病・死する)を涅槃の身をもってお示しくださり、生きる意味(仏法に出遇い手を合わす生活をする)を願ってくださっている絵図だと味わうことができます。
コロナ禍で窮屈な毎日ですが、本日お仏壇でお念仏される折には、ちょっと頭の片隅にお釈迦さまの涅槃を思い出していただいて、永く尊いご縁を感じていただければ幸いです。




(17:24)

2021年12月14日

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昨日と今日はふたご座流星群の接近で、流れ星がたくさん見えます。流れ星は、だいたい上から下へ流れていくと思われている方が多いかもしれませんが、上の写真のように(ちょっと見えづらい)、下から上へ流れる場合もあるのです。それは地球が丸いからそう見えます。宇宙空間に上下がないことを想像してみるとわかるでしょう。なにかと話題の宇宙旅行です。宇宙から地球を俯瞰して見てみたいものですが、地球に足をおろしていてもこんな場面で地球を俯瞰した気分を味わえますね。

(22:38)

2021年10月11日

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今月の25日・26日は、西正寺の御正忌報恩講法要が勤まります。その前にということで、先日から連日にわたってご門徒の皆さまが境内の草取りをしてくださいました。スロープ周りがスッキリしてすがすがしい気持ちで報恩講を迎えることができます。お疲れになられたでしょう、本当にありがとうございました。門前の落ち葉も近所の方がたびたび掃いてくださっています。感謝の気持ちで庭のリンドウが一輪ポッと咲きました。

(22:53)

2021年09月15日

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ここ最近は生活のリズムが崩れている。それを仕事が忙しいからとかコロナ禍だから仕方がないと周りのせいにしている。自分を律せず怠(なま)けているだけである。「怠(おこた)って道からはずれることの無い人 ‐ かれこそ道を実践している人である」とは釈尊のお言葉だ。これと反対のことばかりして実践のない私を南無阿弥陀仏と聞いてみると、阿弥陀さまから「まあそうだな」と言われました。。。

(22:05)

2021年08月22日

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「眠れない人には夜は長く、疲れた人には一里の道は遠い。正しい真理を知らない愚かな者どもには、生死の道のりは長い。」『ダンマパダ』からお釈迦さまの言葉です。いのちの柱(真実)を持っていないと、なぜ生まれてきたのか、なぜ生きているのかがわからないまま、アッという間の一生が終わります。さらに、執着による苦しみ悲しみが続くむなしい一生をただ過ごすことになります。いのちの柱を持つことで、苦しみ悲しみも生きる問い(エネルギー)に変えて、ブレることのない喜びの人生を歩むことができることでしょう。

(22:55)

2021年07月27日

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今日は、戦国時代(1586年)に豊臣秀吉方高橋紹運(たかはししょううん)以下763名が、太宰府四王寺山(しおうじやま)にある岩屋城(いわやじょう)にて島津軍数万と戦って落城した日です。西正寺で毎年勤まる追悼法要は、コロナ禍のため今年は寺族だけでお勤めしました。お勤め前に訪れた岩屋城跡の高橋紹運墓地(写真)は、山中ではあるにもかかわらず朝からたいへん気温が高く、戦(いくさ)の当日の過酷さも感じられました。高橋紹運の辞世「流れての末(すえ)の世遠く埋(うず)もれぬ、名をや岩屋の苔(こけ)の下水(したみず)」「世は無常あるが故、私は名声など『岩屋(= 言わや)』必要ない。苔の下を途切れること流れる水のように縁起のつながりにまかせた戦のない穏やかな生き方がしたい」
高橋紹運が討死前に全員の菩提(ぼだい)を弔(とむら)うよう伝えて山を下ろした一人が、西正寺の初代住職釈正順です。それから現在まで19代を数えています。

(22:18)

2021年07月19日

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昨日、いただいた冬瓜(とうがん)を美味しく頂きました。
夏が旬ですが冬までもちますから冬瓜です。
薄味ですが、なんともいえない香り高き味わいです。
お釈迦さまは真実の法を味わわれたようです。
「孤独の味、心の安らいの味をあじわったならば、恐れも無く、罪過(つみとが)も無くなる。
ー 真理の味をあじわいながら。(『ダンマパダ』)」
ひとりでも如来の大悲に包まれた喜びは最高の美味なのでしょう。


(12:29)

2021年06月04日

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田植えの季節になると、最も古い仏典『スッタニパータ』の田を耕す者の話を思い出します。この者は、ブッダに耕作する意味をたずねます。ブッダの答え「わたしにとっては、信仰が種子(たね)である。苦行(くぎょう)が雨である。智慧(ちえ)がわが軛(くびき)と鋤(すき)とである。慚(はじること)が鋤棒(すきぼう)である。心が縛(しば)る縄(なわ)である。気を落ちつけることがわが鋤先(すきさき)と突棒(つきぼう)とである。身をつつしみ、ことばをつつしみ、食物を節して過食しない。わたくしは真実をまもることを草刈(くさか)りとしている。柔和(にゅうわ)がわたくしにとって軛(くびき)を離すことである。努力がわが牛であり、安穏(あんのん)の境地に運んでくれる。退(しりぞ)くことなく進み、そこに至ったならば、憂(うれ)えることがない。この耕作はこのようになされ、甘露(かんろ)の果実(みのり)をもたらす。この耕作を行ったならば、あらゆる苦悩から解(と)き放たれる。」とても具体的で示唆に富む教えです。

(18:54)

2021年05月21日

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今日5月21日を本派では親鸞聖人の誕生日(降誕:ごうたん)としている。私たちはそれぞれ誕生日をおめでとうと祝うわけだが、ちょっとまがった言い方をすれば、これから老病死への苦しみに向かって生きていくわけだからあんまりおめでたくはない。ただし、仏法に出遇われた先人は老病死のご縁にあうことを喜びに転じていかれた。苦の中においても生をありがとうといただけたときが、私の本当の誕生日かもしれない。真実の教えと出遇わなければ、そのご縁をいただくことはないでしょう。その教えを示してくださった親鸞聖人の誕生にありがとうございましたとお勤めさせていただきました。

(21:57)

2021年05月04日

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先日、住職の集まりがありました。ある住職が落ち着いていた人間関係がコロナ禍のストレスでギスギスしてきたと問題提起されました。柱がないと、まわりの小さな揺れにも弱く表面的な付き合いはすぐにふらつきくずれていきます。
わたくし自身も自粛生活でストレスをかかえています。
最も古い仏典『スッタニパータ』に「犀(さい)の角(つの)のようにただ独(ひと)り歩め」とあります。サイにつのがひとつしかないようにまわりに惑わされないように自分にもひとつ真実の柱を持てということでしょう。
今回のウィルス大流行は、わたくしのいのちの柱は何なのかをゆっくり考える大切なご縁ととらえたいと思います。

(21:47)

2021年02月20日

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「『華厳経(けごんきょう)』の偈(げ)にのたまふがごとし。もし菩薩(ぼさつ)、種々(しゅじゅ)の行(ぎょう)を修行(しゅぎょう)するを見(み)て、善(ぜん)・不善(ふぜん)の心(しん)を起(おこ)すことありとも、菩薩みな摂取(せっしゅ)せんと。」(聖典p474)

●前回は『安楽集』により「いつでも・どこでも」と阿弥陀如来の救いの時間的無限を示し、今回は『華厳経』により「だれでも」と阿弥陀如来の平等の救い(空間的無限)が示されています。善を行おうとしても思い通りにはできない不善のわたくしが救いの目当てであり、現実社会の中では悩みや苦しみをかかえる人々すべてをも等しく受け入れていくのがお念仏の教えです。この教えと共に人生を一緒に歩んでいきたいものです。(『教行信証』おわり)

(18:36)

2021年02月17日

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「『安楽集』にいはく、真言(しんごん)を採(と)り集(あつ)めて、往益(おうやく)を助修(じょしゅ)せしむ。いかんとなれば、前(さき)に生(うま)れんものは後(のち)を導(みちび)き、後(のち)に生(うま)れんひとは前(さき)を訪(とぶら)へ、連続無窮(れんぞくむぐう)にして、願(ねが)はくは休止(くし)せざらしめんと欲(ほっ)す。無辺(むへん)の生死海(しょうじかい)を尽(つく)さんがためのゆゑなりと。しかれば、末代(まつだい)の道俗(どうぞく)、仰(あお)いで信敬(しんきょう)すべきなり、知(し)るべし。」(聖典p474)

●『教行信証』の最後の最後に親鸞聖人は道綽禅師の『安楽集』と次回述べます『華厳経』を引用されました。道綽禅師は、人には仏に成る性格が備わっていると説く『涅槃経』から自らの本性を深く見つめられ、末法の時代も重なって、自らの修行では煩悩を断ち切り仏に成ることはできないと自覚されました。そして浄土門(他力念仏の教え)のみが浄土往生への道であると示されています。親鸞聖人は、どの時代にあってもお念仏から我が身のあり方を聞いてほしい。またそれがずっと続いてほしいと願われておられることでしょう。

(21:55)

2021年02月13日

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「慶(よろこ)ばしいかな、心を弘誓(ぐぜい)の仏地(ぶつじ)に樹(た)て、念(おもい)を難思(なんじ)の法海(ほうかい)に流す。深く如来(にょらい)の矜哀(こうあい)を知(し)りて、まことに師教(しきょう)の恩厚(おんこう)を仰(あお)ぐ。慶喜(きょうき)いよいよ至(いた)り、至孝(しこう)いよいよ重(おも)し。これによりて、真宗(しんしゅう)の詮(せん)を鈔(しょう)し、浄土(じょうど)の要(よう)を摭(ひろ)ふ。ただ仏恩(ぶっとん)の深(ふか)きことを念(おも)うて、人倫(じんりん)の嘲(あざけ)りを恥(は)ぢず。もしこの書(しょ)を見聞(けんもん)せんもの、信順(しんじゅん)を因(いん)とし、疑謗(ぎほう)を縁(えん)として、信楽(しんぎょう)を願力(がんりき)に彰(あらわ)し、妙果(みょうか)を安養(あんにょう)に顕(あらわ)さんと。」(聖典p473)

●親鸞聖人は、心を弘誓の仏地にたて(今いる所が本願の大地の上だとはっきりしている)、妙果を安養にあらわす(進むべき方向が浄土で仏になることとはっきりしている)ことを高らかに慶ばれています。その信心を届けられた阿弥陀如来のご恩は、延暦寺の奏状に代表される世の人々のあざけりも問題にならないばかりか、その謗(そし)りさえご縁といだだけるほど深いものなのです。

(18:33)

2021年02月07日

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「しかるに愚禿(ぐとく)釈(しゃく)の鸞(らん)、建仁辛酉(けんにんかのとり)の暦(れき)、雑行(ぞうぎょう)を棄(す)てて本願(ほんがん)に帰(き)す。」(聖典p472)

●建仁元年は1201年で、親鸞聖人29歳、法然上人が説かれておられたお念仏の教えに出遇われた年です。雑行とは本願他力のお念仏以外の自力の教えです。煩悩から生じた我欲にとらわれ、現世利益や自分の願いをかなえることばかりに必死になり、お念仏さえもその手段としてしまう私。その我欲から離れることはたいへん困難なことですが、本願を聞いて自らを厳しくかえりみてご自身を愚禿と呼ばれた親鸞聖人の生き方に、少しでも近づき学びたいと思います。

(18:37)

2021年02月05日

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「主上臣下(しゅじょうしんか)、法(ほう)に背(そむ)き義(ぎ)に違(い)し、忿(いか)りを成(な)し怨(うら)みを結(むす)ぶ。これによりて、真宗興隆(しんしゅうこうりゅう)の大祖源空法師(たいそげんくうほっし)ならびに門徒数輩(もんとすうはい)、罪科(ざいか)を考へず、猥(みだ)りがはしく死罪(しざい)に坐(つみ)す。あるいは僧儀(そうぎ)を改(あらため)て姓名(しょうみょう)を賜(たも)うて遠流(おんる)に処(しょ)す。予(よ)はその一(ひと)つなり。しかれば、すでに僧(そう)にあらず俗(ぞく)にあらず。このゆゑに禿(とく)の字(じ)をもって姓(しょう)とす。」(聖典p472)

●興福寺や比叡山において国家を鎮護することを仏教としていた宗派に対して、お念仏の教えは民衆に向けて生死を超える道を説いていました。仏教の説く真実を違えた権力は法然上人・親鸞聖人等を流罪や死罪としました。親鸞聖人は越後(新潟)に流罪となるにあたって朝廷から還俗(僧籍をはく奪)されます。権力に媚(こ)びる僧ではないし、権力法(道徳)にまかせる俗人でもなく、お念仏(真実)に依って生きることを誓われた親鸞聖人は自らを愚禿(ぐとく)と名のられ、深く自己を見つめていかれたのです。

(17:03)

2021年02月01日

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「ひそかにおもんみれば、聖道(しょうどう)の諸行(しょぎょう)は行証(ぎょうしょう)久(ひさ)しく廃(すた)れ、浄土(じょうど)の真宗(しんしゅう)は証道(しょうどう)いま盛(さか)んなり。しかるに諸寺(しょじ)の釈門(しゃくもんと)、教(きょう)に昏(くら)くして真仮(しんけ)の門戸(もんこ)を知(し)らず、洛都(らくと)の儒林(じゅりん)、行(ぎょう)に迷(まど)ひて邪正(じゃしょう)の道路(どうろ)を弁(わきま)ふることなし。」(聖典p471)

●ここからが『教行信証後序』です。聖道門は廃れていき浄土門が盛んになっているのは、聖道のお寺が釈尊の経(教え)の真実がわからず、儒林(儒教)つまりお経の表面だけしかとらえていない道徳にとらわれ迷い、正しい道を外れているからと示されます。このことが、朝廷に仕える学者も同様であり、次に述べる承元の法難につながっていくわけです。

(18:37)

2021年01月26日

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「『正法念経(しょうぼうねんぎょう)』にのたまはく、人(ひと)戒(かい)を持(たも)たざれば、諸天(しょてん)減少(げんしょう)し、阿修羅(あしゅら)盛(さか)りなり。善竜(ぜんりゅう)力(ちから)なし、悪竜(あくりゅう)力あり。悪竜力あれば、すなはち霜雹(そうはく)を降(くだ)して非時(ひじ)の暴風疾雨(ぼうふうしつう)ありて、五穀(ごこく)登(みの)らず、疾病(しつやく)競(きそ)ひ起(おこ)り、人民(じんみん)飢饉(けごんとjいす、たがひにあひ残害(ざんがい)す。もし人戒を持てば、多く諸天(しょてん)威光(いこう)を増足(ぞうそく)す。修羅(しゅら)減少(げんしょう)し、悪竜力なし、善竜力あり。善竜力あれば、風雨(ふうう)時(とき)に順(じゅん)じ、四気和暢(しきわちょう)なり。甘雨(かんう)降りて稔穀(ねんこく)豊(ゆた)かなり、人民(じんみん)安楽(あんらく)にして兵戈(へいか)戢息(しゅうそく)す。疾疫(しつやく)行(ぎょう)ぜざるなりと。」(聖典p466)

●仏教が教える真実が人間の勝手な振る舞いで乱されるなら、自然や環境を犯し、病気がはやり、貧困・差別から戦争がおこる。真実をよりどころにするならば、四季もおだやかで、穀物が実り、人々は安らぎ戦い争うこともなくなり、病気もはやらないと、説かれます。このコロナ禍の現状の中、たくさんの教訓を与えられることです。


(18:14)