2021年05月04日

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先日、住職の集まりがありました。ある住職が落ち着いていた人間関係がコロナ禍のストレスでギスギスしてきたと問題提起されました。柱がないと、まわりの小さな揺れにも弱く表面的な付き合いはすぐにふらつきくずれていきます。
わたくし自身も自粛生活でストレスをかかえています。
最も古い仏典『スッタニパータ』に「犀(さい)の角(つの)のようにただ独(ひと)り歩め」とあります。サイにつのがひとつしかないようにまわりに惑わされないように自分にもひとつ真実の柱を持てということでしょう。
今回のウィルス大流行は、わたくしのいのちの柱は何なのかをゆっくり考える大切なご縁ととらえたいと思います。

(21:47)

2021年02月20日

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「『華厳経(けごんきょう)』の偈(げ)にのたまふがごとし。もし菩薩(ぼさつ)、種々(しゅじゅ)の行(ぎょう)を修行(しゅぎょう)するを見(み)て、善(ぜん)・不善(ふぜん)の心(しん)を起(おこ)すことありとも、菩薩みな摂取(せっしゅ)せんと。」(聖典p474)

●前回は『安楽集』により「いつでも・どこでも」と阿弥陀如来の救いの時間的無限を示し、今回は『華厳経』により「だれでも」と阿弥陀如来の平等の救い(空間的無限)が示されています。善を行おうとしても思い通りにはできない不善のわたくしが救いの目当てであり、現実社会の中では悩みや苦しみをかかえる人々すべてをも等しく受け入れていくのがお念仏の教えです。この教えと共に人生を一緒に歩んでいきたいものです。(『教行信証』おわり)

(18:36)

2021年02月17日

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「『安楽集』にいはく、真言(しんごん)を採(と)り集(あつ)めて、往益(おうやく)を助修(じょしゅ)せしむ。いかんとなれば、前(さき)に生(うま)れんものは後(のち)を導(みちび)き、後(のち)に生(うま)れんひとは前(さき)を訪(とぶら)へ、連続無窮(れんぞくむぐう)にして、願(ねが)はくは休止(くし)せざらしめんと欲(ほっ)す。無辺(むへん)の生死海(しょうじかい)を尽(つく)さんがためのゆゑなりと。しかれば、末代(まつだい)の道俗(どうぞく)、仰(あお)いで信敬(しんきょう)すべきなり、知(し)るべし。」(聖典p474)

●『教行信証』の最後の最後に親鸞聖人は道綽禅師の『安楽集』と次回述べます『華厳経』を引用されました。道綽禅師は、人には仏に成る性格が備わっていると説く『涅槃経』から自らの本性を深く見つめられ、末法の時代も重なって、自らの修行では煩悩を断ち切り仏に成ることはできないと自覚されました。そして浄土門(他力念仏の教え)のみが浄土往生への道であると示されています。親鸞聖人は、どの時代にあってもお念仏から我が身のあり方を聞いてほしい。またそれがずっと続いてほしいと願われておられることでしょう。

(21:55)

2021年02月13日

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「慶(よろこ)ばしいかな、心を弘誓(ぐぜい)の仏地(ぶつじ)に樹(た)て、念(おもい)を難思(なんじ)の法海(ほうかい)に流す。深く如来(にょらい)の矜哀(こうあい)を知(し)りて、まことに師教(しきょう)の恩厚(おんこう)を仰(あお)ぐ。慶喜(きょうき)いよいよ至(いた)り、至孝(しこう)いよいよ重(おも)し。これによりて、真宗(しんしゅう)の詮(せん)を鈔(しょう)し、浄土(じょうど)の要(よう)を摭(ひろ)ふ。ただ仏恩(ぶっとん)の深(ふか)きことを念(おも)うて、人倫(じんりん)の嘲(あざけ)りを恥(は)ぢず。もしこの書(しょ)を見聞(けんもん)せんもの、信順(しんじゅん)を因(いん)とし、疑謗(ぎほう)を縁(えん)として、信楽(しんぎょう)を願力(がんりき)に彰(あらわ)し、妙果(みょうか)を安養(あんにょう)に顕(あらわ)さんと。」(聖典p473)

●親鸞聖人は、心を弘誓の仏地にたて(今いる所が本願の大地の上だとはっきりしている)、妙果を安養にあらわす(進むべき方向が浄土で仏になることとはっきりしている)ことを高らかに慶ばれています。その信心を届けられた阿弥陀如来のご恩は、延暦寺の奏状に代表される世の人々のあざけりも問題にならないばかりか、その謗(そし)りさえご縁といだだけるほど深いものなのです。

(18:33)

2021年02月07日

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「しかるに愚禿(ぐとく)釈(しゃく)の鸞(らん)、建仁辛酉(けんにんかのとり)の暦(れき)、雑行(ぞうぎょう)を棄(す)てて本願(ほんがん)に帰(き)す。」(聖典p472)

●建仁元年は1201年で、親鸞聖人29歳、法然上人が説かれておられたお念仏の教えに出遇われた年です。雑行とは本願他力のお念仏以外の自力の教えです。煩悩から生じた我欲にとらわれ、現世利益や自分の願いをかなえることばかりに必死になり、お念仏さえもその手段としてしまう私。その我欲から離れることはたいへん困難なことですが、本願を聞いて自らを厳しくかえりみてご自身を愚禿と呼ばれた親鸞聖人の生き方に、少しでも近づき学びたいと思います。

(18:37)

2021年02月05日

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「主上臣下(しゅじょうしんか)、法(ほう)に背(そむ)き義(ぎ)に違(い)し、忿(いか)りを成(な)し怨(うら)みを結(むす)ぶ。これによりて、真宗興隆(しんしゅうこうりゅう)の大祖源空法師(たいそげんくうほっし)ならびに門徒数輩(もんとすうはい)、罪科(ざいか)を考へず、猥(みだ)りがはしく死罪(しざい)に坐(つみ)す。あるいは僧儀(そうぎ)を改(あらため)て姓名(しょうみょう)を賜(たも)うて遠流(おんる)に処(しょ)す。予(よ)はその一(ひと)つなり。しかれば、すでに僧(そう)にあらず俗(ぞく)にあらず。このゆゑに禿(とく)の字(じ)をもって姓(しょう)とす。」(聖典p472)

●興福寺や比叡山において国家を鎮護することを仏教としていた宗派に対して、お念仏の教えは民衆に向けて生死を超える道を説いていました。仏教の説く真実を違えた権力は法然上人・親鸞聖人等を流罪や死罪としました。親鸞聖人は越後(新潟)に流罪となるにあたって朝廷から還俗(僧籍をはく奪)されます。権力に媚(こ)びる僧ではないし、権力法(道徳)にまかせる俗人でもなく、お念仏(真実)に依って生きることを誓われた親鸞聖人は自らを愚禿(ぐとく)と名のられ、深く自己を見つめていかれたのです。

(17:03)

2021年02月01日

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「ひそかにおもんみれば、聖道(しょうどう)の諸行(しょぎょう)は行証(ぎょうしょう)久(ひさ)しく廃(すた)れ、浄土(じょうど)の真宗(しんしゅう)は証道(しょうどう)いま盛(さか)んなり。しかるに諸寺(しょじ)の釈門(しゃくもんと)、教(きょう)に昏(くら)くして真仮(しんけ)の門戸(もんこ)を知(し)らず、洛都(らくと)の儒林(じゅりん)、行(ぎょう)に迷(まど)ひて邪正(じゃしょう)の道路(どうろ)を弁(わきま)ふることなし。」(聖典p471)

●ここからが『教行信証後序』です。聖道門は廃れていき浄土門が盛んになっているのは、聖道のお寺が釈尊の経(教え)の真実がわからず、儒林(儒教)つまりお経の表面だけしかとらえていない道徳にとらわれ迷い、正しい道を外れているからと示されます。このことが、朝廷に仕える学者も同様であり、次に述べる承元の法難につながっていくわけです。

(18:37)

2021年01月26日

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「『正法念経(しょうぼうねんぎょう)』にのたまはく、人(ひと)戒(かい)を持(たも)たざれば、諸天(しょてん)減少(げんしょう)し、阿修羅(あしゅら)盛(さか)りなり。善竜(ぜんりゅう)力(ちから)なし、悪竜(あくりゅう)力あり。悪竜力あれば、すなはち霜雹(そうはく)を降(くだ)して非時(ひじ)の暴風疾雨(ぼうふうしつう)ありて、五穀(ごこく)登(みの)らず、疾病(しつやく)競(きそ)ひ起(おこ)り、人民(じんみん)飢饉(けごんとjいす、たがひにあひ残害(ざんがい)す。もし人戒を持てば、多く諸天(しょてん)威光(いこう)を増足(ぞうそく)す。修羅(しゅら)減少(げんしょう)し、悪竜力なし、善竜力あり。善竜力あれば、風雨(ふうう)時(とき)に順(じゅん)じ、四気和暢(しきわちょう)なり。甘雨(かんう)降りて稔穀(ねんこく)豊(ゆた)かなり、人民(じんみん)安楽(あんらく)にして兵戈(へいか)戢息(しゅうそく)す。疾疫(しつやく)行(ぎょう)ぜざるなりと。」(聖典p466)

●仏教が教える真実が人間の勝手な振る舞いで乱されるなら、自然や環境を犯し、病気がはやり、貧困・差別から戦争がおこる。真実をよりどころにするならば、四季もおだやかで、穀物が実り、人々は安らぎ戦い争うこともなくなり、病気もはやらないと、説かれます。このコロナ禍の現状の中、たくさんの教訓を与えられることです。


(18:14)

2021年01月15日

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「『菩薩戒経(ぼさつかいきょう)』にのたまはく、出家(しゅっけ)の人の法(ほう)は、国王(こくおう)に向(む)かひて礼拝(らいはい)せず。父母(ぶも)に向かひて礼拝せず、六親(ろくしん)に務(つか)へず、鬼神(きじん)を礼(らい)せずと。」(聖典p454)

●国王・父母・六親・鬼神とは、いわば権力(世俗の価値を持ったものの象徴)であり、仏教は、その価値観を超えている、つまりその時代の価値にしばられることなく自由で広く深い教えということでしょう。また、礼拝の対象はご本尊であり、浄土真宗では阿弥陀如来を礼します。そして、前回にもお伝えしましたように、私が仏さまを拝むのではなく仏さま(阿弥陀さま)の方から願われ・拝まれている私であったと、私のいのちの尊さ・有難さに気づいていくことがまた、あらゆる対象・事物を大切にすることにもなるのでしょう。

(20:13)

2020年10月12日

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「『般舟三昧経(はんじゅざんまいきょう)』にのたまはく、優婆夷(うばい)、この三昧(さんまい)を聞きて学ばんと欲(ほっ)せんものは、みづから仏に帰命(きみょう)し、比丘僧(びくそう)に帰命せよ。余道(よどう)に事(つか)ふることを得(え)ざれ、天(てん)を拝(はい)することを得(え)ざれ、鬼神(きじん)を祠(まつ)ることを得(え)ざれ、吉良日(きちりょうにち)を視(み)ることを得(え)ざれとなり。」(聖典p429)

●お念仏をいただくものは、仏・法・僧(サンガ:同朋)の三宝に帰依しなさい。仏教以外の教えは必要ありません。天の神々を拝む必要もありません。神をまつる必要もありません。日の良し悪しを選ぶ必要もありません。阿弥陀さまからすでに願われ・拝まれている私であるといただけるならば、私の方から他の教えをよりどころにしたり、私の方から神々を拝んだり、私の執着で日のよしあしを選んだりする必要は全くないということです。

(21:08)

2020年07月29日

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「涅槃(ねはん)に入(い)りなんとせし時、もろもろの比丘(びく)に語(かた)りたまはく、今日(こんにち)より法(ほう)に依(よ)りて人(にん)に依らざるべし、義(ぎ)に依りて語(ご)に依らざるべし、智(ち)に依りて識(しき)に依らざるべし、了義経(りょうぎきょう)に依りて不了義(ふりょうぎ)に依らざるびし。」(聖典p414)

●お釈迦さまは入滅されるときお弟子方に示されました。仏法をたよりにして、それを説く人をたよりにしてはいけない。教えの本質をたよりにして、教えの説明をたよりにしてはいけない。真実の智慧をたよりにして、分別する人の知識をたよりにしてはいけない。真実経をたよりにして、方便経をたよりにしてはいけない。わたくしも心にとどめておきたいお言葉です。

(17:19)

2020年06月12日

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「まことに知(し)んぬ、聖道(しょうどう)の諸教(しょぎょう)は、在世(ざいせ)・正法(しょうぼう)のためにして、まったく像末(ぞうまつ)・法滅(ほうめつ)の時機(じき)にあらず。すでに時(とき)を失(しっ)し機(き)に乖(そむ)けるなり。浄土真宗(じょうどしんしゅう)は、在世・正法、像末・法滅、濁悪(じょくあく)の群萌(ぐんもう)、斉(ひと)しく悲引(ひいん)したまふをや。」(聖典p413)

●自力聖道門の教えは、正法の時代(教えも修行をする人もさとりをひらく人もいる時代)のためのものであって、像法や末法のように修行もせずさとりをひらく人もいない時代には合わない。他力お念仏の教えは、お釈迦さまの時代から今の時代まで変わりなく、煩悩の私たちを等しく慈悲をもって導いてくださる教えなのです。その教えに今お育ていただいています。有難いことです。

(16:37)

2020年05月31日

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「ここをもって愚禿(ぐとく)釈(しゃく)の鸞(らん)、論主(ろんじゅ)の解義(げぎ)を仰(あお)ぎ、宗師(しゅうし)の勧化(かんけ)によりて、久しく万行諸善(まんぎょうしょぜん)の仮門(けもん)を出でて、永く双樹林下(そうじゅりんげ)の往生を離る。善本徳本(ぜんぽんとくほん)の真門(しんもん)に回入(えにゅう)して、ひとへに難思往生(なんじおうじょう)の心を発(おこ)しき。しかるにいまことに方便(ほうべん)の真門を出でて、選択(せんじゃく)の願海(がんかい)に転入(てんにゅう)せり。すみやかに難思往生の心を離れて、難思議往生(なんじぎおうじょう)を遂(と)げんと欲(ほっ)す。果遂(かすい)の誓(ちかい)第二十願、まことに由(ゆえ)あるかな。ここに久しく願海(がんかい)に入りて、深く仏恩(ぶっとん)を知れり。至徳(しとく)を報謝(ほうしゃ)せんがために、真宗の簡要(かんよう)を摭(ひろ)うて、恒常(ごうじょう)に不可思議(ふかしぎ)の徳海(とくかい)を称念(しょうねん)す。いよいよこれを喜愛(きあい)し、ことにこれを頂戴(ちょうだい)するなり。」(聖典p413)

●親鸞聖人は、論主・宗師すなわち七高僧の教えによって、往生(さとり)を修行にたよる仮門を出て、念仏を往生の徳にする真門を通過し、そして今それも出て自己(自力)という執着を離れて絶対他力すなわち、如来の本願の救いによる往生を喜び、仮門も真門もすべて阿弥陀如来のご用意であったのだといただかれたのです。本願の誓いの深さに。。。ただ念仏申します。


(22:42)

2020年05月25日

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「悲しきかな、垢障(くしょう)の凡愚(ぼんぐ)、無際(むさい)よりこのかた助正間雑(じょしょうけんぞう)し、定散心(じょうさんしん)雑(ぞう)するがゆえに、出離(しゅつり)その期(ご)なし。みづから流転輪廻(るてんりんね)を度(はか)るに、微塵劫(みじんごう)を超過(ちょうか)すれども、仏願力(ぶつがんりき)に帰(き)しがたく、大信海(だいしんかい)に入りがたし。まことに傷嗟(しょうさ)すべし、深く悲嘆(ひたん)すべし。おほよそ大小聖人(だいしょうしょうにん)・一切善人(いっさいぜんにん)、本願の嘉号(かごう)をもっておのれが善根(ぜんごん)とするがゆえに、信を生ずることあたはず、仏智(ぶっち)を了(さと)らず。かの因を建立(こんりゅう)せることを了知(りょうち)することあたはざるゆえに、報土(ほうど)に入ることなきなり。」(聖典p412)

●親鸞さまの我が身を深く振り返られたお言葉です。悲しいことだなぁ。。。煩悩にとらわれた定散心(自力)の念仏では、大信海:阿弥陀さまと同体の仏さまにはなれない。本願の嘉号(お名号)は、阿弥陀さまの本願力のお仕上げなのだから、私のはからいは必要なく、ただお名号(南無阿弥陀仏)を聞き(=信心)、浄土への道を歩むばかりです。なかなかできない悲しいことです。しかしその悲しみの裏側には、悲しみにくれるものこそを見捨てることなく救う阿弥陀如来の大慈悲の世界にもまたふれていることでもあります。

(17:13)

2020年05月13日

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「かの仏恩(ぶっとん)を念報(ねんぽう)することなし。業行(ごうぎょう)をなすといへども心(こころ)に軽慢(きょうまん)を生(しょう)ず。つねに名利(みょうり)と相応(そうおう)するがゆゑに、人我(にんが)おのづから覆(おお)ひて同行(どうぎょう)・善知識(ぜんぢしき)に親近(しんごん)せざるがゆゑに、楽(この)みて雑縁(ぞうえん)に近づきて往生の正行(しょうぎょう)を自障障他(じしょうしょうた)するがゆゑに」(聖典p412)

●善導大師は、真門(いわゆる自力のお念仏)には本当の喜びが伴わない理由として、私たちのおごり(憍慢)の心が名誉や利益を求めることばかりにとらわれ、そのことで念仏の同行(同じ道を歩む仲間)を避け、阿弥陀如来によって示された浄土への道を歩むことをもこばむと示されます。私の煩悩の激しさを自覚させられます。

(16:05)

2020年05月04日

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「まことに知(し)んぬ、専修(せんじゅ)にして雑心(ざっしん)なるものは大慶喜心(だいっきょうきしん)を獲(え)ず。」(聖典p412)

●南無阿弥陀仏とお念仏を称えてはいるけれど、そのお念仏に私の願い心(雑心)が入り込む。あてにならない自力をあてにしては、本当の喜びはわからないということを、親鸞聖人は真門(しんもん)と示されたのでした。

(15:13)

2020年04月17日

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「仏の世にはなはだ値(もうあ)ひがたし。人信慧(しんね)あること難(かた)し。たまたま希有(けう)の法を聞くこと、これまたもっとも難(かた)しとす。みづから信じ、人を教へて信ぜしむること、難(かた)きなかにうたたまた難し。大悲(だいひ)弘(ひろ)くあまねく化(け)するは、まことに仏恩(ぶっとん)を報(ほう)ずるになると。」(聖典p411)

●「仏がいらっしゃる時代に生まれていることは難しいし、信心を得ることも難しい。尊い仏法を聞くことはもっと難しい。自ら信じ、人に教えて信じさせることは、特に難しい。しかし、仏の慈悲によって広く人々を教え導くことが、まことに仏の恩に報いることになる。」善導大師のお言葉を聞かせていただきました。できない私をお念仏申す身に少しでもならせてくださいましたのは、まわりの僧侶・門徒をはじめ多くの仲間たちでした。また、先にお浄土へ還った諸仏方々です。多々のお育てを忘れずに日々を勤めることが、人と共に仏恩を歩むことになるのではないかと思います。

(17:56)

2020年04月13日

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「三経(さんぎょう)の大綱(たいこう)、顕彰隠密(けんしょうおんみつ)の義(ぎ)ありといへども、信心(しんじん)を彰(あらわ)して能入(のうにゅう)とす。ゆゑに経(きょう)の始(はじ)めに「如是(にょぜ)」と称(しょう)す。「如是」の義はすなはちよく信ずる相(そう)なり。いま三経を案(あん)ずるに、みなもって金剛(こんごう)の真心(しんしん)を最要(さいよう)とせり。真心はすなはちこれ大信心(だいしんじん)なり。」(聖典p398)

●『仏説無量寿経』『仏説観無量寿経』『仏説阿弥陀経』には、162で書きましたように根底に「大信心(阿弥陀如来の本願)がかなめとしてあります。お経のはじめの「如是」には、信じ従うという意味もありますが、その信心さえご本願のはたらきによって信じる心のないわたくしに届けられるのです。

(16:59)

2019年12月11日

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「この経(観経)に顕彰隠密(けんしょうおんみつ)の義(ぎ)あることを。二経(大経・観経)の三心(さんしん)、まさに一異(いちい)を談(だん)ぜんとす、よく思量(しりょう)すべきなり。『大経』・『観経』、顕(けん)の義によれば異(い)なり、彰(しょう)の義によれば一(いち)なり、知るべし。」(聖典p383)

●観無量寿経は、凡夫である私たちに理解できるように方便として説かれた「顕」であるが、その根底には無量寿経に説かれた阿弥陀如来のご本願の救い「彰」が脈々と流れている。つまり根底は同じとして読みいただいていくことが大切になる。

(21:39)

2019年12月05日

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「観経(かんぎょう)の定散(じょうさん)の諸機(しょき)は、極重悪人(ごくじゅうあくにん)、ただ弥陀を称(しょう)せよと勧励(かんれい)したまへるなり。濁世(じょくせ)の道俗(どうぞく)、よくみづからおのれが能(のう)を思量(しりょう)せよとなり、知るべし。」(聖典p381)

●『観無量寿経』には、定善(精神を統一して修める行)も散善(散乱した心のまま修める行)のどちらも自力の善行であり、乱れた世の中では自分の力をたよりにすれば、誰もが迷ったり、時として悪をも犯す身でもあったりすることを自覚し、念仏をよりどころにすべきであるとお勧めになっているのです。

(16:30)