2018年02月04日

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「つつしんで真仏土(しんぶつど)を案(あん)ずれば、仏はすなはちこれ不可思議光如来(ふかしぎこうにょらい)なり、土(ど)はまたこれ無量光明土(むりょうこうみょうど)なり。しかればすなはち、大悲(だいひ)の誓願(せいがん)に酬報(しゅうほう)するがゆゑに、真(しん)の報仏土(ほうぶつど)といふなり。」(聖典p337)

●『真仏土巻』の最初の御文です。真仏土すなはち阿弥陀如来の浄土は、どこかにある場所ではなくて無量の光のはたらきであるということです。いつでもどこでも私たちにはたらきづめなので報土とも言われます。そしてそれは阿弥陀如来の誓願(本願)を本質としているということです。

(22:37)

2018年02月02日

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「しかれば、大聖(だいしょう)の真言(しんごん)、まことに知んぬ、大涅槃(だいねはん)を証(しょう)することは願力(がんりき)の回向(えこう)によりてなり。還相(げんそう)の利益(りやく)は利他(りた)の正意(しょうい)を顕(あらわ)すなり。」(聖典p335)

●『証巻』の最後のところです。往相すなはち、私たちが浄土で覚りの仏に成る回向も、還相すなはち、私たちが菩薩のはたらきを恵まれる回向も、阿弥陀仏が私たちを救いたいという正意(本願)なのです。本当に尊いことです。

(18:23)

2018年01月10日

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「本願力(ほんがんりき)といふは、大菩薩(だいぼさつ)、法身(ほっしん)のなかにおいて、つねに三昧(さんまい)にましまして、種々(しゅじゅ)の身(しん)、種々の神通(じんずう)、種々の説法(せっぽう)を現(げん)ずることを示すこと、みな本願力より起(おこ)るをもってなり。」(聖典p334)

●阿弥陀如来の本願力によって、私たちはいのち終わっても、菩薩として娑婆の方々を法に導くはたらきをさせていただくということです。そこに死はなく、浄土へ生まれて仏に成らせていただく喜びのみがあるのです。

(18:59)

2018年01月08日

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「智慧(ちえ)と方便(ほうべん)はこれ菩薩(ぼさつ)の父母(ぶも)なり、もし智慧と方便とによらずは、菩薩の法すなはち成就(じょうじゅ)せざることを知るべし。」(聖典p330)

●方便とは、さとりの智慧に導く手段です。いわば慈悲の発起といえます。阿弥陀如来の智慧はそのまま大慈悲となって私たちへ「南無阿弥陀仏」とはたらいているわけです。それは、私たちに仏の智慧に向かって歩んでほしいという願いでもあります。尊くきびしい呼び声です。

(21:22)

2018年01月05日

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「かくのごときの菩薩(ぼさつ)は、奢摩多(しゃまた)・毘婆舎那(びばしゃな)、広略修行成就(こうりゃくしゅぎょうじょうじゅ)して柔軟心(にゅうなんしん)なり(『浄土論』)とのたまへり。」(聖典p325)

●正定聚の身にならせていただき、仏への道を歩ませていただいている私たちは、いわば菩薩。だとすれば柔軟心すなわち、とらわれない調和の心を持ちたいものである。



(18:12)

2016年11月08日

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「諸仏(しょぶつ)・菩薩(ぼさつ)に二種の法身(ほっしん)あり。一つには法性法身(ほっしょうほっしん)、二つには方便法身(ほうべんほっしん)なり。法性法身によりて方便法身を生(しょう)ず。方便法身によりて法性法身を出(い)だす。この二(に)の法身は、異(い)にして分(わか)つべからず、一(いつ)にして同じかるべからず。」(聖典p321)

●法性法身とは、真如つまり真実そのものであり色もかたちもありません。衆生救済のために真如は、名を示し形を示して方便法身の南無阿弥陀仏と、このわたくしに届いてくださるのです。本当に有難いことです。

(22:24)

2016年10月11日

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「二つに還相(げんそう)の回向(えこう)といふは、すなはちこれ利他教化地(りたきょうけじ)の益(やく)なり。すなはちこれ必至補処(ひっしふしょ)の願(がん)二十二願より出(い)でたり。また一生補処(いっしょうふしょ)の願と名づく。また還相回向の願と名づくべきなり。」(聖典p313)

●阿弥陀如来のお悟りの智慧は、大悲となって今ここで私にはたらいていることを還相回向と言います。阿弥陀如来の還相回向に遇うことで、私は往相回向されるのです。具体的に言うと、還相の菩薩つまり私を仏法との出遇いに導いてくださる人と出遇うということです。親鸞聖人にとっては、「よき人法然聖人の仰せに出遇わせていただいた事実だ」といただかれておられるのです。

(23:44)

2016年08月05日

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「それ真宗の教行信証を案ずれば、如来の大悲回向(だいひえこう)の利益(りやく)なり。ゆゑに、もしは因(いん)、もしは果(か)、一事(いちじ)として阿弥陀如来の清浄願心(しょうじょうがんしん)の回向成就(えこうじょうじゅ)したまへるところにあらざることあることなし。因浄(いんじょう)なるがゆゑに、果また浄なり、知るべしとなり。」(聖典p312)

●阿弥陀如来の願いは成就され、その智慧が大悲となってわたくしに届き、浄土往生成仏という苦悩の根本解決の利益を与えてくださるのです。これを往相回向といただき喜びたいものです。



(00:17)

2016年08月02日

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「煩悩成就(ぼんのうじょうじゅ)の凡夫(ぼんぶ)、生死罪濁(しょうじざいじょく)の群萌(ぐんもう)、往相回向(おうそうえこう)の心行(しんぎょう)を獲(う)れば、即(そく)の時に大乗正定聚(だいじょうしょうじょうじゅ)の数(かず)に入るなり。正定聚に住(じゅう)するがゆゑに、かならず滅度(めつど)に至(いた)る。」(聖典p307)

●『証巻』最初のところで、浄土真宗の要のひとつと言ってよい文言です。阿弥陀如来のご信心をいただけば、煩悩そのものであるわたくしも必ず浄土往生が決定するということです。ご信心をいただいた即の時から成仏への道を歩む人生を正定聚と言います。言いかえれば、ご信心いただいた身であるのかを今わたくしは問われているのです。


(21:58)

2016年07月30日

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「蟪蛄(けいこ)春秋(しゅんじゅう)を識(し)らず、伊虫(いちゅう)あに朱陽(しゅよう)の節(せつ)を知らんや」(聖典p301)

●セミは幼虫として約6~7年間土の中で過ごし、夏に外へ出て羽化し、1ヶ月ほど成虫として生きています。つまり、セミは春や秋という季節は知らないのです。そればかりか春や秋を知らないセミは、今鳴いているこの夏の季節もわかっていないということです。自我が盛んで、まわりが見えていないこの私は、自分自身のことさえ見えてはいないということでしょう。自分の本当の姿を知らせていただくことは、ただ仏法に遇うことです。

(00:49)

2016年07月28日

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「ここをもつていま大聖(だいしょう)釈尊の真説(しんせつ)によるに、難化(なんげ)の三機(さんき)、難治(なんち)の三病(さんびょう)は、大悲の弘誓(ぐぜい)を憑(たの)み、利他(りた)の信海(しんかい)に帰(き)すれば、これを矜哀(こうあい)して治(ち)す、これを憐憫(れんびん)して療(りょう)したまふ。」(聖典p295)

●救われがたい五逆、謗法、一闡提(つまり仏法に背き、教えを聞こうとしないもの)三機三病の私たちでも、如来は他力回向の信心を与えて、誰も除くことなく救われるということです。そのような大きな慈悲に包まれていることを喜び、同時に自らの行いを振り返りつつ人生を歩めたら豊かでしょう。

(20:36)

2016年07月25日

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「世尊(せそん)、もしわれあきらかによく衆生(しゅじょう)のもろもろの悪心(あくしん)を破壊(はえ)せば、われつねに阿鼻地獄(あびじごく)にありて、無量劫(むりょうこう)のうちにもろもろの衆生のために苦悩を受けしむとも、もって苦とせずと。」(聖典p287)

●自分のことしか考えることができなかったアジャセ王子は、阿弥陀如来の智慧のはたらきで慚愧の心に気づき、自らの罪を引き受け、さらに人々の苦悩のために慈悲を施す心にまで転じられていったのです。これが如来の智慧のすごさです。

(23:00)

2016年07月19日

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「栴檀樹(せんだんじゅ)はすなはちこれわが心、無根(むこん)の信なり。」(聖典p286)

●栴檀の木は香木です。以前、わたくしの家にも4mぐらいの大きな栴檀の木がありましたが台風で根から折れました。1ヶ月ぐらい庭は良い香りに包まれていました。わたくしの煩悩に根ざしてなくて、仏の香る大智悲から与えられた心(信心)を無根の信といいます。お参りで香を焚くのもそういう意味です。

(22:36)

2016年07月18日

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「如来もまたしかりなり。もろもろの衆生(しゅじょう)において平等(びょうどう)ならざるにあらざれども、しかるに罪者(ざいしゃ)において心すなはちひとへに重し。」(聖典p279)

●阿弥陀如来の救いは、もちろん平等にわたくし達へ与えられるけれど、罪者つまり自ら痛む心をもつ者に重点的に与えられるのです。さてわたくしは自分の心がはっきりわかっているだろうか。ごう慢で痛みも感じないわたくしに救いはないのである。

(19:16)

2016年07月17日

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「慚愧(ざんぎ)あるがゆゑに、すなはちよく父母・師長(ぶも・しちょう)を恭敬(くぎょう)す。」(聖典p275)

●慚愧の心を持つことは、それがエネルギーとなって、あらゆるいのちをつつしみ敬っていけるということです。『観無量寿経』のアジャセ王子は、その慚愧の心に気づくご縁を、なんと自らの手で殺した父から導かれるのです。尊いお経です。

(18:55)

2016年01月27日

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「無慚愧(むざんぎ)は名づけて人(にん)とせず、名づけて畜生(ちくしょう)とす。」(聖典p275)

●前回に続くお言葉です。私たちは、悪意がなくても人を踏みつけ、迷惑をかけ、他のいのちを奪い、多くの罪をつくって生かされています。そのことに気づくには真実のみ教えに出遇うことが必要です。慚愧なきものは人になりきれていないという厳しい指摘に頭が下がるばかりです。また、人として生まれてきた意味は、教え(仏法)に遇うことである、ということを改めて思います。

(15:11)

2016年01月11日

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「二つの白法(びゃくほう)あり、よく衆生(しゅじょう)を救(たす)く。一つには慚(ざん)、二つには愧(き)なり。慚はみづから罪を作らず、愧は他を教えてなさしめず。慚はうちにみづから羞恥(しゅうち)す、愧は発露(はつろ)して人に向かう。慚は人に羞(は)づ、愧は天に羞づ。これを慚愧(ざんぎ)と名づく。」(聖典p275)

●『涅槃経』からの引用のご文です。罪多きアジャセ王子にギバ大臣が語りかけ、お釈迦さまの前に導いていくご文です。煩悩にしばられ思い通りにならないことを苦しむ我が身こそが、阿弥陀如来の救いのめあてです。如来の願いに照らされて、常に我が身を慚愧していくところにまた、如来の大悲の深さとの出遇いも重ねられていくことでしょう。





(22:37)

2015年08月26日

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「まことに知(し)んぬ、悲しきかな愚禿鸞(ぐとくらん)、愛欲(あいよく)の広海(こうかい)に沈没(ちんもつ)し、名利(みょうり)の太山(たいせん)に迷惑(めいわく)して、定聚(じょうじゅ)の数(かず)に入ることを喜ばず、真証(しんしょう)の証(さとり)に近づくことを快(たの)しまざることを、恥(は)づべし傷(いた)むべしと。」(聖典p266)

●親鸞聖人ほど自分自身を深く見つめられた方はいません。それもじっと考えるのではなく、厳しい修行に身を置くことで、自らさとりに近づこうとする傲慢な心(仮)を知り、民衆の中に身を置くことで、先入観にしばられている偏見の心(偽)に気づいていかれたのです。そしてご自身の恥ずかしく傷む心の底にも阿弥陀如来の本願は絶えずはたらき続けているのです。

(22:09)

2015年07月31日

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「偽(ぎ)といふは、すなはち六十二見(ろくじゅうにけん)・九十五種(くじゅうごしゅ)の邪道(じゃどう)これなり。」(聖典p265)

●偽の宗教とは、仏教以外の占ったり拝んだりするにせものの教えです。しかしそれは、我が身のことを明らかにすることなく、まわりを偏見したり、すがり拝んだりするわたくし自身の弱さにもつながっています。真の教え(念仏の教え)は、そのようなわたくしのいのちの柱となり、迷うことなく歩んでいく道を示してくださるのです。

(23:52)

2015年07月20日

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「仮(け)といふは、すなはちこれ聖道(しょうどう)の諸機(しょき)、浄土の定散(じょうさん)の機(き)なり。」(聖典p265)

●仮の宗教とは、話としては道理が通るが実際にさとりを得ることはできないという教えです。それは自力聖道門や自力念仏の人であります。さらにそのことはわたくし自身の自らの力を過信するおごりの姿勢でもあります。そして、その正しくない姿勢に気づかせてくださるのが、真の教え(念仏の教え)でもあります。

(19:05)