2018年07月09日

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「『浄土論(じょうどろん)』にいはく、世尊(せそん)、われ一心(いっしん)に尽十方(じんじっぽう)の無礙光如来(むげこうにょらい)に帰命(きみょう)したてまつりて、安楽国(あんらくこく)に生(しょう)ぜんと願(がん)ず。かの世界の相(そう)を観(かん)ずるに、三界(さんがい)の道(どう)に勝過(しょうか)せり。究竟(くきょう)して虚空(こくう)のごとし、広大(こうだい)にして辺際(へんざい)なし。」(聖典p357)

●インドの天親菩薩の著書『浄土論』の有名な一節です。「阿弥陀如来の信心におまかせする(如来の願いを疑いなく聞かせていただいた)ならば、浄土往生する。浄土は輪廻を離れた(克服した)世界である。浄土は究極の覚りそのものであって、大空のように端っこがないくらいに広い世界である。」宇宙のように私たちを含めて、すべてを包んではたらいている如来の大悲の広さ・深さに気づいてみましょう。

(23:30)

2018年07月06日

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「如来世尊(にょらいせそん)、衆生(しゅじょう)のためのゆゑに、広(こう)のなかに略(りゃく)を説く、略のなかに広を説く。第一義諦(だいいちぎたい)を説きて世帯(せたい)とす、世諦の法(ほう)を説きて第一義諦とす。」(聖典p354)

●如来は、私たちのために幅広く説かれたものを簡単に示し、簡単に示されたものを幅広く説かれるのです。第一義諦、つまり真実を説いて世俗価値の柱とし、世俗諦を説くことで真実法に近づけようとされるのです。そのようにしてすべての者を救う手立てをとってくださっています。




(22:00)

2018年07月05日

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「如来は実(じつ)に畢竟涅槃(ひっきょうねはん)にあらざる、これを菩薩(ぼさつ)と名づくと。」(聖典p348)

●阿弥陀如来はさとりの世界、つまりお浄土にとどまらず、絶えず私たちの迷いの世界にて、菩薩としてはたらいています。私はいつもそのはたらきにあずかっていますし、いのち終わったときには、同じはたらきにつかせていただけるのです。ありがたいことです。

(17:11)

2018年07月03日

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「もし衆生(しゅじょう)ありて、その光明(こうみょう)の威神功徳(いじんくどく)を聞きて、日夜(にちや)に称説(しょうせつ)し、心を至(いた)して断(た)えざれば、意(こころ)の所願(しょがん)に随(したが)ひて、その国に生ずることを得て、もろもろの菩薩・声聞大衆(しょうもんだいしゅ)のために、ともにその功徳(くどく)を嘆誉(たんよ)し称(しょう)せられん。それしかうして後(のち)、仏道を得る時に至りて、あまねく十方の諸仏・菩薩のために、その光明を嘆ぜられんこと、またいまのごときならんと。」(聖典p338)

●また、私たちが阿弥陀如来の光明をナムアミダブツと日夜聞かせていただくならば、本願のままに必ず浄土往生して、仏の覚りを開かせていただき、阿弥陀如来と同じようにあらゆる菩薩や聖者に讃えられることでしょう。

(18:41)

2018年07月02日

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「仏、阿難(あなん)に告(つ)げたまはく、無量寿仏(むりょうじゅぶつ)の威神光明(いじんこうみょう)、最尊第一(さいそんだいいち)にして、諸仏(しょぶつ)の光明(こうみょう)の及(およ)ぶことあたはざるところなり。このゆゑに無量寿仏をば無量光仏(むりょうこうぶつ)・無辺光仏(むへんこうぶつ)・無碍光仏(むげこうぶつ)・無対光仏(むたいこうぶつ)・炎王光仏(えんのうこうぶつ)・清浄光仏(しょうじょうこうぶつ)・歓喜光仏(かんぎこうぶつ)・智慧光仏(ちえこうぶつ)・不断光仏(ふだんこうぶつ)・難思光仏(なんじこうぶつ)・無称光仏(むしょうこうぶつ)・超日月光仏(ちょうにちがっこうぶつ)と号す。それ衆生(しゅじょう)ありて、この光に遇(もうあ)ふものは、三垢消滅(さんくしょうめつ)し、身意柔軟(しんいにゅうなん)なり。歓喜踊躍(かんぎゆやく)し善心(ぜんしん)生ず。」(聖典p337)

●阿弥陀如来の光明に遇うものは、自らの三毒の煩悩が明らかになり、身も心も柔らかくなり、喜びの心があふれてくるのです。「ナムアミダブツ」浄土からの光明に出遇わせていただきましょう。



(17:41)

2018年02月04日

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「つつしんで真仏土(しんぶつど)を案(あん)ずれば、仏はすなはちこれ不可思議光如来(ふかしぎこうにょらい)なり、土(ど)はまたこれ無量光明土(むりょうこうみょうど)なり。しかればすなはち、大悲(だいひ)の誓願(せいがん)に酬報(しゅうほう)するがゆゑに、真(しん)の報仏土(ほうぶつど)といふなり。」(聖典p337)

●『真仏土巻』の最初の御文です。真仏土すなはち阿弥陀如来の浄土は、どこかにある場所ではなくて無量の光のはたらきであるということです。いつでもどこでも私たちにはたらきづめなので報土とも言われます。そしてそれは阿弥陀如来の誓願(本願)を本質としているということです。

(22:37)

2018年02月02日

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「しかれば、大聖(だいしょう)の真言(しんごん)、まことに知んぬ、大涅槃(だいねはん)を証(しょう)することは願力(がんりき)の回向(えこう)によりてなり。還相(げんそう)の利益(りやく)は利他(りた)の正意(しょうい)を顕(あらわ)すなり。」(聖典p335)

●『証巻』の最後のところです。往相すなはち、私たちが浄土で覚りの仏に成る回向も、還相すなはち、私たちが菩薩のはたらきを恵まれる回向も、阿弥陀仏が私たちを救いたいという正意(本願)なのです。本当に尊いことです。

(18:23)

2018年01月10日

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「本願力(ほんがんりき)といふは、大菩薩(だいぼさつ)、法身(ほっしん)のなかにおいて、つねに三昧(さんまい)にましまして、種々(しゅじゅ)の身(しん)、種々の神通(じんずう)、種々の説法(せっぽう)を現(げん)ずることを示すこと、みな本願力より起(おこ)るをもってなり。」(聖典p334)

●阿弥陀如来の本願力によって、私たちはいのち終わっても、菩薩として娑婆の方々を法に導くはたらきをさせていただくということです。そこに死はなく、浄土へ生まれて仏に成らせていただく喜びのみがあるのです。

(18:59)

2018年01月08日

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「智慧(ちえ)と方便(ほうべん)はこれ菩薩(ぼさつ)の父母(ぶも)なり、もし智慧と方便とによらずは、菩薩の法すなはち成就(じょうじゅ)せざることを知るべし。」(聖典p330)

●方便とは、さとりの智慧に導く手段です。いわば慈悲の発起といえます。阿弥陀如来の智慧はそのまま大慈悲となって私たちへ「南無阿弥陀仏」とはたらいているわけです。それは、私たちに仏の智慧に向かって歩んでほしいという願いでもあります。尊くきびしい呼び声です。

(21:22)

2018年01月05日

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「かくのごときの菩薩(ぼさつ)は、奢摩多(しゃまた)・毘婆舎那(びばしゃな)、広略修行成就(こうりゃくしゅぎょうじょうじゅ)して柔軟心(にゅうなんしん)なり(『浄土論』)とのたまへり。」(聖典p325)

●正定聚の身にならせていただき、仏への道を歩ませていただいている私たちは、いわば菩薩。だとすれば柔軟心すなわち、とらわれない調和の心を持ちたいものである。



(18:12)

2016年11月08日

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「諸仏(しょぶつ)・菩薩(ぼさつ)に二種の法身(ほっしん)あり。一つには法性法身(ほっしょうほっしん)、二つには方便法身(ほうべんほっしん)なり。法性法身によりて方便法身を生(しょう)ず。方便法身によりて法性法身を出(い)だす。この二(に)の法身は、異(い)にして分(わか)つべからず、一(いつ)にして同じかるべからず。」(聖典p321)

●法性法身とは、真如つまり真実そのものであり色もかたちもありません。衆生救済のために真如は、名を示し形を示して方便法身の南無阿弥陀仏と、このわたくしに届いてくださるのです。本当に有難いことです。

(22:24)

2016年10月11日

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「二つに還相(げんそう)の回向(えこう)といふは、すなはちこれ利他教化地(りたきょうけじ)の益(やく)なり。すなはちこれ必至補処(ひっしふしょ)の願(がん)二十二願より出(い)でたり。また一生補処(いっしょうふしょ)の願と名づく。また還相回向の願と名づくべきなり。」(聖典p313)

●阿弥陀如来のお悟りの智慧は、大悲となって今ここで私にはたらいていることを還相回向と言います。阿弥陀如来の還相回向に遇うことで、私は往相回向されるのです。具体的に言うと、還相の菩薩つまり私を仏法との出遇いに導いてくださる人と出遇うということです。親鸞聖人にとっては、「よき人法然聖人の仰せに出遇わせていただいた事実だ」といただかれておられるのです。

(23:44)

2016年08月05日

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「それ真宗の教行信証を案ずれば、如来の大悲回向(だいひえこう)の利益(りやく)なり。ゆゑに、もしは因(いん)、もしは果(か)、一事(いちじ)として阿弥陀如来の清浄願心(しょうじょうがんしん)の回向成就(えこうじょうじゅ)したまへるところにあらざることあることなし。因浄(いんじょう)なるがゆゑに、果また浄なり、知るべしとなり。」(聖典p312)

●阿弥陀如来の願いは成就され、その智慧が大悲となってわたくしに届き、浄土往生成仏という苦悩の根本解決の利益を与えてくださるのです。これを往相回向といただき喜びたいものです。



(00:17)

2016年08月02日

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「煩悩成就(ぼんのうじょうじゅ)の凡夫(ぼんぶ)、生死罪濁(しょうじざいじょく)の群萌(ぐんもう)、往相回向(おうそうえこう)の心行(しんぎょう)を獲(う)れば、即(そく)の時に大乗正定聚(だいじょうしょうじょうじゅ)の数(かず)に入るなり。正定聚に住(じゅう)するがゆゑに、かならず滅度(めつど)に至(いた)る。」(聖典p307)

●『証巻』最初のところで、浄土真宗の要のひとつと言ってよい文言です。阿弥陀如来のご信心をいただけば、煩悩そのものであるわたくしも必ず浄土往生が決定するということです。ご信心をいただいた即の時から成仏への道を歩む人生を正定聚と言います。言いかえれば、ご信心いただいた身であるのかを今わたくしは問われているのです。


(21:58)

2016年07月30日

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「蟪蛄(けいこ)春秋(しゅんじゅう)を識(し)らず、伊虫(いちゅう)あに朱陽(しゅよう)の節(せつ)を知らんや」(聖典p301)

●セミは幼虫として約6~7年間土の中で過ごし、夏に外へ出て羽化し、1ヶ月ほど成虫として生きています。つまり、セミは春や秋という季節は知らないのです。そればかりか春や秋を知らないセミは、今鳴いているこの夏の季節もわかっていないということです。自我が盛んで、まわりが見えていないこの私は、自分自身のことさえ見えてはいないということでしょう。自分の本当の姿を知らせていただくことは、ただ仏法に遇うことです。

(00:49)

2016年07月28日

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「ここをもつていま大聖(だいしょう)釈尊の真説(しんせつ)によるに、難化(なんげ)の三機(さんき)、難治(なんち)の三病(さんびょう)は、大悲の弘誓(ぐぜい)を憑(たの)み、利他(りた)の信海(しんかい)に帰(き)すれば、これを矜哀(こうあい)して治(ち)す、これを憐憫(れんびん)して療(りょう)したまふ。」(聖典p295)

●救われがたい五逆、謗法、一闡提(つまり仏法に背き、教えを聞こうとしないもの)三機三病の私たちでも、如来は他力回向の信心を与えて、誰も除くことなく救われるということです。そのような大きな慈悲に包まれていることを喜び、同時に自らの行いを振り返りつつ人生を歩めたら豊かでしょう。

(20:36)

2016年07月25日

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「世尊(せそん)、もしわれあきらかによく衆生(しゅじょう)のもろもろの悪心(あくしん)を破壊(はえ)せば、われつねに阿鼻地獄(あびじごく)にありて、無量劫(むりょうこう)のうちにもろもろの衆生のために苦悩を受けしむとも、もって苦とせずと。」(聖典p287)

●自分のことしか考えることができなかったアジャセ王子は、阿弥陀如来の智慧のはたらきで慚愧の心に気づき、自らの罪を引き受け、さらに人々の苦悩のために慈悲を施す心にまで転じられていったのです。これが如来の智慧のすごさです。

(23:00)

2016年07月19日

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「栴檀樹(せんだんじゅ)はすなはちこれわが心、無根(むこん)の信なり。」(聖典p286)

●栴檀の木は香木です。以前、わたくしの家にも4mぐらいの大きな栴檀の木がありましたが台風で根から折れました。1ヶ月ぐらい庭は良い香りに包まれていました。わたくしの煩悩に根ざしてなくて、仏の香る大智悲から与えられた心(信心)を無根の信といいます。お参りで香を焚くのもそういう意味です。

(22:36)

2016年07月18日

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「如来もまたしかりなり。もろもろの衆生(しゅじょう)において平等(びょうどう)ならざるにあらざれども、しかるに罪者(ざいしゃ)において心すなはちひとへに重し。」(聖典p279)

●阿弥陀如来の救いは、もちろん平等にわたくし達へ与えられるけれど、罪者つまり自ら痛む心をもつ者に重点的に与えられるのです。さてわたくしは自分の心がはっきりわかっているだろうか。ごう慢で痛みも感じないわたくしに救いはないのである。

(19:16)

2016年07月17日

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「慚愧(ざんぎ)あるがゆゑに、すなはちよく父母・師長(ぶも・しちょう)を恭敬(くぎょう)す。」(聖典p275)

●慚愧の心を持つことは、それがエネルギーとなって、あらゆるいのちをつつしみ敬っていけるということです。『観無量寿経』のアジャセ王子は、その慚愧の心に気づくご縁を、なんと自らの手で殺した父から導かれるのです。尊いお経です。

(18:55)