2016年07月28日

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「ここをもつていま大聖(だいしょう)釈尊の真説(しんせつ)によるに、難化(なんげ)の三機(さんき)、難治(なんち)の三病(さんびょう)は、大悲の弘誓(ぐぜい)を憑(たの)み、利他(りた)の信海(しんかい)に帰(き)すれば、これを矜哀(こうあい)して治(ち)す、これを憐憫(れんびん)して療(りょう)したまふ。」(聖典p295)

救われがたい五逆、謗法、一闡提(つまり仏法に背き、教えを聞こうとしないもの)三機三病の私たちでも、如来は他力回向の信心を与えて、誰も除くことなく救われるということです。そのような大きな慈悲に包まれていることを喜び、同時に自らの行いを振り返りつつ人生を歩めたら豊かでしょう。

(20:36)

2016年07月25日

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「世尊(せそん)、もしわれあきらかによく衆生(しゅじょう)のもろもろの悪心(あくしん)を破壊(はえ)せば、われつねに阿鼻地獄(あびじごく)にありて、無量劫(むりょうこう)のうちにもろもろの衆生のために苦悩を受けしむとも、もって苦とせずと。」(聖典p287)

自分のことしか考えることができなかったアジャセ王子は、阿弥陀如来の智慧のはたらきで慚愧の心に気づき、自らの罪を引き受け、さらに人々の苦悩のために慈悲を施す心にまで転じられていったのです。これが如来の智慧のすごさです。

(23:00)

2016年07月19日

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「栴檀樹(せんだんじゅ)はすなはちこれわが心、無根(むこん)の信なり。」(聖典p286)

栴檀の木は香木です。以前、わたくしの家にも4mぐらいの大きな栴檀の木がありましたが台風で根から折れました。1ヶ月ぐらい庭は良い香りに包まれていました。わたくしの煩悩に根ざしてなくて、仏の香る大智悲から与えられた心(信心)を無根の信といいます。お参りで香を焚くのもそういう意味です。

(22:36)

2016年07月18日

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「如来もまたしかりなり。もろもろの衆生(しゅじょう)において平等(びょうどう)ならざるにあらざれども、しかるに罪者(ざいしゃ)において心すなはちひとへに重し。」(聖典p279)

阿弥陀如来の救いは、もちろん平等にわたくし達へ与えられるけれど、罪者つまり自ら痛む心をもつ者に重点的に与えられるのです。さてわたくしは自分の心がはっきりわかっているだろうか。ごう慢で痛みも感じないわたくしに救いはないのである。

(19:16)

2016年07月17日

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「慚愧(ざんぎ)あるがゆゑに、すなはちよく父母・師長(ぶも・しちょう)を恭敬(くぎょう)す。」(聖典p275)

慚愧の心を持つことは、それがエネルギーとなって、あらゆるいのちをつつしみ敬っていけるということです。『観無量寿経』のアジャセ王子は、その慚愧の心に気づくご縁を、なんと自らの手で殺した父から導かれるのです。尊いお経です。

(18:55)

2016年01月27日

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「無慚愧(むざんぎ)は名づけて人(にん)とせず、名づけて畜生(ちくしょう)とす。」(聖典p275)

●前回に続くお言葉です。私たちは、悪意がなくても人を踏みつけ、迷惑をかけ、他のいのちを奪い、多くの罪をつくって生かされています。そのことに気づくには真実のみ教えに出遇うことが必要です。慚愧なきものは人になりきれていないという厳しい指摘に頭が下がるばかりです。また、人として生まれてきた意味は、教え(仏法)に遇うことである、ということを改めて思います。

(15:11)

2016年01月11日

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「二つの白法(びゃくほう)あり、よく衆生(しゅじょう)を救(たす)く。一つには慚(ざん)、二つには愧(き)なり。慚はみづから罪を作らず、愧は他を教えてなさしめず。慚はうちにみづから羞恥(しゅうち)す、愧は発露(はつろ)して人に向かう。慚は人に羞(は)づ、愧は天に羞づ。これを慚愧(ざんぎ)と名づく。」(聖典p275)

●『涅槃経』からの引用のご文です。罪多きアジャセ王子にギバ大臣が語りかけ、お釈迦さまの前に導いていくご文です。煩悩にしばられ思い通りにならないことを苦しむ我が身こそが、阿弥陀如来の救いのめあてです。如来の願いに照らされて、常に我が身を慚愧していくところにまた、如来の大悲の深さとの出遇いも重ねられていくことでしょう。





(22:37)

2015年08月26日

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「まことに知(し)んぬ、悲しきかな愚禿鸞(ぐとくらん)、愛欲(あいよく)の広海(こうかい)に沈没(ちんもつ)し、名利(みょうり)の太山(たいせん)に迷惑(めいわく)して、定聚(じょうじゅ)の数(かず)に入ることを喜ばず、真証(しんしょう)の証(さとり)に近づくことを快(たの)しまざることを、恥(は)づべし傷(いた)むべしと。」(聖典p266)

●親鸞聖人ほど自分自身を深く見つめられた方はいません。それもじっと考えるのではなく、厳しい修行に身を置くことで、自らさとりに近づこうとする傲慢な心(仮)を知り、民衆の中に身を置くことで、先入観にしばられている偏見の心(偽)に気づいていかれたのです。そしてご自身の恥ずかしく傷む心の底にも阿弥陀如来の本願は絶えずはたらき続けているのです。

(22:09)

2015年07月31日

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「偽(ぎ)といふは、すなはち六十二見(ろくじゅうにけん)・九十五種(くじゅうごしゅ)の邪道(じゃどう)これなり。」(聖典p265)

●偽の宗教とは、仏教以外の占ったり拝んだりするにせものの教えです。しかしそれは、我が身のことを明らかにすることなく、まわりを偏見したり、すがり拝んだりするわたくし自身の弱さにもつながっています。真の教え(念仏の教え)は、そのようなわたくしのいのちの柱となり、迷うことなく歩んでいく道を示してくださるのです。

(23:52)

2015年07月20日

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「仮(け)といふは、すなはちこれ聖道(しょうどう)の諸機(しょき)、浄土の定散(じょうさん)の機(き)なり。」(聖典p265)

●仮の宗教とは、話としては道理が通るが実際にさとりを得ることはできないという教えです。それは自力聖道門や自力念仏の人であります。さらにそのことはわたくし自身の自らの力を過信するおごりの姿勢でもあります。そして、その正しくない姿勢に気づかせてくださるのが、真の教え(念仏の教え)でもあります。

(19:05)

2015年07月16日

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「しかのみならず金剛心(こんごうしん)を獲(う)るものは、すなはち韋提(いだい)と等しく、すなはち喜(き)・悟(ご)・信(しん)の忍(にん)を獲得(ぎゃくとく)すべし。これすなはち往相回向(おうそうえこう)の真心徹到(しんしんてっとう)するがゆゑに、不可思議(ふかしぎ)の本誓(ほんぜい)によるがゆゑなり。」(聖典p264)

●金剛の信心を得た念仏の行者は弥勒菩薩と同じ位につくと同時に、『観無量寿経』に出てくる韋提希夫人と同じように苦しみを転じて、阿弥陀如来の救いを喜び(喜忍)、阿弥陀如来の本願を領解し(悟忍)、阿弥陀如来の信心を疑いなく受け入れる(信忍)ことができます。それも阿弥陀如来の真実心がホオッておけないわたくしに到り届いてくださる不可思議なのです。いつでもどこでも阿弥陀如来に見守られているわたくしでありました。

(17:33)

2015年07月12日

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「まことに知んぬ、弥勒大士(みろくだいじ)は等覚(とうがく)の金剛心(こんごうしん)を窮(きわ)むるがゆゑに、竜華三会(りゅうげさんね)の暁(あかつき)、まさに無上覚位(むじょうかくい)を極(きわ)むべし。念仏の衆生は横超(おうちょう)の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念(りんじゅういちねん)の夕(ゆうべ)、大般涅槃(だいはつねはん)を超証(ちょうしょう)す。ゆゑに便同(べんどう)といふなり。」(聖典p264)

●念仏の行者は弥勒菩薩と同じ等覚の位、つまり必ず仏(如来)にならせていただける正定聚不退転の位にあります。弥勒菩薩は自力の修行で到達した位であるのに対して、私たちは阿弥陀如来のご信心によりいただいた位です。ましてや、56億七千万年後に仏になられる弥勒菩薩より先に、煩悩を抱えたままで近々仏にならせていただけるとは、本当に不思議なことです。

(18:48)

2015年07月09日

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「真(しん)の仏弟子(ぶつでし)といふは、真の言(ごん)は偽(ぎ)に対し仮(け)に対するなり。弟子とは釈迦(しゃか)・諸仏(しょぶつ)の弟子なり、金剛心(こんごうしん)の行人(ぎょうにん)なり。この信行(しんぎょう)によりてかならず大涅槃(だいねはん)を超証(ちょうしょう)すべきがゆゑに、真の仏弟子といふ。」(聖典256)

●世の中は多様化といわれる時代になりました。多くの価値観の違いを認めながら生きることが必要な時代です。お互いの価値観を認めるには、自分自身の価値観がしっかりはっきりしていなくてはなりません。真の仏弟子とは、阿弥陀如来の金剛の信心をいただいき、お釈迦さまや諸仏の教えに支えられながら浄土往生への道を歩む者を言います。わたくしの自己肯定感(自尊感情)にも通じるところがあります。

(17:36)

2015年07月04日

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「四流(しる)とはすなはち四暴流(しぼる)なり。また生老病死なり。」(聖典p255)

●四暴流とは、煩悩の流れのことです。また、それは生老病死のように逃れることができない迷いの苦しみです。前回お話ししたように、阿弥陀如来のご信心(名号)は智慧と慈悲のはたらきですみやかにその流れを断ち、迷いから私たちを救いとるのです。南無阿弥陀仏。


(17:06)

2015年07月03日

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「横超(おうちょう)とはすなはち願成就一実円満(がんじょうじゅいちじつえんまん)の真教(しんきょう)、真宗(しんしゅう)これなり。」(聖典p254)

●横超とは、善導大師の「横超断四流(おうちょうだんしる)」からのお示しであり、阿弥陀仏のみ教えは回り道をすることなくすみやかにまた平等にさとりをえることを意味しています。厳しい修行による成仏も尊いことですが、それではすべてのものが成仏することはできません。善悪・賢愚を超えて信心(お念仏)ひとつで隔てのない救いを真実とお示しいただいたことにただ頭が下がることです。

(23:23)

2014年03月05日

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「三心(さんしん)すなはち一心なり、一心すなはち金剛真心(こんごうしんしん)の義(ぎ)、答へをはんぬ、知るべしと。」(聖典p253)

●第十八願の「至心・信楽・欲生」の三心は、信楽つまり信心(一心)におさまります。すべてのものがくずれ失われていく(無常)中で、どんな時代でも決してくずれることのない金剛の信心が、私たちの往生(さとりを得る道)を決定させる因なのです。お寺でその道を聞いてください。

(12:55)

2014年02月05日

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「この心(しん)すなはちこれ無量光明慧(むりょうこうみょうえ)によりて生ずるがゆゑに。」(聖典p252)

●信心は金剛心や大慈悲心などいろいろな呼び方をされますが、そのどれもが阿弥陀如来の智慧(無量光明慧)から生じて、わたくし達に回向された信心です。

(22:19)

2014年01月27日

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「十に正定聚(しょうじょうじゅ)に入る益なり。」(聖典p251)

●これまでの九つの利益は、この正定聚の利益を開いたものといえます。
信心をいただいたわたくしは、阿弥陀如来の本願力によって、現生(今ここ)で摂取不捨の利益にあずかり、不退転の位(必ず成仏する位)に決定するのです。
信心をいただくことが、まさに「聖人一流の御勧化のおもむきは、信心をもつて本とせられ候ふ」浄土真宗の肝要であります。

(22:38)

2014年01月23日

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「九つには常行大悲(じょうぎょうだいひ)の益」(聖典p251)

●常に大悲を行ずる。親が子に伝えるものをもっていないと言われる日本人。私たちが現在よりどころとしているものは必ず失われていきます。絶対に失われずくずれない真実信心(南無阿弥陀仏)を子や孫、友人に伝えていってほしいと願います。

(22:00)

2014年01月20日

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「八つには知恩報徳(ちおんほうとく)の益」(聖典p251)

●文字通り恩を知り徳を報謝するということです。
わたくしたちの娑婆世界は我が強い世界ですから、恩を恩とうけとることはなかなかできません。わたくしも(父)親を亡くしてからやっと親の恩が少しわかった気がします。
阿弥陀如来の智慧と慈悲のお心(本願=信心)をいただくことで、多くのご恩に気づき、如来のお心を讃え勧めることが報謝の生活といえるでしょう。

(13:06)