『高僧和讃』
2006年07月19日
2006年07月13日
「五濁悪世(ごじょくあくせ)の衆生(しゅじょう)の 選択本願(せんじゃくほんがん)信(しん)ずれば 不可称不可説不可思議(ふかしょうふかせつふかしぎ)の 功徳(くどく)は行者(ぎょうじゃ)の身(み)にみてり」(聖典p599)
濁った悪世の人々が、選び取った阿弥陀如来のご本願を信ずるならば、讃えつくすこともできないし説きつくすこともできないし思いはかることもできない、このような功徳がお念仏申す行者の身に満ちるのである。
●このご和讃と次のご和讃の2首は、高僧和讃のまとめであり、結讃と呼ばれます。七高僧すべてがお勧めくださった阿弥陀如来のご本願は、わたくしには到底思いはかれるものではありませんが、ただしかし、お念仏として口からこぼれてくださるということは、間違いなくご本願がわたくしに届いている証拠でありましょう。身に満ちるご本願を深く味わいたいものです。
濁った悪世の人々が、選び取った阿弥陀如来のご本願を信ずるならば、讃えつくすこともできないし説きつくすこともできないし思いはかることもできない、このような功徳がお念仏申す行者の身に満ちるのである。
●このご和讃と次のご和讃の2首は、高僧和讃のまとめであり、結讃と呼ばれます。七高僧すべてがお勧めくださった阿弥陀如来のご本願は、わたくしには到底思いはかれるものではありませんが、ただしかし、お念仏として口からこぼれてくださるということは、間違いなくご本願がわたくしに届いている証拠でありましょう。身に満ちるご本願を深く味わいたいものです。
(18:59)
2006年07月12日
「本師源空命終時(ほんしげんくうみょうじゅうじ) 建暦第二壬申歳(けんりゃくだいににんしんさい) 初春下旬第五日(しょしゅんげじゅんだいごにち) 浄土に還帰(げんき)せしめけり」(聖典p598)
浄土真宗の祖師である法然上人の命終の時は、建暦2(1212)年の、1月25日で、浄土にお還りになられた。
●源空讃の最後のご和讃です。法然上人の臨終は、流罪を許され京都におもどりになられて2ヶ月後です。ところで来年は、親鸞聖人流罪(承元の法難)から800年をむかえます。法然上人・親鸞聖人は、当時多くの僧侶が権力になびく中、人間のもつ弱さに妥協することなくして罪をなすられました。本音だけでは生きられないよといなおり、おかしいことと知りつつも、それに妥協して生きていくわたくしに対して、法に依って生きるものの力強い生き様をしっかり示してくださったと思います。
浄土真宗の祖師である法然上人の命終の時は、建暦2(1212)年の、1月25日で、浄土にお還りになられた。
●源空讃の最後のご和讃です。法然上人の臨終は、流罪を許され京都におもどりになられて2ヶ月後です。ところで来年は、親鸞聖人流罪(承元の法難)から800年をむかえます。法然上人・親鸞聖人は、当時多くの僧侶が権力になびく中、人間のもつ弱さに妥協することなくして罪をなすられました。本音だけでは生きられないよといなおり、おかしいことと知りつつも、それに妥協して生きていくわたくしに対して、法に依って生きるものの力強い生き様をしっかり示してくださったと思います。
(19:05)
2006年07月10日
2006年07月07日
2006年07月04日
2006年07月03日
2006年06月25日
2006年06月23日
「命終(みょうじゅう)その期(ご)ちかづきて 本師源空(ほんしげんくう)のたまはく 往生(おうじょう)みたびになりぬるに このたびことにとげやすし」(聖典p597)
いのち終わるときが近づいて、浄土真宗の祖師である法然上人が述べられた、浄土往生は三度目になったが、今回は特に往生遂げやすい。
●法然上人は、三度も娑婆世界に現れてくださったと伝えられるほど尊い方であったのでしょう。親鸞聖人と出遇いになられた三回目が、特に往生遂げやすいと言われていますのは、お念仏のみ教えが聖人によって、必ず後の世に伝えられていくという確信があったからでしょうか、また一生を阿弥陀如来の本願の中で生かされた充実感からでしょうか。ご本人にお聞きしたいものです。
いのち終わるときが近づいて、浄土真宗の祖師である法然上人が述べられた、浄土往生は三度目になったが、今回は特に往生遂げやすい。
●法然上人は、三度も娑婆世界に現れてくださったと伝えられるほど尊い方であったのでしょう。親鸞聖人と出遇いになられた三回目が、特に往生遂げやすいと言われていますのは、お念仏のみ教えが聖人によって、必ず後の世に伝えられていくという確信があったからでしょうか、また一生を阿弥陀如来の本願の中で生かされた充実感からでしょうか。ご本人にお聞きしたいものです。
(21:02)
2006年06月22日
「源空光明(げんくうこうみょう)はなたしめ 門徒(もんと)につねにみせしめき 賢哲(げんてつ)・愚夫(ぐぶ)もえらばれず 豪貴(ごうき)・鄙賤(ひせん)もへだてなし」(聖典p597)
法然上人は阿弥陀如来の光明を教え放たれて、お念仏を喜ぶ門徒に常に見せられ、それは賢者も愚者も選ぶことなく、身分の違いを分けへだてることもなかった。
●阿弥陀如来のご本願は、いつでもどこでも誰にでも等しくとどいてくださっています。その証拠に、なかなか「ありがとう」「ごめんなさい」「すみません」が出てこないわたくしの口から、「なむあみだぶつ」と尊いお六字がこぼれてくださることです。もったいないことです。
法然上人は阿弥陀如来の光明を教え放たれて、お念仏を喜ぶ門徒に常に見せられ、それは賢者も愚者も選ぶことなく、身分の違いを分けへだてることもなかった。
●阿弥陀如来のご本願は、いつでもどこでも誰にでも等しくとどいてくださっています。その証拠に、なかなか「ありがとう」「ごめんなさい」「すみません」が出てこないわたくしの口から、「なむあみだぶつ」と尊いお六字がこぼれてくださることです。もったいないことです。
(18:38)