『 仏説無量寿経(大経) 』
2004年10月07日
「仏、経を説きたまふこと已(おわ)りて、弥勒菩薩(みろくぼさつ)および十方(じっぽう)より来(きた)れるもろもろの菩薩衆、長老阿難(ちょうろうあなん)、もろもろの大声聞(だいしょうもん)、一切の大衆、仏の所説(しょせつ)を聞きたてまつりて、歓喜(かんぎ)せざるはなし。」(聖典p83)
釈尊が教えを説きおわられると、弥勒菩薩をはじめさまざまな世界から来た菩薩たちや長老の阿難などの声聞(仏弟子)、ならびにその他一切のものたちは、尊い教えを聞いて誰ひとりとして喜ばないものはなかった。
●大経の最後にも仏法聴聞の大切さを述べられています。耳をそばだててお経(仏のみ教え)を聞けば(聴:ちょう)、仏の願いが自然に聞こえてくる(聞:もん)のです。(大経おわり)
釈尊が教えを説きおわられると、弥勒菩薩をはじめさまざまな世界から来た菩薩たちや長老の阿難などの声聞(仏弟子)、ならびにその他一切のものたちは、尊い教えを聞いて誰ひとりとして喜ばないものはなかった。
●大経の最後にも仏法聴聞の大切さを述べられています。耳をそばだててお経(仏のみ教え)を聞けば(聴:ちょう)、仏の願いが自然に聞こえてくる(聞:もん)のです。(大経おわり)
(16:12)
2004年10月05日
「もしこの経を聞きて信楽受持(しんぎょうじゅじ)することは、難(なん)のなかの難、これに過ぎたる難はなけん。このゆゑにわが法はかくのごとくなし、かくのごとく説き、かくのごとく教ふ。まさに信順(しんじゅん)して法のごとく修行すべしと。」(大経p82)
ましてこの教えを聞いて信じたもち続けることなどは、もっとも難しいことであり、これ以上の難しいことはないのである。そうであるからわたしは阿弥陀如来の教え(法)を説き、このように示したのである。そなたたちはただこの法を信じて教えのままに行ずるべきであると。
●弥陀法は、難信の法ともいわれ自力の知恵をもっては、信じることは不可能であることを明かされています。阿弥陀如来からいただく他力信心しか救いの道がないことがはっきり示されているのです。
ましてこの教えを聞いて信じたもち続けることなどは、もっとも難しいことであり、これ以上の難しいことはないのである。そうであるからわたしは阿弥陀如来の教え(法)を説き、このように示したのである。そなたたちはただこの法を信じて教えのままに行ずるべきであると。
●弥陀法は、難信の法ともいわれ自力の知恵をもっては、信じることは不可能であることを明かされています。阿弥陀如来からいただく他力信心しか救いの道がないことがはっきり示されているのです。
(16:27)
2004年10月04日
2004年10月03日
「当来(とうらい)の世に経道滅尽(きょうどうめつじん)せんに、われ慈悲をもつて哀愍(あいみん)して、特(こと)に此(こ)の経を留めて止住(しじゅう)すること百歳せん。それ衆生ありて、この経に値(もうあ)ふものは、意(こころ)の所願(しょがん)に随(したが)ひてみな得度(とくど)すべし」(聖典p82)
将来わたし(釈尊)が示したさまざまなさとりへの道はみな失われてしまうであろうが、わたしは慈悲をもって哀れみ、特にこの教えだけをその後もいつまでもとどめておこう。そしてこの教えに出会うものは、みな願いに応じて迷いの世界を離れることができるであろう。
●この教えとは、阿弥陀如来の本願・名号のことです。お釈迦さま自らが、多くのお経の中で大経(仏説無量寿経)こそが真実(変わらず末とおるもの)だと示されているところです。その真実の教えに出会えた事を素直に喜びたいと思います。
将来わたし(釈尊)が示したさまざまなさとりへの道はみな失われてしまうであろうが、わたしは慈悲をもって哀れみ、特にこの教えだけをその後もいつまでもとどめておこう。そしてこの教えに出会うものは、みな願いに応じて迷いの世界を離れることができるであろう。
●この教えとは、阿弥陀如来の本願・名号のことです。お釈迦さま自らが、多くのお経の中で大経(仏説無量寿経)こそが真実(変わらず末とおるもの)だと示されているところです。その真実の教えに出会えた事を素直に喜びたいと思います。
(18:00)