『 仏説阿弥陀経(小経) 』

2005年01月31日

6233a24c.jpg「仏(ぶつ)、この経(きょう)を説(と)きたまふこと已(おわ)りて、舎利弗(しゃりほつ)およびもろもろの比丘(びく)、一切世間(いっさいせけん)の天(てん)・人(にん)・阿修羅(あしゅら)等(とう)、仏の所説(しょせつ)を聞きたてまつりて、歓喜(かんぎ)し信受(しんじゅ)して、礼(れい)をなして去(さ)りにき。」(聖典p128)

釈尊が、この教えを説き終わられると、舎利弗や多くの修行僧たち、すべての世界の天人も人々も阿修羅もみな、この尊い教えを聞いて喜びに満ちあふれ深く信じて心にとどめて、礼拝して立ち去ったのである。

●『小経』は、浄土三部経の最後のまとめであり、お釈迦さまご一代の説法の最後にあたる経典であるため一代結経(いちだいけっきょう)とよばれます。そこでもお釈迦さまは阿弥陀如来の名号を聞き信受せよと述べられるのです。聞法こそ信心であり、その大切さを改めて思うことです。(小経おわり)

(18:09)

2005年01月29日

bd6b1f24.jpg「釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)、よく甚難稀有(じんなんけう)の事(じ)をなして、よく娑婆国土(しゃばこくど)の五濁悪世(ごじょくあくせ)、劫濁(こうじょく)・見濁(けんじょく)・煩悩濁(ぼんのうじょく)・衆生濁(しゅじょうじょく)・命濁(みょうじょく)のなかにおいて、阿耨多羅三貘三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を得(え)て、もろもろの衆生のために、この一切世間(いっさいせけん)難信(なんしん)の法(ほう)を説(と)きたまと。」(聖典p128)

釈迦牟尼仏は、世にもまれな難しく尊い行を成し遂げられた。娑婆世界はさまざまな濁りに満ちていてます。時代は汚れ・思想は乱れ・煩悩は激しくさかんであり・人々は悪事を犯す・だから寿命も短くなる。そのような中にありながら、この上ないさとりを開いて、人々のためにすべての世を超えるほどの尊い教えをお説きになったことです。

●難信の法とは、もちろん名号の法のことです。お念仏の教えが難しいのではなく、それを疑いなく聞くことのできない自力のこころが難しくしているのです。そんなわたくしでさえ阿弥陀如来の大悲は、大きく深く包み込んでくださるのです。

(18:09)

2005年01月25日

29e5d141.jpg「舎利弗(しゃりほつ)、もし人ありて、すでに発願(ほつがん)し、いま発願し、まさに発願して、阿弥陀仏国に生(しょう)ぜんと欲(おも)はんものは、このもろもろの人等(ひとら)、みな阿耨多羅三貘三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を退転(たいてん)せざることを得て、かの国土において、もしはすでに生まれ、もしはいま生まれ、もしはまさに生まれん。」(聖典p127)

舎利弗よ、もし人が、阿弥陀仏の国に生まれたいとすでに願い、または今願い、あるいはこれから願うなら、みなこの上ないさとりに向かって退くことのない位に至り、その国にすでに生まれているか、または今生まれるか、あるいはこれから生まれるのである。

●私たちが、過去、現在、未来のいつに願いを起こしても必ず阿弥陀如来は浄土往生を保障してくださっているのです。そのことは、いつでも・どこでも・だれにでもはたらいている如来のご本願が、私の願いより先に今・ここで・このわたしにとどけられているということです。改めて名号法のすごさを感じます。


(20:58)

2005年01月21日

b88dca00.jpg「この諸仏(しょぶつ)の所説(しょせつ)の名(みな)および経(きょう)の名(な)を聞かんもの、このもろもろの善男子(ぜんなんし)・善女人(ぜんにょにん)、みな一切諸仏(いっさいしょぶつ)のためにともに護念(ごねん)せられて、みな阿耨多羅三貘三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を退転(たいてん)せざることを得(え)ん。」(聖典p127)

この仏がたがお説きになる阿弥陀如来のみ名とこの経を聞くなら、これらのものはみなすべての仏がたに護られて、この上ないさとりに向かって退くことのない位に至ることができる。

●阿弥陀如来の名号のいわれを聞くことで、護念と不退転の利益をめぐまれます。もちろんこれは現生(現在)に恵まれる利益でありますが、当然いのちが終わるときにさとりを得る当来(未来)に恵まれる利益でもあるのです。その場しのぎの占いやお祈りではない、本当の利益に恵まれることのすばらしさを味わうことができます。

(18:03)

2005年01月20日

f1f3fcbd.jpg「舎利弗(しゃりほつ)、なんぢが意(こころ)においていかん。なんがゆゑぞ名(な)づけて一切諸仏(いっさいしょぶつ)に護念(ごねん)せらるる経(きょう)とするや。」(聖典p127)

舎利弗よ、そなたはどう思うか。なぜこれをすべての仏がたがお護りくださる経と名づけるのだろうか。

●お釈迦さまが舎利弗に対して、あなたはどう思いますかと尋ねられ、答えを待たずに自らお答えになる自問自答の部分は、ここと阿弥陀如来の名前についてたずねられたところ(聖典p123)とふたつあります。このことだけは是非聞いてほしいというお釈迦さまの願いが、わたくしにも感じられます。

(17:51)

2005年01月19日

bcdf90a5.jpg「かくのごときらの恒河沙数(ごうがしゃしゅ)の諸仏(しょぶつ)ましまして、おのおのその国において、広長(こうじょう)の舌相(ぜつそう)を出(いだ)し、あまねく三千大千世界(さんぜんだいせんせかい)に覆(おお)ひて、誠実(じょうじつ)の言(ごん)を説(と)きたまはく、」(聖典p125)

このようにガンジス河の砂の数ほどのさまざまな仏がたがおられ、それぞれの国で広く舌相を示して、世界の隅々まで誠実(まこと)の言葉を語られる。

●長い舌は、仏の三十二相のひとつで真実を語ることをあらわしています。多くの仏が阿弥陀如来の教えこそ誠実、真実であることを証明しているのです。それは、この経を読むわたくしへの呼びかけでもあるといただくことです。

(20:01)

2005年01月18日

a4f479cc.jpg「なんぢら衆生(しゅじょう)、まさにこの不可思議(ふかしぎ)の功徳(くどく)を称讃(しょうさん)したまふ一切諸仏(いっさいしょぶつ)に護念(ごねん)せらるる経(きょう)を信ずべしと。」(聖典p125)

そなたたち世の人々よ、この阿弥陀仏の不可思議な功徳をほめたたえて、すべての仏がたがお護りくださる経を信じるがよい。

●お釈迦さまだけではなく、六方(東・南・西・北・下・上)つまりすべての諸仏がたも、阿弥陀如来のすばらしさを説いておられるということです。いつでもどこでも願われているわたしであったことに改めて気づかされます。

(18:38)

2005年01月17日

ed3e7f82.jpg「舎利弗(しゃりほつ)、われこの利(り)を見るがゆゑに、この言(ごん)を説(と)く。」(聖典p125)

舎利弗よ、わたしはこのような利益があることをよく知っているから、このことを説くのである。

●わたくしたち衆生の浄土往生は、すべて名号におさめられ、そのはたらきによって摂取されるという信心の利益をいただくように、お釈迦さまは勧められるのです。短いお言葉ですが、全生涯をかけた気持ちが感じられます。

(18:57)

2005年01月15日

7251276e.jpg「もしは一日、もしは二日、もしは三日、もしは四日、もしは五日、もしは六日、もしは七日、一心(いっしん)にして乱(みだ)れざれば、」(聖典p124)

あるいは一日、あるいは二日、あるいは三日、あるいは四日、あるいは五日、あるいは六日、あるいは七日の間、一心に疑いなく思いを乱さないならば。

●「若(も)しは」とは、長さや回数を定めないという意味があるので、七日の間称名念仏しなさいということではありません。前文と同様に、一心つまり阿弥陀如来のお心を疑いなく聞く信心をすすめられているのです。



(18:49)

2005年01月13日

4e8cf394.jpg「舎利弗(しゃりほつ)、もし善男子(ぜんなんし)・善女人(ぜんにょにん)ありて、阿弥陀仏を説(と)くを聞きて、名号(みょうごう)を執持(しゅうじ)すること、」(聖典p124)

舎利弗よ、もし善良なものが、阿弥陀仏の名号のいわれを聞いて、その名号を心にとどめるならば。

●『小経』の教えの大切な部分です。執持名号については、中国や日本でいろいろな解釈がされていますが、親鸞聖人は阿弥陀如来の名号のいわれを聞くこと、すなわち他力信心のすがたと味わわれました。

(18:23)