『浄土和讃』

2005年10月18日

cd1b9c1a.jpg「念仏のひとを摂取(せっしゅ)して 浄土に帰(き)せしむるなり 大勢至菩薩(だいせいしぼさつ)の 大恩(だいおん)ふかく報(ほう)ずべし」(聖典p577)

今この娑婆世界で・・・、人々に摂取不捨の念仏を勧めて、浄土往生に導くのである。勢至菩薩の、大きなご恩に報謝しよう。

●前述のご和讃のつづきであり、『浄土和讃』の最後のご和讃です。『浄土和讃』の総結(むすび)に「以上大勢至菩薩 源空聖人御本地なり。」と示されています。このように親鸞聖人は、先生である源空(法然)上人を勢至菩薩といただいておられたのです。すなわち、法然上人との出遇い、また上人を通しての阿弥陀如来との出遇いを、親鸞聖人がどれほど感謝されていたのかがよくわかります。さらに、お念仏を喜ぶ人生を送ることが、その出遇いに対する報謝であることも深く味わえることです。私も多くの出遇いを大切にしたいものです。(浄土和讃おわり)

(18:39)

2005年10月17日

cf3e539e.jpg「われもと因地(いんじ)にありしとき 念仏の心(しん)をもちてこそ 無生忍(むしょうにん)にはいりしかば いまこの娑婆界(しゃばかい)にして」(聖典p577)

わたし勢至菩薩は修行中のときに、阿弥陀如来に念仏の心をいただいたからこそ、必ず仏になるべき身に成らせていただいたので、今この娑婆の世界で・・・

●この和讃は次の最後の浄土和讃に続きます。無生忍の左訓には「不退の位と申すなり。かならず仏になるべき身となるとなり」とあります。無生とは、生死にとらわれずそれを超えていくということです。念仏の心に出遇えたことを喜び、今を大切に生きようと思います。

(22:05)

2005年10月13日

e9cccc45.jpg「染香人(ぜんこうにん)のその身(み)には 香気(こうけ)あるがごとくなり これをすなはちなづけてぞ 香光荘厳(こうこうしょうごん)とまうすなる」(聖典p577)

阿弥陀如来の智慧の香りに染まった念仏の行者の身には、如来の徳があるようで、これを名づけて、智慧の光に飾られた人と申すのである。

●私の中に智慧はないけれども、如来からいただいた智慧のはたらきは、私を染香人に近づけてくださるのでしょうか。素直に喜びを感じます。

(21:44)

2005年10月12日

7456b50a.jpg「子の母をおもふがごとくにて 衆生(しゅじょう)仏(ぶつ)を憶(おく)すれば 現前当来(げんぜんとうらい)とほからず 如来を拝見(はいけん)うたがはず」(聖典p577)

子どもが母親を思うように、衆生が阿弥陀如来の本願を南無阿弥陀仏といただいたならば、現在にも未来にも遠からずして、いつでも阿弥陀如来に出遇うことは疑いないことである。

●子どもが母親を思うのは、母親の思いが子どもにとどいたからでしょう。私の口から南無阿弥陀仏とお念仏がこぼれてくださるのは、私が願う前に阿弥陀如来の願いが間違いなく私にとどいているということでしょう。

(17:56)

2005年10月11日

d86cb949.jpg「超日月光(ちょうにちがっこう)この身(み)には 念仏三昧(ねんぶつざんまい)をしへしむ 十方(じっぽう)の如来は衆生(しゅじょう)を 一子(いっし)のごとく憐念(れんねん)す」(聖典p577)

超日月光と呼ばれる阿弥陀如来は勢至菩薩に、称名念仏を教えられた。十方に光明を照らされる阿弥陀如来は衆生一人ひとりを、一人子のように憐れみお慈悲をかけられるのである。

●阿弥陀如来のお慈悲は、私たち衆生一人ひとりに同じようにとどけられています。すべてのものが等しく救われていく浄土真宗の教えが、当時の農民・商人・武士階級を問わず、多くの人々に広まっていった理由がここにあると感じます。

(21:27)

2005年10月06日

4eab4d14.jpg「十二の如来(にょらい)あひつぎて 十二劫(じゅうにこう)をへたまへり 最後(さいご)の如来をなづけてぞ 超日月光(ちょうにちがっこう)とまうしける」(聖典p576)

十二の如来が相次いで出現され、十二劫という長い時が経った。最後の如来を名づけて、超日月光如来と申し上げる。

●阿弥陀如来の智慧の光明は、陽光であり月光でもあります。つまり昼夜を問わず私を照らし続けてくださるということです。その光明が、私の我欲のまま自己中心で生きる無明の闇にいたことを気づかせてくださるのです。

(20:55)

2005年10月04日

1938d700.jpg「教主世尊(きょうしゅせそん)にもうさしむ 往昔恒河沙劫(おうじゃくごうがしゃこう)に 仏(ぶつ)世にいでたまへりき 無量光(むりょうこう)とまうしけり」(聖典p576)

(勢至菩薩は前に進まれて←前和讃のつづき)、阿弥陀如来の法を示された教え主であるお釈迦さまに申し上げられました。恒河沙劫年の昔に、ある仏さまが世に出られ、その仏さまは阿弥陀如来という無量光仏であると申された。

●私たちを救う仏さまは阿弥陀如来ですので、阿弥陀如来を救主と呼びます。お釈迦さまはそのことを私たちに教えてくださったので、教主です。浄土真宗のご本尊が釈迦如来ではなくて阿弥陀如来である所以(ゆえん)です。

(19:28)

2005年09月29日

2a2e6d06.jpg「勢至念仏円通(せいしねんぶつえんずう)して 五十二菩薩(ごじゅうにぼさつ)もろともに すなはち座(ざ)よりたたしめて 仏足頂礼(ぶっそくちょうらい)せしめつつ」(聖典p576)

勢至菩薩はお念仏によって円かなさとりに達したので、まわりの座につらなった菩薩たちと共に、座よりお立ちになり、仏前にひざまずいて仏足に自分の額をあてて礼拝したのである。

●お念仏によって我が身のあり方を振り返るとき、ただ頭が下がるばかりです。その姿がそのまま礼拝の姿ではないでしょうか。

(17:53)

2005年09月28日

dbf72f21.jpg「南無阿弥陀仏をとなふれば 十方無量(じっぽうむりょう)の諸仏(しょぶつ)は 百重千重囲繞(ひゃくじゅうせんじゅういにょう)して よろこびまもりたまふなり」(聖典p576)

口からこぼれてくださった阿弥陀如来の本願を南無阿弥陀仏と聞かせていただくならば、十方世界の数えきれないほどの諸仏方が、百重・千重にとり囲み、喜んでお護りくださるのである。

●父や母、祖父や祖母あるいはお子さまの場合もあるでしょう。先に浄土往生された諸仏方は、いつもそばでわたくしにお念仏を勧めていてくださるのです。それに応えていくこと(わたくしがお念仏を喜び、毎日を尊く大切に生きること)が、本当の供養です。

(22:13)

2005年09月26日

ca3cb155.jpg「無礙光仏(むげこうぶつ)のひかりには 無数(むしゅ)の阿弥陀ましまして 化仏(けぶつ)おのおのことごとく 真実信心(しんじつしんじん)をまもるなり」(聖典p576)

阿弥陀如来の何ものにも妨げられることのない智慧の光には、無数の阿弥陀如来がおられて、その仮の姿をされた阿弥陀如来はそれぞれに、念仏の人にとどいた真実信心を護ってくださるのである。

●何ものにも妨げられない阿弥陀如来の信心をいただいたならば、どんな苦にも妨げられず、また苦さえも拝んでいける浄土への人生を歩んでいけることです。

(19:00)