歴史哲学(2009年11月岡山哲学道場)

現代の日本人の歴史認識・史観がどのような哲学を背景あるいは前提として成立しているのかを検討するのが今回の目的です。切断と進歩の史観はかなり根強いように思う。
ヘーゲルが「歴史哲学講義」で試みたような哲学的思考を改めて今日やってみようということですね。現在、文芸誌「群像」で大澤真幸が連載している「世界史の哲学」に問題意識は近いかもしれない。
現在の思潮を考えるにあたって、ポストモダンという思考の流儀は見落とすわけにはいかない。「世界史の哲学」などというタイトルであまり恥ずかしさも感じずに考えることが可能なのも、現在がポストモダン期であるからにほかならない。
「歴史哲学講義」という題名でまとめられ流布している書物も、原型は「世界史の哲学」というタイトルの講義だった。戦前の京都学派哲学者の一人、高山岩男の著書に「世界史の哲学」というものがある。ヘーゲルと高山の場合は、かなり真面目に(モダンの意識で)世界史を論じていると思われる。

大澤は、「世界史の哲学」において資本主義が普遍性と特殊性を併せ持つ不思議さに注目している。現在の人類が直面している社会問題は、?民族・宗教にからむ紛争?経済格差(国際的・国内的)?環境破壊、これら三つであると大澤は手際よくまとめる。そしてこれらの問題はいずれも資本主義がその本質であると大澤は喝破する。資本主義の本質はキリスト教だとさらに論は進む。ひとまず、キリスト教について考えておけば世界史について思考したことになるだろうというのが、連載初回の稿の結論である。第二回以降の連載では、延々と宗教哲学的な思考が続くことになる。

さて自分の立場であるが、いきなり世界宗教について考えることはしない。日本という場の現状をしっかりと考えれば世界史についても少しばかり考えたことになるのではないかというスタンスです。
大澤の「資本主義=キリスト教」といった見方には自分は異論があり、自分は「日本の資本主義=儒教」という見方を取る。一方、キリスト教的な考え方は確かに日本に深く浸透しているのだが、それは個人主義や民主主義といった形で入って来ていると思う。
日本は無宗教の国だとよく言われるが、それは欺瞞である。日本は儒教の国である。無宗教と錯覚できるほどに、この宗教は対象化しにくい。対象化できないくらいに日本人の無意識のレベルに組み込まれているというべきか。中国や朝鮮も儒教文化圏であるが、地域ごとにその性質がかなり異なるので注意。
日本の儒教の特徴を簡単にまとめると、上下関係の厳格さということになる。個人よりも集団が重視されるのも特徴。だから、集団主義あるいは権威主義として捉えても大きくは外れていない。日本的儒教集団主義と呼ぶことにしましょう。
集団主義対個人主義という対立的状況が実に頻繁に見られるのが現代日本である。
日本人の宗教的信念については、森嶋通夫「日本はなぜ『成功』したか?」、K・ヴァンウオルフレン「日本/権力構造の謎」から教えられるところが多かったです。

地方分権の革新性
地方分権という政治制度についての考え方はポストモダン的であると思う。なぜか。
これは支配者の正統性を競争や実験にさらすことになる。それゆえこれを嫌う人は多いだろう。中央対地方という構図で見ていると本質を見逃すことになる。税源委譲ばかりが注目されているが、これは分権制への手段の一つに過ぎない。現在の統治体制は一体性をもって運営されている。中央官庁や地方自治体(これには都道府県と市町村の二つのレベルがある。政令指定都市というどちらともつかない組織もあってややこしいが)といった色々な組織があるのだが、これが一枚岩として機能している。(より具体的には、官庁と地方自治体との間の人事交流を見ればよい。中央対地方で対決しようなどという気分にはならぬようにしてあるわけだ)市役所の正統性は国によって担保されている。だから市役所の人の大半は地方分権には抵抗感があるはずである。正統性のうち市民の投票に負う部分が大きくなるわけだから。複数の体制が競争するという状況を実現するのが地方分権という制度である。一種の社会進化論的実験と言える。こんなものが一体どこから出てくるのか。気になるところである。総務省のどこかだろうか。中央対地方として見るよりも、財務省対総務省として見た方が妥当だと思う。

ポストモダン思想の諸相
二クラス・ルーマン、柄谷行人、永井均、宮台真司を押さえておけばいい。
ポストモダン思想の特徴として一つあげるとすれば、明るく楽観的なことである。
トータリティ(全体とか全体性とか呼んでもいい)への接触が容易だとこれらの思想家たちは感覚している。ルーマンにとっての全体は、おそらく二つのレベルに分けて認識されているだろう。それぞれのシステム(これはルーマン思想のキーワードである)にとっての全体性がある。宮台は、マルチカルチャリズムとマルチカルチャープルーラリズムとの違いに敏感である。永井にとって、常識的臆見と自身の哲学との違いが切実に重要である。柄谷は深層と浅層を分けて、深層に本質を見出そうという思考の流儀を批判する。(あれかこれか、でなくて、あれもこれもという姿勢になるわけだ)実践と理論とを分けて、一方の立場から他方を非難するという営みの不毛性を主張する。文筆活動も充分に実践的な仕事なのだと言いたいのだろう。