「自分でやること」の理解

12.やっていることの理解
 さて「限界国家」について色々取り上げましたが、ここでいったんそれから離れて、もう一つの、「この自然な動きが脳と体に効く」にふれることにします。

 こちらは、副題が「最新科学が明かす『人間本来の動き』の力」となっているように、我々が「自分でやっている」ことの中の「動くこと」の「力」、はたらきについて、「脳と体に効く」とあるように、その「動くこと」が、「からだ」だけでなく、「脳」にも効くということを取り上げています。「こころ」とされるものを「脳のはたらき」ととらえるとすれば、それは「心身二元論」を超えることを意味します。

我々がする、いろいろな動きは、「自分のやっていること」です。それを「体の動き」を超えたものとして「理解」することです。

例えば、呼吸です。自分が呼吸していると言うと息を吸ったら吐いたりすることでそれがからだにいろいろ役立つことは解っているわけですが、それが学習能力とどう関係するかとあんまり考えないわけです。それも「自分がやっていること」で、「理解していないこと」だということです。
また、ここでよく取り上げたことで、足の親指というのがあります。それがきちんと動く、やる方から言えば、それを動かすということですが、それはそれだけで、学習能力では関係があるとは思わないわけです。しかし、足の親指の先 は脳の働きとものすごく関係があるわけです。そうすると、自分が足を動かしているということは、脳の働きを良くすることをしているとも言えるわけです。

そういうことが実はいっぱいあるわけで、その中で現代の脳科学が色々証明したことを取り上げて色々紹介してくれているわけです。
 我々が「からだの動き」と思い込み気づいていないことで、学習能力にも関係が有ることについて、最新科学、主に、脳科学ですが、それが明らかにしたことを、いろいろ取り上げています。そして、「人間本来の動き」とあるように、その動きが「自然な動き」「人間本来のもの」であって発揮されるのだと言うことでしょう。

  それらもまた「自分がやっていること」ですが、その「理解」ということで、いくつかとりあげていくことにします。

「自分でやること」の理解

11.一人でやれることの限界
「全てを自分でやることはできない」という自覚がなぜ大切かということで、そういう自覚がない人について考えてみます。そうすると、それには、自身が「全て自分ができる」という人と、そういう全てできる人がいることを前提に、「自分がそうではないから、ダメだ」という人の、両者が考えられます。無論、実際は、その間にいろいろな人が考えられますし、その両極端の人でも、変化するわけですが。

そこで、その前者が多数の後者の上に立つ、一人の人が考え、他の人はそれに従う、そういう組織、言い換えると、衆知を集め、それを理解し合い、それぞれが状況に合わせて自分で判断し報告し合い了解のもとに実行する、そういうことをやらない組織について考えてみます。

確かに、一人で考え、他の人がその指示に従うようになっていれば、素早い行動ができます。しかし、問題はその判断です。それが、ルーティーン化したことについてのものであれば、判断が誤ることは少ないでしょう。しかし、例えば、それぞれの現場での変化に対応するような場合、それについてはそれに接した人にしかわからないことがあります。それを的確に把握しての情報が必要です。それは自分にはできません。本部にいるときは、現場にはいません。それを提供するのに必要な能力は、ただ、言われたことをそのままやるという能力では対応できません。こういう組織では、そういう能力は育ちにくいでしょう。
そういう組織に適応した人が、順に出世して、経営を担うようになると、ただ、そのやり方を引き継いで同じようにふるまうようになります。中には、後者から前者に変化するということが起きることもあるようです。
こういう組織は、環境の変化に適応できず、結局、破綻するというのが、歴史から学ぶことです。

仕事をしていて、その一部を部下に任せるということは当然あるわけです。その時に、その仕事について、それは部下を使って自分がやっていると考えるのと、一緒にやっていると考えるのとは違うでしょう。その部下にやってもらう仕事について、自分がどこまで知っているか、どこからは本人でないとわからない、そういうことが分かっている、区別がついているべきで、そういうことができていないのは、自他の能力についての錯覚があるということでしょう。

こういう自他の能力についての錯覚を持つことを「無能力」ととらえ、それが教育を介して国中に広がっているという危機感が、「限界国家」での、若者たちの「無能力者が上に立つ」という表現となったのかもしれません。

「自分でやること」の理解

10.人は全部やることができない
「思考」や「行動」の過程が多くは、意識されない「深層」で経過しているという話をしました。そして、その経過の中でどれが本当に自分がやっていて、どれがそうではないかということを理解する必要があるということを言ったわけです。
それは、それぞれの「過程」を理解するということで、その全ての「過程」を自分がやることにすることだというのではありません。文字通り全てを自分でやるというのは無理です。ただ自分でやっていないことを自分でやっている誤解するのはまずいのではないかということなのです。

何かをやる時、外からの知識を借りてくる場合があります。また、人に何かやってもらうこともあります。それと、自分で考えてやることや、本当に自分で行動してやったことは違います。
たた、外からの知識を借りてくるということについて付け加えておきます。
無論、自分で考える際、使用する「知識」も基をたどれば、外から得たものかもしれません。しかし、それを自分なりに意味を理解し自分のものとしたものと、自分がよくわかっていないものとは違います。

この違いに触れた言葉が「論語」に出てきます。「習わざるを伝えしか」という言葉です。「自分の身についていないこと、理解できていないこと」を人に教えていないか、自分で戒めている、ということです。「習う」というのは、「論語」の冒頭の、「学びて時に習う」の意味について触れたように、「繰り返して身につく」ことを言うので、聞いてそのまま「解ったきになる」というのとは違います。

では、「習わざるを伝える」のが全てダメかというと、時には、そうする場合もあるでしょう。例えば、「自分もまだ解っていない、ただそれを共に実践して身に付けようではないか」と言うように。
つまり、自分のやっていることについての自覚があるわけで、それは、「自分がやる」ことに付いて理解していると言えるでしょう。それと「解っていないのに解っているつもりになっている」のとは違います。

無論、解っていないことは、分かるようにすることが望ましい、全部何もかも自分でできればいいんですけれども、現実はそうはいきません。一度にすべてをやることはできません。
ですから、この場はここまでで、後は別の機会ということもあるわけです。

だから、数学の問題で、面積の解の公式を使うという例を取り上げましたが、例えば、三角形の面積が底辺×高さ割2であるとかいうことは知っている、ただ、それがどうしてそれで面積が求められることになるのかという意味がわかってないという場合について、まずは、その公式の意味が解っているか解っていないかの区別がきちっとできてればいいわけです。それで、すぐその意味を勉強し直すか、今はやれないからとりあえず、このまま使ったということもあるわけです。ただ、誤解をしないしなければいいということを言っているわけです。

こういうことは、以前に、孔子の「知るを知るとなし、知らざるを知らざるとなせ、これ知るなり」という言葉を 例をあげて説明しました。
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