「個別指導」のこと

68.「見る」と「みる」
 さて、今まで「ことば」について、「りんご」を例に取り上げてきました。その「意味」として「五感のイメージ」とか「情動」とか「欲求」とかそういうイメージを持つものとして扱って、あまり触れなかったのが、「生物」として成長し腐敗し廃棄される、いわば諸行無常の存在としての一面です。しかし、実際には、我々は「りんご」をそういう存在として〈みている〉わけです。

 そこで、ここで取り上げたいのは、その「みる」と平仮名書きで表した言葉です。
 我々が「みる」で一番使用する漢字は「見る」でしょう。しかし、「みる」には、「観る」もあれば「診る」も「看る」もあります。
 
 わかりやすい例として、「診る」を「見る」と対比してみましょう。医者が患者をみるとき、「診る」という言葉を使います。その「診る」は、明らかに「見る」とは違います。体を外から「見る」のと違い、「見えない」内部のはたらきをも見ているわけです。
 その対処となる患者はいわば「多次元の存在」としての「個」です。

「多次元の存在」として「みる」というのは、例えば、化学者が、「水」を「みる」時、それを、「水」という「物」の次元と、「水素」と「酸素」が結びついた「原子」としての次元に、同時に存在するものとしと「みる」というような意味です。

 これを「物を見る」と「ものをみる」と書き分けるとします。そうすると、「物」は視覚の対象となりうる存在なのに、「もの」は、いうならば多次元の存在で、我々はそれを多次元のはたらきを駆使して「みる」ことをしているとでも言えるのではないでしょうか。

 そこで言いたいのは、我々が指導の対象を、特定の次元の存在の「生徒」として「見る」のではなく、多次元の存在の「個」であり、自身の中の「多次元の知識」を自ら「操作」する存在であるとして「みる」べきではないかということです。

「個別指導」のこと

67.自己の修正こそ学習
 「過ち」に「過」をあてたのは、「道」を「過ぎる」という「意味」があるそうです。「道」を求める、それで行き過ぎる、過まる、そういうことです。「論語」に出てくる「過ち」は、そうではないかと思われます。

 自分の「内部知識」を使用して「問題」に挑む、それで「できない」とか「誤る」、失敗します。しかし、それは、人に迷惑をかける、取り返しのつかない「あやまち」ではありません。それどころか、最も重要な「学習機会」です。それは、その「内部知識」を修正するもので、絶好の学習目標となります。
それを完全に自分のものにすると、次に同じ「知識」の使用機会に失敗することはありません。
 それは、前回取り上げた「論語」の教えの目指す、自己の修正であると言えるのではないでしょうか。SSA塾では、その機会を見逃さず自己の修正に挑み続けるよう指導することにしています。正しい学習経過をレポートする「RT学習法」は「内部知識」の修正を目指す具体的手段として考えられたものです。
 「過ち」を放置することなく、その基である、自己の内部の修正を図る、「RT学習法」でいう「根本解決」の意味するものは、そういうことです。それが生き方として見につけば、「論語」の言うところの「学を好む」に近づけるかもしれません。

「個別指導」のこと

66.「過ち」とは何か?
 さて、自身の内部「知識」の修正ということの大切さを考えるうえで、取り上げたいのが、「論語」に出てくる「過ちて改めざる、此れを過ちという」ことばです。この意味は、「過ちはだれでも犯すが、本当の過ちは、過ちと知っていながら悔い改めないことである」というように訳されることが多いわけです。
 しかし、これを「論語」でのもう一つの「過ち」を取り上げてみます。

『哀公問う、弟子孰か学を好むと為す。孔子対へて曰く、顔回なる者有り、学を好む。怒りを遷さず、過ちを再びせず。不幸短命にして死せり。今や則ち亡し。未だ学を好む者を聞かざるなり。』
(意訳)哀公が孔子に質問した。「お弟子さんの中で、だれが学を好みますか?」 孔子はこたえて言った。「顔回という者がおり、学を好みました。怒っても八つ当たりすることはなく、同じ過ちを二度と繰り返しませんでした。ただ、不幸にして、短命で亡くなりました。なのでいまはおりません。それ以来、学を好む者を存じません。」

 ここでは、「学」が話題の中心で、「過ち」を繰り返さないということは、その文脈で受けとめると、「間違っても、それを繰り返さない」ことが「学」の重要さを述べていて、顔回はそれを身に付けていた、ということでしょう。そうすると、これは彼が自分自身の「内部知識」の修正を確実にやっていた、ということでしょう。
 つまり、我々は全能ではありませんから、知らないこともある、それで誤ることもある、しかし、そこでそれを修正すればよい、それが「学」ということであるということです。

 人が積極的に何かに取り組む、そこでうまくいかないことがある、しかし、そこで取り組みをやめるのではなく、挑戦する、そこから学ぶ、そういうふうに考えて、最初の「過ちて改めざる、此れを過ちという」を読み直す、そうすると、前の「過ち」は「過ち」でない、それを正すことなく、繰り返すことが後の方の「過ち」、本当の「過ち」だということでしょう。それを「正す」のは、本人の内面の在り方でしょう。

 これを持ち出したのは、ここでいう「修正」としたものが、重要な「学習過程」であること、それが視野に入っていない「教育」には欠陥があること、そして、それを「指導」することの大切さを言いたかったからです。
記事検索
Archives
楽天市場
livedoor プロフィール

hsata1

QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ