95.ネットワークとしての「知識」
 「知識」が、「個」の中の「ネットワークの中を流れるようなもの」だというような見方をすると、その網のように複雑な流れのどこかにそれを阻害するものがあるとして、それがどこにどう影響を及ぼすかは、非常に解りにくいことが理解できます。

 流れがある箇所が阻害されるとそれとはるかに離れた、近代科学的発想では関係がないと思われる器官の働きが障害されるわけです。
 それを「医学」と言う分野で言えば、病状の表れる場所と「ツボ」と言われる場所の関係ということになるのでしょう。それは、「知識」を扱う分野でも同じで、ただ、それを学問の分野として区別しているだけで、「理解」とか「思考」における「あたまのはたらき」が例えば「足」の親指で「気の閊え」によっておきるというようなことです。

 「りんご」の例で「個」のなかの意味が多くの「イメージ機能」のはたらきに支えられているわけですから、それぞれのはたらきを阻害する「流れを阻む」箇所となると無数であり、それを全て特定するというのはまず無理でしよう。それは何も「りんご」に限らず、他の「例えば動詞とされる「歩く」一つとっても、「個」の中の「意味」を担うネットワークには「脳」の「運動野」だけでなくそれこそ「情動」も「欲求」もというふうな広がりを持っていて、その「はたらき」が阻害されたからと言って、機械の故障原因のように対処できることになりません。

無論、それについて両者の関係を明らかにすることは、それはそれで大切ですが、実践する側としては、とにかくその流れの遮断を取り除くというアプローチがあってもよいわけで、気の「閊え」を取り組む中で逆にここの閊えを取り除いたら、ここのはたらきが引き出せたということを知ることから始めて良いはずです。