2018年02月

情報の媒体について

97.「コトバ」は、「事物」に即して整理されている?
 「いじめ」の例は、二人以上の人が関わって起きる「こと」であり、それはその人によって異なるにもかかわらず、その違いを無視して同じ「コトバ」と結びつけることで、誤解が生ずるようになっていると言いたいわけです。
 こう言う「意味」に対して、「コトバ」が整理されていないことの例は、いくらでもあります。
 西洋医学は「肉体―細胞」レベル、東洋医学は「気」つまり「エネルギー」レベルを対象としているという人がいます。そう割り切れるかどうかはともかく、次元の違いがあるにもかからず、同じ「コトバ」が使用されるということがあります。
 例えば、「腎」とか「肝」とか、これは「西洋医学」を日本語に訳するとき、わかりやすいようにということで、似たというか近いというか、多少共通性のある言葉を当てたということでしょうが、それが理解の妨げになっているという面があるのではないでしょうか。
 
 儒教では、「格物致知」「事物を格て知に至る」と言いますに至る」と言いますが、「コトバ」は、「事物」に即して整理されてこそ、「知識」足りうるのではないでしょうか。

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96.不正確な言葉
 「コトバ」の組み立てが、「意味」のそれと合わないことが混乱を引き起こすことがいろいろあります。

 例として、「いじめ」という「コトバ」を取り上げてみます。
 「いじめ」の定義は「自分より弱い者に対して、一方的に身体的・心理的攻撃を継続的に加え、相手が深刻な苦痛を感じているもの」となっています。
 この定義からすると、「いじめ」は、受ける側のなかの「苦痛」を指すものだということになります。それと、その原因が強者からの攻撃によるものだということです。
 しかし、一方に「いじめた」と言うように使われる言葉があり、その場合は、その攻撃した側の「行為」を指すものとなります。ただし、単なる行為ではなく、それが相手の中の「苦痛」という結果をもたらす行為だということです。
 しかし、そもそも「苦痛」を与えない身体的攻撃名とあるのか疑問が起きます。そこで「深刻な」としたのでしょう。

 この定義もかなりいい加減なものですが、ここではそれは問わないことにします。
 そこで、この「コトバ」が、「AがBをいじめた」というふうに使われることです。この場合、Aは一人とは限りませんが。
 そこで、問題は、まず「Bが深刻な苦痛」を感じたかどうかです。次に、Aに相手に「深刻な苦痛を与えよう」という意図があったかどうかです。
 しかし、普通こういう言い方をするのは、第三者です。例えば、新聞を報道で言えば、新聞記者です。彼がAとBにそれを確かめたとすればともかく、多くの場合、そうではありません。にもかかわらず、この「コトバ」はこういうふうに使われます。
 これを読んだ人の多くは、当然「いじめ」があったと受け取るでしょう。それは正しいことでしょうか。

 この「コトバ」にはいろいろな人の主観が整理されないまま使われています。
 まず、Aはその意図があったのでしょうか。あった場合の「コトバ」を「いじめ(意)」とします。次に、Bが「深刻な苦痛」を感じたかどうかです。あった場合の「コトバ」を「いじめ(感)」とします。そして、その「コトバ」を使う第三者は、そのいずれかを確かめたのでしょうか。ただ殴るとかの行為だけを訊いたのかもしれません。その場合の「コトバ」を「いじめ(行)」とします。
 もし、第三者が「コトバ」を使い分けたとすれは、それを聴いたり読んだりした人の受け止め方は、違うでしょう。
  
つまり、この「いじめ」という言葉は、それに関わった人の立場を無視した整理されていない言葉であり、そういう整理されない「コトバ」が社会に流通している例は、いくらでもあるのではないでしょうか。

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95.身分制度の名残
 「事物」の「意味」の変化に、「コトバ」がついていけず、そのずれがもたらす混乱ですが、その社会の在り方について。

 中国の秦の時代の、陳勝の言葉「王候相いずくんぞ種あらんや」 は人間の血筋や家柄を否定した言葉ですが、逆に言えば、多くの人々が「種がある」ことを信じていたということでしょう。
人間についてのそういった認識が、社会に「身分制度」を生み出し、それを前提に、「コトバ」として「敬語」の「尊敬語」や「謙譲語」というのが成立し、それが人々に強制的に注入されました。
 ところが、人間の「遺伝」に関する科学的知識などを基に、その「身分」を支える様々な前提となる「意味」が崩れてきます。しかし、それと結びついた「コトバ」が残り続け、その崩れるべき制度を温存しようとする勢力を維持するものとして働き、それを変えようとする勢力の間での摩擦が起こります。

 似たようなものとして、「男尊女卑」と言われる「性差」に関する「コトバ」による差別があります。これも、その廃止を目指す人々と、それを「よき文化」としてこだわり続ける人々の対立が起きています。

こういうことが起きるのは、人々の中の「言語システム」においては、本来「意味システム」を土台とすべきですが、それが歪んで「コトバシステム」が優位に働くということがあるのではないでしょうか。

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94.「意味」と「コトバ」のずれ
 「個」の中の「言語システム」を、「意味」と「コトバ」が結びついたシステムだとすると、その中で「コトバ」が独り歩きするということがあるのではないでしょうか。

 「言語」が「意味」と「コトバ」の結びつきによるとすると、その「意味」を担う「事物」についての理解と、「コトバ」の間に様々なずれが起きます。

 まず、科学の発展によって、「観えない世界」について様々なことが分かってきました。それにも関わらず、それ以前の「知識」を基に成立した「コトバ」がそのまま使われると、その「コトバ」と「意味」の間に混乱が起きます。

かって、クジラは魚だと思われていました。それで、「鯨」という漢字(文字―コトバ)が生まれ、今でも使われています。しかし、その後成立した「生物学」ではクジラは「哺乳類」だということになりました。しかし、「鯨」はそのまま使われています。それは、時に人を混乱させます。
「意味」に合わせるのなら、例えば「魚扁」に変えて「ケモノ扁」を使用すれば、それは避けられるかもしれません。

これは、一つの例で、それもあまりよい例ではないかもしれませんが、「事物」に対する「知識」の変化にも関わらず、「コトバ」が生き残って、混乱を生み出している例は、いくらもあるでしょう。

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93.「コトバ」の独り歩き
  そこで、我々はその「観えない情報」を「コトバ」と結びつけて、その「コトバ」を使用するわけですが、それが観えないために、その「コトバ」自体が「意味」を持っているように錯覚し、それを絶対視して、それを組み合わせて「思考」し「会話」するといったことをやるようになりがちです。いわば「コトバ」が独り歩きして、「意味」を振り回すとでもいうようなことがおきます。そして、人の中にはそれを悪用するものも出てきます。
 
 ここで取り上げた「聴き合い」とか「読みあい」とかは、その「コトバ」と「意味」の関係の学習になります。そのことによって、我々が普段、いかにその関係をいい加減に扱っているか、更に、そのことによって人と人のミスコミュニケーションがひきおこされ、それが社会を混乱させているか、知ることになるのではないでしょうか。

ここで「観えない情報」という言葉を使いましたが、もともと「情報」の本体は、観えないものだということでしょう。
世間の常識では、「言葉」は「情報」そのものです。しかし、「コトバ」が「情報」ではなくその「媒体」であると考えてみることは、それなりに価値のあることだと思います。
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