2007年11月24日

別れ


 男は、怒と恥に唇を震はしながら女を見据ゑた。女は、眼に一杯涙をためて、ぢつと男を見返しながら言ふのだつた。
 本当のことさへ白状すれば、どんな罪深いことをしてゐても許してやると仰つしやるのね。まあ、お可哀さうに、あなたはもう、その一言であたしの愛情をつなぐことは出来ませんよ。何故つて仰つしやい。そんなことがあたしに白状出来ると思つてゐらつしやるの。足かけ三年も連添つてゐながら、あなたはあたしをすこしも解つてゐないのね。
 でもお望みなら、母親に叱られた小娘のやうに、涙を流して「もうほかには何もしません、ごめんなさい」つて言つても好いわ。でも、それぢやあたしの気がすまないわ。あなたにしても、今夜はこれで仲直りをしても、また明日になりや思出して、何かもつとあつたらうと疑ひに疑ひをかさねて、あたしと一所にゐるうちは、不安の消える時はないでせう。だから、たつて言へと仰つしやるなら、あなたを怒らせないやうに、上手に嘘を言ひませう。ちつとも何もしなかつたやうに。さうするとあなたは、すこしでも自分を静かにするために、それを信じて、あたしを許してくれるでせう。するとあなたは欺されたことになるんです。何も知らないあなたに、あたしが汚れたキツスをおかへし出来るとおもつて?
 だまつてさへゐて下さつたら、あたしだつて、昔の過ちは忘れてゐられたでせうにね。あなたはまあ取返しのつかないことを言ひだしたのね。
 もうかうなりやおしまひだわ。何も聞かないで、何も言はせないで、きれいに別れませうね。それがあなたのためよ。
 さうして女は、いつてしまつた。

別れ



恋愛秘語(大正13年 文興院)より

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 彼女は彼より三つ年上であつた。
「どうせ私のやうなお婆さんには、もう御用がないんでせう」その晩も、彼女は彼に、御用があるかないかを確めるのだつた。
「馬鹿だね、お婆さんだからぢやない、お婆さんだといふ無持で俺を縛りつけるからいけないんだ」
「縛つてなんか居ませんよ。あなたがしたい放題に、家だつて別別にしてゐるし、お店だつてあなたの気儘になつてるぢやありませんか。それこそあなたの生活は自由だわ」
「そんなことが自由だらうか、人と人が別な道を歩くから、その人と関はりがないと言へるだらうか。君は朝タの食卓の祈りに、あなたを一番に祝福するといふが、それがまづいけないんだ」
「それを嘘だと仰つしやるんですか、私がどんなに、蔭ながらあなたの為めを思つてゐるか、あなたにはわからないんです」
「そりやセンチメンタルだよ。どうかあの人の上に幸福があるやうにと析る、涙ぐましい犠牲的な気持は、自分の憎みと妬みを自分で宥める、消極的な自慰だよ、謙譲の徳でも、粋な心意気でも何でもないよ。君のやつてゐる仕事を批評しちやわるいが、慈善なんてものだつてさうだ、先方の幸幅を祈るよりも善いことをしたと思ふ通俗な感情で自分がまづ救はれたいからさ。慈善家の喜捨を受けた哀れな人間の側から言へば、所謂浄財を貰つただけでもう沢山だのに!いやでもお志を承認して、その上、同情とか慈悲とかいふ美名を、お移りに返さなきやならないんだ」
「それが当然の義務だわ」
「さあそこさ、義務を負はされた、あなたのためのお析りが僕には嬉しくないんだ。このあひだも君は、婦人済世会のN女史と、処女を保護すると言つて、Sの許へ出かけたといふぢやないか」
「哀れな婦人を救ふのが私達の仕事です」
「では訊くがSはそんな哀れな女だらうか」
「あの子はもう処女ぢやなかつたんです」
「そんなことが、どうして解つた」
「あの子が自分の口で言つてゐました。あの子は、あの時もう、あなたと関係があつたんです。いいえさうです」
「そんな風に卑しい言業で争ふのは止さうぢやないか」
「争つてゐるのぢやありません、事実を言つてゐるんです」
「そんな事実は医者にだつてまだ正確にわからない、もつと主観的なものだよ。女にとつては神秘な問題だよ」
「だからあばいてはいけないんですか」
「もしニ人がさうなつたら、君のやうにその事実だけと告白するにも及ばないが、秘しだてする必要もぼく達は感じないよ。どうして世間は、他人の男女関係になると、さう手取早く決めてしまふのだらう。真剣で恋をしてゐるニ人にとつては、恋をしてゐることそれ自身が運命的な事業なんだよ。肉なんてものは、最初からの問題でもなけりや、最後の事実でもないよ」
「さうでせうね。あの方は学問がおありだから、あなた達の恋は、さぞ神聖でせうね」
「そんな風に投げつけて逃げるのは卑劣だよ。お前には解らないのか。肉と心とを別別なものにするからいけないんだ。肉から心だけを切放した心の愛なぞといふものはあり得ないよ。しかし肉の伴はない愛はあるだらう。だがそりや肉を必要としなかつただけだ。また肉だけの愛なんてものもないはずだ、もしあつたらそりやただの肉欲だ。強く愛するものにとつて、肉の関係なんかを、さう急ぐわけはないよ。もしあれば、略奪結婚時代の遺習になつてゐる男性の占有欲だ」
「そんな理屈をつけて自分を弁護したつて駄目ですよ。現にあの人は処女ぢやないつて言つたぢやありませんか」
「そのことはSから俺もきいたが、あれは、案外処女でない済世会の老嬢や、市村座の慈善総見をする貴婦人達への反語なんだよ。(わたしはほんとの愛のためなら、処女の操だつてもつと大切なものだつて、次の次の問題だと思つてゐますのよ。折角ですが、わたしのことは、お構ひ下さいませんやうに。それにしても、あなた達ははじめから、私を処女だとどうしてお決めになつたんでせう。さうしてそれがどうしてお解りになりまして?)つてきいたさうだね。その言葉の中には、(失礼ですが、あなたも処女でゐらつしやいますか、年老つたお嬢さん)さう言ふ意味があるんだ。さうするとN女史が、吃驚して(ぢやあなたは処女ぢやないつて仰つしやるの?)ときいたさうだね」
「さうしたら真赤な顔をして、あの人はうつむいたのを私は見ましたものを」
「だから、処女でないのを恥ぢたとでもお前は言ふのだらう。さう簡単に人間の心持が解りや掃人済世会なんか要らないんだが、(あの時は、あんまり馬鹿馬鹿しいことを訊ねるんですもの、あたし吹出しさうになつて、まあ私があなた方よりも浮気に見えまして?つてよつぽど言ふととろだつたけれど、この人達にはお解りになるまいと思つて黙つてゐたわ)つて言つてゐたよ」
「救はれない人です」
「それから君はSに嫉妬するやうになり、N女史はSを憎み出したんだね。それが僕にはをかしいと思ふのだ。処女を保護するのなら、もつと広義な処女性も認めて好いわけだ、処女でなくなつたからつて女を憎んでゐた日にや、世の中の女の立つ潮はないよ。その責任を負ふものは、もつと外にあるはすだ」
「あなたには責任があるんでせう」
「またそこへ持つてきた、だがもし君の思つてぬるやうな開係なら、僕に責任があるとも言へないし、責任を持たないとも言はない。もし僕が責任を感じるやうになれば、Sも一緒に、つまり二人の運命について責任を感じるだらう」
「あたしなんかどうなつたつて構はないんでせう。そんなつもりなら早く私を捨てて下さい、いやならいやだつて言つて呉れれば好いんだ。さうなりや私だつて親もあり兄弟もあります。この年になつて親兄弟の厄介になるのはいやだけれど、今では元気はないし、折角やりかけたミシン刺繍だつて、幼稚園だつて、何一つものにならないうちに、あなたが来ては壊したんです。中橋の店だつて、あなたさへ外国へいつてしまへば、私達立派に暮してゆけたんです。おまけにお店でSと媾曳なんかして、店も何も滅茶滅茶にしてしまつたんです。私とFともさうだつたつて言ふんですか、そりやわけが違ひます。いいえ、Fは可哀さうな青年です。Fがあんなに不良になつたのは、家庭の為めです。あの青年には、親の愛が不足してゐたんです。私のためにあの青年はどんなに慰められたか知れませんよ。(姉さんに逢はなかつたら僕はもうとつくに死んでゐるか、堕落してゐたんです)つてこの間の晩も泣きながら私に言ひました。(姉さん、いつまでも私を愛して下さい)つて、ほんたうにあの青年は教はれました、信仰に燃えてゐます。今はどんなに神様の恩寵を感謝してゐるか知れません。来週バプテストの洗礼を受けることになつてゐます。先週の日曜日にも教会から出てきて(子供の時に青山の日曜学校できいた賛美歌を思出して泣けて仕方がなかつた)つて言つてゐました。迷へる小羊が母親の懐へ帰つてきたんです。ほんたうに有がたいと思ひます。あなたも洗礼をお受けになつてはどう?」
 彼女は諄諄とキリストの教義を説き、いかに彼女が博大な愛をもつて青年を神へ導いたか、そして青年がいかにあふるる神の栄光に浴したか、またいかに、彼が音楽に豊かな天分を持つているか、すべての芸術家が宗教的思想の根底をもつてゐなくてはならないか、彼女の良人なる彼は、いかに救はれねばならぬ危機にあるか、等等の長談義をはじめたのだつた。
 彼はもう少しの異議さへも挟まず、一一謹聴してゐる外なかつた。何故なれば信仰の話について、一寸でも嘴を人れたら最後、夜を徹してもなほ彼女の雄弁はやまないのが常であつたから。
 彼女によれば、彼女は若い男を教化したり悔改めさせる、稀なる人徳を備えてゐるのであつた。彼女によれば彼女の良人なる彼もまた、彼女に救はれた一青年に過ぎなかつた。彼女は彼の芸術のため身を犠牲にして、彼女の良人を捨てて、彼女の子供を捨てて、婦人済世会の一員になつて働いてゐるのであつた。
 彼は今宵の説教がなるべく早く終るやうに、Fの問題にも触れないやうに、黙つてゐた。
 夜はもう三時を過ぎてゐた。彼女の説教はまだ止まなかつた。そして彼とSとの間を、すつかり彼女のまへに告白するやうに迫つた。
「私にではありませんよ、エス・キリストに告白するんです」さう彼女は教へるのだつた。
 彼は、もうとても独慢の出来ないあくびをかみ殺したとき、彼は彼の眼のうちに涙が一杯たまつたことを知つた。彼は彼女の方へ、顔をあげた。彼女は、彼の眼に、懺悔の涙が充分たまつてゐるのを見た。
 彼女は感激をもつて彼の手をとりあげ、このうへは、彼とSとを添はせてやつても好いとさへ誓ふのであつた。

涙



恋愛秘語(大正13年 文興院)より

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時計


        1

 鳥瞰図的に世間から見たら、それは到底纏らぬ縁であつたのだ。彼は初婚ではなかつたし、彼女は一人娘であつた。しかし、恋する者はそんな事精は考の外においた。いや、さういふ世間的な事情が、却つて二人の愛情をせつないものにして、一層寄添はせたのかも知れなかつた。そのうへ、彼女は二年越しの病気で、彼と三年近くも世間にかくれて(その実は、彼女の師匠の心添や、彼の友人達の親切によつて半ば公然ではあつたが)同棲したK市の病院から、東京の彼女の生家へ、間もなく引取られる手筈になつてゐた。
「かうしてゆつくりお話出来るのも、もうあと一週聞ね」
 彼女は枕の位置をかへて、彼の方へ向きながらさう言つた。彼はそれを考へるのを好まなかつた。生家に引取られてしまへば、気まづい思ひをせずに、彼女を見る機会はとても得られさうもなかつたから。
「恋する者にとつて一週間といへば永遠さ」いささか芝居の文句じみると思つたが、彼は、元気よくさう言つて笑つた。
「ほんたうにさう思つて下さるの?」
 眼を伏せて彼女は言つた。
 そこへ看護婦が、花の水を入れ換へた花瓶を持つてきて、枕元へそれをおいた。看護婦がしづかに室を出てゆくと、彼女は、待つてゐたやうに彼の方を見あげて、
「 あたしね。時計がほしいのよ」と、子供がおねだりとする時のやうな、甘えた頬笑みをしながら言ふのだつた。

        2

 彼女のこの思ひつきは、何か彼を悲しくした。彼はしかし、すぐに黒船屋の店へいつて、唐草模様の彫刻を施した薄手の時計を買つてきた。
 静かな冬の夜の枕元で、時計は、寂しげにチクタクと鳴るのであつた。
 二人は黙つてそれをきいた。彼女の頬をしづかに涙が流れた。

        3

 東京の生家へ帰つてから三月目に、彼女は神に召されていつた。
「午後九時ニ十五分」彼女の家族のうちで、一番彼に好意を持つてぬる彼女の従弟が、臨終の間に合はなかつた彼に、電話で知らせてよこした。

        4

「かたみ」として彼に送られたその時計は、やはり「九時ニ十五分」でとまつていた。それは人意か、自然か、彼はそれについて考へることを恐れた。

時計



恋愛秘語(大正13年 文興院)より

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四月馬鹿


 四月馬鹿の日が来ると、彼女はきまつてピストルの事を思出すのであつた。彼女が、ある女子大学へ通つてゐる時代に、彼女はある不幸な恋をした。といふのは彼女の恋人は一人息子で、彼女は一人娘であつたのだから、そしてまだ家族制度の因習が深く世の親達を支配してゐる時代のことであつたから。なほもつと悪いのは、親の知らぬ間に恋をしたといふことであつた。掟の如く、ニ人の恋はせかれた。
 彼女は長いこと学校を退いて、親達のきつい監視のもとに家にばかりゐた。しかし、彼女の賢い謹慎ぶりに、親達も安心して、一つには根負けして、新学期から学校へ通ふことを許したのであつた。 四月一日即ちエプルフウルの日に、彼女は学校への途上にあつた。四月の朝のさわやかな太陽の光が、彼女の仕立おろしの袷の肩を照らした。彼女のすらりとした姿が敷石の上にいきいきと落ちた。「影を売つた男の話」を思出して、彼女は彼女に影のあることを、このうへもなく喜びながら歩いてゐた。すろと、自分の影に添うて一つの影が、突としてあらはれた。そして、その影が自分の頭へピストルを向けてゐる。彼女は立止つた。影も立止まつたかとおもふと
「覚悟をしろ」その影が言つた。
「まあ」彼女はぴつくりしてふりむくと、それは彼女の恋人で、小ひさなピストルと見えたのは鍵であつた。
「まあ」彼女は再びおどろいた。
 そのあくる年の四月。彼女は不治の病を得て病院に入つてゐた。彼女の恋人は、毎日のやうに病院を見舞つた。彼女の父はそれを喜ばなかつた。自然、恋人と父親とは、彼女の病床で気まづい顔を合せることが屡であつた。父親は、もう娘の恋人に我慢が出来なかつた。ある日「病気険悪に付両親の外面会謝絶・院長』 と書いた札を入口へ貼りつけた。
 彼女は、それでも、一日も恋人を見ずにゐられなかつた。若い看獲婦だけは、彼女の唯一の味方であつたから、来て好い時を、そつと恋人に知らせてやつた。
 恋人は相変らずやつて来た。
 恋人たちは、言葉少なに、互を慰め合つた。しかし、一人が不治の病であるのに、一人が健康でゐることにまで、ニ人の心が落ちてゆくと、もう何も言へなかつた。
 二人の逢瀬はつねに果敢なく短かつた。
 彼は帰る時、ポケツトから一挺のビストルを出して、彼女に笑ひながら示した。
「また四月馬鹿なの」こんどは本物のピストルではあつたが、彼女はしづかに訊ねた。しかし彼は笑ひもせずに答へた。
「逢へなかつた時の用心さ。だが誰を憎むにもあたらない、考へて見りやどうせみんな一度は死ぬんだものね」
 彼女はピストルを持つた彼の手をとつて、感謝の念をこめて強く胸におしあてた。
 彼女の眼からは、熱い涙がとめどなく流れた。

四月馬鹿



恋愛秘語(大正13年 文興院)より


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春と歩む


 晩春の、もう五月近い日の午後で、黄ろい太陽は、支那の帝王のやうに鷹揚に、自信を持つた足どりで青空をあるいてゐた。近頃、彼は彼のする事に一つとして自信が持てなかつた。彼は尊大な太陽が気に入らなかつた。
 ロダンの輝かしい傑作よりも、ムニエのつつましやかな情操のほうへ心ひかれる、このごろの彼だつた。
 だが、彼は太陽を憎みはしなかつた。憎む勇気もなかつたし、家の中に引込んでさへゐれば、太陽を見ないでも済むからでもあつた。
 彼はしかし、荒川の堤を、彼の心持にふさはしい一人の娘と歩いてゐた。彼は、高慢な太陽に目をそむけて、埃にまみれた彼女の束髪と、その陰に青い襟脚を見た。また塵に汚れた白足袋を見た。そして淡い哀感と強い愛情を感じた。いきなり肩を抱いて接吻するやうな習慣を持つていなかつた彼は、ポケットへぐつと手を差し入れて、そこで煙草のケースを握つた。
「五色桜も、もうおしまひだね。ルーヂンぢゃないけど、もう葉が出てゐる」
「はい」さう言つて、娘は桜を仰ぎ見た。
 さすがに荒川堤ももう人通りさへ稀れだつた。
「まだぼくが東京へ出たばかりの時分の、荒川の花見と言つたらお話だね。花の数よりも人の数の方が多いと言つても嘘ではなかつた。硯友杜の全盛時代でね、花見で娘を見初める小説なんかあつたけが、今ぢや帝劇とか音楽会といふ所だらうな。さうさういつの花見だつたか、土手の下の草原へ、青毛氈を敷いて其角頭巾を被つた男が、懐手をして、片手の指で鶯の谷渡や、馬追を鳴いては、見物の方を見回して(投銭なんかあとらないよ、かう見えても武士の裔だ)つてお銭を貰つてゐたが、あんな名人も、もう死んぢやつたらうな」彼は、さう言つてしまつて、少し感傷的になつたことを恥ぢた。その詠歎は、世に遠ざかつてゆく彼自身の焦慮と自棄から来てゐるのだつたから、そしてまた、彼の退嬰生活の原因は、彼の、ベターハーフであつた女の死から来てゐるのだと、常に自分を弁護し、甘やかしてゐるのであつたから。
 娘も、彼がどんなに死んだ彼女を愛してゐたかを知つてゐたし、だから、彼が今どんなに深く憐欄してゐるかも想像出来た。娘は、彼の忠実な読者だつた。彼女は、二三日前に北の方の遠い町から、遥遥、彼女によれば、心と身体との準備をして、彼のために朝の茶をいれ、夕の燈をともしに来たのだつた。彼は、娘のこのけなげな素直な心に悲劇役者のやうな、あてこみをしさうな自分を恥ぢた。
 すべてのものが失はれたとは言へ、彼はまだ自分の中にある、いつか現はれるであらう所の、何かは、捨てられないとおもつた。それがどんな物であるか、彼にもはつきりしなかつた。はつきりそれを見極めるのが恐ろしくもあつた。
 その(何か)を彼女は知つてゐてくれたであらうか。いづれにしても、この若い娘が、彼の生活を変へさせて、彼の失つたものを取返させることが出来たであらうか。
 尊大な支那黄帝は、タ空を西の方へ、哀れな彼と彼女は、堤を東へ東へと歩いた。千住の町へついた時には、青物市揚はがらんとして店の奥の方に、ひつそり燈がついてゐた。
 彼は、どこか静かな家で、タ飯を食ひたいとおもつたが、足は、いつか千住大橋を渡つてゐた。この辺には、橋下の雀焼屋の外に、入るに好い家もないので、いつか眼の前へ来た人形町行の電車に乗つてしまつた。
 娘は、吊革につかまらずに、すがるやうにして、彼に寄添つた。
 彼は、娘に涙のわきあがるやうな愛情を感じた。
 このどんよりした、そしていらいらした自分の気持を紛らすために、娘を可愛がることは出来る。彼は、思つた。だが、それでどうなるんだ。このいぢらしい娘はどうなるんだ。
 満員の電車は、降りる客を降ろし、乗る客を乗せては、どんどん走つた。どの人間も、希望と自信とを持つて、自分のゆく所へゆき、帰る所へ帰つてゆくやうに見えた。
 娘は、彼が何か言ひ出すのを待つた。何であらうと早くききたかつた。彼が言へば、どこででも電車を降りたであらう。そしてどこへでも彼に従つてゆくであらう。地球の果までもゆくであらう。
「いぢらしい娘よ、私を許してくれ、私は自身をさへどうして好いかわからないのだ」
 電車は、燈のついた明るい街を、勇敢に走つてゆく。

春と歩む



恋愛秘語(大正13年 文興院)より

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恋愛秘語 短編

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恋愛秘語

恋愛秘語(カバー)


恋愛秘語(挿絵)



恋愛秘語(大正13年 文興院)より

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傀儡師(くわいらいし)


...................大阪(おほさか)をたちのいても、わたしが姿眼(すがため)に
          たてば、借行輿(かりかご)に日をおくり...................
口三味線(くちさみせん)の浄瑠璃(じやうるり)が庭(には)の飛石(とびいし)づたひにちかづいてくるのを、すぐ私(わたし)どもはきヽつけました。五十三次(つぎ)の絵双六(えすごろく)をなげだして、障子(しゃうじ)を細(ほそ)めにあけた姉(あね)の袂(たもと)の下(した)からそつと外面(とのも)をみました。
四十ばかりの漢(をとこ)でした、頭(あたま)には浅黄(あさぎ)のヅキンをかぶり、身(み)には墨染(すみぞめ)のキモノをつけ、手(て)も足(あし)もカウカケにつヽんでいました、その眼(め)は、遠(とほ)い国(くに)の青(あを)い海(うみ)をおもはせるやうにかヾやいてゐました。棒(ぼう)のさきには、鎧(よろい)をきたサムライや、赤(あか)い振袖(ふりぞで)をきたオイランがだらりと首(くび)も手(て)をたれてゐました。
漢(をとこ)は自分(じぶん)のかたる浄瑠璃(じやうるり)に、さも情(じやう)がうつったやうな身振(みぶり)をして人形(にんぎやう)をつかつてゐました。
赤(あか)い襠(しかけ)を着(き)た人形(にんぎやう)は、白(しろ)い手拭(てぬぐひ)の下に黒(くろ)い眸(ひとみ)をみひらいて、遠(とお)くきた旅(たび)をおもひやるやうに顔(かほ)をふりあげました。
...................奈良(なら)の旅籠(はたご)や三輪(みわ)の茶屋(ちやや)...................
          五日(か)、三日(か)夜(よ)をあかし...................
と指(ゆび)おりかぞえ
...................二十日(はつか)あまりに四十両(りやう)、つかひはたし
          て二歩(ぶ)のこる、金(かね)ゆへ大事(だいじ)の忠兵衛(ちゆうべえ)さ
          ん...................
といつて、傍(かたは)らに首(くび)をたれた忠兵衛(ちゆうべえ)をみやつたガラスの眼(め)には泪(なみだ)があるのかとおもはれました。
...................科人(とがにん)にしたもわたしから、さぞにくかろう
          お腹(はら)もたとう...................
思(おも)ひせまつて梅川(うめかは)は、袂(たもと)をだいてよろ/\よろ、私(わたし)の方(ほう)へよろめいて、はつと踏(ふ)みとまつて、手(て)をあげた時(とき)、白(しろ)い指(ゆび)がかちりと鳴(な)つたのです。
私(わたし)は泣(な)きながら奥(おく)へはしりこみました。

傀儡師(くわいらいし)



桜さく島 見知らぬ世界(明治45年 洛陽堂)より

死(し)


花道(はなみち)のうへにかざしたつくり桜(ざくら)の間(あひだ)から、涙(なみだ)ぐむだカンテラが数(かず)しれずかヾやいてゐた。はやしがすむのをきっかけに、あの世(よ)からひヾいてくるかとおもはれるやうなわびしい釣鐘(つりがね)の音(ね)が聞(き)こえる。金(きん)の小鳥(ことり)のやうないたいけな姫君(ひめぎみ)は、百日鬘(ひゃくにちかつら)の山賊(さんぞく)がかざした刃(やいば)の下(した)に手(て)をあはせて、絶(た)えいる声(こえ)にこの世(よ)の暇乞(いとまごひ)をするのであった。
「南(な) 無(む) 阿(あ) 弥(み) 陀(だ) 仏(ぶつ)」
きらりと光(ひか)る金属(きんぞく)のもとに、黒髪(くろかみ)うつくしい襟足(えりあし)ががっくりとまへにうちのめつた。血汐(ちしお)のしたヽる生首(なまくび)をひっさげた山賊(さんぞく)は、黒(くろ)い口(くち)をゆがめてから/\と打笑(うちわら)つた。
あヽお姫様(ひいさま)は斬(き)られたのか。
それは少年(せうねん)にとっては「死(し)の最初(さいしょ)の発見(はつけん)」であつた。
もう姫君(ひめぎみ)は死(し)んだのだ、死(し)んでしまへば、もうこの世(よ)で花(はな)も、鳥(とり)も、歌(うた)も、再(ふたヽ)びきくこともみることもできないのだ。
涙(なみだ)は少年(せうねん)の胸(むね)をこみあげこみあげ頬(ほ)をながれた。
「死顔(しにがほ)」も「黒(くろ)き笑(わらひ)も」泪(なみだ)にとけて、カンテラの光(ひかり)のなかへぎらぎらときえていった、舞台(ぶたい)も桟敷(さじき)も金色(こんじき)の波(なみ)のなかにたヾよふた。
その時(とき)、黒装束(くろせうぞく)に覆面(ふくめん)した怪物(くわいぶつ)が澤村路之助丈之と染(そ)めぬいた幕(まく)の裏(うら)からあらはれいでヽ赤(あか)い毛布(けつと)をたれて、姫君(ひめぎみ)の死骸(しがい)をば金泥(きんでい)の襖(ふすま)のうらへと掃(は)いていつてしまつた。
死(し)んだのではない、死(し)んだのではない、あれは芝居(しはゐ)といふものだと母(はヽ)は泪(なみだ)をふいてくれた。
さうして少年(せうねん)のやぶれた心(こヽろ)はつくのはれたけれど、舞台(ぶたい)のうへで姫君(ひめぎみ)の斬(き)られたということは忘(わす)れられない記憶(きおく)であつた。
また赤毛布(あかけつと)の裏(うら)をば、死(し)んだ姫君(ひめぎみ)が歩(ある)いたのも、不可思議(ふかしぎ)な発見(はつけん)であつた。

死(し)1


死(し)2



桜さく島 見知らぬ世界(明治45年 洛陽堂)より

路(みち)


青(あを)い野原(のはら)のなかを、白(しろ)い路(みち)がながく/\つヾいた。
母(はヽ)とも姉(あね)とも乳母(うは)とも、いまはおぼえもない。おぶさつたその女(をんな)が泣(な)くので、私(わたし)もさそはれてわけはしらずに、ほろ/\泣(な)いてゐた。
女(をんな)の肩(かた)に頬(ほヽ)をよせると、キモノの花模様(はなもやう)が涙(なみだ)のなかに咲(さ)いたり蕾(つぼ)んだりした、白(しろ)い花片(はなびら)が芝居(しばゐ)の雪(ゆき)のやうに青(あほ)い空(そら)へちら/\と光(ひか)っては消(き)えしました。
黄楊(つげ)のさし櫛(ぐし)がおちたのかと思(おも)つたら、それは三ヶ月(みかづき)だった。
黒髪(くろかみ)のかげの根付(ねづけ)の珠(たま)は、空(そら)へとんでいっては青(あを)く光(ひか)った。
また赤(あか)い簪(かんざし)のふさは、ゆら/\とゆれるたんびに草原(くさはら)へおちて狐扇(きつねあふぎ)の花(はな)に化(ば)けた。
少年(せうねん)の不可思議(ふかしぎ)な夢(ゆめ)は、白(しろ)い路(みち)をはてしもなく辿(たど)った。

路(みち)



桜さく島 見知らぬ世界(明治45年 洛陽堂)より

プロフィール

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本ブログについて

●竹久夢二(1884-1934)の作品は、すでに作者の没後70年以上を経過し、国内および諸外国の著作権法に照らして著作権が失効しており、誰もが自由に閲覧・複写できる公的財産となっています。本ブログでは、夢二の作品を皆様に紹介し、大正ロマンの世界をともに楽しみたいと思います。作品に対する感想や批評、補足情報などありましたら、お寄せいただければ幸いです。
●文献挿絵や絵画作品の複写は、現在のところデジタルカメラでの写真撮影に頼っています。機会あれば、可能なものはより鮮明なコピーに差し差し替えたく思っていますが(製本形態によりコピー機に乗せにくい文献もあります)、それまでの間、映像の質の悪さについては、ご容赦ください。
●新旧字体の置き換えは、仮名遣いは原文のままにしていますが、漢字の旧字体は、可能な限り新字体に改めています。
●振り仮名は半角括弧つきで単語ごとに表しています。例:利人(とがにん) 区別のため、原文中の括弧には全角括弧を用いています。
●仮名文字の踊り字は通常、ゝ、ゞがひらがな用、ヽ、ヾがカタカナ用とされていますが、それにこだわらず、原文表記に近いほうを用いています。例:つヾいた。
●横書き用のくの字点としては、/\、/″\を用いています。例:ゆら/\
●文字、仮名遣い、句読点、文法の誤りと思われる箇所でも、原文を尊重して、そのままとしています。

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