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2012年12月12日


網野善彦. 1991, 1996. (2005). 日本の歴史をよみなおす (全). ちくま学芸文庫.



本書の全体に流れる,過去の社会システムや人びとの暮らしは必ずしも均質なものではなくて,多様性や,例外や当たり前とみなされていたものを再考する必要がある,という姿勢には共感した.中世の人びとだって,きっと現代に生きる私たちと同じ人間で,当時の文化的規範や社会システムの中で,それぞれに喜び悩み悲しみ,それぞれに幸せを見出してあざやかな人生を送っていたことと思うから.



それでも,文章中で何度か言及される,宮本常一の『忘れられた日本人』に集められているような,そのひと個人の,それぞれの,あざやかで目の前で見ているかのような物語と比べると,私は物足りなさを感じてしまう (これはおそらく個人の好みの問題で,私がこの本を「読み物」として読んだというのも関係しているだろうけれど).本書はたしかに,歴史の授業で習うような社会システム全体をマクロにとらえる視点だけでなく,それを構成する個々の人びとに近づいたミクロな視点も重視している.しかし,読書を進めていっても,その当時に生きた人びとのリアルな姿が,惜しいところでいまいち浮かんでこない.



これはおそらく資料の制約ということも多分にあると思う.現在生きている相手から直接話を聞くのと,運良く現代に発見された古文書を読み解くのとでは,得られる情報量は格段に違ってくる.また,『忘れられた日本人』で指摘されているように,文字を持たない人びとの世界観の形成の仕方が,文字を持つ人のそれと異なっている可能性もある.古文書資料から人びとの暮らしをあざやかに復元しようとすれば,どうしてもデータに基づかない推論が混入してくる危険があるだろうし,文字を持たない人びとの暮らしに関しては何もわからないおそれだってある.そう考えてみると,そのようなぎりぎりのところで,著者は危険をおして良い仕事をしているのかもしれない.



内容に関しては,私には,そのscientificな妥当性を判断できるだけの知識がないけれど,以下に示すような,いくつか興味深い視点があった.


  • カタカナは話す言葉で,ひらがなは書く言葉.

  • 文字の列としての文書だけでなく,モノとしての文書の重要性.

  • 市場において,モノとモノの交換が,贈与互酬の関係から切り離された.

  • 穢れとは,欠損や,均衡の崩れである.

  • 埋蔵物は無主物であり,神仏の世界のものになる.

  • 海賊の統治する海の縄張り.



蔦谷





(06:04)

2012年12月11日

日本の歴史をよみなおす (全) (ちくま学芸文庫)日本の歴史をよみなおす (全) (ちくま学芸文庫)
著者:網野 善彦
販売元:筑摩書房
(2005-07-06)


目次

日本の歴史をよみなおす(文字について
貨幣と商業・金融
畏怖と賤視
女性をめぐって
天皇と「日本」の国号)
続・日本の歴史をよみなおす(日本の社会は農業社会か
海からみた日本列島
荘園・公領の世界
悪党・海賊と商人・金融業者
日本の社会を考えなおす)



(23:44)
人間のふるまい、その規範にはどのくらいの幅があるのか、そのようなことに関心がある。人類学者の民族誌をよむと、ビールばかり飲む人、戦争ばかりする人、もしかしたら食人したかもしれない人、男女が自由に性を謳歌するように見える人など、地球上には、私の規範を基準にすれば、そこからかけはなれたふるまいと規範をもつ事例はたくさんある。ただ、私はそのような事例を自分のなかにではなく、自分の外に位置づけてしまうようである。ようするに、そんな変わったことは、異文化でのできごとであり、同じ人間といっても、自分とは異なる考え方をもつひとたちのふるまいなのであると。もし自分のなかに、自分のふるまいや規範からは想像もつかないような事例が発見されると、その衝撃は異文化における事例とは比べられないのではないか。そういう意味で、私が生まれ育った島にかつて生きていた人々のふるまいと規範について、歴史資料をよみときながら推論する歴史家の仕事はおもしろいと感じた。

本書で扱われている事柄の中で、印象的だったのは、道、市、貨幣など、現在では公共、俗世界などを象徴するようなものが、かつて神仏世界につながるような場所・物であり、したがってそこでのふるまいは、現世界における規範には縛られなかったのではないかという指摘である。道を歩いているときにおこったできごとは、「シカタガナイ」として日常生活に影響を及ぼさない!?それこそ私たちの前提とするものとは、全く異なる考え方である。いまの社会で、そのような規範を適用すれば、世の中はめちゃくちゃになるような気もするが、その昔は、それで皆なんとかやっていたのだから、やはり私が前提としている規範が、人類というスケールからすれば、きわめて狭いというだけのことなのだろう。本書のメッセージは、もっと自由に生きよということか。(Umezaki)

(16:50)
「エクリチュールの目的とは、人生を非個人的な力強さの状態へ引き上げることである」(ドゥルーズ/パルネ 1980)。

「史観」という言葉がある。有名なのは唯物史観だ。胸が躍るのは司馬史観だ。そして、ときどき「網野史観」というのも目にする。

史観というのは、歴史の見方といった程度の意味だと思う。網野善彦のばあい、日本史の常識だった事柄について違った見方を示したことが、こう呼ばれるきっかけだったのかなと思う。たとえば、順番に偉さが固定されていると考えられてきた士農工商という身分制度や、生産者はほとんど農民だと考えられてきた律令制による荘園制度、百姓=農民という見方、中世において商業と金融、流通網が思った以上に果たしていた役割など。

でも、なになに史観というのは、大胆で目からウロコのおもしろい見方であっても、論拠という面ではちょっとなんだよなぁ、っていう評価も含んでいるのかなとも感じた。たとえば、百姓=農民ではないという見方。本のなかでとりあげられているいくつかの荘園は、確かに農民中心ではない荘園だったかもしれない。けれど、他のよほど多くの荘園では、やっぱりたくさんの農民が働いていたんじゃないかと思った。もちろん、この点をとても強調する必要があるほど、農本主義の見方が支配的だったのだろうとも感じた。

とはいえ、女性(正)、海賊(続)について書かれたところをみると、農民ではなかった中世の人びとの力強い生き方の連なりが伝わってくるようで、読んでいてひきこまれた。そこに網野善彦の書いたものの魅力があるのかな。


ニューギニアの人たちのなにかを文章にしようとすると、どうしても「これって、おれの見方だよね」と逡巡することがある。証拠として、これもある、あれもある、まとめてみると、こうとしかいえない。だから、自分なりの結論として「こうだ」と書いてみる。「いや、まてよ」。逡巡は、そのあとの瞬間にやってくる。

網野善彦が古文書を読みかさねて描いた中世の人びとの生き方はとても力強い、読んだ私はそう受け取った。よくよく考えると引っかかる。だが、書かれている中世の人びとの力強さのなんと魅力的なことか。そう思うと、私がニューギニアの人たちのあいだで聞いたことが積みかさねられてでてきた言葉だったら、私によって書かれたものは、私や私がつきあってきた個々の人たちのなかにとどまらない力強さをもちうるのかもしれない。

そっか。語るのは私ではなく、私によって書かれたものだ。そうやってニューギニアの人たちの生き方を言葉にして、彼らの人生を非個人的な力強さの状態へ引き上げることのできる人。「サウイフモノニ ワタシハ ナリタイ」。

(12:00)

2012年11月14日

エイモス チュツオーラ. 1952 (2012). やし酒飲み. 岩波書店.



だいたい人間というのは現象に説明を与えたがるもので,その説明が説明の体をなしていないと不安になる.文中では,前置きなしで唐突に重要な事柄が語られる.主人公は「神々の<父> (p. 11)」であるとか,「死を売り渡し,恐怖を貸与 (p. 85)」したりとか.私は,著者にとってこれらは前提の説明が不要な当然のことなのだろうかと,読みながらたびたび頭を抱えた.



その一方で,現象に理由付けがなされているケースもある.主人公が鷲に襲われなかったのは,以前それに類した鳥を飼っていたからだ (p. 78),などの部分.それが説明といえるかどうかは別として,すくなくとも,その現象は著者にとっては,理由付けが必要とみなさているということだ.こうした,説明をする/しないの基準がどこにあるのか,ないのか,それが気になった.



また,主人公や登場人物はいろいろな能力をもっているけれど,制約にも縛られている (たとえば,ジュジュを使って鳥に化けることはできても,やし酒造りの場所をダイレクトに特定することはできない).この能力と制約の基準が,欧米のファンタジーなどとは異なる見慣れないものに思えて,その点もおもしろかった.



全体として,物語にあふれる極彩色の不安とユーモアは,(解説に書いてあるような) この作品の社会的背景など抜きにしても,私にとっては十分によく楽しめるものだった.ドラム・ソング・ダンスとか,赤い魚と赤い鳥とか,大きな袋とか,モチーフやイメージがとても愉快に思えた.ついでに,夏目漱石『夢十夜』との類似も興味深い.不気味な赤ん坊は第三夜,川に消えていくソングは第四夜.全体的な不安とユーモアの感覚もどことなく似ているような気がする.



追記: 原書も読んでみた.「英語という言語を使って」物語を描いた,という印象を受けた.ネイティブの人が読むと,奇妙に思うのだろうか.



蔦谷



(07:34)