行事:聞こえの架け橋づくり
 日時:平成26年3月23日(日)
 場所:下関市川中公民館
 演題:中途失聴・難聴者の心理
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 みなさん、こんにちは。本日は講演にお招きいただきまして、ありがとうございます。全力投球でやりたいと思いますので、よろしくお願いいたします。なお、主催者のご希望で、今日お話しする内容はすべて原稿で書いてきております。基本的に読み上げる形になりますが、どうぞよろしくお願いいたします。

 最初に、自己紹介をさせていただきます。  
 私は高校の2年生頃から耳が聴こえにくくなっていることに気付いたのですが、高校卒業後も聴力低下が続きまして、現在は重い感音性難聴の状態です。とはいえ、日常の会話では補聴器を相当活用していまして、簡単な短い会話なら、だいたい筆談なしでやっております。補聴器の飛躍的な進歩のお蔭で声は大きく聞こえるのですが、明瞭には聞き取れません。ですから、会話をする際には、言葉として明確に認知できないところが多くなり、部分的にしか聞き取れないことが大きな不便・苦しみになっています。

 さて、大学卒業後は自動車メーカーのマツダでサラリーマンをしておりました。会社が大きいので、経済的にはそれなりに安定していましたが、耳が悪くならなかったら全く違った人生を歩んでいたに違いないという気持ちが年月とともに押えられなくなりまして、

 36歳の時、ついに決意をして会社を辞めました。
 生きられなかった自分をもう一度生き直そうと思ったわけです。
 そして、地元広島大学の大学院に入って、やりたかった心理学の勉強をすることにしました。
 なお、大学院ではコミュニケーションの配慮を求めて妻と交渉した結果、広島大学始まって以来のノートテイカ―(書き手は心理学専攻の大学院生です)を付けてもらうことが可能となりました。もちろん、授業やゼミの討論などの内容をすべて、ノートテイカ―になった彼らが書ききれるわけでもないのですが、彼らが話の内容を少しでも多く、大げさに言えば、すべて書き取るような気迫でノートテイクしてくれたことが幸いし(手や指を痛めた学生もいましたが)、私は授業の内容を相当理解できるようになりました。もちろん先生方も筆談に快く応じてくださり、広島大学におけるコミュニケーションの配慮には、今でも感謝しています。
 なお、大学院を出た後は就職に苦労しましたが、なんとか大学の教員になることができ、現在は山口福祉文化大学で心理学を教えています。
 心理学者のユングは、人は人生の後半、つまり38歳頃から自己を実現するために生きることになると言っておりますが、振り返って見ますと、私はユングが言ったことを実際に体験したといえます。ここにいらっしゃるみな様方の中にも、現在、自己実現をするための危機に直面している方がいらっしゃるかもしれませんね。以上で自己紹介を終わります。

2.中途失聴・難聴者の心理を理解する上で重要なこと
 難聴から生じるコミュニケーション不全の構造(心理学的問題に満ちている)を理解する
 ここから、講演に入りますが、最初に中途失聴・難聴者の心理を理解する上で重要なことについてお話ししてみたいと思います。
 なお、中途失聴・難聴者と何度も言うのは大変なので、難聴者と表現を統一してお話しさせていただきます。
さて、難聴者の心理を理解する上で重要なことは何かと言いますと、難聴から生じるコミュニケーション不全の構造を理解するということが重要になってきます。
 なぜなら、この構造の中には難聴者の心理学的問題が満ちているからです。難聴という障害は見えない障害ですから、見えなさから生じるわかりにくさは、難聴者本人だけでなく、周囲の健聴者にも、独特な認知、反応、行動、及び心理的葛藤を引き起こしているわけで、これらを明らかにするのが心理学です。
 難聴の理解しにくさに関して、もう少し付け加えておきますと、例えば、両足を事故で切断した肢体障害者の方の場合、自分の体がどうなってしまったのか、何が困難になっているのかを具体的かつ客観的に理解することが可能ですが(これは周囲の健聴者も同様ですが)、難聴者の場合はこれが難しいのです。難聴者は中途半端に聞こえてしまっていますので、聞きもらしや聞き間違いが生じたこと、またその結果誤解が生じてしまったことなどを全く気づかないでいることもしばしばです。
 ですから、難聴者は、自分の障害が引き起こしている問題についてきちんと認識して理解することが難しい障害者だといえます。このように難聴者は、肢体障害者の方のような、一定の明確さをもって自らの障害を理解しにくいのですから、洞察力を駆使して自分の障害を分析し、意識化していく必要があるわけです。

 そういうわけで私は、難聴という障害の見えなさによって、自分が抱えている難聴という障害の構造を理解できていない大多数の難聴者にとっては、構造を理解しながら、同時に難聴者の心理学的問題の理解を深めることが、非常に重要になると考えています。
 例えば、重い病気にかかった時に、医師からこの病気がどういうもので、日常ではどういうことに注意すればよいかなどの説明を聞いて、正確に理解しておくと、むやみに不安になって悲観することなく、病気に対処して前向きに生きていけるようになるという話はよく聞きますが、これと同じですね。
 なお、自分の障害の構造をきちんと理解できるようになるということは、じつは自分の障害を受け入れていくということにつながっていくわけで、「何が問題になっているのかよくわからない」「どうすればよいのかわからない」「自分は耳が悪いからだめなんだ」という否定的な心境から、「耳の障害のためにこういう言動が生じているんだ。だから、恥ではないんだ」「耳の障害はあるが、本来の自分はまったく別である。社会参加して自分の個性を発揮しよう」という肯定的な心の変化が生じてきます。
 もちろん、心理的に障害を受容するのは容易ではありませんし、中途失聴者の障害受容はとりわけ難しいという研究知見が多いのですが、障害の構造を知っていますと、他の障害者の方が言っていますように、自分の障害をきちんと把握して説明できるようになりますし、社会参加する自信もわいてくるわけです。

 それで具体的には何を理解しておく必要があるのかと言いますと、お手元のレジュメに載せている<コミュニケーション不全の構造>をよく理解しておく必要があると思います。
 一番上から説明していきますと、最初は、話の部分しか聞き取れない(部分認知) から ⇒ 話の全体がわからない(全体認知の困難)と書いていますが、ここは重要なので頭にいれていただきたいですね。
 人と人とが話をする場合には、相手の言っていることを聞き取れているかどうかが一番問題になるのですが、難聴者はこの聞き取りがうまくいかず、部分的にしか聞き取れないということが問題になるわけです。

 それから、次のような問題も、難聴者がコミュニケーションする際にマイナスの影響を与えています。これについても知っておく必要があります。
 第1に、これはみなさんよく体験されているように、聞き間違いによる影響があります。聞き取れたと自分で思っていた部分が間違っていたら、話を正確に把握、理解することはさらに困難になります。

 第2に、相手の口調や言葉のニュアンスがわからないという問題があります。例えば、相手がきつい口調で、かなりいやみなことを言っているのに、難聴者はこれがわからないことがあります。
 私の体験で言えば、相手が私にいやみを言っているように感じるのだけど、(周囲もうるさく、部分的にしか聞き取れないということもあり)本当にそうなのか、今ひとつ確信がもてないことがありました。
 健聴者だった頃は、言葉のニュアンス、つまり相手が発した言葉の感じがよくわかっていたのに、難聴になると、このようなことがよくわからなくなってしまったのです。このように、相手の口調や言葉のニュアンスがわからないと、相手の気持ちや意図も理解できないということになります。難聴者はよく察しが悪いとか、機転がきかないなどと言われ、これは専門書にも書いてあるほどですが、私に言わせれば、これは難聴という障害が原因で生じているのですから、当たり前のことなんです。

 第3に、場の状況がわからないということも影響します。
 これは健聴者集団のなかにいる時によく起こるんですが、例えば、会社である部屋に集まってくれと言われたら、健聴者はそこで何が話し合われるのかを、あらかじめ知った上で集まるのが普通です。しかし、配慮を得ることのできない難聴者は、たいていこのようなことを知らずに、参加していることが多いんです。
 さらに問題なのは、会議では参加者のコミュニケーションを通してその場の状況も移り変わっていくのですが、このようなことも、難聴者にはよくわからないままになっていることがほとんどです。
 以上ですが、まとめますと、難聴者は、健聴者と話をする際に、話の部分、部分はわかることが多いのですが、話の全体としてはどういうことなのかが、今ひとつよくわかないという状態に陥っているのです。
 ですから、話されたことのすべてを間違いなく聞き取って理解することが困難な難聴者は、話を聞く場合に、断片的に聞き取れたことをつないでいって話の全体を推測する(あるいは思い込んでしまう)ため、結局、不正確で歪みの伴いやすい理解にしかならないことがしばしばです。このため、難聴者は“木を見て森を見ず”ということになりがちです。要するに、難聴者は全体認知の困難な障害者だと言えます。
 ところで、この全体認知の困難は、難聴者が情報を正確につかむのを難しくしているだけではありません。先ほど触れましたように、相手の気持ちや意図を正確に理解できない、つまり相手の心が読めないという問題も引き起こしています。

 付け加えておきますと、アスペルガー症候群の人達もコミュニケーションが苦手で、相手の心が読めない、対人関係がうまくいかないなどという問題が生じており、いわゆる社会性の障害が生じているわけですが、難聴者も同様な問題に直面しているわけです。私はかつてアスペルガーだという青年に出会ったことがあるんですが、彼は私の話を聞いて、難聴者と共通部分が多いのにびっくりしていました。もっとも、認知障害が生じる原因は両者で異なっているんですが、直面している問題が似ているというのは大変興味深いことだと思います。
それはともかく、難聴者には社会性の障害が生じているということは、じつに重大な問題なのですが、この問題が健聴者に理解されていないことが、難聴者を苦しめているわけです。
 難聴者が部分認知になっているから、健聴者からみればへんなこだわり方をしているとか、的外れなことを言っているように感じる、あるいは人の気持ちがわかっていないと感じる、さらには性格に問題があると判断されてしまうということもよくあります。しかし、これは全体認知の困難のために必然的に生じているわけで、難聴という障害が原因になっているわけです。
 ですから、障害によって生じてしまったおかしな言動が我々の個性などでは断じてないわけです。よく障害はその人らしさ、個性なんだと言う人がいますが、難聴者にとっては、耳の障害は本来の自分の個性を覆い隠してしまっているといえるわけで、私は耳の障害が個性だとみなされること対しては不快を感じています。

 さて、2番目には「世界を共有することの困難(=健聴者と情報、経験、感情などの共有が難しい)」と書いていますが、難聴者は聞き取りなどがうまくいかないので、先ほども言いましたように、情報を部分的にしか受け取れません。ビジネスをされている方ならよくわかることですが、例えば相手の言っていることのたった10%でも聞き取れなかったら、そしてその聞き取れなかったところが大事なところだったら、あとで大変なことになるわけです。仕事に大きな支障が出ると思います。
 ですから、こんな状態で、なにかの集まりに参加したりすると、聞き取れなかったところが山積みとなり、話の内容がまったくといっていいほどつかめなくなります。そうなると、そこに参加している健聴者と同じ経験をしたことにはならないわけで、これは健聴者と経験の共有ができていないということなんです。
 また難聴者は、職場や教室、あるいは何かの会合に参加した人達の間で笑いが起こっても、さらに、急にその場の雰囲気が変わったとしても、なぜそうなったのか、理由が皆目わからないことがしばしばあり、わかったふりをして笑ってしまうようなこともあります。つまり、難聴者は健聴者と感情の共有もできないということです。
ここで、この健聴者と世界を共有できなくなっているということを、もう少し詳しく説明してみたいと思います。例えば、地方の小さな町の住民が町内を歩いているという場合を想定してみますと、曲がり角のあの家の息子は工業高校に通っていて、母親は今日本画に凝っているとか言っていたな、またあそこの神社のお祭りは今年も騒ぎがありそうだが、昔はもっとすごかったな、などということを思い浮かべることもあろうかと思います。
町内の至る所でコミュニケーションと結びついた記憶が残っているわけで、それが思い出にもなっているのです。
 それゆえ、何らかの機会にこれらについての具体的な思い出話を地元の人とすれば、相手から「そう言えば昔そんなことがあったな。なつかしいなー」などと同意してもらえるわけで、地域の人達は目には見えないけど、出来事や体験について相当共通した認知の世界を形成しているといえます。
 一方、難聴者の場合は、こういうコミュニケーションを通した共有がきわめて困難です。健聴者と同じ世界を共有できていないといえます。まったく共有できていないというわけでありませんが、共有できていない部分が大きいということです。なお、このようなことは家庭、学校、会社などにおいても起こっているわけで、難聴者は至る所で健聴者と世界を共有できていないといえます。要するに、たとえば街の風景を描いたジクソーパズルから、かなりの部分がはがれ落ちてしまっていて、何の風景なのかよくわからなくなっているような状態が、難聴者の認知の世界といえます。

 以上のように、世界を共有することができない難聴者が陥る状態というのは、3番目にあげていますように、「健聴者と関わることに困難と苦痛が伴い、学ぶことや、活動・参加制限を受ける」という問題にいきつくわけです。
 まず健聴者と関わることに困難と苦痛が伴うという問題ですが、健聴者と世界を共有することが難しいと言うのは、簡潔に言えば、どうすればいいかわからない、つまりうまく反応ができない状態と言えます。一方、健聴者の側としては、難聴者が抱えている全体認知の困難などはわかりませんから、会話をしてみて難聴者の言動がおかしい場合には、難聴者に問題があるからだと、どうしても聞こえる側の常識で判断してしまいます。そうなると、問題があるのは必然的に難聴者のほうだということになってしまい、健聴者との関係がうまくいかなくなります。 
 かのヘレンケラーは、耳の障害は人と人との関係を奪うと言ったそうですが、まさにそのとおりだと思います。ここで健聴者とのトラブルの例をあげてみたいと思います。資料をごらんください。読んでみます。
 これはある難聴者が友人達(健聴者)とパラグライダーをやりに出かけた際の体験ですが、飛ぶ場所で順番を待っていたところ、「風が強いため本日は中止にします」という放送が流れ、友人達が帰る仕度を始めたそうです。それで、その難聴者は放送が聞き取れていなかったため「なぜ帰る準備をしているんだ。僕はやりたいんだ」と友人達に言ったところ、「無理してやってけがをしたらどうするんだ。わがまま言うな」とか言われたそうです。
 その難聴者は単に中止になった理由を聞きたかっただけだったのだそうですが、その理由を教えてもらえないまま、一方的にわがまま扱いされたことに大変腹が立ったということです。

 以上ですが、この場合はおそらく、放送の直後に難聴者が発言したため、放送を聞いて理解した上で言っているのだと友人達が受け取ったために誤解が生じたのだろうと思います。現象としてみれば、確かに放送を聞いて自分の考えを述べているように見えますが、実際には放送を聞いて理解した上で発言しているわけではないんです。放送と難聴者が言ったことの間にはまったく関連がないわけです。それにもかかわらず、健聴者の側としては、条件反射的にそう判断してしまうわけです。このようなことは、すべての難聴者が気づかずに体験していると思われ、誤解から人間性を疑われる場合もあるだろうと思います。
 私が思うには、このような問題は、自分の障害のことを理解できていない難聴児にとって、とりわけむごく作用しているのではないかと思います。状況が読めずに不用意に思ったことを言ったために、突然、親や大人から叱られたり、怒られたりする、そしてなぜそうなったのかが全くわからないままに深く傷つく、そんな状態のなかで成長しているのではないかと思うわけです。
 このような問題に対しては、親や周囲の健聴者の理解がなによりも必要だと思います。

 話は変わりますが、難聴者が目に見えないところから声をかけられても返事を返せないという問題も、どうしても難聴者がそういう態度をとっているように見えてしまうわけで、その結果、あの人はああいう性格の人なんだと判断されがちです。
 しかし、実際はまったく違うわけで、障害によって見かけ上、そういう性格に見えているだけです。
 結局、このような問題にしょっちゅう悩まされている難聴者は、健聴者と話すことがいつもストレスになり、健聴者と接することに不安を抱くわけです。それどころか、健聴者と話すことが怖くなって、対人恐怖のような状態に陥っている人もおられます。
 ですから、耳の障害によって健聴者との間にトラブルが発生しやすい難聴者は、健聴者と親密な関係を築くということも当然難しいわけです。

 次に、学ぶことや、活動・参加制限を受けるという問題ですが、幼児期から青年期にかけて難聴になった場合は、学校で知識を学ぶことが難しくなりますし、社会人になってから難聴になった人の場合には、商談ができなくなったり、あるいはスキルアップのために様々な研修会に参加して職務に関する知識をレベルアップすることなどが難しくなります。また、耳が悪くなるとどうしても体験すること、および体験を通して学ぶことが非常に制限を受けます。
 ある難聴者は「重要な仕事を引き受けられない。やりたいと思っても周囲の健聴者がやらせてくれない。それで結局、本当に何もできない人になってしまうのが辛い」と言っていましたが、このような話は本当によく聞きます。耳が悪くなると、意思疎通の困難から面倒なことは引き受けたくなくなるのですが、このような問題に加えて、健聴者からは「やらなくてもよい」「無理だ」などと制止されるという現実があるわけです。そうなると難聴者は、体験から学ぶことができなくなってしまいます。
 このように、耳が悪いために知識を学ぶこと、また体験からも学ぶことができないということは、人間的に成長できないということを意味するわけで、人として生きていく権利を奪ってしまうわけです。また、医師や医療従事者のコミュニケーションの配慮が十分に得られないことも多いため、病院で診察や治療を受ける際に支障が出てくることがあります。とにかく、健聴者と関わるあらゆることに困難が生じてくるわけで、これは主体的に何かをすることが難しいということを意味します。また、音声コミュニケーションの共有ができないために、何かの話し合いの場で自分に関することが勝手に決められたりするという、つまり主体性が奪われるということもしばしば生じてくるわけです。

 結局、難聴者は、主体性を発揮することの困難に加えて、主体性が絶えず脅かされる危険にも直面しながら生きているわけです。
 以上、難聴者のコミュニケーション不全の構造を説明してみましたが、難聴者は音声コミュニケーションにおいて話の丸ごと全体がわからないという部分認知になってしまっていること、考えようによればたったそれだけのことが原因で、健聴者と世界を部分的にしか共有できなくなっているということなんです。
 また、このことが原因で、健聴者と関わることが苦痛を伴い、活動や参加も部分的なものに制限されるわけです。
 そして、さらに恐ろしいことに、コミュニケーション不全というものは、自分という存在さえも断片的になっていると感じさせるわけです。
 このような現実は健聴者に全くと言っていいほど理解されておらず、聞いてびっくりされる方がほとんどです。
ある程度の話がわかれば、目で見ての情報も入るだろうし、難聴があっても社会生活する上では、大したバリアはないんじゃないかとみなしている大多数の健聴者にとっては、、私の話は衝撃なのです。

 付け加えておきますと、ミュニケーション不全によって難聴者が直面する危機の本質を端的に表現するとすれば、“アイデンティティの危機”と表現できます。
 ここでちょっと難しいことを言わせていただきますと、アイデンティティ理論の生みの親である心理学者のエリクソンは、アイデンティティとは、自分が過去から現在にわたって時間的な連続性と一貫性をもって続いてきているという感覚のことだと言っています。例えば、脳に障害が出て過去の記憶をかなり失い、新しく経験したことも1時間も覚えていることができないということになれば、自分が過去から現在にわたって時間的な連続性と一貫性をもって存在してきているという感覚が、脅かされているということになります。つまり、こういう状態というのは、アイデンティティが脅かされているということなんです。
 だから、記憶は人間のアイデンティティの土台を支えていると言えます。
 ですから、難聴者のように、家庭、学校、会社、冠婚葬祭などで話の輪に入れないために話の内容がよくわからなくなっている、つまり透明人間化している状態というのは、他者とともに共通の時間を生きておらず、記憶があいまいになっているわけで、そんな時は空虚な時間を生きているといえます。
 日常生活において、こういう空虚な時間の中に長くいる難聴者ほど、自分が時間的な連続性と一貫性をもって生きているということを感じられなくなっているわけで、アイデンティティの危機に直面しているといえます。そして、このアイデンティティの危機こそが、コミュニケーション不全によってすべての難聴者が直面する危機の本質だと私は考えています。
 ある難聴の女子大生は、健聴者集団の話の輪に加われない時、「ここはどこ?私は一体誰なの?」という気持ちになると述べていましたが、このような状態というのは、まさにアイデンティティの危機に直面している状態と言えます。
 そう考えてみますと、われわれが要求する情報保障や要約筆記制度というものは、難聴者のアイデンティティを支えてもらうためのものだと言うことができると思います。
 以上ですが、私は難聴者が今まで述べたようなコミュニケーション不全の構造を良く理解しておくこと、つまり大げさに言えば、自分の障害の構造を理解して理論武装しておくことが、社会参加する際の自信につながっていくと思います。

 最後に、レジュメの補足として、感音性難聴の聞こえの説明を載せていますが、これについても触れておきます。
 この説明はかなり効果があったようで、感音性難聴の子どもを持つお母さんから、これを読んではじめてわが子の聞こえ方が理解できたというお礼の手紙をいただいたことがあります。
私が驚いたのは、このお母さんが色々なところで感音性難聴の聞こえ方を尋ねても、理解できる説明が得られず苦しんでおられたということと、耳鼻科の先生の説明を聞いても、感音性難聴の聞こえが理解ができなかったということです。
 逆に言うと、聞こえるか、聞こえないかのどちらかで難聴を判断している、一般的な健聴者の認識からすると、感音性難聴の聞こえの理解は大変な困難があるということになると思います。
 感音性難聴の聞こえについては、歪んで聞こえる、違った言葉に聞こえる、英語のように聞こえるなど、色々な表現がなされていますが、実際の感音性難聴の聞こえの理解を確認するには、私がレジュメの例であげているように、ラジオを操作して確認してみるのが手っ取り早いと思います。例えば、下関のラジオ放送の周波数が1000Hzだとすると、そこから995、990、950Hzにダイヤルなどを操作してずらしていくと、徐々にアナウンサーの声の明瞭度が下がり、聞き取りにくくなります。また、声が飛んでいる部分もでてきます。さらに大きくずらすと、もはや人間の声としては理解できず、音としてしか聞こえない状態になります。ここまでいくと、もはや補聴器は音を聞くためだけに着けることになるのですが、とはいえ、安全のためには、車が近づく音を聞くだけでも補聴器は必要です。もっとも、ここまでいくと極めて重い感音性難聴といえますが、大多数の感音性難聴者は、人間の声として聞き取れる部分があるわけで、個人差もありますが、そこを頼りに相手の言うことを理解しようとしています。
 ただ、様々な問題が生じていることは、今日色々とお話しした通りで、まずこれらの問題を広く世間に理解させることが重要であると思いますし、私も今後、このような問題に関する心理学的研究を進めていきたいと思っています。

 以上ですが、これで終わりたいと思います。
 ご清聴ありがとうございました。