2004年10月11日

『NAMI』と『NEW WAVES』

ホンマ_WAVEリトル・モアのビジュアル誌「FOIL」が行った「FOIL AWARD」のグランプリ作品、佐渡島で僧侶をしているという梶井照陰の『NAMI』、リトルモアの写真家や美術家の持ち上げ方にはいつも違和感を感じる。FOIL AWARDはグランプリ作品のみならず、誌面に載った候補作がひとつもいいと思えず、審査員が編集長の竹井正和と画家?奈良美智だから仕方ないと今まで無視を決め込んでいた。が、10日付け朝日新聞の書評欄でもこの写真集が褒めちぎられているのを見て反論したいという気持ちを禁じ得なくなった。
まず、梶井の『NAMI』は全ページに渡って佐渡島の波の写真が続くが、そのアイデアは既にリラックスのムック写真集でホンマタカシがやったもので(添付画像はホンマのNEW WAVES)、波の写真だけで一冊作ってしまうというアイデアのインパクトが評価の大部分を占めていることは疑いようがないのだから、審査員両名と書評を書いた立松和平がホンマの写真を知っていたかは気になるところだ。


また、ホンマはハワイの波を陽気に捉えたが、梶井の写真は鬱鬱としていて気分が滅入る。それだけなら単純に個人的な好みの問題で批判にはならないが、梶井の場合、そこに「僧侶が撮った」写真ということでスピリチュアルだとか、高尚だとか、諸行無常だとか、宗教的だとか、過大評価がなされている。無職のサーファーが撮った写真だと言われたら彼らは何と評価するだろう?特に立松は僧侶が波を撮り続けたという行為が「仏道修行」だとまで言っているのだが、しかし梶井は祖父が寺を持っており、高野山大学に在学中から現在に至るまで何度も海外に出向いているという。プロフィールを見ての先入観で写真を評価するなら、修行というよりむしろ、喰うに困らず、将来の心配もない寺の息子の「道楽」ではないかという印象を持つ。
最後に、デジタルカメラで撮影していることにも留意しなければならない。フィルム代や、現像代がかからないので、何枚でも失敗できる、いくらでも撮り直しがきく。撮影地も地元で期限があるわけでもない。膨大に撮った中から比較的よいものを選べばいい。大判カメラで撮るときのような「一枚入魂」はあり得ない。そのために一枚一枚の写真が持つ力が枚数に反比例するように弱くなっているのだ。最初に写真だけを見たときの退屈さはここに原因があったかと納得した次第。

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hustla_1_push at 04:58│Comments(11)TrackBack(1) 写真集 

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1. NAMI  [ 個人的読書 ]   2005年05月13日 18:21
著者: 梶井 照陰 タイトル: 梶井照陰写真集『NAMI』 「NAMI」 梶井照陰・著(撮影)     『海水のみせる表現力に圧倒』    これは、海が見せる、波の様を 撮った写真集です。  この本については、雑誌『ダ・ヴィンチ』で知りました。  

この記事へのコメント

1. Posted by Cozy   2004年10月16日 07:45
こんにちは。

波の写真を撮るってことで思い出しました。
浅井慎平が初心者に写真の撮り方を説明するビデオの中で、女の子と波を撮る場面がありました。これはテレビ番組のビデオ化なので見ている人も多いのでは。

「浅井慎平フォトレッスン/風景・海篇」これかなあ。

2. Posted by slow   2004年10月17日 18:36
失礼ながら、おっしゃりたいことのポイントが、イマイチつかめないので、意見など。

「本を一冊、波だけで」というアイディアのことを問題にしているのでしょうか? それは作家のアイディアではなく、リトル・モアのディレクションではないでしょうか。(なぜならコンテスト応募作品だったのですから)

「波を撮ってる人が他にもいるよ」ということなら、ホンマですら、新しいアイディアってことでもありません。日本人だけでも、上田義彦、浅井慎平あたりが有名ですよね。沢渡さんも撮ってたような気がします。三好さんはちょっとちがうのかな? それこそ海外を見れば、山ほど出てくるでしょう。


また、根本的に比較する対象としても、「波」というテーマで括るのは非常に狭い見方ではないでしょうか?
『NAMI』がイマイチだ。という主張をなさるのなら理解もしますが、それをホンマとくらべてどうこうというのは的外れだと、私は感じました。

また、作者プロフィールからの想像を書かれておられますが、それは、貴君の立松氏への批判と同レベルと思われますがいかがか?

“大判で「一枚入魂」”がいい写真の条件のようにに書かれているのは、どーも納得できかねる意見です。そこにある写真が、どのように撮られたか? なんてことが、写真の評価に関係するわけはないと、私は考えます。


ちなみに
>FOIL AWARDはグランプリ作品のみならず、誌面に載った候補作がひとつもいいと思えず
の部分には、私も同様の意見です。

しかしながら、一冊にまとまった『NAMI』がいい写真集だ、とも感じてもいます。編集、デザインの違いということなのかもしれません。
3. Posted by HUSTLA   2004年10月18日 01:46
コメントありがとうございます。

確かに、浅井慎平と上田義彦に限らず、波を撮っている写真家は数限り無いと思いますが、「波の写真だけで一冊」となると話は別ではないでしょうか。一冊の中に1枚(或は数枚)だけあるのと、波だけが延々と続くのとではそこに発生する意味合いがかなり違うと思います。
梶井照陰は応募作品自体が波の写真だけであったので、リトルモアのディレクションがあったとする意見には賛同しかねます。

>作者プロフィールからの想像を書かれておられますが、それは、貴君の立松氏への批判と同レベルと思われますがいかがか?

自分の文章力の無さを恥じますが、「立松和平のようなやり方で批評をするとこんなことも言えますよ」という意図で書いたものですから「同レベル」なのは当たり前です。

>そこにある写真が、どのように撮られたか? なんてことが、写真の評価に関係するわけはないと、私は考えます。

これは意見の相違ですが、当ブログは飽くまでも「撮る人の為の実践的写真時評」です。
何を撮るかということと、どう撮るかということは、合わせて考えていく必要があります。篠山紀信が「人間関係」を8x10で撮り、「アカルイハダカ」をデジタルで撮るのにも理由は存在します。「その逆でも可」などということはないのです。他のどんなカメラマン/写真家でも同じことがいえますし、高く評価されているひとほど、こういうことに敏感です。

4. Posted by slow   2004年10月18日 23:19
少なくとも私の知る範囲で、上田義彦は波の写真だけで展示を行っています。無名の人物の展示でいいなら、それも結構見ています。自費出版の写真集だって持ってます。
その段階で、貴君の仰る、ホンマが先という主張は意味をなさないことになりますがいかがか?
繰り返しですが、私には、それがさして重要なこととは思えません。

「同レベル」であることを開き直られるとは思いませんでした。根本的にあなたは何を批判したいのか?
それを同じレベルで否定してみても、貴君の伝えたいことは何ひとつわからない。(少なくとも私には)
もしそれが自覚的な行為である、と宣言されるなら、あなたは本当に立松氏と同レベルだ。“写真を撮る人の為の”云々などとカッコつける理由はどこにもない。単なる妬みととられてもしかたないのではないでしょうか。

機材、フォーマット、その他が、写真に影響を及ぼし、その選択が、写真制作において重要なポイントであることは、篠山がどうこうなどという知識とは関係なく明白です。
(そうした知識合戦がしたいのなら、繰り返しますが“写真を撮る人の為の”などと銘打つのは止めたほうがいいのでは?)
写真撮影において、機材選びに鈍感でいいなどとは言いませんが、その選択が発表された写真の評価と結びついたりはしない。ということを私は主張しているだけです。

機材の話がしたいなら、それはそれでかまわないし、おもしろいとも思います。でもそれだけでは写真時評にはなっていないようですね。「だから何?」の部分を貴君は書かれていないようです。



撮る人として、なぜその写真がいいのか?
撮る人として、なぜその写真はよくないのか?

どーでもいい知識や、
いわれのない推測などでなく、
それこそ写真を撮る人として
貴君なりの根拠を提示した上で
きちんとわかりやすく
意味を持って、評論していただきたい。
それを期待します。
5. Posted by HUSTLA   2004年10月19日 06:30
再びコメントありがとうございます。
上田義彦に関してはこちらの勉強不足でした。

「開き直り」とは酷い言われようですが、こちらの意図は「僧侶だから云々」というのはプロフィールを見て写真を見ずということなので、そのやり方にのっとって批評をするとこんな変なことも言えてしまうよという問題提議です。最初の文章では確かに誤解を招きかねないと反省していますが、その後のコメントを読んで尚、悪い方向に曲げて解釈されるのは悲しいです。

>写真撮影において、機材選びに鈍感でいいなどとは言いませんが、その選択が発表された写真の評価と結びついたりはしない。ということを私は主張しているだけです。

最初に見て良いと思った写真なら、デジタルがダメなどとは申しません。NAMIに関しては、「最初に写真だけを見たときの退屈さはここに原因があったかと納得した次第。」と書いています。「デジタルカメラで撮ったものはすべて退屈」とは言っていない。デジタルで撮ったと知る前から感じた退屈さを排し、プロフィール無しでは思いもつかない宗教性や精神性を写真だけで感じさせようとするなら、お手軽なデジカメよりも大判カメラで「一枚入魂」した方がいいということです。この順序を無視して噛み付かれても困ります。一見、ニワトリが先かタマゴが先かという不毛な論点に思われるかもしれませんが、見るときには写真が先、撮るときにはカメラが先です。そして自分も写真を撮るなら、写真を見た後にもう一度遡って考える必要がある。その為には知識も欠くことはできません。良し悪しや、好き嫌いを言うだけならただの感想なのですから。
6. Posted by slow   2004年10月19日 12:23
なるほど、問題提議だということはわかりました。
それについては理解いたしました。


・デジタルカメラがお手軽であるという根拠を示して下さい。
・大判カメラが「一枚入魂」になるという根拠を示して下さい。
単なる一般論に過ぎないと思いませんか?


>見るときには写真が先、撮るときにはカメラが先です。

貴君は、写真を「見せる」ために撮っているわけではないのですか?
「写真を見る時/写真を撮る時」を切り分けて、制作されているのですか?
機材は、見せたい写真のために、選択されるはずではないでしょうか。


誰かの作品を参考に、そのことを考えるのは大変重要な事柄であることは、もっともだと思います。しかし、機材の問題を写真の善し悪しの判断に絡めていられるところなど、ピンとこないのです。文章的順序の問題と言われてしまえばそれまでの事柄なのですが。



写真評論をされたいのか、写真撮影について考察したいのかをハッキリさせたらいかがでしょうか?
「心構えなども含めた包括的な撮影技術の考察」ということでしょうか。
7. Posted by HUSTLA   2004年10月22日 21:41
>・デジタルカメラがお手軽であるという根拠を示して下さい。
>・大判カメラが「一枚入魂」になるという根拠を示して下さい。
>単なる一般論に過ぎないと思いませんか?

実際撮ってみたら判ることですし、ネットで検索するだけでも一枚撮るのにどれくらいの労力がいるかも見当が付くはず。中古カメラ店で(買う素振りをして)触らせてもらうのも手です。

機材についてまったく触れずに、継続的に写真評論をする方が珍しいと思います。
8. Posted by slow   2004年10月23日 00:06
苦労するから「一枚入魂」なんですか? 楽だとテキトーに撮影するんですか?

それはイコール関係とは言えないですよね。
それ故に、まずは、「お手軽と一枚入魂」について根拠を提示してほしい
とお願いしたわけです。

>実際撮ってみたら判ることですし、ネットで検索するだけでも一枚撮るのにどれくらいの労力がいるかも見当が付くはず。中古カメラ店で(買う素振りをして)触らせてもらうのも手です。

それに対してこの回答は、回答になっていません。
いかがでしょうか?


大判でも、テキトーに撮ることはあるし、
デジタルで真剣に撮ることもあります。
貴君にはないのですか?

デジタルカメラが楽だから『NAMI』が撮れて、
大判が苦労するから『NEW WAVES』になる
というのですか?
それって、関係ない話だと思いませんか?




良くないなと感じる写真がある。(そーゆーこともあるでしょう)
それをなぜだか考えて、(評論という場合もあるかもしれない)
「デジタルで気楽に撮ってるからだ」(何を根拠にしているのですか?)
という論理は破状していると(おわかりでしょうか?)
私は申し上げているわけです。

>機材についてまったく触れずに、継続的に写真評論をする方が珍しいと思います。

機材について語るな、と言っているのではなく、
語るなら語るで、きちんと論理的につめていったらいかがですか?





ちなみに、
私が、大判で撮ったことがないと思われているようですが、それも間違っています。
4×5を使って、作品を作っていたこともありますし、デジタルカメラもバリバリ使っています。でも、それがこの議論に関係あるのでしょうか? 関係ないと思います。

「そんなもん実際に大判で撮ってる奴にはわかるんだよ」
という意見は、おおざっぱに過ぎるように思います。
9. Posted by HUSTLA   2004年10月23日 14:16
両方使っていらっしゃるならわざわざ説明する必要もないと思いますが、
デジタルならば、物理的にも経済的にも負担が少ないのでフットワークも軽くなり、
フィルムなら撮らなかったであろう状況で意外な拾い物をすることがあると思います。
その反面、とりあえず撮っておこうという気になって無駄打ちも増えます。

「拾い物」と「無駄打ち」の違いの根拠を提示しろと言われそうですが、
その時々、見る人それぞれで判断が異なります。
撮る側とすれば、拾い物を多くしたいならよりフットワークを軽くできるようなカメラを選べばいいし、無駄打ちを少なくするなら逆に考えればいい。

私には『NAMI』が無駄打ちの寄せ集めに見えたということです。
そう「見える」ことに根拠を示せと言われても無意味です。
論理的思考をまったく放棄してしまうと、その先には進めませんが、すべての感覚を論理に置き換えるのは無理ですし、写真という表現に向かない考え方ではないでしょうか。
写真とは「どう見えるか」が最も重大な評価の基準だからです。
撮る者が「どう見せるか」を論理的に考えることは必要ですが、見る者がその思考の範囲を飛び越えてしまうのも写真表現の面白さです。


あなたは「論理」「根拠」「議論」という言葉を好んで使われるようですが、
私の文章をねじ曲げて解釈されるのも得意なようです。
デジカメは大判に比べてお手軽とは書きましたが、
だからといって常に「テキトーに撮影」されるなどと書いた覚えもないですし、それが「イコール関係」にあるというのも拡大解釈です。
あなたの文章は、ご自身でおもっておられるほど「論理」的ではないし、
こちらの文章力に難ありとはいえ、悪意に解釈されては「議論」など成立しないとおもいますが。
10. Posted by slow   2004年10月24日 00:21
もういいや、丁寧な書き口もあきました。

あのね、だからいちいち「?」をつけて書いてんんだよ。
いちいち推測したことを文章にして、
聞いてることを、回答もせんどいてからに……。

あなたの書いた文章を解釈なんてしてない。
わからないから聞いただけです。

つまりですな、

>私には『NAMI』が無駄打ちの寄せ集めに見えたということです。

その一文が読みたかっただけなんだよ。
そー見えたのならそれでぜんぜんかまわない。

そーかもね。


オレの文章はどーでもいいから、
自分の書いた文章読み直してみなよ。

>良し悪しや、好き嫌いを言うだけならただの感想なのですから。

>私には『NAMI』が無駄打ちの寄せ集めに見えたということです。
>そう「見える」ことに根拠を示せと言われても無意味です。

どう?



はじめからホンマを持ってきたり、
大判がどうこうなんてかきなさんな。
デジタルどーこーも関係ないっしょ。

自分が論理的だなんて、ひとつも思っちゃいないし、
それこそ書いてもいないよ。

悪意があったことは認めるけど、
気になる書き方だったことも考えてほしいですな。



また、気になることがあったら、コメントさせてもらいます。
おつかれさまでした。
11. Posted by ist   2004年10月24日 12:03
悪意を認めちゃって、またコメントさせてもらいますっていうのは
荒らし宣言ですね?
荒らしは無視しないと。

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