2004年06月06日
佐内正史 『鉄火』

佐内はどこにも行こうとしない写真家だ。しかし目的地がないままで絶えず移動している。車で、徒歩で。移動しながら写真を撮っている。近所で、いつも行く場所で。
そういう佐内の写真もバブル世代には理解しがたいのだろう。だが、若い世代に佐内の写真が受けるのは、彼がどこにも逃げないからなのだと思う。どこにも逃げられない者達から佐内は支持されている。閉塞的な時代の閉塞的な写真だという批判もあるが、閉じた場所から出たものの強さというのもある。コンクリートの割れ目から咲くタンポポのような。佐内の花はどこででも同じく咲くだろう。それがたまたま日本だっただけだ。場に左右されるバブル世代は弱い種なのだ。厳しい場所で自分を磨く素振りをしながら、予め耐えられる程度の厳しさを課しているに過ぎない。しかし、プロとして写真を撮る上で最も厳しい場所は今いる日本なのではないか。
荒木経惟は『すべての女は美しい』のなかで、「オレって海外とかいろんなところにいって未知のものを見たいとかあんまり興味ないんだ。近所しか歩かないし見てないんだよね」と言っている。そして、「ソウルの街を撮っても、ニューヨーク撮っても、たいがい同じような、オレがガキのころから見てる三ノ輪の街角みたいになってる」とも。
個人的には、森山大道の写真にもパリを新宿に変えるぐらいの力はある気がする。
バブル世代を飛び越えて、若い佐内が老いた荒木、森山と符合するのが面白い。