2008年01月24日

宮光園の歴史…

○宮崎氏は販売促進戦略にも長けていた。まず、明治24年に帝國医科大学の御用命を受け、薬種としての葡萄酒販売に力を入れる。また、皇室や政府関係者に何度となく葡萄や葡萄酒、葡萄液を献上し、明治33年には宮内庁御用達の商標許可を受けるまでに至ったのである。
○大正2年に中央線に勝沼駅が開設、祝地区から西方面の葡萄等の農産物を勝沼駅に運ぶため大正3年に祝橋(つり橋)が整備された。時をあわせて宮崎氏は積極的に観光事業に取り組むのである。まさに産業観光のパイオニアである。
○中央線を利用して東京方面から訪れた人々を勝沼駅から宮光園まで馬車で送迎、葡萄と葡萄酒醸造風景を見物、その後、甲府の湯村温泉に向かい昇仙閣で大宴会、翌日、昇仙峡を見物し甲府駅から東京に帰るというコースであった。当初は、東京における甲斐産商店の商品取扱関係者に対するPRであったことも資料からわかる。商店の関係者を中心に、産地を訪れてもらうことで、顧客を増やしていったのであろう。
○大正13年から昭和18年に掛けては、皇族や内閣総理大臣等の重鎮が訪問。文人では徳富蘇峰が訪れている。蘇峰がここで詠んだ俳句を本人の許可なく碑文としたところ、氏の逆鱗に触れ、句碑から文面を削ったというのは有名な話である。その句碑は、第二醸造場の西側の葡萄畑にたたずんでいる。
○昭和6年に現在の祝橋、通称めがね橋が完成すると車での観光に移り変わる。めがね橋は一躍観光名所のなり、記念写真の絶好のポイントとなったのである。因みに小生が現在の会社に就職した当時、屋外広告物条例の対象地は、甲府市街、昇仙峡地域、勝沼、富士五湖地域のみであったように記憶している。(続く)


hutamikai23 at 23:18│Comments(0)TrackBack(1)clip!勝沼のこと 

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1. 湯村の昇仙閣、昔の映像  [ アイシティ甲府 ]   2008年03月20日 17:49
山梨インターネット新聞 アイネットという県内のサイトがあります、その3月18日の

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