『あれから一年』

最後に投稿してから1年以上も経ってるとは。


この1年、思い出したくもないことしかない。

昨年10月の投稿の時もだったけど、ゴールデンウィーク明けまで入退院を繰り返した。


人との関わりも全てがストレスになり、身体の痛みになる。朦朧とする毎日。

なんとか生命維持のために勝手に朦朧とさせているのだろうけど、日常生活すら危ないと困る。

精神科の主治医は、1ヶ月くらいの入院を勧めてきた

外部との遮断。

それが目的…


ずっと内科か外科しか入院した事がなく、精神科の所謂、閉鎖病棟。

というのはどんなものだろうか。

かなり前に映画か何かでやっていたけど、あんなのほんとなのかよ。

と思っていたけど…


ほんとだった。

ほぼ完全に忠実にアレだ。


全ての自由はない。

便器の中の少し溜まっている水で窒息死を試みるやつがいるのか知らないけど、個室だけど、腰の位置までしか隠れないでドアはもちろん開放されている。

どんな角度を試してみても便器を見ながら食事することは、かなりきつい。

刑務所みたいだね。

入った事ないけど。


2月からは完全に心も壊れてしまった。

寝ても覚めても絶望のなか過ごしていた。

なにひとつ、じぶんすら信じることが出来ない日々だった


それでもこれでもかと、ひとは簡単に傷をつける。

ひとのちょっとした優しさに、簡単につけ込まれるまで、わたしは色んなことを見失った。

そしてまた仕打ちに絶望する。


たすけて。

そんなSOSをだすまでに…

じぶんでは解決など出来ないまでになっていた。


たすけてくれるひとなどいないのにね。

知ってるはずなのにね。

みんなじぶんが可愛いもんね。

面倒に関わりたくなんかないよね。


だれもいなくなった。


わたしにはだれもいなくなった。


だれもこの先もいないのだろう。


それがいい。


『気力だけで生きるにも限りがある』

今もわたしは入院している。

コロナに罹患してからこの3か月で5回目の入院中。


1、コロナで緊急入院(約10日)


2、コロナ後遺症で、めまい、倦怠感でまともに生活できず入院(約1週間)


3、コロナウィルスの影響らしく、小腸に大量の水が溜まりだるさ、具合悪さで入院。

(この時が1番血液や他の検査の状態も悪かった。約2週間)


4、遠く離れたところの主治医に一度しっかりみてもらうのに入院

(検査の結果や状態はほぼ横ばい。約1週間)


5、それから10日くらい経ってもつづくダルさ、そして高熱が出たのでコロナの時からお世話になっているところでまた入院中。

(コロナの発症から2か月以上経っているので一応コロナの検査をして、陰性。約2週間経つ)



そろそろお迎えが近いのだろうか。



ほんとうに体力も免疫力もない人にとってはコロナに罹ると殺人的に人の身体を壊していく。


先の読めない苦痛。

いままでも、まともではなかったけど、これが加わったことで、もっと身体はキツくなった。


娘ちゃんと、買い物したり、遊んだりできないのが寂しい。

毎日やり取りはするけれど、娘ちゃんと会うのは1番の元気をもらえるのだ。


退院しているときは、娘ちゃんの都合が合う時はずっと一緒にいる。

朝から晩まで楽しく一緒に過ごすことが本当に1番幸せなひとときだ。

娘ちゃんの苦手なお部屋の片付けや、お掃除、お外に買い物に行って好きなものを買い、帰ってから食べたいと言われたものをお料理する。

学生の時に一緒に住んでいた時の娘ちゃんとの生活みたいだ。


いま、またこんな気持ちが味わえる。

この時間ひとつひとつを大切にしている。


わたしが、この世からいなくなるだけじゃなく、娘ちゃんがいつ結婚するかもわからないからね。


こんなことをできるようになったのはつい最近だ。

わたしが入退院を繰り返している間に娘ちゃんは、彼との会話の中でハッとする事がおきた。

娘ちゃんは、わたしを頼らない。甘えない。困っていてもじぶんでなんとかする。

わたしは幾度もそんな娘ちゃんに寂しさを感じていた。



相変わらず彼と娘ちゃんはとても仲良しだ。

彼のことはしっかりした人だし、男気もあるから、信頼できる。

彼がふと、〇〇ちゃん(娘ちゃん)は甘え上手だよ?

どうして甘えられないのー?(わたしに)

という会話があり、なぜだろう

と深く考えていたようだ。

結論としては、高校を卒業したらじぶんのチカラでちゃんと自立して頑張る。と決めた強い想いがあるとおもう。

という結論に至ったんだけど、それを色々聞いていた彼は、きっと〇〇ちゃん(彼にも名前にちゃん付けでわたしは呼ばれている)はずっと寂しかっただろうな

と言われて娘ちゃんは気付いてくれた。

そっかぁ、〇〇ちゃん、可哀想だね

冷たい態度に感じたと思うし、もっと一緒にいたいとかもあったと思うし、してあげたいこともいつも言われてたのに、断ってきちゃった

と、、、


それからは何でも甘えてくれるようになった。ほんとにわたしが甘々すぎて、赤ちゃん育ててるんじゃないんだから!と思われるくらい。

それが今はわたしのやり甲斐、生き甲斐となってとても楽しい時間を過ごさせてくれている。

ほんとうに幸せだ。

そんなふうに出来るようになった彼にとても感謝している。

娘ちゃんをなんどきも変わらず1番に考えてくれて、大切にしてくれる彼。

本当にありがとう。


わたしは、いまはストレスになり得るものは些細なことでも排除した生活をしている。

避けられない人間関係で気落ちすることは、こんな生活のわたしでも多少あるけど、我慢して乗り越えるしかない。


そろそろいろんなことに手をかけ始めている。

身の回りは最初の入院のとき、お部屋は誰が入っても恥ずかしくないかな?と思ったことは前回書いたけど、それからも入退院を繰り返しているので、かなり部屋のものをまた片付けた。捨てるものがあると嬉しくなる。



殺風景で、自分のものはほんとに少ないマンスリー暮らしだけど、昔から好んでしていることがある。


観葉植物を小さいのを買ってきて大きくするのが大好きだ。

今の部屋には3つあるけど、どれも毎日話しかけて育てていると気持ちが晴れる。

入院中は、娘ちゃんに水やりをお願いし、様子を見てもらっていた。

早くこの子たちにも会いたい。

また大きくなってるんだろうなぁ


あと晴れた日の日課としては、散歩。

どうしても家の中から一歩も出ずに一日が終わることがとても多いので、何か一つだけでも買い物などの用事を無理やり作って歩いて買いに行く。

ゆっくりと、周りの景色や空を眺めながら時間をかけて。


毎日がそのひとときが、その一瞬が最後のじぶんの感情になるかもしれない。

そう思って、丁寧に、大切に過ごす。


ずっと幼い頃から周りとはかけ離れていた。普通と言われるような暮らしではなかった。

じぶん自身も周りの人とはちょっと違って変わっているとはわかってはいた。

独特なのか周りとは溶け込めず人間関係もあまりうまく行かない。


それでもきっと、遠い昔もいいこともあったし、幸せだと思えた日々もあったんだろう。

『特別な日』

6月いっぱい、わたしは東京に戻り自分の全ての家具家電、私物をそのままにしていたものを整理した。


いろんなものが出て来たけど、やはり本当に必要なものなどほんの少しだった。


そうやってじぶんの身辺を整理している時がいちばん落ち着くし、とてもはつらつとしているみたいだ。

いつもより体力も使えるし、動くのも辛くない。

これで、どこの場所でも、いつなにかあっても誰かが困るな。と思われることはないだろう。

気持ちが違うのだ。

身の回りが綺麗になることがとても爽快である。


その間、久々に長年の友人とも会うことができた。

67年くらいぶりだった。

もう2度と会うことは出来ないと思っていたから、とても嬉しく、有意義な時間。

会わなくても通じ合うひと。

そんなひとだけど、やはり顔をみて話をすること。

それは貴重なひと時になった。


また地元に帰り、7月の初めに、いつもの離れた土地まで難病の通院に向かった。

信頼していた先生が異動してからなので、初めて入る病院だったけど、いつもの変わらない主治医の姿を見てとても安心した。


病院の勝手はやはり違うことだらけで、うまく事がすすまないのもあったけど、とりあえず主治医がここに居る限りわたしは通うだろう。

このひとしか信頼できる医者はいない。


最近は注意力が極端に欠けていて脳のほうの進行が早い。

言語障害にあたるのもかなり増えてきている。

娘ちゃんは慣れているから、間違えて言った言葉でも、このことだろう。

と、訂正もせずに理解してくれる。


運転も本当はしてはいけないのだろう。

飲んでる何種類もの中に注意書きがあるし。

効かないが眠剤も服用している。

それは当たり前だけど、眠剤は飲んだら運転はしていない。



離れた土地まで23ヶ月に一度程度とはいえ、やはり体の負担は大きい。

それでも通う。


そして帰ってきたその夜突然寒気がきた。

久々の感覚

わたしは大きな病気ばかりするけれど、風邪もインフルエンザも子供の時以来かかっていない。


ひどい悪寒

風邪を引く。

ということがあまりピンと来なかったので疲れたのだと思っていた。

一晩中苦しんだ。

いくら保冷剤で冷やしても楽にならず、解熱剤も効かない。


呼吸があまりにも苦しいし、酸素飽和度も95はずっと切っていたので、明け方に#7119に連絡した。


症状を息切れが酷くてうまく説明出来なかったが、すぐに消防に繋いでくれた。

そして久々の救急車……

身体が思うように動かないから、鍵と保険証セット、常備薬を握りしめて待つしか用意出来ない。


入ってきてくれて質問を色々してくるけど、元々理解能力に欠けているのに無理だよ。

名前も必死に言ってもちゃんと聞き取ってもらえず間違うし。

発音なのか声が出てないのかほんとに何度も言わされるのは苦しい。

保険証セットを押し付けて中身を見てもらうのが早かった。

搬送先はその日の当番医を言われたが、こっちでセカンドに抑えている難病の病院(救急受け入れるところだから)にお願いした。


搬送後目まぐるしく人がわたしの身体にいろんなことをしている。

もちろん最初に、イン、コロ検査から。

その間採血と点滴の指示があってやってるけど、血管が全く出ないらしい。

救急部署の看護師すら同じ場所に4回、違うところに1回、6回目でこんなところからか。という場所からライン取りができた。2人看護師も変わった。1人は正直に

したくない血管だなーと見て思いました。

と言われた。


間も無くセカンドで来たこともあるし、娘ちゃんの通っているところだからすぐに難病の担当医でもあり、ここの副院長でもあるひとがやってきて的確に辺りに指示をだした。

脱水で血管も塞がる?のか輸液全開何本でもやって。と数時間の間に500ミリ3本以上。

心電図他装置付け、レントゲン、CT、とごちゃごちゃになっていた。

身動きはもうその頃はほぼ出来なかった。解熱剤の点滴、胸部痛の痛み止めの点滴、いろんなのがぶら下がってそれをぼーっと眺めていた。


そして

コロナ陽性

との事。


じぶんのここ数日の(今のは潜伏期間3日前後が多いと聞いた)ことを考えてもそれ以前を考えてもわたしの生活の仕方でかかるとは何という感染力なのかと感心するくらいだ。


搬送先ではベッドがいっぱいで、若い医師が色んなところに連絡していた。


そして、わたしの難病も診れる病院で隔離病室もしっかり完備されている所を探してくれた。


点滴もぶら下がったまま最初の病院の救急車に乗り入院先の病院に移送された。

1日で救急車を2回乗ったのは産まれてはじめてだ。


そこに着いてもすぐにまたCTやら色んな検査をして新しい点滴も追加していた。

この時点でもう夕方だった。

コロナ。

じぶんが罹患したら死ぬだろう。

ずっと思っていたから、朦朧としながらも、あれはどうなってるか。うちの中は入られても恥ずかしくないかな。

そんなことを断片的に考えていた。

死に対する恐怖はやはりない。



しばらくすると入院の説明や手続きなどを聞けるようになり、やっと娘ちゃんにも連絡をした。

ビックリさせてしまったけど、とりあえず大丈夫だから。と。

物が何もなくいつまで入院するのかわからないことにとても困り果てた。

娘ちゃんに部屋に入ってものを用意してもらうようなことは出来ないな。

一晩うなりにうなって朝まで苦しんだから、そこいら中にウィルスが漂っていそうだ。


介護のヘルパーさんに相談をした。

社内で上のひとと色々話してくれてどうしたら良いかを考えてくれた。


あとは、弁護士にLINEでコロナに罹患し入院したこと、した病院名、万が一のことがあったら予定通りよろしくお願いします。

と打った。


高熱と胸痛でつらい。

コロナはこんなんなのだ。

としみじみと味わっていた。


結局、人に感染するだろうという期間の5日は過ぎたが熱は高いまま。

症状も人それぞれだろうし、ひたすらに向き合ってくしかない。


隔離病室なので、広い部屋にシャワーも洗面所もあり、ちょっとしたホテルみたいな所だった。

基本バイタルチェック以外の要件はナースコール越しでの会話になると言われた。


かなり流行っている地域とはいえ一体どこでうつったんだろう。

ふと考えてしまう。



そして、発症してから3日くらいがウィルス量がすごいから人にうつしてしまう。

それは、一晩ひとりでうなり、明け方救急車だったから、病院関係者としか会ってない。


それでも潜伏期間の発症の日や前の日。

その時に会った人が大丈夫なのかと気が気じゃなかった。


マスクはしていたとはいえ2人だけ至近距離で会ってる。

娘ちゃんと、長年姉のように慕っているひと。

このかたは、介護の施設での勤務だからすぐに話した。

その後すぐとそれから3日間抗原検査をしてもらったが、陰性だったと聞いて安心した。

娘ちゃんも検査はしてないが、何の症状も出ていない。


ほんとうにほっとした。

かかるより、うつすほうがこんなにも精神的に良くないのだ、と思った。


結局、10日くらい入院して、熱は下がり切らなかったがリハビリも少しづつ組み込んでいたし、人にうつすことはない。と退院して自宅療養になった。


今は罹患していた時の症状はないが、後遺症がすぐに出てきたので、これがどのくらいなのか、また違う症状が出るのかは不安だけど、考えてもどうすることもできない。

後遺症のなかで面白いのが、世の中から匂いがなくなったこと。

なんの匂いもないのが不思議でたまらない。

この程度ならとくにイヤでもないし困ることはない。


体力もかなり落ちているので、退院して1週間以上経ったけど、まだまともに生活はできない。



そして。分けて書いているので、その数日後


徐々に回復していくものと思ったのに、だんだんと後遺症が出て来た。

あたまが常にぼーっとしているけど、たまに襲う頭痛。

頭を動かすとめがまわる。

壁、床見ているものが、ぐるぐると回っている。

家の中ではほぼ横になってしまう。

身の回りのことも億劫で何も出来ない。


なかなか危ない。


だるさもどんどん増すばかり。

そして、入院していたところに相談すると、入院の支度をして外来診察します。

と言われ、また振り出しにもどった。


身支度、入院準備でフラフラになってなんとか病院についたけど、そこでチカラつき、やはり入院。

また大量の点滴を一晩中。


バイタルも血液検査の数値も悪いし、後遺症は本当に厄介だ


目眩とぼーっとするのがおさまらないと退院にはならないようだ。

めがまわる時の状況を言うと担当医は渋い顔をしてよくないな。と言っていた。

長い名前の病名を言われたけど覚えられず、それ専門の治療が必要になるかもしれない。と言っていた。

他の全体的症状については治療というものもないし、どうすることも出来なくてまた途方に暮れる。



唯一。

娘ちゃんが今とても幸せにやってくれてるのが救いだ。

彼が娘ちゃんのことを本当に大切にしてくれてるのが有り余る程にわかる。

このままうまく行くといいな。


2人のやりとりを見ているととても心が穏やかになる。

娘ちゃんは全く今まで異性にあまり興味もなく冷めた感じの子だったが、今は彼を信頼している。

それまでの間の彼の言動が本当に頼もしく、娘ちゃんだけをしっかり支えて見てくれているのが徐々に心を動かされたんだろう。



娘ちゃんの気まぐれやワガママな悪い部分も全部受け止めてくれている彼にとても感謝している。


そして、今日は娘ちゃんのお誕生日だ。

この投稿時間のあと30分くらいでこの世に産まれてきてくれた。

いまわたしの存在理由もなにかもかも娘ちゃんのおかげで生かされている。


ちょっとツラいことを抱えすぎる人生だけど、産まれてきてくれてありがとう。

これからの幸せを1番に願っているよ。


今日も明日も予定いっぱいでみんなから祝福されている娘ちゃん。

持ち前の愛くるしさでみんな娘ちゃんが大好きだよ!

『一日でも長く』

あっという間に4月になっている。

と、いうかもう終わりも近いんだ。

春とか、淡い感じとは無縁すぎる毎日を送っていたなとつくづく思います。



2月の娘ちゃんの検査。

前処置から娘ちゃんのお家に一緒にいて、なんとかお腹は綺麗になった。

そこから私が乗せて病院にいった。

着いてほどなくして主治医が内視鏡検査をしてくれた。

今回は中まで入ってそばで一緒には居れない。

待合室で、終わるまでこころが壊れてしまうほど不安になった。

緊急時麻酔もあるから。その扉に出入りがある度に何かあったんじゃないのか。

と長い苦しい時間を過ごした。


そして、無事に終わり、麻酔をかける事なく娘ちゃんが歩いてこっちに向かってきた時はこころからホッとした。

頑張ったね。

娘ちゃんは、全然平気だった!よかった!

と安堵でいっぱいだ。


あとは今日は検査の所見だけの説明。

あまり良くなかった。

今の服薬では改善は難しい。らしい。

新しく外部からの投薬治療が追加になった。

これで、ある程度よくなるといいな。

あとは組織を病理に回す。

癌ではほぼ無いだろうとは言われたけど、とりあえずは2週間後にそれはわかる。

結果、癌化してる箇所はなくホッとした。


一気にその日は2人とも疲れが出た。

こんな思いをさせてるのをやはり自分のせいだと責めてしまう。


食べるもの、したいこと。色んなことを、この歳頃の子では考えられないくらい奪っている。

それでも、娘ちゃんはとても快活で、楽しいことをすぐに見つけ、色んな友人とも遊び、仕事と私生活をとても楽しんでいる。


それなのにこんな風に不憫に思ってしまうのは間違いなのだろうか。

可哀想な子。にしてしまうのは失礼なのかもしれない。

親として色んな葛藤と暮らす。

わたしが居なくなれば天涯孤独の娘ちゃん。


わたしには娘ちゃんがいた。

溢れかえるオーラとエネルギーをいつも眩しいくらいに出してわたしと居てくれる。

いつも、好き!大好き!って言ってくれる。

大切なものがとても大きいとこんなにも心が辛いんだなぁ。

いつかわたしの命が尽きる時、その大切な人が苦しみと悲しみに打ちひしがれる時に誰が助けてくれるのだろう。

娘ちゃんはどうなるんだろう。


一日でも長く生きていてあげなくてはならない。

それなのに今月の初め、

わたしは自宅で身体が動くことができず、意識も飛ぶ。色んな痛みと痺れる感覚。

そんなのをひたすらに辛抱していた。

ただただ丸まって辛抱していた。

前日の夜から、明けて夕方までずっと。

そんな悪いタイミングで、わたしと連絡がつかない事に娘ちゃんは慌ててしまい、マンションの管理会社に連絡もし、訪れてきてやっとわたしも事態を飲み込めた。

絶対にオカシイ。と、娘ちゃんも仕事を切り上げてわたしの元に駆け付けてくれた。


丸まっているわたしを見てそばで涙をしずかに流す娘ちゃん。

よかった。って

ごめんね。と言っても、よかった。って。

こんな思いをさせてしまったのは本当に申し訳なくて。不甲斐なさに自分が心底嫌になる。


自分はなにもない。

なんの欲もない。

ただ生きていることをする。

それを一日でも長く……


辛いことはたくさんある。

身体の不自由、心無い人からの中傷。

ひとはとても、傲慢で、醜くて、とても心が疲弊する。

わたしは人と関わることがもう難しくなっているのだから。


毎日同じ一種類のものを食べ。

同じものを飲む。

その味も分からない。

それよりも食べることで口中が痛く気持ち悪い。

仕方なく。食べる。をする。

毎回検査で身体が脱水状態なのを指摘されるけど、限界に頑張って水分を摂ってるつもりだ。

生き地獄を過ごす毎日。


感情などほとんど残ってないだろう。

楽しい、嬉しい、

そんな気持ちになる事はもうない。


ただ一日でも長く生きていればよい。

『2023になった』

今年に入ってすぐ、いや、年末からなんともいえないジャブ的なストレスはあったけど、元旦のみが穏やかでいられた。

と、いうより元旦だけは無理矢理穏やかにした。


一年の計は元旦にあり。


を何故か信じたっぽい。

それも束の間。本格的にもう限界だ。おわりにしてくれ。と思ったのは14日だった。

この日娘ちゃんの難病の通院日だ。

親離れ、子離れをして行く為に今はひとりで病院にいっている。


そうやって主治医との関係性もじぶんでうまくやっていけるようになってほしい。

そういった話しを娘ちゃんの主治医と話して以来はわたしも娘ちゃんの成長に邪魔しない。

失敗を知らずにいたら自分で考えて生き抜く。という人生において必要な過程が出来なくなるから。と、なんとか頑張って子離れ中だ。


それでも、常時待合から進行具合は連絡がくる。

そして。検査結果がある程度揃って診察になるのだが、そこからが今回はお互いに冷静な会話ではなかった。

主治医から内視鏡の提案をされたらしい。

これは患者がいやなら強制ではない。


大腸癌ですよ。手術しない選択はないですよ。と言われても、患者がしたくない。と言うとしないで通る。

だけど、娘ちゃんは泣きながらなんにも有無なんかいう事なんかできなかったよ。強制だよ。と言った。


娘ちゃんは、難病の認定を受ける際に内視鏡を入れたのが最初で最後だ。

当時高校生だったから、もうかなりの年月が経っている。


今の主治医が内視鏡をしてないのもほんとはおかしいくらいなのはわかる。

だけど、娘ちゃんは検査に対してとても辛い経験からトラウマになってる。

その当時、2か月くらいまともに食べることもままなならない程お腹の具合が悪く、かかりつけで出されていた薬も全く効かなくて、わたしと同じ病院で紹介状を書くと言われその日に行った。

ろくにものが入ってないのもあり、そのまま23度下からの下剤を入れただけで全大腸が見れる程だった。

痛みに身動きもせず、ただひたすら涙を浮かべてたえる娘ちゃん。

同席を認めていただけ、ずっと声かけと手を握るだけしかできない自分だった。


内視鏡は緊急だったので、他の医師だったが、主治医は同じにしていたので結果説明は、ほんとにひどい状態だったのをわたしの主治医から説明を受け、そのまま申請手続きができた。一度で見れたからよかったと思っていたけど、娘ちゃんは違っていた。


あの苦しみと痛みが今も彼女を苦しめている。


この病気になったとかより、それをする事が嫌なの。心の問題なの。と言われた。

次の日改めて娘ちゃんの家に出向いた。

しばらくの沈黙。

少しづつわたしが話し始めていった。

ただ涙をずっと流し続ける娘ちゃん。

とてもキツイひとときだ。話なんかわたしもしてるような心の余裕なんかないけど、話す。

穏やかに。

逃げ道をたくさん用意して。


それから娘ちゃんはわたしに抱きついてずっと涙を流し続けた。

わたしの言葉で少しづつ気持ちも落ち着いて、色々話すことも出来、多少の整理がついたみたいだ。(ほぼなげやり)

苦しむのはわたしだけで良いのに。

娘ちゃんが苦しむ。

それはどんな親でも本当に死にたいくらい心が引きちぎられる痛みだ。

それが、遺伝的な要素あり。という、わたしが原因の一つでもあるなら尚更。

わたしは最近ほんとうに死にたくなる。

そうして傷のない痛み程、果てなく自身を蝕んでいく。想像出来ないほどに壊れていく。


時間差でやられていくのはわかっていたけど、次の週からわたしは壊れていった。


あと、主治医引退までのラスト2回くらいになるだろう。と思うわたしの通院日。

まだ主治医は3月いっぱいでの任期後どうなるのかわからない。

ほんとにギリギリになるだろう。


わたしは行方さえわからず、娘ちゃんにさえ手を差し伸べる事もなかった親兄弟達の生き死によりも、この心から尊敬し、信頼している主治医との関わりが静かに終わりに向かっている。


いつも通りの手順で検査を終えて診察待ち。

周り見るもの、いつもの外来の感じ、様々なシーンが、当たり前だったことが、改めて、もうここには来ないのかな。と心が落ちる時間になっていた。


診察になり、またたくさん話した。今の体調は数字的にかなり良くない事が新しくわかってしまい、ストレスからかな。とかというのもあったし、細菌感染でか白血球も高く、あとは謎な脱水もあって治療レベルになってる。

今からこれじゃ先が思いやられてしまう。


ちょっと強い抗生剤が出る事で、今回また肝機能が良くない数値が出た理由にキツイ薬の多剤服用も考えられたから結構飲みたくないな、という思いがしんどい。

娘ちゃんの今回の件も弱音を吐いた。

主治医は、まぁそうだな。したくないならしない。で通ることだけど、〇〇くん(娘ちゃんの主治医。後輩になるこの人を紹介した)もそろそろ見ないとなーってなるよ。

時期的に癌化してる所あるかもしれないし、余計にねー。とか言っていた。


どんどん私生活でも壊れていってるじぶん。

睡眠は毎日1時間半が夜の就寝から起床までの一番長い時間だ。

それをかれこれ1か月以上はやっている。


じぶんに余す。

そしてこの先に待ち受けている娘ちゃんのことにも心を保つことが出来るのか。という不安に押しつぶされていく。

もし、万が一、癌がみつかったら若いから早いだろう。

そんな嫌なイメージをもつとよくないのにね。

人として最低限の生活などしていない。

眠る事。食べる事も酷い舌痛症(なったひとしかわからない地獄)で少量をなんとか食べる。全身の痛みと怠さで出かける事が通院以外ほぼない。顔の神経が敏感なので目がよく見えないのもあるけどちょっとした刺激で電気が流れる痛みが走るのでTVとかも連続して観ることができない。耳から入ってくる音(エコモードにしてるストーブが点くときの小さなパチって音)でも電気が流れる。

起きて意識がある時はただひたすら苦痛に耐える、という生活。

ただ娘を案じ、悩み苦しむ日々。

我慢できるひといるかな。

何ごともない穏やか風を装って、

これを死ぬまでかもしれないで生き続けることってみんな頑張ってするんだろうか。


もちろん社会とは断絶された環境下。

人と関わる事が出来ない。最低連絡事項(マンション内の不具合で不動産屋に電話とか)をするだけでもとても後から身体に負担がくるから。


死んでるみたいに生きている。人から見える人だから生きてる人。

そんな人。



娘ちゃんは2月初めの通院日に日程や検査のやり方などを組み、するなら早めだね。までを今の所話している。

あと少しだ。投稿できるうちにしておこうと思った。

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