気付けば5月中過ぎになってる。

ずっとすこしづつ書いていてこんなにもかかるようになってしまいました。


娘ちゃんの年末年始に社宅から出ていけ。

からの続きを書こう思う。


わたしは必死に自分の今の生活環境も身体のことも話した。

それでも娘ちゃんの会社は……


「あなたが娘さんと2人で住める部屋を今からまた変えて探せば良いのよ。」

と簡単に言われた。

家賃を滞納してる人でも流石にある日、「明日出ていけ。」とは言われないだろう。

娘ちゃんの社宅を覗くと中は物で溢れかえり、ゴミは一応分別されているけど、外に出れないから捨てられず、山のようになっていた。

我が子がこんな所で生活しているとは受け入れるのはあまりにも衝撃な部屋だった。


ほんとに息をしていることでいっぱいだったのだと入って改めて感じた。


わたしの身体も精神もとっくに限界だった。

娘ちゃんの事だけを守るための精神力だけで向き合っていた。


そこに大量のゴミの撤去と、まともなものが無さ過ぎてほぼ捨てると言ったので娘ちゃんの部屋の片付け、その分別。

そして荷物のまとめ。荷造り。最後は業者に依頼するレベルの掃除……


とにかく娘ちゃんは言われたその日に社宅からわたしのマンスリーマンションに身の回りのものだけを持って連れてきたのでわたしは往復60キロの雪道を年末年始通い、やるべき事全てをして暮らした。


そして一方で毎日必死に最善を考える。調べる……

まずは安いところに荷物だけ置く部屋を借りるとかがいいのか……

それもそれで契約があるから無駄な出費になるし……



そして3日目で考えついたこと。

確か、わたしのマンスリーは中には賃貸契約できる部屋があると聞いたのを思い出した。

すぐに管理に問い合わせるとギリギリ一部屋駐車場有りであった。

棟はとなりになるけど近くになるし、造りは一緒だからわたしが住んでいるから、マンションの勝手や近所の状態もわかるのも娘ちゃんは安心していたしそれが1番の策だった。


ただマンスリーと賃貸の価格の差だけが心配だっけど、光熱費など戸別でかかるもの全てを計算してもなんとかいけそうだった。


そこからの毎日は記憶にはほぼない。

一気に契約、社宅の撤去作業、病院、そしてその後出す傷病手当の申請や役所などの事務的なもの……色んな事に追われた。


会社は最後の話し合いで辞める事を言ったし。(当たり前)

それにあたっての手続きも全て始まった。

娘ちゃんの意向で揉めずになんにも文句もいわなく辞めたい……。と言われ、訴訟まで考えたがまた煮え湯をゴクリと飲み込みその通りにした。


めちゃくちゃだ。

こんなことが通る社会に絶望しかない。

半端ないストレスが重くのしかかっていた。


会社に病状を報告に1人で行ってから、3日後には退職届を出し、たかが18日後に新しいところに引越しをしたのだ。


引越し業者、社会保険の協会けんぽ、色んな人に分からないことやどうすべきかを教えてもらい助けられて、娘ちゃんはやっと勤めた会社から解放された。

死んだように生きているわたしの生活にここまでの不条理と悔しさ……言葉では思いつかないほどだ。全てを破滅して終わらせても足らないとおもうくらいのストレスだった。


その後、わたしが会社へ最後の手続きや貸与物をクリーニングに出し、その返却やお世話になった部署に菓子折りを置き、総務の人と社宅の受け渡しなどをして全てが終わった。


終わってからも区役所で変更するものなど、細々したことに本人が必要なことは一緒に行き落ち着くまでには、そこからしばらくかかった。


娘ちゃんの体調はどんどん良くなり本当にどんな生活(仕事の仕方)をしていたの!と主治医も驚くほどだった。


精神的なこともかなり良くなり、今まで出来なさすぎた当たり前のこともして楽しく暮らしている。

たまにフラッシュバックはおこしていたけれど、それもかなりいまは落ち着き、やっと安心出来るまでになった。

3月初め頃には一通りの事が落ち着いて、あとは娘ちゃんの回復や今後についてゆっくり焦らずに向き合うことになった。

そして今はいままでずっと遊ぶこともなく仕事しかない日々が嘘のように、歳相応の楽しい生活ができている。


次にわたしのこと。


これがマトモに生きてる。と言えるひとがいたら会ってみたい。

新しい土地に引越した1週間で娘ちゃんのあの事件だ。

新天地に着いたらまず1週間は寝込む予定。がとんでもない始末だ……


届出書類は早めにしなくてはならないものを優先してその間にできるだけした。

あとは全てが同時進行。

やっとわたしのバカの頭の病院も予約をしてある。

落ち着いてないと思うから。と、少し先にしておいてよかった。


そして1月中、初診。

初診でこの病気としてもかなりキツい方と思って。から診察は始まった。

主治医の院長が看護師にちょっと色々する。少し大変かな……

という話し声が聞こえた。


地獄的な心理テストと精神鑑定みたいなやつ。あとカウンセリング(物をつかったり書いたり園児の遊び、みたいなのだったり含む)もした。


大体はわかってるけど、東京で出された診断より1段階悪い……

新薬2種類ふくめた投薬、現行のものも含めたら3倍位の種類で症状を抑えることが始まった。


これがとんでもない。

ほんととんでもない。

しか言葉が出ない………………


副作用にも苦しんだ。多剤服用なのでアカシジアをはじめ色んな症状がでた。

主体の病気の症状も合わさり何もできない。

身体が痛みとだるさで動くのがたまらなくきつい。

病院には薬の効き目や体調の変化もみるのに毎週通っている。

外出は今も病院の日だけだ。

それでもきつい。毎週じゃなくせめて隔週に。と言ってみたけれど即却下される。

わたしの1日は長い。

目が見えずらいので紛らすことも何も無い。

少しの音にも大きく聞こえて敏感なのも、目の症状と一緒で脳に近いから仕方ないと言われた。

今頃になって主治医と話すのもかなり慣れてきた。

向こうもそうだったらしく、最初は何を言ってるのかも聞き取れないし今とは違っていたんだ、と言われた。

今でもうまく伝わらなそうなことは紙に書いて行く。

失語と物忘れのスピードがとても早くなったいる事も生活している上で困ることのひとつだ。

ほぼ誰とも関わらなくなった。

娘ちゃんを入れて2,3人程度しかいない。それも文字が見えないので直で通話か音声入力で文字変換をしてやり取りをしている。


3月頃から今まで感じたことのない感覚も増えた。

意識がハッキリしない時はよくあったけれど、その向こうがあるようになってる。

魂が抜けて行きそうな気持ちの悪い感覚。

肺の手術あたりからだから4年くらい経っているけど、その頃からの舌痛症は1日も治った日がない。

今は悪化してずっと舌のヒリヒリ感と苦味で食べたいものさえもうない。



あるときふと思い出した。

わたしがあとどのくらい生きれるのだろうか。と教えてくれただいたいわかった日から半年はとっくに経っている。

この時期を過ぎたらオマケ時間と言われたのも思い出す。

いま普通の暮らしで生きているとは到底言えないが、一応生きている。

死の迎えが来るのをただひたすらに待ちながらただわたしは生きている。

突然死のある病気でもあるし、なにも悩むことはなく生死に興味はない。この今が生きているとも死んでいるとも当てはまらない。いつの瞬間でもわたしは消えていく準備はとっくに終わっている。