2006年09月17日

香いの記憶/煙草の話 2分の2

また長く間が開いてしまった。
もう誰も見ていないかもしれない。困ったものだ。


***


エジプトの首都、カイロに来ている。
アラビア語の勉強と論文の文献探しをかねたちょっとした長旅だ。

この国には分煙なんてものは存在しないとみえて、多くの人があらゆる場所で煙草を吸う。
煙草そのものの価格も、こちらの物価感覚で言えば日本と同じ程度、日本人にしてみれば、実に安い。
空気が悪いから、煙草を吸いたくなる。
皆が吸うから、空気が悪くなる。
どうも、そういう仕組みのようだ。

もう一つ、煙草が社会で果たしている重要な役割がある。
コミュニケーションの「潤滑剤」だ。
イスラームは飲酒を禁じているから、この国の多くの人間は酒を飲まない。
その代わり、お茶を入れ、煙草を吸う。
「ほら、煙草でも吸えよ」
「悪いけど火を貸してくれないかい?」
そういうちょっとした触れ合いが、それ以降の会話をずいぶん円滑なものにしてくれる。

思えば、これが僕が煙草を吸い始めた最大の切っ掛けだった。
イスラーム文化圏で現地の人間と大人の男同士としてコミュニケーションを図りたいなら、一番手っ取り早いのは煙草を吸うことだ。
そう聞いていたから、煙草の一本や二本むせずにすえるようにしておこうと、昨年言わば旅の準備の一環として手を付けたのが始まりだった。
憧れとか周囲の影響とかが理由でないのは、日本人の喫煙者としてはちょっと珍しいかもしれない。(銘柄は憧れで決めたけれど。)
何にせよ、そんな実際的な理由で吸い始めたにもかかわらず、今ではずいぶんと煙草というものが好きになってしまった。
もちろん、健康に悪いとか、迷惑だとか、煙いとか、臭うとか、そういう事はべつとして。


***


火は人を無心にする。
だから世の中には火を見ることを趣味にしている人間が少なからずいる。
焚き火が好きな奴。いらない書類があると、取り敢えず燃やして処分したがる奴。小学生の頃、焼却炉の前に陣取って離れようとしなかった奴。キャンプファイヤーの準備を始めると、妙に張り切る奴。
(「人の家に火を付けたがる奴」というのも居るが、それはまた別の話だ。)

火と煙は常に自由に姿を変える。
一定の周期と法則にしたがったと思えば、すぐ後にはまるで別の方向へと漂っていく。
昔、理系の先輩がこんな事を言っていたのを思い出す。
「火が美しいのは、それがもたらす化学変化、すなわち炭化作用が、不可逆性であるからだ。」
火はそこにある物を燃やし、輝き、素早く、あるいは徐々に灰へと変えていく。
灰はそこに在り続けるが、もはや元の物質ではなく、二度と元の物質へと還る事は出来ない。
物と、火と、灰との、コントラスト。
そういう物に、人は純粋に心引かれる。
新宿でキャンプファイヤーはできないけれど、煙草を眺めることは(今はまだ)できる。
巻紙が少しずつ燃えていく様を眺めるのは、楽しい。
これが僕が煙草が好きな理由の一つだ。


***


もう一つ、僕が煙草を好む理由がある。
それが題名の「香いの記憶」だ。

風景や音が人の記憶を呼び起こすように、「香いの記憶」というものが人間にはある。
昔、とある人物がこれについて次のように評した。
「同じ情報が再現され、受信されたときにのみ再生可能なメディア」
言い得て妙な表現だと思う。
視覚や味覚の記憶と違って、香いの記憶は「ふとしたときによみがえる」ということが無い。
でも、その分視覚その他のメディアに比べて、鮮明で臨場感があるようにおもえる。
だから僕はこの「香いの記憶」が実に好きだ。
街を歩いていて、学校で授業を受けているときに、電車から駅のホームへと降り立った一瞬に、記憶は再生される。
思い出は驚くほどに具体的で叙情的だ。
「5歳の頃親父がサービスエリアで煙草を吸っていたときの香いだ」
「ああ、この風は9月のシカゴで、昼休みに友達とドッジボールをしていたときの風だ。」
「これは小学校に行く途中、冬の山手の駅を出たときの香いだな。」
「あ、雨上がりのシンガポール。」
その時の風景も、音も、考えていたことまで全部思い出せる。
父親が珍しく煙草をくわえていたので子供心に驚いていた。たしかあれはセブンスターだった。
友達と校庭に出るときは、いつも野球帽をかぶっていた。折り目を強く付けすぎてつばの真ん中が少しよれていたはずだ。
駅前のごみごみとした様子はなんだか好きになれなかった。あの頃の僕は、冬の澄んだ空気をシカゴの記憶と重ねあわせて気を紛らせようとしていた。
異国の地で僕の前を歩く母親の背中は心なしか緊張していて、どうにもそれが可笑しく、頼りなかったが、すこし安心感も感じていた。
鮮明な記憶に、なんだか不思議な気分にすらなる。

煙草は、御香の一種なんだから当たり前だけれど、強烈な香い(「臭い」と書かれることの方が多いのだけど)を発する。
周囲の香いを全部覆い隠してしまう、なんて言われることもある。
でも、実はそうじゃない。
季節とか、天気とか、それにもちろん銘柄(自分のと、周りの人が吸っているものと)だとか、そう言う細かい要素がずいぶんと作用するようで、だから、記憶を呼び起こす。
どの喫茶店で誰と話していたとか、どんな景色を見ていたとか、そしてそれについて何を感じていたとか、同じ煙草を吸っていても不思議と随分具体的に思い出せる。

あの時、あの瞬間。
あれから自分は変わっただろうか。
あの場所は、人はどうしているだろう。
彼らから得たものを生かせているだろうか。
懐古と反省の一瞬。


***


箱から一本煙草を抜き出して、愛用のライターで火を付ける。
一回大きく吸い込んで、吐き出した煙が消えていくのを眺める。
そして、まずは無心が、次に記憶がやってくる。
灯が消えるまで、五分間。

別に中毒的に吸いたいわけじゃない。
吸わずに眺めているうちに気づくと全部燃え尽きていた、なんていう事だって良くある。
ただ、こういう時間が欲しいだけだ。
休暇を取って遠い田舎へ行かなくても、煙草の火と煙は束の間の余裕を与えてくれる。
それは、確かに「自分だけの時間」。
だから、疲れたとき、息詰ったときに僕は煙草に火を付ける。
面倒な柵から逃れる、五分間の空白を求めて。

2006年06月23日

煙草のはなし にぶんのいち

今度、写真展に参加することになった。
題名は「smokers」で、撮影テーマは読んで字のごとく「喫煙者」だ。

上にも書いてあるように、僕は少し煙草を吸う。
いい機会だから、ここらで煙草の話をしようと思う。
思う、んだけど、最近どうも煙草というと話がややこしくなる傾向に世の中あるみたいで、
そういった類の方々への言い訳を考えていたら、まとまらなくて、結局前後編になってしまった。
だから「にぶんのいち」。


                ***


さて、前述のとおり、世の中には「タバコ」と聞いただけで目くじらを立てる人々が存在する。
しかも最近、増えてるみたいだ。
これはべつに「タバコが嫌いな人」に限ったことではなくて、「タバコが嫌いな人が嫌いな人」もまた、等しく厄介だ。
僕はというと、ここまでを読んでいただければわかるように、そのどちらでもない。
喫煙非喫煙を問わず相当数いるであろう、「煙を吸わないと死んじゃうわけでもないし、煙を吸うと死んじゃうわけでもない人」の一人だ。
気弱なだけとも言う。


だから、僕は、喫煙禁煙の争いには興味がない。(こうやってはっきり言っておかないとあとで「多方面からの批判」が来てしまいそうで怖いのだ)


子供の近くで吸うなとか、妊婦は喫煙するなとかはまあわかるけど、隔離部屋だか煙小屋だかガラス檻だかわからないようなものをあてがって「煙がすきなんでしょ? 好きなだけ吸えば。あ、換気扇の電源は切っといたから。」みたいな態度をとられればそりゃあ居心地が悪いし、だからといってべつに死ぬほど吸いたいわけじゃないから「一緒に愛煙家の権利を守るために闘おう」とか誘われても、ねえ?
もともと煙は好きじゃなかったし、最近まで非喫煙者だったから、どっちの言い分もわかるんだけど。
そんなに必死にならなくても、いいじゃないか。


ちょっとした配慮さえすれば、喫煙者と非喫煙者の同居は可能だと思う。
そもそも人間なんて、他人が見えないところでやっていることには本質的には無頓着だからだ。

上司がオタクだったとかものすごく仕事のできる同僚が家では山形弁しゃべってたとか友人がSM趣味だったとか文通相手が黒人だったとか、そんなことがあったとしても、そしてそれらが露呈したとしても、基本的に日常生活にはなんら支障をきたさないし、来たすべきではない。
それは、そういう「衝撃的事実」が、冷静に考えてみれば他人にまるで直接的な影響を及ぼさないからだ。
なら煙草だって、「直接的影響を及ぼさない」ようにすればいいだけの話だ。


煙草が吸いたければ子供や妊娠した人がいないところで。
もちろん禁煙の場所では吸わない。
服についた臭いや煙の行き先、吸殻の処理には配慮しましょう。

煙が嫌なら喫煙所には近づかない。
マナーを守った喫煙者にはあれこれ口を出すのはやめましょう。

マナー違反をしない。
マナーを守っている人に文句を言うようなマナー違反もしない。

あらゆることには節度と配慮が要る。
それさえ守っていれば、あとは放っておけばいい。


                ***


写真展の題名を書いた紙には、いつも短い文章をつける。
それは撮った理由だったり、作品の解説だったりする。
今回の「smokers」には、こんな言葉をつけるつもりでいる。


smoke: some do, while some don't
       just as any other things.


世の中には煙草を吸うことを「する」人がいるし、「しない」人がいる。
それは他のあらゆる物事とまるで同じことだし、
ようするに、ただそれだけのことだ。












写真展についてはこちらをご参照ください。
お暇のある方はぜひ。
「僕の」煙草については、後編で書きます。

2006年06月20日

おひさしぶり。

ずいぶん間が空いてしまったけれど、不幸にして幸い。生きています。
その間アクセスしてくださっていた皆様、ごめんなさい。

どうも身の回りがごたごたしていて、まともにこういう場で文章が書ける状態になかったので、勝手ながら更新を控えていました。
どうやらようやく状況が落ち着いてきたようなので、また、更新していこうと思います。
ゆっくりと、だけれど。
ネタだけは、無尽蔵にあるから。



                ***



はてさて、休んでいた間に世の中動くもので、僕にとって身近なところでは、こんなことがあったりして、ちょっとしたショックだった。
マニアックな話になるけど…


高校生のときから、ということはつまり、まともに写真というものに取り組むようになってから6年間ずっと、ということになるけれど、とにかく印画紙はいつも「月光」でやってきた。

作品に冷黒調が合うことが多かったというのが主な理由だけど、それ以前にいまどき号数紙自体貴重だし、それに、紙がうすいのもいい。お手ごろ価格で手に入るという実際的な事情ももちろんあった。

「下品な黒」という評価もあるだろうとはおもうのだけど、それでもノンフィルターで黒の中にあれだけの階調を出せるRC印画紙ってなかなかないと思う。
半光沢を2,3,4号とそろえて、階調調整は印画紙側でしながらノンフィルターでテンポ良く焼いていくのが楽しかったし、ほとんど手癖みたいになっていた。
現像液との相性がよかったときの、月光印画紙の階調性は本当に信頼に値するものだった。
フォルテの上質印画紙では出なかったグラデーションが、試し焼きのMD3ではしっかり出ていた、なんてことだってあった。
それだけに、衝撃が大きい。


印画紙コーナーから、赤と黄色の箱が消えて久しい。
お気に入りのメーカーから順に姿を消していく。
月光の在庫が店頭からなくなったとき、僕はどのメーカーの印画紙を使うのだろう。
選択の余地ぐらいは、残ってくれるのだろうか。

多階調のILFORDにフィルター、という気分には、まだなれない。

2006年02月20日

見当外れな成功の話。 /Leica a (後編)

「ライカなんて。」そう思っていた。
高いだけで、写真を決めるのは機材なんかじゃないと。
そう考えるのはきっと貧乏な写真好きの誰もが通る道で、そして多分、その考えは、正しい。

でも同時に、大きな間違いでもある。
写真は、芸術分野の中でも最も道具に左右される部類のジャンルだから。
どんな機材を選ぶかと言うことは、その人の写真のあり方までも左右する問題になりうる。

もちろん、弘法は筆を選ばない。
本当のプロは、レンズ付きフィルム(俗に言う「使い捨てカメラ」のことだ)でも上手な写真を撮る。
でも、それは作品にならない。
求めるものに向けて道具を吟味する。その積み重ねが作品になり、作風を作る。
弘法はどんな筆でも上手いけれど、筆を選ばない弘法を僕は信用しない。

中判や大判は別として、35ミリで作品を作ろうという人間の多くが行き着く先は、大きく分けて二つだと思う。
気取らずに味のあるカメラと、積極的で性能のいいカメラだ。
前者はたとえばライカやツァイスのことで、後者にはニコンやキャノンのAFなんかが当てはまるだろう。
乱暴に言い換えれば、その場に見える「そのもの」を精密に写し取る後者に対して、必ずしも正確ではなく漠然と「雰囲気」を写すのが前者、と言えるかもしれない。
だから、どちらが良いわけでもなくて、そもそも用途が違う。

ずっと報道系の写真を目指していた。
都市の風景は、無感情に写せば写すほど、それだけで残酷になる。
それに、作品以外でも動きのあるものを撮るのが好きだったから、そういう写真となれば、憧れはニコンだった。
戦場写真家に憧れていた、と言うのは、前に話したとおりだ。

それが変わったのは、みなとみらいやエジプトの空気のせいでもあったし、エジプト滞在中に買ったマグナムの写真集のせいでもあったと思う。
思えば、もともとあまり報道系の写真を「見る」ことは好きではなかった。
だから、「変わった」と言うよりは「気づいた」と言うべきなのかもしれない。
ブレッソンやキャパの空気感ある写真、気負わない写真に、素直に憧れるようになった。
写真を考えて撮るようになって5年。
写真家に憧れても、写真に憧れることは殆どなかった。
それで行き着いた先が典型的な「マグナム」なのだから、ずいぶんな回り道をしたものだと思う。
かくして僕は「性能主義」の道を外れたわけだ。


と、ここまでが前回のお話。

                 ***

前回の話は、調子に乗って宮沢章夫の引用なんか始めたものだから、どうにも支離滅裂になって、それに僕の書き方が悪かったこともあって、色々なところで反響をいただいた。
もちろん、厳しい意見も含めて。

そもそも、大の大人が「飽きる」なんて言い出すこと自体が問題ではあるのだろう。
「飽きる」は子供の特権だ。
ならば大人は飽きないのかといえば当然そうではなくて、彼らは飽きを解消する術を持っていて、「飽きた」と口に出して言わないだけの話だ。

彼らは、「切り替える」。
それは「散歩をする」とか「煙草を吸う」といった些細なことでもいいし、「旅に出る」とか「別の場所に移る」といったことでもいい。
高校時代の数学か何かの教師は、「歯を磨く」ことを薦めていた。
彼は、仕事を始めるにあたって歯を磨き、仕事に飽きては歯を磨く。
そうした行為によって彼らは飽きを解消し、そして再び単調な日常へと帰っていく。

「切り替える」方法として最も短絡的で、しかも代表的なのは、多分、「道具を買う」という方法だろう。
購買意欲が満たされること以上に、「金を出してまで買ってしまった」という事実が、人をその道具を使用することへと向かわせる。
「ダンベルを買ったから運動しよう」
「ペンを買ったから原稿を書こう」
モノの強制力は、個人差はあれども、大きい。
「買ったからには、使うしかない」のだ。

                ***

「新しいカメラでも買えば、また真面目に写真を撮るだろう」
そういう打算があったかと問われれば、否定の余地はまるでない。
打算と心境の変化が重なったのは帰国して一月も経たない頃。
気づけば本棚の一角にライカ関係の本が整然と並んでいたのだから、自分の単純さと行動力にはあきれるばかりだ。

といっても当然そんなに簡単に貯金ができるわけもなく、さすがに全額使い切る勇気もなかったから、購入予定は学祭後が年内に、年内が1月中へと、ずるずると延びつづけた。
結局決定打になったのは親しい人たちが立て続けに大きな買い物をした事で、自慢されるばかりでは悔しいというくだらない理由で購入に踏み切ったのが1月の下旬。
なけなしの金を懐に忍ばせて新宿に向かった僕は、用意の悪さを思い知ることになる。

3万円台でバルナックライカのボディが買える。
そう思い込んでいたのは、だいぶ昔にどこかの中古屋で破格の沓磴鮓た記憶があったからだと思う。
詳細は覚えていないから、おおかた「シャッター幕光線漏れ・巻上げ不良」なんて状態だったに違いない。
値段だけ見て舞い上がっていたから、他のことは目に入っていなかったのだ。

「ボディが3万円台、レンズが同じぐらいで高くても8万だな。」

折角史学科にいるのだから、こんな時ぐらいは、不確かな情報を元に作戦を立てて大敗した数々の事件に学ぶべきだったのだけれど。

                ***

予算内で買える、修理なしで使用に耐える個体は、一つもなかった。
ボディ相場が5万。美品なら10万。
3万など夢物語だった。
だから、帰り際に東京の中古カメラ店に立ち寄ったときも、期待はまったくしていなかった。
そもそもいつも覗きに行っている店だから、置いてあるバルナック形の値段など知り尽くしていて、それでも立ち寄ったのは殆ど癖みたいなものだった。

一台、増えていた。
aにエルマー50mmのf3.5がついて、65000円也。製造は37年。

ボディもレンズも傷だらけで革も歪んでいるし、巻き軸が曲がっているから、どうせまともには動かないだろうと必死に期待を抑えながら店員を呼んだ。

「汚いけどね、動きますよ。それでだめなら美品でもだめです。」

馬鹿みたいに頷きながら動作を確かめているうちに、いつのまにかフィルムを装填することになり、試し撮りをする羽目になり、そうして気づくと紙袋を下げて店を出ていた。

呆然とするうちに、僕はライカユーザーの仲間入りをした。

                ***

動機が不純だったし、技量が足りなかった。
「気負わない作品」と「気楽に撮れる作品」を勘違いしたのがそもそも愚かだ。
それに、経緯もなんとなく良くなかったと思う。

一本目のフィルムは、最初のカメラを買ったときのように手当たり次第に撮りまくった。
そして、翌日現像から上がった36枚の写真は、とにかくもう、目も当てられないほどに失敗だった。
露出の過不足、ピントのずれ。
手ぶれがあれば失敗の典型が3つそろって立派な初心者写真が出来上がるのに、と冗談にしたくなるほど酷い出来。
今までいかにFM3/Aの露出計やファインダーに助けられてきたかと、嫌と言うほどに思い知らされた。

フィルム装填から巻上げまで。
ライカで写真を撮る事は、なにもかもに慎重さを要する。
それはまるで、写真が一つの儀式であるかのように。

慎重に、丁寧に。
それが自然に出来るようになるまでに掛かる時間は、想像しただけでも気が遠くなる。
暫くは、最初のカメラを買った8年前の如く、ピント合わせに四苦八苦する日々が続くだろう。

「買ったからには、使うしかない」のだから。


果たして、「がんばらないカメラ」は、半ば強制的に、僕を「頑張り」へと引き戻したのだった。

2006年01月27日

「飽きちゃったんです。」 /Leica a (前編)

飽きちゃいました。

と言っても、このブログのことではないから安心してほしい。
がんばることに、飽きちゃったのだ。

                ***

だらけきった生活を続けている手前、「飽きるほど頑張っていないだろう」といわれれば答えに窮するのだが、
写真に関して言えば、まあそれなりに頑張っていたんじゃないかな、と思う。
それが違和感を感じ始めたのは、去年の春。
ギャラリー展示用の作品(という修飾語から想像されるほど大層な物では御座いませんよ、念のため。)であった、『みなとみらい』の撮影を仕上げに掛かっていたころのことだ。

そのときの機材は、前にも書いたことだけれど、ニコンのFM3/Aにモータードライブ、標準ズームを中心にして短焦点の交換レンズを3本。
まったくもって「ニコンらしい」内容なのだが、こんなやる気満々な装備で被写体となる風景を捜し歩く僕が、家族連れとカップルに溢れたみなとみらいという被写体との間にずれを感じるのは、
それはまあ当たり前と言えば当たり前な話だ。

                ***

「ニコンをもっていると、撮影姿勢が前のめりになる」

足を踏み出さないとバランスを崩して倒れてしまう、とかそういう話ではなくて、
もちろんこれは気持ちの問題である。
ごつい機材を持つと、つい、がんばってしまう。やる気になる。
モノ好きの僕の場合、道具と気分が密接な関係をもってしまうものだから、問題は余計に深刻である。

これは、高校の部活や都市感溢れる東京駅なんかを撮っていたころには気づかなかったことだ。
無意識に鋭くなった視線が、大きな機材と相まって被写体を警戒させる。
もちろん、デモなんかを撮っているときにはそれでいい。
機材の信頼性と性能が第一だからだ。
問題は町で普通に写真を撮るときで、
まあ一言で言ってしまえば、スナップに向かないのだ。

横浜で得た仮説はエジプトで確信へと変わり、

そして、ふと、飽きた。

                ***

「飽きる」ということについては、劇作家の宮沢章夫氏が随筆の中で考察している。


 よく知られているように、「飽きる」の直前は、たいていの場合、「夢中」である。その落差が大きければ、大きいほど、人はそこに、「飽きる」の恐ろしさを見るだろう。 
 (中略)
 会場に入って十五分が過ぎた。
 気がつくと、何も知らない者はやけに静かになっていた。さっきまでの興奮が幻であったかのような静けさだ。
 (中略)
「うおー」と叫んでいた者が、いまはとろんとした目でリングを見つめている。
「眠いのか?」
「眠くなっちゃった」
 それはあきらかに、「夢中」と「飽きる」のドラマティックな落差だった。こうした姿こそを人は「飽きる」と表現し、そうでないものについて、「飽きる」と言わないのであれば、風呂から上がることは、「飽きたから」では、けっしてない。
 なぜなら、風呂に、「夢中」になる人はあまり多くないからだ。
 湯船につかりながら、「いいよ、風呂、すごくいいよ」とか、「すげえよ、すげえよ、お湯ってあったけーよ」
(中略)と夢中になる者の数は、それほど多くはない。

                          (『よくわからないねじ』 新潮文庫)
 
そうであるとして、なら僕は頑張ることに「夢中」になり、興奮を覚えていたのだろうか。

「すげえよ、俺。今俺頑張ってるよ。」

こう書いてみるとなかなかにお恥ずかしい話だが、
まあ、頑張るなんていうのは往々にしてこのようなものだ。

                ***

果たして頑張る姿勢に飽きた僕は、それでも写真は辞められず(ここが小物の証だ)、物欲という持病を併発して、「がんばらないカメラ」を求めるに至った。

肯定的に言えば、発想の転換である。
宮沢章夫の言葉を借りれば、「「飽きる」ことによって新たな局面が生まれ」たわけだ。
「「飽きる」からこそ、人は生産的になる。」のである。


新しいカメラに手を出す行為が生産的と呼びうるかどうかはさておき、
新たなカメラに対して僕が掲げた条件が次の三つだった。

がんばらないカメラは小さい。
がんばらないカメラには余計な機能がついていない。
がんばらないカメラは見た目や音で人を警戒させない。

この曖昧な条件下で、僕が目をつけたもの。
それが、ライカだった。




と、いったところで、突然だが残りは次回に。

なぜって、




飽きちゃったから。

2006年01月17日

大成しないひと /番外編みたいなもの

どうもだめだ。
年が明けたら新しい気持ちで、気分一新できるようなすがすがしいCDでも紹介しようと思っていたのだけれど、気づけば半月も経っている。
開設して間も経っていないのに、更新が滞っては言い訳ばかりしている。
どうにもいけない。
いけない、とは思うのだけれど。

                ***

「やればできる」というのが、最近の流行みたいだ。
そんなに明るい世の中でもないと思うのだけど、景気が向上している証拠なんだろうか。
おかげであっちこっちから「努力して成功する生き方の本」みたいなものが出版されて、
雑誌を開けば必ずといっていいほど「大成した人たち」のインタビュー。
イチローだとか、中田だとか、ホリエモンだとか。
そんな人たちが「たいした事はしていないですよ」なんて言うものだから、普通にだらだら生きているだけの僕などは、励まされるどころか恐縮してしまう。

                ***

彼らの言葉を聞く限り、どうやら、「やればできる」のであるらしい。
合言葉は「不言実行」。
「大成した人」は、言い訳をしない。
言い訳はしないけれど、失敗もしたくないから、結局大成するということ。

ということ、なのではあるが、しかしこれがなかなかに困難だ。
忙しいものは忙しいし、眠いものは眠い。話のネタだって頑張ってどうにかなるものじゃないし・・・
それに、今から突然できるんなら最初からできてるんじゃあ・・・

卑屈な性格が顔を出す。
そもそもこれがいけないのだ。
どうにも手をつけ難い。



開き直ることにした。



たまに言い訳はするけど立派な人。
そんなのがいたっていいじゃないか。
自分の駄目さにだけ言い訳をしなければ、十分。
それに、みんながみんな「不言実行」だったら、逆に怖いでしょ。
闇雲に進むより、ここでもう少し楽に生きてみてもいい。







もちろん、言うまでもない。
これも言い訳である。







                ***

近いうちに少し大きな買い物をしようかな、と画策しております。
次はそれについて書けたら良いのだけれど。

2005年12月28日

チャーリー・ブラウンとの対話 / 『Here's to you, Charlie Brown』 David Benoit

この前から先延ばしになっていた音楽のお話。
異例の連続更新だけれど、時期がずれてしまうので書いておこうと思う。

                ***

Here's to you Charlie Brown
最近良く聴いているCD、デビッド・ベノワの、『Here's to you, Charlie Brown』。
スヌーピーで有名なPEANUTSシリーズのアニメ音楽を手がけたデビッド・ベノワが、漫画版PEANUTS掲載50周年を記念して出したアルバム。
マイケル・ブレッカーやTake6などを招いた豪華な名盤だ。
普通のアルバムなのだけれど、一曲だけクリスマスをテーマにした曲が入っているせいか、この時期に聴く事が多い。

普段は繊細なピアノを大胆なリズムに乗せていくスムース・ジャズのお手本のような人で、このアルバムを聴いた時にはまずイメージの違いに驚いた。
ピアノトリオ風の、静かで良く弾む演奏。
洒落た感じにまとまった一枚で、短いながら酒のお供に丁度良い。

一曲目は「Linus and Lucy」。
テンポの良い日常に皮肉を交えたPEANUTSの世界観に、心地よく引き込まれて行く。

                ***

大分昔の事だけれど、NHKかなにかのドキュメンタリーで、PEANUTSと原作者のシュルツ氏の人生を扱った物を見たような記憶がある。
普通の犬と飼い主であったスヌーピーとチャーリー・ブラウンの関係は、連載が続くにつれて次第に変化していく。
スヌーピーは皮肉屋で、物事をそつなくこなし、世界をどこか達観した立場から見るように。
そして、普通の少年であったチャーリー・ブラウンは、何をしても上手く行かない駄目な小学生へと。
そんな事を扱った番組だった。

二曲目。「Charlie Brown Theme」。
軽快で静かなリズム。曲の盛り上がりと共に、次第に暖かい日常と、それへの満足感のようなものが見えてくる気がする。

                ***

番組では、作品の変化を作者の人生と絡めて論じていた。
昔の事で定かではないのが申し訳ないのだが、スヌーピーは作者の理想であり、対しチャーリー・ブラウンは現在の作者自身の姿なのだ、というようなまとめ方だったと思う。

これに大見得切って異論を唱えるほどこの作品を読み込んだわけでもないから、そんな事は到底出来はしないのだけれど、
ただ、チャーリー・ブラウンはただ駄目なだけの少年では無い気がするのだ。

漫画でもアニメでも、チャーリー・ブラウンは常に周囲の強烈なキャラクターに振り回される存在でしかない。
際立った才能も無い。努力も報われない。
スポーツに必死に取り組んでも、チームメイトたちは最初から諦めてグラウンドで居眠りを始めてしまう。
他人に気を利かせて、でもその方法が少しずれているせいで、失敗や他人の後始末ばかりしている。
そうして、いつも最後にため息をつく。

それでも彼がこの舞台を投げて逃げ出さないのは、ただ懲りないというよりは、舞台の中での自分の居場所に満足しているからではないか、と思う。
彼は、自分がうまく立ちまわれないことや才能が無い事を十分に知っていて、
無茶苦茶な隣人たちに振り回され、困惑し、呆れながらも、
その場に居ることの幸福を知り、そこに自分の場所を見出している。

決して現実から逃避しない。
在り方を曲げない。

「人間は今いる場所からしか出発できない」とは誰の言葉だったか。
妥協にも見える在り方だとは思う。
でも、今居る場所から目を背けるために闇雲な「努力」に打ち込むのは、そう難しい事ではない。
だから、今居る場所に足場を固める事が出来たチャーリー・ブラウンは、
実は多分、強い。
強さゆえに見つけた幸福感と優しさ。
そして彼は、努力だって諦めてはいないのだ。

                ***

CDは進み、最後の一曲。「Happiness」。
アル・ジャロウの叙情的なヴォーカルが、小さな幸せを歌い上げる。

幸せ、それは、手をつないで歩くこと。
再び家に帰ること。
共に歌うこと。
共に歌う人たち・・・


そうして、曲に自分を重ね合わせて味わいながら目を細めたとき、グラスの向こうでチャーリー・ブラウンが静かに微笑むのだ。
「これでいいんだ」と。

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2005年12月25日

ハシケンの授業

クリスマスに引っ掛けてCDの話でもしようか。
そう思っていた矢先、訃報が届いた。



仙人のような人だったな。

恩師(・・・と言うほど親しくも無かったのだけれど)・橋本堅太郎先生が亡くなったと聞いた時、まず思ったのはそんなことだった。

                ***

始めて「ハシケン」と言う名を聞いたのは多分中学1年の二学期で、物理部という学園内でもかなり怪しい部類の部活に入部した僕が、やる事も無く部室に入り浸っていた頃に、先輩の会話の中で聞いたのだったと思う。

「ハシケンの授業はわけがわからない」

なるほど中学ともなるとそんな教師が居るのか、と他人事のように聞いていたのだが、半年もしないうちに事は自分の問題として降りかかってきたのだった。

「先生、平均点は何点ですか?」
「75点だよ?」
中学2年の物理。返却された中間試験。
46点の答案用紙を眺めながら、そんなやりとりを呆然と聞いていた記憶がある。
期末試験は52点。次の学期の中間は24点だったか。
そんな点数を取った事が無かった当時の僕には、酷くショックだった。

「ハシケンの授業内容は高校物理の応用レベルの難しさ」
「ハシケンはいつでも平均点を75点と言う」
そんな種明かしを聞いたのは大分経ってからの話だ。

                ***

飄々とした、何処までが本気なのだか読めない人物で、授業中の発言にも謎が多かった。
生徒で遊んでいたのじゃないかと思う。

生徒の質問にはいつも「おうちに帰ってママに聞いてごらん」と答え、ただでさえ難解な授業内容は、研究書から引っ張ってきたような英文のグラフによって混迷を極めた。
水は「ウォーター水」、空気は「エアー空気」と呼び、プリントの図に描かれた磁力によって弾き出されるコイルの行方は「宇宙」と書かれていた。
試験では、混乱した電子回路の抵抗値計算が求められる一方で、「今日の日没時刻」や「貴君の今日の不快指数」などといった奇妙な問題が出され、数字さえ記入しておけば全員正解、などという事もあった。

古い部誌をあさればそこには何時だって「ハシケン」の名があり、何時の時代にも同じ事をしているのだと知って、なるほどあの人ならと妙に納得したのを覚えている。
「ニュートン君はなかなか見所のある青年だったね」
「アルキメデス君とは仲が良かったんだよ。先生は五万年生きているからね。」
そんな与太話すら信じてしまいそうな雰囲気があった。


                ***

何時だったか、赤点確定の点数の答案を返された時、答えられなかった問題の回答欄に赤字で「宿題!」と書かれていたことがある。
「授業で述べたアイスクリームの実験について述べなさい」とかいう問題だったと思う。
アイスクリームの容器を常温中に置くと霜が着く、という実験で、確か雲の原理か何かの説明の時に触れたのだ。
たいした内容でもないと聞き流していて、試験の時には全く思い出せなかった。

「宿題って何ですか?」
点数の事もあっておどおどしながら聞きに行くと、「アイスクリームの実験をしてレポートにしてきなさい」と言う。
その日にアイスクリームを買って帰り、早速実験をした。
時間経過に沿って、霜の着き方をまとめていく。次第に霜が溶けて・・・

「溶けてしまうので実験を中断して食べてしまった」
投げやりにそうまとめられた中学生の稚拙なレポートを、ハシケンは本当にレポートにした事が意外そうな様子で、それでいてどこか満足げに「よろしい」と受け取ったのだった。
その時の成績は覚えていないが、赤点ではなかったと思う。

                ***

今となってはいい思い出。
つまり、今思い出となっているもの、あの全てが彼の授業という事だったのかもしれない。

校内でも最年長だったから、何を言われても悠々と「学問で一番偉いのは物理学なんだよ?」などと返していた。そんな栄光学園の名物教諭は、オーロラ撮影の権威でもあった。
自身が世界中を旅し、日常を愉しんで生きる人だった。


何時か一緒にオーロラを撮りに行けたら。そんな風に漠然と思っていただけに、残念な気持はある。
なんとなく死という事とは無縁な人に思われて、先延ばしにしていた事が悔やまれるところ。

しかし、五万年の大往生である。
現世のあらゆる物を見尽くして、次なる物を求めて旅立ったのならば、次の世界でも飄々と暮らしていくのだろう。
ならば今は悔やむよりも、ただハシケンの幸福な旅立ちを祈りたい。


瞑目。

起立。
礼。

すばらしい授業を、ありがとうございました。










(先延ばしになったCDの話は明日にでも、余裕が有ったら。)

2005年12月21日

コメントのこと。

ちょっとしたお詫び。

こんなところにもコメントいくつかいただいており恐縮です。
お返事をしなくてはといつも思うのですが、どこか単調な返答になってしまいそうで、
見合わせたままだらだらと時間が過ぎております。
申し訳ない。

でもちゃんと全部読んでます。この場を借りてお礼を。


ネタ切れ・失速が怖いこともあって更新は多くても月二回程度になるかと思うのですが、
細々と書いていくつもりなので、
たいした内容でもないですが今後ともお付き合いいただけると幸いです。


近いうちにまた更新します。
次は多分お酒か音楽の話。

2005年12月08日

マニュアルのニコン / Nikon FM3/A

0b1825ac.jpgニコンのマニュアル一眼レフ関連機材が、今年に入って大分「整理」されている。
「整理」というのは、つまり「取捨選択をすること」だと思うのだけれど、その選択の基準という奴が人それぞれだから厄介でもある。

                ***

「マニュアルのニコン」というのは、高校時代の僕の憧れで、多分、これからもずっと多くの人たちの憧れでありつづけると思う。
「F」で伝説になったニコンブランド、その技術の結晶とも言えるマニュアル一眼レフ。
精密なカメラ。堅牢なカメラ。修理が容易なカメラ。シンプルなカメラ。
そして、なによりも、撮影者の要求に答えるカメラ。

高校一年生の時に読んだ一冊の本。『地雷を踏んだらサヨウナラ』。
カンボジアに散った一之瀬泰造の肩にも、3台のニコンがあった。
ボロボロのFとF2。レンズフードは酷く歪み、本の中にはF2の露出計のずれに悩まされる逸話が何度も出てくる。
それでも、シャッターは最後の瞬間まで動きつづけた。
単純な僕は、すぐに憧れた。
中学2年の時に買ったキヤノンAV-1の性能に不足を感じていた頃だった。
父親に頼み込んで借りたF401は、すこしぶつけただけで電子部品が壊れてしまった。
「まず壊れないカメラを買わなくちゃな。」
先の計画など何も無いまま、それでも「まず」カメラ。そう思った。

2001年。FM3/Aが発売され、F3が製造終了になった2年後の話。

                ***

早速カタログをかき集めた。
高校生の予算では、どう頑張ってもF一桁には手が出ない。
どうせなら新品が良い。
写真で見たカメラマンの機材のようにボロボロになるまで、大切に自分で使っていきたい。
贅沢にもそう思った。
「相棒」が欲しかったのだと思う。
FM3/AかFM2T。予算の範囲内で、新品で買える「壊れない」ニコンのカメラは、それしかなかった。

カメラ屋に通いつめ、展示品を飽きるまでいじりまわした。
カタログを擦り切れるほど読んだ。
FM3/A。
針の露出計は見やすい。性能も申し分ない。アルミ部品の精密感も好きだった。
親を説得した。
「一生ものになるから。」
小学生の頃から親に預けていた分の貯金が、ここで生きた。
69000円。
最も安い店の新品価格。
余裕を見て、8万円握り締めて店を目指した。
棚の前で最後の決断をするまでに約20分。
「あの、これをください。」
そう言った時の緊張を、今でも良く覚えている。

                ***

余った予算で中古のカメラバッグを、翌日にはストラップを買った。
一之瀬泰造にあやかった、緑の布製ストラップ。
レンズは父親からの借り物だったが、半年後に35mmの短焦点レンズを買って、メタルフードを付けた。

そして、カメラは頼るべき「相棒」になった。
デモの人ごみに部活動のスポーツ写真、旅行の風景写真や街中のスナップ、高山から砂漠まで。
時に他のカメラと共に首から下げ、胸の前でぶつかるのも構わず撮影に走り回った。
これほど過酷にFM3/Aを使った人間は、まだいないと思う。
カメラは望みどおりボロボロになった。
真鍮の地金が顕れ、フードはへこみ、削れた。
それでも、機械式のシャッター音に濁りは無い。
ダイアルを回すと、確実に歯車が噛み合う微かな感触。
露出計の指針と絞りの表示は何時だって明瞭にそこにある。
ファインダーに集中し、他の何もかもが無になる一瞬。
「写真を撮る」ということの要素をはっきりと感じるあの瞬間。
尤も、老モータードライブのあの心地よくもやかましい音に掻き消される事も多いのだけれど。

                ***

デジタル全盛の昨年発売されたF6は、「時代錯誤の暴挙」と言われた。それも、ニコンファンからの誉め言葉として。
今時マニュアルカメラを製造しているメーカーがいくつあるのだろう。
ニコンには、良くも悪くも時代を越えて「良い物」を求め続けるある種の職人気質があったと思う。

「温故知新」などと事情も知らずに説教をたれるのは筋違いで、こんな時代にデジタルに移行しないで企業を維持する事は出来ないのだろうけれど、やはり「取捨選択」の基準は、その場限りではなく時代を越えたものであって欲しい。
そう願うのは、贅沢だろうか。