2013年06月
2013年06月28日
『あなたは何を掴んでいるのでしょうか』
小さな穴に手を入れてその中で何かを掴むと手が抜けなくなる、掴んだものを離せば手が抜けるのに掴んだものを離そうとしない。
そういうお話がありましたよね。
私たちは気づかぬうちに、何かを掴み、掴んでいるからその場から離れられないという状況にあるのです。
何を掴んでいるのか、それは人それぞれです。
素直ではない心を掴んでいる人もいれば、物欲を掴んでいる人もいるでしょう。
要するに、最初に手を入れた時にその穴が通るのは、私たちが生まれてくる時に「何も持っていない」のと同じなのです。
生きていく過程で様々ことを学び、知り、身につけていきますが、その中には手を抜けなくさせるものもあるのです。
何がそうなのか、それを生きていく中で学んでいくだけのことです。
人の話を聞くこともそうですし、周りの人たちの生き様から教えてもらえることもあるでしょう。
私たちは「何か」のルールの元に生きているのです。
因果応報、罰が当たる、様々な言葉でそれを伝えようとしてきたものがありますが、結局は自分がそういう存在(ルール)があると思えるかどうかです。
「ある」として初めて、それに対して思いを巡らせ、どうしたらよいのかを考え、行動するのです。
「ない」と思っているのならば、無関係のまま生きていくだけのことです。
「ある」とか「ない」とか議論をする意味さえもなく、自分がどちらを選ぶのか、それだけです。
私たちには選ぶ自由はあるのですから、どちらを選ぼうと自由であり、選んだことへの責任を負えばよいのです。
真実への扉は・・・本家にある
※ここは本家の日記置き場です
そういうお話がありましたよね。
私たちは気づかぬうちに、何かを掴み、掴んでいるからその場から離れられないという状況にあるのです。
何を掴んでいるのか、それは人それぞれです。
素直ではない心を掴んでいる人もいれば、物欲を掴んでいる人もいるでしょう。
要するに、最初に手を入れた時にその穴が通るのは、私たちが生まれてくる時に「何も持っていない」のと同じなのです。
生きていく過程で様々ことを学び、知り、身につけていきますが、その中には手を抜けなくさせるものもあるのです。
何がそうなのか、それを生きていく中で学んでいくだけのことです。
人の話を聞くこともそうですし、周りの人たちの生き様から教えてもらえることもあるでしょう。
私たちは「何か」のルールの元に生きているのです。
因果応報、罰が当たる、様々な言葉でそれを伝えようとしてきたものがありますが、結局は自分がそういう存在(ルール)があると思えるかどうかです。
「ある」として初めて、それに対して思いを巡らせ、どうしたらよいのかを考え、行動するのです。
「ない」と思っているのならば、無関係のまま生きていくだけのことです。
「ある」とか「ない」とか議論をする意味さえもなく、自分がどちらを選ぶのか、それだけです。
私たちには選ぶ自由はあるのですから、どちらを選ぼうと自由であり、選んだことへの責任を負えばよいのです。
真実への扉は・・・本家にある
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huujin1214 at 17:03|Permalink│Comments(0)│
2013年06月26日
『幸せになる権利と義務』
生まれ育った環境によって、積極的に生きていくことができないという人もいます。
不幸としか言いようのない環境に生まれ、生きていて楽しいとか、嬉しいという感覚さえも判らないという人生は、辛く苦しいものなのでしょう。
もしかすると、辛いとか苦しいという感覚さえも抱かないのかもしれません。
親になれない親の元に生まれた不幸、これは変えようがありません。
なかったことにはできない上に、そこで育つことによって身につかなかった大事なこともあるでしょう。
自分がこういう親にはなりたくない、と思ってはいても、同じような道を歩む者もいれば、思いを叶えて違う道を歩む者もいるでしょう。
環境というものが人生を大きく左右するのは確かですが、環境に流れされてしまう者とそうではない者に分かれるのも確かなのです。
どちらになるのかは、それぞれの決意とその後の行動によります。
また自分という人間を温かく見守り、的確なアドバイスや指導をしてくれる人に出会えるかどうかも大切です。
たった一人でがんばっていくのと、指導してくれる者がいるのとでは、時間的にも効果的にも差が出てきます。
不幸の連鎖を断ち切ろうとがんばり過ぎて、一人の世界に落ちてしまうと、自分が同じ道を歩いているのに気づかないことがあるのです。
自分が理想とする家庭を持つ人、尊敬できる人、そういう人たちに相談や指導をお願いすることができれば、自分では気づかない環境による誤りを正す近道になると思います。
ただし、その際に卑屈な気持ちは絶対に持たないこと、もしそういう気持ちが湧いたら打ち消すことです。
「あなたにはわからない」という気持ちは、何の役にも立ちません。
むしろ、そういう気持ちを抱いていては、相談にのる人もアドバイスをくれる人も、一歩引いてしまい、決して親身にはなってくれません。
違う家に生まれていたら・・・という気持ちが湧くこともあるでしょうが、過去は変えられないのです。
しかし、未来は変えられるのです。
まだまだ若いのに人生が終わったような気持ちで生きていくしかない人たちの不幸は、想像を絶するものでしょう。
しかし、チャンスはあるのだと知って欲しいのです。
そして、そのチャンスを手にできる権利もあるのです。
それを手にするかどうか、それ以前に放棄してしまわずに、飛び込んでください。
人生は楽しく、嬉しく、明るいものなのだと、知って欲しいのです。
環境によって失われた過去は取り戻せないとしても、これから先の輝く未来は誰であろうと手にする権利があるのです。
そのためにも、自分が変わるという決意とそれを実行する義務を果たすのです。
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不幸としか言いようのない環境に生まれ、生きていて楽しいとか、嬉しいという感覚さえも判らないという人生は、辛く苦しいものなのでしょう。
もしかすると、辛いとか苦しいという感覚さえも抱かないのかもしれません。
親になれない親の元に生まれた不幸、これは変えようがありません。
なかったことにはできない上に、そこで育つことによって身につかなかった大事なこともあるでしょう。
自分がこういう親にはなりたくない、と思ってはいても、同じような道を歩む者もいれば、思いを叶えて違う道を歩む者もいるでしょう。
環境というものが人生を大きく左右するのは確かですが、環境に流れされてしまう者とそうではない者に分かれるのも確かなのです。
どちらになるのかは、それぞれの決意とその後の行動によります。
また自分という人間を温かく見守り、的確なアドバイスや指導をしてくれる人に出会えるかどうかも大切です。
たった一人でがんばっていくのと、指導してくれる者がいるのとでは、時間的にも効果的にも差が出てきます。
不幸の連鎖を断ち切ろうとがんばり過ぎて、一人の世界に落ちてしまうと、自分が同じ道を歩いているのに気づかないことがあるのです。
自分が理想とする家庭を持つ人、尊敬できる人、そういう人たちに相談や指導をお願いすることができれば、自分では気づかない環境による誤りを正す近道になると思います。
ただし、その際に卑屈な気持ちは絶対に持たないこと、もしそういう気持ちが湧いたら打ち消すことです。
「あなたにはわからない」という気持ちは、何の役にも立ちません。
むしろ、そういう気持ちを抱いていては、相談にのる人もアドバイスをくれる人も、一歩引いてしまい、決して親身にはなってくれません。
違う家に生まれていたら・・・という気持ちが湧くこともあるでしょうが、過去は変えられないのです。
しかし、未来は変えられるのです。
まだまだ若いのに人生が終わったような気持ちで生きていくしかない人たちの不幸は、想像を絶するものでしょう。
しかし、チャンスはあるのだと知って欲しいのです。
そして、そのチャンスを手にできる権利もあるのです。
それを手にするかどうか、それ以前に放棄してしまわずに、飛び込んでください。
人生は楽しく、嬉しく、明るいものなのだと、知って欲しいのです。
環境によって失われた過去は取り戻せないとしても、これから先の輝く未来は誰であろうと手にする権利があるのです。
そのためにも、自分が変わるという決意とそれを実行する義務を果たすのです。
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huujin1214 at 15:46|Permalink│Comments(0)│