もりぞーの歩き方

なにごとも” 開ける ” 瞬間がおもしろい。サバ缶もいいがコーン缶もたまらない。そうだそうだ、たくあんだってきっとそうだ。最後、本体から離れる瞬間がすこしむずかしい。いつだって気合いが入る。力んでもいけない。白い服を着ていたら着替えるか、クリーニングに出す覚悟をしよう。そんな間にも布団はダニの温床となっている。そんな大学生です。

そろそろ「大学生」と言うのはやめます。
でも大学生はやめません。
そろそろ「世の中に夢や希望があふれている」と言うのもやめます。
でもこのブログはやめません。
いたしかたがない。ことばがあるもの。

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赤瀬川 原平『ぱくぱく辞典』をご存知だろうか。


同じ寮のタイ人留学生と西荻窪で奇怪なラーメン「パパパパパイン」を食べた後散歩してる途中によった古本屋で見つけたのがこの本である。




明解 ぱくぱく辞典 (中公文庫)
赤瀬川 原平
中央公論社
1998-12




”<美味い>も<不味い>もとことん嚙み分ける、独創的食味辞典” である。



辞典にして895+税は破格ではないだろうか



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たとえばこんな感じである。


律儀にあ行から五十音順に並んであり、「シ」なら【シューマイ】と始まる。シューマイの幕開けである。


写真の左ページを見てみよう。


「シュークリーム」の項目の丁寧なイラスト である。


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「シュークリーム」

シュークリームと鍋物の葱の共通点。

どちらも油断して食べると、ピュッと中身が飛び出すので危険。

ちゃんとした大人はもうそういう ことを知っている。

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わりとグダグダと書き連ねられていく(それはそれですごい)のだが、 さすが作家である。

シュークリームに「鍋物の葱」をかけてくるあたりさすがだ。

最後の「ちゃんとした大人はもうそういう ことを知っている。」と余韻をもって結ぶあたりもいい味がにじみでてる(食べ物辞典とかけまして)





とまあこんな風にわずか数文でただの食べ物もストーリーをもって味わえるのがこの本のうまみである(食べ物 辞典とかけまして)


というわけで


ためしに僕もやってみよう。



<もりぞー編>

【駅弁】

高い。駅弁と聞いただけでちょっとした高級感である。

駅弁ときけば車窓が浮かぶ。新幹線の窓に、ローカル線のボックス席。窓のない駅弁の景色は、かえって想像しづらいだろう。 


【うどん】

うどんほど太い麺があるだろうか。想像してみたところ、ちょっと浮かばない。

そして腹にたまる。というわけで常食している。節約である。

よく人にいう話に「うどん派か、そば派か」という議論がある。

僕の回答は

「安いのはうどん、高いのはそば」

が正解である。

うどんは安くてうまい。

そばは安いと自分で作っても変わらないくらいだが、高いのはちょっとした驚きを覚えるほどである。



それでは作家のお手本をみてみよう。



<赤瀬川編> 

【駅弁】

最近は新幹線など、駅に停っても 窓ガラスは開かないようにし、停車時間もほとんどなくして、駅弁を締め出してしまった。

結局は客室内におびき寄せて売り歩くようにしたのだけれど、そうすると駅弁の感じがしない。列車弁か。


【うどん】

これはまあお昼の二番バッターだろう。一番トーストにスープで会社に出たところを、お昼にはとりあえずうどんがバントしてセカンドへ送る。あとは三番か四番がドカンと一発。これがつまり夕食のトンカツやステーキである。

うどんとはそういうものだ。とりあえずバントしてセカンドへ送る。とりあえず。うどんはとりあえずの食品である。





流石である。

うどんはなかなかに秀逸だ。





この本を買った直後にこれを見たタイ人の友人に


「まだお腹がすいてるの?」


といわれたのは言うまでもない。 


そうそれは小学生のとき。



作文を書くのはその創造性の高さから難しく、カベの高さをひしひしと感じるものだった。

そんなときに必ずといっていいほど浮かぶのは、

「作文が書けませんってことを、書いたらいいのさ!」

というとあるマンガの主人公のセリフだった。



それから50年(は経ってない)。


最近はネタというネタがたまり、悩みらしい悩みもごろごろふくらみ、なんだかもういっそのことすべて忘れてしまったらいいんじゃないかという気がしてくるまでに「作文が書けません」という状態なのだ。

いや、もう書く以前の段階で「まとめるのも面倒です」という状態なのだ。

 (実際まとめる作業が書くことの大半だったりする)




なのでもう、まとめようともまとまらないものは、そのまま出してみることにした。



という浅知恵です。




ご容赦くださいませ。



こうご期待。



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代々木公園にて。



 念願のフジロックへ行った。まず間違いなく今までで一番のフェスだったし、そして同時になんだか音楽がよく分からなくなってしまったフェスだった。

 

それはそれはすごい豪華なラインナップと苗場の山奥という場所の雰囲気のよさはたまらなかった。バスの中から初めて山の傾斜にずらりとならぶテントを見ただけでもなんだか期待させるものがあった。夏真っ盛りではあるが、標高が高いので昼間でもそこまで暑すぎるということもなく、日も暮れると少し肌寒いくらいである。
 

今回は一人で、ホテルでのアルバイトを兼ねての参加だった。昼から夕方までホテルで働いて、それからフェス会場に向かうという流れ。昼間は多少なりとも暑かったので、見逃したバンドもあるが、3日間のライブ参加を考えると体力が消費されないし、むしろ良かったかもしれない。

 

記録がてら観たアーティストをひとこと付きで羅列してみる。

 

722日】

illion  :ゲストきてたあたりのタイミングがよかった

JAMES BLAKE :寝転がりながら聴ける幸せはヤバい

The Birthday :がなってる

SIGUR ROS :MVP

DISCLOSURE :クソたのしい

D.A.N. :シガーロスの後に聴いたのもよかったかもしれない。今後が楽しみ。

MURA MASA :どすこい。どすこい。

 

723日】

WILCO :おっさんかっけー

BECK :いい大人感がヤバい

細美武士 :これはあこがれる。

東京ホテル/toe :体感性がヤバい

Gateballers :ボーカリストと観客との闘争やら最前で男子が号泣してるわでなかなかにカオスだった。踊ってばかりの国の人がウキウキしてた。

 

724日】

Ken Yokoyama :ケンさんって顔はおしゃれな感じだよね

BEN HARPER & THE INNOCENT CRIMINALS :うんうん。

RED HOT CHILI PEPPERS :あの一体感とレッチリのおじさん感。

BATTLES :なんだあのドラマーww

電気グルーブ :なんだろうか、あの後夜祭感は

羊文学 :いいじゃん!CDもライブチケットも買ってしまった!

 

 

ざっとこんな感じ。こんなに走り回っていろいろ見れる元気がまだあってよかった。

 



 

たとえば、「踊れる音楽」とはある意味遠いような、Gateballersのライブ。彼らはすごくリラックスしていて、気が抜けていて、本気というか誠意があった。楽しい音楽だってもちろん好きだ。ディスクロージャーにせよムラマサにせよ、踊ってるからこそ感じられる楽しみがある。そう思っていた。「楽しめない」という意見に「踊ればいいじゃないか」という答えを返していたように。

 

つまり踊ることは意志をもったものであるし、意図的でもある。とはいいつつも自然と踊っていることだってもちろんある。結果どちらが出発点でもいい。

 

Gateballersはしっかりきかせていた。羊文学はごっちゃ混ぜの情報を彼女らの感性でひとまとめにぶつけることで、見ている人たちをハッとさせていた。バトルスはしっかりきかせた上で動きを生み出していた。しっかりきかせるとは気づいたら口を開けて聴いてしまっている瞬間の連続である。どうしようもなく応援してしまっている瞬間のことである。これはジャンルを問わないものであるし、そのときどきによって、ずいぶんちがうものである。

 

「フェスはいろいろあることがいいな」というのが今の感触。むしろ踊ることも、しっかりきくことも両方楽しめるフェスはだからこそ居心地のいいもの。アーティストはそれぞれに居心地のいいやり方で演奏し、それがひとつのジャンルになっている。シガーロスなんて弓でエレキギターを弾いていて音の輪郭もわけがわからないがヨンシーにはすごいフィットしてるし、結果としてそれもジャンルである。

 

声なんてみんな違うし、演奏技術だってグッとくるタイミングなんて全然違う。ちがいしかない。でもそれが演奏してる本人にフィットしているなと感じるときや、オーディエンスの息と演奏者の息が合った瞬間など、ピタッと音がかみ合った瞬間は、それはもう生まれ変わったときのような、眠りから覚めたときの気分のような、クッキリとした景色を見せてくれる。


 

 

そんな話を『本を読む本』(M.J.アドラー作)という本を読んでいるときにおもった。読書は積極的に著者とコミュニケーションをとろうとすることからその楽しさは生まれるし、音楽も同様にライブにいったり、歌詞に思いをはせたりしていることが楽しむ上では重要な要素だったりする。
 

ようは考えることが、深く理解することが、受け取って、消化する上で大事なのである。ただ読書と音楽が決定的に違うのは、音楽は「考える必要がない」という一点にある。考える必要がある場合もあるのだけれど。


 たまたまテレビでみたとき、CDショップで何気なく視聴したとき、フェスでふとステージ前を通りかかって耳にしたとき、瞬間で、1から10まで身に入ってくることがある。それはたった一言の名言にやられることにも似た、世界の変化である。

 

マス・メディアのように考える必要のない情報のパッケージ的なものがあふれている。発言力のある人の意見が正解になっていることも、誰にもかみくだれることのなかった言葉が回り回っているだけのことも、意志なんてもののないメッセージもある。もっと悪態をつけば人のコメントやらばかり読まれていたりするモノがあったり、みんなが同じであることが尊いというメッセージを拾って安心させる機能を未だに持ったモノがあったりする。そんな中で踊る(動く)ことはやってみて気持ちが悪いし、そんなものを毎日見させ続けられることはもっと気持ちの悪いダンスフロアでしかない。

 

もちろんそんなパッケージにあふれている中で、「考える」ことは、疲れるし、面倒だし、眠くなるし、重いものである。でもその中で真に楽しもうとする意志が、笑って見せる意志が、1から10までを身体に取り込める唯一の方法なのである。フェスに行って数万人の人の表情を見ているだけで、そんなことを切に実感させられた。

 

 

つまりそう、そんな風に音楽がよく分からなくなってしまったのである。

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