2009年04月30日

おわり

私という存在の終わり
希望を持つことの終わり
気にすることの終わり
疲れることの終わり
考えることの終わり
気を煩わせることの終わり
感じることの終わり
痛みの終わり
苦しみの終わり
悩みの終わり
終わりの始まりの終わり
迷惑をかけることの終わり
迷惑をかけることを申し訳なく思うことの終わり
自分に失望することの終わり
書くことの終わり
何かを残せるのではないかと期待を抱くことの終わり



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2009年04月20日

すくりーむ・おぶ・ざ・ぷれぜんす

過去に押しつぶされる。
過去は優しく、リアルで、また厳しい。
過去が現在を規定し、未来を志向する。

過去が追いかけてくる。

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2009年04月09日

体験してみたいもの

愛は不要。

愛は人間の行動という結果を理論付けする一つのモデルに過ぎない。
親切でも嫌悪でも怠惰でもSMでも、あるいはそれらの混じり合わせでも、人間の行動の説明は付けられるだろう。

それらは決して確かめられるものではない。
つまり、真に客観的な意味での意味は存在しない。

愛が脚光を浴びるのは、それがシンプルで、多くの人間にとって受け入れやすいからだ。たぶんそれは社会や法や秩序の維持に寄与する。

だから適度な愛の励行は良いことなのかもしれない。
何にとってか。たぶん集団としてみた人間にとっては。

このように科学とは、愛に疑問を持ち、愛を殆ど否定すらしようとすることである。
そして逆説的なことではあるけれども、この考えを理解し、受け入れることは、たぶん科学ではない。
なぜなら、自分でたどり着かないものは、理解できたことにならないからだ。

もし可能のであれば、私は愛を体験してみたいと思う。
これまで自分が体験したこともないような絶対的な、愛を。
文句なく、これは愛でしかないと認めざるを得ないような愛の体験を。

死すら包み込んで忌避することを忘れるくらいの愛の温もりを、この手に感じたい。

hydel at 13:32|PermalinkComments(0)

2009年04月08日

頭の中を何かで満たす必然性に駆られるので

やたら溜め込んでいる。
ソースはWikipediaと図書館、Newton。

主に宇宙論、量子力学、あと時間。

量子論的には無っていうのはありえないのだな、と。対生成と対消滅のつりあいが無らしい。では本当に何もない状態っていうのはありえないのか。陽子、中性子はもちろん、あらゆる媒介する素粒子も存在しない無。必然的に時間も意味を持たない、孤立する、あるいは消滅する無なんていうのはありえないっぽい。

不完全性定理により、波動関数は位置とエネルギーの存在確立レベルしか表せない。観測者効果によって、量子に影響してしまう。
シュレーディンガーの猫は面白い。パラレルワールド的な他世界解釈。観測した時点での波動関数の収束。そんなことは直観的にありえない。ミクロ系がマクロ系に変換される際の作用を何か見落としているに違いないと思う。

宇宙論ははっきりいって宗教だ。信仰の問題と言って良いように思える。

超ひもなんていうのはその最たるもの。超ひもで付加する次元が、高校、いや中学レベルの数学すら理解できていない自分には、「10次元も付けとけば格好付くだろう」と飲みながら適当に決めたように思えてならない。小さく隅っこに次元を丸め込むので認識できない、とかどこが科学なんだと思う。少なくとも意味とか神とか柔らかい物理定数系とか硬い物理法則系とか、次元に対して役割に応じた名前くらいは付けてあげようよ、理解されたいのならと思う。

ビックバン、インフレーションはまだいいとしても、サイクリックとかブレーンとかも、科学的なジェネシスに過ぎない。観測や実証の裏づけがないとまだお話しにならない感じ。
インフレーションについては、インフレーションしなかった部分はどうなったんだ?と思ったり。あと宇宙の外は、私たちに知覚できるできないはともかく、何なんだ?天国や地獄なのか?無なのか?ブレーン宇宙の言う重力だけに通すバルクなのか?

結局は人間原理と平凡原理、それと時間の因果律がポイントなのかな。
いつか平凡原理を捨てて人間原理を語りだしたら、それはもはや科学ではなく宗教だと感じるのは、直観的な誤りなのだろうか。一種の生命的な視点からの意識=観測バイアスなのかな。

時間の因果律を挙げたのは、テッド・チャンの「あなたの人生の物語」というSFの中でのETの印象から、人間原理には時間の因果律が必然的に強く結びついているように感じたから。正確には逐次性から生じる因果律。

認識することは救いなのだろうか。
認識することで、理解することで、世界ががらりと変わるのだろうか。何かが音を立てて崩れ、新しい何かが輝き始めるのだろうか。

自分にはどこかで認識することで、死など怖いものじゃないというメッセージを受け取りたかったようなきらいがある。

結論から言うと、科学はまだまだだ。
大して才能のない二流作家による新創世記(次週に続く)を読まされたような気分が残る。「で、結局どうなんだよ。有効なTOEが実証・観測までされたとして、で、それはどう俺に新しい世界観を、認識の変化を与えてくれるんだよ」とその二流作家の胸倉を掴んで問い詰めたい感じ。

結局、そういうことだ。
頭の中を満たす情報。それは少なくても確かにある役には立ったのかもしれない。死から気をそらす、という。

hydel at 17:50|PermalinkComments(0)

2009年04月07日

根本的なこと

話せば何でも解決するというのは幻想だ

うまく話すことができない
よくわからないんだ
喜びや悲しみ、そういったものが実感できない
それを持つということのイメージを再び手に握ることができない

時間には限りがある

でも今はただ生きていること、生き続けていること
それだけで精一杯だ

夢見るのは、理解されること
いつか
私の苦しみと、それへの私のささやかだったけれども抵抗が
理解されること

hydel at 00:07|PermalinkComments(0)

2009年03月13日

とぅー・びー

とぅー・びー・おわ・のっと・とぅー・びー
とぅー・びー・いず・ほわっと・とぅー・どぅー
どぅーび・どぅば・どぅー♪

生きるべきか死ぬべきか
知行合一
フランク・シナトラ

たぶん考え方は星の数ほどある。
頭ではそのことはわかるが、どうしてもそのことが頭を離れなくなる。
踏み切らない理由は、本当に数えるほどになった。
恐怖と、失敗時のリスク、それと申し訳なさ
でも申し訳なさは、それだけが今はどうしても日々の行動では示せない、自分の中の善なる部分、正しくあろうとしたいという表れと解釈してほしいという気持ちに負けつつある。

暗い中で、考える。

死とは何か。
魂は残るのか。もし魂が残るなら、それはとても残酷なことだ。一生以上に、負い続けていかなくてはならないなんて残酷すぎる。でもその責任を逃れたいと思う方が無責任なのだろうか。
私の中の何かを残したいと思うのならば、残したいと思う部分があるのならば、残したくない部分だってきっと残ってしまうものなのかもしれない。

死とはきっと何もできなくなることだ。
肉体を失い、魂だけが世界を彷徨うとしたら、魂は何の反応すら求める権利を失い、ただ「何もないが実はあるもの」として、漂う。
それはきっと果てしなく、終わりなく、限りなく、孤独なのだと思う。

自分の意思を実現し、その反応を見ることができない存在として流離うことの淋しさよ。

その意味で、今は半分死んでいる。
自分で自分を殺している。
肉体的な苦痛・恐怖さえ克服すれば、きっと本当に不可逆な死の中へ逝くのだろう。

死よ、どうか無の安息を約束してくれはしないか。

時として、「ああ、自分は明らかにこの世界でやっていけないな」と思う瞬間がある。
「こんな目にこれからも会っていくのは物理的に無理だ」と感じる。
それは私の弱さ。
そして弱さこそが私。

いま存在していることの特権、きっとそれは凄いことなのだろう。
いま、いや永遠にもはや存在しないでいられる特権、きっとそれはありふれたことなのだろう。
希望、強固な意志、秩序、そうしたものが輝いているように。
不安、諦め、倦怠、絶望、そうしたものがありふれているように。

理解しようと努めるな。
ただ為せ。己が為すべきだと思うことを。

hydel at 16:23|PermalinkComments(0)

ごー・まい・わーず・ごー

私の言葉たち、久しぶりだね。
元気にしていたかい?

いったいどれくらいの雨がここに降り注ぎ、
いったいどれくらいの雪がここに降り積もり、
いったいどれくらいの時の塵がここを漂ったのだろう。

昨日今日とは思わざりしも、私はやがて死ぬだろう。
どんな道筋であれ、それは避けられない。
でもたとえ私の肉体も魂も滅んだとしても
でもせめて私の言葉たちがどこかに残り、いつの日かの光と目を得るかもしれないという希望を抱くのは、生あるものとして、少し傲慢な欲求だろうか。

たとえ傲慢だとしても、それは今の私に残る数少ない希望だ。
だから私は今ここでここに戻って、だからこうしている。

ごー・まい・わーず・ごー
あんど・うぃる・げっと・ざ・でぃらいと

hydel at 16:00|PermalinkComments(0)排泄的散文 

2008年09月08日

詩篇第23篇

主はわたしの牧者であって
わたしには乏しいことがない。
主はわたしを緑の牧場に伏させ、
いこいのみぎわに伴われる。
主はわたしの魂をいきかえらせ、
み名のためにわたしを正しい道に導かれる。
たといわたしは死の谷を歩もうとも、
わざわいを恐れません。
あなたがわたしと共におられるからです。
あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。
あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、
わたしのこうべに油をそそがれる。
わたしの杯はあふれます。
わたしの生きているかぎりは
必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。
わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう。

hydel at 20:44|PermalinkComments(0)

2008年09月05日

悟りのようなもの

今こそハッキリ言おう。
どんなに取り繕ってみても、どんなに別の解釈を試みても、結局この世界はくだらないたわごとだ。
神などいない。何かを信じることほど馬鹿げたことはない。
そしてそのことに気がついた者は常識的な意味で、頭がおかしい。また、そのことに気がつかない者は、世界をさらに汚していくだろう。
生に意味などない。無から有に変わりさらに無へと帰る道筋が人生であり、それはこのくだらない世界の一部として、やはりどこからどう見ても、くだらないたわごとに他ならない。
絶望する頭脳を与えられたことを希望と捉えるのは狂気以外の何者でもない。この世界、そしてそれを構成する人間のくだらなさ、無意味さを証明して余りある。
だから、何を感じようと、何に苦しもうと、何に喜ぼうと、それはくだらなさのほんの一部として、取るに足らないものとして片付けるのが正解だ。
例えば、自分がいずれ自殺するだろうという予感。それは私においては苦しみだ。でも苦しみを苦しみとして捉える意味など、本来全くない。「くだらない」「たわごとだ」そう呟いてじっとやり過ごせばいい。
私の人生に意味などない。だから私の予感も意味など当然持ち得ない。天には何もなく、唾するだけ労力の無駄。全ての感覚や感情は、思考するエネルギーの塊としての個人の排泄物だ。
そして、そう願うのは個人の自由だが、死は安らぎなどではありえない。人生という無意味なたわごとの行き着く必然だ。世界が矛盾で満ち、破綻するのを食い止めるために必要な連続性の封印だ。

皆、一体何をそんなに真剣に捉えている?
このくだらないたわごとに真剣に向き合う価値がある振りを、なぜ皆はやめないのだろう。

本当に、全ては、くだらないたわごとなのに。


hydel at 23:21|PermalinkComments(0)考察系 

2008年08月23日

唐突に寒すぎだろ

セミ「みーーーんみー・・・」

セミ「あれ?」

セミ「夏終わったのか、じゃ死ぬか・・・」

hydel at 11:05|PermalinkComments(0)

2008年08月17日

のー・いめーじ・のー・らいふ

最寄駅に着くと、雨は小降りになっていた。
折り畳み傘は持っていたが、出すのが面倒くさかった。なんだって面倒くさい時は面倒くさいもの。
だから小雨の中を、家まで歩いた。iPodから音楽を流し、それを口ずさみながら。

お〜べいべ〜♪
あいぅぉな〜♪
あんどあい〜♪
ふぉ〜ゆぅ〜♪

目深にかぶった帽子が小雨を遮って、小雨が私の小さな口ずさみを、私以外には見えなくしてくれる。
気持ちよかった。色々妄想した。それもまたよし。

うつ病になると、簡単に恋愛してはいけないと思うようになる。
私が私でなくなる時がある以上、自分自身ですら、そんな自分のことを許せなくなるというのに。それを誰かに受け入れてくれと望むのは、余りにもリスキーだし、傲慢だし、これまでから学んでいなさすぎる。
私は時々自分が、世界が、全てが嫌になってしまう。たぶん君のことも含めて。でもなるべくそうならないように、努めたいと思ってる。そんな私ではダメだろうか。ダメだろうね。理性という名の自分自身がいつも彼女の代わりに答えてくれる。そりゃダメだわな。私も思わず微笑んでしまう。
無条件の愛、そんな宝物はめったにない。めったに出会えない。
でももし出逢えたら…そんなことを妄想するのは悪くない。うん、悪くない。

もし出逢えたら…

のー・いめーじ・のー・らいふ

でもたぶん、人とはそうして生きていくものなのだと思う。


hydel at 19:41|PermalinkComments(0)排泄的散文 

2008年08月16日

コリント人への第二の手紙 第12章1-10節

私は誇らざるを得ないので、無益ではあろうが、主の幻と啓示について語ろう。
私はキリストにある一人の人を知っている。この人は十四年前に第三の天にまで引き上げられた。――それがからだのままであったか、私は知らない。からだを離れてであったか、それも知らない。神がご存知である。この人が――それがからだのままであったか、からだを離れてであったか、私は知らない。神がご存知である――パラダイスに引き上げられ、そして口には言い表せない、人間が語ってはならない言葉を聞いたのを私は知っている。私はこういう人について誇ろう。しかし私自身については、自分の弱さ以外には誇ることをすまい。もっとも私が誇ろうとすれば、本当のことを言うのだから、愚か者にはならないだろう。しかしそれは差し控えよう。私が優れた啓示を受けているので、私について、見たり聞いたりしている以上に、人に買いかぶられるかもしれないから。そこで高慢にならないように、私の肉体に一つのとげが与えられた。それは高慢にならないように私を打つサタンの使いなのである。このことについて、私は彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。ところが主が言われた。「私の恵みはあなたに対して十分である。私の力は弱いところに完全に表れる」それだから、キリストの力が私に宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。だから私はキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら私が弱いときにこそ、私は強いからである。


hydel at 21:15|PermalinkComments(0)

ざ・ばーど・いん・ぴーす

とてもいつもとは違う二日間だった。その中心には甥がいた。汗かきで小さな甥は、誰かにいつも構ってもらいたがり、自分が皆の輪の中心にいないと気がすまない。そういうところは妹の子だなと思った。いや、自分自身を含めて我が家の子といったところか。また子供というのは、きっと得てしてそういうものなのだろう。でも甥は余りにも無邪気で生気に充ちているので、皆が自然と相手になってしまう。一言で言うなら、そんな二日間だった。

二日目、甥の走り回る声と物音で目を覚ました。自分の母親、祖父母、叔父がいることが素直にうれしいみたいだった。朝起きたらみんながいる、ワーイ!そんな感じ。
母が朝食を作った。久しぶりにちゃんとしたご飯と味噌汁な朝食を食べた気がした。腹がこなれた後、走りに行った。いつもの局数分、だからたぶんいつもの距離分。こっちとは違ってアップダウンのあるコースで、朝日が眩しかった。たくさん汗をかいた。シャワーを浴びてワイシャツに着替え、黒いネクタイを締めた。お坊さんが来て、祖母の仏壇で読経した。妹の膝の上で、しきりに甥が「まだー?まだー?」と言うので笑いそうになった。ずっと正座をしていた約20分ほど、足が痺れた。皆もそうだったみたいだ。お坊さんはこの付近のお寺の住職で、昔とはずいぶん変わってしまったと、回向が終わった後に出された麦茶を飲みながら語っていた。農家が減り、田んぼや畑が少なくなってしまったこと、昔は高台にあるお寺から近くの家が一軒一軒見渡せたことなどを。ちなみにこのお坊さんはBMWに乗っていて、息子は40代だが独り身らしい。

12時に和食レストランに行った。「前ここに来たね」と甥が祖母の一周忌のことを覚えていた。和食のコースを皆で食べた。甥の分は妹が分けて与えていた。甥は掘り炬燵の下へ隠れたり、机の周りをしきりにうろうろしては妹と母にたしなめられていた。食事を終えた私が煙草を吸いに甥を外に連れ出す途中、花が飾ってあった。その中に猫じゃらしがあって、甥が「ソーセージだね」と指差した。帰り道は運転した。ラジオが北島が金メダルを取ったと報じていた。帰ってピアノを弾いた。覚えている曲を弾いた。家のピアノは自分の部屋のより鍵盤が重かった。
皆で北島が200mを首位で泳ぎきる様子を繰り返し流すテレビを見ていた。そんな中、甥はしきりに誰かに構ってもらいたがっていた。なので妹が甥と一緒にお風呂に入りにいった。お風呂の中では甥はまだ妹のおっぱいを触っても構わないルールだとか。キャッキャッとうれしそうに甥は妹とお風呂に入りに行った。

空に黒い雲が広がっていた。遠くで雷が光り、土砂降りの雨になった。母が病院に行くために家を出る私のために、簡単な早めの夕食を作ってくれた。鶏肉を香草でいためたのと、ナスのみそ焼きと、トマトとチーズのサラダとご飯に味噌汁。さっき食べたばかりでそんなにお腹はすいていなかったのだが、いただいた。最近では食い溜めができる。まるでリスのように、冬眠前のクマのように。

食べ終わってベランダで煙草を吸っている時もまだすごい雨だった。地面に叩きつけるような雨しぶき、ピカッと雷が光る。おへそを隠さないと雷様がおへそを取りにくるよと甥に言うと、真剣に服の裾をズボンに入れていた。帰る前にシャワーを浴びようと支度をしていると、甥がそばに来て自分も入ると裸になり始めた。私が慌てて「さっき入ったばっかりじゃん。だからもういいじゃん」と言ったが、聞き入れなかった。妹も笑って、ただ浴槽に入れて遊ばせとけばいいからと言った。もし私がショタコンだったらどうするんだ。まったく。
私が髪を洗い、髭を剃り、歯を磨き、体を洗うためにシャワーを使う間、甥は浴槽の中でおもちゃを遣いながら、機嫌良く遊んでいた。ただ私がシャワーを使っていない間はカランから水を流していてほしいと要求した。甥にとってはそれは遊ぶために大切なことのようだった。だからその通りにした。
風呂から上がると、甥は体を拭いてもらいながら、なぜか私のソーセージについて妹母に報告していて、爆笑させていた。まったく、どうしてそういう話になるんだか。

再び煙草を吸いにベランダに出ると、雨はもうやんでいた。
目の前の電線に鳥が止まっていた。しきりに雨にぬれた体の身づくろいをしていた。私は椅子に座ってその様子を見ながら、煙草を吸っていた。豪雨が過ぎ去り、羽を休める鳥。
「お前が私の安息か」その鳥の様子を見ていて、そうわかった。その様子を残したくて、私はポケットから携帯のカメラを取り出し、写真に収めようとした。でもピントはなかなか合わなかった。その間に、身づくろいを終えた鳥は飛び立っていってしまった。そういうものだ。

先日死んだ猫にお別れをし、私は父の運転する車で駅まで送ってもらった。甥と妹も一緒に乗って送ってくれた。「ねえ、なんで叔父さんは病院に行くの?」と甥が訊いた。私がうつ病だと知っている妹が「おじさんは風邪を引いちゃったからだよ、ほら風邪を引いたらみんなお医者さんに行くでしょ」と言った。
車はやがて駅に着き、手を振って別れた。

まったく、なんで私は病院なんかに行くんだろう、甥にどう説明すべきだったのか、帰り道に考えていた。

それはこの世界が暗く冷たいところだからなんだよ、まるでさっきの強い雨の中のように。家を出ると外には闇が広がっているからだよ。闇はだんだんと人の温もりを奪っていくんだ。そして人が生きる以上、外に出るのは避けられないことなんだよ。だから叔父さんは少しでも温もりを獲られにくくするために、病院に行くんだ。病院にいくとね、守ってくれるお薬がもらえるんだよ。
でもね、恐がる必要はどこにもないよ。闇が冷たければ冷たいほど、暗ければ暗いほど、雨が強ければ強いほど、安息はその中で暖かく輝くのだから。

でもたぶんそう説明しても、まだ甥には分からなかっただろう。私だって正直、まだ良く分かってなどいない。
ただ安らぎが安らぎとして、その暖かさや輝きが、ずっと残ってくれれば良いなと思った。
甥の中に、私の中に、家族みんなの中に。
いつまでもいつまでも。

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2008年08月12日

ざ・さいん・おぶ・さいん

あるとき信号機に訊いてみたことがある。

「どうして誰もいないのに、誰も通る気配もないのに、それでもあなたは定期的に色を変えてサインを送るのですか?」

「私はある目的に基づいて作られました。『安全』です。安全であるためにはどのような突発的事態にも備えなければなりません。準備は常にされていなければならないのです。だから誰がいつやってきてもいいように、私は常にサインを出し続けています。そうすることが最も安全に寄与する方法なのです。私たちの内の誰も、そのことに疑問を感じたことなどありませんよ」
信号機はそう言うと、誇り高く微笑んだ。

彼のその目的と信念と自信が、私には羨ましくてならなかった。


hydel at 22:05|PermalinkComments(0)( ´ー`)y-~~ 

セックスを想うマスターベーション

すごく和解したい相手としてのセックス。

確かにかつて私はセックスを軽視したことがあるかもしれない。それは道徳に優先順位上劣るもので、性欲の奴隷に繋がり、自分を卑小化してしまうと捉えたこともある。

セックスはそんな私のことはもう見捨てて、私の人生をもう通り過ぎて行ってしまうとしているのかもしれない。エロいのを観て抜き終わった後、一人で生きる限り、これからも自分はこうして行くのだろうと思いながら、私は遠く離れてしまったセックスとの距離のことを思う。

===

ただ彼女の中に宇宙を見たかった。
この取り止めのない、騒々しい世界の中で、静寂と安らぎがほしかった。
もし彼女も私の中にそれを見出してくれるなら、嬉しい。そして二人きりで何もかも忘れて踊りたかった。過去も未来も現在も、全てどこかに残して彼女が与えてくれる快感とその余韻に没頭したかった。

この世界は糞だ。ゴミ溜めだ。そんなことはわかりきったことだ。ある程度分別がつけば、真っ先に知ることだ。だからせめて彼女との間に美しい安らぎの一時を作りたかった。
「なんて青臭いの?」彼女はそう笑った。「でもそれは君の求めることでもあるんじゃないのか?」そう尋き返すと、返事をする代わりに彼女を私を胸の中に抱いた。

そうして二人で快楽の世界に戻った。
彼女は普段は聞かせない声を上げて私を楽しませてくれた。私はそれをいつまでも聞いていたいと思ったから、指先と舌と彼女の反応に意識を集中させた。やがて彼女が求めているのがわかった。私は自分のものを彼女につなげた。彼女の中は暖かかった。それで自分がこれまでいかに冷たいところにいたかわかった。私は腰を動かし始めた。ゆっくりとゆっくりと。徐々に大きく突き上げるように。
彼女の反応はダイナミックでリズミカルになっていった。私たちはつながっていた。たぶんあらゆる意味でつながっていた。
彼女のあげる声はまるで音楽のようだった。私は腰のビートで参加。この宇宙があれば、他の宇宙のことはどうでも良かった。私は腰を動かし続けた。
その時がきた。私は彼女の中に放出した。恥ずかしくなるくらい自分の中のものを彼女にぶちまけた。彼女はそれを受け止めた。全てのことには始まりがあれば終わりがある。
彼女をいとおしく思った。でもそれを口に出した途端に全てが嘘くさくなってしまうような気がした。だから抜かないそのままの体勢で、彼女を抱きしめながら、ただこう言った。

ありがとう。

===

こんなふうに理想的じゃなくてもいい。もっと人間的で、現世的で、汗まみれでいい。
たぶん準備はできていると思う。

ただ、セックスが、したい。


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2008年08月09日

ある睡眠導入法の作用機序

時は飛び、人はそれを追い、それに追われる。
人生は一つの大きな苦しみなのかもしれない。地獄の業苦とはこの世界に生きることこそ、それなのかもしれない。特にその人間がうつ病的に死に捉われている時には。

そうした中で、眠ることは唯一といっていい救いだ。
眠りの中で、私は直接この世界との対峙をまぬがれる。眠るというのは、まるで私が私自身というシミュレータを作って世界に対峙させているかのような感覚に思える。もちろん悪夢もある。だがそれは結局夢だったと置いておける。そういう救い。

だがどうしても眠りに入っていけないこともある。この世界が私を捉えて離さない。私は非当事者としてこの世界から夢に抜け出すことが許されず、悶々と布団の中で過ごす時間。それはとても憂鬱だ。

だが幸いなことに、私は一つとても有効な睡眠導入法を見つけた。
それはデパスよりも、レキソタンよりもハルシオンよりもサイレースよりも、それらを合わせて服用したのよりも、よく効いてくれる。とても個人的に限定された効果なのだが、それは私には時に十分に作用する。

それはヤツと一緒に眠ることだ。
ヤツはもうこの世界に生きる猫ではない。先日、死んでしまった。だから正確に言うのなら、ヤツの思い出と共に眠ること。

その作用機序。
私は目を瞑る。そして初めてヤツと一緒に眠った時のことを思い浮かべる。
あの頃、ヤツはまだうちには餌を貰いに来るだけのよその猫だった。外でニャーニャーと鳴いて、誰かが扉を開くと、スルッと入ってくる子だった。鯵が好きで、ドライフードを混ぜたものを興奮してフガフガ言いながら食べる子だった。
ある朝、いや正確にはある昼、私が寝坊して目を覚ますと、足元がなんか重たく暖かかった。そして目を覚ました私と目が合うと、自分がそこにいるのはさも当然であるかのようにニャーと鳴いた。それ以降、あの子は私の布団に入ってくるようになった。
目を瞑れば、今でもヤツの重みを、温かみを、足元に、そして腕の中に、胸元に、感じることができるような気がする。冬は暖かいけれど、夏は暑苦しくてたまらないヤツのことを。
目を閉じたまま、私はそっと優しくヤツを撫でてやる。そのモフモフの毛皮を。ヤツがゴロゴロ言うので、私はいつまでもいつまでもそうしていてやろうと思う。

そして二人でこの世界から眠りへと落ちていく。
安らかに、穏やかに。

hydel at 11:03|PermalinkComments(0)( ´ー`)y-~~ 

弔辞に表れる感情と勘定

赤塚不二夫に対するタモリの弔辞を聞いた。

ちょっと感動した。
この人は頭の中が整理されている人なのだと思った。
自分の考えを、自分の思いを、スッキリと素直に表現することのできる人なのだと。

人と人との関係というのは大抵において複雑だ。
そこには陽の面だけでなく、少なからず陰の面、負の感情も少なからず存在する。
でも誰かが死んだ時、相手に対して残る感情こそがきっとその人に対する陽と陰の勘定精算なのだろう。
タモリの赤塚不二夫に対する思いは、見事にキレイに陽にそして感謝に纏まっていた。

この部分が好きだ。
「あなたの考えは、すべての出来事、存在をあるがままに、前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は重苦しい陰の世界から解放され、軽やかになり、また時間は前後関係を断ち放たれて、その時その場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは見事に一言で言い表しています。すなわち『これでいいのだ』と。」

私が死を迎える時、残された誰かが私に対してこのような総括をしてくれたら、どんなにか晴れがましいだろう。

人はいずれ死ぬ。
死んだ後の評価、人として他人の中に残る記憶、私たちはそうしたものを意識してもっと生を歩めたなら、この世界はもう少し良い世界になるのかもしれない。

hydel at 10:44|PermalinkComments(0)

2008年08月04日

自殺者による福音書 第2章20-86節

突如として私は死の中にいた。自分が死んだことを知った。
光の中に神がいた。その全能さによって、神が神だと明確にわかった。

神は私に、これまでの私の人生を最初から見せ始めた。いわゆる走馬灯というやつだ。
それはとても詳細で圧倒的だった。私は思っていた以上に多くの人から愛されていたことに気づかされた。その人たちのことを思うと、涙がポロポロとこぼれて止まらなくなった。
そしてまた、思っていた以上に多くの人に迷惑をかけたこと、思っていた以上に多くの人たちに憎まれてしまったことにも気づかされた。その人たちのことを思うと、申し訳なさで胸が苦しくなった。
プラス・マイナスで差し引き計算するとどっちに転がるのでしょうか?
神にそうたずねたかったが、なんだかそうしてはいけない気がした。

なぜか、神は私に最期のシーンを見せてはくれなかった。
ただ「知れ」と言われた。

すると、それまで私を包んでいた眩しい光が徐々に薄れ、私は自分が今まで生きてきた世界に引き戻されつつあるのだとわかった。嫌だった。もっと神に尋ねたいことはたくさんあった。自分にはそれだけたくさんのことを尋ねる権利があるような気がした。

目を覚ますと、布団の中にいた。病院のようだった。
看護婦が来て、私に何かをしていった。

何日間、私は眠っていたのだろうか。
どうしても何があって自分が一度死んだのか、私には思い出せなかった。

煙草が吸いたかった。「ここは病院です。煙草だなんてとんでもない」と看護婦が色をなした。
看護婦が持ってくる薬は変な色をしたピンクと白のカプセルで、うっとうしくて、そんな薬を飲みたくなんかなかった。「どうしてもこれは飲まなくちゃいけません」看護婦は強くそう言った。

そういう憂鬱な日がしばらく続いた後、私は看護婦に、なぜ自分がここにいるのか、尋ねた。
「そうか、思い出せないんですね」彼女は頷いた。そして話してくれた。

私が自分の部屋で多量の抗うつ薬を飲んだこと、その後でそれらを吐き、どうやら自分自身で119番し、この病院に担ぎ込まれたこと。そして手当てを受ける中、一度心臓が止まり、死んだと思われたこと。そしてその後にまた蘇ったことなどを、彼女は淡々と話して聞かせてくれた。

ようやく私は全てを思い出した。
自分が死にたくてたまらなかったこと、死こそが全てに対する唯一の最終的解決法に思えたこと、もう生きていることに耐えられなかったことを。

そして知った。
たとえ私自身が死のうとしても、身体はまだ生きたかったこと。私とはこの身体でもあるということ。この身体が私を、私の全人生を常に一緒に支えてくれていたことを。
だからとりあえず生きなければならないこと。そして身体のことを考えなければならないこと。
そして本当にこの身体が衰え、また神に全てを見せてもらった際に、この身体のためにできるだけのことはした、そう思えるように生なければならないことを。

私は知った。


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彼女のかわいくないかわいさ

すごくかわいい彼女。

ずっと夢見てきたことがかなう。彼女と一夜を過ごす。彼女はどこまでも魅力的で、仕草、表情、体つき、雰囲気、その何もかもにすっかり魅了されてしまう。
まるで夢のような素晴らしい一夜を過ごし、朝目を覚ます。

彼女が洗面台で顔を洗っている。
洗いながら水が鼻に入らないように、彼女はブゥーと息を鼻から吹き出している。水をザバアと顔にかけ、手で顔をザブザブゴシゴシと擦る。鼻から息をブゥーと吹き出しながら。

その鼻からブゥーがたまらなくかわいくなかった。
そのかわいくなさと、それまでの彼女の仕草のかわいさ全てとの間のギャップがたまらなくおかしかった。

私は笑い出してしまう。
始めは抑えていただが、やがてそれは大笑いになり、彼女が顔を洗うのをやめて不思議そうに私をじっと見ているのに気づく。
爆笑しながら、自分が何で笑っているのか、彼女に説明しようとする。

「だって…だって、それまでの君は完璧だったのに…なんで…なんで顔を洗う時だけは鼻からブゥーなわけ…」
そう言いながらもおかしくておかしくて、笑いをこらえることができない。

そんな私を見ながら彼女は頬をふくらませる。
その仕草がまたたまらなくかわいくて、私はまたおかしくなってしまう。

だって顔を洗う時だけは鼻からブゥーだなんて…おかしすぎる…


hydel at 00:10|PermalinkComments(0)( ´ー`)y-~~ 

2008年08月02日

アイアムレジェンド

これは名作だと思う。

話のストーリーに辻褄の合わないところはある。?な部分もある。でも結局好きか嫌いか、関心を持つか持たないか、どちらかに分類するならば、私はこの映画が好きだし、関心を持った。というか頭から離れなくなった。発端はサムの死ぬシーンが余りにも泣けたからだが、よく観ていくと実は、恐らく多分にうつ病的な世界観が投影されているからだと思う。うつ病というものについて理解したくなったならば、この映画を観た後に感じることがきっと大いに参考になる。いや皮肉な意味ではなくて。
『28日後』『28週後』とか『バイオハザード』とか、ウィルス・ハザードものにはうつ的世界観が少なからず投影されると思うが、これが一番しっくりきた。

映画は、人生とリンクする。
今の私の人生をまるで表しているかのような、そんな映画だ。
だから名作だと感じた。
たぶんこれからも何回も何回も観てしまうのだと思う。

サムはウィルスミスを守って死ぬ。
なんど観てもそこで泣いてしまう。

世界は凶悪なウィルスに罹った人間で満ちている。とても危険な場所だ。特に日の差していないところは。
私たちはそこで行き抜かなければならない。
もし生きようとするならば。そして自分の愛する人、自分を愛してくれる人は皆どのような形であれ、いつかはいなくなってしまう。

ウィルスミスがサムを洗ってやるシーンが好きだ。
スリー・リトル・バードを流しながら、サムの体を愛おしく洗ってやるシーン。
世界はきっと良くなる。きっと良くなっていく。
その歌が流れる中、ウィルスミスはぼうっとする頭、恐らく絶望で一杯になってしまう頭から覚醒し、窓や扉、世界との扉を全て閉ざす。
そしてサムと銃を抱いて眠る。そして過去の夢を見る。そしてまた次の朝、日が差し込む中、目を覚ます。

ウィルスミスは自分が世界を救わなければならないと感じている。
自分を特別な人間だと感じている。自分は孤独だと感じている。自分は唯一の生存者だと知りながら、それでもほかの生存者がいるという矛盾した希望を抱いている。生存者というのを、正常者と言い直してもいい。そしてこの世界に矛盾していない希望など果たしてあるのだろうか。

サムの演技がとてもいい。
研究室に入らずにお座りしたり、ウィルスミスを守って怪我をしたり、抱かれて眠りながら耳をそばだてたり、ランニングマシンで一緒に走ったり、誰もいない部屋を制圧するときにウィルスミスを援護したり日なたで寝転んだり、ぼうっとするウィルスミスに吠えて目覚めさせたり、そして何より野菜を足でどける演技。
ウィルスミスにとっての世界はうつ的世界だが、きっとサムにとっての世界はウィルスミスであり、それはウィルスも何も関係なく、以前と同じようにきっと存在しているのだろう。

たぶん人と動物は分かり合える。人は動物のために、動物は人のために生きることができる。たぶん。

私にとっての収穫は、ボブマーリーのこの曲に出逢えたことだ。

人は皆マネキンに話しかけるのと変わらない。
人は、何かをその時の気分や理由で選んだ気になっていたとしても、結局は皆CD屋や本屋の棚の陳列を順に、鑑賞していくようなものだ。

ウィルスミスはサムを亡くした後、実際に想いを抱いているマネキンに話しかけ、告白する。
恋愛などはただの人間の感情の病的な波であり、マネキンはマネキンであると知りながら、それでもウィルスミスはそうしてしまう。たぶんそれが人間というものなのだろう。埠頭で待ち続けるにも。

このリアル世界で私が彼女にそうしたように。そして彼女から何も返事がないように。返事なんかあるわけがない。それがあるのは映画の中だけだ。妄想の中だけだ。ハローと言ったってハローという返事を貰えることなんて、いったいどれくらいあると言うんだろう。
そしてその時に真の孤独を感じてしまう。救いようのない、癒されようのない真の孤独。
映画にしかない救いと言うものの現実感のなさ、辻褄の合わなさ。そういうリアルさが、そのうつ的なリアルさが、たぶん鑑賞に値するんだと思う。


hydel at 19:15|PermalinkComments(0)映画感想 

2008年07月06日

∪・ω・∪ すげ!すげ!

犬というのはやたらテンションの高い動物だ。
もし彼らが言葉を喋れるとしたならば、二言目には「すげ!」と言うんだろうなと思う。

散歩を始めれば
「すげ!散歩行くのかよ。やべ興奮する。息荒くなるぜ。はあはあ。すげ!電柱じゃん。すげ!俺じゃない奴の匂いとか付いてるし。すげ!ありえないし。ここはまた俺の匂い付けとくしかないじゃんか」

車が走ってくれば
「すげ!なんか物凄い勢いで走ってくるし。やたら早いし。すげ!びゅんびゅん言ってるし」

別の犬と出会えば
「すげ!なんか向こうから犬が来るし。すげ!やたら挑戦的だし。すげ!吠えてきてるし。すげ!すげ!わんわん!」

もういっそ「わんわん」じゃなくて「すげ!すげ!」を鳴き声にすればいいと思う。

私の印象に残っているのは、ある幸せそうな犬のことだ。
道を歩いていると、ある夫婦が犬を連れて散歩していた。私とすれ違いながら、奥さんが散歩できてうれしげな犬の息遣いと顔つきを、茶化して真似して、旦那さんにやって見せ、旦那さんが笑い声を上げた。犬ははあはあと嬉しそうに、目を輝かせていた。
愛され、きっと死ぬまで穏やかに生きる犬。散歩のたびにうれしげに歩き、きっと夫婦二人が一緒に散歩してくれれば、それだけで彼は有頂天になる。
たったそれだけのことなのに。たったそれだけのちっぽけな幸せなのに、彼は私なんかより、そして世の中の大部分の人間よりも、ずっと幸せに見えた。



hydel at 18:41|PermalinkComments(0)

2008年06月25日

ぐっど・もーにんぐ

下半身がむずむずする。
やたら気持ちいいので、まどろみながら、覚醒と夢見心地の間をゆらゆらする。

目を開けると、私は下半身には何も付けていなくて、彼女が私のペニスを咥えている。
目が合うと、彼女はいたずらっぽく笑う。咥えたまま「おひはんはれ」とかなんとか言う。「起きたんだね」なのかな。涎が朝の光にキラキラと光りながら私の股間に垂れる。
彼女は口を激しく動かし始め、気持ちがいいので私はこれを素敵な夢だと受け取ることに決める。だからもう一度目を瞑る。そしてできるだけ夢の中に留まろうとする。
世界は私と彼女だけ。私のペニスだけがその接点にあって、全世界を代表して彼女が私を受け入れてくれる。その証しがこの快感。ペニスを通じて彼女の唇に私は支配されていく。
彼女は手を使って休みながらも、時々思い出したようにまた、唇と口全体で私のペニスをしごき始める。最初はゆっくりとそして徐々に早く。そのたびに何度も押し寄せるイきたさを、私は後ろに受け流す。ゆっくりと、そして早く。ゆっくりと、そして早く。まるで海の波のように。私に快感の波が寄せては返し、寄せては返す。

そして数え切れないほどの波の後で、ついに、受け流しきれなくなった私のペニスは、イってしまう。
もう限界を超えた私の腰がたまらずに躍動し、押さえきれなくなった精液が、熱いほどばしりとなって、彼女の口めがけて飛び出していく。私は声をあげてしまう。ペニスが全てを出し切るまで、私は大きく呼吸しながら彼女の口の中に自分の温もりを全て移そうとする。光が私の頭の中を真っ白にし、私のペニスに当たる彼女の舌の感覚が柔らかくも硬い。

目を開けると、眩しい朝の日差しを背にして彼女が口の中を私の精液でいっぱいにしながら、その唇でこう言っていた。

「おはよう」


hydel at 13:05|PermalinkComments(0)エロ系 

2008年06月23日

ぬこに関するコピペ

(´・ω・`) ああ・・・身体冷たくなってきちゃったな・・・・

(´・ω・`) なんだよ、泣くなって、俺が先に逝くのが当たり前じゃん

(´・ω・`) ・・・・・幸せだったぜ

(´・ω・`) なぁ・・・、泣くなってば

(´・ω・`) 俺充分生きたんだぜ、20年だぞ20年

(´・ω・`) あとな、俺が死んだら代わりの猫飼え、これ最後の命令な




(´^ω^`) おっ、兄弟が迎えにきた、子供のとき以来だな
(´-ω-`) じゃあもう行くぜ
(´-ω-`) ありがと・・・な・・・・・
(´-ω-`) ・・・・

(´-ω-`) ・・・・

猫缶< パキュッ
(`ФωФ') カッ



ニャー    ニャー
  ∧_∧  ξノノλミ
 (。・ω・) ξ`∀´ミ
〜(_uu) 〜ミ_uuミ


たんすけ
11年前の2月、何も無い湖の駐車場でガリガリの猫が寄ってきた。
よろよろと俺たちの前に来るとペタンと腹をつけて座った。

動物に無関心だった俺は「キタねー猫だな」と思っただけで、他に何とも思わなかった。
猫を飼っていた彼女がその猫を撫でながら言った。
「こんな所にいたら病気で死んじゃうね」
単細胞の若者だった俺は頭にきた。
「何、こいつ病気なのか?死ぬと分かってて放っておくのは殺すのと一緒だろ!
何言ってんだオメー」

ドライブは中止。そのまま膝の上に乗っけて車を運転して帰った。
顔は目ヤニだらけ、鼻水で鼻はガビガビ、尻から出てきた回虫が俺のズボンの上を這っていた。
くしゃみで車のドアはベトベト、コホコホ咳をして、痰でゴロゴロいっていた。
「どうするの、その子?」
「治るまで俺が飼う」
「じゃあ名前は?」
「うーん…痰が詰まってるから…痰助」
「変な名前」
「うるせー」

獣医に寄って虫下しと風邪の薬などを貰って帰った
風呂場で綺麗に洗って、とりあえずシシャモとちくわを食べさせた、腹がカチカチになるまでがっついていた。

ペットは駄目なマンションだし、治って暖かくなったら逃がすつもりだったが、1週間で方針を変えた。
あっという間にまるまると太り、誰が見ても目を細めるような人懐っこい顔になり、夕方になると俺の帰りを玄関に座って待つようになった。


もともと飼い猫だったようで、トイレは最初からできた。車に乗るのが好きな変な猫だった。
人間も同じだろうが、食べ物で苦労したせいか、すごい食いしん坊だった。
冷蔵庫が開く度にダッシュで駆けつけ、何もくれないと分かると、わざと歩くのに邪魔な所に寝そべって俺に抗議した。
かつては歴戦のツワモノだったようで、耳は食いちぎられて欠け、しっぽは折れたまま曲がり、ケガの跡のハゲがあちこちにあった。

当時は分からなかったが、そうとう歳をとった猫だった
歯が何本も抜けていて、筋肉も細かった、一日中じっとしていた、食べる時以外に走ることはなかった。

ちょうど一年後、俺は痰助の誕生日を勝手に決め、仕事帰りに誕生日プレゼントとして一個千円のカニ缶を買って帰った。
普段は脇目も振らずに食べる痰助が、その日は一口食べるごとに俺の顔をじっと見ていた。
「なんだよ、俺でも食った事ないんだぞ。早く食わないと俺が食っちまうぞ」
いつもどおり缶の底がピカピカに光るまで食べたのだが、無理をして食べているように見えた。

誕生日の二,三日後、食欲が無く朝からぐったりしているので、いつもの獣医に連れて行った。
検査の結果、腎臓がかなり悪い事が分かり、即日入院となった。

先生が抱き上げようとすると、必死に俺の肩に登ろうとした。
先生に抱かれて診察室の奥の部屋に行くとき、ガラスのドア越しに見えなくなるまで俺をじっと見続けていた。

あのときの哀しい眼差しを、俺は生涯忘れる事はないだろう。

雪のちらつく朝、痩せた体に一輪の花を乗せて、痰助は大好きな車で俺と一緒にうちに帰った。
大工の弟に頼んで作った小さな棺に俺の写真と大好物だったちくわを入れて、痰助に出会った湖の桜の木の下に埋めた。
 
今となれば分かる。
湖からの帰り道、あれは痰が詰まっていたのではなく、嬉しかったんだと。

今日も壁に掛かったコロコロのたんすけが行儀良く座って俺を見ている。


hydel at 23:09|PermalinkComments(0)

2008年06月22日

Cause every little thing is gonna be all right

若い頃は、無茶をした。
まだ肌も張りを保っていた頃、まだ自分が何でもできると思っていた頃。自分がそれなりに魅力的だと思っていた頃。自分が世界を変えられると思っていた頃。
きっと誰しも若い頃には無茶をする。自分以上の自分を夢見る。まだろくに飛び方も知らないのに、羽ばたこうとする。
あたしの場合は、どうしても海外で勉強がしたかった。だから必死の思いでお金を貯めた。
そのためにはあらゆることをした。自分の体を売ることもした。
そのことをいま、恥ずかしく思っているか?いないと言えば嘘になる。
でも自分が今の自分なのは、あの頃があったからだと思う。
そして今の自分が不安定なのもきっとあの頃があったせいだとわかってる。
自分自身の過去を許せる時もあれば許せない時もある。きっと誰しもが、そういう過去を抱えているのだろう。

その中で、どうしても忘れられないことがある。
ある一人の客のこと。彼の求めたことと、あたしが与えようとしたもののこと。その客はあたしのことを気に入ってくれたみたいで、全部で10数回あたしを呼んでくれた。

彼があたしを呼ぶ時には決まって雨が降っていた。
彼の服装や部屋の様子、2時間という結構長い時間分の料金を払うことからして、彼は経済的に満ち足りているみたいだった。
いつもスムーズにお金が払われ、二人でシャワーを浴び、ことはたいていすぐに終わって1時間以上の時間が余った。
もっともただ淡々とセックスだけをしていたわけではなくて、どうでもいい話をしたり、テレビを見たりした。あたしが彼にマッサージをしてあげたこともあった。彼はわき腹近くを触られるとくすぐったいみたいで、一度「ここくすぐったいでしょ」ともろに触ったら、跳ね起きてた。どういうのが普通なのかと言われると困るけれども、あたしたちはその限られた有料の時間を、客とサービス提供者として、普通に時間を過ごしてたんだと思う。
二度目のシャワーを浴び、二人とも煙草を吸い終わると、彼は音楽をかける。
とってもゆったりとした静かな曲。バイオリンが悲しげなメロディーを奏でる曲。初めて聴いた時、なんて雨に似合う曲だろうって驚いたのを覚えてる。

彼が横たわり、あたしも横たわる。
それから彼があたしの胸に顔をうずめる。
音楽が外の雨みたいに、ゆっくりと悲しげに、そうするあたしたちに降り注ぐ。
あたしは彼の吐く息を胸に感じながら、腕で彼をゆっくりと包んだ。

「大丈夫よ、全部きっとうまくいくから。だから大丈夫」

あたしはそう呟いていたかもしれない。あたしにできるのは、そう伝えるようとすることだけだった。
曲が終わると彼はあたしから恥ずかしそうに離れる。あたしの胸元が彼の涙で濡れていることもあった。

あの悲しげな曲のこと、それからあの一時のことが、いつまでもいつまでも、今になっても頭を離れない。
人は時として一人を求めるけれども、でも決して一人では生きていけない。どんなに強い人間でも、かならず挫折に陥ったり、どうしようもない絶望に捕われることがある。どんなに強く生きようとしても、どうしてもそうできない時が、人には必ずある。「きっと全部うまくいくから大丈夫だよ」って言って貰いたい時は、どんな人にも訪れる。

人が抱える苦しみが、その言葉によってどれだけ救われるのだろう。抱きしめてそう伝えられることで、人はまた前を向けるのだろうか。

あれからもう10年以上も経つのに、あたしはまだあの頃から離れられないでいる。


hydel at 19:07|PermalinkComments(0)( ´ー`)y-~~ 

2008年06月20日

看取ることと、帰るとこ

まあ、一周忌なんて、こんなものなんだろうと思っていた。

祖母は苦しみなく死んだ。
痴呆症になり、徘徊するようになり、ホームに入れられた。
会いに行くと、私のことは思い出してもらえなかったが、笑顔は浮かべてくれた。
祖母がホームにいった夜、祖父の部屋に入ると、祖父の頬に涙が流れていた。初めて祖父が泣くのを見た。声もなく祖父は泣いていて、そこに私にはわからない祖母との年月の重みがあった。
やがて風邪を引き、肺炎をこじらせ、あれよという間に祖母は亡くなってしまった。
痴呆症になって以降、「婆ちゃんより先に俺が死ぬわけには行かない」といっていた祖父。
世の中にいるあらゆる男女のカップルが、やがて行き着くかもしれない一つの未来が、たぶんそこにはあるのだが、私にはまだそれが頭でしか理解できなかった。老いることの現実味をどうしても身近に感じることができなかった。

今日、この一周忌に親戚が集まり、法要をし、墓参りをし、精進落しを食べた。酔っ払うべき叔父さんは酔っ払い、子供たちが騒ぎ、持て余した時間の代償として何本ものタバコが灰になった。

全てが終わり、私は帰り道についた。その帰りの電車の中で私は気づいてしまった。ちっとも気づきたくなんかは無かったのだが、容赦なくその発見はやってきた。

私は、父や母を看取るために生きているのだ、と。

短絡的過ぎることを承知で言えば、両親は、私に看取られるために私をここまで育ててきたのだ。
現に父は自分の母に対してその務めを今日果たした。これまで一度も口に出したことはないし、これからも出さないだろうが、私にも同じことを望んでいる。私は看取り、その死後に偲ぶことを望まれている。他の誰も、本当の意味でその私の代わりを努められはしない。人として、人の子として、人には自ずから役割があり、私もそこから逃れることはできない。恐らく私が自殺したとしても、私の魂はきっとその不履行を、大きな罪の意識として抱き続けるだろう。

両親の生きてきた意味、これから私の生きる意味、そしてこれから私が作るかもしれない家族の意味。
皆、看取りを通じて、繋がっている。

なんだか無性に、自分だけの家族を作りたくなった。
私を愛し、受け入れてくれる女性を見つけ、子供を作りたくなった。
そして自分の家族に囲まれながら、眠りたいと思った。
私なりに自分の世界を拡大し、確かに帰れる場所を設けたくなった。
いや、どうしても設けなくちゃいけない、そこへ帰らなくちゃいけない、そう思った。

この電車は、私の帰るとこに繋がっているのだろうか。


hydel at 06:09|PermalinkComments(0)( ´ー`)y-~~ 

2008年05月15日

普通やるだろうアプローチについて

思ったのだが、『全体マップ』がないのが問題なんじゃないか?

例えば、『後期高齢者医療制度』とかいうのがが問題になっている。
75歳以上の医療費のかかる高齢者にも自己負担を求め、年金から天引きするとかいうやつ。

その議論の過程で、
「高齢者に負担を求める以前に、無駄な支出をなくせ」という話が必ず出てくる。
というか、後期高齢者医療に関わらず、『無駄な支出』というのはあらゆる政治関連の議論の際に出てくるテーマだ。

そういう話になると、政治家もコメンテータも解説者も、その場の空気は「それはそうだ」というものになる。
なかなか逆らいにくい錦の御旗チックな話だが、そこまで行くと結局議論は袋小路に突き当たっている。

そういう現状を見ていると、『全体マップ』が必要だと思う。
一体この日本で何人が『国家予算の全体支出に関する全体マップ』を把握しているのだろうか?と思う。
財務省の官僚の中枢は恐らく把握していると思う。
良くも悪くも、把握しているだろう。
総理大臣は把握しているのか、微妙だ。
でもそれを作らせて、必要ならば公開する権限が総理大臣にあるのは確かだ。
というか、官僚国家において、そういう判断材料を作らせること、それに基づいて判断すること、それこそが政治だと思う。


■『国家予算の全体支出に関する全体マップ』の具体的なイメージ。

予算は省庁単位で折衝されるというから、大まかにはその単位でいい。
医療:xx%
防衛:xx%
教育:xx%
農業:xx%
地方補助:xx%

機密費とか、そういうのは内訳まで詳細はいらないから、総額とパーセンテージだけあればいい。

それから『優先度の高い政策リスト』と付き合わせる。
医療とか教育とか農業とか、政策的な優先度を決めればいい。
そのリストを決める過程には族議員や担当官僚が出てきてもいい。自分の関連する政策がどれだけ優先されるべきかを訴えるといい。
マスコミを使って国民の意識調査をしてもいい。
この『優先政策リスト』は数年単位で、長い年月をかけて作成されるべきものだ。
あと数年単位の改変なので、災害用の緊急用の微調整の余地を残しておく必要もある。
例えば、ある安全保障上の突発事態が起きたから、防衛の優先度が上がるというように。

この『予算支出全体マップ』と『優先政策リスト』の定期的な突合せの結果、初めて「無駄な支出」というものが見えてくるのだと思う。
例えば、優先度の高い医療制度に関して支出が足りないから、道路費用を削ろうというふうに。

この過程を理解しやすく、オープンに、具体的に、できればA4×3枚くらいにまとめること、それが政治だと思う。

そういうことに関わった結果の判断については、国民は批判してその批判を突合せにフィードバックする仕組みは必要だが、でもマスコミや政治家が『無駄な支出を削れ』というのは、それをなそうと構想し、協力して初めて、「言う資格」はあるといえるんじゃないかね。

マスコミや政治家の言うことに感じる違和感、彼らが別世界の話をしているように感じるのは、そういう具体性やわかりやすさに欠けているからではないかな?と思う。うん。

そう考えていくと、かつて村上龍が「愛と幻想のファシズム」で書いたように、結局今の日本を支えているのは、まだまだ官僚なんだろうな、と思う。

公共に関する責任の最終的な所在として、ね。

官僚にはいい意味で期待する。

悪者にされやすい立場だけど、大切なポジションだ。がんばれ。

hydel at 08:55|PermalinkComments(0)思いつき系 

2008年05月11日

グノーシス

世界は間違いなく悪だと思う。
でも自分の中に、救われるべき何かがあるようには思えない。
二元論はともかく、イェス・キリストを、この汚い世界からの救済者だと考える信仰には、興味があったが、でもグノーシスも結局も真理とは思えない。
キリスト教の歴史、その多数派・正統派の歴史を追うと、正しさ、正統などというものは客観的には存在しないものだと気づく。多数派の歩みが結果的に正統と呼ばれる。
政治にせよイデオロギーにせよ、結局同じだ。
広く受け入れられ、その時を結果的に代表するものがあり、それ以外は異端。
真理は、主観分存在する。
糾合した主観、普く広まった真理、それが歴史になる。
人はなぜこんなにたくさん存在するのか。主観を分散させるため。真理をフィルターにかけるため。ざるから弱い真理をふるい落とすため。
それが今の私のグノーシスだ。
問題は、その認識にたどり着いたところで、自分がまるでふるい落とされた不要な何かのような気がしてたまらないことだ。私はただ、安らかに生き、そして安らかに死にたい。それだけなのに、なぜこんなにも苦しいのだろう?なぜこんなにも報われない気分を味わうのだろう?
この問いかけは何のために、漂うのだろう?世界は意味を求めることの無意味をまるであざ笑うかのように、今日もなるべきようになる。


hydel at 13:44|PermalinkComments(0)

2008年05月08日

死者のための祈り

おお神よ、全てを作りたまいし、全能にして不可知の神よ
我が我が身を滅ぼすとき、我が灰となることを選ぶとき
どうか我を苦しめたもうな
思い煩うことなく、悲しみや嘆きを後に残したもうな
我は灰より出で灰に帰る
その安らぎを、どうか乱したもうな

我は多くの罪を犯し身なれど
我に我が罪を思い出し、恥じ、顔を赤らめさせたもうな
この哀願を、どうか免じたまえ

ただ我に安息を与えたまえ
無へと帰す安息を
悲しみも嘆きも煩い、喜びすらないことも我は厭わじ
どうかよみがえらせたもうな

我が祈りよ、ただこだませよ
どこにも届くことなく、ただ耳を求めさすらえ
その永遠の宛てなき不可知の中で
無よ、神なる無よ
永遠の休息を彼らに与えたまい、
絶えざる光にて彼らを照らしたまえ


hydel at 22:03|PermalinkComments(0)

死者のための祈り

おお主よ、永遠の安息を彼らに与えたまい
たえざる光にて彼らを照らしたまえ
おお神よ、シオンの賛歌はなんじにふさわしく
エルサレムにて誓いは果たされる
わが祈りを聞き届けたまえ
全ての肉なるものは主の元に帰る
主よ、われらに慈悲を垂れたまえ
おお主よ、永遠の安息を彼らに与えたまい
たえざる光にて彼らを照らしたまえ

怒りの日、その日こそ
ダビデとシビュラの予言のごとく
世界は溶け、輝く灰に変わるであろう
審判者来たりて
全てを厳しく調べたもうとき
人々はいかに恐れおののくことか!
くすしきラッパの音は
この世の墓の上に鳴り響き
玉座の前に諸人を集める
審判者に答えるため
諸人よみがえるさまを
死も自然界も驚き眺めるであろう
そのとき全てを書き記したる
一冊の書物が開かれ
それによりこの世は裁かれるであろう
審判者が玉座につきたまい
隠れる罪ことごとく露見するとき
いかなる悪事も罰をまぬかれぬであろう
そのとき哀れなわれはなんと言おうか?
正しい者さえも永劫からめったに逃れえぬとすれば
いかなる代弁者にすがればよいのか?
救われるべき者を恵みによって救いたもう
恐るべき壮麗なる大王よ
哀れみの泉よ、我を救いたまえ

慈悲深きイェスよ、思い出したまえ
汝の現世の旅は我が為なりしことを
その日、我を滅ぼしたもうな
汝は我を訪ね、疲れて座したもうた
十字架の苦しみを忍び我をあがないたもうた
主よ、その労苦を空しくしたもうな
応報の公正なる審判者よ
罪の清算の日が来たる前に
赦免の贈物を与えたまえ

我は死刑囚のごとく嘆く
我が罪を恥じ、顔を赤らめる
哀願する者を免じたまえ
マグダラのマリアを赦し
盗賊の願いを聞きたまいし主よ
汝はわれに希望を与えたもうた
我が祈りは分不相応なれど
慈悲深き主よ、我を哀れみ
永遠の火に追いやりたもうな
我を羊の中に置き
山羊より引き離し
御座の右に立たせたまえ
その日こそ涙の日
罪びとたちが灰からよみがえり
裁かれるその日
呪われたる者たちが混乱し
猛火の中に投げ込まれるとき
祝福されたる者の列に我を招きたまえ
その日こそ涙の日
罪びとたちが灰からよみがえり
裁かれるその日
願わくは彼を哀れみたまえ、おお神よ
慈悲深き主なるイェスよ
彼らに安息を与えたまえ、アーメン

主イェス・キリストよ、栄光の主よ
世を去りし全ての信者の魂を
地獄の責め苦と底なき淵より解き放ちたまえ
彼らを獅子の口より解き放ち
陰府に飲み込まれることなく
闇の中に落ちることなく
かつて主がアブラハムとその子らに約したまいし
聖なる光の中へ旗手聖ミカエルをして導かせたまえ
おお主よ、賛美のいけにえと祈りを主にささげまつる
今日我らが記念する霊魂のために
なにとぞいけにえと祈りを受け入れたまえ
おお主よ、彼らの魂を死より生へと移らせたまえ
聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主なる神よ
天地は主の栄光にみちあふれる

いと高きところにホサナ
主の御名により来たりたもう方に祝福あれ
いと高きところにホサナ
怒りの日、その日こそ
ダビデとシビュラの予言のごとく
世界は溶け、輝く灰に変わるであろう
我が祈りを聞き届けたまえ
全ての肉なるものは主の元に帰る
世の罪を除きたもう慈悲深きイェス・キリストよ
彼らに安息を与えたまえ
おお、世の罪を除きたもう神の小羊よ
彼らに永遠の安息を与えたまえ
おお慈悲深き主よ、彼らを聖人たちと同じく
絶えざる光にて照らしたまえ
おお主よ、天地の揺れ動くその恐怖の日
主が来たりたまい、この世を火で裁きたもう日
永遠の死より我を解き放ちたまえ
罪の清算の日が来たり怒りが下されるまで
我はふるえおののくのみ
我が祈りを聞き届けたまえ
おお主よ、我を永遠の死より解き放ちたまえ
その日こそ、怒りと災いと不幸の日
おお主よ、永遠の休息を彼らに与えたまい、
絶えざる光にて彼らを照らしたまえ

hydel at 21:48|PermalinkComments(0)

2008年04月27日

あい・びりーぶ・あい・きゃん・・・

どうして泣いているの?

誰も慰めてくれないから。

私がいる。

君はただの幻じゃないか。私の頭の中のただの幻。

わからないじゃん。
もう信じるのをやめちゃったの?いつか私が、この現実の世界に現れて、君と出会うことを。

やめろよ。余計泣けてくる。

思い出しているの?数々の出会いのこと。その中に私がいたかもしれないのに、みんなその手からこぼしちゃったこと。結局いつも戻ってくるんだね。私のところに。ダメだねえ。

うん、ダメみたいだ。

じゃあ、しばらく泣いているといいよ。それで泣くのに疲れたら、また信じよう?

俺は君のことを自由に扱ってきた。その顔も声も性格も服装も、自分の好きなようにしてきた。だから君はまるで俺自身みたいに感じる。
でも一方で、君を自由にすればするほど、君の中身を空想で埋めようとすればするほど、君はおれから離れていく気がする。
ねえ、だから正直に教えてほしい。俺はいつか君に逢える?

君は俺の見たことのない顔で柔らかく微笑み、そして頬にキスしてくれる。

止まらない涙を拭いながら、俺はまた信じ始められるような気がしてくる。


hydel at 03:24|PermalinkComments(0)( ´ー`)y-~~ 

硫化水素自殺に思うこと。

硫化水素で自殺する人が増えているという。
ニュースでも繰り返し取り上げられている。市販の洗剤と入浴剤を混ぜ合わせると硫化水素を発生させることができると、2chには書かれている。発生した硫化水素を吸い込んで、近所、周囲に住む人たちが避難や被害を被るなどして巻き込まれるケースが発生しているとのこと。

人は、生きている以上、死と隣り合わせ。硫化水素自殺は、それが色々な意味で、真実だと気づかされる。文字通り、隣人、近所の人がいつそれを発生し巻き込まれるかもしれないという意味で。

もう一つは、「機会や実現可能性があれば死も一つの選択肢だ」と思いながら生きている人がいかに多いか、ということだ。いじめにせよ生活苦にせよ鬱にせよ、究極の逃避として死ぬことでこの世から逃げることを考えている人がいかに多いことか。

硫化水素自殺のニュースの中では、その自殺方法の真新しさ、周囲への迷惑が目立つが、「こんなにも多くの人たちが潜在的に死にたがっている」という事実こそが、一番衝撃的なのかもしれない。

硫化水素自殺はその方法が安易で安価だからきっとこれだけ広がったのだろう。
もし将来、安楽死が許されたなら、一体どれだけの人が死に逃げるのだろう?
自分の将来を全て捨てて、無へと逃げ込むのだろう?

この世界は、この社会は、果たして「いいところ」なんだろうか?人生は本当に生きるに値するものなのだろうか?その問いが余りにも受動的過ぎるというのなら、人生とは全力を尽くして生きていく意味はあるものだろうか?全ての人が生きやすくなる世の中は、いつかやってくるのだろうか?

世界は今日も回っている。世界は今日も動いている。世界は今日も進んでいく。
もうこんな世界との関わりは終わりにしたいと、心の中で死にたいほど悩みを抱く人たちをのせて。


hydel at 02:56|PermalinkComments(0)

2008年04月26日

ナイス、B級!

先日4/24(木)に、12chで『トレマーズ』をやってた。
中島らもだったか岩井俊二だったか、エッセイでB級映画として触れてた覚えがある。

そんで、観た。全く期待せずに。

確かにB級だ。

まず、主役である地中ヒルモグラが、なかなかその姿をお出ましにならない。地面が揺れたり、何かを噴出したり、飲み込まれた車とか、順番にすごい勢いで引き剥がされる床板とか、「ヒェー」というヒルモグラの音などで間接的に表される。

キャストも若き日のケビン・ベーコン以外は全然知らない人だ。
ヒロインなんて全く知らないひと。

お金かかってないよなあ、という箇所が随所に見られて、この辺り、まさにB級の王道だ。

筋としては、当然最後に人間様がヒルモグラをやっつけるわけだが、あのイタヅラ小僧は見ていてムカツいたので、最後まで生き残らなくて良かったのに。
あとあんなサバイバル軍事マニアの夫婦なんて現実にいるのかね。
家に一体銃何丁あるのやら。
そういう期待を外して、荒唐無稽なところもB級の証。

でも妙に清々しいのは、主人公二人の荒野で野宿しながらのその日暮らしな感じ、口の悪さと仲の良さ、お互いやたらリーダー面してプランを立てたがるところ、そういうのがいかにもアメリカ的で良かった。

そうなんだよね、テキトーだけど結局コイツらうまくやっちゃうんだよね、な感じ。
ずっと背景に写る青い空と茶色い砂漠、カントリーな音楽、二人のはきこなすブルー・ジーンズとかもアメリカ感を強めてる。

あとアメリカではジャンケンはあんな感じでやるのね。

総じて、ナイスB級!と感じた映画だった。うん。

Tremor:
n. 身震い, おののき; 震え声[音]; 震[微]動; ぞくぞく(する興奮)

hydel at 05:23|PermalinkComments(0)映画感想 

2008年04月19日

ほわい・あー・ゆー・りびんぐ?

ねえ、君はなぜ生きているんだ?

そんなこと考えたこともない。なぜ生きるかより、どう生きるかの方が大切だし、頭を占めているのはたいていそっちだ。

じゃあ、どう生きたい?

幸せになりたいと思ってる。

君にとって幸せって何?

わからん。すぐには答えの浮かばない質問だな。一日が無事に終わっていくことだったり、ぐっすり眠れることだったり、誰かに認められることだったり、あるいは誰かの笑顔を見ることだったり、色々だな。

そうか、それが幸せか。そしてそれを得るために、生きるのか。じゃあ、もしそういう感情が感じられなくなったら、どうする?自分自身がイヤでイヤでたまらなくなったら?認められること笑顔で肯定されること、ぐっすり眠れること、一日が無事に終わらないことだらけになったら、君はどうする?

それがそれでも生きていくか?っていう意味の質問だったら、イェスだ。それでも人は生きていくべきだと思う。

なぜ?なぜそれでも生きていかなければならない?

悲しむからだ。君に関係する人が喪失感を味わうからだ。君が自殺することは、君自身が死ぬばかりでなく、周囲の君にかかわった人間全てを否定することだからだ。

じゃあ、もし自分自身はもちろん周囲も否定したい気持ちを持っていたとしたら、自殺するのは間違いではない?

いや、間違いだ。世界には生きたいのに生きられない人、不自由なく生きたいのに、不自由に生きる人たちがいる。そういう人たちがそれでも生きようとしているのに、自ら死を選ぶのは間違いだ。

正直、そうした人たちのことは良くわからない。倫理とかそもそもそうした人たちのことまで考えられる時点で、それは健全に生きている証の気がする。

そうかもしれない。

自分自身に絶望していたら?いつまでも自分が好きになれないと思っていたら?未来の自分自身の姿が、明るく見えないとしたら?

それはきっと病気なんだろう。医者に行って相談するべきだ。

医者に行って相談するのはいい。薬を飲むのはいい。セロトニンやノルアドレナリンを補完するのもいい。でも根本的には、「なぜこんな自分でありながら、生きていかなければならない?」という疑問に返ってきてしまうんだ。それは常に頭の中にある。君の話した幸せは理解できるような気がする。ささやかなものでも、とても眩しく思える。でもそれを得るための代償や、それを得る自分自身の能力に問題があるとしたら?つまり、どんなにがんばっても自分自身は根本的にダメで、無意味に思えてしまうとしたら?日々の生活や、目標に向かって何かをなすことが、無意味なのではないか?と感じられてしまうとしたら?そんな人生にははたして生きる意味があるといえるのか?

たぶん君はもっと世界と関わるべきなんだろうと思う。世界とのかかわりの中でしか、自分にとっての幸せを探すことはできないのではないだろうか。

つまり私はズルいのだろうかね?皆がこつこつと世界との関わりとの中で、閉じこもりながら、自分の生の意味をショートカットして知ることができないのはおかしいと不平をこぼしているのは、なんかズルくて醜い姿勢なのだろうか。

その表現は少し厳しい気がするが、イェスかな。そもそも「なぜ生きるのか?」っていう問いを発している時点で、それは世界とうまく関われていないことを表しているのかもしれない。

君はこの世界は狂っていると思わないか?ニュースを見てみろ。人は殺し合い、盗み合い、騙し合い、いがみ合い、争っている。自分が狂っているのか、世界が狂っているのかわからなくなることはないか?この世界こそが悪で、自分が汚されていっているという発想は短絡的すぎるか?

短絡的過ぎるとは言わない。でもそれは青臭い、子供の発想なのだと思う。未成熟な責任転嫁に聞こえる。世界の全てを把握し、制御している存在なんてないじゃないか。神というの存在が少なくても現存する証拠が無い以上は、この世界に対する単一の責任者なんていない。そうであるなら、皆に責任があるか、あるいは誰にも責任がないと考えるしかない。もちろん影響力というのがあって、それに応じた責任の度合いはあるだろう。でももし世界を悪と感じるのならば、世界を不完全なものと捉えるならば、それを善くして行くよう勤めるのがこの世界に生きる一人ひとりの責任であると考えるか、この世界は所詮ゴミ溜めで、誰も何も考えずに汚したり、気が向いたときだけ掃除したりしていればいいと考えるか、どちらかしかないのかもしれない。私は前者でありたいと思う。

立派な考えだな。でもこれからも果たして死ぬまでずっとそう信じ続けることはできるのか?

そんなことはわからない。できないかもしれない。でも皆が世界をゴミ溜め扱いしたら、それは世界の終わりだな、きっと。

皆は世界をゴミ溜め扱いし始めている。つまり自分自身の欲望に没頭したり、自己本位になるということは、忘れいていることだろう?人が人として生きるということは、君の言う意味での世界は終わりに向かうということとイコールなんじゃないのか?

そうは思わない。なんだか性善説と性悪説の対決じみてきたな。まとめると、世界を肯定するか否定するかは、世界と関わるか自分に閉じこもるかに繋がり、最終的には性善説と性悪説に行き着いてしまったということか。

大体そうなんだろう。問題は、私自身が現実に生きていて、これは形而上学的な問題ではなく、現実の切実な問題だということだ。

誰も死を避けて通れない。でも死は選択するものでもないと思う。死を選択するという発想自体が傲慢に思える。

では、なぜ私は考えることができる?私は自殺を発想することができる?なぜだ?








hydel at 07:32|PermalinkComments(0)( ´ー`)y-~~ 

2008年03月13日

あい・らぶ・どんでん返し

今まで見たどんでん返し映画。
■アイディンティティ、■コンフィデンス、■シックス・センス、■スティング、■マッチスティックメン、■マルホランド・ドライブ、■バタフライ・エフェクト、■情婦、■真実の行方、■メメント、■ユージュアル・サスペクツ、■ワイルド・シングス、■閉ざされた森、■インサイド・マン、■ゲーム

どんでん返しの定義は特にない。観ていて意外性を感じさせることに主眼を置いている映画。

サスペンス映画はそもそもどんでん返し要素を含むが、些細なやつは含めない。(例えば、いい人が実は悪い人だった、主人公の親友が犯人だった、可憐な目撃者が犯人だった的なやつ)

感想めいたこと。

★『情婦』はすごかった。
どんでん返しをある程度見慣れると、映画の中の記号から多少オチの装うがぼんやりとでも見え始めるものだが、最後にどんでんどんでんするので、「うわ、それは想定外」的爽快感を誰が見てもまず得ることができると思う。

★『真実の行方』のエドワード・ノートはすごい。
純真さは映画上腹黒さの記号だと承知していても最後あれほど圧倒的に黒さを見せつけられると、それしか最後には残らない。そういう意味ではすばらしい演技のためにとても後味の悪くなっている変な映画。

★評価の分かれる『マルホランド・ドライブ』に対して私は否定派かな。
訳のわからなさを映像化して、さあ解いてみろ、そら解釈しろ、という手法はありだと思う。それを喜んでいそいそと勤しむ人がいるのもわかる。でももしこれを映画館で見たら、ハア?で終わるかもしれない。人とそれについて話すのも楽しいかもしれないが、そんなに難解すぎてスッキリとした解釈にたどり着くのは、かなり頭がよくハリウッドとかデビット・リンチの手法に知悉していないと無理。その意味でこの映画の最大のどんでん返しは、DVDを見た後にネットで検索して解説サイトを読んだ時に、やってくる。

★救われる?救われない?
『マッチスティックメン』『コンフィデンス』『スティング』『インサイド・マン』『ゲーム』『閉ざされた森』には救いがあるかな。TheENDの後に、映画の中の世界は始まる前よりも良くなっていきそうな感じを持てる。
『コンフィデンス』『インサイド・マン』『スティング』は一言で言うなら勧善懲悪的な意味で。それだけに主人公側に敵対する側が悪としてわかりやすく感情移入しにくく描かれる。『マッチスティックメン』『ゲーム』『閉ざされた森』は主人公の内面の成熟・成長が伝わる意味での救いかな。
『アイデンティティ』『真実の行方』は、救いがない。悪が正義をおしのける。見る側が感情移入しやすい人物は、殺されたり挫折感を味わう。だからストーリーや主人公に感情移入するよりは、演技やプロットに関心が行きやすいかな、なんとなく。
『情婦』はどちらかといえば救いがない方。善も悪はその能力を存分に発揮し、そして善は報われない。する。ただ弁護士と看護婦さんの関係が一筋の巧妙と言えなくもない。

★今後みたいの
ジェイコブズラダー、追い詰められて、クライング・ゲーム


以下、自己満足および備忘のための映画ネタバレあらすじ。

===

『アイディンティティ』
多重人格者内の複数人格が、一見無力そうな少年である凶悪な人格によって皆殺しにされる過程を描いた話。

『コンフィデンス』
詐欺を命令された出資者への裏切りがばれたと見せかけて、例によって捜査側が詐欺師とグルで、詐欺成功!ひゃっほー!な話。

『シックス・センス』
霊が見える少年の相手をする精神科医自身が実は殺されこの世をさまよう霊だった話。

『スティング』
仲間を殺した大物への復讐詐欺が失敗し、FBIに捕まったと見せかけて実はFBIも仲間だったオチ。

『マッチスティックメン』
詐欺師が相棒の詐欺師に騙される話。

『マルホランド・ドライブ』
売れない女優が嫉妬で殺人を依頼し、罪悪感で幻を見ながら自殺する話。

『バタフライ・エフェクト』
部分的記憶喪失男が、自殺させてしまった昔好きだった女性を救おうと数回タイムスリップするが、バタフライ効果のため上手くいかず、最後は自分は彼女と関わらない、orそもそも生まれない方が良いと気づく話。

『情婦』
遺産目当て殺人の容疑者の妻が夫に不利な証言をするが、裏で実は自分の証言に不利な材料を弁護側に巧妙に提供し、夫はそれを使った弁護側により無罪となるが、実は妻は夫の魅力にメロメロで全て夫を救う演技だったのだが、実はさらに夫は妻を裏切っていて、なぜかそれを最後にこれ見よがしに妻に見せつけ、逆上した妻に最後は殺されてしまうめくるめくお話。

『真実の行方』
純情そうに見える若者が、残虐な殺人を犯したかに見えて、実は裏に政治的な陰謀があるかに見えて、実は若者は二重人格に見えて、実はただの凶暴な殺人者だった話。

『メメント』
妻を殺され短い記憶しかなくなった男が復讐を果たしたがそれを忘れ、ただ都合よく操られる殺し屋になってしまう話。

『ユージュアル・サスペクツ』
障害者の振りをした詐欺師が、人を集め自分を知る証人を殺し、警察に全てのつじつまを合わせた作り話を告白する話。

『ワイルド・シングス』
IQ200台の女学生が、教師と警官とセクシー女学生とグルになり、裁判でセクシー女学生の母親から金を巻き上げ、それを最後には独り占めする話。

『閉ざされた森』
なんかすごい特攻チームみたいなのができるまでに、如何に彼らが軍隊で戦死したかに見せたかがわかるお話。

『インサイド・マン』
銀行に立てこもった強盗犯が、その銀行主の過去にまつわる宝物を盗み出し、銀行の奥の部屋に二重扉で隠れて、なぜか警察に銀行主の過去のヒントもあげちゃう話。

『ゲーム』
安定した銀行家の主人公が、弟に仕掛けられた盛大な「ビックリ!」に心底まんまとビックリさせられちゃう話。


hydel at 02:52|PermalinkComments(0)映画感想 

ある種の人間にとっては

生きるとは自殺しないことであり、
また同じ煩悶の中でもがく明日が来ることであり、
それらを全て把握した上でその道を選択することである。

hydel at 01:52|PermalinkComments(0)

2008年03月12日

「歴史の終焉」に対する論点の考察。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%81%AE%E7%B5%82%E7%84%89

纏まってはいないものの。

■歴史は繰り返す?

長期の政治体制は、腐敗を呼ぶ。
例えば、いくら小さな政府を志向したとしても、これだけの数の国民を管理・統率する国家には官僚機構が必須で、いくらアメリカ的な二大政党制などによって政権交代により清流を志したとしても、水は濁る(それもまたつの歴史哲学と言える)。

またいくら技術革新を推し進んだとしても、人口増加に鑑みて、地球上の資源は限られているという悲観的予測がある(ここでは悲観的に、将来の宇宙大航海時代は前提としない)。

発達するマスメディア・インターネットは、人種・民族・宗教などの火種要素間の垣根を取り除く働きをすることもあるだろう。だが逆に爆薬的に個人をある方向に向けることも予想できる(例えば、宗教的対立を個人まで浸透させる働き)。

そのような混迷の中、これまで民主的な対話が万能でない例など枚挙に暇がない。

「混乱と平和が交互に繰り返す歴史」という状態が、まだ継続しているのではないだろうか?
あるいは、独裁制と民主制が交互に繰り返す歴史。

希望があるとすれば教育だが、数世代に渡る人類に対して、有史以来のこの数千年の内でどれだけ教育にて、主制こそが最善の体制であるという普遍性を浸透させるのに十分な時間を、割いてきただろう?逆に、民主制から展開して、今後多少とも独裁制を時代が必要とする場面が全く発生することはないと言い切れるのだろうか?再び資源やら宗教やらの要因によって、秩序から混迷が生じ、カエサルやナポレオンやヒトラーが再登場しない保障はどこにあるのだろうか?

よくわからない。


hydel at 01:16|PermalinkComments(0)考察系 

微かに残る、普遍性への希望。

「エピソードで読む西洋哲学史」堀川哲。

面白かった。
確かにこれは「わかったようにさせてくれる本」だ。
筒井康隆の「文学部只野教授」を思い出した。

最後にアメリカのプラグマティズムで締めくくっているのが、ちと釈然としなかった。
普遍的なものは客観的には存在しない、という到達点、ね。
ただ、このローティの言うことは、自分のこれまで生きてきて抱いた考えに基づき、あるがままを受け入れて、正しいと思った道を歩め、という主張だと結局は感じた。それを受け入れることは、哲学それは振り出しに戻ることではないのか?哲学という学問の意味をなくしていないか?と。

歴史は終焉しているのだろうか?

ギリシャ・ローマからキリスト教、そして社会主義、共産主義、そして現在までしぶとく生き延びている資本主義。
情報システム、入出力装置としての生物、人間。そしてその歩みの根拠を偶然、運、自然淘汰とする無目的性。
ここから先はないのだろうか?行き着くところへ着いてしまったのだろうか?

歴史は終焉しているのだろうか?

確かに、そう感じることもある。
例えば、哲学、あるいは自分は何故生きているのか?自分の存在は、あるいは人類の存在は何のためにあるのか?という疑問を抱くことも有る人間が、書店に行って、じっくり時間をかけて、その答えを探せば、千円もしない対価をもって、これだけのこれまでの要約本を読むことができるこの現代という世界。ちゃんと調べてbookoffで買えば、さらに半額以下になる。

歴史は終焉しているのだろうか?

確かに、そう感じることもある。
マクドナルドへいけばそれなりの味で腹を満たすことができ、テレビを付ければ、何か興味を引くようなものが流れ、ゲームをすれば指先やほんのちょっぴり脳みそを使ったような気になることができる。あらゆることが、それほどでない対価でそれなりに充たされる現代。

私自身が感じる可能性。
フォン・ノイマン型のコンピュータ装置により生物の情報システム観理論が導かれたように、現代のこのインターネットによる繋がりからも、生物の情報システム観に相当するような、そういった俯瞰的、人類的、社会的な理論は生まれないものだろうか?

歴史は終焉しているのだろうか?

私自身が感じる可能性。
そういったそれなりに充たされる現代であっても、人は、利己的遺伝子だけでは説明しきれない人は、その暴走的な考え好きな人は、まだ自分はなぜ生きているのか?なぜ人類は存在しているのか?という問いを抱かずにいられないのではないか?

歴史は終焉しているのだろうか?


hydel at 00:15|PermalinkComments(4)考察系 

2008年02月23日

Keep staying in this Wonderful World

私が一人のところを見計らって彼は私のところに来る。追い詰めるために。まるで私がそうされるのを望んでいるかのように。それが彼の仕事であるかのように。

彼が私の下をこんなにも頻繁に訪れるようになったのは、一体いつからだろう?
いつも同じように始まり、同じように終わる。少なくともこれまでのところは。

まず彼が腕を差し伸ばす。
その先はいつものあの暗い部屋。自分の輪郭も何も見えなくなる、光の差さないあの暗い闇。
呼吸が乱れる。消えてくれ、そう叫びたい衝動をこらえながら、私は彼を凝視し、彼は腕を差し伸ばし続ける。
決して目を閉じてはいけない。少しでも目を瞑ると、彼が部屋を運んできてしまう。
でもいつの間にか、そこで私は闇にどっぷり浸かっている。彼の低い声だけが聞こえるあの闇に。

彼が言っている。
いくらでも理由はあるじゃないか。いつものように一つずつ挙げていこうか?言っとくが、この前よりもまたかなり溜まってるぞ。
そう言いながら、私の状況が如何に悪いか、おもむろに具体的に彼は話し始める。私が記憶の隅に追いやろうとしていた、うまく処理できなかった、やるべきことをやるべきときに怠った一つ一つの物事を、克明に詳細に彼は確認していく。

私の顔が神経質に引きつる。
一面的だ。
確かに努力は足りない。場当たり的だし器用でもない。上手く状況を裁けない。その結果が、そのツケが溜まってきているのはわかっている。でもどうしようもないという結論は、一面的すぎる。

もちろんそれだけじゃない。
そう人間関係。周囲の人間が私をどう捉えているか、軽んじ、侮り、貶め、否定しているか、私が如何に困難な状況に絡め取られているか、感じている以上の丁寧な解説がなされる。

何かあるはずだ。
まだ何か残されているはずだ。何かまだ打開できるところが。

彼はやめない。途切らせることなく私に聞かせ続ける。
お前は、本当に心から、これら全てを、良い方向にいまさら持っていけると思うのか?
じゃ、逆に聞く。そうできるイメージがお前の中のどこかにあるのか?そうするための目的がお前の中のどこかにあるのか?冷静に考えてみろ。逃げる以外ないだろう?


そして私にいつものイメージを見せる。結ばれ垂れ下がった紐とその下の台。落下していく身体。鈍く光るナイフと切断面から溢れる血。

違う。違う。そんなふうに根本的に逃げる以外にもまだ手段はあるはずだ。
私は闇雲に光を探そうと足掻いている。

本気でそう信じているのか?
また他人に頼るのか?全てから逃げて引篭もるか?同じことを繰り返すか?今度こそはうまくやれると自分を欺き震えながら、時間をドブに捨てるか?お前は変わらないし、誰もお前を助けになんか来ない。来るのは俺だけだ。


どうしてお前は私を消したい?お前は俺なんだろ?どうしてこんなことをする?

そう俺はお前だ。でもまだお前はわかっていない。
あの時、薬を飲み下すことを選んだ時、お前はすでにお前を殺したじゃないか。身体は蘇ったかもしれないが、あの時にお前はお前を捨てた。だからお前は俺になった。今でもお前は少しずつお前自身を殺してる。いまさらもう一度またお前を殺すことくらいなんだ。なぜ躊躇う?


闇の中で彼は両手を広げている。

この世界で本当とされていることは全て嘘。ここは嘘の世界。みんなあるふりをしているだけ。そして何もわからず踊っているだけ。
楽しいふり、悲しいふり、忙しいふり、正しいふり。本当に本当に、ただふりをしているだけじゃないか。
実は、とってもとっても馬鹿みたい。でもどうしてだか、みんなそれをまともだと思っている。


耳に口を寄せて彼は囁きかける。

ゾッとしないか?
この大勢蠢く人間。できることといえば寄ってたかって消費し、排泄し、汚し、げっぷする。
それぞれが自我を持ち、自己本位に行動し、自分のスペースを保持したがり、主張する。
それを都合よく個性という言葉で正当化してる。これが茶番じゃなくて何だ?
みな絶対に充たされることなんかないし、価値なんか実態のないただの幻想。結局、寄ってたかって決めつけられた価値があって、そして秩序、法という名のもと、その尊重が義務付けられる。

そしてな、お前もその救いようのない一人なんだよ。

ゾッとしないか?
俺は寒気がする。ハッキリ言ってここから逃げたいと思わない人間の方がおかしい。狂ってない人間こそ、狂ってるんだよ。抹殺されればいい。みな死ねばいい。生きることの意味?希望?本当にそんなの信じているのか?子供だってやがてサンタクロースはおとぎ話だって気づくんだぞ。おめでたいにも程がある。いい加減とっとと理解しろ。


私は嗚咽している。
彼が正しいのか誤っているのか、私は誰なのか、わからない。


さあ、大きく手を振れ。このワンダフル・ワールドに。
唾を吐きかけるがいい。この合理的な矛盾に。
足で踏みつけるがいい。この苦痛に充ちた生きる喜びを。
嘲笑うがいい。この刹那的な終わりなき日常を。
そして笑顔で否定しろ。この現在という名の悪夢を。

これは詐欺だ。過大な可能性を込められすぎた生という詐欺だよ。俺は現実から清算に来ただけだ。

「死ねー!」
私は手にした銃を彼に向けて撃ち込んだ。
何発も何発も。弾が空になるまで撃ち込んだ。

倒れこみながら、彼の口がこう形作るのが見えた。

また来る


hydel at 19:55|PermalinkComments(0)( ´ー`)y-~~ 

2007年09月27日

実際に絶望の中にいる人だけが

絶望について語れる。

それは希望?


hydel at 13:20|PermalinkComments(0)

2007年09月25日

神はどうあるべきか?

ジョン・アービング「オウエンのために祈りを」を読んで。

オウエン・ミニーは幸せだと思う。信仰は眩しく輝いて見えた。

自分の存在の意味、自分の特異な声や身長の意味、それらを夢として先見的に垣間見れたのは、幸せといって良いのではないだろうか。
垣間見せている主体を、もし神と呼ぶなら、神はもっとそのような形で、人に意味を知らせてもよいのではないだろうか。

例えば、私には弱さがある。もしそれに意味があると、私自身が知れるならば、私はその弱さともっと上手く付き合える気がする。
その自覚は私自身の生き方や、人生における選択に、より自信を与えてくれるのではないだろうか。数多の物語。数え切れない糸の織り成す模様。
例えば、自殺などする気は今は毛頭ないが、私は弱さ故に、身体を壊し、早世し、遺した子供は苦労するが大成して何かすごいことをする、とかね。
そんな地味な、決して派手でない脇役で構わない。ただどんなストーリーな脚本なのか、それを知りたい。
そして自分はこれでいいと思いたい。

神は人間にとってそのような、演出家、監督、脚本家、プロデューサ、あるいは主演であってほしい。

そのために、このように、私はここに祈る。


hydel at 22:45|PermalinkComments(0)

2007年09月19日

you may ...

夢。

小さい頃は単純だった。

いつの間にか大人になり、いつの間にか奥さんができ、いつの間にか子供ができ、いつの間にか会社に入り、いつの間にか会社でえらくなり、いつの間にかおじいさんになり、いつの間にか子供が大人になり、いつの間にか孫ができる。



でも今はそうは行かないね。

奥さんなどなおさら。会社でうまくやることなどましておや。子供を作るなど何をかいわんや。

毎日を泳ぎ渡ることで、傷つかないように生きることで、自分を自分に保つことで、精一杯。

歳だけはいつの間にか重ねて、見た目だけは大人になって、良いといえるのは、こうして「大人になってみると〜」という文章を少しは説得力を持って書けるようになったことかな。



オトナナンテ、イナイ。

オトナニ、ナロウト、セノビスル、コドモガイルダケ。


hydel at 00:23|PermalinkComments(0)

2007年09月16日

眠り姫は幸せだったんじゃ?

眠れる森の美女。
ずっと眠り続けていて、王子様がキスをして、目覚め、その後二人は幸せに暮らしましたという物語。

眠り姫は、それで本当に幸せになったのかな?
眠っている間こそ、幸せだったんじゃ?

それが本当に睡眠していたのだったら、尚更だ。
本当は、王子様なんていう手の込んだ目覚まし時計なんて、叩き壊したかったんじゃないだろうか。

深く考えれば、眠りは「一人の世界に引きこもり」を示しているのかもね。

でも眠り姫が本当に幸せになったのかなんてわからない。
眠り姫は幸せになったって、きっとみんなは信じたいんだろうな。
自分たちと同じように、出会って結婚するという流れに流されることを、望むんだろう。

でも眠り姫にしか、自分が幸せになっているのかなんて、わからない。
いや、眠り姫本人だって、わからなかったのかもしれない。


hydel at 13:52|PermalinkComments(0)

2007年09月12日

拝啓 安倍晋三さま

本日私はお昼テレビにてあなたが辞任される旨、知りました。
お疲れ様でした。
メディアでは、辞任をめぐり様々な声が流されていますが、気になされないことです。
この前の選挙の後で、続投するという決断は、私は「あり」だったと思います。そしてそれが、自分の中の政治家としてのがんばり続ける意志、あるいはモチベーションといったものを犠牲にするものだったと思います。
政治家という職業は特に、色々を気にしながら、また、色々なものを気にはしてはいけない職業なのでしょう。
それは、生きる上で、とても特殊というか、無謀な器用さを求めることだと思います。
私はあなたがはよくやったと思います。選挙前の党首討論でも、小沢さんよりあなたの方がずっと指示されるべきだと私の目には写りました。正直、今でもあなたの失点材料は思い浮かびません。小泉さんほどの意志の強さには欠けていた面があったかもしれませんが、全体として外へのアピールや内への語りかけ、あなたはそれほど悪くはなかったと思うのです。
あなたに対する批判や非難を口にする前に、人は自分自身をもっと見ればいいのにと思います。あなたに代わってもっとよりよくやれる実質のある人だけが、あなたについて批判する資格があると思います。
でも政治家の側は、そんなことを反論として口にした時点で、大きな失点となってしまう不自由な職業ですね。

今はゆっくりお休みください。
そしてまたそういう気持ちが生まれれば、また再起を期されるのもいいでしょう。その時は、またゼロから自分をアピールする必要がありますが、それは仕方がないのかもしれませんね。

余りに気に病むことはありません
自分の中を整理し、意味を作ったり考えたりしながら、またがんばってください。

敬具 hydel

hydel at 22:23|PermalinkComments(0)

2007年09月04日

完全な人間などいない。

それを慰めとするときもある。
それを言い訳をするときもある。

どっちの自分が、あなたは好きですか?


hydel at 00:31|PermalinkComments(0)

2007年08月28日

なぜ空は青いのか?

一ついえるのは、これまで生きてきた人々が、汚さないでくれてきたから。

hydel at 00:20|PermalinkComments(0)

2007年08月26日

フレンズ。

9.11 vs フレンズ。

9.11が破壊したのは、WTCだけではない。
自分の住んでいる国ですら、安全ではないという恐怖がもたらされた。
テレビは、それ以降増強される警備や、報復戦争、そして終わらないテロを映し出した。

でもフレンズを見ていると、9.11はアメリカに地名的な打撃を与え切れていないと気づく。
どんな衝撃的な映像よりも、フレンズの方が、本当は注意すべきこと。
いや、正確にはフレンズが継続し続けたことかな。

どんなに大統領が「我が国はテロに屈しない」というよりも、フレンズのオープニングに流れるあのテーマの手を叩く音。あの音の方が、その事実を的確に表している。

破壊することよりも、生み出すこと。

壊されることによって変化が生まれる。けれども最終的に何かが生み出されない限り、それは意味を持ったことになるのだろうか?

hydel at 23:45|PermalinkComments(0)

2007年08月23日

君はどこに堕ちたい? その2

僕は君と飛んでいる。
この空間を、2人きりで。
外の様子はよくわかるような、わからないような。
明らかなのは、外とは遮断されてること。これは2人きりのカプセルということ。

そして、やはりその時は来た。

コックピットから警報音。
無機質な女性の声が異常発生を告げる。

機体に振動が生じ、飛行に支障をきたしだす。

君は僕を見つめ、僕も君を見つめ返す。

原因は何だったのかしら?
どうでもいいさ。
あなたはどこに堕ちたい?
INTO YOU

そして地上に紅蓮の炎色をした花が一輪、咲く。


hydel at 08:38|PermalinkComments(0)

2007年08月18日

三十にして○○成りがたし

子供の頃は自分は大人のものだった。
それが正しいのかどうかはともかく、大人の言うとおりにしていれば、間違いないつもりでいた。

一人で暮らすようになり、自分は自分のものになった。
いや、自分しか自分を構い、自分のために考え、動いてくれる人はいなくなったから、自分という枠がいやでも明確になった。

今は、自分が自分だけのものではない気がしてきている。
家族とか、そういうのもある。

自分は、色々な関係の中で、自分であることができるような気もするし、また自分ではあれなくなっていくような気もする。

本当のことを言えば、純粋に自分の中に閉じこもっているときだけが、自分自身なのかもしれない。もはやそれは過去形だが。いや、過去形にしなければならないが。

俺は、何のために俺でいるのだろう?
その答えはたぶんない。笑えるが、ない。

あはははははははは。




hydel at 21:56|PermalinkComments(0)

目的

俺は一人では、俺にはなれない。
大人になるということは、そのことを知ること。

この世界のどこかに俺と一つになるべき相手が存在している。
別にそれが異性で結婚したい相手として出会うのか、それはわからない。
男性の友達なのかもしれない。そういう意味ではもう出会っていて、気づいていないだけかもしれない。

俺は不完全な人間だ。ダメ人間だ。
でもそれはそういうものなのだ。
言い訳でなく、そう思う。
一人では何もできない。

自分のかけらを、求めてる。
俺も君のかけらとなる。

問題なのは、君が誰なのか、出会えるのか、そもそも君は存在しているのか、見当も付かないことだ。

だからきっとこんなに寂しいのかもしれないな。

hydel at 21:44|PermalinkComments(0)

2007年08月15日

告白 レベル・フォー

●実は殆ど人の話が聞こえない。
比喩的な意味でなく、実際に。
本当に必要だと「え?」と聞きなおすものの、メドイので、「あはは」と笑って済ませる。
難聴なんじゃないかと思う。他人はどう聞こえているのか、自分の聞こえ方は貧しい聞こえ方なのか、ちょっと知りたい。

●女性目に映っているとき、たいていエロいことを考えてる。
結果、起きている時間の2/3くらいはエロが頭を占める。
歳をとれば減るんだろうか。

●寝てるときが一番幸せ。
起きている時にも幸せを感じることはあるが、起きている時点で実は既に負けている。最高にはなりえない。

●自分以外はみなバカだ、そう確信している。
でも自分が誰よりも優れているという証拠は、日常なかなか見つからない。いつも目を皿にして探してるのに。少しでもそれ系のものが見つかると、飴でもしゃぶるみたいにしばらくそれでうっとりしてる。

●どこかで世界に甘えている。
散々、考えることは世界は無秩序で、神は徹底的に無関心な存在という結論なのに、心のどこかで、がんばれば報われるとか、神様はきっとどこかで見ているとか、アホみたく信じてる。

自分がいやになるな、ほんとに。

hydel at 00:14|PermalinkComments(0)
しょー・けーす