2008年08月

2008年08月23日

唐突に寒すぎだろ

セミ「みーーーんみー・・・」

セミ「あれ?」

セミ「夏終わったのか、じゃ死ぬか・・・」

hydel at 11:05|PermalinkComments(0)

2008年08月17日

のー・いめーじ・のー・らいふ

最寄駅に着くと、雨は小降りになっていた。
折り畳み傘は持っていたが、出すのが面倒くさかった。なんだって面倒くさい時は面倒くさいもの。
だから小雨の中を、家まで歩いた。iPodから音楽を流し、それを口ずさみながら。

お〜べいべ〜♪
あいぅぉな〜♪
あんどあい〜♪
ふぉ〜ゆぅ〜♪

目深にかぶった帽子が小雨を遮って、小雨が私の小さな口ずさみを、私以外には見えなくしてくれる。
気持ちよかった。色々妄想した。それもまたよし。

うつ病になると、簡単に恋愛してはいけないと思うようになる。
私が私でなくなる時がある以上、自分自身ですら、そんな自分のことを許せなくなるというのに。それを誰かに受け入れてくれと望むのは、余りにもリスキーだし、傲慢だし、これまでから学んでいなさすぎる。
私は時々自分が、世界が、全てが嫌になってしまう。たぶん君のことも含めて。でもなるべくそうならないように、努めたいと思ってる。そんな私ではダメだろうか。ダメだろうね。理性という名の自分自身がいつも彼女の代わりに答えてくれる。そりゃダメだわな。私も思わず微笑んでしまう。
無条件の愛、そんな宝物はめったにない。めったに出会えない。
でももし出逢えたら…そんなことを妄想するのは悪くない。うん、悪くない。

もし出逢えたら…

のー・いめーじ・のー・らいふ

でもたぶん、人とはそうして生きていくものなのだと思う。


hydel at 19:41|PermalinkComments(0) 排泄的散文 

2008年08月16日

コリント人への第二の手紙 第12章1-10節

私は誇らざるを得ないので、無益ではあろうが、主の幻と啓示について語ろう。
私はキリストにある一人の人を知っている。この人は十四年前に第三の天にまで引き上げられた。――それがからだのままであったか、私は知らない。からだを離れてであったか、それも知らない。神がご存知である。この人が――それがからだのままであったか、からだを離れてであったか、私は知らない。神がご存知である――パラダイスに引き上げられ、そして口には言い表せない、人間が語ってはならない言葉を聞いたのを私は知っている。私はこういう人について誇ろう。しかし私自身については、自分の弱さ以外には誇ることをすまい。もっとも私が誇ろうとすれば、本当のことを言うのだから、愚か者にはならないだろう。しかしそれは差し控えよう。私が優れた啓示を受けているので、私について、見たり聞いたりしている以上に、人に買いかぶられるかもしれないから。そこで高慢にならないように、私の肉体に一つのとげが与えられた。それは高慢にならないように私を打つサタンの使いなのである。このことについて、私は彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。ところが主が言われた。「私の恵みはあなたに対して十分である。私の力は弱いところに完全に表れる」それだから、キリストの力が私に宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。だから私はキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら私が弱いときにこそ、私は強いからである。


hydel at 21:15|PermalinkComments(0)

ざ・ばーど・いん・ぴーす

とてもいつもとは違う二日間だった。その中心には甥がいた。汗かきで小さな甥は、誰かにいつも構ってもらいたがり、自分が皆の輪の中心にいないと気がすまない。そういうところは妹の子だなと思った。いや、自分自身を含めて我が家の子といったところか。また子供というのは、きっと得てしてそういうものなのだろう。でも甥は余りにも無邪気で生気に充ちているので、皆が自然と相手になってしまう。一言で言うなら、そんな二日間だった。

二日目、甥の走り回る声と物音で目を覚ました。自分の母親、祖父母、叔父がいることが素直にうれしいみたいだった。朝起きたらみんながいる、ワーイ!そんな感じ。
母が朝食を作った。久しぶりにちゃんとしたご飯と味噌汁な朝食を食べた気がした。腹がこなれた後、走りに行った。いつもの局数分、だからたぶんいつもの距離分。こっちとは違ってアップダウンのあるコースで、朝日が眩しかった。たくさん汗をかいた。シャワーを浴びてワイシャツに着替え、黒いネクタイを締めた。お坊さんが来て、祖母の仏壇で読経した。妹の膝の上で、しきりに甥が「まだー?まだー?」と言うので笑いそうになった。ずっと正座をしていた約20分ほど、足が痺れた。皆もそうだったみたいだ。お坊さんはこの付近のお寺の住職で、昔とはずいぶん変わってしまったと、回向が終わった後に出された麦茶を飲みながら語っていた。農家が減り、田んぼや畑が少なくなってしまったこと、昔は高台にあるお寺から近くの家が一軒一軒見渡せたことなどを。ちなみにこのお坊さんはBMWに乗っていて、息子は40代だが独り身らしい。

12時に和食レストランに行った。「前ここに来たね」と甥が祖母の一周忌のことを覚えていた。和食のコースを皆で食べた。甥の分は妹が分けて与えていた。甥は掘り炬燵の下へ隠れたり、机の周りをしきりにうろうろしては妹と母にたしなめられていた。食事を終えた私が煙草を吸いに甥を外に連れ出す途中、花が飾ってあった。その中に猫じゃらしがあって、甥が「ソーセージだね」と指差した。帰り道は運転した。ラジオが北島が金メダルを取ったと報じていた。帰ってピアノを弾いた。覚えている曲を弾いた。家のピアノは自分の部屋のより鍵盤が重かった。
皆で北島が200mを首位で泳ぎきる様子を繰り返し流すテレビを見ていた。そんな中、甥はしきりに誰かに構ってもらいたがっていた。なので妹が甥と一緒にお風呂に入りにいった。お風呂の中では甥はまだ妹のおっぱいを触っても構わないルールだとか。キャッキャッとうれしそうに甥は妹とお風呂に入りに行った。

空に黒い雲が広がっていた。遠くで雷が光り、土砂降りの雨になった。母が病院に行くために家を出る私のために、簡単な早めの夕食を作ってくれた。鶏肉を香草でいためたのと、ナスのみそ焼きと、トマトとチーズのサラダとご飯に味噌汁。さっき食べたばかりでそんなにお腹はすいていなかったのだが、いただいた。最近では食い溜めができる。まるでリスのように、冬眠前のクマのように。

食べ終わってベランダで煙草を吸っている時もまだすごい雨だった。地面に叩きつけるような雨しぶき、ピカッと雷が光る。おへそを隠さないと雷様がおへそを取りにくるよと甥に言うと、真剣に服の裾をズボンに入れていた。帰る前にシャワーを浴びようと支度をしていると、甥がそばに来て自分も入ると裸になり始めた。私が慌てて「さっき入ったばっかりじゃん。だからもういいじゃん」と言ったが、聞き入れなかった。妹も笑って、ただ浴槽に入れて遊ばせとけばいいからと言った。もし私がショタコンだったらどうするんだ。まったく。
私が髪を洗い、髭を剃り、歯を磨き、体を洗うためにシャワーを使う間、甥は浴槽の中でおもちゃを遣いながら、機嫌良く遊んでいた。ただ私がシャワーを使っていない間はカランから水を流していてほしいと要求した。甥にとってはそれは遊ぶために大切なことのようだった。だからその通りにした。
風呂から上がると、甥は体を拭いてもらいながら、なぜか私のソーセージについて妹母に報告していて、爆笑させていた。まったく、どうしてそういう話になるんだか。

再び煙草を吸いにベランダに出ると、雨はもうやんでいた。
目の前の電線に鳥が止まっていた。しきりに雨にぬれた体の身づくろいをしていた。私は椅子に座ってその様子を見ながら、煙草を吸っていた。豪雨が過ぎ去り、羽を休める鳥。
「お前が私の安息か」その鳥の様子を見ていて、そうわかった。その様子を残したくて、私はポケットから携帯のカメラを取り出し、写真に収めようとした。でもピントはなかなか合わなかった。その間に、身づくろいを終えた鳥は飛び立っていってしまった。そういうものだ。

先日死んだ猫にお別れをし、私は父の運転する車で駅まで送ってもらった。甥と妹も一緒に乗って送ってくれた。「ねえ、なんで叔父さんは病院に行くの?」と甥が訊いた。私がうつ病だと知っている妹が「おじさんは風邪を引いちゃったからだよ、ほら風邪を引いたらみんなお医者さんに行くでしょ」と言った。
車はやがて駅に着き、手を振って別れた。

まったく、なんで私は病院なんかに行くんだろう、甥にどう説明すべきだったのか、帰り道に考えていた。

それはこの世界が暗く冷たいところだからなんだよ、まるでさっきの強い雨の中のように。家を出ると外には闇が広がっているからだよ。闇はだんだんと人の温もりを奪っていくんだ。そして人が生きる以上、外に出るのは避けられないことなんだよ。だから叔父さんは少しでも温もりを獲られにくくするために、病院に行くんだ。病院にいくとね、守ってくれるお薬がもらえるんだよ。
でもね、恐がる必要はどこにもないよ。闇が冷たければ冷たいほど、暗ければ暗いほど、雨が強ければ強いほど、安息はその中で暖かく輝くのだから。

でもたぶんそう説明しても、まだ甥には分からなかっただろう。私だって正直、まだ良く分かってなどいない。
ただ安らぎが安らぎとして、その暖かさや輝きが、ずっと残ってくれれば良いなと思った。
甥の中に、私の中に、家族みんなの中に。
いつまでもいつまでも。

hydel at 21:02|PermalinkComments(0) ( ´ー`)y-~~ 

2008年08月12日

ざ・さいん・おぶ・さいん

あるとき信号機に訊いてみたことがある。

「どうして誰もいないのに、誰も通る気配もないのに、それでもあなたは定期的に色を変えてサインを送るのですか?」

「私はある目的に基づいて作られました。『安全』です。安全であるためにはどのような突発的事態にも備えなければなりません。準備は常にされていなければならないのです。だから誰がいつやってきてもいいように、私は常にサインを出し続けています。そうすることが最も安全に寄与する方法なのです。私たちの内の誰も、そのことに疑問を感じたことなどありませんよ」
信号機はそう言うと、誇り高く微笑んだ。

彼のその目的と信念と自信が、私には羨ましくてならなかった。


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セックスを想うマスターベーション

すごく和解したい相手としてのセックス。

確かにかつて私はセックスを軽視したことがあるかもしれない。それは道徳に優先順位上劣るもので、性欲の奴隷に繋がり、自分を卑小化してしまうと捉えたこともある。

セックスはそんな私のことはもう見捨てて、私の人生をもう通り過ぎて行ってしまうとしているのかもしれない。エロいのを観て抜き終わった後、一人で生きる限り、これからも自分はこうして行くのだろうと思いながら、私は遠く離れてしまったセックスとの距離のことを思う。

===

ただ彼女の中に宇宙を見たかった。
この取り止めのない、騒々しい世界の中で、静寂と安らぎがほしかった。
もし彼女も私の中にそれを見出してくれるなら、嬉しい。そして二人きりで何もかも忘れて踊りたかった。過去も未来も現在も、全てどこかに残して彼女が与えてくれる快感とその余韻に没頭したかった。

この世界は糞だ。ゴミ溜めだ。そんなことはわかりきったことだ。ある程度分別がつけば、真っ先に知ることだ。だからせめて彼女との間に美しい安らぎの一時を作りたかった。
「なんて青臭いの?」彼女はそう笑った。「でもそれは君の求めることでもあるんじゃないのか?」そう尋き返すと、返事をする代わりに彼女を私を胸の中に抱いた。

そうして二人で快楽の世界に戻った。
彼女は普段は聞かせない声を上げて私を楽しませてくれた。私はそれをいつまでも聞いていたいと思ったから、指先と舌と彼女の反応に意識を集中させた。やがて彼女が求めているのがわかった。私は自分のものを彼女につなげた。彼女の中は暖かかった。それで自分がこれまでいかに冷たいところにいたかわかった。私は腰を動かし始めた。ゆっくりとゆっくりと。徐々に大きく突き上げるように。
彼女の反応はダイナミックでリズミカルになっていった。私たちはつながっていた。たぶんあらゆる意味でつながっていた。
彼女のあげる声はまるで音楽のようだった。私は腰のビートで参加。この宇宙があれば、他の宇宙のことはどうでも良かった。私は腰を動かし続けた。
その時がきた。私は彼女の中に放出した。恥ずかしくなるくらい自分の中のものを彼女にぶちまけた。彼女はそれを受け止めた。全てのことには始まりがあれば終わりがある。
彼女をいとおしく思った。でもそれを口に出した途端に全てが嘘くさくなってしまうような気がした。だから抜かないそのままの体勢で、彼女を抱きしめながら、ただこう言った。

ありがとう。

===

こんなふうに理想的じゃなくてもいい。もっと人間的で、現世的で、汗まみれでいい。
たぶん準備はできていると思う。

ただ、セックスが、したい。


hydel at 21:57|PermalinkComments(0) ( ´ー`)y-~~ | 排泄的散文

2008年08月09日

ある睡眠導入法の作用機序

時は飛び、人はそれを追い、それに追われる。
人生は一つの大きな苦しみなのかもしれない。地獄の業苦とはこの世界に生きることこそ、それなのかもしれない。特にその人間がうつ病的に死に捉われている時には。

そうした中で、眠ることは唯一といっていい救いだ。
眠りの中で、私は直接この世界との対峙をまぬがれる。眠るというのは、まるで私が私自身というシミュレータを作って世界に対峙させているかのような感覚に思える。もちろん悪夢もある。だがそれは結局夢だったと置いておける。そういう救い。

だがどうしても眠りに入っていけないこともある。この世界が私を捉えて離さない。私は非当事者としてこの世界から夢に抜け出すことが許されず、悶々と布団の中で過ごす時間。それはとても憂鬱だ。

だが幸いなことに、私は一つとても有効な睡眠導入法を見つけた。
それはデパスよりも、レキソタンよりもハルシオンよりもサイレースよりも、それらを合わせて服用したのよりも、よく効いてくれる。とても個人的に限定された効果なのだが、それは私には時に十分に作用する。

それはヤツと一緒に眠ることだ。
ヤツはもうこの世界に生きる猫ではない。先日、死んでしまった。だから正確に言うのなら、ヤツの思い出と共に眠ること。

その作用機序。
私は目を瞑る。そして初めてヤツと一緒に眠った時のことを思い浮かべる。
あの頃、ヤツはまだうちには餌を貰いに来るだけのよその猫だった。外でニャーニャーと鳴いて、誰かが扉を開くと、スルッと入ってくる子だった。鯵が好きで、ドライフードを混ぜたものを興奮してフガフガ言いながら食べる子だった。
ある朝、いや正確にはある昼、私が寝坊して目を覚ますと、足元がなんか重たく暖かかった。そして目を覚ました私と目が合うと、自分がそこにいるのはさも当然であるかのようにニャーと鳴いた。それ以降、あの子は私の布団に入ってくるようになった。
目を瞑れば、今でもヤツの重みを、温かみを、足元に、そして腕の中に、胸元に、感じることができるような気がする。冬は暖かいけれど、夏は暑苦しくてたまらないヤツのことを。
目を閉じたまま、私はそっと優しくヤツを撫でてやる。そのモフモフの毛皮を。ヤツがゴロゴロ言うので、私はいつまでもいつまでもそうしていてやろうと思う。

そして二人でこの世界から眠りへと落ちていく。
安らかに、穏やかに。

hydel at 11:03|PermalinkComments(0) ( ´ー`)y-~~ 

弔辞に表れる感情と勘定

赤塚不二夫に対するタモリの弔辞を聞いた。

ちょっと感動した。
この人は頭の中が整理されている人なのだと思った。
自分の考えを、自分の思いを、スッキリと素直に表現することのできる人なのだと。

人と人との関係というのは大抵において複雑だ。
そこには陽の面だけでなく、少なからず陰の面、負の感情も少なからず存在する。
でも誰かが死んだ時、相手に対して残る感情こそがきっとその人に対する陽と陰の勘定精算なのだろう。
タモリの赤塚不二夫に対する思いは、見事にキレイに陽にそして感謝に纏まっていた。

この部分が好きだ。
「あなたの考えは、すべての出来事、存在をあるがままに、前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は重苦しい陰の世界から解放され、軽やかになり、また時間は前後関係を断ち放たれて、その時その場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは見事に一言で言い表しています。すなわち『これでいいのだ』と。」

私が死を迎える時、残された誰かが私に対してこのような総括をしてくれたら、どんなにか晴れがましいだろう。

人はいずれ死ぬ。
死んだ後の評価、人として他人の中に残る記憶、私たちはそうしたものを意識してもっと生を歩めたなら、この世界はもう少し良い世界になるのかもしれない。

hydel at 10:44|PermalinkComments(0)

2008年08月04日

自殺者による福音書 第2章20-86節

突如として私は死の中にいた。自分が死んだことを知った。
光の中に神がいた。その全能さによって、神が神だと明確にわかった。

神は私に、これまでの私の人生を最初から見せ始めた。いわゆる走馬灯というやつだ。
それはとても詳細で圧倒的だった。私は思っていた以上に多くの人から愛されていたことに気づかされた。その人たちのことを思うと、涙がポロポロとこぼれて止まらなくなった。
そしてまた、思っていた以上に多くの人に迷惑をかけたこと、思っていた以上に多くの人たちに憎まれてしまったことにも気づかされた。その人たちのことを思うと、申し訳なさで胸が苦しくなった。
プラス・マイナスで差し引き計算するとどっちに転がるのでしょうか?
神にそうたずねたかったが、なんだかそうしてはいけない気がした。

なぜか、神は私に最期のシーンを見せてはくれなかった。
ただ「知れ」と言われた。

すると、それまで私を包んでいた眩しい光が徐々に薄れ、私は自分が今まで生きてきた世界に引き戻されつつあるのだとわかった。嫌だった。もっと神に尋ねたいことはたくさんあった。自分にはそれだけたくさんのことを尋ねる権利があるような気がした。

目を覚ますと、布団の中にいた。病院のようだった。
看護婦が来て、私に何かをしていった。

何日間、私は眠っていたのだろうか。
どうしても何があって自分が一度死んだのか、私には思い出せなかった。

煙草が吸いたかった。「ここは病院です。煙草だなんてとんでもない」と看護婦が色をなした。
看護婦が持ってくる薬は変な色をしたピンクと白のカプセルで、うっとうしくて、そんな薬を飲みたくなんかなかった。「どうしてもこれは飲まなくちゃいけません」看護婦は強くそう言った。

そういう憂鬱な日がしばらく続いた後、私は看護婦に、なぜ自分がここにいるのか、尋ねた。
「そうか、思い出せないんですね」彼女は頷いた。そして話してくれた。

私が自分の部屋で多量の抗うつ薬を飲んだこと、その後でそれらを吐き、どうやら自分自身で119番し、この病院に担ぎ込まれたこと。そして手当てを受ける中、一度心臓が止まり、死んだと思われたこと。そしてその後にまた蘇ったことなどを、彼女は淡々と話して聞かせてくれた。

ようやく私は全てを思い出した。
自分が死にたくてたまらなかったこと、死こそが全てに対する唯一の最終的解決法に思えたこと、もう生きていることに耐えられなかったことを。

そして知った。
たとえ私自身が死のうとしても、身体はまだ生きたかったこと。私とはこの身体でもあるということ。この身体が私を、私の全人生を常に一緒に支えてくれていたことを。
だからとりあえず生きなければならないこと。そして身体のことを考えなければならないこと。
そして本当にこの身体が衰え、また神に全てを見せてもらった際に、この身体のためにできるだけのことはした、そう思えるように生なければならないことを。

私は知った。


hydel at 21:18|PermalinkComments(0) ( ´ー`)y-~~ 

彼女のかわいくないかわいさ

すごくかわいい彼女。

ずっと夢見てきたことがかなう。彼女と一夜を過ごす。彼女はどこまでも魅力的で、仕草、表情、体つき、雰囲気、その何もかもにすっかり魅了されてしまう。
まるで夢のような素晴らしい一夜を過ごし、朝目を覚ます。

彼女が洗面台で顔を洗っている。
洗いながら水が鼻に入らないように、彼女はブゥーと息を鼻から吹き出している。水をザバアと顔にかけ、手で顔をザブザブゴシゴシと擦る。鼻から息をブゥーと吹き出しながら。

その鼻からブゥーがたまらなくかわいくなかった。
そのかわいくなさと、それまでの彼女の仕草のかわいさ全てとの間のギャップがたまらなくおかしかった。

私は笑い出してしまう。
始めは抑えていただが、やがてそれは大笑いになり、彼女が顔を洗うのをやめて不思議そうに私をじっと見ているのに気づく。
爆笑しながら、自分が何で笑っているのか、彼女に説明しようとする。

「だって…だって、それまでの君は完璧だったのに…なんで…なんで顔を洗う時だけは鼻からブゥーなわけ…」
そう言いながらもおかしくておかしくて、笑いをこらえることができない。

そんな私を見ながら彼女は頬をふくらませる。
その仕草がまたたまらなくかわいくて、私はまたおかしくなってしまう。

だって顔を洗う時だけは鼻からブゥーだなんて…おかしすぎる…


hydel at 00:10|PermalinkComments(0) ( ´ー`)y-~~ 

2008年08月02日

アイアムレジェンド

これは名作だと思う。

話のストーリーに辻褄の合わないところはある。?な部分もある。でも結局好きか嫌いか、関心を持つか持たないか、どちらかに分類するならば、私はこの映画が好きだし、関心を持った。というか頭から離れなくなった。発端はサムの死ぬシーンが余りにも泣けたからだが、よく観ていくと実は、恐らく多分にうつ病的な世界観が投影されているからだと思う。うつ病というものについて理解したくなったならば、この映画を観た後に感じることがきっと大いに参考になる。いや皮肉な意味ではなくて。
『28日後』『28週後』とか『バイオハザード』とか、ウィルス・ハザードものにはうつ的世界観が少なからず投影されると思うが、これが一番しっくりきた。

映画は、人生とリンクする。
今の私の人生をまるで表しているかのような、そんな映画だ。
だから名作だと感じた。
たぶんこれからも何回も何回も観てしまうのだと思う。

サムはウィルスミスを守って死ぬ。
なんど観てもそこで泣いてしまう。

世界は凶悪なウィルスに罹った人間で満ちている。とても危険な場所だ。特に日の差していないところは。
私たちはそこで行き抜かなければならない。
もし生きようとするならば。そして自分の愛する人、自分を愛してくれる人は皆どのような形であれ、いつかはいなくなってしまう。

ウィルスミスがサムを洗ってやるシーンが好きだ。
スリー・リトル・バードを流しながら、サムの体を愛おしく洗ってやるシーン。
世界はきっと良くなる。きっと良くなっていく。
その歌が流れる中、ウィルスミスはぼうっとする頭、恐らく絶望で一杯になってしまう頭から覚醒し、窓や扉、世界との扉を全て閉ざす。
そしてサムと銃を抱いて眠る。そして過去の夢を見る。そしてまた次の朝、日が差し込む中、目を覚ます。

ウィルスミスは自分が世界を救わなければならないと感じている。
自分を特別な人間だと感じている。自分は孤独だと感じている。自分は唯一の生存者だと知りながら、それでもほかの生存者がいるという矛盾した希望を抱いている。生存者というのを、正常者と言い直してもいい。そしてこの世界に矛盾していない希望など果たしてあるのだろうか。

サムの演技がとてもいい。
研究室に入らずにお座りしたり、ウィルスミスを守って怪我をしたり、抱かれて眠りながら耳をそばだてたり、ランニングマシンで一緒に走ったり、誰もいない部屋を制圧するときにウィルスミスを援護したり日なたで寝転んだり、ぼうっとするウィルスミスに吠えて目覚めさせたり、そして何より野菜を足でどける演技。
ウィルスミスにとっての世界はうつ的世界だが、きっとサムにとっての世界はウィルスミスであり、それはウィルスも何も関係なく、以前と同じようにきっと存在しているのだろう。

たぶん人と動物は分かり合える。人は動物のために、動物は人のために生きることができる。たぶん。

私にとっての収穫は、ボブマーリーのこの曲に出逢えたことだ。

人は皆マネキンに話しかけるのと変わらない。
人は、何かをその時の気分や理由で選んだ気になっていたとしても、結局は皆CD屋や本屋の棚の陳列を順に、鑑賞していくようなものだ。

ウィルスミスはサムを亡くした後、実際に想いを抱いているマネキンに話しかけ、告白する。
恋愛などはただの人間の感情の病的な波であり、マネキンはマネキンであると知りながら、それでもウィルスミスはそうしてしまう。たぶんそれが人間というものなのだろう。埠頭で待ち続けるにも。

このリアル世界で私が彼女にそうしたように。そして彼女から何も返事がないように。返事なんかあるわけがない。それがあるのは映画の中だけだ。妄想の中だけだ。ハローと言ったってハローという返事を貰えることなんて、いったいどれくらいあると言うんだろう。
そしてその時に真の孤独を感じてしまう。救いようのない、癒されようのない真の孤独。
映画にしかない救いと言うものの現実感のなさ、辻褄の合わなさ。そういうリアルさが、そのうつ的なリアルさが、たぶん鑑賞に値するんだと思う。


hydel at 19:15|PermalinkComments(0) 映画感想 
しょー・けーす