2008年04月19日

ほわい・あー・ゆー・りびんぐ?

ねえ、君はなぜ生きているんだ?

そんなこと考えたこともない。なぜ生きるかより、どう生きるかの方が大切だし、頭を占めているのはたいていそっちだ。

じゃあ、どう生きたい?

幸せになりたいと思ってる。

君にとって幸せって何?

わからん。すぐには答えの浮かばない質問だな。一日が無事に終わっていくことだったり、ぐっすり眠れることだったり、誰かに認められることだったり、あるいは誰かの笑顔を見ることだったり、色々だな。

そうか、それが幸せか。そしてそれを得るために、生きるのか。じゃあ、もしそういう感情が感じられなくなったら、どうする?自分自身がイヤでイヤでたまらなくなったら?認められること笑顔で肯定されること、ぐっすり眠れること、一日が無事に終わらないことだらけになったら、君はどうする?

それがそれでも生きていくか?っていう意味の質問だったら、イェスだ。それでも人は生きていくべきだと思う。

なぜ?なぜそれでも生きていかなければならない?

悲しむからだ。君に関係する人が喪失感を味わうからだ。君が自殺することは、君自身が死ぬばかりでなく、周囲の君にかかわった人間全てを否定することだからだ。

じゃあ、もし自分自身はもちろん周囲も否定したい気持ちを持っていたとしたら、自殺するのは間違いではない?

いや、間違いだ。世界には生きたいのに生きられない人、不自由なく生きたいのに、不自由に生きる人たちがいる。そういう人たちがそれでも生きようとしているのに、自ら死を選ぶのは間違いだ。

正直、そうした人たちのことは良くわからない。倫理とかそもそもそうした人たちのことまで考えられる時点で、それは健全に生きている証の気がする。

そうかもしれない。

自分自身に絶望していたら?いつまでも自分が好きになれないと思っていたら?未来の自分自身の姿が、明るく見えないとしたら?

それはきっと病気なんだろう。医者に行って相談するべきだ。

医者に行って相談するのはいい。薬を飲むのはいい。セロトニンやノルアドレナリンを補完するのもいい。でも根本的には、「なぜこんな自分でありながら、生きていかなければならない?」という疑問に返ってきてしまうんだ。それは常に頭の中にある。君の話した幸せは理解できるような気がする。ささやかなものでも、とても眩しく思える。でもそれを得るための代償や、それを得る自分自身の能力に問題があるとしたら?つまり、どんなにがんばっても自分自身は根本的にダメで、無意味に思えてしまうとしたら?日々の生活や、目標に向かって何かをなすことが、無意味なのではないか?と感じられてしまうとしたら?そんな人生にははたして生きる意味があるといえるのか?

たぶん君はもっと世界と関わるべきなんだろうと思う。世界とのかかわりの中でしか、自分にとっての幸せを探すことはできないのではないだろうか。

つまり私はズルいのだろうかね?皆がこつこつと世界との関わりとの中で、閉じこもりながら、自分の生の意味をショートカットして知ることができないのはおかしいと不平をこぼしているのは、なんかズルくて醜い姿勢なのだろうか。

その表現は少し厳しい気がするが、イェスかな。そもそも「なぜ生きるのか?」っていう問いを発している時点で、それは世界とうまく関われていないことを表しているのかもしれない。

君はこの世界は狂っていると思わないか?ニュースを見てみろ。人は殺し合い、盗み合い、騙し合い、いがみ合い、争っている。自分が狂っているのか、世界が狂っているのかわからなくなることはないか?この世界こそが悪で、自分が汚されていっているという発想は短絡的すぎるか?

短絡的過ぎるとは言わない。でもそれは青臭い、子供の発想なのだと思う。未成熟な責任転嫁に聞こえる。世界の全てを把握し、制御している存在なんてないじゃないか。神というの存在が少なくても現存する証拠が無い以上は、この世界に対する単一の責任者なんていない。そうであるなら、皆に責任があるか、あるいは誰にも責任がないと考えるしかない。もちろん影響力というのがあって、それに応じた責任の度合いはあるだろう。でももし世界を悪と感じるのならば、世界を不完全なものと捉えるならば、それを善くして行くよう勤めるのがこの世界に生きる一人ひとりの責任であると考えるか、この世界は所詮ゴミ溜めで、誰も何も考えずに汚したり、気が向いたときだけ掃除したりしていればいいと考えるか、どちらかしかないのかもしれない。私は前者でありたいと思う。

立派な考えだな。でもこれからも果たして死ぬまでずっとそう信じ続けることはできるのか?

そんなことはわからない。できないかもしれない。でも皆が世界をゴミ溜め扱いしたら、それは世界の終わりだな、きっと。

皆は世界をゴミ溜め扱いし始めている。つまり自分自身の欲望に没頭したり、自己本位になるということは、忘れいていることだろう?人が人として生きるということは、君の言う意味での世界は終わりに向かうということとイコールなんじゃないのか?

そうは思わない。なんだか性善説と性悪説の対決じみてきたな。まとめると、世界を肯定するか否定するかは、世界と関わるか自分に閉じこもるかに繋がり、最終的には性善説と性悪説に行き着いてしまったということか。

大体そうなんだろう。問題は、私自身が現実に生きていて、これは形而上学的な問題ではなく、現実の切実な問題だということだ。

誰も死を避けて通れない。でも死は選択するものでもないと思う。死を選択するという発想自体が傲慢に思える。

では、なぜ私は考えることができる?私は自殺を発想することができる?なぜだ?








hydel at 07:32│Comments(0) ( ´ー`)y-~~ 

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