劇団一跡二跳「誰も見たことのない場所」
1日(木)、劇団一跡二跳公演「誰も見たことのない場所」を観劇。

アステールプラザ芸術劇場シリーズ
主催:特定非営利活動法人子どもコミュニティーネットひろしま
(財)広島文化財団アステールプラザ 文化庁
作=古城十忍(こじょうとしのぶ)+劇団一跡二跳
演出=古城十忍
アステールプラザ中ホール アフタートークあり
「自殺」という深刻なテーマを扱った芝居です。先進国の中で自殺者が飛びぬけて多く、中高年や子どもの自殺が急増している日本にとっては、避けて通れないテーマと言えます。
この芝居は「ドキュメンタリー・シアター」という変わった手法で作られています。自殺に関わりのある人々に演出家と俳優が手分けをしてインタビューを行い、レコーダーの記録を文字起こしし、そこから言葉を選び取って戯曲にしていきます。具体的な方法としては「取材してきた俳優自身がその人物について報告し、インタビューの一部分を相手になりきって再現してみせる。それを見て全員で質疑応答。このプロセスを繰り返して言葉を圧縮し、再構成し、1つの場面として戯曲に取り込んでいく」のだといいます。(パンフレット古城十忍「どれだけ「生きた言葉」を集められたか」より要約)この芝居のために取材したのは50人以上、登場人物45人にはそれぞれにモデルがいるそうです。
舞台装置は富士山麓の樹海・青木ケ原を模した木立のみ。樹海というよりは白樺林といった感じの木々の根元には白木の棺桶。まるで棺桶の死者から木々が育ったかのようです。そこに登場した人物たちはインタビューに答えるかのように語り始めます。語り手たちは、自殺未遂の経験者、自殺した人の遺族、自殺に遭遇した人、捜索や遺体の始末に関わった人、自殺サイトの管理人、警察関係者、精神科など医療関係者(自殺者の殆どに鬱病傾向が見られる)、カウンセリング関係者、自殺対策関係者、多重債務者を救済する関係者(ヤミ金融などでの多重債務で自殺に追い込まれる人が多い)、生命保険関係者などさまざまです。
アフタートークで古城さんが「自殺云々よりもまずインタビューに答えてくれた“その人”を描こうとした」と言われたとおり、それぞれの人物が丁寧に描かれていて、飽くことなく、引き込まれて見続けました。
インタビューの答えによる構成ですが、芝居として通そうとする主題は「死んではいけない」「自殺を食い止めたい」という思いでしょう。だからこそ自殺現場のむごたらしさや、死ぬのは意外に難しいという現実を語り手たちに繰り返し表現させています。ただ教訓的な社会派劇に終わらないのは、モデルとなった人たちの自殺者に対する温かい目があるからです。自殺の理由はその本人にしかわからない、死んでしまった現実をあとから責めることは冒涜なのだ、残された者の苦しみを倍加するだけ、と多くの人が語ります。自殺死を隠蔽すべきものとする考え方も「死の差別化」に繋がるという語りもありました。
兄が飛び降り自殺をしたという女性の「まるで電車を乗り換えるように向こう側へ行ってしまった」という台詞の通り、誰でもが、ふとしたきっかけで「向こう側」へ行ってしまう可能性はあるのでしょう。留学生の友人が自殺したという外国人女性の言葉も自殺者の心理を普遍化します。
「生きることが喜びと悲しみとの間を行ったり来たりしているメトロノームの振り子のようなものだとしたら、普段は振り子が小さく揺れているだけだが、プレッシャーが大きければ振れ幅は大きくなる。自殺した彼のメトロノームは苦しみの方へ振り切れてしまったのかもしれない」(原文どおりではありません)
私達の日常をよく表現した言葉だと思います。振り切れてしまって、戻れそうにない経験を誰でもしたことがあるはずです。こうした台詞を聞きながら、自殺者(自殺企図者)に同調するのではないけれど、心理を理解してその背景にあるものをあぶり出す。自殺を個人の問題ではなく、社会の問題として考えるための糸口です。日本が「追い詰めてしまう社会、同一性を求める社会、やり直しを許さない社会」であることが、この芝居を見ているあいだにもわかってきます。
事実に基づいているので説得力があり、観客に考えさせる芝居でした。終演後のアフタートークにも多くの人が残り、わずかの時間でしたが、それぞれの「考え」を述べる興奮が渦巻きました。目新しい形の芝居に、これまでにないリアリティを感じた人も多かったようです。出演者も取材を通して、ふつうの芝居よりもはるかに多くのことを考えたことでしょう。演劇を通して「考える」ことの大切さと有効性はもっと一般に認められるべきものです。「ドキュメンタリー・シアター」がごくふつうに行われているというイギリスに比べて、日本の演劇に欠けている最大のものとも言えそうです。
しかし「考える」こと、特に社会現象を考えるための手段として演劇をみなすのでは困ります。文化としての演劇が貧しいものになってしまう。フィクションや抽象世界を描く芝居の中から、真実を抽出して「考える」ようでなければ演劇を観る力があるとは言えないし、「考える」ように仕向ける芝居でなければ本当に面白い芝居とは言えないと思うのです。
これは「ドキュメンタリー・シアター」の方法論を否定するものではありません。昨日の芝居はノンフィクションとして有意義であり、しかしまた真実をよく昇華させた、いい意味でのフィクションでもあったと確信しています。俳優たちの口から次々と繰り出される「言葉」の波がじつに豊かで、どんな世代にも「言葉による演劇」の面白さを感じさせたのではないかと思います。
樹海を表現した装置、冒頭での自殺行為を模した集団舞踊的な動き、舞台上で本当に焼き肉をして見せる(多重債務者支援団体の人々の定例会)演出もサービス精神旺盛で演劇としての魅力を楽しめました。
途中で挿入された2人の妊婦の語りは、生への明るい希求であることも付け加えておかなければなりません。
Posted by hyo_gensya2005 at 23:57│
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