17日(土)・18日(日)の2日間
「役者のための演技講座 基礎ワークショップ鈴江俊郎クラス」に参加しました。この講座は今年度から始まった
「アステールプラザの演劇学校」の一環で、“『役者』として立つために”というテーマを掲げています。(主催:(財)広島市文化財団アステールプラザ、
広島演劇協会)
<鈴江俊郎氏=すずえとしろう、劇作家・演出家。大阪府出身。大学在学中に演劇活動を開始。『ともだちが来た』でOMS戯曲賞、『髪をかきあげる』で岸田國士戯曲賞、『宇宙の旅、セミが鳴いて』で文化庁芸術祭賞大賞を受賞。1993年に劇団八時半を結成。京都を本拠地として活動。2007年12月[office白ヒ沼]設立、代表>
私は『役者』というわけではないので、今月から3か月、計6日間にわたるワークショップへの参加には躊躇するものがありました。しかし昨年12月に単発で開かれた鈴江さんのワークショップの評判が良かったので、自分の力を伸ばすために勇気を振り絞って参加しました。参加者は27名、年代もさまざま、演劇との関わり方も一様ではありません。鈴江さんにとっては掴みどころのない、やりにくい集団のようです。
今回は個人個人の技術を集団へと積み上げていく第一歩でした。セリフの抑揚や細かい表情などで「表現」しようとするのではなく、それぞれがそこにしっかりと存在することで芝居全体の要素となっていく。個人の役割を果たしながら、全体を把握すること。観客にわかる演技をすること。―そんな基本を教えて頂いたように思います。
セリフ一つとっても、面白い訓練をしました。感情を入れずに棒読みで、間を空けずに前の人のセリフと重なるように繋いでいく。前のセリフと1音重ねて、2音重ねて、3音重ねて…だんだん分からなくなって緊張します。息の訓練も、止めたり吐いたりしながらセリフを言うことで変化のある「流れ」ができます。動きも同じ。大きく動く、ピタリと止まる。セリフと息と動き、全員が揃えばそこには「波」ができます。観客に迫るような波、芝居小屋全体を揺するような心地よい波。芝居が個人プレーではないこと、場面全体を把握してこそいい演技ができることを学びました。
実践の合間に鈴江さんの口から語られる演劇論も楽しいものでした。「
演劇は山登りのようなもの。登るルートや方法は違っていても、目指している高みはほぼ同じ。いい演技、いい芝居は自ずと似たものになってくる」。「
一つのやり方に違和感を持つことも大事。なぜ違和感を持つのか、自分のやり方のほうがいいと思うなら、その根拠は何か、説明できることが大切」。何かを否定することに意味があるのではなく、「いい」ものに向かって建設的であることが大切だといえます。
写真右は芝居の一場面の舞台を、椅子を使って作っているところ。3つのグループに分かれて、相談しながら作っていきました。
朗読は芝居と違って1人ですべての役柄を果たす世界です。地もセリフの役分けもほとんどが声(舞台なら声と表情)の問題です。1語1語、1文1文にどんな色をつけるか(たんたんと読んで“色を抜く”という場合も含めて)が表現の中心になる場合が多いと言えます。その世界からすると、鈴江さんの言われる「感情を抜いて、抑揚をつけずに、棒読みで」というセリフには難しいものがあります。しかし「
余計なものを捨て去った上で、それでもどうしても付いてくる抑揚や動きが本当に必要なもの」というのはわかるような気がするのです。「どうしても付いてくる」ところに、ほんとうに役者自身の心が動いて出てきたものがある。「
いい役者ほど、最後には棒読みになる」と鈴江さんは言われます。これは単なる棒読みではないでしょう。「表現しよう」という意図的なものを超えたセリフだからこその、自然さ、リアルさなのだと思います。朗読もこの域に近づきたいものです。
いつも1人で語ったり、芝居もせいぜい2人芝居に限られたりしていると、集団演技に付いていくのは骨が折れます。オペラに出ていたころは合唱の集団演技が中心だったはずなのですが、指揮に合わせた歌ではなくて、それぞれがセリフを言いながら動くことは難しいものです。今回できたこと、できなかったことを元にして、来月のワークショップに臨みたいと思います。2人組で短い芝居を稽古して発表するという宿題も出ました。他のこともこなしながら頑張らなくてはなりません。努力と勇気と自分を肯定する明るさで乗り切りたいものです。
Posted by hyo_gensya2005 at 23:57│
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