韓国に、青年ばかりが2万人ほども集まる、某大型教会がある(勿論サラン教会のことではない)。
 その教会の主任牧師は、まことに卓越した人物で、若くして韓国を代表する説教家としての名声をほしいままにしていただけでなく、著作も数多く、韓国のキリスト教書籍の総売り上げの一割が彼の本によるという話もあるほどだ。

 私は、サラン教会で働く以前、国際福音キリスト教会にいた頃、来日して説教する彼の通訳を何十回と務めたので、近くで接する機会が多くあったが、そのメッセージは極めて洞察力に富んでおり、会衆を深い恵みに導く霊的瞬発力も秀逸だし、著作にも強烈な聖霊の油注ぎがあるのは明白だった。

 個人的に対話しても、その知識量や話術にいつも圧倒されたし、実際、彼から教わったことは本当に多かった(そのことは、今も彼に感謝している)。
 しかし、その彼が今、あろうことか、牧師執務室で昨年11月に起こした性的不祥事のゆえに講壇を離れざるを得なくなって、しかもそのことに関する説明責任を、教会の信徒たちや社会に対してまるで果たしていないということが、公に報道されている。

 その報道は「ニュース&ジョイ」という韓国のインターネット新聞で9月17日になされ、既に韓国のキリスト教界を震撼させている。ご覧頂ければ分かるが、これは低級なゴシップ記事ではない。問題になっている牧師当人にも、その教会の指導部にも、周辺の重鎮牧師たちにも取材した上での、良心的な記事である。
http://www.newsnjoy.co.kr/news/articleView.html?idxno=32330
(韓国語による該当記事。10月7日現在で22万件以上アクセスされている)

 問題のその大型教会の方は、今どうなっているかと言えば、その主任牧師に対して不自然な「三か月の安息」を与えたまま、この件に関する公式コメントを一切していない。そのこと自体が、同じ身体なるキリスト教会全体に対する説明責任の忌避だと言わざるを得ない(報道されていることが事実でないなら、事実でないと明言すべきである)。

 報道によれば、彼の不品行は、単純な一回きりの“失敗”ではなく、長期間のカウンセリング治療が必要なものだそうだが、それにも拘わらず、教会が「三か月の説教停止・六か月の陪餐停止」という、軽微な懲戒処分で事を済ませようとしている理由は、その教会の特性上、初信者が多くて、彼の説教なしでは教会が成り立たないからなのだという。

 もしもそれが事実なら、説教を再開して最初の三か月間は、彼自身が聖餐を受けられない状態のまま、講壇からメッセージをするということなのか。
 そんなことで、牧師やその罪に何らかの形で関わった女性信徒(一方的な被害なのか、彼女にも責任があるのか、それは今のところ不明である)や、その家族たち、ひいてはその教会全体は、主が願っておられる回復を遂げることができるのか。
 そもそも、教会の指導部が、その牧師に対する懲戒処分を、「外部の貧しい教会を助けるための安息年」という体裁を整えながら下しているのは、この種の問題の処理の仕方として、正しいのか。
 答えは、勿論“否”である。

 私は日本国内でも、同種の問題を起こしている幾つかの教会の被害者たちと会っている。
 それらの教会に共通した特徴は、問題が露見した時に、加害者たる牧師とその取り巻き(牧師に依存して生きている中間指導者たち)が、被害者の被害事実に誠実に向き合うことよりも、「教会を守る」という方向に、全力で舵をとることである。この韓国教会も同じであるとすれば、それはまことに残念だ。

 キリストの身体たる教会は、勿論、悪から守るべき大切な存在であるが、問題は、加害者側が「教会を守る」という大義名分のもとで行動する時、被害者たちの声が不当に抑圧されることだ。
 甚だしきは、事実とは異なる出鱈目なストーリーが流布されて、加害者たる牧師の方が却って被害者であるかのようなとんでもない認識が、意図的に広められているケースもある。

 或いはまた、加害者である牧師が、被害者とは全く関係のない場所で、大勢の聴衆を前にして、「私は罪深いとんでもない牧師なのです」などと言いながら、涙ながらの謝罪パフォーマンスをして、諸々の噂の鎮静化を図るケースもある。
 嘆かわしいのは、それを見ている別の牧師たちが、ナイーブにも心動かされて、彼を「正直で謙遜な主のしもべ」と認定してしまうことだ。そして「福音による罪の赦しの恵み」を彼に適用して、彼の当初の目論見通り、“みそぎ”のパフォーマンスまでを、周辺の牧師たちが講壇で公的に行なってしまうケースも少なくない。
 その「謝罪」は、被害者たちのためのものでは決してなく、自分自身の保身のためであることは、見え見えであるにも拘わらず、である。

 或いはまた、彼のそのような偽善的パフォーマンスに疑問を呈する向きに対して、「彼は(神に)用いられているのだから」などという台詞を吐いてそれを妨げ、彼を擁護する側に立つ牧師も少なくない。

 彼らの共通点は、加害者の牧師と共に、被害事実から意図的に目を背けることである。彼らは、自分たちが加害者の築き上げた人間的王国の維持に加担しながら、被害者たちに二次被害三次被害を与えていることについて、自覚がない。

 彼らが好きな聖句は、若きダビデがサウル王を自らの手で殺さなかった、あの箇所である(第一サムエル24章、26章)。
 神様に油注ぎを受けた偉い先生に楯突くな、と嘯きながら、彼らは、被害者の一人一人もまた、主の前で牧師と同等の「王のような祭司」(第一ペテロ2:9)であるという真理を、等閑視しているのだ。
 そして、この祝福された教会を嫉妬して破壊工作を働く「背後勢力」こそが問題なのだ、などという荒唐無稽なメッセージを流布することで、自分が築き上げた王国を何とかして維持しようと、懸命になっている。

 しかし、そのような姑息な手法で自分を「守る」ことをしないと崩れてしまうような団体は、もはや生けるキリストの身体なる教会とは言えないだろう(ダビデは、息子アブシャロムの反乱に遭った時、そのような人間的な態度で自分の王国を守ろうとはしなかった)。
 むしろその団体は、かの鄧小平が「政治改革」というスローガンのもとに、青年たちの毛沢東独裁への批判を束ねておいて、実質は毛沢東の本質を継承していったあの狡猾で獰猛な権力、今なおチベットやウィグルの「真実の声」を抑圧しながら、常に外部に悪しき勢力を捏造しながら内部を統制し、貪欲に自己膨張を図り続けている、あの中国大陸を支配する巨大な権力に似ている。

 私は躊躇せずに敢えて言うが、この権力は、最近喜劇的な世襲を発表した北朝鮮の独裁政権と同様、真理に敵対する悪しき権力である(しかも、この両者は依存しあって、多くの民衆を今なお塗炭の苦しみに陥れている。カルト化した宗教組織が既に悪であるように、その権力は明確に悪なのだ)。

 どこの国でも、そのような悪しき権力の、本質を見抜いて対決することを避ける者たちは、いつしかその権力に媚び、善人ぶりながらも結果的にその権力に巻き込まれて、その権力の意図を自分の持ち場で忠実に実現する走狗になってゆくものだが、それは思うに、霊的な法則なのだろう。
 それが政治の世界において頻繁にみられる現象であることは、世界の歴史や日本の現政権の指導者たちを見ても瞭然だが(子分たちと共に大挙して中国に押しかけて「私は人民解放軍の野戦司令官になる」などという信じがたい言葉で媚びてきた元自民党幹事長や、反権力思想の持ち主であるはずなのに中国に対しては官房長官としての日頃のコメントで不自然な敬語を使いまくる元全共闘闘士など、その典型である)、実は、カルトリーダーと化してしまった牧師を忠実に守り続けるその側近たちや、彼らの教会を未だに支持し続ける牧師たちの不見識な振る舞いにおいても、全く同じことが言えると思う。

 私は、韓国を代表する名説教家たるその牧師が、この機会に、日本のカルト教会の牧師たちとは違う、徹底的で明確な悔い改めの実を結ばれんことを、心から願っている。彼自身のために。そして、韓国教会のために。

 彼がその名声をほしいままにしていた頃、実は彼の言葉の端々に、私は危険なものを感じていたし、また同じ危惧を密かに表現する人々は少なくなかった。
 例えば、ほんの一例を挙げると、「弟子訓練なんていうものは、時間ばかりかかって効果は乏しい。たった一回の礼拝説教で聖霊の火を体験すれば、たくさんの若者たちが瞬時に人生の変化を経験するのに、あんなものを一年以上かけてしこしこやるのは馬鹿馬鹿しい」というような彼の発言である。
 ベストセラー作家としても甚大な影響力を持つ彼の、この不用意な発言に対して、先般天国に召された故玉漢欽牧師(サラン教会元老牧師)も生前かなりの怒りを覚えておられたことを、私は知っている。
 彼のこの発言は、牧師も信徒たちと共にへりくだって、小グループ式で学ぶ御言葉を自分に適用し続け共に人格的に成長し続ける、そのような真の聖書的弟子訓練の持つパワーに対する、彼の無知と、己れの説教能力に対する彼の自信過剰を、端的に示す暴言だったと思う。

 もっとも、かく言う私自身も、年に数回彼に会って通訳をしていたあの頃、私より年上でもあり、韓国教会を代表する綺羅星の如き超有名牧師である彼に対して、その点を預言者ナタンの如く直接諫言することはできなかった。
 当時は立場上そのようなことは言えなかったと弁明すればそれまでだが、思うに、全体主義国家の暴走というものも、同じようにしていつの間にか始まり、人々を巻き込んでゆく性質のものなのだろう。
 その意味で、私には、今になって彼に非難の石を投げる資格はない。私もまた、彼の権力の前で、言うべきことを言えなかった一人だ。
 ただ、思うに彼の周囲には、私以外にもナタンの如き人材が殆どおらず、ただ彼の説教能力の高さに依存する追従者たちの群れがあるばかりだったのだろう。そのことを思うと、彼のために心が痛む。
 だから、私は今、彼を非難したいのではない。彼がこの機会に多くの後輩たちの模範になる姿で回復してほしいと、切に願うのだ。

 牧師が一件の性的不祥事を起こす前提としては、そのような事件が発生し得る霊的な土壌が、必ず醸成されてしまっているものである。
 私は、彼がこの機会に、事件そのものだけでなく、彼の教会形成の仕方に至るまで、詳細に自己省察をされんことを、心から願う。そうして、繰り返して言うが、日本のカルト教会の指導者とは違う、被害者たちにも納得がいく徹底的な悔い改めの実を彼が結ばれんことを、彼自身の今後の人生のために、また被害者たちのために、そして韓国教会のために、本当に強く願ってやまない。

 そして、私自身を含む日本教会が、仮に大きな罪を牧師が犯した時に、それを隠蔽したまま安直な「罪の赦し」を宣言してしまうことが、実はどれほど聖書の真理から外れているかを、「他山の石」として学び、「教会を守る」という美辞麗句のもとで教会の霊的腐敗を増長させるような愚を、決して犯さないようにしたいと、心から願う。

(追記:この文章を最初にこの欄にアップした直後の日本時間8日夜、中国の民主活動家・劉暁波氏へのノーベル平和賞授与が発表された。まことに喜ばしい報せだが、これに先立って、中国当局がノルウェーのノーベル賞委員会に加えた圧力、授与発表後の狼狽ぶり、卑屈な情報統制、これらは正に「カルト」の真骨頂である。それに対して出された「人権派」であるはずの菅直人首相のコメントは、ノルウェーのノーベル委員会のヤーグラン委員長や台湾の呉敦義行政院長や米国のオバマ大統領らのそれと比べて、中国当局の機嫌を損ねるのを恐れているのがあまりにも見え見えで、全く情けない限りだが、それはともかく、キリスト教会が今日、中国当局と同じような症状を呈することがあるというのは、まことに戦慄すべき事実だ。そのような問題が露見した時、私たちが権力の側につくべきか、劉暁波氏に象徴される側につくべきか、答えは自明であろう)

(2010-10-08 17:54:23)