10月24日主日の午後、日本長老教会という教団に属する先生方の御好意で、その教団の或る「中会」(各地域教会の連合体)の定例会議に、オブザーバーとして参加させて頂いた。

 日本の既存教団のこの種の会議に参席するのは、個人的には十数年ぶりで、何か不思議な感覚がしたし、同時に、その場に長老教会独特の神学的用語が飛び交うのを見て、韓国の謹厳な長老派の神学校で学んだ日々を懐かしく思い出したりもした。

 私自身はもともと長老教会の出身ではなく、留学して偶々入った神学校が長老派の神学校だったために韓国の長老教会で働くようになった者だ。神学校入学当初は、あまりにも長老主義を強調する硬直した雰囲気に戸惑ったが、三年間そこで学んで、長老主義という神学思想がかなり良く考えられたものだと合点できたことを、恵みだったと思って感謝している。

 この日の帰りに、或る牧師先生が食事を御馳走して下さった時にも、その話を分かち合わせて頂いたが、その中で自然と「長老教会における戒規の思想」に話題が及んだ場面があった。
「日本長老教会でもかつて、或る牧師が不祥事を起こしましたが、その時に戒規規定が適切に機能して、諸教会が心を合わせてその問題に対処したことがありましたよ。私自身もその時、遠くまで新幹線を使って出かけていって、その牧師が不在になってしまった教会の説教を代わりにしたことがあります。何人もの牧師たちでそのようにして、その教会を助け支えたのです。まあ私は、旅行としてもそれを楽しんだのだけれど」
 こういう話を、その先生は、ユーモアを込めて私に話して下さった。主に忠実に仕えながらも、そのことを鼻にかけたりなさらない、その先生の成熟した温和な人格を感じ取ることができた。

 さて、帰宅してインターネットニュースを見ると、先日来、主任牧師の性的不祥事が大問題になっている韓国の大型長老教会の件が、今度は何と実名と写真つきで報道されている。(http://www.newsnjoy.co.kr/news/articleView.html?idxno=32622��

 報道によると、ジョン・ビョンウク牧師が「三か月説教禁止・六か月陪餐停止」という懲戒をサミル教会から正式に受けたという事実について、サミル教会の信徒たちには口封じが行われている。そしてジョン・ビョンウク牧師自身も10月16日、懲戒期間中であるにも拘らず、自分の下で働く副牧師の結婚式の司式をしながら説教をしたという。更に、「懲戒期間中なのに説教して良いのか?教会には復帰するつもりなのか?」と問い質す記者を、ジョン・ビョンウク牧師は無視して立ち去り、なおも追いかけて取材質問しようとする記者を、他の20人ほどの副牧師たちが妨げて、ジョン・ビョンウク牧師をエレベーターに逃がしたということである。
 それだけでなく、その場にいたと思しきサミル教会の長老に対して記者が「この時期に彼が説教をすることは構わないのか」と問うと、長老は「三か月の説教禁止というのはサミル教会の主日の講壇に関してのことなのだから、今日のこれは構わない」と答えた由である。「それなら、この期間に別の教会のリバイバル聖会の講師としてメッセージをしても構わないという論理になる」と記者は慨嘆しながら書いているが、私も同感である。

 それだけではない。サミル教会が所属する中会(韓国語だと「老会」)で、先日定例会議が10月11日に行われた際にも、出席していた牧師たちはジョン・ビョンウク牧師の不祥事(牧師本人もそれを認め、サミル教会に「三か月説教禁止・六か月陪餐停止」という懲戒処分を受けているという事実)は承知していたにも拘らず、「サミル教会をはじめ、どの教会もしっかりと運営されています」などという司会者の進行に対して、異議を唱えたり質問をしたりする者は誰もいなかったという。
 
 このような報道が、仮に事実でない出鱈目であるなら(もしそうなら、本当にどんなに良いだろう!)、サミル教会はそれを否定する公式声明を出す責任があるが、そのようなものは一切ない。
 要するにサミル教会は(その所属中会も)、韓国を代表する長老教会でありながら、牧師の不祥事に対して、適切に「戒規」を行なえずにいるのだ。教会と牧師を健全たらしめるために与えられた「戒規」という根本思想は、聖書に根拠を持つ、長老教会の極めて重要な基準なのに、それは彼らによって踏み躙られている。

 恐らく、サミル教会の副牧師たちにせよ、所属中会の牧師たちにせよ、彼らの念頭にあるのは「ジョン・ビョンウク牧師を生かすために、またサミル教会を守るために、その問題を部外者の攻撃から覆い隠さなければならない。罪を赦すのが福音なのだから」という思いなのであろう。
 しかしながら、それは聖書の教えからは程遠い、極めて的外れな姿勢である。「罪の赦し」とは、どんな罪を犯したかを誤魔化さずに告白する者こそが享受できる恵みなのだ。まして、国全体に影響を与えるようになった霊的指導者にあっては、報道されているような不祥事を起こした場合、その悔い改めの実を公的に示す責任が伴うのは当然のことである(それこそが、彼自身が霊的に生きる道でもある筈だ)。
 もしもジョン・ビョンウク牧師がそれをせず、サミル教会も、それを彼にさせるように助けないどころか、事実を覆い隠してやり過ごす方向で画策しているなら、彼らの只中にあるのは「神の国=真理の支配」ではなく、「人間の王国=特定の指導者に依存する者たちの階級的支配」であると断ぜざるを得ない。そこでは、被害者たちの被害事実もまた、教会や牧師に都合が良いように歪曲されて、所謂二次被害・三次被害が生まれている可能性が高い。

 このような主張に対して「何と愛のない、過激なことを言うのか。冷静に“大人の対応”ができないのか」と反発する向きが、日本にも韓国にもたくさんあることは承知している。しかし、実はそのような善人ぶった「大人の対応」ほど、非聖書的で間違ったものはない。それは「愛」の名によって、悪しき者の主張する嘘を呑み込むことを人々に強要する、極めて暴力的な態度だ。悪を悪と指摘して対決することを自分が避けているだけでなく、人々をも同じ怯懦な生き方に巻き込もうとしている(そして自分自身は善人面をし続ける)という意味では、偽善的で有害な態度だと言っても良い。

 それは例えば、今なお現在進行形で拉致被害者とその家族たちを苦しめている北朝鮮当局の本質と対決しないまま、朝鮮学校の無償化を推し進める人々にも、端的に見られるものだ。彼らに欠けているのは、当局の大嘘を教えこまれる朝鮮学校の生徒たちもまた、悪しき者の被害者だという認識である。また、「愛」の名でそのような悪平等を実現することが、真理への背信であり、拉致被害者たちや強制収容所内の人々を苦しめる側への加担になる、という自覚である。

 尖閣や東シナ海における中国当局の暴挙に対して何ら責任ある政治手段を取らない、日本の政権の為体についても、同じことが言える。「日本国民はあまり感情的になるな」と言った与党の指導者たちは、自分では理性的に賢く振る舞っているつもりなのだろうが、事実はその逆である。中国当局は、それなりに一貫した姿勢で自分の益を追求し、その政治目的を達しているが、日本政府は全く後手後手に回って、中国の伝統的領土を奪っている悪玉に仕立てられても恬然としているばかりか、島嶼部の自国民を酷い不安に陥れても、ガス田を不当に採掘されても、一切責任をとろうとしない。
 つまるところ、今なおキリスト教徒を迫害し続け、劉暁波氏のノーベル平和賞授賞式への参加も認めぬことはおろか夫人にも代理出席させず、それだけでなく夫人に対して言語道断な監禁を続けているような、中国当局の本質との対決を避けているのが問題なのだ。その結果、中国当局への恐れにしっかり絡め取られつつ、中国当局の意向を実現させる道を着々と歩んでいるということに対する自覚が、今の日本の指導者にはあまりにもなさ過ぎる。

 いや、それは指導者だけの責任ではなく、日本全体が、悪しき者の戦略に席巻されて、「言うべきことを言えない」「守るべきものを守れない」呪縛の中に、日々落ち込み続けているのであろう。

 もっとも、天安艦撃沈事件に対する韓国の人々の反応などを見ると、真理に直面せずに「大人の反応」を取りたがる病は、日本だけでなく、韓国にも深く浸透していると思わざるを得ないが。

 以前、国際福音キリスト教会の問題をめぐってビュン牧師の肩を持ち続ける人々のことを評して、友人のある宣教師が「人は真実を信じるよりは、自分が信じたいと願うものを信じる」という名言を残した。彼のこの名言は、北朝鮮や中国の当局と善意に基づく交渉が可能だと信じる人々に関しても、当て嵌まると私は思う。その人々の根底にあるのは、自分も他人も善人であると思いたがる、一種のおめでたさである。その世界観は、政治の現実だけでなく、聖書の真理からも遠い。

 与党の国会議員有志から成る「人権問題を市民とともに考える議員連盟」(土肥隆一会長)が、劉暁波氏の釈放や人権問題の改善を中国当局に強く求める声明を出したという報道に接した時は、土肥議員がクリスチャンであることもあって、ほんの少しだけ光を見た気はしたが、与党議員412人中11人しか賛同しなかったという事実が、やはり今の与党、並びに日本全体の現実を端的に表しているのだと言わざるを得ない。
 「選挙の時に党の公認を貰えなくなるのではないか」と考えて保身に走る与党の政治家たちの姿は、経済的な利権のゆえに中国当局に言うべきことを言えない現代日本人の姿の反映に他なるまいし、それは戦前戦中に信仰の良心を捨てて神社参拝に流されてしまった日本人クリスチャンの姿にも通じるものであろう。
 
 ともあれ、今は、20世紀の大戦争の時以上の勢いで、霊的な暗闇が日本と世界を猛烈に襲う時代である。キリストの教会こそが最後の砦である筈だ。私たちこそが霊的に目覚めて、「然りは然り、否は否」と言い切る力を、持ち続けなければならないのだ。
 そして、「戒規」を健全に機能させることができるか、というテーマは、世にあってそのような重要な霊的使命を帯びたキリストの教会が、その名に相応しい内実を持っているかどうか、鼎の軽重を問うために直面する、試金石なのであろう。宗教改革の時代にも教会にそれが問われたのと、同じことだと私は信じる。

(2010-10-27 11:01:42)