ソウルサラン教会日本語礼拝で信仰生活をしている或る兄弟から連絡を受け、朝鮮日報のインターネット記事を急いで見てみると、昨日(11月1日)午前、ジョン・ビョンウク牧師が、この間取沙汰されてきた性的醜聞について、サミル教会ホームページ上で公式に謝罪文を掲載しているとの由である。
http://news.chosun.com/site/data/html_dir/2010/11/01/2010110101814.html?Dep1=news&Dep2=headline1&Dep3=h2_08��
 
 急いでサミル教会のサイトを開いてみると、トップページには何の変哲もなくて全く分からない。しかし、「掲示板」という項目の「公示事項」の欄まで入り込むと、確かに朝鮮日報の記事に転載されている通りの文章が、ジョン・ビョンウク牧師の名前で載っている。
http://web.samilchurch.com/sub/bbs/board.php?bo_table=news10&wr_id=1788
 以下は、その全訳である。

 愛するサミル教会の聖徒の皆さんへ

 最近、私ゆえの良からぬ話で大いに心配をかけてしまい、心痛い思いをさせてしまって、大変申し訳なく、すまないです。

 サミル教会の大部分の聖徒の方々は既にお聞きになってご存知であられる通り、私は昨年の秋頃、教会と神様の御前に罪を犯した事実があって、これを悔い改める心で堂会(訳注:日本の普通の教会の役員会に相当する)に去る7月辞表を提出しました。
この場を借りて再度、私のゆえに傷を受けた聖徒の方に謝罪の言葉を申し述べます。そして、私の咎のために失望なさり、衝撃をお受けになられたサミル教会の聖徒の方々にも、心から謝罪の言葉を申し述べます。そして、この間私を大切にして下さり、励まして下さった全ての韓国教会の聖徒の方々、先輩後輩の牧師様方にも、謝罪の言葉を申し述べます。
堂会で辞任は受け入れられませんでしたが、今のところはもう少し神様の御前に悔い改めと自粛の時間を過ごさねばならないので、教会に戻れない旨お伝え申し上げます。
この間いろいろ破れ多く足りない私を愛して下さり、励まして下さったサミル教会の全ての聖徒の方々に、再度感謝と謝罪の言葉を申し述べ、最後に、教会と、傷ついた被害者の聖徒のために祈って下さることを、切にお願い致します。

 ジョン・ビョンウク牧師 敬白
 
 一読して私は、ようやくやるべきことを始めて下さったかと、と先輩牧師の回復のための第一歩を喜ぶ気持ちと共に、寧ろこの声明文を、この期に及んで教会HPのトップページから、リンクを通してでもすぐに認識して読めるようにしていない、サミル教会という教会こそが問題だ、との思いを禁じ得なかった。要するに、サミル教会は(特に堂会構成者や副教職者たちは)、未だにこの問題を、できるだけ小さい騒ぎに留めたいという方向でしか考えていない。それが見え見えである。

 サミル教会がそう言われても仕方がない理由は幾つもある。まず一つ目は、ジョン・ビョンウク牧師に対して、サミル教会は今なお「安息年を与えている」との立場を崩していないのだ。安息年とは、言うまでもなく、長年の功労を建てた働き人に対して、有給で安息させる、一種の褒賞である。私は、同様の状況で牧師に「安息年」を与えた日本のカルト教会を知っているが、教会役員会のそのような振る舞いが、被害者たちの心に一層深く傷を与えたことは言うまでもない。

 二つ目は、このような公示事項は本来、教会の主任牧師の名前によって出されるだけではなく、堂会(日本の普通の教会なら役員会)の名前でも出されるべきだが、そのようなものは出ていない。ジョン・ビョンウク牧師の不祥事それ自体について、堂会はこれまでの監督責任を当然問われるのだ。
(それは副牧師たちも同じである。深刻な問題が炸裂する以前に、兆候のようなものはたくさんあったはずで、未然に事件を防ぐべく諫言できなかった責めを、堂会や副牧師たちは必ず負わねばならない)。
 ましてサミル教会堂会が今回彼を辞任させなかったのだとすれば、今後彼が適切な懲戒を通して真実な悔い改めの実を結ぶのを助ける責任は、正に堂会にこそあるのだ(不祥事が本当に昨年秋の一回きりだったのか、それとも報道されているように中毒水準のものだったのか、真相を確認する責任なども、一次的には堂会にこそある)。
 そもそも「三か月の説教禁止・六か月の陪餐停止」などという、如何にも不健全な懲戒処分を下して、キリスト教会全体の徳を損なった責任は、サミル教会の堂会にこそあるが、そのことに対する責任を、サミル教会堂会は感じているのかいないのか、全く不明である。

 三つ目は、サミル教会指導部がこの間、この問題に関して、対外的対内的に口封じ並びに情報遮断や情報統制を行なってきたと報道されている事実は、決して否定できるものではないが、それに対する反省が全く見られない。
 この間あちこちのサイトに無数に書き込まれてきた教会擁護的な書き込み――今回のジョン・ビョンウク牧師の声明文とも矛盾するもの――の存在からも、そのような情報統制の事実は容易に察せられるし、何よりサミル教会が「韓国の他の貧しい諸教会を助けるミニストリーを始めるために」などという体裁を公式に整えながら、この間の「主任牧師の安息年期間」を送ってきたという欺瞞的な振る舞いについては、弁明の余地もない筈だ。そのことについて、サミル教会の堂会が知らぬふりを決め込むことは許されない。
 
 およそ、自分にとって都合が悪い事態が発生した時、それを極力隠蔽しようとするのは、人間の罪性から出るものだ。
 幼児が家庭内でそれをしているケースでは、幼児が自分一人を守ろうとしているケースが大半であろうが、その場合は、罪の中に閉じこもるのはその幼児一人だけである。
 けれども、ある罪深い団体に依存して生きている複数の成人が、その団体の罪深さが暴露される時に、知恵と力の限りを尽くして同じことをするなら、罪の中に閉じ込められるのはその確信犯数名だけではない。もともとその団体は、多くの嘘の中に人々を閉じ込めてきたのだが、その捕囚たちは、真実の光に晒されて回復するのが、それだけ遅れることになる。

 カルト団体というものは、そういう次第で、「情報遮断」や「情報統制」を常とするものである。
 例えば、北朝鮮の当局が、韓国から飛ばされるビラ風船や軍事境界線での宣伝放送に、あれほど過敏に反応して激怒するのは、滑稽と言えば実に滑稽だが、それは、自分の体制が虚偽の上に成立していることを知っているがゆえの自信のなさの反映に他ならない。私が見てきたバイブルカルトの団体も、どれも例外なく、本質的にはそれと同じことをやっている。

 そして、そのようなカルト団体に精神的に依存して生きている「外部の人間」というのも存在するものだが、彼らの特徴は、何かそのカルト団体にとってまずい事態が生じると、その団体と一緒になって情報統制に必死に協力することである。例えば、尖閣の漁船(実際には工作船だったろうが)衝突の様子を撮影したビデオテープの公開を、日本の現政府の指導者たち(特に仙石官房長官)があれだけ嫌がるのは、私は躊躇なく言うが、彼ら及び彼らが阿諛追従している中国当局の「カルト性の発露」そのものである。
 
 今回ノーベル平和賞を受賞しながら、今この瞬間も不当に投獄されている劉暁波氏の著書『天安門事件から「08憲章へ」~中国民主化のための闘いと希望~』(藤原書店)を、私は昨日と今日の二日間で読んだ。
 1989年6月4日の「あの時」、私は大学3年生で、ちょうど祖父が亡くなったので戻っていた九州の実家で、祖父の亡骸の近くで天安門事件のニュースに触れたが、あれ以来21年以上もの間、あの事件の犠牲者たちの血は叫び続けていることを、この本を読んで改めて思い知った。そして、自分が彼らの存在など殆ど忘れて生きていたことを、情けなくも思った。

 とりわけ、遺族たちの闘いを具体的に詳述してある箇所からは、多くのことを教えられたが、彼らの闘いが、私が日本のあちこちで今日目撃し、また参加しているところの、バイブルカルトとの闘いと、本質が如何にも似ているとの思いを強くした。
 つまり、彼ら天安門事件の遺族たちの闘いとは、邪悪な権力が多くの小さき者たちの人生を勝手に潰しながら、自分たちに都合の良い嘘でその事実を糊塗隠蔽してしまっているその集団的暴力に対して、一貫して「一匹の小羊」の立場からNO!を叫び続ける闘いなのだ。
 それは悪しき権力の精神的支配を拒む闘いであり、その意味では霊的な戦いであると言ってよい(中国共産党の独裁に反対し民主化を支援することは、イデオロギー論争とは別次元のことであると、劉暁波氏のこの本を編集した劉燕子氏も「編者解説」の中で力説している。現に、その戦いのかなりの部分を地下教会のクリスチャンたちが担っていることも、この本の中で書かれている)。

 だから、およそキリストの教会が「情報統制」をしたくなる誘惑を感じる時というのは、霊的に本当に深刻な危機が到来している時だと言わなければならない。
 そして、万一それが誘惑に留まらず、実際に行われてしまっているなら、それは正に「カルト性の発露」そのものである。既にその団体の表面的隆盛は、実は集団的自我の暴走なのだ。その陰には、天安門広場でキャタピラに挽かれる如くに叫んでいる「小さな者の声」が、必ず隠されていると思わなければならない。