餌付けによる野鳥の撮影についてのお話ですが、前回はやや感情的な物言いをしました。今回はもう少し冷静にお話ししたいと思います。

ただこの問題に触れることは、ルリビタキだけでなく、私自身も相当に気が重いのです。なぜなら私と親しくしていただいている鳥見の友人・知り合いの中にも、餌付けを普通に行っている方もいらっしゃるからです。そしてそんな方たちは例外なくみんないい方ばかりなのです。私のような者にも優しく接してくれて、ときにそれがとても嬉しくもあるのです。

なので「ルリビタキの憂鬱」はそのまま「私の憂鬱」にほかなりません。

けれども、昨今の野鳥撮影の手法の一つに、その「餌付け」が当たり前のように確立されてしまっていることにやはり疑問を感じないわけにはいかず、前回言い出しちゃったことをきっかけとして、この問題を改めてきちんと考えてみようと思います。
ただしここで問題視するのは餌付けという行為そのものでありまして、カメラマン個々の人格等を揶揄するものではないことをご理解いただきたいと思います。

本日掲載する写真は最近のものではなく、一シーズン前に撮影したものです。当然のことながら天然・自然のルリビです。ルリビタキはどこにでもいるというわけではありませんが、かといってすごく珍しい鳥でもありません。少なくとも餌付けして足止めしておかないと撮れないという鳥では決してないことを、これからルリビタキという鳥に会いたい・撮影したいと思われている方は認識していただきたいのです。
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1.餌付けによる鳥への直接の影響

鳥への餌付けの最も深刻な問題は、餌付けという行為が鳥そのものの健康や行動に大きく影響する点です。具体的には次のようなことになります。

○過食による栄養過多
○肥満による飛行障害・衝突事故
○糖尿病のおそれ
○人への依存⇒自ら餌を採らなくなる
○人馴れ⇒警戒心の稀薄化
○渡りの時期の遅れ・渡り場所の変更
○繁殖への影響⇒生態系の変化⇒食物連鎖の変化

他にも様々な影響が考えられます。またこれらの事象はすべて実際に確認されたことばかりなのです。
いかがでしょうか、何気なく撒いている、与えている餌が、皆さんが愛すべき鳥たちにこれほど影響があるということをご存知でしたか?

そうでなくとも自然という美しくも厳しい環境の中で懸命に生き抜こうとしている鳥たち。暑い日、寒い日、嵐の日、どんな日も乗り越えてきた鳥がいま目の前にいるのです。
さらに渡りを行う種は、本当に命がけで海を越えるわけです。実際に目的地に辿り着けずに、天命をまっとうできない命もたくさんいるのです。

そんな尊い命に対し、可愛いから餌をあげる、あるいは写真に収めたいがために餌をあげるというのは、人のエゴと言わずして他に譬える言葉が見つからない、そう思いませんか?
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2.鳥のウォッチャーであること、鳥のカメラマンであることの義務、そして誇り

鳥見や鳥撮をしていると、フィールドで他のカメラマンなどと知り合いになります。そしてお互いにどんな鳥がどこで見られるかなどの情報交換をするようになります。あるいはブログや掲示板等を通じて、全国の鳥の情報がいながらにして分かります。

珍鳥が出たとなると、その翌日には100人以上のカメラマンが集まり、たった14cmほどの一羽の小鳥を取り囲みます。あるいはアカショウビンやサンコウチョウ、オオタカなどの人気種の営巣場所にも連日信じられない数のカメラマンが集まり、挙句の果てに営巣を放棄させてしまったという、まさに「本末転倒」の事例も昨今では枚挙に暇がないほどです。

いったいこのような方々は、本当に野鳥が好きで集まってきているのでしょうか? 本当に好きなのなら、どうして野鳥に悪影響を与えるそのような所作を、懲りずに繰り返すのでしょう?
答は簡単ですね。そういった珍しい鳥の、人気の鳥の、きれいな鳥の写真が撮りたいからですね。その欲望を満たすためには手段を選ばない、という代表選手みたいな方がいて、多くの方はそこまでの度胸も度量もないので、その方に追随するんですね。
「餌を与えたり営巣場所に近づくことは、あまりいいことじゃないよね。本当は僕もやりたくはないんだけれど、まあしかしこのチャンスを逃したら、この鳥を一生撮れないかも知れないから…」
と、少しは葛藤するんだけれど、結局は流されるんですね。それにみんなやってることだしね、と自分を納得させてしまうんですね。言い訳してしまうんですね。
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正直に言えば、かくいう私も鳥撮を始めたころには、他の方が餌をあげていた現場で写真を撮ったことが何度かあります。例えば冬場のクロジなんてそう簡単に藪から出てこないけれど、ヒエだかアワを撒いておくといとも簡単に撮影できてしまいます。そういう現場で便乗してクロジを写したことがあります。

でもすぐに、そのヒエだかアワを口いっぱいに頬張ったクロジの写真がとても不自然であることに気づきました。その後もそこでの餌やりは続いていましたが、私は一度もシャッターを押したことがありません。では他でクロジの撮影ができたかといえば、それは一度もありません。

つまり、クロジは元々撮り難い鳥なのです。難しいのです。初夏の繁殖期であればまだいくらか見えるところに出てくるでしょうが、冬のクロジなんて撮れなくて当たり前なのです。それが自然なわけです。
それを餌でおびき出して、というのは、どう考えても不自然な行為なのです。
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鳥を観察しよう、鳥の写真を撮ろうとする人には、その鳥たちが棲息する自然を守ること、鳥だけでなく自然に息づく命を慈しむこと、大切にすること、そういう義務を負っていると自覚すべきではないでしょうか。
私たちは鳥や他の生き物たちが棲息しているフィールドにおじゃましているのです。もうそれだけでもいくらかの影響を与えてしまっていることは否めません。であれば、その影響を最小限に抑える努力をすべきでしょう。

そのような自覚があるのであれば、餌付けという行為は反自然であり、鳥への冒涜であると気づくはずですね。
餌付けしなければ撮れない鳥は撮らなければいいんです。撮れない鳥がいてもいいんです。きっぱり諦めればいいんです。撮りたい欲望を捨てればいいんです。発想を転換すればいいんです。
考えてもみてください。餌付けして100人で一羽の小鳥を囲んで一斉にシャッターを押す、それだけでも異様な光景なのに(異様だと気づかないことが異様ですが)その写した写真に大差はないですね。100人が100人とも同じような写真になりますね。そこに個性もなにもないですね。それがイイ写真だとは言い難いですね。さらにその小鳥の表情に怯えが見てとれますね。

それなのに、あなたはなんのためにその写真を撮るのですか?
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今日もオジロビタキの餌付け場所を覗いてみました。ご丁寧にきれいに咲いた梅の枝を折って(梅も可哀想)差してあり、止まり木があり、ミルワームをそこに置き、オジロがやってくるとそこにいた数人のカメラマンが一斉に連写音を響かせていました。そしてオメデタイ“梅オジロ”の作品ができ上がりました。ほんの数メートルのところから撮ってますから、解像感も完璧な、素晴らしい写真になっているはずです。
意気揚々と家に帰り、奥さんにその作品を自慢げに見せます。「あら~、素敵ね。あなたって小鳥が好きな優しい方で、しかも写真もすごくきれいで上手!」
ああ、今日は旨い酒が飲めるな。うん?待てよ、これだけの作品を見るだけじゃもったいないな、よし今度のコンテストはこれで応募しよう。うん、絶対に入選だな、ふふふ。…

なんだか口アングリな話でしょ?
オジロのいるすぐ下が自然公園なんですが、今日私はゆっくり丁寧に観察し、34種の鳥を見ることができました。30種越えは久しぶりだし、マヒワもアトリも見られてとても楽しい日でした。
しかるにオジロビタキに張り付いていたカメラマンは、一種だけ(ジョウビの雌が近くにいたので2種かな)に終始していたことになります。
さてあなたなら、どちらを選びますか。34種の野鳥ですか、それとも梅の花つきのオジロビタキですか?

カワセミのダイブや魚捕りのモノスゴイ写真は、ほとんどヤラセだというのは、もはや万人の知るところですね。市展だとか県展なんかですと、かつてはそのへんの事情がよく分からない方が審査員をやっていたらしく、どんどん入選しちゃったようですね。最近はどうなんでしょう?
で、いまやそれはカワセミにとどまらず、様々な鳥がその傾向にあるのだとしたら、まったくもって嘆かわしいことだと思いませんか?
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いい写真て、なんだろう、とよく考えます。
少なくともそれは珍鳥だったり人気の鳥を撮ることとイコールでは決してないですね。
一例として「BIRDER」2月号に「第一回全日本“鳥”フォトコンテスト」の入賞作品が掲載されていますが、トップこそミサゴの狩りのものすごいシーンが載っていますが、他はなんのことはない、スズメだったりアオサギだったり、あるいはカワウやらコサギやら、だいたいそんなのばかりです、鳥種だけを言えば。
もちろんどの写真も偶然撮れたというのではなく、ちゃんと意図のある作品ばかりです。

私事で恐縮ですが、私はデジスコを、鳥の写真を始めてまる6年になりますが、いまだにシジュウカラ・スズメ・メジロ・ヒヨ・カルガモなどをよく撮ります。いい加減そんな身近な鳥ばかりで飽きないのか、と思われるかも知れませんが、まったく飽きません。というのも、納得のいった写真がほとんどないからです。もっと他に撮りようがあるんじゃないか、もっと自然で生き生きした表情を引き出せるんじゃないかと思うからです。そのことに多分人一倍貪欲だからです。

でも、餌付けをして、いとも簡単に写真が撮れちゃうと、むしろわりと早く飽きるんじゃないでしょうか。だってそうですよね、自分で探したわけでもない、人の情報だけを頼りに車を走らせ、そして気難しいはずの、近寄りがたいはずの野鳥をいとも簡単に至近距離でカメラに収められるんですから。
事実、この間会ったカメラマンとそんな話をしていたら、実はもう飽き始めているんです、とその方が仰ったのには相当ビックリしました。その方には失礼ですが、なんて底の浅い、なんてコンビニエントな撮影しかしてこなかった人なのだろうと思わずにはいられませんでした。
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アマチュアなんですから、所詮は自己満足の写真で十分なんですが、それでも他人に見てもらいたい、と思いますね、他人どう思うのかという“評価”が欲しくなりますね。そうなると、ただ写せばいいのではなく、人を気持ちが動くような、そんな写真を撮りたいと思いますね。

では、お聞きしたい。あなたは、例えば背景に赤いサザンカの入ったヤラセのルリビタキに感動しますか? 梅の花つきの(しつこくてスミマセン。今日見たその光景があまりに陳腐だったもので)オジロビタキに、たとえ尾羽をピンと跳ねあげた超可愛いポーズつきだったとしても、それであなたのココロは揺さぶられますか?
もうお分かりですね、そんな写真には誰も感動しません。一般の鳥には疎い方が見ても、きっと同じです。

当たり前じゃないですか、野鳥だから尊いんじゃないですか。野鳥の自然の姿だから可愛いんじゃないですか、あるいはカッコいいんじゃないですか、あるいは精悍なんじゃないですか。
どうして、誰がミルワームでまるまると太った(可哀想に)、人に媚びるような目つきの(可哀想に)オジロビタキに感動するというのですか。
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私たちは、いったんフィールドに出たら謙虚であるべきなのです。鳥や他の生き物の命が、人以上とは言いませんが、少なくとも同じ命である以上同等と考えるべきでしょう。そうであるなら、私たちはその命をもてあそんではいけません。それは決して許されないことでしょう。

謙虚であると同時に、私たちはフィールドにおいて真摯であるべきだと思うのです。生きとし生けるものを見、写真に収めようというのですから、必ず真摯に向かい合うべきなのです。それは礼儀であり、相手を敬うことなのです。

イイ写真と言いましたが、私には何がイイ写真かは分かりませんしそれを語る資格もありません。ただ、間違いなく言えるだろうことは、そういう真摯な気持ちが初めになければ、絶対にイイ写真は撮れないだろう、ということです。
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長くなりました。もう終わりにします。
最後にどうしても書きたいことがあります。

それは“誇り=プライド”です。

私たちカメラマンは「恥も外聞」も必要だと思うのです。誇り高くというのは、決して天狗になれとかいうのではなく、信念を以て撮影に臨もう、ということです。その信念に誇りを持とうではないかと、そう言いたいのです。

・私は鳥が怯えるような撮影は決してしない。
・鳥に悪影響を及ぼす餌付けやおびき寄せの手法は絶対にとらない。

そういうプライドがもちろんありますね。
さらに私は実は欲深で、イイ写真が撮りたい。だからそのためにも鳥のことをよく知り、鳥の素敵な表情を撮りたい。自然が自然であることの本来的な美しさを撮りたい。そうして見る人の魂にまで迫りたい。そういう気魄と真摯な思いをいつも胸に秘めていたい。そしてその総体としての誇りをもっていたい。

いかがでしょうか、少々固すぎる言い方になったかも知れませんが、こんな意味の誇りを皆さんが持てば、いろんなものが少しずつ良い方向に向かうのではと思います。

だってみんな鳥を好きで始めたのでしょう。好きなもののためなら、できますよね、誇りを持つことが、自分ではなく、鳥を優先して考えることが。

最後までお読みいただき、感謝!
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