sirohara6026

先日、京都にお住まいのかけらさんという方から当ブログへこんなコメントをいただきました。これを読んだ私は暫し絶句し、続いてやり切れない思いに胸が満たされたまま、いまでもそれは消えません。

私はこれまで何度か野鳥カメラマンの撮影態度や、撮影に臨む際のココロの有りようについて当ブログ上で心情を吐露してきました。そのいくつかは鳥見の友人たちにも共感いただき、その友人たちのブログでもご紹介いただいています。そのお陰もあって、その記事はいまでも多くの方にお読みいただいているようなのです。このことは、私が発信してきたことへの関心をかなりの数の方々が持っていただいていることに他なりません。
おそらくかけらさんが今回このコメントを私宛に発信していただいたのも、そういう経緯があってのことでしょう。

これまで同様の内容を、ときに感情的に、ときに冷静に表現してきました。こういったことを書いているとき、当然ながら決して気分が良いわけではありません。鳥に成り代わってとか、善人の代表みたいな顔をして書いてきたのでもありません。私はそれほど思い上がった人間だとは思っていません。
けれども。…
とまれ。記してきたことへの、発信してきたことへの全責任は私にあります。ですから言い訳めいた物言いはやめましょう。
ただ、もう今後よほどのことがない限りその手のことは書くまいと思っていました。

けれども今回かけらさんのコメントを読み、悲しいかなその“よほどのこと”が起きてしまったと判断した次第です。

≪で、いまこの一文を挿入しているのですが、結果的にすごく長い文になってしまいました。もっと内容を整理して載せればいいのでしょうが、もうそのまま掲載しますこと、お許し願います。≫

では、かけらさんのコメントからお読みください。

いつも楽しく拝見させていただいております。

実は、あまりにもやりきれないことがあり、初めてコメントを残させていただくことにしました。
一昨日、私の鳥見の師匠である友人から一通のメールが来て、その内容に愕然としました。
彼女はよく京都御苑に鳥見にいくのですが、今週の火曜日も御苑内の水場を訪れたのだそうです。
その水場は沢山の野鳥が訪れてるため、それを撮ろうとアマチュアカメラマンがいつも待ち構えています。
その日は、コマドリを目当てにして来ていた人が多く、たまたまそこにいたシロハラが写真を撮るのに邪魔だったのか、一人の男性がシロハラを驚かせて場所を移動させようとしたのでしょうがあろうことか石をなげたのだそうです。
すると、運悪くシロハラの頭に当たり、シロハラは飛び立とうとしたのですがふらふらと地面に落ちたのだそうです。
心配して駆け寄った友人が救助しようと掌につつむとその中で冷たくなっていったのだそうです。
彼女の憤りと悲しみがメールから伝わり、私もあまりにもひどいそのいきさつに未だに心が震えています。
そのオッサン(失礼!)は「すぐ、どかへんからや!」と毒づいていたそうです。
シロハラはもうすぐ旅立つはずだったろう、暑い日だったので喉が渇いていたのだろう・・・彼女は目の前で起こったその出来事にとてもショックを受けていました。
鳥が好きならなぜそんなことができるのでしょう?そもそもそのオッサンは鳥が好きで撮っているのだろうか?
どこに訴えてよいものか・・・漂鳥さんに聞いてほしくて思わずコメントしてしまいました。


このメールをいただいてから、すでに5日が経ちました。すぐにでも思うところを書きたかったのですが、どうしても感情が先走ってしまい、その“犯人”を糾弾するだけの内容に終始してしまいそうだったので、少し時間を置くことにしたのです。

でも、無理です。5日たった今でも私の憤りは衰えることなく、むしろ時間の経過に反比例するように激烈なものになっていきます。気分だけを言えば、今すぐ現地に飛んで行って、“シロハラ殺害犯”を物も言わず殴りつけたいようです。もちろん私に、“犯人”を殴ったり裁いたるする何の権利もないことは承知の上で。
人はいつも冷静であることが、人格者というのは決して感情を前面に押し出すことなく、いつも冷静であることが一つの条件であるのなら、私は人格者などでなくていい。そんなものクソ喰らえだ。人は、どうしても自分の感情を抑えられない、内側から突き上げてくる激烈な感情に我を忘れてしまうことは、一生のうちに何回かあることは避けられないのではないでしょうか。
不完全なのが人なのだから、その不完全を一生のうちに何度かは、肯定してあげてもいい、そう思うのです。

ただし、不完全なのだから何をしてもいい、という論理には決してなりません。
今回の「事件」は、人として決してしてはならないことを、しかも彼は己の私利私欲のみに基づく自己判断で、シロハラを死なせました。どこからどう見ても、彼の行為に正当性は見当たりません。一切の弁護の余地はありません。

私は己にさほど自信がないものだから、なるべく物事を断定的に言ったり書いたりしないように心掛けています。こう書くと少しカッコいいかも知れませんが、なに、そうやって何かあった時の逃げ道を用意しているに過ぎないのです。
しかしながら今回の彼の蛮行に限っては、もはや断定的にならざるを得ません。


その後のかけらさんの追加のコメントで、この事件は関係機関=京都野鳥の会・京都御所の自然観察の指導者・現場でカメラマンなどを仕切っている方、等々に連絡が行くそうで、おそらく“犯人”はもうこのフィールドに出入りできなくなるでしょう。ただし、同じ蛮行を彼が他所でしないという保証は何もないので、そのことを想うとココロが暗澹としてくるのを禁じ得ません。


さて、今回の「事件」は、コマドリ撮りたさに邪魔なシロハラを排除してしまったというだけの事実です。シロハラには可哀想なことをしたけど、そのオッサンもちょっとやり過ぎだけど、まあそれだけのことだね、と解釈することもできます。
けれども私は、この出来事の背後に潜むカメラマンの持つ、ないし人間が持つココロの“暗部”を覗き見てしまったようで、少し大げさに言うならば、そのことに戦慄を覚えてしまいました。

邪魔な鳥に石を投げて追い払うシーンは、実は私も何度か遭遇しています。カラスなんかいつも追い払われていますね。コチドリの雛が誕生して、それを撮っていたカメラマンが、そこへのこのこ現れたキジバトに石を投げるシーンも目撃しました。
運良くキジバトに石は当たりませんでしたが、もし当たってキジバトが死んでいたら、きっと私は鳥見も鳥撮もやめていたことでしょう。こんな思いをするくらいなら、という理由で。

けれども今回シロハラは死んでしまいました。その事実は重い。

わずか数年の命しかない野鳥の命。蝉だと1週間。蜻蛉(カゲロウ)に至っては1日あるかないか。哺乳類は比較的長くて、それでも大事に飼っている犬でも15〜20年。人間はもっとも長い方で80年前後。

ではその命の長短で、生き物の価値は決まるのでしょうか?

成虫の間、地を這いつくばるように生きるゴミムシ・シデムシ。吹けば飛ぶような蚊や蠅。一方ナイルワニやアフリカゾウやマッコウクジラは存在感に溢れています。

ではその体の大きさで、生き物の価値は決まるのでしょうか?

もちろん違いますね。
価値と書きましたが、もうその言葉自体が人間の不遜を表してはいないでしょうか。人間以外のありとあらゆる生き物は、己を他の動物と比較したり、その上で価値判断したりはしません。このことは人間以外の生き物の頭の悪さを意味しているのでは決してありません。価値という概念を生み出した人間の方が不幸なのです。価値判断の前提として比較の概念があって、それこそが人間の不幸の源であるからです。
「隣の芝生は青い」という皮肉な物言いは、他と比べることの愚かしさを実にうまく言い得ていると思うのです。

しかし、これこそが人間の“暗部”なのです。ふだんあまり意識しないでしょうが、人はいつもいつも何かを何かと比べています。こっちの方が大きい、こっちの方が強い、あっちの方がきれい、あっちの方が新しい、兄の方が頭がいい、弟の方が機を見るに敏、妹の方がスタイルがいい、隣のダンナがかっこいい、裏の家の方が大きい、俺の方が足が速い、くそ、あいつの方がモテる……。
このように人はいつもいつも何かを何かと比較し、そして己の位置づけを確認し、焦ったり安心したりしているわけです。

もっともこのことは人の“性(サガ)”ですから、どうしようもありません。比べるなと言ったって、人は比べないわけにはいかないのです。比較の上でというのではない、絶対的な価値というのはあると思うのですが、それはなかなか見えにくく、信奉しにくいものなのでしょう。

で、現実の問題に話を戻せば、犯人である彼は、結局コマドリとシロハラのいろんな側面を比較検討した結果、渡り途中という意味でのコマドリの稀少さ、色のきれいさ、可愛らしさ、鳴き声の美しさに軍配を上げたということでしょう。
客観的に見ても、確かにコマドリは人を惹きつけるに十分な素質を持っている鳥だと言えるでしょう。彼のみならず、コマドリを見たいな、撮りたいなというのは多くの方の素直な印象でしょう。

問題はその次です。

彼の中に巣食うデーモンがいたのです。
「邪魔だなあ、あのシロハラ。あいつがいるとコマが出てこないぜ。よし追っ払  っちまおう」
そう悪魔が彼に囁きかけます。鳥が単に被写体に過ぎない彼にとり、その囁きを実行に移すのになんの躊躇もなかったでしょう。シロハラという鳥は、彼にとり何の価値もなく、価値どころか単に邪魔な存在に過ぎなかったのです。同じ鳥、広義には彼と同じ生き物であるにもかかわらず、不遜にして尊大、平たく言えばジコチューの塊のような彼は、遂に近くにあった石ころを数個手に取ると、シロハラめがけて思い切りそれを投げつけてしまったのです。実になんの躊躇いもなく。


野鳥カメラマンの評判が悪いという話は、残念ながらもうだいぶ前からそちこちから洩れ聞こえてきます。いつも訴えているように“餌付け”“録音機器によるおびき寄せ”はすでに常態化しています。農道に車を入れ、農家の方の車が通れなくても平気なカメラマン、田の畔を平気で壊すカメラマン、公園の通りに三脚を大きく広げ、行き交う散歩の方を睨み付けるカメラマン、営巣木の真下までずかずか入り込み、鳥を営巣放棄させてしまうカメラマン、ただひたすら大きく撮りたいがために、いつもどんどん鳥に近づき、鳥を怯えさせるカメラマン、始末の悪いことに、その怯えに気づかない鈍感なカメラマン、撮影に邪魔な枝を平気で切ってしまうカメラマン、大勢で一羽の小鳥を追いかけ、足元の野草を踏み荒らすカメラマン、踏み荒らしていることに気づかない鈍感なカメラマン、草なんだから踏んだって別にかまわないと思い込んでいるカメラマン……

はぁ〜、もはや溜め息しか出てきません。そりゃ評判悪くなるに決まってますね。もちろんここまでする輩はごく一部でしょうが。


人は不完全な生き物です。他の動植物の方がよほど完成されています。懸命に生き、あがくことなく死んでゆきます。長い時間の中で進化し、洗練され、その生は実にスマートです。ワガママもジコチューもありません。
ところが人は、いつしかエゴ(自我)を獲得してしまいました。そのため、何よりも自分が一番大切になってしまいました。そしてエゴから発生する「欲」をどれだけ満たせるかが、幸福のバロメーターになってしまいました。

う〜ん、なんとヤッカイな生き物でしょうね、人とは。

実際には人は社会生活を共同で営んでいますから、そうしょっちゅうエゴを前面に打ち出すわけにはいきません。いつも思い通りにはならないわけです。普通人はそれを我慢します。我慢するとそれがストレスになります。ストレスは人の感情を揺さぶり、気がふさいだり落ち込んだりします。それが激しくなると怒ったり泣いたりもします。さらにストレスは、体の変調を誘引したりもします。

う〜ん、かえすがえすもメンドクセーなあ、人は。

このエゴから発生する「欲」もまた人の持つ“暗部”、スターウォーズ風に言えば“ダークサイド”なわけです。スターウォーズという壮大な映画は、人のダークサイドを象徴するシス率いる帝国軍と、人の自制心を象徴するジェダイとの果てしない戦争を描いたものでした。

このようにまったくもって御しがたいのが人のココロです。
しかし一方で人が人として胸を張って生きていくためには、やはり自分の中の「駄々っ子」をなだめ、自制しなければなりません。でも自制ばかりの人生はつまらないですね。そこで人はあるべき理想を設定します。理想とは、ときに夢であったり、ときに信心であったり、あるいは信念などを意味します。
「仏法僧を敬え」と言いますね。鳥じゃないですよ、仏教の世界の話です。仏とは即ちあるべき理想の姿を意味します。法は、その理想に近づくための方法・道筋のことです。僧は、その理想へと導いてくれる水先案内人のようなものです。仏教に限らず、キリスト教でも他の宗教でも、必ず目標となる理想の姿というのが提示されています。それを神と呼んだりもします。人は、決して神にはなれませんが、少しでもその理想の姿に近づこうと、祈り、自制し、つつましくあろうと努力します。そういう意味では、神を持つことは幸いですね。理想の姿がはっきりとイメージできることは、すごく楽だと思います。それが分からなくて苦しむ衆生もたくさんいるからです。

シロハラに石を投げてしまった彼は、きっと理想の姿をもっていない、イメージできていないのではないでしょうか。

たかが鳥見・鳥撮ですが、その世界にもあるべき姿は必要なのだと思うのです。信念は必要なのだと思うのです。何を固いことを、と仰るかも知れませんが、こうあるべきだという信念・信条を持って臨まないと、特に撮影の面では安易な方へ、楽な方へ、人間本位な方へ、ダークサイドの方へとどんどん流れていってしまうからです。

繰り返しになりますが、鳥の健康被害も考えずに行う餌付け(庭にミカンを置くのとはわけが違います)。鳥の本能を逆手にとったテープによるおびき寄せ。目的の鳥の撮影のためなら手段を選ばないという発想。これらはすべて撮影者のエゴから派生しています。鳥の側の事情は一切考慮されていません。

亡くなったシロハラの命は、決して還ってきません。これまた繰り返しになりますが、その事実は本当に重いのです。
第二・第三のシロハラを出さないためにはどうしたらいいか。第二・第三の犯人を出さないためにはどうしたらいいか。ブログの友人は、鳥撮に関する一定のルールを決めて、それを周知徹底させるようにしたらどうかと、以前から相当具体的な案を仰っています。あるいは社会的に影響力を持っている方に発言してもらうとか、マスコミやらを巻き込んだキャンペーンを張るとか、考えればアイデアはあると思うのです。

ただ私は、ことの根っこは私たち一人一人のココロの中にあると思うのです。
気軽に始めた鳥の撮影ですが、やっている内にもっとイイ写真が撮りたい、もっと大きく撮りたい、もっと近づきたい、きれいな鳥を撮りたい、珍しい鳥を撮りたい、撮影種を増やしたいと、どんどん欲が出てきますね。いいんです、そのことをどうこう言いたいわけではないんです。そのことは、ある種の向上心にもつながりますし、そういう目的を各々が持っていいんです。遊びも道楽も、徹底しなけりゃ面白くはなりませんから。

でも、ある段階で気づいていただきたいのです。ちょっと立ち止まって、いまの撮影手法や鳥へのアプローチの仕方について考えてみていただきたいのです。なんか違わないですか? なんか変ではないですか? 自然な状態の鳥を撮ってますか? 撮った写真の鳥の目に、怯えは見てとれないですか? 一羽の小鳥を100人の大人が追いかける、その一員になってはいないですか? 鳥を含めた自然を意識していますか? 撮影本位になっていないですか?

いえ、もっと根源的な問いを発しましょう。

あなたは鳥が好きですか? 鳥は自然の一部ですが、あなたは自然が好きですか? 大切にしていますか?

もしあなたの答えがNoならば、いますぐあなたはフィールドから立ち去るべきです。鳥の命などどうでもいい、自然がどうなろうと関係ないというのであれば、そもそもフィールドに立つ資格がないのです。 資格? その基準は誰が決めるのか? それは、あなたです。誰もその判定はできないのです。なぜならそれは、あなたの奥深くにあって、誰にも見えないからです。
人でもいい、物でもいい、鳥もそうですが、何かを本当に愛するということは、きれいな写真を撮ることだけではないのです。あなたにとって輝けるその何かは、しかし同時に負の側面を必ず合わせ持つものです。陽があれば陰があるように、光り輝くだけのものって、存在しません。輝きの裏側にあるダークサイド、けれども愛するということは、それを本当に愛するということは、そのすべてを抱え込むことではないでしょうか。愛するということは、負の側面を許し、かつ包み込んでしまうことなのではないでしょうか。まるで母が子を思うように。

何を大げさな、と笑うかもしれませんね。けれども、フィールドに立つ、自然に接する、鳥を撮るというとき、そのくらい真摯な面持ちで臨まなくてはならないと思うのです。
フィールドに出たときの、本当の喜び・充足感て何だと思います?
いい写真が撮れればそれも嬉しいですね。珍しい鳥に会えたら、それも嬉しいですね。でも最も気持ちが動くのは、自然を思う気持ちと風景が、あるいは鳥が、あるいは花が、虫でもいい、風でもいい、空の青さや雲の流れでもいい、その両者がピタリと重なる瞬間、その時なんです。いつもいつもその瞬間が訪れるわけではありませんが、必ずあります。そしてそれは多分どなたにもあるのです。
これ以上の“無上の”と呼んで差し支えない喜びが他にあるでしょうか。
ただしこの瞬間は、真摯に自然を思っていなければやってこない瞬間でもあるのです。その瞬間を感じ取れる資格は、やはりあなたの内側深くにあるのです。


毎年購入している「野鳥カレンダー」には、こう書いてあります。

Today Birds,Tomorrow Man  鳥たちのいのち、私たちの明日

あらゆる命は美しいものです。人の命も鳥の命も草の命も、みな等しく美しいのです。ですから、人だけが突出してはならないのです。
少しだけ、少しだけでいいから“謙虚”ということを学びましょう。そうしたら、シロハラに石を投げてしまった彼にさえも、上の歓喜の瞬間は訪れるのです。そう思うのです。

長々と書き連ねてしまいました。全部お読みいただいた方がもしいらっしゃったら、いえ途中までの方にも、ありがとうございました。