他ブログのコメント欄を読んでいたら、とある方が法科大学院制度の功績として論証パターン(以下「論パ」とします。)が減ったことを挙げておられました。
この論パについては、法科大学院制度導入の根拠づけ「予備校批判編」において、プロパガンダとして使用されたものなのですが、本気にしちゃっている方も多いのですね。
ちなみに、とある新試合格者祝賀会に行ったところ、新試合格者も普通に論パ使ったと言ってましたけど・・・。
まあ、そんなことはどうでもいいですが、
問題は、旧試と論パです。
旧試に論パの使用が多いとして、そこが問題だとすれば、旧試でも論パ使用答案の評価を下げれば、論パは淘汰されるのではないかと思うのですが、さてさて、どうなのでしょうか。
まず、論パとはなんでしょうか。
論パというのは、たいてい定義と規範定律をまとめたもので、これを答案にそのまま書くことを論パ掃出し答案として、法科大学院推進者に思考停止の暗記バカの烙印を押されてしまいます。
さて、旧試答案は、規範定律の後に、「あてはめ」という答案に即して規範を事実に適用して結論を導くという作業をして完成するのですが、このあてはめは、事案に応じて異なるので、パターンになじみません。
したがって、あてはめパターンというのはあまり見たことありません。
さて、論パは、どこが悪いのか。
まずは、定義。
定義というのは、主に有名基本書から引用されます。判例からの場合もあります。受験界には、受験界通説を支える基本書というのがあり、そこから引用されるのですが、当該基本書に定義がなかったり、覚えやすさなども考慮され、参考書と呼ばれる副読本から引用されることもあります。
定義そのものは、智の結晶のように扱われることがあり、素人が簡単に作成できるような代物ではないので、英単語同様「覚えるもの」として扱われることが多いようです。これを忘れて、現場で自分で考えて作成することは禁忌とされ、減点を覚悟するものとされていました。
まあ、定義というものの性質上、概念が共有されないといけないですからね。
したがって、定義自体を論パで覚えること自体は問題なさそうです。
ただし、定義に学説の特色が盛り込まれる場合もあるので、そのような場合、気を付けないと定義と規範がつながらなくなる場合もあります。
次に、規範定律のところです。
これも定義と同じく判例や受験界通説の基本書などから引用されます。
判例や基本書を吐き出したことが、評価を下げる原因となるのでしょうか。
下げたのだとしたら、判例や基本書が悪いのでしょうか?
論パの罪として、金太郎答案、思考停止ということが言われています。
ということは、答案上で学説や判例を無視ないし批判して、自分の頭で「オリジナル」の学説を書くことが求められているのでしょうか。
実務家の試験ですよね。訴状や準備書面などでも「オリジナル」の見解を書くと評価してくれるのでしょうかね。
「独自の考え」というのは実務で評価されているのでしょうか。褒め言葉なのですかね。
学者としては、採点していて、いつも同じ学説ばかり書かれて、自分の学説で書かれた答案が見られないというのはフラストレーションがたまるかもしれませんが・・・。
う~ん。規範定律自体は、論パ掃出しでも、目くじらを立てるほどのことではないと思うんですけどね。
(ちなみに、個人的には予備校の論パに依存はしてませんでした。参考にはしましたが、論パの論点を自分なりに使いやすいようにオリジナルのものを作ってました。)
よく言われたことは、規範定律までは、規定演技だということです。
それに、論パ掃出し答案に問題があるというのであれば、規範定律までの配点を下げればいいだけのことであって、旧試でも少なくとも最後の方は、あてはめが重視される傾向にあったと思われます。
つまり、受験生としては、規範定律までの規定演技に時間をかけるというのは愚であって、論パのように事前準備によって、極力時間を短縮することは、合理的なことだったのです。
実際、答案は、流れというものが非常に重要であって、答案内に矛盾(これは致命傷)が生じず、問題文の事案を十分に分析した答案を書く、そのための答案構成というものに時間をかけたほうが、規範定律までに頭を使うよりもはるっかに効率的だったのです。
つまり、論パを吐き出すこと、それ自体の問題はさほど大きくはないのですが、論パという特殊な響き特殊な形態は、プロパガンダとして攻撃対象とするするのには格好の標的だったとはいえるのです。
要するに、論パとは、法曹養成制度改革におけるマリー・アントワネットだったのだということです。
(※マリーアントワネットは、「弁護士事務所に就職できなければ、企業に就職すればいいじゃない。」と言ったと批判されていますが、マリーアントワネット自身はそのようなことは言っていないとされています。)
それより、論パの弊害は別のところにあったといわれています。
昔、よくいわれてたのは、予備校通説は答案の書きやすさを重視するために論点間の接続が悪くなっているところがあるということで、そこは学者からよく指摘されていました。
例えば、団藤大塚説に、責任論だけ大谷説が継ぎ接ぎされているとかいう文句?を聞いたこともあります。
ただね~。これは、大谷説自体の問題のような気もして、学生じゃなくて大谷先生に文句言ってくれよって、ところもあったよな・・・。
ただ、学説命の学者としては、こういうところは非常に気持ちが悪く感じるようで、こういう答案を大量に見せられるとフラストレーションが相当溜まったのではないでしょうか。
学者はやはり学説に目が行ってしまうようですが、司法試験においては「あてはめ」がやはり重要なのです。
この点は、学者と実務家になるための司法試験の視点の違いがあるのだと思います。
ここを勘違いしたままだと、法科大学院における教育において学者教員は、学部と同じ過ちを犯してしまうでしょう。実務家登用試験なのですから、語弊を恐れずに言えば、細かな学説などどうでもいいのです。判例と伝統的通説を抑えていれば。
最新論点はどうするのかって?
これを障害もなく乗り越えてしまう最新有力説より、最新有力説の考えを理解しつつも判例通説で何度もぶつかりながら泥臭く趣旨から丁寧に書いた方が評価は高い(と思います。)。
それに、論点間における学説の齟齬の問題、これは論パというより、予備校通説の問題であって、予備校テキストにも言えることです。
ただし、予備校の目標は、「司法試験に合格すること」であって、「司法試験に上位で合格すること」ではなかったので、学説としての美しさに欠けるところはあっても、答案作成上致命傷にならなければ、それで構わなかったのです。
なお、予備校テキストのどこに疑義があるかは、当時から情報として流通していましたので、気を付けていれば知ることはできました(自分は、基本書を読むのが好きで基本書主義だったので、予備校テキストは参考書扱いでしたけど・・・)。
実際、合格者の多くは、論パをうまく活用していましたし、「単に論パを吐きだす」などという方法、ましてや「論パによって」合格したなどという人は聞いたことがありません。
仮にそのような合格者がいたとしたならば、大多数の受験者の「あてはめ」が壊滅状態で、規範定律までの採点で合否を決定しなければならないという場合でしょう。これは、受験者のレベルが信じられないほど(あてはめが何も書かれていないに等しいほど)相当低かったということでしょうが、そうであったとしても、そのような合格者は一部の下位合格者であって、これを理由に、旧試合格者全体が論パ重視の暗記バカという論証にはならないということは付言しておきます。
何が言いたいかというと、
論パは使いようであって、論パそのものが悪いというわけではないと思うのです(論パ発祥とされる有名予備校でも、「ただ丸暗記するなんてことしないでね」って言ってましたけどね。)。
おそらく実質的な批判の矛先は、自分で考える答案が少ないということなのだと思います。
自分で考えてない=暗記重視=論パという発想で、論パが生贄にされたのでしょう。
論パに期待しすぎです。最初から、論パは、そこまでを担えるものではありません。
旧試答案の論点抽出からあてはめまで、論パが担っていたものは、そのごく一部の簡易ツールにすぎません。
ちなみに、この自分で考える部分というのは、「あてはめ」です。
この「あてはめ」にも注意が必要で、自分で立てた規範と繋がっていないといけません。
全く自由に考えればいいというわけではないのです。
全く自由だとただの感想文です。「君の書いた規範はなんだったの?」って言いたくなります。
例えば、規範を立てるときに使った趣旨、自分で立てた以上、最後まで使い切ってほしいのです。
いくつかの要素を考慮して規範を立てたならそこを最後まで活かしてほしいんですよ。
例えば、静的安全と取引の安全とをどう天秤にかけたのか。なんで取引の安全を重視したのか。遡っていくとヒントが見つかることもあります。全て繋がって答案が完成するのです。
一見おかしなことになりそうなときは、規範を導き出した制度趣旨に遡ると糸口が見つかることは多いです。
趣旨に遡れる事情は、問題文にヒントが散らばっているものです。
当たり前ですが、これを書くには、規範まではしっかりかけていることが前提です。
規定演技なのですから。
論パとは規定演技を抽出したものなので、書けて当然の基礎学力なのです。
勘違いしていけないのは、この基礎学力ができていなくて、自由演技はできないのです。
論パを敵視するあまりにこれをおろそかにされているとしたら、愚の骨頂です。
規定演技は予備校的でいいんです。ここまで敵視すれば教育現場が混乱するのは当たり前ですし、初学者は、規定演技もできずに自由演技を強いられます。
踊りの審査で、
型も知らない人間に自由に踊ってみろとしたらどうなるでしょうか。
よほどセンスがあればともかく、普通は踊りと呼べる代物にはならないでしょう。
型ができる人間に自由に踊ってみろというのとは違うのです。
自由演技のヒントになる講座も予備校ではあったけどメインでないので、自分に合った講座を探すというのも予備校では重要だった。逆に選択できるのは予備校の良いところでもあった。
確かに自由演技を「教える」のって難しいんですよね。自由じゃなくなってしまいますからね。ヒントが限界なのかな。
そういう意味では、予備校べったりよりは、そこから自由演技を発展できる人、つまり、予備校を活かせる人の方が受かっていたと思う。
今の予備校批判とそれに基づく法科大学院教育は、いわば、
型は知っているが自由演技ができない人間が多いので、型通りの人間が多すぎるとして、型まで自由にしてしまったようなものなのです。
だいたい、今まで大学は規定演技の教育ですら、まともにできなかったくせに・・・その反省が全くない。
そりゃあ、混乱するわ。
※ 問題は、結局、論パがどうとかでなく、すぐ有名論点に引きずられるとか問題分析に関する能力不足が大きかったのかな、という気がする。
これは、予備校とかあんまり関係ないんじゃないかな。
逆に、論パだとかプロパガンダにこだわって、教える側が思考停止になる方が怖い。こういう生贄を作ると、それ以上、分析しようっていう気が失せて、何が本当に問題なのかわからなくなるからね。
予備校を批判するのは簡単だけど、大学は今まで何をしてきたのかって言いたいね。
学説のどうでもいいところは予備校の大教室に任せて、例えば少人数ゼミ形式で、問題の本質を深く分析するアカデミックな部分こそ大学は求められてると思うんだけどね。
まあ、そこで自分の学説に拘るようじゃ無理だろうけど・・・。
この論パについては、法科大学院制度導入の根拠づけ「予備校批判編」において、プロパガンダとして使用されたものなのですが、本気にしちゃっている方も多いのですね。
ちなみに、とある新試合格者祝賀会に行ったところ、新試合格者も普通に論パ使ったと言ってましたけど・・・。
まあ、そんなことはどうでもいいですが、
問題は、旧試と論パです。
旧試に論パの使用が多いとして、そこが問題だとすれば、旧試でも論パ使用答案の評価を下げれば、論パは淘汰されるのではないかと思うのですが、さてさて、どうなのでしょうか。
まず、論パとはなんでしょうか。
論パというのは、たいてい定義と規範定律をまとめたもので、これを答案にそのまま書くことを論パ掃出し答案として、法科大学院推進者に思考停止の暗記バカの烙印を押されてしまいます。
さて、旧試答案は、規範定律の後に、「あてはめ」という答案に即して規範を事実に適用して結論を導くという作業をして完成するのですが、このあてはめは、事案に応じて異なるので、パターンになじみません。
したがって、あてはめパターンというのはあまり見たことありません。
さて、論パは、どこが悪いのか。
まずは、定義。
定義というのは、主に有名基本書から引用されます。判例からの場合もあります。受験界には、受験界通説を支える基本書というのがあり、そこから引用されるのですが、当該基本書に定義がなかったり、覚えやすさなども考慮され、参考書と呼ばれる副読本から引用されることもあります。
定義そのものは、智の結晶のように扱われることがあり、素人が簡単に作成できるような代物ではないので、英単語同様「覚えるもの」として扱われることが多いようです。これを忘れて、現場で自分で考えて作成することは禁忌とされ、減点を覚悟するものとされていました。
まあ、定義というものの性質上、概念が共有されないといけないですからね。
したがって、定義自体を論パで覚えること自体は問題なさそうです。
ただし、定義に学説の特色が盛り込まれる場合もあるので、そのような場合、気を付けないと定義と規範がつながらなくなる場合もあります。
次に、規範定律のところです。
これも定義と同じく判例や受験界通説の基本書などから引用されます。
判例や基本書を吐き出したことが、評価を下げる原因となるのでしょうか。
下げたのだとしたら、判例や基本書が悪いのでしょうか?
論パの罪として、金太郎答案、思考停止ということが言われています。
ということは、答案上で学説や判例を無視ないし批判して、自分の頭で「オリジナル」の学説を書くことが求められているのでしょうか。
実務家の試験ですよね。訴状や準備書面などでも「オリジナル」の見解を書くと評価してくれるのでしょうかね。
「独自の考え」というのは実務で評価されているのでしょうか。褒め言葉なのですかね。
学者としては、採点していて、いつも同じ学説ばかり書かれて、自分の学説で書かれた答案が見られないというのはフラストレーションがたまるかもしれませんが・・・。
う~ん。規範定律自体は、論パ掃出しでも、目くじらを立てるほどのことではないと思うんですけどね。
(ちなみに、個人的には予備校の論パに依存はしてませんでした。参考にはしましたが、論パの論点を自分なりに使いやすいようにオリジナルのものを作ってました。)
よく言われたことは、規範定律までは、規定演技だということです。
それに、論パ掃出し答案に問題があるというのであれば、規範定律までの配点を下げればいいだけのことであって、旧試でも少なくとも最後の方は、あてはめが重視される傾向にあったと思われます。
つまり、受験生としては、規範定律までの規定演技に時間をかけるというのは愚であって、論パのように事前準備によって、極力時間を短縮することは、合理的なことだったのです。
実際、答案は、流れというものが非常に重要であって、答案内に矛盾(これは致命傷)が生じず、問題文の事案を十分に分析した答案を書く、そのための答案構成というものに時間をかけたほうが、規範定律までに頭を使うよりもはるっかに効率的だったのです。
つまり、論パを吐き出すこと、それ自体の問題はさほど大きくはないのですが、論パという特殊な響き特殊な形態は、プロパガンダとして攻撃対象とするするのには格好の標的だったとはいえるのです。
要するに、論パとは、法曹養成制度改革におけるマリー・アントワネットだったのだということです。
(※マリーアントワネットは、「弁護士事務所に就職できなければ、企業に就職すればいいじゃない。」と言ったと批判されていますが、マリーアントワネット自身はそのようなことは言っていないとされています。)
それより、論パの弊害は別のところにあったといわれています。
昔、よくいわれてたのは、予備校通説は答案の書きやすさを重視するために論点間の接続が悪くなっているところがあるということで、そこは学者からよく指摘されていました。
例えば、団藤大塚説に、責任論だけ大谷説が継ぎ接ぎされているとかいう文句?を聞いたこともあります。
ただね~。これは、大谷説自体の問題のような気もして、学生じゃなくて大谷先生に文句言ってくれよって、ところもあったよな・・・。
ただ、学説命の学者としては、こういうところは非常に気持ちが悪く感じるようで、こういう答案を大量に見せられるとフラストレーションが相当溜まったのではないでしょうか。
学者はやはり学説に目が行ってしまうようですが、司法試験においては「あてはめ」がやはり重要なのです。
この点は、学者と実務家になるための司法試験の視点の違いがあるのだと思います。
ここを勘違いしたままだと、法科大学院における教育において学者教員は、学部と同じ過ちを犯してしまうでしょう。実務家登用試験なのですから、語弊を恐れずに言えば、細かな学説などどうでもいいのです。判例と伝統的通説を抑えていれば。
最新論点はどうするのかって?
これを障害もなく乗り越えてしまう最新有力説より、最新有力説の考えを理解しつつも判例通説で何度もぶつかりながら泥臭く趣旨から丁寧に書いた方が評価は高い(と思います。)。
それに、論点間における学説の齟齬の問題、これは論パというより、予備校通説の問題であって、予備校テキストにも言えることです。
ただし、予備校の目標は、「司法試験に合格すること」であって、「司法試験に上位で合格すること」ではなかったので、学説としての美しさに欠けるところはあっても、答案作成上致命傷にならなければ、それで構わなかったのです。
なお、予備校テキストのどこに疑義があるかは、当時から情報として流通していましたので、気を付けていれば知ることはできました(自分は、基本書を読むのが好きで基本書主義だったので、予備校テキストは参考書扱いでしたけど・・・)。
実際、合格者の多くは、論パをうまく活用していましたし、「単に論パを吐きだす」などという方法、ましてや「論パによって」合格したなどという人は聞いたことがありません。
仮にそのような合格者がいたとしたならば、大多数の受験者の「あてはめ」が壊滅状態で、規範定律までの採点で合否を決定しなければならないという場合でしょう。これは、受験者のレベルが信じられないほど(あてはめが何も書かれていないに等しいほど)相当低かったということでしょうが、そうであったとしても、そのような合格者は一部の下位合格者であって、これを理由に、旧試合格者全体が論パ重視の暗記バカという論証にはならないということは付言しておきます。
何が言いたいかというと、
論パは使いようであって、論パそのものが悪いというわけではないと思うのです(論パ発祥とされる有名予備校でも、「ただ丸暗記するなんてことしないでね」って言ってましたけどね。)。
おそらく実質的な批判の矛先は、自分で考える答案が少ないということなのだと思います。
自分で考えてない=暗記重視=論パという発想で、論パが生贄にされたのでしょう。
論パに期待しすぎです。最初から、論パは、そこまでを担えるものではありません。
旧試答案の論点抽出からあてはめまで、論パが担っていたものは、そのごく一部の簡易ツールにすぎません。
ちなみに、この自分で考える部分というのは、「あてはめ」です。
この「あてはめ」にも注意が必要で、自分で立てた規範と繋がっていないといけません。
全く自由に考えればいいというわけではないのです。
全く自由だとただの感想文です。「君の書いた規範はなんだったの?」って言いたくなります。
例えば、規範を立てるときに使った趣旨、自分で立てた以上、最後まで使い切ってほしいのです。
いくつかの要素を考慮して規範を立てたならそこを最後まで活かしてほしいんですよ。
例えば、静的安全と取引の安全とをどう天秤にかけたのか。なんで取引の安全を重視したのか。遡っていくとヒントが見つかることもあります。全て繋がって答案が完成するのです。
一見おかしなことになりそうなときは、規範を導き出した制度趣旨に遡ると糸口が見つかることは多いです。
趣旨に遡れる事情は、問題文にヒントが散らばっているものです。
当たり前ですが、これを書くには、規範まではしっかりかけていることが前提です。
規定演技なのですから。
論パとは規定演技を抽出したものなので、書けて当然の基礎学力なのです。
勘違いしていけないのは、この基礎学力ができていなくて、自由演技はできないのです。
論パを敵視するあまりにこれをおろそかにされているとしたら、愚の骨頂です。
規定演技は予備校的でいいんです。ここまで敵視すれば教育現場が混乱するのは当たり前ですし、初学者は、規定演技もできずに自由演技を強いられます。
踊りの審査で、
型も知らない人間に自由に踊ってみろとしたらどうなるでしょうか。
よほどセンスがあればともかく、普通は踊りと呼べる代物にはならないでしょう。
型ができる人間に自由に踊ってみろというのとは違うのです。
自由演技のヒントになる講座も予備校ではあったけどメインでないので、自分に合った講座を探すというのも予備校では重要だった。逆に選択できるのは予備校の良いところでもあった。
確かに自由演技を「教える」のって難しいんですよね。自由じゃなくなってしまいますからね。ヒントが限界なのかな。
そういう意味では、予備校べったりよりは、そこから自由演技を発展できる人、つまり、予備校を活かせる人の方が受かっていたと思う。
今の予備校批判とそれに基づく法科大学院教育は、いわば、
型は知っているが自由演技ができない人間が多いので、型通りの人間が多すぎるとして、型まで自由にしてしまったようなものなのです。
だいたい、今まで大学は規定演技の教育ですら、まともにできなかったくせに・・・その反省が全くない。
そりゃあ、混乱するわ。
※ 問題は、結局、論パがどうとかでなく、すぐ有名論点に引きずられるとか問題分析に関する能力不足が大きかったのかな、という気がする。
これは、予備校とかあんまり関係ないんじゃないかな。
逆に、論パだとかプロパガンダにこだわって、教える側が思考停止になる方が怖い。こういう生贄を作ると、それ以上、分析しようっていう気が失せて、何が本当に問題なのかわからなくなるからね。
予備校を批判するのは簡単だけど、大学は今まで何をしてきたのかって言いたいね。
学説のどうでもいいところは予備校の大教室に任せて、例えば少人数ゼミ形式で、問題の本質を深く分析するアカデミックな部分こそ大学は求められてると思うんだけどね。
まあ、そこで自分の学説に拘るようじゃ無理だろうけど・・・。