しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

アメリカ合衆国50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記。

old telescopesIMG_8453IMG_8424IMG_8429IMG_8434IMG_8448

 3週間前にも深大寺と国立天文台あたりを歩きましたが,この日は,国立天文台の太陽望遠鏡が特別公開されていることといつもお昼に来ないので食べることができなかった深大寺そばを食べようと,ふたたびやってきました。JR中央線の三鷹駅から歩くとけっこうな距離があるので,今回はバスに乗りました。
 子供のころに読んだ星の図鑑に載っていた「東京天文台」は私の憧れでした。そのころの「東京天文台」のシンボル的な存在は65センチメートルの屈折望遠鏡と10メートルの赤道儀型電波望遠鏡,そして,太陽塔望遠鏡でした。前回書いたように,65センチメートルの屈折望遠鏡は今一般に公開されていますが,10メートルの電波望遠鏡は解体されてしまいました。
 そして,太陽望遠鏡は薄暗い森の中に建物だけを見ることができます。その太陽望遠鏡の内部が公開されるということだったで行ってみたわけです。

 このアインシュタイン塔とよばれる太陽望遠鏡は,1924年9月に東京天文台が麻布から三鷹に移転した際に整備された基幹望遠鏡のひとつで,東京帝国大学営繕課が設計,中村工務所が施工し,1930年(昭和5年)に完成したものだそうです。光学系は65センチメートルの屈折望遠鏡同様にカール・ツァイス製です。
 高さ約20メートルの天辺のドームから入った太陽の光をドーム内の口径65センチメートル,焦点距離14.5センチメートルのシーロスタットという2枚の平面鏡に反射して垂直に取り込んで,半地下室に送ります。半地下室ではスリットとプリズムによりスペクトルとして分解された太陽光を写真乾板へと転写することで観測を行うという構造です。
 建物の構造は鉄筋コンクリート造りで,地上5階,地下1階建てです。塔全体が望遠鏡の筒の役割を果たしていることから「塔望遠鏡」といわれています。ドイツ・ベルリン市郊外にあったポツダム天体物理観測所のアインシュタイン塔と同じ研究目的で造られたことから「アインシュタイン塔」ともよばれます。
 当初はドイツ・ツァイス製だった2枚のガラス製の平面鏡は,1953年から1957年にかけて,日本光学製の熱膨張係数の小さな溶融水晶に,また,屈折望遠鏡は,日本光学製の色収差のない口径48センチメートル合成焦点距離22メートルのカセグレン式反射望遠鏡に改造されました。
 また,2008年に発足したアーカイブ室の手により復活が行われて,2012年にはドームの改修と望遠鏡駆動機構の改修が行われ,焦点部に太陽像を結像しプリズム分光器によるスペクトルが見られるようになりました。この建物は国の登録有形文化財になっています。

 この望遠鏡は,本来はアルベルト・アインシュタインの一般相対性理論に基づいた太陽の重力によって光のスペクトルがわずかに長くなる現象(「アインシュタイン効果」といいます)を検出するために作成されたものですが,この程度の装置では実際にアインシュタイン効果を観測することはできませんでした。しかし,第二次世界大戦後に改良された光学系を用いて太陽の磁場の観測や太陽フレアの観測で大きな成果を挙げました。その他の往年の主な研究業績は,マグネシウム三重線の輪郭の研究,ドップラー効果による太陽自転の測定,太陽黒点のゼーマン効果,太陽黒点の分子スペクトルの研究などがあげられます。

 古びた幽霊の出そうな建物を入って階段を5階まで上がっていくと,やがて屋上のドームの中に出ました。改修されたドームはアストロ光学製,シーロスタッドにはカールツアイスと日本光学製というメーカーの刻印が間近に見られてとても興味深いものでした。
 晴れていれば太陽のスペクトルが見られるといくことですが,幸いこの日は快晴でした。公開日に晴れるのも珍しいのだそうです。そこには年代物の平面鏡が存在していて,係りの人がなんとか手動でシーロスタッドを動かして太陽を送り込もうとしていました。
 手動でシーロスタッドを操作して太陽を入れるのにずいぶんと苦労されていましたが,なんとか成功しました。階下まで降りる途中で太陽からの光が,まさに望遠鏡の原理通りに送られているのを見ることはなかなか見られないので,興味深いものでした。こうして送られた太陽光によって階下でスペクトルを見ることができました。
  
 この建物の奥に,たくさんの望遠鏡が保存されていました。聞いてみると,それらはかつて愛知県北設楽郡東栄町にあった金子天文台で使われたものだそうです。私は,今から40年も前,この金子天文台に行ったことがあり,金子さんともお話をしたので,とても懐かしくなりました。
 こうして,往年の貴重な機材が今も保管されているのは喜ばしい限りですが,私は,この6月に行ったロスアンゼルス郊外のウィルソン山天文台の充実した保存状態を見てしまったので,それに比べると,お金もなく,ほそぼそと埃だらけの状態でしか,こうして保存ができないこの日本という国の貧困さを改めて認識するという結果になって,さびしく感じたことでした。

IMG_5462IMG_5491IMG_5492IMG_5461

●サンディエゴに来たわけは●
 サンディエゴ(San Diego)はカリフォルニア州でロサンゼルスに次いで人口が多く,約130万人。ちなみに,ロスアンゼルスは約380万人である。
 1542年にポルトガル生まれのスペインの探検家フアン・ロドリゲス・カブリージョ(Juan Rodríguez Cabrillo) ージュアン・ルドリゲシュ・カブリーリュ(João Rodrigues Cabrilho)ともいうー がスペイン船でロマ岬(Point Loma)に到着し,この地を「サン・ミゲル(San Miguel)と名づけた。1602年,植民地開拓に来たスペイン人のセバスティアン・ビスカイノ(Sebastián Vizcaíno)が「サン・ディエゴ・デ・アルカラ」の祭りの日に「サン・ミゲル」から「サン・ディエゴ」に町の名前を変更し,これ以来この都市の名前となった。

 私はロサンゼルスには全く魅力を感じないが,サンディエゴはゆっくりと過ごしてもよい町だと思っている。この町のダウンタウンはデンバーやオレゴン州のポートランドなどと同じような,アメリカの大都市にしては歩いて観光ができるすてきな場所であるから,若き日の八神純子さんがほれ込むのも無理はない。
 そしてまた,現在,アメリカの大都市はどこも宿泊代が高いが,私が予約したサンディエゴのダウンタウンのホテルは安価で,しかも,過ごしやすいところであった。
 インターステイツを降りたところにそのホテルはあった。ホテルの前の道路は一方通行で,アクセスする方法が少しわかりにくかったが,それが逆に車が通らないというメリットとなっていた。
 チェックインをして部屋にキャリーバッグを入れ,さっそく町に出てみた。

 今回,サンディエゴに2泊したが,夕方に到着して出発の日は早朝なので,サンディエゴの滞在はその中日のわずか1日であった。私はその日にサンディエゴを観光する気持ちはなかった。今回,私がサンディエゴに来た理由は,パロマ天文台に行くためであったからだ。しかし,この,私がサンディエゴに来た理由は消滅してしまう。それは後で詳しく書くことになるが,パロマ天文台に行くことができなかったからである。
 ただし,私がサンディエゴに来たのは,パロマ天文台に行くということに加えて,MLBサンディエゴ・パドレスの新しいボールパークに行ってみたいという理由もあった。

 私が前回サンディエゴに来たのは7年前のことであった。このときもサンディエゴ・パドレスのゲームを見たが,そのとき行ったのは古いボールパークであった。
 サンディエゴ・パドレスは1969年に創設された比較的新しいチームで,創設以来,クアルコム・スタジアム(Qualcomm Stadium)をホームグランドにしていた。このクアルコム・スタジアムはNFL(アメリカンフットボール)のサンディエゴ・チャージャーズと兼用する,クッキーカッター型の,コンクリート丸出しで代表的な不人気ボールパークであった。
 そのときのゲームはサンディゴ・パドレスとニューヨーク・メッツが対戦し,ニューヨーク・メッツには新庄剛志選手がいた。そして,サンディエコ・パドレスではメジャーリーグを代表するセーブ投手のトレバー・ホフマン(Trevor William Hoffman)が登板した。
 今から思えばよき昔のことである。

 岩波新書の「文庫解説ワンダーランド」を読みました。著者の斎藤奈美子さんは私と同い年の人で,朝日新聞の書評委員をやっていたとき,書評がとても面白く,また,朝日新聞の文芸時評を担当していたときも,楽しく読んだ記憶があります。
 この本は,文庫の後づけに書いてある解説に目をつけ,その解説を批評して楽しんじゃおうという内容の本で,相変わらず,辛らつなその書きっぷりに,私は,全く飽きることもなく読み進むことができました。
 上野千鶴子さんよりもひと回り近く若い人ですが,こうした文才に長けた頭のいい女性の文章というのは,えてして読者をけむに巻き,快感に浸らせ,そしてまた,決して飽きさせません。しかし,私もそれなりに歳をとり,時には助けられ,また,あるときは裏切られた,そんな経験が豊富になると,こうした優秀な女性に対して,敬意とともに,恐れをいだきます。お会いしたこともないし将来もお会いすることもないので迂闊なことは言えませんが,文章を読んでいる限りは共感をし好意をもっても,いざお会いして話でもすれば,たちどころに大嫌いになる,そんな人なのかもしれません。
 いずれにしても,そんなあり得ない話はよしとしましょう。

 この本に書かれているのは,ほとんどの文庫本の末尾にある「解説」を批評するという「禁じ手」を確信犯として行ったものです。私は文庫本を読んでも -いや,今はめったに読まないのですが- 解説など読んだこともないので,解説はあってもなくてもどうでもよいのですが,そんな刺身のつまのようなものまでも批評されては,出版社も,そして,アルバイト気分で気楽にそれを書いた人もたまりますまい。
 ということで,私は,直接それに対して意見を書くこともできないので,話を間接的にしてごまかします。
 私に思い当たるのは,クラシック音楽を聴きにいったときにもらえるパンフレットに書かれた演奏家や曲の解説です。これもまた,知らない演奏家や曲を聴くときにずいぶんと助けになります。しかし,時には,白紙で聴いたほうがよいのに,事前にそれを読むことで必要のない先入観を抱いてしまう危険性があります。とここまで書いて,文庫本の解説は読むとしても実際に本を読んだ後であるのに対して,演奏会のそれは聴く前に読むことが多いということに気づきました。同じ解説といってもずいぶんと性格が異なるものです。ならば,文庫本も,特に古典などは,本文の前に解説があってもよさそうな気がしてきました。それに対して,通常の小説などの場合に書かれてあるのは,解説ではなく,それは単なる名の通った人の読書感想文,つまり,私はあんたより深く読んでいるんだよよく知っているんだよ,といった類の自慢話なのです。
 NHKFMで生放送されているN響定期公演の曲の前後の解説は,解説者によってずいぶんと性格が異なっているので,それぞれ好き嫌いはあるのでしょうが,あれほど知的でかつためになる存在はなく,私もそれを聞くと賢くなった気さえするのに対して,文庫本の解説にそうした気持ちをいだかないのも,そう考えると納得のいく話です。なので,この本は,そうした自慢話をけちょんけちょんにしているからおもしろいわけです。
 音楽の解説とは異なり,文学の解説というのは,文字というものに対してそれをまた文字で語るものだから,それこそ,私がいつもここに書いているように「言葉に酔っているだけ」の粋をでることはできないのです。

 だから齋藤奈美子さんはずるいのです。そうした文章を書けば受ける(=本が売れる)ということを知っていて,あえて喧嘩を仕掛けているからです。
 以前,私が現職だったときに,職場にとんでもない上司がいました。彼は何事もダメ出しをしけなし,そして,どこがいけないかと聞くと,自分で考えろと突っぱねるわけです。よくある典型的な愚かな上司の手口です。あのやり方を使えば,次に相手がどう出てこようと,その出方次第で再びすべてをけなすことができるわけで,それはよい仕事をすることが目的ではなく,自分を偉ぶって見せているだけなのです。つまり,これはパワハラ以外の何ものでもなく,そうすることで,自分の「ありもしない」権威とか威厳を保とうとしているだけなのです。
 この本もまたそれに似ています。だって,この本で斎藤奈美子さんは,どういう解説が優れているかとか,解説はどういうものであるべきかといった自分の考えは書かず,単に上から目線で,既成の解説をけなしにかかっているからです。賢い著者はこれもまた計算づくのことで,おそらく確信犯なのでしょう。

 いずれにせよ,ここ数年で時代は完全に変わりました。今や,紙媒体の新聞を読み,現金で買い物をし,権威やら地位に価値観をもつという,そうしたすべては,完全に時代おくれとなりました。しかし,世の中には,そうした変化についていくことのできない哀れなおじさんおばさんが依然としてたくさんいるわけです。
 この本は,そうした時代遅れの価値観を引きずっているということが最大の悲劇です。今やもう,言葉に酔ってモノを書いたところで,そんなものに興味をもたない若者たちが,この人工知能の時代を謳歌しはじめているからです。将棋界に「(古い考えの従来の)ヤグラ(戦法)は死んだ」と叫んだある有望若手棋士がいましたが,それと同様に,もはや「文学も死んだ」からです。
 インテリが言葉遊びに酔って,自分の賢さをアピールするような時代はすでに遠い昔のこと。これでは本が売れるはずがありませんから,文庫本の解説自体,もはやなんの意味ももたないのです。そしてまた,たとえ本を読んだとしても,そのあとでさらに文庫本の末尾のお粗末な解説など読まずとも,作品の解説も感想も批評も,そんなものはネット上にごろごろあるのです。

IMG_8483

DSC_2740DSC_2745DSC_2747DSC_2749DSC_2750

●アメリカは人も車も多すぎる。●
 ドジャースがリードしたまま,クレイトン・エドワード・カーショウ投手は5回で降板した。このままいけば勝利投手であった。これでお勤めご苦労さんといった平凡なゲームであった。
 最後までゲームを見届ければ帰るときに駐車場はごった返すし,私はこのあとサンディエゴまで行かなければならないので,いつものように,7回表まで見て,7thイニングストレッチが終わったところでボールパークを後にしたが,後で知ったことには,このゲームは終盤にドジャースは大逆転を食らって負けた。
 ドジャースタジアムからはすぐにインターステイツに入ることができる。ロサンゼルスからサンディエコまではインターステイツ5を南に向かって走るだけだった。私は以前走ったときの印象から,このロサンゼルスからサンディエゴまではやたらと車が多いだけでまったく面白みのない道路だということしか印象になかった。

 八神純子さんに「サンディエゴサンセット」という歌がある。
  ・・・・・・
 ハッピーエンドの映画のように
 あなたと旅に出たけど
 こんなに遠くまで来たのは
 彼女を忘れるためなのね
 どうぞ触れてみて
 あなたを愛するこの髪に
 夢のサンディエゴ哀しいほど
 あなたが好きなの
 夢のサンディエゴサンセット今だけは
 私を見つめて
  ・・・・・・
から歌詞がはじまる。
 彼女は若いころアメリカに憧れ,こうした「アメリカ大好き」曲をたくさん作った。そして,念願かなって結婚してアメリカに住んだが,子育てが終わったら,再び日本で活動を再開した。
 これは私の推測だが,彼女は若き日の夢から醒めてしまって,今や,日本のほうが好きなのだろうと思う。それとは違うかも知らないが,私は(も)アメリカ50州を制覇したら,アメリカには夢も興味もなくなった。だから,今はアメリカに住んでいる人をまったく羨ましいとも思わないし,住みたいとも思わない。
 確かに40年くらい前のアメリカには夢がたくさんあった。それは自分が若かったことも多分にあるのだろうが,しかし,当時に比べて,今のアメリカは人も車も多すぎるし,やたらとセキュリティにうるさくピリピリしている。それでも,のどかなロッキー山脈のふもとならまだましだが,大都会なんて御免である。

 ロサンゼルスからサンディエゴまではこのときもまた慢性的な渋滞であった。渋滞の一番の原因は,ロサンゼルスの市内から郊外に出るまでの間,インターステイツ5の車線が少ないということであった。一旦郊外に出れば少なくても片側6車線,多いところは8車線もあるのに,ロサンゼルス近郊は3車線しかない。やっと今,それを拡張する工事をしていた。車線が少ないことに加えて,工事中というのもまた渋滞に輪をかけていた。
 渋滞の中を延々と走っていや気がさしてきたころ,やっと,左手に,テレビで大谷翔平選手が活躍するのを日本で頻繁に見るロサンゼルス・エンジェルスの本拠地「エンジェルス・スタジアム・オブ・アナハイム」(Angels Atadium of Anaheim)が見えてきた。このあたりはディズニーランドもあるオレンジ郡とよばれるところだ。昔はのどかな田舎であったはずだが,今はここもまた一大リゾートタウンだ。
 やがて,やっと車線が増えて,車も順調に走ることができるようになってきたら,そのうちにサンディエゴの摩天楼が遠くに見えてきた。そうしたら,ふたたび道路が渋滞しはじめた。
 何度でも書くが,いまやアメリカは車の洪水である。もう,この国は完全な飽和状態だと言っても過言でない。

◇◇◇
ニューヨークの想い②-貧しきものよ,この国においで。

IMG_5422DSC_2454DSC_2461DSC_2462IMG_5453

●われらが英雄「ヒデ~オ,ヒデ~~オ」●
 ロサンゼルス・ドジャーズといえば,野茂英雄投手を忘れることはできない。野茂英雄投手がいなければ松井秀樹選手もイチロー選手も大谷翔平選手もいない。彼はMLB日本人選手の高見山関である。
 今でもドジャースタジアムにはこの野茂英雄投手の足跡を見ることができるが,これは,シアトルのセイフコフィールドにイチロー選手の足跡を見ることがでできるのと同様に,私にはとてもうれしいことである。

 野茂英雄投手は大阪市出身。「トルネード投法」と呼ばれる独特なフォームから繰り出されるフォークなどで三振を量産した。現在はサンディエゴ・パドレスのアドバイザーをしている。
 日本のプロ野球,近鉄バッファローズに所属していた1994年の契約更改で,数年契約と代理人交渉制度を希望したが,球団はそれを拒否し,この際に「君はもう近鉄の顔ではない」と言い放たれたという。そして,球団は野茂が近鉄でプレーする意思を表明しない限りトレードや自由契約ではなく「任意引退」として扱おうとまでした。さらに,同じ投手出身の監督であった鈴木啓示との確執もあり,野茂英雄投手は近鉄を退団し,メジャーリーグに挑戦した。当時,任意引退による球団の保有権は外国の球団にまでは及ばなかったことから,メジャー球団と契約することが可能だったのだ。
 ただし,当時,日本では野茂英雄投手はまさに「国賊」的な扱いを受けた。日本らしい話である。
 野茂英雄投手は,1995年ロサンゼルス・ドジャースとマイナー契約を結んだ。年俸は近鉄時代の1億4,000万円からわずか980万円になった。そして,5月2日のサンフランシスコ・ジャイアンツ戦でメジャーデビューを果たし,村上雅則投手以来31年ぶり2人目の日本人メジャーリーガーとなった。
 この年のシーズンは13勝6敗を記録した。そして,最多奪三振のタイトルを獲得し,チームの7年ぶりの地区優勝に貢献し,アメリカで「NOMOマニア」という言葉が生まれる程の人気を誇った。
 NHKでは,野茂英雄投手が現役のときは特別扱いをし,登板のときは必ず放送してそれに報いたが,日本の野球界は最後まで冷淡な扱いをしている。

 この日のドジャースの先発はクレイトン・エドワード・カーショウ(Clayton Edward Kershaw)投手であった。クレイトン・エドワード・カーショウ投手はテキサス州ダラス出身で,ロサンゼルス・ドジャースの押しも押されぬエースである。
 2011年には最多勝利,最優秀防御率,最多奪三振の投手三冠を獲得した。また,2014年にはシーズンMVPに輝き,通算で3度サイ・ヤング賞を受賞している。
 オーバースローから常時93マイル,約150キロ前後のフォーシームと80マイル,約140キロの切れ味鋭いスライダーが投球の8割超を占め,そこに縦に大きく割れる70マイル,約110キロのカーブを織り交ぜる。私は,この日の先発がこの大投手であったことに満足した。

 この旅を計画したとき,大谷翔平投手の入団先は決まっていなかった。やがて,ロサンゼルス・エンジェルスに決まったとき,私はその幸運に驚いた。そして,この旅で大谷翔平投手を見ることができることを楽しみにした。ところがどうであろう,この旅行期間中,エンジェルスは地元を離れていて,私にはそれがかなわなかった。そこで,ドジャーズのゲームを見ることになったのだが,それが幸いして大投手カーショーを見る機会に恵まれたのだった。まあ,大谷翔平選手はまだ若いから,あせらずとも近い将来見ることができるであろう。

IMG_8396IMG_8400IMG_8401IMG_8395

 11月9日,N響第1897回定期公演を聴いてきました。おそらくこのコンサートだけなら聴きに行かなかったと思うのですが,私は,今回9月から11月まで3回の定期会員になったので出かけたのです。
 この日のコンサートは,指揮者がジャナンドレア・ノセダさんで,曲目はラヴェルのピアノ協奏曲とプロコフィエフのバレエ組曲「ロメオとジュリエット」(抜粋)でした。ジャナンドレア・ノセダさんはよい指揮者ですが,私には想い入れはありません。
 私はプロコフィエフはよく聴きますが,「ロミオオとジュリエット」は好みでありません。どうも私は,こうした物語的な作品には興味がなく,この曲に限らず,バレイ音楽やR・シュトラウスもドビッシーの交響詩もだめです。

 今回のプログラムで楽しみだったのは,ラベルを弾くアリス・紗良・オットさんのほうでした。
 アリス・紗良・オット(Alice Sara Ott )さんは1988年に ドイツ・ミュンヘン生まれで,父親がドイツ人,母親が日本人という女性ピアニストです。
 後で家に帰ってから調べてみると,彼女は以下のルールをもっているのだそうです。それは,
 ・本番前はルービックキューブ。
 ・ステージの上では裸足。
 ・家でクラシックは聴かない。
 ・買い物はインターネットで。
 ・ウイスキーはストレート。
 ・待ち時間は極力作らない。
 ・練習するより経験する。
 なかなかおもしろい人です。私の席は遠いので見られないかったけれど,ステージ上では裸足ということなので,今度Eテレで放送されるときはしっかりと見なければ,と思いました。

 私は,ラベルやリスト,プロコフィエフなどロマン派の作曲家のピアノ協奏曲は嫌いでなく,というより,好きなのですが,好きとは言ってもなかなか曲と題名が一致しないといういい加減な愛好者です。それでもライブで聴いた回数は決して少なくありません。
 しかし,この日は,ラベルの演奏にも増して,プログラムの後で演奏されたアンコールの2曲がとりわけすばらしいものでした。その2曲というのは,サティのグノシエンヌ第1番とショパンのワルツイ短調でした。聞くところによると,翌日の演奏会でのアンコールはサティのジムノペティ第1番だったそうなので,この日に2曲聴くことができたのは幸運でした。
 どうやら,このピアニストはサティのような曲がお気に入りのようでした。しかもとてもすてきで,心に染みて,私はこれを聴くことができただけでも満足でした。

 この日の演奏会は予想に反して結構混んでいました。私の席のまわりには高校生がたくさんいて,ちゃんと聴くのかなあ,と不安がよぎりましたが,そんな予想に反して,とても行儀のよい生徒さんたちでした。考えてみれは,この日の曲目はみな「のだめカンタービレ」で流れた曲です。その影響もあったのでしょうか?
 私は,昔とは違って,コンサートをストイックに聴くことは卒業して,今は,後ろのほうの席で気兼ねなく楽しむことをよしとするようになりました。美術展も混雑したところに出かけてまで,そして入場を並んでまでして見ようとは思わなくなってしまいました。それは,せっかく俗社会のわずらわしさから離れる楽しみを。そうした俗的なことで奪われたくないからです。
 その点,この,決して音はよくないけれど,駄々広いNHKホールの2階席でのんびりとコンサートを味わうのは,私には殊のほか楽しい時間になるのです。

DSC_1371t (3)IMG_9356s (3)n (1280x853)DSC_1359s (3) 5年ぶりに日本人アマチュア天文家が彗星を発見しました。
 11月8日。まず,香川県の藤川繁久さんが午前4時45分ごろ,そして,徳島県の岩本雅之さんがその30分後の午前5時11分ごろに彗星状の天体の発見を報告しました。
 この新天体は,アメリカ・カリフォルニア州のD・E・マックホルツ(Donald Edward Machholz) さんが前日の午後9時45分に発見した天体と同一であることがわかり,新彗星と確認され「マックホルツ・藤川・岩本彗星」(C/2018V1 Machholz-Fujikawa-Iwamoto)となりました。

 藤川さんも岩本さんもマクホルツさんも有名な人で,これまで多くの彗星や新星,小惑星などの新天体を発見してきたベテランです。
 1960年代,「月刊天文ガイド」の創刊と池谷・関彗星の地球接近が重なったことで,アマチュア天文家による彗星捜索がブームになりました。今でもその流れで彗星を捜索しているのはそのころから続いている年配の人で,今の若者はこんなことには興味はありません。
 趣味など人それぞれですが,こんな非効率な楽しみを今でも続けていることに,私は驚きを覚えます。というのも,地球に天体が衝突するのを避けるために,今は世界中の大型望遠鏡による大規模捜索で,こうした天体のほとんどすべては暗いうちに発見されてしまうからで,昔ながらの彗星捜索での発見はほぼ不可能なのです。それでも,稀にこうした「目こぼし」があるのが不思議ですが,こんな「目こぼし」をしていて地球の危機が救えるのかしら? と私は逆に危機感をもちました。

 この新彗星の位置予報がわかったのですが,それは1週間もすると太陽に近づいて見えなくなってしまうというものだったので,私は,天気予報を見て晴れそうだった14日の早朝,急いで写真を写しに出かけました。前日の夕刻は曇っていたのに予報通り晴れ渡って,しかもとても空気が澄んでいて,地平線近くまで星がきれいに見えたので,地平線近くのおとめ座の星々も肉眼でよく見えて,彗星もすぐに見つかりました。写真に撮ると彗星特有の緑色をした美しい彗星が,そのとなりに銀河NGC4753とともに写りました=1番目の写真。
 この彗星は次第に高度を下げていくので,11月20日ごろまで明け方の東の低空,おとめ座に見えて,7等星ほどまで明るくなるのですが,その後は太陽に接近し見られなくなります。太陽を回ったあとは夕方の西の空に現れるのですが,地平線低いのでおそらく見られません。私はこの日写すことができて幸いでした。

 先週出かけた木曽で彗星をふたつ写したときに,すっかり忘れてしまっていたもうひとつの周期彗星がありました。それが「スイフト・ゲーレルス周期彗星」(64P Swift-Gehrels)で,アンドロメダ座にいました。そのときに写してきた写真をあとで調べてみたら,偶然写したアンドロメダ座銀河M31とさんかく座の銀河M33の写真に写っていました=2番目の写真 が,これでは米粒なので,この晩,改めてこの彗星も写してみました=3番目の写真。
 慌てて出かけたので,わずか30分ほどの滞在ですぐに帰宅しましたが,こうして,早朝にふたつもかわいくて美しい彗星を写すことができて幸せでした。いよいよ来月はウィルタネン彗星の明るくなった姿が見られそうです。

36IMG_8324IMG_8327IMG_8346IMG_8339

 奈良井宿を出て,木曽福島まで戻ることにしました。
 国道19号を走っていくと,宮ノ越に着きました。いつもそのまま通り過ぎるので,一度くらいはと思って,そこで国道を降りて,町に入りました。
 宮ノ越宿は旧中山道36番目の宿場だったところですが,旧街沿いの街並みには当時の面影はほとんどなく,道だけが街道のころの名残をとどめ,そこが舗装されて車道となり,周りの住居が建て直されたというどこにでもある町でした。ただ,当時の本陣跡には立派な建物が再現されていました。江戸時代,宮ノ越宿の宿内家数は137軒で,うち本陣1軒,脇本陣1軒,旅籠が21軒あって,宿内人口は約600人であったということです。

 宮ノ越宿は,宿場関連の史跡よりもむしろ木曽義仲関連の史跡が多いところです。義仲館という博物館があったので,訪ねてみました。義仲館というのは,木曽義仲の生涯を人形や絵画を使って紹介したもので,入口に義仲・巴御前の銅像が建っていました。
 木曽義仲といわれる源義仲は平安時代末期の信濃源氏の武将です。河内源氏の一族である源義賢の次男で,源頼朝・義経兄弟とは従兄弟にあたります。
 以仁王の令旨によって挙兵し,都から逃れたその遺児を北陸宮として擁護,倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破って入京しました。飢饉と荒廃した都の治安回復を期待されたのですが,治安の回復の遅れと大軍が都に居座ったことによる食糧事情の悪化,皇位継承への介入などによって後白河法皇と不和となり,源頼朝が送った源範頼・義経の軍勢によって粟津の戦いで討たれました。
 私たちの年代では,歴史の教科書というよりも,むしろ,古典の教科書のほうで習った「平家物語」で有名だったりします。

 宮ノ越宿は木曽義仲頼みで観光客を誘致しようとしているのはよくわかるのですが,奈良井宿などに比べたらまったく宿場の風情がないので,ほとんど観光客はいませんでした。義仲館もおそらくはずいぶんとお金をかけて維持しているのでしょうが,なかなかその苦労が実っていないのがしのばれました。
 日本にはこうした観光地が各地にみられますが,結局のところ,博物館頼みでは観光客は来ません。そこに必要なのは昔の風情とおいしい食べ物なのです。

 その後,紅葉がきれいだと聞いた開田高原に寄り道しました。確かに美しい紅葉が広がっていました。さらに,ススキ野原が心を癒しました。ただし,この日は御岳に雲がかかっていて,山頂付近が見えませんでした。
 前回来たときは,前夜は雨で星は見えなかったのに,翌日は晴れわたり,雲ひとつなくはっきりと御岳が見えました。本当に観光というのは天気次第だと痛感しました。
 それでも,こんなのどかな場所が私の住んでいる近くにあるというのがとても不思議な気がしました。

 これで宿泊先のペンションに帰ろうと思ったのですが,せっかくここまで来たので御岳ロープウェイの乗り場まで行ってみようと気が変わりました。私はこれまで御岳のロープウェイは乗ったことがありませんでした。
 乗り場は思ったよりも遠く,山道を延々と走っていくと午後4時少し前にやっとロープウェイの乗り場に到着しました。まだ乗れるかと聞くと,帰りの最終が4時15分とのこと,そして,山頂駅まで15分かかるので,着いたらすぐに降りる必要があるという話でしたが,せっかく来たので乗ることにしました。ロープウェイの車内からの景色がとてもよかったので,単に登っておりるだけだったけれど,それでも満足しました。私がこの日の最後の乗客でした。

 翌日帰宅しました。
 こうして,今回の木曽路の旅は,星も紅葉もすべて思った以上に素晴らしいものになりました。家からも近いので,これからも機会があれば何度でも足を運びたいものです。こんどはもっと時間をとって御岳ロープウェイにも乗ってみたいと思いました。

IMG_8266IMG_8269IMG_8313IMG_8310

 奈良宿にはおいしい昼食を食べることができるお店がたくさんあります。また,奈良井宿の東側を流れる奈良井川には木曽の大橋がかかり,そこには観光用の駐車場と売店や喫茶店などがあります。
 私のお気に入りは,「深山」というカフェで,そこでは,百年前のレシピを再現したというカレーライスを食べることができます。この日もそれを食べるのを楽しみしていました。やっているかなと思って,JRのアンダーパスを越えて行ってみるとお店は開いていました。
 ここの百年前のカレーというのは,明治36年に発行された「家庭之友」に掲載された「ライスカレー」のレシピを再現したというものです。このカレーは仕込みに5日間もかかるそうです。
 カレーは明治時代から日本で作られた記録が残っていて,100年前の旧オリエンタルホテルのカレーを再現した「100年前のビーフカレー」とかいうレトルト食品も市販されています。
 このカフェに手作りのパンフレットが置かれていました。それは,こちらに移住してお子さんを木曽楢川小学校に通わせてみませんか? というものでした。この小学校はたった75人なのだそうです。
 
 食後,再び奈良井宿に戻って,気の向くまま散策しました。
 やがて,おやつに時間になったので,どこかないかとさがして,「こてまり」という喫茶店に入りました。「こてまり」は築200年になる民家を改造した喫茶店だそうで,コーヒーと自家製のケーキを楽しみました。
 この喫茶店は2階にも座席があるのですが,1階にあったのは2席で,もうひとつの席には外国人,といっても西洋人の夫婦が座って,ケーキを楽しんでいました。どこから来たのですかと聞くとHolland とのことでした。オランダでしょうか。彼ら同士の会話はおそらくオランダ語で,私には全くわかりませんでしたが,私とは英語で会話ができました。

 近頃は,日本に限らずどこへ行っても外国人だらけです。私だって外国に行けば外国人です。その多くの人はその町に溶け込んで楽しんでしますが,中には見るに堪えない人も少なくなくて,そういう姿にすっかり気持ちが落ち込んだりします。わざわざ観光に出かけてそんな不快な気持ちを味わいたくもないので,自然と観光地から足が遠のきます。
 先日行った白川郷がまさにそうでした。京都や奈良も,昔のような風情はまったくなくなってしまいました。そんなこんなで,なかなか日本の秋の風情を楽しむことができる場所もないのですが,奈良井というところは落ち着いたよいところでした。ここはJRで行くこともできるので,今度はもっと寒くなったときに電車で訪ねてみたいものだと思ったことでした。

 奈良井の宿場を出て北にJRの駅をすぎると,旧中山道は現在の道路を離れて,左手の坂を登っていくようになります。そこにあったのが,昔の杉並木と八幡宮,そして,二百地蔵でした。ここを歩いていくと塩尻に向かうことになります。
 また機会を見つけて,次回は中山道を歩いてみたいものだと思いました。

IMG_8322

34IMG_8301IMG_8223IMG_8246IMG_8209

 奈良井宿は江戸時代,中山道34番目の宿場でした。楢川村,現在の塩尻市の奈良井川上流に位置する標高900メートルの河岸段丘下位面に発達した集落で,「木曽路十一宿」の中では最も標高が高い場所です。
 「木曽路十一宿」とは旧中山道のうち急峻な木曽谷を通る街道=木曽路にある11の宿場町の総称で,贄川宿,奈良井宿,藪原宿,宮ノ越宿,福島宿,上松宿,須原宿,野尻宿,三留野宿,妻籠宿,馬籠宿をいいます。
 奈良井宿は,江戸時代,難所の鳥居峠を控えて多くの旅人で栄え「奈良井千軒」といわれました。宿場は下町,中町,上町に分かれていて,中町と上町の間に「鍵の手」というクランクがあります。江戸時代は,宿内家数は409軒で本陣1軒と脇本陣1軒,そして旅籠が5軒あって,人口は約2千人でした。

 現在,奈良井宿は,重要伝統的建造物群保存地区として当時の町並みが再現され,保存されていて,とても美しいところです。電柱や自動販売機を移設し,郵便局,消防詰所,奈良井会館なども景観に合わせた建築にするなどの工夫をして,当時の面影を醸し出しています。また,民家の切妻平入の屋根は10分の3勾配の長尺鉄板葺で,濃茶色を使用することが条例で規定されているということです。
 今の姿は江戸時代のままでなく,おそらくは一旦寂れたものを工夫して再現することに成功したのでしょう。こうした姿を維持することはずいぶんと苦労があるのだと思いますが,何度足を運んでもとても落ち着くところで,私はこの奈良井宿が大好きです。

 今回,木曽福島に星を見に行った折に,2日目のお昼間,奈良井宿に行くのを楽しみにしていました。
 木曽福島から国道19号を20キロメートル,約20分走っていくと,左手,奈良井川の反対岸を走るJRの線路の向こうに奈良井宿が見えてきます。
 私は,国道19号を,一旦左手の奈良井宿を通り越したあと,左折して橋を渡りJRの踏切を越えて,JRの奈良井駅に着きました。この駅前の駐車場は朝なら空いているので,そこに車を停めて,奈良井宿を散策することにしました。駅から南に歩いていけば,奈良井宿をすべて見ることができます。
 私のささやかな楽しみのひとつである旧街道歩き,東海道に続いて中山道を歩きはじめたのですが,今回は宿場間を歩くのではなく,単に奈良井宿のなかを散策しただけでしたが,運よく,とても天気がよい日で,しかも,紅葉まっさかりということで,最高の行楽日和になりました。それに加えて,何といっても,ここは観光客,とくにうるさいだけの某国の外国人が少なく,のどかな秋の一日を満喫することができました。

 この奈良井宿のように,昔の面影を残す宿場は旧街道にはいくつかあるのですが,私の知る限り,旧東海道の関宿とこの旧中山道の奈良井宿が最高です。なかでも奈良井宿は宿場の風景とともに,遠くに見られる山並みが美しく,その山並みの借景が旅情をさらに高めます。
 この日私は,まず,当時の民家のなかで公開されている上問屋史料館と元櫛問屋の中村邸を見学しました。
 江戸時代,宿場に常備されていた伝馬と人足を管理運営していたのが「問屋」というところで,この上問屋は江戸時代にわたって問屋と庄屋を兼務していたところだそうです。
 また,中村邸は,江戸時代の終わり小悪露,塗櫛問屋として栄えた中村屋の建物が公開されているものです。この民家の保存をきっかけとして奈良井宿の保存運動がはじまったそうです。
 現在,奈良井宿には本陣も脇本陣も残っていませんが,奈良井宿は約1キロメートルにも及び,その中には多くのお店屋さんがあって,とてもいい雰囲気です。

◇◇◇
中山道を歩く-奈良井宿「女性たちよ,よき人生を」

IMG_8167

IMG_5408IMG_5412IMG_5415IMG_5432

●時代遅れのボールパーク●
 日本人の多く住むロサンゼルスは日本からの観光客も多いので,生れてはじめてメジャーリーグを見るためにこのドジャースタジアムを訪れた人もかなりいると思うが,ここは意外と不便な場所で,個人で行くにはレンタカーがないと難しい。私がはじめてアメリカへ行ったのは今から38年前のロサンゼルスとサンフランシスコへのツアー旅行だったが,そのときは,ドジャースタジアムでゲームを観戦する高価なオプショナルツアーに参加した。
 ドジャースタジアムは,そのころはできたばかりで立派なボール―パークだったが,今では「竹」レベルのボールパークとなってしまった。前回書いたように,現在の「松」レベルのボールパークの多くは大都市のダウンタウンにあって,大概はホテルから徒歩圏内である。あるいは,地下鉄などの公共交通で容易にアクセスできる。ドジャースタジアムのような,広い駐車場をもつモータリゼーション頼みのボールパークは,アメリカでは今や時代遅れなのだ。しかも,車以外で行けないのにもかかわらず駐車料金がかなり高いとなると,チケット代がその分だけ割高ということになってしまう。

 1958年にドジャースがニューヨークのブルックリンからロサンゼルスに移動し,1962年にドジャースタジアムを建設したとき,この場所は荒地で,メキシコ人の集落があっただけだった。その場所にドジャースは「永遠のホーム」を完成させた。かつて,ウォルター・オマリー(Walter Francis O'Malley)オーナーが存命の時代は接客サービスを徹底させて人気になったがやがて低迷期が続いた。
 現在の「松」クラスのボールパークに比べて設計が古く,ファールグランドが広かったので,2000年に大掛かりな改修工事が行われ,ファールグランドを狭くしてその場所にスタンド「ダッグアウトクラブ」を増設したことで,グランドの形態だけは新しい形のボールパークとなった。
 しかし,私ががっかりしたのは,イスが汚く鳥の糞に汚れたままだったし,開始前というのに掃除が行き届いていないので,客席の下はすでにゴミだらけだった。これまでに私が行った多くのボールパークのなかでここは最悪であった。

 グランドの周囲を歩いてみたが,ここもまた,カンザスシティのカウフマン・スタジアムと同じように,古くささはかくせなかった。ただし,カウフマンスタジアムよりマシだったのは,どの席でもフリーWifiが通じることであった。
 食べ物はそれなりにいろんなものを売っていて,ハワイアンもイタリアンもあったが,日本食はなかった。
 ボールパークに限ることでないが,このごろのアメリカは日本の影が薄い。というより,日本は世界の中で極めてマイナーな国になってしまったと痛感する。以前はテレビやオーディオ,そして車などの工業製品は日本製品ばかりだったが,いまや車以外には見る影もない。カメラは未だに日本製品ばかりだが,プロのカメラマン以外はスマホばかりになってしまって,カメラ自体を持っている人もほとんどいなくなった。
 ここの食べ物の名物は「ドジャードッグ」というホットドッグだ。私はここでもホットドッグではなく,ハンバーガーを食べることにしたのだが,ここのハンバーガーは意外とおいしかった。

 2016年,ドジャースタジアム近くの通りの名称が「ビン・スカリー通り」(Vin Scully)と改名された。ビン・スカリー氏は1950年からドジャースの専属実況アナウンサーとして活動し,2016年に引退した。1996年,野茂英雄投手のノーヒットノーランでも実況を担当した。 決まり文句や絶叫に頼らず,大記録達成時には歓声や拍手を聴かせるため沈黙に徹する手法が特徴で「20世紀で最も偉大なスポーツ・アナウンサー」「ドジャースの声」「ロサンゼルスの声」といわれた。
  ・・・・・・
 You and I have been friends for a long time, but I know in my heart that I've always needed you more than you've ever needed me, and I'll miss our time together more than I can say. But you know what? There will be a new day and eventually a new year. And when the upcoming winter gives way to spring, rest assured, once again it will be "time for Dodger baseball." So this is Vin Scully wishing you a very pleasant good afternoon, wherever you may be.  
  ・・・・・・
 また,2017年4月にはデビュー70周年を記念してジャッキー・ロビンソン選手の銅像が建てられた。このボールパークの見ものというのはそれくらいのモノしかなかった。

IMG_5458IMG_5454IMG_5402

●ジャッキー・ロビンソン選手の銅像●
 私がはじめてメジャーリーグベースボールを見たのは38年前のことで,それはこのドジャースタジアムだった。当時はドジャースタジアムはロサンゼルスのダウンタウンからはずいぶんと遠い郊外にあったような気がした。
 2度目にドジャースタジアムに来たのは18年前の5月であった。そのころのドジャースは弱く,球場もぼろく,客席はガラガラであった。しかし,私がダウンタウンから遠いと思っていたのは誤解で,チャイナタウンからすぐの場所であるのに驚いた。ドジャースタジアムは有名な割に日本からの観光客にはアクセスが困難なボールパークで,観光客は結構高価なオプショナルツアーで来るか,レンタカーを借りて来る必要がある。わざわざゲームを見るだけのためにレンタカーを借りてやって来た日本人の若者と出会ったのもこのときだった。
 あれから月日が経って,ドジャースは強くなった。ドジャースタジアム自体は場所も外形も変わっていなかったが,ボールパークの内部はずいぶんとリニューアルされたので,一度来てみたかった場所であった。

 インターステイツ15をロサンゼルスに向かって走ってきて,ドジャースタジアムの道路標示にしたがってジャンクションを降りると,すぐにスタジアムの外周道路に出た。
 ドジャースタジアムのまわりには広大な駐車場がある。以前は無料であったが,今回来てみると駐車場の入口にゲートがあって有料に変わっていてびっくりした。ドジャースよ,お前もか,という感じであった。
 今とは違ってメジャーリーグが斜陽だったころはチケットも安く、何かしら退廃的なムードが漂っていて,私にはおもしろかったが,このごろは高級なレジャーに様ざわりしてしまった。チケットもその頃の何倍にも高くなって,5,000円出しても内野の上段か外野の席しか買うことができなくなった。約100年前に建てられたままのボストンとシカゴ以外はどこのボールパークも新しくなって豪華にはなったが,どこへ行ってもあまり変わりがえがなくなって,あえて行ってみたいと思うところが少なくなった。プレイヤーも小粒になってあえて見たいという選手が少なくなった。

 この日のチケットは持っていなかったが,購入できないほど混んでいるとも思えなかったので,私は安くない駐車料金を払って車を停めて,チケットを買いに行った。
 窓口でいくらぐらいのチケットが欲しいのかと聞かれたので50ドルと言って,適当な席のチケットを購入した。そんな見栄を張らずとも,一番安い席だと言えばよかったと後で後悔した。
 まだゲームの開始には時間があったので,中に入る前にまわりを散策した。ドジャースタジアムは,同時期につくられたカンザスシティ・ロイヤルズのカウフマン・スタジアムと似ていた。メジャーリーグのボールパークは,シカゴ・カブスのリグレーフィールドとボストン・レッドソックスのフェンウェイパークはすでに歴史的建造物なので別格として,残りを「松」「竹」「梅」と分類すると,「梅」,つまり最低ランクにあたるのがオークランド・アスレチックスのコロシアムとタンパベイ・レイズのトロピカーナフィールドだが,ともに,ついに新しいボールパークを建設することが決まったらしい。そして「竹」にあたるのがカウフマン・スタジアムとドジャースタジアムである。はっきりいってボロいが,ともに新たに作りなおす気がなく改装したばかりだから,当分はこのボールパークのまま使われることになりそうだ。

 ボールパークの外にはジャッキー・ロビンソン選手の銅像があった。ジャッキー・ロビンソン(Jack Roosevelt "Jackie" Robinson) 選手は黒人初のメジャーリーガーで,当時ニューヨークに本拠地を持っていたブルックリン・ドジャースのプレイヤーであった。ジャッキー・ロビンソン選手の生涯は2013年に公開された「42 世界を変えた男」という映画に描かれた。

◇◇◇
来年まで待とう-ロサンゼルス・ドジャース
「42 世界を変えた男」-ロビンソンからリベラへ
愛しきアメリカ-アメリカのボールパーク①
IMG_5406

DSC_1296s (2)_NGC7293DSC_1302s (2)_NGC246DSC_1304_NGC247t (1280x848)DSC_1323s (3)_NGC253 NGC288 秋の南の夜空はまことに寂しいものです。やがて来る冬にはオリオン座をはじめとして明るい星々がたくさんあるのに,その数か月前の空には星がほとんど見られないのです。空の明るい都会ではみなみのうお座の1等星であるフォーマルハウトだけがかろうじて見えるありさまです。
 秋の星座になじみがないのは,明るい星がないということに加えて,秋の星座が深夜に南中してよく見えるのがちょうど夏至のころという理由もあります。つまり,夏至のころは夜の時間が短く,空が暗い時間は冬に比べて半分ほどしかないのです。
 そこで,私は,秋の星座といわれるみずがめ座,みなみのうお座,うお座,くじら座,ちょうこくしつ座にある星雲や星団を写す機会もこれまでほとんどありませんでした。
 今回出かけた木曽は空が暗いので,夜遅くならなくても満天の星空がみられます。あれほど都会では何も星が見えないと思われるところにも,たくさんの星々が輝いています。みずがめ座の星のつながりがわかるなんて,私には夢のようです。そこで,秋の星座にある多くの星雲や星団を写すことにしました。それが今日の写真です。
 順に紹介しましょう。
 
 まず,ふたつの惑星状星雲です。
 1番目の写真の天体が「らせん状星雲」(The Helix Nebula)と呼ばれるNGC7293,みずがめ座にある有名な惑星状星雲です。距離はおよそ700光年というからオリオン座のべテルギウス(Betelgeuse)ほどの近さで,太陽系に最も近い惑星状星雲です。猫のような目の形をしている中心部が「らせん」の名前の由来になっています。中心部に白色矮星が存在するようです。私はこの惑星状星雲をずっと写したかったのですが,やっとかないました。
 2番目の写真の天体はNGC246です。NGC246はくじら座の方角にある惑星状星雲で,距離は約1,600光年です。星雲の中心には12等級の白色矮星があります。中心の恒星とその周囲の配置から「Pac-Man Nebula」として知られています。
 こちらのほうはNGC7293に比べればずっと暗く,この空が暗くないと写すのも難しい天体です。

 次にふたつの銀河です。
 3番目の写真の銀河がNGC247です。NGC247はくじら座にあって,距離は約1,110万光年。ちなみにアンドロメダ銀河は240万光年です。
 最後の4番目の写真に写っている銀河がNG253で,その下にある球状星団がNGC288です。
 NGC 253はちょうこくしつ座にあるスターバースト銀河で,急激な星形成の過程にあります。距離はNGC247とほぼ同じで約1,110万光年です。
 NGC247はNGC253と重力的に結びついていて,NGC253は銀河系から最も近い銀河群のひとつであるちょうこくしつ座銀河群の中心に位置しています。NGC253 はその中で最も明るく,NGC247,PGC2881,PGC2933,UGCA15などと重力で結びついています。
 
 このように,このあたりにはおもしろい天体があるのですが,メシエ番号もついていないので,知名度も低く,はじめに書いたように,夜の短い時期に空にあるので,なかかな写真に撮る機会もありません。
 今回,こうした天体を写すことができたのものまた,うれしいことでした。

DSC_1333s (3)_ウィルタネン彗星DSC_1347s (2)_ステファンオルティマ彗星lIMG_9363s (2) (1280x853)

 前回書いたウィルタネン彗星(46PWirtanen)は現在8等星くらいまで明るくなって,よく見えるようになったらしいのですが,ずっと天気が悪かったことと月明かりがあって,私はこれまで見る機会がありませんでした。
 今年の6月に出かけた木曽福島のゲストハウス(ペンション)がとても気にったので,先週の週末,2泊3日で満天の星空とともに紅葉を愛でようと出かけることにしていました。そして,その機会に彗星を見るのもたのしみにしていました。

 金曜日の夕方に木曽福島に到着しました。天気がよく,今回は星空がよく見えそうでした。翌日のお昼間は様々なところに出かけて秋を満喫したのですが,それはまた後日書くことにして,今日は星空の話です。
 前回はあいにく天気が悪く星が見られなかったので,山深いこの場所でどの程度の高度まで星空が見られるか少し心配しました。なにせ,空が暗いとはいっても,木曽は平地のようにはいきません。
 やがて日が沈み空が暗くなってきました。ゲストハウスの広い駐車場から見上げると,北極星のあたりは一番空が開けていて,極軸を合わせるのには全く問題がないことがわかりました。南の空は20度くらいから上は大丈夫だったので,思ったよりも空が開けていました。この晩彗星が南中して最も高度が高くなるのが夜の10時20分頃で,そのころの彗星は山より高く昇るので,幸運にも彗星は見られそうでした。

 そうして写したのが今日の1番目の写真です。ウィルタネン彗星は現在はくじら座の南,ちょうこくしつ座という明るい星のないところにあって,けっこう探しにくいのですが,なんとか写せました。写真の下のあたりに少し山の木の影が写りましたが,彗星の姿はしっかりととらえられました。このあと彗星は高度がどんどんと高くなって,一番明るくなる12月の新月のころはオリオン座の右手に尾を引いたあざやかな姿を見ることができるでしょう。
 2番目の写真はステファン・オテルマ彗星(38PStephan-Oterma)です。こちらは10等星くらいで,ふたご座にあって,11時過ぎに昇ってきます。東の空は結構低いところまで視野が開けていたので早い時間に写せましたが,思ったほど明るくありませんでした。

 こうして,目標だった2個の彗星を写すことができて,私はすっかり満足しました。この晩はこれらの彗星以外にも多くの星雲や星団を写しましたが,これらはまた次回載せることにします。
 それよりも,この場所で特筆すべきは,日本にはまれな,全天にわたって暗い空があったということです。しかも,クマが出てくる心配もありません。私は,北半球で,はじめて南半球で見るような星空に巡りあうことができてとても幸せでした。
 翌日も晴れて,この晩は魚眼レンズで全天を駆ける天の川を写すことができました。ちょうど,紅葉も入り,すてきな写真になりました。 

IMG_9372s (2)

ロゼッタESO-Comet_Wirtanen67P_ChuryumovGerasimenko_20150911 猛暑の夏もなんとか過ぎて,今年も忘れずに秋が… と思えば,10月になっても台風がやってきたりして,なかなかよい季節にならないのが残念なところでした。
 星を見ながら天気とつき合っていると,天候というのは毎年ずいぶんと違うということに気づきます。毎日晴れて星がきれいな日がずっと続くような秋があれば,ほとんど晴れない秋もあります。「例年並み」といったところで「例年」などないに等しいのです。
 いずれにせよ,どこに行っても空が汚く満足に星など見えないこの国なのにおまけに天気がよくないとなれば,国内で星を見ようとすること自体にかなり無理があるのかもしれません。と思いつつも,私は星の見える場所をあいかわらず探し求めているのです。

 そんないつもの愚痴はともかく,今年の秋は,この年1番の見物である「ウィルタネン彗星」がいよいよ近づいてきます。
 ウィルタネン彗星(46PWirtanen)=2番目の写真中央の小さな点 と聞いてピンとくる人はかなりのツウです。ウィルタネン彗星というのは,1948年1月15日にアメリカのリック天文台で働くカール・ウィルタネン(Carl A. Wirtanen)が発見した周期5.4年の周期彗星です。リック天文台の恒星固有運動サーベイの一環としてに撮影された写真から見つかりました。発見当時は像がぼやけていて,16等級という明るさでありながらも初期の観測が少なかったので,短周期彗星とわかるまで1年以上を費やしました。

 このウィルタネン彗星を有名にしたのは,ヨーロッパ宇宙機関 (ESA=the European Space Agency) の彗星探査機「ロゼッタ」(the Rosetta spacecraft)が着陸する標的だったことです。「ロゼッタ」の当初の計画では,この探査機は2003年1月12日に打ち上げられて,2011年にこのウィルタネン彗星に着陸機を降ろす予定だったのです。しかし,2002年12月11日のアリアン5ロケット爆発事故で,同型のロケットで打ち上げられるはずだったロゼッタの打ち上げが遅延したためにウィルタネン彗星を目指すことができなくなって,目標が別のチュリュモフ・ゲラシメンコ彗星(67PChuryumov-Gerasimenko)=3番目の写真 に変更されてしまいました。
 計画変更前の2001年12月9日,チリのパラナル山にあるヨーロッパ南天天文台 (ESO) の超大型望遠鏡VLT=Very Large Telescopeによって,ウィルタネン彗星が詳細に観測されたので,ウィルタネン彗星の核の直径が1.2キロメートルであることや着陸を妨げるダストが周囲にほとんどないことがわかりました。
 この彗星,12月に4等星まで明るくなって,肉眼で見えるようになるそうです。

◇◇◇
やっと晴れたか?秋2018秋①-ジャコビニ・ジンナー彗星

hiroshige025_mainhiroshige026_mainhiroshige027_mainIMG_8012DSC_4610

 雲ひとつない富士山に魅せられて,その気もなかったのにJRの沼津駅で降りてしまった私は,ここから海岸線に沿って行けば旧東海道だろうと,なんの知識もなく歩きはじめたというのは前回書きました。そもそもがそんなわけで,無計画がここであだになるわけです。
 私はこの時点ではまだ朝食を食べていないのです。それは,昨晩泊まった東京大井町の東横インを朝食サービスのはじまる午前6時30分よりも前にチェックアウトしてしまったことからはじまります。そして,降り立った沼津駅付近でなにかを食べればよかったものの,この先にもどこか気の利いたレストランくらいあるだろうと思ったことが大いなる誤算でした。

 私は沼津駅に降りてみて,ここには一度来たことがあると思い出しました。それは,沼津港にあったシーラカンスの展示された博物館に行ったときでした。そのころの私は,ひとめシーラカンスを見てみたい,ひとめトキを見てみたい,などということに「ときめき」(おやじギャクではありません)を感じていて,とはいっても生きているトキは見られても生きているシーラカンスは見ることができないので,はく製が展示されているというこの博物館に行ってみたわけです。
 話は逸れますが,トキもまた,何度も佐渡島に行こうと思いつつも面倒になって,結局,金沢の動物園にいるということを知って見てきました。私はシーラカンスもトキも,それで納得して,それまでの「ときめき」はすっかりなくなりました。

 ともあれ,私は沼津駅からなんとなく海の方向に向かって歩きはじめました。そのうちに千本小学校というところにたどり着いたので,ここらあたりからの海岸が千本松原なのかと思い当たりました。
 千本松原というのは,この先吉原駅まで延々と10キロメートルにわたって千本どころか30万本の松林が海岸にそって植えられている場所です。そもそも,この海岸,風が強いことは容易に想像できますが,そのために,古より農民が防風と防潮のために植えたものを一度は武田勝頼が駿河攻めのために伐採し,それを増誉上人が5年の歳月をかけて植えなおしたものだそうです。

 現在,海岸は砂浜で,そこに漁師さんが船小屋を作っていたり,釣りをしている人がいたりするのですが,お世辞にもきれいな砂浜ではありませんでした。そして,美的感覚のまったくないコンクリートの防波堤が延々と続いていて,そのむこうの陸地側に千本松原があり,さらに陸地側に県道とJRが並行して走り,さらにもっと内陸側に国道1号線が走り,もっともっと内陸側に新幹線と東名高速道路が走っているという場所でした。
 千本松原には遊歩道が続いていて,そこを歩くことができますが,松林が邪魔をして富士山が見えません。そこで見晴らしのよい堤防道路を歩くことになるのですが,堤防道路からは松並木の上から富士山の山頂付近だけを見ることができました。
 県道にそった狭い歩道を歩くこともできるのですが,このあたり,単なる住宅と工場やら倉庫があるだけで,何も楽しくないところでした。
 歌川広重の東海道五十三次の浮世絵では,沼津宿も原宿もそしてまた吉原宿も,なんとまあ風情の感じられる場所として描かれていることでしょうか。しかし,そんな面影はどこにもありませんでした。しいていれば,原宿に描かれた富士山の姿が今にも通じるものを感じられる程度でしょうか。

 私の東海道歩きは,そもそも,街道制覇を目的としているわけではないのですが,それを目的として歩いている人にとって,この「消化試合」のようなところは,西に向かって歩いている人にとっては険しい箱根を越えた後のしばしの休息になり,あるいはまた,東に向かって歩いている人にとれば,この先に控える困難に挑戦する以前の安らぎとなる,そんな場所なのでしょう。

IMG_8057IMG_8014IMG_8039IMG_8056

 今日は,東京からの帰り道のお話です。
 私は,いつものように,早朝にJRの在来線に乗って途中下車を楽しみながら,1日かけて名古屋に向かうことにしていました。特にどこで降りるかは決めていなかったのですが,あまりに天気がよく,富士山には雲ひとつなく,しかも,早くも山頂には雪がいい感じにかぶっていたので,思わず沼津駅で降りてしまいました。そうして,吉原駅まで海岸に沿って歩きはじめました。
 ところがどうでしょう。何も楽しくないのです。旧東海道の面影があるわけでもなければ,街道筋には何も保存されていませんでした。

 歩くと思っていなかったので何の下調べもなく,沼津駅から吉原駅までは海岸線を千本松原がずっと続いているということだけが知識でした。しかし,雄大な景色が広がっているという期待に反して,千本松原は枯れかけた松が生い茂げり,木陰にはゴミの山。どこまで歩いてもそうした同じ景色が続き,しかも,富士山は見えても,道路と電線と枯れかけた松林が邪魔をして,山頂付近しか見えませんでした。気の利いた喫茶店のひとつもありませんでした。
 私はすっかり嫌になって,途中の東田子の浦駅から吉原駅まで1区間だけ,再び列車に乗りました。そうして吉原駅で降りて,港に向かって歩いていくと,やっと,富士山の姿と港が見渡せる公園がありました。
 この港が田子の浦港でした。

 万葉集の巻三に
  ・・・・・・
田兒之浦従 打出而見者 真白衣 不盡能高嶺尓 雪波零家留
(田子の浦ゆ うち出でてみれば 真白にそ 富士の高嶺に 雪は降りける)
  ・・・・・・
とあります。あるいは,新古今和歌集と百人一首には
  ・・・・・・
田子の浦に うち出でてみれば しろたへの 富士の高嶺に 雪は降りつつ
  ・・・・・・
とあります。

 そこで,自然の成り行きとして,このふたつの歌の違いは何か? とか,田子の浦はどこ? ということになるわけです。歌の違いは学校でも習うのでここで改めて書くこともないのですが,多くの人もいうように,万葉集の素朴さこそが日本人の琴線に触れて旅情をそそると私も思います。
 そこで,今日は,田子の浦はどこ? について書いてみます。
 私の行った公園の高台から見た場所が田子の浦港です。この公園は近年整備された場所で,そこにはこの歌の作者山部赤人の歌碑も建てられています。しかし,ここがこの歌が詠まれた場所ではないかもしれない,というのが話題となるわけです。
 齋藤茂吉が書いた「万葉秀歌」に「近時,沢瀉久孝氏は田児浦を考証し,薩埵峠の東麓より,由比,蒲原を経て吹上浜に至る弓状をなす入浜を上代の田児浦とするとした」とあります。「古えは,富士・庵原郡の二郡に亙った海岸をひろくいっていた」ともあります。さらに,「古来の田子の浦は静岡県静岡市清水区の薩埵峠の麓から倉澤・由比・蒲原あたりまでの海岸を指すとされることが多いとされていた。富士市の田子の浦港付近と混同されやすいことから,『山部赤人の歌の田子の浦は蒲原付近である』とあえて明記する例もある」と記されています。

 このこともまた,私がいつも書くように「国語の危うさ」で,言葉に酔っているだけなのです。
 そもそも,現代のような精密が地図があるわけでもなく,こうした地名がどこを指すのかという明確な定義があるわけでもない時代の話をとやかくいったところで仕方がないのです。この日のように,今でもJRの東海道線に乗っていると,三島駅あたりから静岡駅あたりまでの車中で,ずっと山側には美しい富士山が見えれば誰だって感動し,そして,海側にそれと対比して広々とした海原が見られればこれもまた感動するわけで,それをこうして歌にして詠んだ,というだけのことでしょう。その場所というのは,今日の最後の写真,これは私が飛行機の窓から写したものですが,おそらくこの場所すべてを総称しているのではないでしょうか。
 田子の浦がどこかなどということよりも,そうした歌がずっといつまでもその景色と同化して生き残っているということこそがすばらしいと,私はその景色を見て思ったことでした。それと同時に,日本にはこうした美しい風景がある,いや,あったのに,どうして開発という名でそれをぶち壊しゴミを捨てることが好きなのかなと,これもまた,日本を旅するといつも思う悲しい現実でした。

DSC_4442 (3)

 「ヘルベルト・ブロムシュテット自伝 音楽こそわが天命」(Herbert Blomstedt: "Mission Musik.Gespräche mit Julia Spinola")は,決してページ数の多い本ではありませんでしたが,かなり内容の濃いものだったので,私は時間をかけて読みました。近頃,日本では啓蒙書の類が多く,内容が薄く,ほんの数分で読み終えることができて,しかも,書いてあるほとんどのことはすでに知っているようなものがほとんどですが,この本はそれとはまったく異なるものでした。
 先ごろ行われたN響第1896回定期公演の演奏曲にステンハンマルの交響曲第2番が取り上げれらていましたが,この本には,このステンハンマルのことがたくさん書かれてありました。

 ステンハンマル,つまり,カール・ヴィルヘルム・エウフェーン・ステンハンマル(Carl Wilhelm Eugen Stenhammar)は,1871年に生まれたスウェーデンの作曲家であり指揮者です。ニールセンやシベリウスが1865年の生まれですから,彼らと同時期の人です。日本ではちょうど明治維新のころです。
 ステンハンマルはストックホルムでピアノ,オルガン,作曲を学んだのち,ピアニストとしてデビューしました。その後1897年に指揮者となり,これ以降は指揮者である傍ら,作曲家としても活躍しました。ステンハンマルは現在ではベルワルド以降の最も重要なスウェーデンの作曲家と位置づけられています。ステンハンマルは「北欧風」の抑揚を目標に掲げ,効果なしでも成り立つような、「透明で飾り気ない」音楽を作曲しようとしました。この新しい様式の典型的な作品が,今回演奏されたドーリア旋法を用いた交響曲第2番でした。
 と,ここに書いても,日本でステンハンマルの音楽を聴く機会などめったになく,正直いって,この曲をはじめて聴いた私には,そのよさもさっぱりわかりませんでした。

 この曲に限らず,はじめて聴く曲に,そのよさやら感動を呼び起こすことは私にはまれです。正直いって,さっぱりわからないというほうが正しいです。こうしたとき,私はいつも,音楽を聴くという行為そのものに,いったいなんの価値があるのかということさえも疑問に感じます。時間の浪費にしか思えません。
 ところが,録音して,辛抱して何度も聴きなおしてみると,次第に心に染みてきて,そのよさがわかってくるのもまた,不思議なものです。私は,こうして,これまでに,ヴォーン・ウィリアムズやニールセン,ベルワルドなどのすばらしい音楽を覚えました。
 このように,クラシック音楽というのは,知らない曲を自分のかけがえのない宝物にするためには,やはり何がしかの行動が必要ななのです。私が大好きなブルックナー,この曲のよさを知らずに生きている人を私はかなりが気の毒に思います。私はブルックナーを若いころに知ってずいぶんと聴き込んだので今では自然となじみあるものとなっているのですが,考えてみれば,聴いたことのない人にとっては,こんな長たらしい曲がそれが心に染みるには,ずいぶんとなにがしかの行動がいるということなのでしょう。

 この本では,ステンハンマルのことがずいぶんと取り上げられていましたが,それとは逆に,マエストロ・ブロムシュテッドがショスタコ―ビッチを取り上げないということも書かれてあって,このこともまた,私にはとても興味深いものでした。それは,このマエストロの人生観や宗教観とも関わってくることなのでしょう。
 このように,音楽というものは,それを聴くという行為は俗世界とは隔離された純粋なもののようで,実は,最も人間に近いものでもあるということを,こうした本を読むと実感するのでした。

IMG_6182

81KyXXhUL7L 「ヘルベルト・ブロムシュテット自伝 音楽こそわが天命」(Herbert Blomstedt: "Mission Musik.Gespräche mit Julia Spinola")を読みました。
  ・・・・・・
 90歳を超えるいまなお年間80回の演奏会を指揮。日本の音楽ファンに最も愛されている巨匠指揮者が音楽と人生,そして信仰を語るはじめての自伝! マルケヴィッチ,バーンスタイン,ケージら20世紀の大音楽家たちとの交流,バッハ,ベートーヴェン、ブルックナーらドイツ音楽の本流へのたゆまぬ献身,ベルワルド,ステンハマルら祖国スウェーデンの作曲家への尽きせぬ愛情… シュターツカペレ・ドレスデン,ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団,サンフランシスコ交響楽団,NHK交響楽団などの要職を歴任し,今なお現役のマエストロがあたたかく飾りのないことばでみずからの生涯・音楽・信仰を語りつくします。
  ・・・・・・
これが,この本の紹介です。

 私はまったく楽器は弾けません。「観る将」ごとく,「聞く音」です。しかし,常日頃から,クラシック音楽を聴くことを人生の最大の喜びとしていて,おそらくは,聴いている時間にかけては一流でしょう。これからも,この満ち足りた時間を大切にしていきたいといつも思っています。
 音楽を聴いていると,こうした演奏をしている人たちのことをもっと知りたいと思うのは自然なことで,これまでも,数多くの音楽家の自伝を読んできました。そして,読み終えていつも思うは,彼らは,本当に内面からも外面からも,人に,生に,そして社会に真摯に向き合っているのだなあ,ということです。
 ある意味で,私は,俗社会の関わりや人とのわずらわしい関わりから避けたくて音楽を聴いて自分の内面と向き合っているのですが,音楽家は,それとは逆に,俗社会や人とのわずらわしい関わりそのものと,普通の人以上に対峙して生きているのです。そうした人たちが,このような関わりとは真逆な,純粋な音楽を世に送り出しているということが,私にはとても不思議であり,奇跡的なことに思えます。
 この本でもまた,この偉大なマエストロ・ブロムシュテッドが,本当に心から,人を愛し音楽を愛していること,そして,これが一番人間としてすばらしいのは,やさしさに包まれているということを,再確認することができて,ほんとうに幸せな時間でした。

DSC_2430DSC_2435DSC_2440DSC_2449DSC_2443DSC_2451

●私の愛するアメリカの田舎道●
☆4日目 2018年6月28日(木)
 私はこの日のことを,ずっと後悔することになる。
 この日,私は泊まっていたイニョカーンからどんどん南下して,サンディエゴまで行くという予定であった。距離として230マイル,約370キロメートルなので,名古屋から東京くらいのものか? ともかく,日本と違ってずっと時速100キロメートルくらいで走れるからわずか4時間という距離だった。
 この旅では,これまでの3日間は,はじめの計画からはいわば「おまけ」的な存在であった。今回の旅の1番の目的はサンディエゴ近郊のパロマ天文台とロサンゼルス近郊のウイルソン山天文台に行くことであって,そのついでに,このふたつの都市にあるメジャーリーグベースボールのゲームを見るというのが2番目の目的であった。その「おまけ」として,せっかく来たのだから,もし行けるのだったら,ロサンゼルスの北にあるセコイア国立公園とデスバレー国立公園に寄ろうと思ったわけだった。
 これまでに書いたように,その「おまけ」は想定以上にうまくいったし,楽しかった。この時点では,本来の目的よりも,こちらのほうが旅の目的になってしまったようなものだった。

 そんなわけで,いよいよ今日からが本来の目的である天文台巡りとベースボールの観戦であった。
 帰国はロサンゼルスからなので,はじめにパロマ天文台のアクセス都市であるサンディエコまで行ってしまって,そこから順に戻ってくるという計画であった。
 この日の夕刻にサンディエゴに着くことできればいいのだから,時間は十分にあった。そこで,サンディエコに行く途中で,ロサンゼルスでベースボールのゲームを見ることにした。メジャーリーグは金曜日から相手チームが変わるので木曜日のゲーム終了後に移動があるから,木曜日はデーゲームになることが多い。この日は木曜日で,これもまた好都合であった。ただし,残念だったのは,ロサンゼルスではドジャースのゲームはあったが,大谷選手の属しているエンジェルスのゲームがなかったことだった。ドジャースの先発ピッチャーはエースのカーショーと発表されていたから,大谷選手は見ることができなかったが,それでも私は今回も自分の強運に感謝した。

 午前中にロサンゼルスまで行くことができればゲームに間にあうから,朝は比較的遅く出発した。
 チェックアウトをしようとフロントに行くと,そこには朝食用のパンケーキがおいてあったから,これをいくつかもらって朝食にした。そして,途中のガソリンスタンドで冷たい水を買った。
 これで準備終了である。
 イニョカーンという小さな町は特に何があるというわけでもなく,モーテルも単なる田舎のモーテルだったし,暑いところだったが,きっと,私にはずっと忘れられない場所になるであろうと思われた。
 アメリカに限らず,私は,今や,人と車だらけの大都市には全く魅力を感じない。むしろ,こうした何もないような田舎で何をするでもない1日を過ごすことに憧れるのだ。
 とりあえずはロサンゼルスまで南下である。イニョカーンからロサンゼルスに行くには南向きに道が二股に分かれていて,南南東に行くのが国道395で,南南西に行くのが州道14である。このうち,州道14は来るときにジャンクションが工事中でイニョカーンで降りられなかったほうの道路である。イニョカーンからはすぐに国道395に入ることができるし,カーナビもその道を示したので,私は国道395南下することにした。

 アメリカの道路は地図を見ながら想像するのと,実際に走ってみるのとでは大違いである。
 イニョカーンを出て私がロサンゼルスに向かって走ったのは今日の1番目の写真のような道であった。地図ではわからないが,このあたりは,こんな景色が延々と続いているのだった。ロサンゼルスからさほど遠くないのに,まるでユタ州のような風景であった。
 そのうち,2番目の写真のように,道路際に小さな集落があったりしたが,その家々を見ると,ずいぶんと貧しそうなところであった。さらに進むと,クラマージャンクション(Kramer Junction)という交差点があって,そのあたりは道の駅のような感じで,それまで少なった車両が急に増え,コンボイも行き交っていた。その交差点でほとんどの車が右折をした。私はもともとは直進してさらに南向きに走る予定であったが,私の走ろうと思っていた道路は交差点をすぎると狭くなっていくように見えたので,道を間違えたと思って,私も右折をしてしまった。しかし,それはロサンゼルスに向かう道路でなくて,1日目に泊まったベーカーズフィールドを経由しサンノゼからサンフランシスコに行く道路であった。私はしばらく走ってやっとそのことに気づいて,途中でUターンをして,再び先のジャンクションに戻って,今度こそ南下を続けた。
 道路が狭いと思ったのは間違いで,単に道路を2車線に拡張する工事中であった。
 さらに南下をしていくと,やがて,へスペリア(Hesperia)という町に出た。この町まで来ると,そこはもうロサンゼルスのベッドタウンで,辺りは広大な分譲住宅が建設中であった。その町を過ぎると,これまで走ってきた国道395はついにインターステイツ15と合流した。
 いよいよこの先が片側6車線あっても慢性的に渋滞するロサンゼルスの都市圏であった。 

IMG_7897IMG_7899IMG_7922IMG_7942IMG_7968

 深大寺から西に歩いていくと少し風景が変わります。そして,今ではめずらしい森に包まれた一角が見えてきます。そこが国立天文台です。ここは都心からは結構距離があるから,その昔なら,ここまで来ればさぞかし美しい星が見られたことだろうと思うですが,今ではこんな場所に天文台を作っても星などまったく見えません。
 この春にアメリカに行ったとき,有名なパロマ山の天文台が思っていたよも山の中にあることに驚きました。アメリカではその昔から,そうしたかなり険しい山の中に天文台を作っていたわけです。それに比べれは,狭い日本では,どんな山奥に天文台を作ったところで,都会の光から逃げ切れるものではありません。
 私は,そうした現状を認識していなかった数年前までは,なんとか満天の星空が見られる場所がないかと日本中を探し回っていたのですが,その後,ハワイや南半球にまで足を延ばして満天の星空と接するようになったら,もう,そんなことをしても意味がないと悟り,馬鹿らしくなってしまいました。

 そんなわけで,かつては日本の天文学の中心的天文台であったこの場所は,今では過去の遺跡です。
 私は,子供のころに読んだ図鑑に載っていたこうした日本の研究施設にもずいぶんと憧れました。しかし,海外の多くの研究施設を見学するようになると,なんとまあ,日本の研究施設というのはみすぼらしくお金がないのだろうかと痛感します。これもまた,この春に行ったウイルソン山の天文台の立派さと比べれは一目瞭然です。
 おそらく,それはこうした施設を維持するための寄付金やら市民団体,そうしたものの活動に根本的な違いあるからでしょう。日本でも,こうした施設をなんとか保存し維持しようとしている人はたくさんいるのですが,なにせ,アメリカのような寄付金やらボランティアといった考え方の違いがとてもよくわかるのです。簡単にいえばお金がないのです。こうした施設は現状維持するけでもずいぶんと大変なのです。

 この天文台で一般に公開されている歴史的遺産のなかで最も大きなものは口径65センチメートルの屈折赤道儀です。現在,天文台歴史館となっているこの望遠鏡の入っているドームは東京帝国大学営繕課が設計,中村與資平が施工し,1926年(大正15年)に完成したものです。望遠鏡をすっぽり納めた木製ドーム部分は造船所の技師の支援を得て造られたもので,そういわれると,ドームと船底の構造は似ています。また,望遠鏡はドイツのツァイス製で,1929年に完成しました。
 私は,ここに来たのは3回目でしたが,この天文台のシンボル的存在である屈折望遠鏡の鏡筒はところどころ塗装もはげ落ちてしまっていて,かなり痛々しい状態でした。

 そこから少し離れたところに,第一赤道儀室があります。この建物も,東京帝国大学営繕課が設計,西浦長大夫が施工し,1921年(大正10年)に完成した古いものです。ドーム内にある口径20センチメートルの望遠鏡もドイツのツァイス製で,望遠鏡の架台は重錘時計駆動赤道儀という方式です。
 この望遠鏡は1938年(昭和13年)から61年間にわたって太陽黒点のスケッチ観測に活躍しましたが役目を終え,現在は,一般の見学者にたいして黒点を見せています。
 ドームに入ると,おそらく学生か研究者のたまごであろう若い女性がこの日の担当らしく,黒点の説明をするために待機していました。
 残念ながら,現在,太陽の活動は静かで,黒点がほとんど見られません。もちろん私はそれを知っていましたが,ドームに入ると,その女性としばし話に花を咲かせていました。
 そこに現れたのが,無知丸出しの初老の男でした。彼は,わけのわからないことを口走り,迷惑がっている彼女のことをまったく考えず,延々と持論を展開していて,つくづく私はいやになってドームを出ました。
 この国には,こうした輩が少なからず存在しています。おそらく,こうした人たちの存在が,このような研究施設の公開に大きな妨げになっているだろうということが容易に想像できました。
 海外のこうした施設に行っても,このような類の無知な人たちにはほとんど出会わないので,私は,これは,日本という国にこの種の低俗な人たちが少なからずいるということなのでなないかと思いました。

 この日の午後,私は,上野に行ってフェルメール展を見た後で,秋葉原にある望遠鏡メーカーの高橋製作所の直営店であるスターベースというお店に行きました。
 さほど広いともいえない店舗には相も変わらず所せましと望遠鏡が展示されていました。以前の私なら,こうしたものを見るだけで満足し,興奮したのですが,このごろは,日本でこうした機材を作ったところで,だれが買うのだろうと思うようになってきました。それは,日本には満足に星など見ることができる場所がないし,アマチュアには高価すぎる機材を買う余裕のあるような若者などほとんどいないからです。
 なかには,私の世代で車1台もするこうした高価な機材を使って星の写真を写すことを生きがいにしている人もいないことはないでしょうが,そうした少数の人たちを対象にした商品でこの企業がこの先も存在できるものなのでしょうか? それに,急速に発達したデジタル時代では,それ以前に設計された,重たくて大きな機材など私にはかなり時代遅れのものに思えます。さらに,満足に星の見られない日本から離れて海外に持っていくとなると,この鉄のかたまりのような重さの望遠鏡はどうにもなりません。昔のように何時間も露出して写真を撮る必要もないから,今の技術ならもっと利便性を考えた軽くて精度のよいものが作れるはずです。
 このように,国立天文台の歴史的な2台の望遠鏡も,こうした市販されている望遠鏡も,ともに,私の子供のころには憧れたものなのに,今ではもう時代遅れの存在となってしまったのかな,と思ってさびしくなったことでした。

IMG_5385IMG_5383IMG_5378IMG_5380

●アメリカのハンバーガーチェーン●
 日本にはマクドナルド,ロッテリア,そして,モスバーガーというハンバーガーチェーンがある。こうしたハンバーガチェーンで売られているハンバーガーが,日本人にハンバーガーに対する間違ったイメージを構築していると,私は思う。
 アメリカではハンバーガーというのは日本でいうおにぎりのようなものだし,高級なハンバーガーはパンとビーフとサラダを一緒に食べることができるきわめて合理的な食べ物である。
 そこで,今回の旅では,日本にないハンバーガーチェーン店に入ることをひとつの楽しみとした。

 アメリカを走ってみると,日本で有名なものから無名なものまで,ハンバーガーチェーン店が数多くある。ここでは,それらのうち,よく目につく私が気になっているものをいくつかあげてみよう。
 まずはご存知「マクドナルド」(McDonald's)である。アメリカでのファーストフード店の店舗数は14,000店以上あって,第2位の,ハンバーガーチェーンではないが,サブウェイとは3倍ほどの差がある。どの町に行っても,マクドナルドさえ見つけることができれば,腹をすかすことはないであろう。
 「バーガーキング」(Burger King)はフロリダ州のマイアミ・デード郡に本部があるが,これもまた数は多くないが日本にもある。アメリカのハンバーガーチェーンではマクドナルドに続いて第2位の規模をもつ。
  
 これ以降は,日本にはないか少数の店舗しかないが,アメリカではよく見かけるチェーン店をあげる。
 「ウエンディーズ」(Wendy's)は1969年にオハイオ州の州都コロンバスに誕生した。日本では六本木と表参道にあるだけだが,アメリカでは第3位の規模をもつ。赤毛,三つ編み,そばかすの女の子が目印である。
 「カールズ・ジュニア」(Carl's Jr.)は,アメリカで私のお気に入りのチェーン店である。ここのハンバーガーはおいしい。このチェーン店は1941年にカリフォルニア州のカーピンテリアに誕生した。現在,アメリカ西部を中心に1,349店舗を展開しているが,西部では「Carl's Jr.」,東部では「Hardee's」という別の名前になっている。可愛い☆のマスコットが描かれていてよくわかる。
 「アービーズ」(Arby's)は1964年にオハイオ州のヤングスタウンに誕生した。全米で3,400店舗以上を展開する。ローストビーフがメインで,看板にはテンガロンハットをかたどったマークが目につく。
 「ジャック・イン・ザ・ボックス」(Jack in the Box)は1951年にカリフォルニア州のサンディエゴに誕生した。主にアメリカ西部やアメリカ南部の21州にある。
 「W」をあしらったトレードマークの「ワッターバーガー」(Whataburger)は1950年にテキサス州のコーパスクリスティに誕生した。アリゾナ州からフロリダ州にかけて南部を中心に740店舗を展開していて,私はテキサスを走っているときによく目にした。

 今回行こうと思って結局行きそびれた「インアンドアウトバーガー」(In-N-Out Burger)は1948年にカリフォルニア州のボールドウィンパークに誕生した。カリフォルニア州を中心に281店舗を展開する。味にこだわっていておいしい…らしいが,食べたことがないからわからない。
 そして,この晩私が入ったのが「クラシックバーガー」(Classic Burger)であった。ここのハンバーガーもまたなかなかおいしかった。日ごろ日本ではほぼマクドナルドしか行かない私だが,こうして今回の旅でさまざまハンバーガーチエーンに行ってみて,ハンバーガーは捨てたものではないということを認識したのだった。

◇◇◇
2,000 times Anniversary of uploaded this blog today.

ブログをはじめて67か月。今日2,000回目の更新を迎えました。
いつも読んでいただいて,どうもありがとうございます。

IMG_7877IMG_7879IMG_7881IMG_7886IMG_7882

 すでに書いたように,私は,N響第1895回定期公演を聴いた翌日にフェルメール展を見たのですが,それは午後のこと。この日の午前は,JRの中央線に乗って三鷹駅で降りて,深大寺と国立天文台界隈を散歩することにしました。
 都会の人混みの好きでない私にとって,このあたりは大好き場所です。東京もここまで来ると自然がいっぱいあって,とても心が落ち着きます。このあたりは,東京に住んでいる人は別として,東京以外に住んでいる人は意外と知らないのです。

 私は,子供のころ「武蔵野」という国木田独歩の随筆を手に取りました。そのころ,東京都心はともかく,郊外など行ったこともなかったので,当然「武蔵野」というのがどこを指すのかなどわからなかったのですが,その響きがすてきで,とても印象に残りました。
 「武蔵野」の範囲は広辞苑によれば「埼玉県川越以南,東京都府中までの間に拡がる地域」,広義には「武蔵国全部」といわれています。
 1898年(明治31年)に国木田独歩は随筆「武蔵野」を著しましたが,それによると,
  ・・・・・・
 武蔵野は先づ雑司谷から起つて線を引いて見ると,それから板橋の中仙道の西側を通って川越近傍まで達し,君の一編に示された入間郡を包んで円く甲武線の立川駅に来る。此範囲の間に所沢,田無などいふ駅がどんなに趣味が多いか… 殊に夏の緑の深いころは。さて立川からは多摩川を限界として上丸辺まで下る。八王子は決して武蔵野には入れられない。そして丸子から下目黒に返る。此範囲の間に布田、登戸、二子などのどんなに趣味が多いか。以上は西半面。東の半面は亀井戸辺より小松川へかけ木下川から堀切を包んで千住近傍へ到つて止まる。この範囲は異論があれば取除いてもよい。しかし一種の趣味があつて武蔵野に相違ないことは前に申したとほりである。
  ・・・・・・
とあります。

  国木田独歩は渋谷村の一角に居を置いて,毎日のように東京近郊を逍遥し,その実感体験にもとづいてこの随筆を書き上げたのでした。
 曰く,
  ・・・・・・
 なかば黄いろくなかば緑な林の中に歩いてゐると,澄みわたつた大空が梢々の隙間からのぞかれて日の光は風に動く葉末々々に砕け,その美しさいひつくされず。
  ・・・・・・
 私が先に「手に取った」と書いたのは,「読んだ」のではないからで,こんな随筆を子供が読もうとしてもわかるわけがないからです。しかし,そんなふうであったとしても,私は,それ以来,この武蔵野という言葉がどうしても忘れられず,今になってやっとこの界隈に私の思い込んだ武蔵野の雰囲気をひとり感じて,幸せになるのです。

 そんな場所にあるのが深大寺です。深大寺は天台宗別格本山で山号を浮岳山といいます。 「深大寺」の名称は仏法を求めて天竺へ旅した中国僧の玄奘三蔵を守護したとされる水神「深沙大王」に由来していて,奈良時代の733年(天平5),満功上人が法相宗の寺院として開創したと伝えられています。本尊は本堂に安置されている阿弥陀三尊像で,東京都では 浅草の浅草寺に次ぐ古刹です。
 それにしても,この地にそんな昔からお寺があるというのも不思議な気がします。なにせ,現在とは違って,江戸時代まで,関東なんて,中央(京都)から見たら原野みたいなものだったわけですから。
 深大寺は現在でも境内に複数の湧水源をもち,「深大寺そば」がその水の恵みを利用して有名になりました。古来より,蕎麦の栽培,そば打ち,釜茹で,晒しに湧水が利用されただけでなく,水車を利用してのそばの製粉も行われてきたのです。

 この日は天候にも恵まれて,私は,すっかり自然の香りを味わいながら,東京にいながら,なんだか時間的にも距離的にもとても遠いところに来たような気持ちになれたのでした。 そしてまた,今なら,私でも国木田独歩の「武蔵野」が読めるかな,と思ったことでした。

IMG_5353IMG_5364IMG_5363IMG_5374

●ホイットニーを望むために●
 ホイットニー(Mount Whitney)はシエラネヴァダ山脈にある山で,標高は4,418メートル,アメリカ本土で最も高い山であることはすでに書いた。1860年ごろにカリフォルニアの地質学調査に来ていたハーバード大学の地質学教授ジョサイア・ホイットニー(Josiah Whitney】によって命名された。
 1873年,チャールズ・ベゴーレ(Charles Begole),A・H・ジョンソン(A. H. Johnson),ジョン・ルーカス(John Lucas)がはじめて登頂に成功した。現在は,ホイットニーへの指定区域内への入山は日帰り登山の人数制限があり,1日100人と定められている。
 
 ホイットニーはセコイア国立公園の東側にあるのだが,セコイア国立公園からは山がじゃまをして見ることができない。この山を一番美しくみることができるのが州道395沿いのローン・パインなのである。
 州道395の西側にそびえる国内有数の高い峰々はどれも美しいが,なかでも,ホイットニーは思わず目を奪われる迫力がある。
 頂上付近が角のようになったこの花崗岩の山はその圧倒的な巨大さとまったく木が生えていないゴツゴツした岩山や尖った峰が見えるが,実際は驚くほど歩きやすく登山が可能なのだそうだ。
 片道17.1キロメートルのコースは日帰りで往復することもできるという。
 ほとんどのバックパッカーはコンサルテーション湖にテントを設営し,そこに重い荷物を置いて山頂までの最後の山道に続くジグザグの急坂に挑むという。

 ローンパイン湖までは許可証不要のハイキングができるが,それはホイットニーポータルから出発することができる。ということで,私はローン・パインのダウンタウンを抜けて,ホイットニーポータルを目指して,車で山道を登っていった。 
 ホイットニーポータルは標高2,552メートルということなので,ハワイ島マウナケアのオニヅカビジターセンターと同じような標高であった。
 山道を走っていた間はまったく車とすれ違わなかったが,到着してみると,駐車場は車で一杯であったので,停める場所を探すのにずいぶん苦労した。
 ここには松林に囲まれた美しいキャンプ場と土産が買えるショップがあった。
 野生のクロクマに狙われる可能性があるので,食べ物や他の注意すべき物は片づけて捨てるようにと説明している警告があった。日本に限らずここでもクマが出ることに,私は怯えたのだった。しかし,わざわざ登っていったのに,このホイットニーポータルからは木々と別の山並みが邪魔をして,ホイットニーを見ることはできず,むしろ,ローン・パインからのほうがずっと眺めがよく,私はがっかりした。

IMG_5323IMG_5340IMG_5358IMG_5324

●ローン・パインは西部劇の聖地●
 ローン・パインは南に位置するロサンゼルスと北に位置するサンフランシスコの間を通る「パノラマ街道」とよばれる州道395沿いにあるが,サンフランシスコのベイエリアからローン・パインへ行けるのは夏の間だけと限られている。それは,州道395が西のシエラネバダ山脈と東のロッキー山脈の間の谷あいにあるからで,冬の間,この州道395に通じるほとんどの道は深い雪が降るので,スキー場のあるあたりまでがやっとで,その先の峠の手前で封鎖されてしまうからだ。
 そのため,ローン・パインは夏の短い観光シーズンだけで細々と生き続けてきた小さな田舎町なのである。
 しかし,厳しい冬には旅行をしない私のような旅人には,こうしたアメリカの田舎町は悪くない。これぞ,子供のころに夢にまで見たアメリカの原風景だからである。アメリカ好きの人の多くは,アメリカのこうした風景見たさに足を運ぶのであり,決して,ニューヨークやらサンフランシスコやらロスアンゼルスに行きたいわけではないのである。

 このローン・パインの町は,UFO好きが一度は行ってみたいニューメキシコ州の田舎町ロズウェルと同じように,西部劇ファンにとっては一度は足を運んでみたい聖地なのである。
 かつて,西部劇がハリウッド映画の主流だったころ,西部劇は大規模なロケーションを行って撮影されたものだった。
 思い出せば,「真昼の決闘」で有名なモンタナ州ヘレナ出身のゲーリー・クーパー(Gary Cooper),西部劇映画の代表作「シェーン」(Shane)で主役のシェーンを演じたアーカンソー州ホットスプリングス出身のアラン・ラッド(Alan Walbridge Ladd),「駅馬車」(Stagecoach)に主演した「マジソン郡の橋」(The Bridges of Madison County)で有名なアイオワ州ウィンターセット出身のジョン・ウエイン(John Wayne),そして,その「マジソン郡の橋」で主演したカリフォルニア州サンフランシスコ出身のクリント・イーストウッド(Clint Eastwood)など西部劇出身の俳優は数え出したらきりがない。
 
 西部劇の華やかなりしころ,ハリウッド映画のほかに,テレビの番組にも西部劇は多かった。
 「ローン・レンジャー」(The Lone Ranger),「ロー・ハイド」(Rawhide),「ララミー牧場」(LARAMIE),「幌馬車隊」(The Outriders), 「ガンスモーク」(Gunsmoke),「拳銃無宿」(Wanted Dead or Alive),「ボナンザ」(Bonanza)などがそうであった。
 そうした西部劇の多くが撮影されたのがここローン・パインであった。
 それにしても,あの時代につけられたこれらの作品の日本語の題名はなんとひどいものであろう。原題のほうがよほどよく理解できる。

 撮影場所となっていたのはローン・パインの街外れにあるアラバマ・ヒルズ(Alabama Hills)であった。ここには,マウント・ホイットニーをはじめとする高山がひしめき合うシェラ・ネバダ山脈を背景として巨大な岩がゴロゴロしている。それらの岩の前で,あるいは横で,上で下で,俳優が悪漢との撃ち合いを演じていたのだ。
 ああ,書いているだけで私はワクワクしてくる。古きよきアメリカがそこにはあった。

IMG_7994IMG_7977IMG_7985IMG_7975

 日本で美術展があるとき,そのほとんどは芸術を楽しむというよりも人の頭を見にいく,という感じになってしまうので,いまひとつ楽しめません。
 以前,フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」を見にいったときなど,何十分も並んだのにわずか1~2分対面しただけという状況でした。それに比べて,欧米の美術館は広く,人も少ないので,絵画と思う存分対面できます。
 私が特にひどいと感じるのは正倉院展で,あれはもっと展示台を高くすべきです。
 そんなわけで,今回も,行くことを少し躊躇しましたが,予想に反して十分に絵画と接することができて,主催者の人たちの苦労が実りました。
 それは入場を30分ごとに区切って人数制限をしたのがうまくいったことでした。決められた時間以降に入ればよく,退館時間は決められていなかったのですが,30分という時間は絵画を楽しむには十分でした。
 
 美術館は1階と2階からなっていて,まず2階の展示室に案内されて,フェルメール時代の絵画,いわば前座,を楽しんだあとで,1階に展示されているフェルメールと対面するというようになっていました。
 1階にはおごそかにフェイルメールの絵画がずらりとならんでいました。その展示方法のよさも手伝って,私は感動しました。
 今回展示されていたフェルメールは,宣伝では9点が見られるように感じますが,実際は9点ではなく8点です。その8点のうちの1点「赤い帽子の女」も期間の途中で展示が終わり,その後に別の1点「取り持ち女」が加わるということから,9点となっているのです。したがって,運が悪いと7点しか見られませんし,9点すべてを見るには2度足を運ぶ必要があります。
 東京の展示が終わった2月中旬から大阪に場所を移します。そして,大阪のみ「恋文」(The Love Letter)の展示があります。東京で途中から加わる1点はそのまま大阪でも展示されますが,それ以外には東京からは4点のみが大阪で展示を続けます。つまり,大阪では6点のフェルメールが展示されます。
 したがって,私が,合計で10点展示されることになる今回のフェルメール作品をすべて見るためには,もう一度大阪に出かければいいのです。

 では最後に,今回見た8点のフェルメール作品について,私の記憶に留めるために書いておくことにします。
●「牛乳を注ぐ女」(The Milkmaid)-アムステルダム国立美術館所蔵-
 「デルフトの眺望」「真珠の耳飾の少女」とともにフェルメールのもっとも著名な作品のひとつで,質感描写が高く評価されているものです。フェルメールの作品で働く女中を単独で表したものはこれだけです。
●「真珠の首飾り女」(Woman with a Pearl Necklace)-ベルリンの絵画館所蔵-
 左から光が差す室内に立つ女性というおなじみのテーマの作品で,女性の着ている毛皮の縁のついた黄色の上着は「手紙を書く女」「婦人と召使」などのいくつかの作品にも登場するものです。
●「手紙を書く女」(A Lady Writing a Letter)-ナショナル・ギャラリー所蔵
 画中の若い女性は羽ペンを持って手紙を書く手を止めて鑑賞者の方へ視線を向けています。白い毛皮の縁のついた黄色い上着やテーブルの上の宝石箱とリボンのついた真珠のネックレスなどのモチーフは他の作品にも使われているものです。
●「マリアとマルタの家のキリスト」(Christ in the House of Martha and Mary)-スコットランド国立美術館所蔵-
 現存するフェルメール作品のうちで最大のサイズの作品です。画題は「ルカによる福音書」に基づくものです。キリストの言葉に耳を傾け働こうとしないマリアをなじるマルタに対してキリストは「マルタ,マルタ。あなたは多くのことに心を配り思いわずらっている。しかし,大切なことはひとつしなかない。そしてマリアは良い方の選択をしたのだ」と言います。
●「手紙を書く婦人と召使」(Lady Writing a Letter with her Maid)-アイルランド国立美術館蔵-
 キャンバスに油彩で描かれた作品で,中流階級の女性とこの女性の,おそらくは恋人宛の手紙を届けるために,手紙を書き終えるのを待っている召使いの姿が描かれた作品です。フェルメール1660年代の静謐で抑制的かつ静的な絵画と1670年代の気取った絵画との橋渡し的な作品であると見なされています。
●「リュートを調弦する女」(Woman with a Lute)-メトロポリタン美術館所蔵-
 画中の女性はリュートを弾いているのではなく調弦しているところです。女性は窓の外を見つめ,恋人のやって来るのを心待ちにしている風情です。
●「赤い帽子の女」(Girl with a Red Hat)-ナショナル・ギャラリー所蔵-
 他のフェルメール作品に比べて例外的にサイズが小さいこととカンヴァスでなく板に描かれていることなど異色の作品です。絵の前面にフェルメールの絵にしばしば登場する背もたれに獅子頭の飾りの付いた椅子の飾りの部分のみが見えています。
●「紳士とワインを飲む女」(The Glass of Wine or Lady and Gentleman Drinking Wine)-ベルリンの絵画館所蔵-
 室内の男女,ワインを飲む女性というテーマは男性から女性への誘惑を意味しています。窓の色ガラスには片手に直角定規,片手に馬の手綱とくつわを持つ「節制」の寓意像が表され,女性の行為に警告を発しているかのよう,だそうです。

DSC_1946DSC_1947DSC_1954DSCN1556

######
 日本人はフェルメールが大好きです。フェルメール1作品さえあれば,美術展は満員になります。
 今回,フェルメールがなんと9作品(現在は8作品)も一度に集まるとなれば,これは行くしかありません。ということで,私は,10月19日,N響定期公演を聴きに東京へ行った翌日,フェルメール展を見に,上野の森美術館に行きました。

 ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer)として知られるヤン・ファン・デル・メール・ファン・デルフト(Jan van der Meer van Delft)は1632年,というから日本の江戸時代のはじめ,現在のオランダに生まれた画家です。
 映像のような写実的な手法と綿密な空間構成,そして,光による巧みな質感表現を特徴とします。
 同じオランダのレンブラント,イタリアのカラヴァッジョ,フランドルのルーベンス,スペインのベラスケスなどとともにバロック絵画を代表する画家のひとりです。また,レンブラントと並ぶ17世紀オランダ黄金時代の代表画家で,生涯のほとんどを故郷デルフトで過ごしました。
 最も初期の作品のひとつである「マリアとマルタの家のキリスト」にみられるように,フェルメールは物語画家として出発しましたが,やがて,「取り持ち女」の頃から風俗画家へと転向していきました。
 現存する作品は35点,贋作が疑われるものも含めると37点しかありません。現存する作品はすべて油彩画です。

 私は有名な「真珠の耳飾りの少女」(Girl with a Pearl Earring)を東京の展覧会で見て以来,その虜になって,ワシントンDCのナショナルギャラリーをはじめとして,海外でもフェルメールの作品と接するのが楽しみになりました。
 日本での展覧会では作品よりも人の頭を見にいくようなものであっても,海外の美術館では落ち着いてみることができます。日本の展覧会とは違って,写真も写せます。
 先日,ワシントンDCのナショナルギャラリーで4作品を見たときには,私以外にだれもギャラリーにいなかったので,私ひとりの独占状態になりました。それは,作品が展示されていたのが「地球の歩き方」に書かれた場所とは異なっていたこととに加え,フェルメールは「Vermeer」と書くので,それをフェルメールと読めないからなのではないか? と私は勝手に想像しています。今日の1番目の写真はそのときに写した「天秤を持つ女」(Woman Holding a Balance)ですが,この作品は今回の美術展には来ていません。

 私は,アメリカ合衆国50州制覇もそうですが,はじめからそうしようとはじめたわけではないけれど,フェルメールもまた,こうなったら35(37)作品をすべて見ようと思いはじめました。そうなると,以前,せっかくルーブル美術館に行ったのにそのときにフェルメールを見たという記憶がなかったりと,若き日の無知を恥じることになりました。フェルメールに限らず,私は旅先で多くの美術館に行き,数多くの絵画を見てきたのですが,何を見たのかという記録を残さなかったのを,今になって残念に思うのです。

IMG_7857IMG_8008IMG_8009

 N響定期公演第1895回を聴きにいきました。本当は第1894回のブルックナーを聴きたかったのですが,ニュージーランドへ旅行中だったので断念しました。
 第1895回のプログラムはハイドンの交響曲第104番「ロンドン」とマーラーの交響曲第1番「巨人」,指揮者は91歳になられたマエストロ・ブロムショテッドでした。前回私が聴きにいった第1892回と違って,2階席も空席がひとつもなく満員でした。

 マーラーの交響曲のうちで私の好きなのは第4番と第9番ですが,このふたつの交響曲はナマで聴くにはストレスが溜まります。
 第4番は,曲が終了した後の静寂がすべてなので,観客のひとりでもフライングで拍手をしてしまうと曲が台なしになってしまいます。そこで,聴いているほうが最後まで不安でいっぱいになるのです。録音した音源ならそういうことがないので,逆に十分に楽しめるのですが…。
 先日行われた第1891回の定期公演でこの曲が演奏されました。私はそれをFM放送とBS放送で聴きました。指揮者はパーヴォ・ヤルヴィさんで,この指揮者はそういったことをすべて計算していて,第4楽章でだけで歌う歌手が楽章間でステージに出てきて拍手が起きないように,第4楽章がはじまったあとでステージに出てくるという私の好きな演出,そしてまた,曲の最後には何ともいえない長い沈黙と,フライングの拍手もなく,最高の演奏になりました。

 第9番は,最終章に延々とアダージョが続きます。そこで,この楽章に緊張感がなくなると,聴くほうは耐えられないものになります。
 かつて,小澤征爾さんがボストン交響楽団との最後の演奏でこの曲を選んだのですが,気の毒なことに,この楽章で観客のひとりがセキがとまらず,この雑音がどうにもこうにもこの曲の緊張感を台なしにしてしまいました。
 私は,少し前,この曲をマエストロ・ブロムショテッドで聴きました。ことのきは,最後の最後まで緊張感のただよう素晴らしい演奏で,私はその瞬間に出会うことができたのが,未だに忘れられない思い出です。

 今回の第1番はそうした曲に比べればストレスが溜まる曲ではありません。この曲は,最終章の勝利の凱旋がすべてで,ここでの高揚感があれば,曲はまとまります。しかし,並みの演奏になってしまうと,単なる安っぽいお祭り音楽になってしまうのです。
 私はこの曲が特に好きなわけでもなく,選んで聴くこともないのですが,これまでN響定期でずいぶんとナマで聴く機会がありました。それは,マーラーの交響曲のなかでは短く,また,人気があるので,よく選ばれるからでしょう。演奏に金がかからない,ということもあるのではないかと私は思います。
 かつて,スベトラーノフというすばらしい指揮者がこの曲を演奏しようとプログラムで選んだのに,残念ながら公演前に亡くなってしまい,別の指揮者(あえて名前は挙げません)によって演奏されたことがありました。私はそれを聴いたのですが,何の感動もありませんでした。
 指揮者がだれであろうと,N響の演奏のレベルが変わるわけではなのですが,演奏会本番での指揮者の存在というのは,演奏というよりも,ステージと客席に不思議な緊張感を醸し出すためにあるのでしょう。簡単にいえば,そういう緊張感が起きる指揮者を「カリスマ」というのでしょう。
 私は,そうした緊張感を味わうために,今回の演奏会に出かけたように思います。だからこそのマエストロ・ブロムシュテッドなのでした。

◇◇◇
Thank you for coming 250,000+ blog visitors.

エミュレーツ航空では機長がアラビア語で話すし,機内にはアラビアの音楽がかかっているし,とてもエキゾチックでした。しかし,シュクラン(شكرا)と言われても私は困ります。いずれにせよ,キャセイパシフィック航空の中国語よりは抵抗がなかったのですが…。
やがて,窓にはシドニーの夜景が見えてきました。私には30数年ぶりのシドニーでした。この30年でシドニーは驚異の発展を遂げているということなのですが,今回は単なるトランジットなので,町の様子は機内の窓からしかわかりませんでした。
それにしてもシドニーの空港は巨大でした。空港内にはブランド品の売り場がひしめき合っていて,日本のデパートのようでした。プライオリティパスを持っていると,ラウンジの少ないシドニーではラウンジを利用する代わりに37ドルの食事券がもらえるのですが,私はもはや食事はうんざりだったので,歩き回っていたら,アメックスのラウンジがあったので,そこで休憩をすることにしました。
今回の帰国は,3回の乗り換えで4度飛行機に乗るので,トランジットで利用するのはニュージーランドのクライストチャーチ,オーストラリアのシドニー,そして羽田ですが,そのすべてで私はラウンジを利用しました。つまり,ラウンジのはしごを楽しんでいたのですが,食べ過ぎました。

やがて,日本へ行くカンタス航空の搭乗時間がきました。
私は近距離のフライトでは窓際,長距離のフライトでは通路側を指定します。このフライトでももちろん通路側に座ったのですが,窓際の2席を新婚旅行の人たちが座りました。ツアーの人が海外旅行をするときに座席を指定できるのかどうかは知りませんが,自分で指定しないと,大概,最も不便な席があてがわれていてとても気の毒に感じます。
機内では再び夕食が出ましたが,さすがに私は,この夕食には手が出ませんでした。食事に困ることは多々あれど,逆に食べられないほど何度も出てきたのもまたはじめてのことでした。贅沢なものです。
いつものようにぐたぐたと機内で過ごすうちに,いつの間にか赤道を越え,日本に近づいてきました。着陸の1時間前,フルーツの朝食が出ました。そして,午前5時過ぎ,羽田空港に到着しました。ニュージーランドは時差が4時間あるので,この日は1日が28時間あって,いつ食事をすればいいのかよくわからないまま,なんとなく何度も食事がでて,出されたまま食べたり残したり…。そして,この日の朝食は日本時間では午前4時でした。

羽田空港でもラウンジで最後のフライトを待って,やがて,セントレアへの便に乗り込みました。
こうしてこの旅が終わりました。
運が悪ければそのすべては実現せず,運がよければそのすべてが実現するという,運任せの旅,しかも,出発前の,あわや台風直撃騒動からはじまって,現地の天気予報も最悪,ということでまったくテンションがあがりませんでしたが,結局,天候に恵まれて,すべてうまくいきました。
アイスランドもニュージーランドも日本からは同じくらいの時間で行くことができます。アイスランドのほうがずっと人口は少ないのですが,どちらの国も島国で,同じように自然が豊かです。しかし,物価が異常に高いアイスランドに比べればニュージーランドはそういう感じもないのが救いです。また行ってみたい国です。
セントレアでは出発を待つフィンランド航空の機体が停まっていました。私の次の旅は,このフィンランド航空を利用してオーストリア・ウィーンです。

IMG_7819IMG_7820IMG_7822IMG_7825IMG_7826IMG_7827IMG_7828IMG_7830IMG_7839IMG_7848IMG_7854

クイーンタウンに到着して,レンタカーを返しました。
さあ,これから,帰国に向けて昨年のアラスカに匹敵する長い道のりのはじまりです。
この旅では,セントレア・中部国際空港からニュージーランドのクライストチャーチまでの往復とクライストチャーチからクイーンズタウンまでの往復は,まったく別に予約をしました。前者はJALとカンタス航空なのでワンワールド,後者はニュージーランド航空なのでスターアライアンスと,アライアンス自体も異なりました。
そこで,もし,帰りのクイーンズランドからクライストチャーチまでの便に遅れがあっても,クライストチャーチからの便に乗り遅れないようにと,クライストチャーチでの待ち時間を5時間ほどとりました。
クイーンズタウンの空港もクライストチャーチの空港もスターアライアンスとワンワールドではチェックインカウンタが分かれていました。スターアライアンスはキオスクで自動チェックインができるのに対して,ワンワールドはそれができませんでした。そこで私は,クイーンズタウンではキオスクで簡単にチェックインはできたのですが,この先のクライストチャーチでは不便な目にあうことになります。
行きのクライストチャーチからクイーンズタウンのフライトはプロペラ機でしたが,帰りは大型のジェット機でした。また,来るときのクライストチャーチの空港はセキュリティチェックがありませんでしたが,クイーンズタウンではしっかりとセキュリティチェックがありました。

心配は杞憂に終わり,定刻にクイーンズタウンを出発してクライストチャーチに着きました。ひとまず安心です。クライストチャーチに着いたのですが,これから待ち時間が5時間もあるので,日本までの帰国便のチェックインをしてキャリーバッグを預けてしまおうと,とりあえずカンタス航空のカウンタに行ったところ,あなたの乗るのはカンタス航空ではなく,エミュレーツ航空だといわれました。そうだったのです。私がクライストチャーチからシドニーに行く飛行機はエミュレーツ航空のコードシェア便だったのです。そして,キオスクのないワンワールドはチェックインカウンタが開くまでチェックインができませんでした。たとえネットでチェックインをしてもカウンタが開いていなのでキャリーバッグが預けられません。チェックインをしていなければクライストチャーチのラウンジも使えません。しかたなく,空港のフードコートで2時間ほど時間を潰しました。
そして2時間後,エミュレーツ航空のカウンタでチェックインをしてから,クライストチャーチのラウンジで3時間を過ごしました。このあとシドニー便と乗り換える羽田便で合計2回も夕食が出ることは知っていたのですが,おいしそうなケーキが目に留まり,ラウンジで食べきれないほどのケーキを食べてしまったのをあとで後悔することになりました。
エミュレーツ航空というのはアラブ首長国連邦ドバイを本拠地とする航空会社で,私はこれまでに利用したことがありません。一度香港で,この航空会社の客室乗務員と出会って,なんとまあ変わった服装だと度肝を抜かれたことがありましたが,まさか私がこの航空会社を利用するとは思いませんでした。そして,利用する機体はA380という最新式の世界最大のもので,エコノミークラスは横が10席もあってとても広く豪華でした,なんと,ファーストクラスは2階にあるのです。私はエミュレーツ航空どころかA380にも乗るとは思わなかったので,びっくりしました。機内食が出て,豚と羊の肉が選べました。こうなったら羊でも食べてやろうと思っていたところ,あんたは豚でいいだろうといわれてショックを受けました。ここで反対してもいいのですが,なんかまったくテンションが下がってしまったので,それで了承してしまいました。

IMG_7787IMG_7788IMG_7793IMG_7797IMG_7799IMG_7801IMG_7805IMG_7804IMG_7806IMG_7816IMG_7818

このページのトップヘ