しない・させない・させられない

アメリカ合衆国50州・MLB30球場を制覇した旅行記と,旅・星・四季のエッセイ,読書・映画・音楽の感想。

"I won't do or be made to do what I don't want to. I won't make you do what you don't want to."
Traveling US and Japan, watching beautiful stars and reading books on listening classical music make my life.


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 前回書いたようなわけで,名古屋場所の千秋楽は,私には何の想い入れも盛り上がりもなく粛々と進行していきました。
 今日は,テレビでは放送されないような珍しいシーンを集めてみました。
 
 1番目の写真は序二段の優勝決定戦の出場した桝乃山ですが,残念ながら負けてしまいました。
 桝ノ山を桝乃山と改名して望んだこの場所は7戦全勝でした。2年前の春場所でケガをしてそれ以来4場所全休して序二段まで落ちて復帰したのですが,再びケガで序ノ口まで落ち,復帰後また2場所休場して,先場所3日休場後に再出場し現在10連勝中です。来場所は三段目なので,早く関取に復帰してほしいものです。

 2番目の写真は最上段にあるテレビの放送席ですが,3番目の写真は放送終了後に解説の北の富士さんがお帰りになるのを待ち構えるファンと北の富士さんです。こんな感じにファンが取り囲んでしまい,北の富士させなかなか帰れません。
 4番目のは写真は向こう正面の舞の海さんです。そして,5番目の写真は舞の海さんの帰るところです。こちらもまた,ファンに取り囲まれてしまって,サインをせがまれたりしてなかなか帰れません。
 数年前,相撲ががらがらだったころ,正面花道寄りにあるラジオの放送席の後ろのマス席で見たことがあります。そのときの解説者が舞の海さんで,放送終了後に握手をしてもらったことがありますが,当時はマス席の後方なんて他に観客もいなかったので今のように取り囲まれるようなこともありませんでした。
 
 1991年の3月大阪場所まで,優勝力士に対して「パンアメリカン航空賞」というのがありました。当時はテレビ中継は表彰式の最後まで放送枠に入っていたので,多くの人が優勝の表彰式を見ていました。このとき,「パンアメリカン航空賞」の表彰を担当していて有名になったのがデビッド・ジョーンズ(David Mifka Jones)さんでした。
 パンアメリカン航空極東地区広報担当支配人だったジョーンズさんは1956年の1月場所で観戦した相撲に興味をもちました。パンアメリカン航空はすでに1953年5月場所から幕内最高優勝力士に対して「パンアメリカン航空賞」を出していたのですが,この賞を授与していた担当者が転職することになり,これを機に賞の中止を決めていました。しかし,相撲に興味をもったジョーンズさんは中止に反対し,賞の存続を主張したのです。そして賞の継続が決まったのですが,おかげでジョーンズさん自身が賞の授与を引き継がなければならなくなったのです。
 そんなわけでジョーンズさんが担当しはじめたのですが,観客が式に退屈している様子を見て,大声で「ヒョー・ショー・ジョウ!」と読み上げたことから注目を集めたのです。
 そこでジョーンズさんは俄然やる気になって,その翌場所からは和装で登場し,意図的に読み間違えたり,地方場所では方言で表彰状を朗読するようになりました。こうして,ジョーンズさんの賞贈呈は千秋楽の注目行事となり,NHKの中継放送でもジョーンズさんの登場場面を特別扱いで取り上げるようになりました。
 今とは違い式というのは厳粛であるべきだと私は思っていたのですが,こういうことをすることを不謹慎と思わずになすがままにまかせるのもまた相撲協会の不思議にところだと私は子供心に感じたものです。
 この表彰はパンアメリカン航空の日本撤退後も,1991年に体力の限界でジョーンズさんが引退するまで続きました。今では,多くの外国からの表彰がありますが,このパンアメリカン航空の表彰がその草分けです。

 6番目の写真は名古屋市長杯授与で土俵に上った河村名古屋市長です。その前に愛知県知事杯の授与で大村愛知県知事も出てきました。
 私はナマ河村市長をはじめて見ましたがすっかり猫背のおじいさんでした。このとき河村市長がやったパフォーマンスがこのジョーンズさんの名古屋弁での表彰のマネだったのですが,優勝インタビューの白鵬の「サンキュー」同様に見ていた人はしらけました。
 大阪場所で吉本興業杯の贈呈があったときに坂田師匠が出てきて大声援とともに「あほ~」という掛け声がとんだのとは大違いでした。

 さて,授賞式が終わり,場所の最後の行事は恒例の「神送りの儀式」でした。これは土俵祭りによってお迎えした神様を元の場所へお送りする儀式で, 「出世力士手打式」の後に続いて行われます。出世力士と親方が土俵祭りに参加していた行司さんの中で一番格下の者を胴上げするです。
 この式をもって場所は終了して,土俵祭りのときに土俵に埋めた供え物を取り出します。
 私は見たことがありませんが,以前,このあと,名古屋場所では土俵に観客がむらがって土俵の土をもっていったとかいう話を聞いて,相撲協会もタガがゆるんでいるものだとあきれたことがあります。現在はそんなことは許されず周りをガードしていました。
 名古屋という土地柄はお店が開店するときに店先に並んだお祝いの花を勝手にもっていってしまうというドロボー文化が根付いているのですが,それと同類なのでしょう。
 
 ところで,土俵の土をもっていく悪しき習慣が起きたよりももっと前,今から45年ほど昔のことです。そのころは千秋楽が終わると土俵まわりは無法地帯化していました。だからといってだれも土などもっていきませんでしたが,その代り,土俵に上がり放題で,私は土俵の上で一緒に見にいった友達と相撲を取る真似ごとをしたことさえありますし,花道を通って支度部屋までいって優勝の万歳を一緒にしたこともあります。
 このように,今では信じられないようなことが過去にはいろいろあったわけで,当時はおおらかな時代だったなあと思うわけです。このほうが日本らしいと思うのは私だけでしょうか?
 

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○●○●○●
 2017年の大相撲は1月の初場所に稀勢の里関が思いがけなく優勝し横綱に昇進,さらに3月の春場所は奇跡の逆転優勝となって,フィーバーも最高潮に達しました。しかし,5月の夏場所はケガが完治していなかったこともあって途中休場,そして7月の名古屋場所もまた途中休場となりました。
 私は,稀勢の里関の横綱昇進が信じられず,ともかく土俵入りを見たいという一念で春場所に出かけ,2枚の優勝額の掲額を見ようと夏場所の初日に出かけ,すべての想いは遂げたので,名古屋場所はもうどうでもよかったのですが,千秋楽のチケットが手に入ったので見にいきました。

 東京の国技館は別格として,地方場所は見にいくなら何といっても大阪です。狭く館内にレストランもなく福岡市内にはホテルがとれない九州は論外として,名古屋場所の行われる愛知県体育館は老朽化が激しく,おまけに大阪と違ってイス席には座布団さえないわけです。しかも,愛知県体育館は名古屋城内にあるということで再建もままならず,立派な愛知県芸術劇場を作ったころの財政が豊かだったバブル期に,ついでに体育館も新設すればよかったのにそうしなかったために,今や愛知県は箱モノをつくるお金もないということで,ずっとそのままになっています。
 やっと近頃新しい体育館建設の話が持ち上がってきましたが,いつになることやら…。それでも今場所はなんとかボロボロだった電光掲示板だけが新しくなりましたが,これまでは正面と向正面の2箇所にあったのに向正面の1箇所のみになってしまいました。

 千秋楽は10時開場なので,ゆっくり家を出ました。9時過ぎに到着しましたが,すでに開場していたのでなかに入ると結構な賑わいでした。
 要するに,自由席の客が席取りをしているということなのです。愛知県体育館は,ずいぶん昔は正面と向正面のイス席はすべて自由席で指定席は東西のイス席のみだったのですが,若貴人気以降は自由席は正面と向上面の上の2段のみになってしまいました。
 なんでも15日間通しのイス指定席というのがあるそうで,この通しのチケットを持っている観客のなかでおそらく指定された席が東西なのでしょうか,彼らがそれよりも見やすい正面や向正面の自由席を占領してしまうのです。すると自由席を持っている観客が見る場所をなくすわけです。そこで,自由席のみチケットの確認をするとかいうわけのわからぬことをしていました。
 このように,人気が出過ぎると様々なめんどうなことが起きるわけですが,数年前はガラガラで当日の昼過ぎに金券ショップでマス席が半額でたたき売られていたり,土俵だまりの席が14,000円で簡単に買えたりしたころがうそのようです。

 しかし,ここ2場所は白鵬1強時代に再び舞い戻り,しかも横綱らしくない張り手の立ち合いにごまかしたような相撲ばかり。新横綱の稀勢の里も多くを望めないとあっては,おそらく,人気も今がピークでしょう。
 8月1日に興行のある豊田市の巡業のチケットは未だに売り切れていないということですし,何事もバブルのあとの反動が怖いものです。1986年のハレー彗星の接近でバカ売れした天体望遠鏡業界も,その後にほとんど倒産しましたし,再び大相撲も閑古鳥が鳴くころに舞いもどるのでしょうか? スー女が去ったらそれまでです。

 さて,私はこの日,最初に書いたように,何の想い入れもありませんでした。それに,千秋楽は幕下以下の取組の数も平常の半分で,史上最弱力士・服部桜もすでに今場所も7敗で取組を終えていたし,幕下期待の貴公俊,貴源治兄弟もこの日は出番がなく,さらには,千秋楽とはいえ大阪の府立体育館のような華やいだロビーの雰囲気もなく,楽しみは序二段の優勝決定戦と,ひょっとしたらの十両の優勝決定巴戦くらいのものでした。幕内最高優勝がまだ決まっていないとはいえ,碧山が勝って白鵬が負けるという確率など1%もないでしょう。これまで優勝がかかっていないときに日馬富士が白鵬に勝ったなんていうためしすらないのです。

 テレビ中継では名古屋場所は暑くて場内では観客がみなうちわであおぐ姿が珍しい,といった放送をしていましたが,それは間違いです。
 真相はですね,館内に入るときに入口でうちわをくれるのです。初日とか千秋楽は西濃運輸の軍配型のもの,そして,平日は東海東京証券と書かれたものです。もらったうちわの処遇は,仰ぐしかないわけです。だから観客がうちわを使っている,これだけの話です。
 NHKホールで行われているN響定期では,数年前まで開演45時間前に「開演前のロビー室内楽」をやっていました。そのころ,それをよい場所で見るために大勢の観客が開演1時間前の開場時間から列を作って並んでいました。開場前に並ぶのは一部の自由席の観客がよい席を確保する目的と,このロビー室内楽の観客の席取りだったのですが,それをFM放送では,熱心な観客が開場時間の前から大挙してコンサートを楽しみに並んでいる,などと放送していたのと同じ理屈です。放送で話されいることの真実など,所詮その程度のものです。

 今場所,私は力士の入り待ちをする気もなく,暑いのにちゃんこを並んで食べる気もありませんでした。東京場所とは違って地下の焼き鳥工場で作った焼き鳥もなく,稀勢の里弁当もないので,レストランで1,000円のカツカレーを食べましたが,この日は家から体育館に来るのに,途中の駅まで車で来たのでビールを飲むこともありませんでした。
 暇だったので館内から外を眺めつつ散歩していると,ちょうど八角理事長が来るところでした。写真を取り損ねましたが乗ってきた車だけ写しました。そんなわけで,今日の写真のセンチュリーは理事長の車です。
 入り待ちをしている観客もまたまばらでした。
 さえないしらけた千秋楽でした。

◇◇◇
攻めと守りの十五尺-土俵の上の夢
大相撲の思い出を語る①-冷房なき金山体育館のころ
大相撲の思い出を語る②-愛知県体育館になって
名古屋の夏は大相撲から始まる-千秋楽を観戦する①
名古屋の夏は大相撲から始まる-千秋楽を観戦する②

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☆☆☆☆☆☆
 南半球で美しいのは南十字星あたりの星空だけでなく,さそり座やいて座といった,日本でもなじみの星座がなんと天頂に見られることです。そのために,日本では地平線に近くてその姿を鮮やかに見ることができない場所を鮮やかに再現できるのです。 
 日本国内では大仰な機材を使って,しかもコンピュータによる画像処理でやっと写し出すことができるアンタレス付近の星空も,数分の露出でしかも難しい画像処理なども不要で今日の写真のように写ってしまうのです。

 では今日はさそり座(Scorpius)の見どころを説明しましょう。
 まず,アンタレス付近ですが,M4,M80,M19,M62といった球状星団と,散光星雲があってとてもきれいです。また,アンタレス付近は,IC4606やIC4592,さらには名前のついていない散光星雲が取り巻いていてとても美しいものです。
 さそり座のしっぽのあたりに目を向けると,M6,M7といった散開星団に加えて,NGC6334=通称・出目金星雲やNGC6357=通称・彼岸花星雲といった美しい散光星雲があります。
 日本では地平線に近いこれらの美しい天体が天頂に輝いて,しかも,天の川のなかに溶け込んでいる姿を味わうと,赤道を越えてわざわざこれを見にきた甲斐があったとしみじみ思います。

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 NHKBSプレミアムで放送されている「にっぽん縦断こころ旅」も,今週で2017年の春の旅が終わって,秋までしばらくお休みです。
 今回のコースの最後は北海道でしたが,春の旅の最終回に出てきたサロマ湖原生花園のサイクリングロードは私も走ったことがあります。そのころはのどかで雄大だったのですが,そこもまた無粋なコンクリートの橋なんて作ったり,やたらと工事をしていて,景観も台なしでした。

 私は,この番組を見ていて,大学生のころの夏休みを思い出しました。
 それまでずっと北海道には憧れていたので,大学に入学した年に行ってみることにしました。今では信じられないことですが,そのころはひとり旅などしたこともなく,北海道に行く方法すらよくわからなかったので,ツアー旅行に参加することにしました。ところが,参加してみたら,ほとんどは若い女性でした。そのときはじめて,どうやら男はそういうツアーなどには参加しないものだということを知りました。
 それはともかく,はじめての北海道は魅力的なところでした。それ以来,大学を卒業したあとは,休みがあればレンタカーを借りては北海道を走り回るようになりました。北海道の隅々まで道路という道路は走りました。襟裳岬の小さな民宿や積丹半島の先端のお寿司屋さん,函館までのほとんど車の走らない追分ソーランライン,カムイワッカの滝,利尻島や礼文島など,本州にはない広大さと自然に圧倒されました。しかし,北海道は,行くたびに開発が進み,次第に俗化し,バブルがはじけたときそれまでにこしらえたテーマパークはすべて廃墟と化して,ここもまた,本土と同じようにゴミだめとなっていくのでした。

 その後,アメリカをドライブするようになると,それまで雄大だと思っていた北海道がとても狭く感じられらるようになってきて,私はすっかり興味をなくしました。しかし,アメリカもまた,ロッキー山脈あたりの雄大さは素晴らしいのですが,人口の多い都市部は,あまりにも車と人が多く幻滅するようになってきました。
 そして,私が次に行くようになったのが,ハワイやニュージーランド,そしてオーストラリアです。ハワイやニュージーランドはとてもよいところですが,残念ながら定番の観光地はどこも世界中から来るツアー客であふれています。しかし,ひとたびツアーコースから離れれば,まだ,大自然が残っているし,素朴です。オーストラリアに至っては,さほど名所はないのですが,のどかで雄大な風景をどこにでも見ることができます。

 それに比べると,「にっぽん縦断こころ旅」で北海道の風景を見ていても,結局,日本のどこにもある田舎道のように,汚く狭く私にはどこも魅力的には思えません。「百名山」にしても,登山道は,古びていいたり廃道だったり武骨な鎖があったりだし,やっと登った山頂は人だらけです。旧東海道にしても,自動車道路がせっかくの旧道を痛めつけています。いつも書いているように,日本の風景は心で感じるものです。
 それにしても,テレビのさまざまな旅番組で,出演者が日本の美しいといわれる場所の景色を見たときに,いつも「あーすごい,日本じゃないみたい」とか「ハワイみたい」「スイスのアルプスみたい」というセリフを吐くのをどう思いますか? 結局,そんなことなら海外へ行けばいいんじゃないか,あるいは,もともと日本にはまったく期待などしていないんだなあ,と思ってしまいます。
 「にっぽん縦断こころ旅」の火野正平さんもまた,これでしばらくのお休みなので,営業用の感動はオフにして,しばしの休日を別荘のあるハワイ・カウアイ島で過ごされるのでしょう。
 もともとはとても風光明媚な国だったのに,この国はどうしてこうも自然を破壊してしまうのでしょう。「花より団子」,桜の花が咲くとその下で宴会をやって翌朝はゴミの山… これが日本人の本質なのだからそれも致し方ないのかもしれません。食べ物だけは日本が世界で一番だというのは,そもそもそれが理由だったりするのかなあと私は思いますけれど。

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●35年前とは全く違うワシントンDC●
 フォード劇場とピーターセンハウスの見学を終えた後の予定は,国会議事堂の見学であった。
 35年前にワシントンDCに来たとき,今になっては夢のような話であるが,私は国会議事堂の見学をするつもりで,間違えて議会の傍聴をしてしまった。そこで今回,そのときにできなかった国会議事堂の見学をしたいものだと思っていて,事前にインターネットで予約までしてあったのだ。しかし,見学時間は午後だったので,それまでずいぶんと時間があったから,昨日行くことのできなかった国立公文書館や国立自然史博物館に寄ってみることにした。
 
 ピーターセンハウスを出て10番ストリートを南下してペンシルベニアアベニューを南東に向かって歩いていくと,様々な政府の建物があった。東京で霞が関を歩いているような感じである。
 まず目についたのがFBIである。
 連邦捜査局,つまり,FBI(Federal Bureau of Investigation)の本部は以前はツアーで公開されていて,私も参加したことがあるが,現在はアメリカ上院議員の紹介がないと見学できないという。
 FBIは1908年の創立で,1930年代半ばにギャングの活動を鎮静化させたことで知名度を得た。司法省に属し,連邦法に違反する事件や複数の州にまたがる犯罪捜査,公安情報の収集など行うとともに,テロリスト対策が最重要業務となっている。

 さらに歩いて司法省を過ぎ,はるかむこうに国会議事堂を眺めながらペンシルベニアアベニューを歩いていくと,国立公文書館に到着した。
 国立公文書館(National Archives Museum)はギリシア神殿を思わせる壮麗な建物で,多くの所蔵品が公開されていて,今も無料で見学することができる。
 入口は多くの人でごった返していたが,流れがよく,広いので,問題なく見学することができた。ただし,館内の写真を写すことはできなかった。

 ここでの必見は「自由の憲章」(Charters of Freedom)と呼ばれる独立宣言(Declaration of Independence),合衆国憲法(The United States Constitution),人権宣言=権利の章典(Bill of right)であるから,それを見るために,まずはそれらが展示されている中央広間のロタンダに急いだ。
 アルゴンガスを注入したチタンとアルミニウムに金メッキを施したケースに,羊皮紙に書かれたこれらの文書は収めらていて,夜間や緊急時には展示場所の真下地下6メートルにあるシェルターにおろされ保管されるのだという。
 見学しているうちに,私は以前ここに来たことがあるのを思い出した。
 

 今のような季節になると,私がきまって思い出すのは,小学生のころ夏休みに出かけた海のことです。
 それは今から50年ほど昔のこと。当時は家にクーラーもなく車もなく,それに私は学校が嫌いだったから,夏休みになると出校日以外は決して学校には行かず -高校生のころは補習などはまったくなかったし出校日も自発的に行かず- 長い夏休みはずっと家にいました。寝坊をすると1日が短くなってしまうので早起きで,涼しい午前中は学校からもらったやっても意味のないようなドリルを片付けました。当時は,今はEテレと呼ぶ教育テレビで夏休み特集の学校のつまらない勉強とは違ったさまざまなおもしろい講座が放送されていて,それを見るのもまた楽しみでした。暑いのでお昼間は寝て,涼しくなる夕方には折り畳みデッキチェアを外に出してそこに座って夕涼みをしました。

 そんな夏休みで,母親には近くのデパートくらいしか連れてもらえなかったけれど,わずか数日の夏休みをとった父親に連れられて1泊2日か2泊3日で弟と海に行くことだけはしました。
 当時父親の勤めていた会社が知多半島の野間というところの民家のひと間を夏だけ借りていて,そこに泊まるのです。野間というのは知多半島の西海岸,現在中部国際空港のある常滑からさらに南にいったところです。今にして思えば,会社の経費だから,父親はほとんどお金をかけずに親の責任を果たすことができたわけでしょう。
 当時は野間まで名鉄電車は走っておらず,知多半島の東海岸沿いの河和というところが終着駅で,そこで降りて,そこからさらにバスに乗って知多半島を横断しました。たいした距離でもなかったのですが,子供心にはそのバスに乗っている退屈な時間が嫌いでした。
 父親は自宅から職場のあった金山までの名鉄の通勤定期券を持っていたので,この日は電車の中で車掌に定期を見せてその先の清算をすると長い紙の証明書をもらうのですが,それがなにか普通の切符と違っていて特別なもののように思えて,かっこいいのです。そしてまた,終着駅なのでその先にレールのない河和の駅が珍しかったのです。しかし,駅を降りると喫茶店に入るでもなくすぐにバスに乗り換えるので,その駅のまわりがどうなっているのかずっと不思議に思っていました。

 いよいよ野間に着くと,借りていた民家の一室で過ごすわけです。その部屋は民家の10畳くらいの離れで,先祖様の写真が額に入れて飾ってあって,それが子供心には不気味でした。お風呂は民家のものを使わせてもらうのですが,珍しい五右衛門風呂でした。
 夕食はとれたての魚でしたが,それが新鮮でおいしかったのです。夕食後は町に出て,数件あったゲームセンターでスマートボールをするのが一番の楽しみでした。そして,夜は蚊帳を吊って寝るので,それがまためずらしく,心が騒いだことでした。
 父親は子供が夏休みでも当然普段は仕事だから家にいないくせに,こうして海に行ったときだけ父親ぶってしつけるのです。朝は,まず勉強をしないと海に行かせないのです。たかが数日外出したときくらい勉強なんでどうでもいいのに,わざわざ勉強道具を持参させてバカげたことだと思いました。それを済ませて,いよいよ待望の海に行くと,今度はみっちり準備体操をさせるのです。地元の子供たちはそんなことお構いなしで早朝から海で遊んでいるので,それを見ていて彼らがものすごく羨ましく思えました。
 実際に海で遊んだときの記憶などほとんどありませんが,きっ~たない海だなあ,と思ったことだけは覚えています。
 お昼はまた民家にもどって食事がすむと,父親は無理やりに昼寝をさせるのです。まったくもってこれもまたバカげたことでした。民家の近くには野間の灯台も野間大坊というお寺もあったのに連れて行ってもらったことはありませんでしたが,唯一,近くの小高い山の展望台には,昼寝の後で散歩と称して,そこに登るのでそれが楽しみでした。普段見ることのないアゲハ蝶やヤンマを見ては感激していました。
 そうした数日を過ごして夜に帰るのですが,帰りの電車の窓から満天の星空が見えました。今でも,さそり座がしっぽの先まで鮮やかに見えたときの感動を忘れません。
 私が今思い出す小学生のころの夏休みの記憶はこれだけなのですが,今も,たいして空が暗いわけでもないのに知多半島に星を見に出かけるのは,このときの思い出の影響なのでしょうか。

 結局,子供にとっては,豪華なリゾートや高原の別荘へ行かずとも,普通の田舎の自然の中で非日常の体験をするということが,最も思い出に残り,そしてまた,さまざまなことを学べるのです。
 小学生が夏休みまでも塾に通って勉強の真似事などしていても,何も得るものはありません。問題集をやったところで,なんの思い出も知識も残らないのです。夏休みは自然に帰って外で走り回るべきなのです。
 このような経験から,私の娘は幼稚園の年中さんのときから小学校を卒業するまで,夏休みはずっと山村留学をしました。彼女は山の中で満天の星空を見たり,ホタルを見たり,キャンプをしたり,犬の世話をしたりといった活動をして,毎年,8月の終わりには真っ黒になって家に帰ってきました。

◇◇◇
ライカの神様-江戸っ子・木村伊兵衛の眼
偉大な飛躍-アポロ11号が月に着陸した日

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●狙撃後に横たわった部屋●
 アメリカ合衆国憲法修正第13条(Thirteenth Amendment to the United States Constitution)は,公式に奴隷制を廃止し,奴隷制の禁止を継続すること,および制限のある例外(犯罪を犯した者)付きで,自発的ではない隷属を禁じたアメリカ合衆国憲法の修正条項のひとつである。
 この修正条項が批准される前にも,ほかのすべての州は「奴隷解放宣言」によって奴隷は解放されていたが,デラウェア州とケンタッキー州では奴隷制は合法のままであった。
 前回書いたように,「奴隷解放宣言」を発したエイブラハム・リンカーンは,この奴隷解放宣言が一時的な戦争の手段と見なされるかもしれないことを心配して,奴隷制がまだ合法であるこれら2州の奴隷を解放することに加えて,永久的な奴隷制度の廃止を保障するためにこの修正条項を指示したのだった。
 修正提案は,下院議員のジェイムズ・ミッチェル・アシュレー(James Mitchell Ashley)(共和党,オハイオ州選出)とジェイムズ・ファルコナー・ウィルソン(James Falconer Wilson)(共和党,アイオワ州選出),および上院議員のジョン・ブルックス・ヘンダーソン(John Brooks Henderson)(民主党,ミズーリ州選出)の3人によって起草され提出された。さらに,この修正に続いて,修正第14条(元奴隷の市民権の保護)と修正第15条(選挙権に関する人種による制限の禁止)が追加された。
 修正第13条から第15条の3つをあわせて「レコンストラクション修正」(Reconstruction Amendments)と呼ぶ。

 アメリカ合衆国憲法修正第13条が可決された3か月後に南軍が降伏し南北戦争は終わるを告げた。
 リンカーンが狙撃されたのは1865年4月14日。それは終戦の6日後のことであった。狙撃された時刻は午後10時13分または11時17分とされる。
 狙撃した俳優ジョン・ウィルクス・ブースはこのときラテン語で「Sic semper tyrannis!」(=Thus always to tyrants!)と叫んだという。リンカーン大統領に伴っていたラスボーン少佐が飛びかかるもナイフで腕を切られ振り払われ,ブースはバルコニーから階下にジャンプしたがそのときに脚を折った。
 ブースは,足を引きずり,どうにか用意した馬に乗って逃走した。一方,致命傷を負ったリンカーン大統領は通りの向かいのピーターセンハウスに運ばれたが,しばらくの昏睡の後,1865年4月15日午前7時22分に死亡が宣告された。享年56歳であった。

 私がフォード劇場を出ると,そのまま道路の向かい側のピーターセンハウスを見学するように促された。ここもまたどこかわからないほど地味な入口からなかに入ると,そこにはリンカーンが運び込まれ横たわったとされる場所が展示されていたが,現在ここに置いてあるベッドは当時のものではない。
 この建物はリンカーンに関するさまざまな展示もあって,立派な博物館となっていた。のちにケネディ大統領がテキサス州ダラスで暗殺されたときにその狙撃をしたといわれる建物が現在ケネディ大統領に関する立派な博物館となっているのと同様であった。この国はつねに歴史をリスペクトする。
 おそらく,多くの日本人観光客はツアー旅行でワシントンDCを訪れてもここに来ることはないと思うが,この場所こそアメリカを知るためにはきわめて貴重なところだと私には思われた。来ることができてほんとうによかった。

 旅慣れていなかったころは,旅行会社の窓口で言われるままに航空券を買ったので,さまざまな航空会社を利用しましたが,現在は,フライトの予約もネットで容易にできるようになったので,自分で航空会社を選んで直接購入するようになりました。
 世界の航空会社はスターアライアンス,スカイチーム,ワンワールドという3つのエアライン・アライアンス(airline alliance)に分かれています。これは航空会社間の連合組織のことで,同一の連合内においては,コードシェア便やマイレージサービスの相互乗り入れなどが行われています。
 成田空港はアライアンスごとにターミナルが分かれているので,同じアライアンスの乗り継ぎは便利ですが,私が利用するような第1ターミナルのANAから第2ターミナルのカンタス航空といった別のアライアンスの航空会社の乗り継ぎはかなり不便です。成田空港は,ターミナルの移動がなかなか来ないバス(無料)しかないという,世にもまれなバカげた空港だからです。
 
 スターアライアンス(StarAlliance)には,ANA,ユナイテッド,エアカナダなどが属しています。スカイチーム(SkyTeam)にはデルタ航空,大韓航空などが属しています。また,ワンワールド(OneWorld)にはJAL,アメリカン航空,カンタス航空などが属しています。
 ハワイアン航空は,なぜか無所属です。
 アメリカを旅するには機内の設備が豪華なことなども含めてスカイチームのデルタ航空が最も利用しやすいのですが,スカイチームには日本の航空会社が属していないので,日本国内の移動には不便です。
 日本の国内線と国際線の両方を頻繁に使う日本人には,ユナイテッド航空の機内設備の貧弱さに我慢できるのならスターアライアンスが最も便利な選択といえるでしょう。JALの属するワンワールドには加盟している航空会社やJALの運行路線をはじめ私はほどんどメリットを感じません。国内線を利用するにもJALよりもANAのほうがなにかと便利だからです。
 私はこれまでアメリカ国内を旅行することが多くいつもデルタ航空を利用しているので,デルタ航空のマイレッジがずいぶんとたまってゴールドステイタスになったので,アメリカ国内でも空港のラウンジが利用できたり,アメリカの国内線を利用するときにはいつもアップグレードされてファーストクラスが利用できたり,さらには,セキュリティの優先入場やゲートの優先搭乗ができるという大いなるメリットを享受してきました。

 しかし,こうしたアライアンスの縛りのおかげで,ほかの国に出かけるときに航空会社を選びにくくなっていることが多いのです。私は近頃,アメリカ本土やハワイに加えて,オーストラリアやニュージーランドといったオセアニアを旅することが増えましたが,スカイチームにはオセアニアの航空会社が属していないのです。私がこれまでオセアニアを旅することをためらっていた理由のひとつはそこにありました。
 カンタス航空がスターアライアンスに属しているのならANAとの乗り継ぎも便利なのでまだしも,スカイチームではままなりません。私はANAもJALも一応マイレッジカードを持っていて,ANAは国内線に乗るので少しは利用するのですが,JALに至ってはずっと0マイルのままです。おまけに,カンタス航空はJALと同じワンワールドに属しているのにもかかわらず,私の利用するカンタス航空のもっとも安価なエコノミーの最下位クラスはJALのマイレッジがたまらいないのです。つまり,カンタス航空がワンワールドに属している意味がないのです。実にせこい話です。

 では,マイレッジ会員になる利点というのは何でしょうか?
 私が頻繁に利用するデルタ航空のマイレッジははすでに30万マイルくらいあるのですが,それでもこれだけ利用しても還元されるのはお金に換算したらせいぜい30万円程度のことなので,これまでに支払ったお金の2~3%という感じでしょうか。それよりも,先に書いたように,アメリカ国内の空港のラウンジが利用できるとか混雑するゲートで優先搭乗ができるとか,快適なファーストクラスにグレードが変わるといった利点のほうが大きいのです。それは,アメリカ国内の空港は日本人には想像を絶するほど混雑しているしセキュリティを通るのにものすごい時間がかかるからなのです。
 しかし,オーストラリアやニュージーランドに行ってみてわかったのは,ハワイやオーストラリア,ニュージーランドの空港は日本と同じようにさほど混雑していないので,ラウンジが利用できたり優先入場とか優先搭乗ができることにはさほどのメリットを感じないということなのです。要するに,マイレッジを豊富に持っていてゴールドステイタスになる利便性というのはアメリカを旅するときだけのメリットのようです。アメリカは「すべてが金次第」の社会だからです。 

 私が利用するのは,デルタ航空のアメリカの国内線とハワイアン航空のハワイの各島間の便,そしてANAの名古屋-成田便のほかには,デルタ航空の名古屋-ホノルル便,名古屋-デトロイト便,成田-シアトルまたはポートランド便,それに,カンタス航空の成田-ブリスベン便くらいのものです。そこで,デルタ航空のマイレッジ会員に加えて,私は,ハワイアン航空とカンタス航空のマイレッジ会員になることにしました。たいしたマイルがたまるわけでなないのですが,会員になると,航空券の予約やチェックインのときに便利だからです。
 使い慣れたアライアンスの航空会社を利用するときは優先搭乗をしたりファーストクラスが利用できるのにもかかわらず,別のアライアンスに属した航空会社を利用するときは最後に搭乗して最後尾のエコノミークラスで小さくなっているというのも不思議な話です。ましてや同じセキュリティゲートを通るのに,優先入場ができたりできなかったりと,同一人物なのにおかしなことです。
 航空会社のマイレッジというのもまた,日本のコンビニのポイントカード同様,すべての客から集めた収益の一部を上客に限って還元するといった,金持ち優遇のお得意様囲い込み商法です。年に1度くらいツアーで海外旅行をするような庶民には,ゴールドステイタスの会員がラウンジを利用したり一般客がセキュリティや搭乗で長い列を並んでいる横を優先的にすり抜けていくのを眺めるという屈辱を味わうといった,旅行というささやかなぜいたくを疎外感と劣等感に代えるだけのものでしかないようです。

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●リンカー大統領の死●
☆13日目 8月8日(月)
 この日がワシントンDC滞在の最終日であった。おそらくもうこの都市に来ることもあるまい。そこで,私は絶対に行っておくべきところを探した結果,まずはリンカーン大統領が暗殺されたというフォード劇場に行くことにした。フォード劇場があるのはダウンタウンに北側,メトロセンター(Metro center)という地下鉄の乗換駅から北に1ブロック行ったところなので,私の泊まっているホテルの最寄駅からは乗り換えなしであった。

 リンカーン大統領が観劇中に狙撃されたのがこのフォード劇場(Ford's Theatre)で,狙撃後に運び込まれて翌日息を引き取ったのが劇場から道を隔てたところにあるピーターセンハウス(Petersen House)ある。
 フォード劇場とピーターセンハウスの入場は無料だが,朝8時30分から配布される整理券が必要である。手数料を払えばインターネットでも予約できるそうだ。しかし,予定は未定の私は当然予約などしていなかったから,整理券を手に入れるためにその1時間程度前に到着するようにホテルで朝食を済ませて向かった。
 なお,写真にあるように,私がワシントンDCの滞在中に宿泊したホテルの朝食はとても豪華であった。

 フォード劇場に到着すると,すでにひとりが待っていた。並んでいると次第に人が増えてきたが,思ったほどの混雑ではなかった。やがて8時30分になって無事9時からの整理券を手に入れることができた。
 開館時間になってフォード劇場に入ると,まず,地下の博物館に案内された。この博物館は,リンカーンの大統領就任から暗殺までがホワイトハウスでの生活や執務なども加え,時系列で紹介されていた。
 1865年4月14日,リンカーン大統領はこのフォード劇場で「Our American Cousin」という現代劇を妻メアリー・トッド(Mary Todd Lincoln),従者のチャールズ・フォーブス(Charles Forbes)とヘンリー・ラスボーン(Henry Rathbone)少佐,少佐のフィアンセのクララ(Clara Harris)を伴って観劇中に,北軍だったメリーランド州出身の俳優ジョン・ウィルクス・ブース(John Wilkes Booth)に1.2メートルの至近距離から拳銃で後頭部左耳後5センチを1発撃たれた。ブースは役者という立場を利用して出演している劇中の暗殺を企てたのだった。
 博物館には,ブースの日記や持っていた銃やナイフも陳列されていた。

 しばらくの時間自由にこの博物館を見学していると,やがて声がかかって階上の劇場への階段が開かれたので,見学者は階段を上っていった。
 19世紀を代表するこの劇場は100年余りにわたって閉鎖されていた。博物館の大改装に合わせて劇場も改修され,現在はミュージカルや芝居を上演する場となっているが,リンカーンが狙撃されたときに座っていたバルコニーは当時のままに残されている。

 この劇場でリンカーン大統領が狙撃されたときの様子は,映画「リンカーン」でもみることができる。
 映画「リンカーン」(Lincoln)は,ドリス・カーンズ・グッドウィン(Doris Kearns Goodwin)による伝記本「リンカーン」(Team of Rivals: The Political Genius of Abraham Lincoln)を原作とし,リンカーン大統領の最後の4か月が描かれたもので,2012年に公開された。
 アメリカ合衆国第16代大統領エイブラハム・リンカーン(Abraham Lincoln)は,史上最も愛された大統領といわれ,常にユーモアを絶やさず,黒人を含めたすべてに人々にオープンに接する人物だった。
 リンカーン大統領は1809年にケンタッキーの貧しい開拓農民の丸太小屋で生まれた。9歳で母を亡くし,青年時代には事業に失敗して多額の負債を抱え込み,20代半ばで州議会議員に立候補して落選した。
 やがて,2度目の挑戦で当選した後,弁護士の資格を独学で取得し,37歳で連邦議会の下院議員に出世した。49歳で上院議員に挑戦するも敗れるが,優れた人柄で人望を集め1860年に51歳で大統領となった。

 奴隷制に否定的なリンカーンが大統領に就任したことで,奴隷制廃止を警戒した南部7州は連邦を脱退して南部同盟政府を樹立し,さらに4州が加わった11州が北部と対立,就任演説の翌月1861年4月に南部軍の発砲で南北戦争が勃発した。
 当初は南軍優勢だったが,1862年,リンカーン大統領は「奴隷解放宣言」(Emancipation Proclamation)を発布し北軍の士気を高めて巻き返した。
 開戦2年目の1963年に激戦地ゲティスバーグの戦死者慰霊式典でリンカーン大統領は南北戦争を民主主義の存亡を懸けたものとし,有名な「人民の人民による人民のための政治を消滅させてはならない」という演説をした。
 1865年1月。リンカーンは大統領に再選され2か月が経ったが,4年以上に及ぶ南北戦争が未だに続いている。リンカーンは毎晩ひとりで船に乗りどこかへ向かっているという不思議な夢を見るようになる。・・・これが映画の冒頭である。
 「奴隷解放宣言」で奴隷は解放されたかに思えたが,実際はこの宣言によって解放された奴隷はわずかであった。奴隷解放宣言は戦時中の立法措置であって戦争が終われば効力は失われることになるからである。しかし戦争は終わる方向に進んでおり,リンカーンの共和党でも「これ以上の犠牲者を出さないために1日でも早く戦争を終わらせるべき」という意見が強くなっていた。
 戦争の犠牲と人間としての尊厳のジレンマ,さらに,反対を押し切って戦場に向かう長男ロバート,三男ウィリーを失ったことで疎遠になっていった妻メアリー・トッドに苦悩しながら,リンカーン大統領は奴隷を永久に開放するために,アメリカ合衆国憲法修正第13条を議会で可決させることを決意するのだった。彼は,終戦直前の1865年1月,「全米で奴隷制を禁止する」と定めたアメリカ合衆国憲法修正第13条を打ち出し,可決に持ち込んだ。

  ・・・・・・
Amendment XIII
Section 1. Neither slavery nor involuntary servitude, except as a punishment for crime whereof the party shall have been duly convicted, shall exist within the United States, or any place subject to their jurisdiction.
Section 2. Congress shall have power to enforce this article by appropriate legislation.
修正第13条
第1節 奴隷制もしくは自発的でない隷属は、アメリカ合衆国内およびその法が及ぶ如何なる場所でも、存在してはならない。ただし犯罪者であって関連する者が正当と認めた場合の罰とするときを除く。
第2節 議会はこの修正条項を適切な法律によって実行させる権限を有する。
  ・・・・・・ 

 BSプレミアムのプレミアムドラマ「定年女子」
 主人公の深山麻子は53歳で,大手商社の部長を務め仕事も順調。さらなるキャリアアップもと思っていたところ,急に配置転換の辞令がでて,降格の憂き目にあうのです。食品事業部アドバイザーとなった麻子は何とか自分の存在意義を確認しようと新たな仕事に前のめりに挑戦するのですが失敗ばかり。
 「今までの私のキャリアってなんだったの!」というわけで,意を決して会社を辞めるのですが,結婚したばかりの娘は出産で出戻りし,元夫の母がいまだに何かと懐いてくし,果ては彼女の介護まで降りかかり…。
  ・・・・・・

というあらすじだそうですが,「人生いばらの50代」であって,私の周囲もみんなこの年代では苦労しました。
 そんな50代に組織の管理職をやっているというのは,よほど奥さんに苦労をかけている男性か,あるいは,訳ありの女性か,というのが,まわりから見るとお偉く見えるひとたちの真実なのです。賢明ならばそんな選択はしないものです。しかし,このような真実をみんなが知ってしまうと社会が成り立たないから,管理職になることを「出世」と名づけて上昇志向の強い人は騙されるけど,本当は50代で管理職になるのははずれの人生です。体力もまだあるし,最も人生が楽しめる50代を組織のために犠牲にしてしまうなんて馬鹿げていて,やがて来る輝ける60代を充実して過ごすためには,1年でも早く仕事なんて辞めるべきでしょう。

 これまで何度も書いていますが,人生,健康が第一ですが,健康ならば,40年の人生が2度あるのです。1度目が40歳までの「練習の人生」で,2度目が40歳からの「本物の人生」。1度目の人生は学歴や肩書にこだわってもいいのですが,この時期に最も大切なのは2度目の人生を自分らしくおくるための人生設計とキャリアアップと貯蓄です。それなのに生れ持った才能を磨かず,しかもお金を浪費して貯蓄どころか借金を抱えてしまうので,2度目の人生がはじまっても,50代ならまだしも60代になってもいつまでも仕事を辞められず,しかも,学歴やら肩書などのメッキにいつまでもしがみついて,2度目の本物の人生を「練習の人生」の下り坂にしてしまっている人が多いものです。
 …なんていうことは,だれも教えてくれませんから,こういうドラマを見て学ぶのがよいでしょう。

 ドラマですから,物語を展開するために,主人公は夫と離婚していることや一人娘を無理して海外留学させていることなどなど,1度目の人生で様々な重荷を与えておく必要があるわけですが,そうした重荷は,考えてみれば,みな,自分が蒔いた種です。しかし,そのときはそれがわからないのが若気の至りというか,それが未熟ということでしょう。
 だから,多くの人は,結局,将来負債にしかならないのに無理して家を買って一生ローンに追いまくられたり,何も身につかないのに子供を塾に入れたり,あげくの果ては,単に英語をマスターするためだけなのに海外留学をさせたりというように子供にお金を散財することで2度目の人生を棒に振り,いばらの50代を迎えることになるのです。本当に子供のことを思って育てるのなら子供にお金をつかうのではなく,子供を自立させることだし,子供の将来は生まれついた能力がすべてです。能力のある子供なら親が援助せずとも留学は子供が自分の稼ぎでします。このドラマでは娘は留学費用を母親に返すといっているから偉いのですが,それをまた断る母親は天然の馬鹿です。このことからも,このドラマの主人公はプライドが高い女性だと理解できるわけです。

 「仕事は人生の一部だけど人生は仕事ではない」わけです。所詮組織で偉くなったところで何かがあるわけではなく,そのうち組織からは簡単に捨てられ,何かいいことがあるのだろうと思って出世という名の山に登っても実際は頂上には何もなく,単に自分の人生の貴重な持ち時間を浪費するだけということをできるだけ早く悟ることが2度目の人生を自分らしくおくるために最も大切なことでしょう。山に登ったその先に待っているのは寿命だけなのです。
 このドラマが何を教えてくれるか,脚本家さんはそういった人生の真実をどれだけ悟っている人物なのかを私は楽しみに値踏みをしながらこのドラマを見るとしましょうか。

◇◇◇
ドラマ「ひこうき雲」-「アラ50」,人生を振り返る。
2016年がやってきた-精神年齢は(実年齢-40)歳で。

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 ぐっさんが大型トラックのぐっさん号に乗って日本中を走る「トラック旅」はこれまで4回放送されました。
 第1弾が2015年10月末に放送された「列島横断2,800キロ!ニッポン高速道路トラック旅」で,日本の高速道を鹿児島から北海道まで縦断しました。このときの旅は,鹿児島ICから九州自動車道に入って九州を北上するところから始まって8日間,北海道の士別剣淵ICで終わりました。
 第2弾は2016年5月7日に放送された「ぐっさんのニッポン国道トラック旅!″1号線” 東京~大阪の巻」でした。
 そして第3弾は,2016年11月5日に放送された「ぐっさんのニッポン国道トラック旅!“2号線”大阪~北九州の巻」。大阪から北九州の門司まで走り抜ける,という番組でした。
 第4弾は再び高速道路で,2017年4月8日に放送された「ぐっさんのニッポン高速道路トラック旅!」でした。このときは九州の佐世保から北海道の釧路まで列島横断2,300キロでした。日本横断だったので第1弾と似ていましたが,このときは九州道,中国道と通って,その先は日本海側に沿って走るというのが趣向でした。
 実は,2017年7月15日に「ぐっさんのニッポン国道トラック旅!”3号線”北九州~鹿児島」を放送するはずだったのですが,どうやら,九州地方を襲った大雨のために,放送が見送られたようです。

 そういえば,2016年6月25日に放送された「ローカル路線バス乗り継ぎの旅」でも,九州の宮崎から長崎までのコースだったので九州地方を襲った地震のために放送がしばらく見送られていました。
 このところ,九州地方には地震や水害といった自然災害が立て続けに襲い,とても悲しく思います。
 日本という国は,山ばかりです。普段見慣れたところも,改めて眺めてみると,谷あいを切り開いた道路にそって山の斜面に住居がはいつくばって建っているところばかりです。だから,そんなところに大雨が降れば,同じような災害がどこにでも起きる可能性があるように思えます。

 私は大学のときに,自然を切り開いてそこに道路を1本作ると,切り開いたところだけでなく,その周り一体に影響を与えて生態系を破壊し,自然の成り立ちがめちゃめちゃになると習い,驚いたことがあります。このように,自然というのは,すべてが無駄なくその役割を果たすことによって,バランスが保たれているのです。だから,水害を避けるためといって無理やりダムや堰を建設すると,その結果は思いがけないところに影響するのです。
 つねに自然災害に悩まさせているこの国はそれをなんとか回避しようとさまざまな工夫がされているのですが,無理やり山をコンクリートで固めようと,護岸工事をしようと,結局は風船の片側を抑えればもう一方が膨らむようなものにすぎないのかもしれません。それにもまして,せこいこの国の行政は,新しく道路やトンネルを作ったときにそれまで使われていた道路はそのまま荒れるに任され,その結果景観は台なしとなり,生態系はさらに破壊されていくので,災害のリスクが増大していくのです。
 私は,新たに道路などを建設したら,それまで使っていた廃道はきちんともとの自然の姿に戻すべきだと思います。しかし,この国ではそういうことにお金をつかうことは「無駄遣い」とされるのです。
 山には土と森林とその根っこが地盤を守っているからこそ地面に水が滲み込み水害が起きないのです。夜は暗いからこそ植物が育つのです。それなのに,コンクリートだらけで覆い隠し空からは美しい星空をなくしてしまうから,自然が怒らないわけがありません。

◇◇◇
「高速道路トラック旅」①-日本が狭いことを実感した
「ニッポン国道トラック旅」①-画像処理の様な旅
「ニッポン国道トラック旅」②-グルメこそ楽しみ
「高速道路トラック旅」②-日本にあるのは廃墟だけ?

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☆☆☆☆☆☆
 今や日本で満天の星空が見られる場所などどこにもなく,旅行社が企画する星見ツアーなども近年は盛んですが,都会の空よりはマシなだけなのです。それでも,日本では,人は生まれてからその程度の夜空すら見たことがないから,たくさんの星が見られると思っているにすぎません。湿度が高くそれほど天候のよい日のない日本では,それに加えて,春は黄砂にPM2.5,夏はほとんど晴れず,秋は熊が出るし,冬は空はきれいでも寒くて雪が多いというありさまです。
 私は,これまで日本中の星の美しい場所を探しましたが,どこへ行ってもがっかりするだけでした。結局,どこへ行っても同じようなものならば,空は汚くても家から近いほうが便利なので,そこで妥協して,なんとか写真を撮ってきてはコンピュータで画像処理をしてその気になっているだけなのです。
 満足な星空を見るためには海外へ行くしかないのです。 

 それでも,私は子どものころからの星マニア。今とは違って,昔は,コンピュータを使って星を導入したりオートガイダーで星を追尾したりなどということはできなかったから,ファインダーだけで自力で目的の星を視野に入れることも簡単にできるし,星の名前もわかります。暗い彗星も視野の中で見分けられます。しかしどうやら,近年になって星見を趣味にした人は,そういうことすらできないようなのです。
 11月,私がオーストラリアへ行った日,私の宿泊したゲストハウスにはもうひとり日本人が泊まっていました。彼は,自分の大きな望遠鏡を日本から送ったのに,税関で引っかかって未だ届いていないということで,ゲストハウスにあった望遠鏡を特別に貸りていました。よくよく彼の行動を見ていると,ずっとコンピュータの画面をにらみながら単にオートガイダーとCCDカメラを使って写真を写しているだけでした。彼は極軸も自分で合せられないし,コンピュータがなければ星を視野に入れることすらできない。話をしても,星に詳しいわけでもないし,せっかく満天の星空が輝いているのに肉眼で美しい星空を見る喜びすらないようでした。彼は望遠レンズを使っているから天の川の全景も写せず,わざわざ南半球まで来て何を写そうとしているのかなあ,と私は思いました。
 結局のところ,彼は星好きでもなんでもなく,定年後の道楽として,金にものをいわせて教科書どおりの手法で星雲星団を写しているだけなのでした。「ドリラー」の末期ここにありです。それでも星は減らないからいいようなものの,同じように,知識も興味もないのに,珍しいからと金にものを言わせてパワーシャベルで昆虫採集でもされたらいい迷惑です。

 実は,海外で星がきれいな場所として知られている多くは,そうした人たちやそれと反対に生まれてこの方満天の星空を見たこともないといった人たちでごった返しているのです。
 私が昨年の春に行ったハワイ島マウナケアのオニヅカビジターセンターや,昨年の秋に行ったニュージーランド・テカポ湖畔などでは,懐中電灯を照らして空を明るくしたり,あるいは,ほとんど星の知識もない人がモラルもなく振舞っています。
 おそらく,世界中の星空の美しい場所は,どこもそんな有様でしょう。
 今,星空の美しい場所としてウユニ塩湖が脚光を浴びていますが,ウユニ塩湖に水があるのは雨季だけだから,雨季に星を見に行くということ自体が矛盾しているのに,たまたま天気のよい日に写した映像を旅行社はウリにして,世界中から観光客を集めているのだから,そこにどういう状況が発生するかは容易に想像できます。
 海外,特に南半球の星空が魅力的なのは,これまで何度も書いてきたように,今日の写真の,南十字星あたりの星空が絶品だからなのです。そして,そうした星空は,人工の光のない場所で,肉眼で見るからこそ,その魅力がわかるのです。しかし,そうした場所までも多くの観光客が押し寄せるので,美しい星空を心置きなく味わえる場所もまたどんどんと少なくなっているのが残念なことです。

◇◇◇
「銀河鉄道の夜」-宮澤賢治の語る美しき南天の星空とは?
「星好きの三大願望」-宝石をちりばめたような南天の星空

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●イチロー選手が3,000本安打を達成した日●
 観光地としてのワシントンDCは決して危険な都市ではないが,この町は1990年代初頭「殺人の都」(Murder Capital)として知られていた。その後,犯罪発生率は2000年までに半分に減少したとはいえ,現在でも全国平均の2~3倍,殺人に関しては8倍という犯罪件数の多さが憂慮されている。
 観光客の多いナショナル・モールや繁華街であるデュポン・サークルなどは人通りも多く警官の姿もよく見かけるので安全であろうと思われるが,夜中のひとり歩きや薄暗い路地の通行は危険である。

 
 ワシントンDCは国会議事堂を中心として,北西(North West),北東(North East),南西(South West),南東(South East)の4地区にわかれているが,このうちNWが最も人が多く比較的安全な地域である。反対に治安が悪いのがユニオン駅の北東方面や中華街(China Town),そしてUストリートといわれている。
 一般的にアメリカでは「チャイナタウンは危険」というのが常識だが,ワシントンDCの場合は中華街は再開発が進んだ結果「門だけが立派」というもっぱらの評判で,中華街というほどのものはほとんど残っていない。
 とはいっても,Hストリート以北及び7番ストリート以東のMetro Centerとチャイナタウンの間は夜間は危険であるとガイドブックには書かれてあった。そのHストリートと7番ストリートのあたりが今日の写真である。
 
 ベースボールが終了して,今日も私はホテルに帰るまえにダウンタウンで夕食を済ませることにしたが,はやり口になじむのは日本料理か中華料理である。そこで,昨日,チャイナタウンのあたりに日本料理店があったのを思い出して,地下鉄のグリーンラインにのってチャイナウン駅までやってきたというわけだ。
 先に書いたように,ワシントンDCのチャイナタウンは門だけは立派であったがその周辺を歩いてみても,特に何もなく,中華料理店が数店あるだけだった。日本料理店もあるにはあったが,特に入りたいという気持ちになることもなかったので,私は,しけた1軒の中華料理店に入って,写真のようなワンタン麺を注文した。

 旅行をしているこの時期は夏なので昼が長く,私がこうした場所を歩いても特に何の危険もないのだが,いくら規模が小さいとはいえ中華街独特の雰囲気は多くのアメリカの都会と同様で,こうした東洋だか西洋だかよくわからない感じは決して不快なものではない。
 私は15年前,ロスアンゼルスで置き引きにあって,お金もパスポートも何もかもがなくなり,領事館の紹介で日本人街のミヤコインというホテルに数泊したことがあった。そのとき,日本人街をみて,日本という国もアメリカではわずか数ブロックの塊でしか過ぎないということにかなり愕然としたことがあったが,このときもそのことを思い出していた。
 7番ストリート沿いはこうした雑居ビルも多く,まだ陽が暮れていないこの時間は人通りも多く,どことなく渋谷やら新宿やらと同じような感じであった。

 私はこうして,この日,念願の30球団目のボールパークを制覇した満足感で一杯で,ホテルに戻った。これをもって,この旅の目的であった50州制覇と30球団のボールパーク制覇をともに成し遂げたのであった。
 ところで,私がこの旅のはじめ,フロリダでイチロー選手の3,000本安打を見損ねてからずいぶんと日にちが経っていたが,ついにこの日にイチロー選手は3,000本安打を達成した,というニュースが流れてきた。
 マイアミ・マーリンズは私の見た7月31日のセントルイス・カージナルス戦以降はロードに出て,8月1日から3日はシカゴ・カブス,そして,5日からはコロラド・ロッキーズと,シカゴからデンバーへと転戦をしていた。3,000本安打を見ようと追っかけをしていた人たちもまた,マイアミからシカゴ,そして,デンバーまで移動をしていたわけであったが,それに加えて,デンバーには多くの日本人が住んでいるから,たまたまこの日のゲームを観戦して幸運に出会ったラッキーな人も少なくなかったことであろう。
 思えば,野茂英雄投手がはじめてのノーヒットノーランを達成したのもデンバーだったし,デンバーにあるクワーズフィールドは日本人に縁のあるところなのかもしれない。クワーズフィールドもまた,ナショナルズパーク同様,とても気持ちのよいボールパークである。

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●ワシントン・ナショナルズ,三度目。●
 ゲームの開始が近づいたので,私は席に着いた。以前にも書いたが,特に思い入れのあるプレイヤーがいないときは,スタンドの1番上段のきわめて安価な席で観戦するに限るのである。
 今日の1番目の写真に写っている係員,けっこういかつそうだが,この人めちゃくちゃいい人で仕事熱心だった。彼の仕事ぶりは,チケットに書かれた席でないところに座ろうとする輩を排除しようとか,そういう態度ではなく -なにせ,この席は最も安価な席だからわざわざ自分の座席を偽ってまで座る価値などない- しかし,通路からこのセクションに入ると,他の係員はまったくいい加減なのに,キチンとチケットを拝見して,席まで案内してくれようと,そうした善意に満ち満ちているのだった。

 私はどうもこの国の,それぞれのやり方でいかようにでもなるという仕事ぶりが今だに全く理解ができないのだが,要するに,日本のように,徹底的に打ち合わせをして,だれもが同じサービスをする代わりに全く個人の裁量がなく融通が利かない,というのとは真逆な,人によってまったくサービスが異なる,ということなのである。
 これに慣れてくると,それがまあ,実に味わい深いわけである。アメリカというのはそういう国なのである。

 3番目の写真は1910年代に活躍したウォルター・ペリー・ジョンソン(Walter Perry Johnson)選手の銅像である。ジョンソン選手はニックネームを「人間機関車」(The Big Train)という通算417勝をあげたワシントン・セネタースの剛速球投手であるが,きわめて紳士的な性格で臆病な面があったといわれ,それに気づいたタイ・カッブ(Tyrus Raymond "Ty" Cobb)選手は,ジョンソン選手との対戦のときにはあえてホームプレートぎりぎりまで身体を寄せて内角球を投げにくいように対策を施したというエピソードがある。
 悲願だったリーグ優勝が1924年に成し遂げられ,36歳になっていたジョンソン選手も23勝7敗と大活躍し投手三冠を獲得しリーグ最優秀選手に選ばれた。翌1925年には37歳で20勝を達成しセネタースのリーグ2連覇に貢献した。そして,1936年に設立された野球殿堂の最初に殿堂入りした5人のひとりとなった。

 ワシントン・セネターズは1901年のアメリカンリーグ創設と同時に発足したチームであるが,1904年には球団史上ワーストの38勝113敗を記録するなど長く低迷していた。1912年にクラーク・グリフィス(Clark Calvin Griffith)が監督に就任するとチームは躍進し91勝61敗でリーグ2位となり,設立以来初めて勝ち越した。その後は再び中下位で低迷することとなったが,1924年に初のリーグ優勝を果たし,ニューヨーク・ジャイアンツを破りワールドチャンピオンに輝いた。1925年にもリーグ連覇を果たした。
 セネターズとは上院議員(セネター)からとった名前であるが,ナショナルズという呼び方も創設以来あったとされ,1905年から2年間は使われていたという説もある。ファンの間ではセネンターズよりもナショナルズの方が親しみがありこれを略称したNatsといういい方も存在していたらしい。
 しかし,長年にわたる観客減に悩んでいた球団は本拠地の移転を画策し,ついに1961年にミネソタ州ミネアポリスに移転し,ミネソタ・ツインズに改称した。
 移転後もワシントンDCでは野球チーム存続の声が大きく,1961年のエクスパンションで新たにワシントン・セネタースが創設されたが,このチームも10年後の1972年にテキサス州アーリントンに本拠地を移し,テキサス・レンジャーズとなった。
 そして三度目がやってきた。2005年にモントリオール・エクスポズがワシントンDC.に移転し,新生ワシントン・ナショナルズが誕生したのである。

 名古屋の夏は大相撲からはじまりますが,今年の名古屋は大相撲に加えて,郷土の英雄となった藤井聡太四段効果で将棋もまた,盛り上がっています。
 私は子供の頃から天文と将棋に興味がありました。それはほそぼそと続き,今では生きる喜びの源となっています。
 そうした趣味ばかりに打ち込んでいたので,学校の勉強などしないから,生まれつき数学(算数)はできたのですが,語学はさっぱりでした。しかし,数学ができたおかげでこれまで不自由なく生きられました。語学(英語)は旅をしたり情報を入手するのに必要なので,不自由しない程度にはできるようになりましたが,今でも語学には才能がないなあとしみじみ感します。
 興味があった天文といっても,都会育ちでは,所詮,雑誌を読むか望遠鏡を買うだけで,満足に星を見たこともあるわけでなく,買い求めた望遠鏡やカメラを眺めて満足していただけでした。しかし,けっこうよいものを買っておいたおかげで,それらが今になって陽の目を見て,未だに現役として役立っているのがまた不思議なことです。
 将棋は大好きでしたが,指導者に習ったわけでもないので本質的にはなにもわかりません。それに強くなろうと思わなかったから,そのうちに観戦するだけになってしまいました。しかし,今になると,プロの将棋を観戦するときにその魅力がわかるというのは強みです。

 プロの将棋界は,つい先日まで三浦九段の出来事でイメージがかなり低下していたのに,これもまた,八百長問題でイメージが低下していた大相撲と並んで,このごろは人気がV字回復です。そこで,子供の将棋を習わせたいという人が多いのだそうですが,私の経験からいって,子どもに将棋を教えるのはかなりの「毒」なのです。私がそうだったからわかります。将棋は麻薬のようなもので,将棋の魔力の虜になってしまうと,勉強どころでなくなるのです。私のまわりにも,将棋に熱中したあまりに,受験に失敗したという人がたくさんいます。
 おそらく,そうした魔力を知らない親たちが,子供を塾に入れたりコンピュータゲームに熱中するよりはマシだと思ってそうしているのでしょうが,どっちみち,子供に何を期待しようと,もともと才能がない99%の人はただの大人になるだけだから,多大な期待はしないほうがいいのです。しかし,フィギアスケートやらピアノやらに比べれば,将棋に打ち込んでもさほどお金がかからないから,むしろ将棋にでも凝ってもらうほうがよいのかもしれません。受験に成功して希望した学校に入ろうと失敗しようと,ドリルをやって答えを埋める訓練をしているだけで何も身につかない日本の学校教育ならさほどの違いはありませんし。

 それはそれとして,藤井聡太四段の将棋というのは本当に魅力があります。
 私は,昔から,升田幸三という棋士の大ファンでした。
 その当時は,将棋というのは新聞で読むか雑誌で見るくらいしかできなかったのですが,朝日新聞で連載されていた名人戦の予選である順位戦の升田将棋は,その観戦記を書いていた東公平という記者の文章が魅力を増幅させて,その素晴らしさを味わうことができました。
 そのころに比べると,今は,インターネットの中継で,生の対局風景が味わえるようになりました。そしてまた,解説もライブで聞くことができるので,その素晴らしさも,当時とは比較にならないほど深く味わえるようになりました。しかし,これまでは本当に感動する将棋というのはなかなか出会えませんでした。
 プロの将棋はそれを観戦するアマチュアがあってこそ価値があるのですが,このごろは同じような難解な局面ばかりで,しかも,学問を追及しているような感じの,素人にまったくそのおもしろさがさっぱりわからないような対局が多く,私にはよさが皆目わかりませんでした。

 そうした将棋に比べると,藤井聡太四段の将棋というのは,生き物で躍動があり,感動とときめきが満ち溢れています。
 序盤から,定跡手順のスキに独特の手が繰り出され,いつの間にか盤面のいたるところに宝石をちりばめたかのような駒の配置になって,終盤になるにつれて,それらが光り出すのです。けっこう序盤から少し苦しくなる将棋が多いのですが,終盤戦がめっぽう強く,独特の感覚があるので,逆転する期待がたえずあるから,最後までわくわくします。
 ブームになると,それまでは興味がないのに突然群れて出てくる人たちがいるのですが,ここにもまたそういう人たちが存在し,彼らはやれ何を食べただとかどういうカバンを持っているだとか,わけのわからぬことを好んで話題とし,また,彼ら御用達の民放番組が視聴率だけのためにそれを取り上げて素人キャスターが騒いでいるのですが,いずれそのうち,彼らは飽きて消えていきます。藤井聡太四段の真価が問われるのはそのあとのことでしょうが,おそらく,本人も家族の人たちもしっかりしているから,そうした雑音に振り回されることもなく,藤井将棋は進化を遂げるものと期待します。
 私は,今になって再び藤井将棋の魅力を理解し味わうことができるだけでも,若いころに将棋の魔力の虜になりかかったことが無意味ではなかったと実感するのです。

◇◇◇
53歳の名人誕生か?-升田幸三・生涯最後の大勝負
AbemaTVの新しい将棋番組-「人間ドラマ」を観戦した!

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●名物プレジデントレース●
 この日の対戦相手はサンフランシスコ・ジャイアンツであった…らしい。というのは,ここもまた,ゲームの内容にはまったく興味がなかったのである。そんなことよりも,このボールパークの素晴らしさのほうが私には強く印象に残っているのである。

 地下鉄の駅からボールパークまでの1ブロックはちょうどシアトルのオールドタウンからセイフコフィールドまでの感じに似ていたが,非常に華やいだ雰囲気であった。
 ゲートに着いたとき,私はこれで30球団制覇だとひとりで盛り上がっていた。チケットを見せたときに,係員の女性にそのことを話したら,30球団制覇ということではなかったが,このボールパークにはじめてきた証明書をくれるという話になって,その証明書を書いてくれる場所を教えてくれた。しかし,聞いた場所がよくわからず困っていたら,なんと,そのときの係員の女性が仕事を中断してわざわざやってきて,親切にその場所まで案内してくれた。これだけでも,アメリカにはありえない話である。
 私は,こうして自分の名前の入った証明書を手に入れ,記念写真も撮影した。

 なかに入ると,食事のできる広いコーナーがあったし,外にはポトマック川にそった美しい首都ワシントンの景色も眺められた。ここは春になると桜が咲き乱れてさらに美しいのだそうだ。
 首都にこれほどの集約施設があるのはテロの標的になるのではないか,という懸念もあったようだが,そんなことに恐れおののいているようなアメリカではない。
 私の懸念は,このボールパークに屋根がないということであった。アメリカの東海岸の天候は日本とよく似ていて,夏は蒸し暑く,しかも,雨が少なくない。私のような旅行者にとれば,雨で中止というのがもっとも心配なことなのである。
 しかし,幸運なことに,この旅では天気に恵まれて,屋根のあるフロリダはともかく,ボルチモアもフィラデルフィアも,そして,ここワシントンも,素晴らしい天気になった。
 試合開始までの時間はいつものように,ボールパーク内を散策した。
 ライト後方にはハイビジョンの特大スコアボードが設置されていた。また,センター後方にはボストン・レッドソックスのホームグランドであるフェンウェイパークさながらのワシントン版グリーンモンスターであるバッターズアイボックスが3列作られていた。

 このボールパーク最大の名物が4回終了時に行われるプレジデントレース(Presidents Race)である。これは歴代大統領6人の着ぐるみが競争するアトラクションである。この着ぐるみが試合開始まえのコンコースを闊歩していた。
 6人の大統領とは,マウント・ラシュモア(Mount Rushmore National Memorial Park)に彫ってある4人の初代大統領のジョージ・ワシントン=ジョージ(George Washington),第3代大統領のトーマス・ジェファーソン=トム(Thomas Jefferson),第16代大統領のエイブラハム・リンカーン=エイブ(Abraham Lincoln),第26代大統領のセオドア・ルーズベルト=テディ(Theodore "Teddy" Roosevelt)に,2013年より第27代大統領のウィリアム・ハワード・タフト=ビル(William Howard Taft),そして,2016年は第31代大統領のハーバード・フーパ―(Herbert Hoover)が加わった。着ぐるみの背番号もまた,この代に倣っている。
 大統領でありながら,いや,大統領だからこそレースは飛び蹴りや妨害など何でもありの展開をみせるという。テディは2012年のレギュラーシーズン最終戦に初めて1着となるまで525連敗を記録して話題を呼んだのだが,その間にはナショナルズのプレイヤーであるジェイソン・ワースがテディを勝たせようとしてエイブをブロックしたのにもかかわらず,ブルペンのメンバーが他の大統領を押しとどめている最中にテディも転んでしまいワースがやむなく先頭を切ってゴールインするというハプニングも起きた。
 テディがついに初勝利を果たした際には,乱入した偽のフィラデルフィア・フィリーズのマスコットであるフィリー・ファナティック(Phillie Phanatic)からアシストを受けたりもした。
 プレジデントレースはエイブが圧倒的な強さを誇っていて,それに次いで,ジョージ,トム,テディと続くが,テディはポストシーズンでは2012,2014年の6ゲームすべてに勝利を収めている。

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●モントリオール・エクスポスの悲劇●
 国立航空宇宙博物館を出て南に少し歩いたところに地下鉄グリーンラインのレエンファントプラザ(L'Enfant Plaza)駅があってそこからわずか2駅でボールパーク(Navy Yard/Ballpark)駅に着いた。地上に出るとナショナルズパークが目の前に見えた。
 このボールパークをホームとするワシントン・ナショナルズが,ついに私のMLB30球団目の観戦になった。
 ワシントン・ナショナルズは新しいチームで,もとはモントリオール・エクスポスであった。このモントリオール・エクスポスという超不人気球団が首都ワシントンに移転して新たにワシントン・ナショナルズになったのは2005年のことで,当初は国会議事堂からはるか東に行ったアナコスティア川沿いにあるロバート・F・ケネディ記念スタジアム(Robert F. Kennedy Memorial Stadium)を間借りしていたが,2008年に総工費6億ドル以上をかけてナショナルズパークが作られた。
 おかげで私はモントリオールに行くことなく30球団制覇が成ったわけだ。

 1976年,カナダのモントリオールでオリンピックが行われ,メインスタジアムが建設された。当初は屋根が蓋のようにかぶさるドーム方式になる予定であったが,オイルショックによる予算不足と工期の遅れから屋根をかけることができず,結局,屋根がくり抜かれた形でオリンピックが行われた。
 私はそれをテレビで見ていて,当時は日本はすばらしい国だと誤解していたから,子供心に日本と違ってカナダはなんと情けない国なのかと思った。その翌年,MLBのモントリオール・エクスポスをフランチャイズとして使用するための改修が施され,ちゃんと開閉式の屋根も作られた。
 モントリオール・エクスポスは1969年に設立されたチームで,当初は3,000人程度しか収容することが出来なかったので急遽外野席を取り付けるなどしたジェリー・パークをホームグランドとした。しかし,チームの予算が厳しいことから自前のボールパークを新設する予算もなく,しかもカナダは寒いからドーム球場が必要だったので,オリンピックスタジアムを野球場に改良して使用を開始した。
 かつてのトラック跡の一部に外野スタンドを,またフィールドにも野球用の人工芝を取り付けたが,はじめのころは陸上トラックがむき出しになっていたこともあった。また,カナダということもあって,場内の放送が英語とフランス語で行われているということだった。私は興味本位で,このバカげたボールパークでベースボールが見たいものだと思っていた。

 設立時は地区優勝を果たしたりしていたのだが,当初から人気低迷に悩まされた。1990年代前半になって人気を回復し,1994年にはナショナルリーグ東地区の首位を快走していたのにストライキのためシーズン自体が中断してしまい,これを機に再び観客が激減し,二度と戻ることがなかった。
 1995年以後はチームの主力選手や有望な若手選手を次々と放出し,また,施設の老朽化が著しく,支柱の落下事故や屋根の雨漏りなどの事故も多発したのに改装することも新しいボールパークを作ることもできず,ファンは失望した。そして,ついに2000年には地元のTV放送とラジオ放送も打ち切られてしまった。
 そんな次第で,2002年にはオーナーがチームの経営を丸ごと放棄しフロリダ・マーリンズへスタッフともども脱走するという事件が起き,球団の経営は破綻状態になった。
 こうした理由から,モントリオール・エクスポスはワシントンに移転してきたのである。
 ワシントンに移転後は,ボールパークの新設や強豪プレイヤーの獲得などにより,かつてのナショナルリーグのお荷物チームがうそのように強豪チームに変身し,毎年首位を争うようになった。今年度も現在のところ,ナショナルリーグ東地区で首位を独走している。

 私は,ここもまた,MLB30球団のボールパークを制覇するという目的だけで訪れたので,まったく何も期待していなかったし,チームにも何の思い入れもなかったのだが,ボールパークをひとめ見てびっくりした。
 その豪華さ,アクセスのよさ,そしてなによりも,このチームは,ファンサービスにかけてはMLBのすべてのチームのなかでずば抜けていたのであった。これなら強くなり人気も出るはずである。

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 北極星ような明るい星のない南天では極軸合わせが大変だというのはよく聞く話ですが,実際にやってみないと本当の大変さはわかりません。そしてまた,南半球に行く機会がなければ試すことすらできません。
 私も,昨年の秋にはじめて南天の星空の写真を撮ろうとニュージーランドへ行ったときはまったく要領がわからなかったので,ビクセンのポラリエという赤道儀に「ポーラメータ」という,高度と方角を決めて水準器で調整するとおおよその極軸合わせができるだけの装置を購入しました。
 これを用いることで,ほぼ適当に極軸を合わせれば厳密に極軸が合っていなくても点像に写る魚眼レンズと広角レンズを持っていって使用しました。その当時はそれだけで満足しました。

 しかし,2回目ともなれば,少しは進歩していないと話になりません。そこで今回オーストラリアに行くにあたって,焦点距離が90ミリのレンズでも点像が写せるくらいの正確な極軸合わせができないかと工夫をすることにしました。
 そこで,ポーラメータに加えて「極軸望遠鏡」を購入しました。その極軸望遠鏡を覗いて正確に極軸を合わせるわけですが,そのためには高度と方角の微調整ができなくてはなりません。そこでさらにあつらえたのが4番目の写真のようなビクセンのポラリエ専用の架台でした。
 何事も適当でいい加減な私ですがそれでも練習のためにこの架台を使って事前に北天で極軸合わせを数回やってみました。ところがうまくいかないのです。その理由は,この架台はガタがあるのです。しかも,微調整をするためのネジが回しにくく厳密に調整をするのが大変だったのです。この架台は使い物になりませんでした。
 そこで,せっかく購入した結構高価な架台だったのですが使用をあきらめて,新たに,発売されたばかりの5番目の写真にあるスリックの架台を購入してこちらでも試してみることにしました。結果として,こちらの方はガタもなく,しかも精密な微調整ができて便利なことがわかりました。
 そんなわけで,今日は,スリック製の架台と極軸望遠鏡を使った南天の極軸合わせの方法を説明します。

 この架台は上下・左右とも20度の範囲で微調整ができます。ポラリエの極軸望遠鏡の視野は8度なので,20度というのは十分な角度です。微調整は上下・左右それぞれ2つのネジを回すのですが,ともに前方のネジを回して調整し位置が決まったら後方のネジで締め付けるというのがうまくやるコツです。
 1番目の写真は私が写した南天の極付近の写真に説明を加えたものですが,天の南極はみずへび座にある小マゼラン雲と南十字座をおよそ3:7に内分したところにあります。
 みずへび座のβ星は4等星と暗いのですが,それでも空の暗い南半球では簡単に見つかります。この星を頼りにするとはちぶんぎ座のβ星とν星も簡単に見つかるので,その星から天の南極の位置の見当はつくのですが,極軸望遠鏡を覗いても同じような明るさの星が多すぎてどこを見ているのか実際はさっぱりわかりません。
 2番目の写真はこのはちぶんぎ座と天の南極あたりの星図です。この星図の丸い大きな円が極軸望遠鏡の8度の視野になります。視野の中に三角形の星の配置を書き込みましたが,このうち右側のχ星,σ星,τ星3つの5等星で作られる三角形さえ見分けられれば,視野の右下の十字のところが南極なので合わせることができるのです。しかし,実際の視野には当然,三角形など書かれていませんから,三角形を作るこれらの星を探し出す必要があるのですが,これが難しいのです。

 これらの星を探すにはコツがあります。それは,この星図の極軸望遠鏡の視野の左端に楕円で囲んだなかにある密集した3つの星の集合,はちぶんぎ座のγ1,γ2,γ3の3つの星を極軸望遠鏡の視野に入れればいいのです。この3つの星は特徴的だから簡単に見分けられるのです。そして,この3つの星と天の南極の間の角度は8度なので,ちょうど極軸望遠鏡の端と端に位置することになるので,極軸望遠鏡の視野のなかの星の配列を確認しながら架台を少しづつ移動していけばいいわけです。このとき,スリックの架台は20度にわたって微調整できるのがとても便利なのです。
 望遠鏡に限らず,日本人のものづくりは,ものすごく緻密でこだわりがあるくせに,いつも肝心なところが抜けています。こうした極軸合わせもまた,極軸望遠鏡はものすごく精密に作られているのにもかかわらず,それを活用するための純正の架台がいいかげんなのでそのよさが活かせません。おそらく,机上の空論で設計しているか,あるいは間に合わせのものをOEMで探してきて用意しているだけで,実際に使ってみたわけでないからでしょう。
 私は,純正品を見限って,偶然,発売されたばかりの別のメーカーの架台を流用したことで,今回,天の南極の極軸合わせに無事成功し,思いどおりの写真を写すことができました。しかし,せっかく会得したこの技術も,南半球へ行かないと活用できないので,なかなか使う機会がないのが残念なところです。

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●飛行機の発明からわずか66年で●
 今日は国立航空博物館の展示のうちで,宇宙開発と並んで人気のある飛行機について書く。
 まずはなんといってもライト兄弟(Wright Brothers)に関する展示室である。この展示室はライト兄弟の人類初の動力飛行100周年を記念して2003年に改装されたホールである。
 ホールの中央にあったのがライト兄弟が人類初の動力飛行に成功したときの航空機「ライト兄弟1903フライヤー」(Wright Brothers' 1903 Flyer)である。これは水冷4気筒,わずか12馬力の手作りエンジンであった。この日曜大工で作った機体が,1903年12月17日にノースカロライナ州キティホーク(Kitty Hawk)南約6.4キロのキルデビルヒルズ(Kill Devil Hills)付近にて初飛行に成功した。
 このホールは「フライヤー」を中心として,まわりには当時の街並みやライト兄弟の自転車工場などが作られていた
 ライト兄弟の初飛行ののち人類が月に到達したのはそれからわずか66年後のことであった。

 次の見ものは「三菱零式艦上戦闘機52型A6M5」(Mitsubishi A6M5 Reisen)である。いわゆる「ゼロ戦」は1万以上も生産されたのだが,ほとんどずべては現存していないから,この復元された本物の機体見たさに日本から来る観光客も大勢いるそうだ。しかし,私は,復元された零戦が日本のデパートの屋上に展示されたときに見たとこがあるし,ゼロ戦というのは日本人の間には「名機」として信じられているが,実際は重大な欠陥をもっているから,この飛行機に多くの人があこがれるのかよくわからないのだ。
 ここに展示されているのは太平洋戦争後期の局地戦闘機タイプのもので,当時最新の航空,兵器技術の粋を集めたものではあったが,防弾装置すらなく,それを知ったアメリカ航空隊からその弱点を狙われて数多くの優秀なパイロットを失うことになった。そしてまた,この欠陥を指摘した技術者に対して当時の軍の上層部は「大和魂で乗り越えろ」と言ったとかいう話なのである。
 戦争当時からこの機体はこのような致命的な欠陥があった。これは戦艦「大和」や「武蔵」も同様であって,どうやら,こうしたモノづくりの遺伝子が現在の日本の工業製品にも存在しているように私は感じる。

 この航空宇宙博物館にはレストランがあったので,ここで昼食をとることにした。レストランといっても単にマクドナルドなのだが,その大きさというのが並大抵のものではなかった。非常に多くのゲートがあって,ここで注文すると次々にオーダーされたハンバーガーが用意される。そしてまた,多くの席も用意されているのだ。
 これはフロリダのケネディ宇宙センターも同様であるが,こちらの観光地のレストランは「観光客+α」の座席数がどこにでも用意されているので,食事にあぶれるということはないである。
 私はいつものとおり,通常の食事では野菜さえ確保できれはよいので,写真のようにオーダーした。
 アメリカのマクドナルドで提供されるサラダは日本のものとは比較にならないほど大きいので,これで十分なのである。そしてまた,ソフトドリンクもお代わり自由になっている。

 こうして,この日の午前中を国立航空宇宙博物館で過ごした。2度目とはいえ,私にとっては全く退屈することもない展示であった。

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☆☆☆☆☆☆
 今日は七夕です。この時期,日本は梅雨真っ盛りなので,星空が見られることはほとんどありません。そこで今日は私がオーストラリアで写してきた織姫と彦星,そして天の川の写真で七夕気分をお楽しみください。
 今日の写真の右下にある1等星が織姫,つまり,こと座のα星ベガ(Vega)です。アラビア語で「急降下するワシ」を意味する「al-nasr al-wāqiʿ」(アン=ナスル・アル=ワーキ)に由来するベガは,19日の周期で僅かに変光するたて座δ型の変光星です。近年,この星には惑星系が形成されつつあることがわかりました。ベガは周期が12.5時間という高速で自転していて,極付近と赤道付近では大きな温度差が生じています。また,地球の歳差運動によって2,000年後には北極星となります。
 そして,右上にある1等星が彦星,つまり,わし座のα星アルタイル(Altair)です。アラビア語で「飛翔する鷲」を意味する「an-nasr aṭ-ṭā’ir」(アン=ナスル・ッ=ターイル)に由来するアルタイルは,周期約1.5時間のたて座δ型変光星です。シリウスに似ていて,非常に若い恒星であるために,水素の核融合反応によって生じたヘリウムが中心核を形成しています。アルタイルは毎秒240キロ,8.9時間で1回転しているために楕円となっています。アルタイルは3個の伴星を持つ4重星です。
 地球からベガまでの距離は25光年,アルタイルまでは16光年あって,ふたつの星の間の実際の距離は16光年も離れているので,1年に1度会うなどということはありえません。

  ・・・・・・
 昔々,天の川の近くに天の神様が住んでいました。天の神様には,名前を織姫というひとりの娘がいました。織姫は機を織って,神様たちの着物を作る仕事をしていました。
 やがて,織姫が年頃になり,天の神様は娘にお婿さんを迎えてあげようと思いました。そこで,いろいろと探して見つけたのが,天の川の岸で天の牛を飼っている彦星という若者だったのです。彦星は,とても立派な若者でした。織姫もまた,かがやくばかりに美しい娘です。ふたりは相手をひとめ見ただけで,好きになりました。そして,ふたりは結婚して,楽しい生活を送るようになりました。
 ところが,仲が良過ぎるのも困りもので,ふたりは仕事を忘れて,遊んでばかりいるようになったのです。すると,天の神様のもとへ,皆が文句を言いに来るようになりました。
 「織姫が機織りをしないので,皆の着物が古くてボロボロです。早く新しい着物を作って下さい」
 「彦星が世話をしないので,牛たちが病気になってしまいます」
 神様はすっかり怒ってしまい,「ふたりは天の川の東と西に別れて暮らすがよい」と言って,織姫と彦星を別れ別れにしたのです。
 しかし,天の神様は織姫があまりにも悲しそうにしているのを見て,こう言いました。
 「1年に1度,7月7日の夜だけ彦星と会ってもよろしい」
  それからは,1年に1度会える日だけを楽しみにして,織姫は毎日毎日一生懸命に機を織りました。天の川の向こうの彦星も,天の牛を飼う仕事に精を出しました。そうして,待ちに待った7月7日の夜,織姫は天の川を渡って,彦星の所へ会いに行くのです。
  ・・・・・・

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●アメリカの無人ロケットによる宇宙開発●
 国立航空宇宙博物の展示のうち,今日は無人ロケットによる宇宙開発を紹介しよう。
 アポロ計画で有人による月着陸を成功させるために無人の月探査計画が実施された。そのひとつが「レインジャー計画」 (Ranger program)である。1番目の写真に写っている3基の衛星のうち1番後方にあるものがそれである。
 レインジャー計画は月の近接写真を撮影するために1959年から開始され9基が打ち上げられた。探査機は高感度アンテナ,太陽電池,6台のカメラなどで構成されていた。しかし,このレンジャー計画は6号まですべて失敗して,7号から9号の3基がかろうじてその役割を達成した。レンジャー計画では撮影の終了した衛星は月面に激突した。

 レインジャー計画に引き続き,1966年から1968年にかけて「サーベイヤー計画」(Surveyor Program)が実施された。1番目の写真の手前の衛星である。サーベイヤー計画は月における各種調査や軟着陸技術の開発を行うものであった。探査機は3本の着陸脚と逆噴射エンジンを用いて月面に軟着陸し,着陸後は太陽電池とロボットアームにより地表の調査などを行った。
 1号から7号までが打ち上げられ,2号以外は成功,サーベイヤー計画によって,月面が有人月着陸船の着地に支障がないことが確認されたのだった。サーベイヤー計画のなかでも特筆すべきは3号であった。3号は「嵐の大洋」に着陸し2週間をかけて電動ショベルにより約20センチ月面を掘削する様子をテレビカメラで撮影し,それによって月面の土が地球の湿った砂に似ていることが判明したのだが,後にアポロ12号がこの3号の着陸地点からわずか400メートルの地点に着陸し,3号の部品を地球に持ち帰ったのだった。
 
 最後が「ルナ・オービター計画」(Lunar Orbiter program)である。1番目の写真の右側に写っている衛星である。ルナ・オービター計画は1966年から1967年に行われたもので,アポロ計画のための月面の地図作成が目的であった。5基が打ち上げられそのすべてが成功し,月の表面の99%を60メートル以上の解像度で撮影した。
 このように,ルナ・オービター計画は優等生であった。

 2番目の写真は火星の生命探査を行ったバイキングのランダーである。「バイキング計画」(Viking program)は1970年代に行った火星探査計画である。バイキング1号とバイキング2号の火星探査機が火星への着陸に成功した。
 バイキングは母船であるオービターと着陸船であるランダーによって構成されており,ランダーは火星軌道上でオービターから切り離され地表に着陸した。バイキング計画では着陸後90日間の探査を計画していたが,ランダー,オービター共に設計寿命を大幅に越えて稼動し火星探査を続けた。

 3番目の写真のなかで右側のものがボイジャー探査機である。「ボイジャー計画」(Voyager program)は太陽系の外惑星および太陽系外の探査計画である。2基の無人惑星探査機ボイジャーを用いた探査計画で,1977年に打ち上げられた。惑星配置の関係により,木星・土星・天王星・海王星を連続的に探査することが可能であった機会を利用して打ち上げられた。1号・2号とも外惑星の鮮明な映像撮影に成功し,新衛星など多数の発見に貢献した。
 そして,左側のものがニュー・ホライズンズ探査機である。「ニュー・ホライズンズ」(New Horizons)は2006年に打ち上げた人類初の冥王星を含む太陽系外縁天体の探査を行う無人探査機である。

 4番目と5番目の写真がハップル望遠鏡の鏡の誤差を修正するために入れ替えた光学系の装置のレプリカである。ハップル望遠鏡は1990年,スペースシャトル・ディスカバリー号によって打ち上げられた。しかし,打ち上げ直後の調整で天体の光を集める鏡の端が設計より0.002ミリ平たく歪んでいることが発覚した。この歪みは鏡面の歪みを検出するヌル補正装置が正しく取り付けられていないことが原因だった。この問題を修正するために焦点に入ってくる15%の光を最大限に利用するソフトウェアが開発されたが,これ以上の修復は直接宇宙へ行き修理するしかなかった。
 NASAはこの修理に鏡の誤差を修正する光学系の装置を入れる事を急遽決定した。この修理に伴う船外活動のために,宇宙飛行士たちは1年以上かけ延べ400時間に及ぶ訓練を受けることとなった。この訓練のおかげで修理は成功し,ハッブルは当初の予定を遥かに超える性能を手にし,天文学史に残る数々の貴重な天体写真を捉えることができたのだった。

 このように,国立航空宇宙博物館の展示は私が35年前に行ったときから後の探査機の展示も加わっていて,私にはどれだけ時間をかけても見飽きないものであった。

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●アメリカの有人ロケットによる宇宙開発●
 国立航空宇宙博物館(National Air and Space Museun)はナショナルギャラリーとは違って,ものすごい観光客であった。やはり,ワシントンDCを訪れる観光客の興味はこうした科学技術なのだなあと思った。
 ただし,すでに書いたことだが,別館のウドバ―ハジーセンターにも行かなければ片手落ちということになるが,ツアーではなかなかこの両方に行くのはむずかしい。私は個人旅行をしているからそうした認識はないが,たまに現地ツアーなどに参加すると,ツアー旅行でのこうしたストレスを思い出す。

 ナショナルモールにある本館は長さが約200メートルで3階建てのビルである。
 私が35年前に来た時はすでにアポロ計画は終了していたが,今でもアメリカの宇宙開発の誇りはアポロ計画なのであろう。そこでここにもマーキュリー計画からアポロ計画までの有人月着陸計画の多くの展示があるので,今日はそれらを紹介したい。
 2番目の写真はマーキュリー計画で使用した「フレンドシップ7」(Mercury Friendship7)である。ユーリー・ガガーリンの搭乗したソビエトの有人宇宙船ボストークが地球を1周して後れをとったアメリカが1962年に打ち上げて地球を3周したひとり乗りの宇宙船である。この打ち上げから10年もしないで人間を月に送り込んだのだからすごいことである。

 3番目はジェミニ計画4基めの「ジェミニⅣ」(GeminiⅣ)である。ジェミニ計画は1965年から1966年にかけてマーキュリー計画とアポロ計画の間に行われ,無人のⅠ,Ⅱののち,2人の宇宙飛行士を乗せてⅢからⅫまで10回の飛行が行われた。ジェミニの目標はアポロ計画で必須となる月面着陸のための技術を開発することで,月に行って帰ってくるまでに必要とされる期間の,宇宙滞在を達成し宇宙遊泳によって宇宙船の外に出て活動を行いランデブーとドッキングの実行をする際に必要となる軌道操作の技術を切り開いた。
 これらの新技術が検証されたことによってアポロ計画では基本試験を行うことなく月飛行という本来の目的を遂行することができた。
 「ジェミニⅣ」は1965年6月3日に打ち上げられ,4日間の飛行を行い,アメリカではじめての宇宙遊泳が行なわれた。

 そして,4番目が人類初の月着陸をしたアポロ11号(Apple11)の司令船である。
 アポロ計画はアメリカ航空宇宙局(NASA)による人類初の月への有人宇宙飛行計画であった。1966年から1972年にかけて無人の1号から6号を含め17回の打ち上げが実施され,11号から17号まで,事故によって月着陸を断念した13号を除き6回の有人月面着陸に成功した。
 宇宙船は全体として二つの大きな部分から構成されていて,飛行士はそのうちの司令船(Command Module=CM)で飛行中の大部分の時間を過ごし,月着陸船(Lunar Module= LM)で月面に降下し戻ってくるようになっていた。 司令船は円錐形をしていて3人の宇宙飛行士を月軌道に乗せ,また宇宙から帰還させ海上に着水するように設計されていた。

 5番目の写真は月着陸船のモデルである。実際の月着陸船は,その下の部分は月に残し,飛行士の乗る上部は帰還の際に切り離されるので,地球には戻らない。このように,月面への着陸と司令船が待機する月周回軌道までの帰還のみを目的に設計されていて,地球の重力圏では運用しないことが前提であるため、耐熱板は限定的なものであり、また徹底して軽量化が図られていた。定員は2人で上昇段と下降段の二つの部分から構成されている。下降段には、アポロ月面実験装置群や月面車などを搭載するスペースが設けられている。

 6番目の写真は月の石の展示である。
 アポロ計画では合計6回の月着陸に成功したので,月の6つの場所の岩石を地球に持ち帰ることになった。それぞれの場所には特徴があるので,さざざまな異なる性質をもつ石が展示されている。
 1970年に大阪で行われた大阪万国博覧会の目玉商品はアポロ12号が月から持ち帰ったばかりの月の石であった。これを見たいがために数時間も並んだものである。そして,月の石が展示されていたアメリカ館には同時に月着陸船のモデルも展示されていた。
 アメリカの有人宇宙計画はアポロ計画の終了後はスカイラブ計画を経てスペースシャトルに移った。そのスペースシャトルがウドバ―ハジーセンターに展示してあるわけだ。

 ここを訪れる多くの人たちにとって,すでにアポロ計画は歴史上のできごとであって,現実ではないのだろう。日本の若者でも,人類が月に行ったというのはアメリカがでっち上げた大嘘だと信じている場合が少なくない。これは,くだらないテレビ番組の影響であろうが,このことに限らず,例えばハワイやニュージーランドに行ったときに星空観察ツアーに参加しても,あまりに知識のない人が多いことに私は驚いた。近頃は,世の中はそういうものだと思うようになってきた。
 恐ろしく博学な人も少なくないが,その逆もまた少なくない。これこそが世の中というものなのである。

5日目です。昨日行ったボールドロック国立公園へのアクセス道路のある町がテンターフィールドですが,この町があまりに素敵だったので,今日は1日ここで過ごすことにしました。一般に多くの日本人が訪れるオーストラリアはケアンズ,ブリスベン,シドニー,メルボルンといった大都市かゴールドコーストでしょう。私の宿泊したゲストハウスから車で30分から1時間くらい走ると,ウォリック,スタンソープ,ワランガラ,テンターフィールドといった小さな町がありますがそれらは日本人の観光客にはおそらくほどんと無縁です。
私は今回,こうした町に行って,子どものころにアメリカの西部の田舎町としてイメージしていたのは,本当はこうしたオーストラリアの小さな町であったような気になりました。そしてまた,どこも住んでみたいと思う町でした。ここは気候も厳しくなく,ゆったりと時間が流れ,気持ちが落ち着きます。そしてまた,こうした町にいると,日本とはあまりにも別世界で,日本では何をせこせことこだわって生きているのだろうかとほとほといやになってきます。
この町にはきれいな広い観光案内所があって,とても親切な女性が見どころを教えてくれて地図ももらいました。私がまず行ったのが鉄道駅の博物館でした。ここの鉄道は1989年まで運行されていて今は使われていないので,途中の橋はもろくも崩れていたりするのですが,駅のあたりを博物館として整備して往年の列車などが展示されています。私はこうした博物館は,実際は,捨てるに捨てられないガラクタ置き場だと思うのですが,それでも保存する価値と意義があります。これこそが人が生きてきた証だからです。
そのあと,町の美術館に併設されたレストランで昼食をとってから,薦められたマウントマッケンジーの展望道路を車で登りました。
さて,翌日は帰国です。早朝チェックアウトをして夜明け前3時間ドライブして朝7時過ぎにブリスベンに着きました。
私は今回,こうして念願の南天の星空を見るためだけが目的だったオーストラリア旅行を楽しんだのですが,この国の小さな町にも魅了されました。こうした町は特に何かがある,というものはないのですが,こうした町をきままに歩いたり,ホテルで音楽を聴いたり読書をしたり,そして,夜は満天の星空を楽しめば,それでもう十分に満足なんだ,ということに改めて気づきました。おそらく私はまたすぐにこの地に戻ってくることでしょう。この旅は私にとって夢のような日々になりました。


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次の日はボールズロック国立公園へ行ことにしました。
ゲストハウスからずっと南に行けばボールズロック国立公園という道路標示があるということだったので走っていったのですが,一向に見つかりません。私はワランガラという町で国立公園に行く道路があると勘違いしていたのですが,ワランガラを過ぎても道路標示がなく,その先まで走っていったのですが,クイーンズランド州からニューサウスウェールズ州に入っても次の町がなく,私は何かの間違えだと思って途中で引き返してしまったのです。実はその先のテンターフィールドまで行く必要があったのです。
ワランガラの町に戻って,昔鉄道が走っていた駅に博物館兼レストランがあったので,そこで昼食をとりました。さらに戻って,ゲストハウスを過ぎ,さらに北に走って,私は,昨日行ったスタンソープの町にたどり着いて,そこのビジターセンターに入って,親切な係りの女性に詳しい道を聞いて,愕然としたというわけです。
ここでくじけないのが私のいいところ? で,再び南にテンターフィールドまで走っていって,やっとボールズロック国立公園に行く道路にたどり着いたときはすでに午後2時でした。
こうしてどうにか国立公園の駐車場に車を停めたのですが,この国立公園が大変でした。1時間30分ほど歩いて山頂にいく道があったものを私は直線距離で山頂まで行こうとして,なにせ,どこがどうなっているのかさっぱり知らないかったがためにこうしたことになってしまったのですが,エアーズロックを登るより大変だというその岩山を40分以上延々と登ることになってしまいました。途中で何度やめようかと思ったかわかりませんが,ついについに私は登りきったのです。山頂の景色が特に素晴らしい,というほどのこともなかったのですが,おそらくは人生で2度と登ることはないであろうと思われるこの岩山に登りきった満足感で一杯でした。ただし,写真ではこのとんでもない大変さが再現できていないのがきわめて残念です。
こうして,私は,オーストラリアへ星を見にいっただけのはずだったのに,連日,岩山登山に明け暮れる日々を過ごすことになったわけです。日本の百名山のような,山頂がラッシュアワーの人混みであるわけもなく,私は,この国の雄大さとすばらしさを改めて実感したのでした。

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今日はありがたくない予報が当たって曇り空でした。2日間心置きなく楽しんだので全く問題はないのですが,もし今日到着していたら落胆するところでした。
夜になっても一向に晴れません。しかし,面白いことには,夜,星が見えないと外は本当に真っ暗なことです。つまり,昨日までここでも夜は意外と暗くないんだなあと思ったのは全くの誤解で,明るさは星の光のせいだったことがわかったのです。この時期月の光はないのですが,星の光というのもかなり明るいのです。地面には日陰どころか星陰が見えるのです。信じられないでしょう。隣の部屋に今晩宿泊するのは,ゴールドコーストでツアーガイドをしている人とその友人でブリスベンでワーキングホリデーをしているという女性の3人組だったのですが,彼女たちは今晩だけの1泊とのことなので,晴れないと気の毒です。それでもなんとか少しだけ晴れ間が見えたので,土星や木星を見ることができたのが幸いでした。
話は前後しますが,今日のお昼はもうひとつの国立公園であるサンダウンへ行こうと予定していました。私は誤解していて,ボールズロック国立公園は舗装された道路でトレイルの入口まで行けるのですが,サンダウン国立公園は未舗装道路で,4WDでないとアクセスできないとのこと。途中のワイナリでそれを聞いて落胆しました。あきらめて,私は宿泊しているバランディーンから北にあるスタンソープという町まで大きく東側にユーキ―ロードという道を迂回して行ってみることにしました。舗装されてはいるのですが,車がぎりぎりすれちがえるだけ の幅の道路でした。ほとんど車は通りませんでしたが,カンガルーの死体がありました。この旅で私は野生のカンガルーの姿を3度目撃しましたし,道路の死体も結構見ました。
道の両側はワイナリーばかりで,そのうちにストームキング・ダム湖に着きました。しばらくそこで休憩してからさらに走って,やっとスタンソープの町に着きました。スタンソープは小さいけれどとても素敵な町でした。ここで昼食に中華料理店に入りました。
町の公園には紅葉した木がとても美しく,そういえば晩秋なんだと,改めて思いました。白黒の鳥がたくさんいました。この鳥はツチスドリといいます。土で巣をつくるのだそうです。オーストラリア人はピーウィー(peawee)と呼びます。口ばしの周りが白いのがメスで口ばしの周りが黒くてサングラスをかけた様なのがオスだそうです。スタンソープは本当にのどかで住みたい町です。

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今日は私がこの旅で持ってきた撮影道具を紹介しましょう。これらはこれまでハワイ島,ニュージーランド,マウイ島へ持っていって試行錯誤しながら改良したものです。とにかく小型でなくてはなりませんが振動がなく真っ暗な中でも使いやすい必要があります。
露出時間は3分くらいなので,当然,赤道儀でないと星が流れてしまいます。そこでビクセンのポラリエという赤道儀を使っていますが,最も手間をかけたのが極軸合わせのための様々な工夫です。
カメラはキヤノンのEOSX8iを散光星雲が写るようにIRカットフィルターを天体写真用に換装した改造カメラです。南天の星空を写すには何といっても広角レンズに限りますが,その画角もまた問題です。そこで選んだレンズはニコンの対角魚眼と広角の35ミリですが,今回はタムロンの90ミリマクロレンズも持ってきました。いずれもニコンマウントなのでアダプタを使ってキヤノンのマウントに合わせてあります。
赤道儀の電源と夜露よけのヒーターはANKERのPowerCoreで賄っています。これで一晩保ちます。これまで多くの失敗をしてやっと落ち着いたこれらの道具は今回極めて快調でした。まるでこの日のためにこれまでがあったようです。写真は構図を合わせてあとはシャッターを押すだけで,それ以外の時間はこちらで借りた大型の双眼鏡や肉眼で星空を楽しみました。
今回しみじみ思ったのは星は目で見るものだということです。寝っ転がって天頂に横たわる天の川を眺めたときの喜びに勝るものは他にありませんでした。

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今日も晴れました。明日から天気が悪いということなので今日は心置きなく満天の星空を楽しみました。昨日の成果で極軸も難なく正確に設定できて星空の位置もよくわかります。月齢2の月がまだ西空に残っているのにすごい数の星が天の川とともに見えます。これまで南天の星空を見たくてハワイ,ニュージーランドと四苦八苦してきましたがここオーストラリアがベスト。ついにたどりついた感じです。
星空の美しさは筆舌に尽くしがたいので今日はこの日に写した写真をお楽しみください。
1番目の写真が天頂にのびる天の川です。上が北で下が南,天頂にさそり座,北にはわし座,南には南十字座がいます。2番目が南の地平線付近の天の川です。マゼラン雲も見えます。この付近の星空が日本では見えないのです。3番目が南十字星からηカリーナ星雲にかけての最も魅力的な場所を写したもので,宮沢賢治「銀河鉄道の夜」の世界です。4番目はηカリーナ星雲です。ηカリーナ星雲は地球から6,500光年から1万光年離れているいくつかの散開星団に囲まれた大きく明るい星雲です。天の川銀河で最大級の重さと光度を持つふたつの恒星が星雲の中にあります。
5番目はさそり座,そして6番目はいて座のあたりを写したものですが,天の川が見事過ぎて星の並びがわかりません。宝石のような散光星雲がきれいです。そして最後の7番目は天の南極を中心とした日周運動を20分露出して写したものです。生まれてはじめて日周運動を写しましたがそれが南天とは! 中央のほとんど動いていない台形型の4つの星の並びを見つけることが南天の極軸あわせのコツですが,暗いので慣れが必要です。

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滞在しているゲストハウスの近くにはギラウィーン,ボールズロック,ブノブノ,サンダウンという4つの国立公園があります。今日はそのうちでギラウィーン国立公園に行ってみました。車で20分くらいの距離です。この国立公園は奇妙な岩が点在しているのが売りですが,それらを見るにはトレイルをずいぶんと歩く必要がありました。こちらは初冬だというのに汗をかきました。
オーストラリアの国立公園はアメリカの国立公園に比べたら未だ手つかずといった感じで観光地化されていません。何といってもオーストラリアの魅力は国立公園にも増して手つかずの日本では見ることができない星空なのです。
国立公園に3時間くらい滞在してゲストハウスのあるバランデーンに戻ってきました。ここにはタバーンというレストランが1軒あるのでそこで試しに昼食をとりました。ハンバーガーを注文したのですが,出てきたのはとんでもないビッグサイズでした。
その後,近くのスタンソープという街まで行ってみました。ここはとても素敵な街で住みたくなりました。こうした美しい街でゆったりとした時間の中で生きている人はとても幸せです。日本の人混みや満員電車なんて信じられないことでしょう。

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到着したときは晴れていたのですが夕方になったら一面の曇り空になりました。天気予報では今日明日は晴れて明後日からは曇りまたは雨。来るまでは連日晴れていたということなので最悪の展開です。どうしても今晩は晴れてもらう必要があります。でないと来た意味がありません。
ということだったのですが,願いが通じて陽が沈むころから快晴になりました。今晩晴れてくれれば,明日から天気が悪くてもあきらめがつきます。
そんなわけで夕方西の空に薄い月が沈むのを見届けてから開始です。しかし星の並びがさっぱりわかりません。それを承知で来たのですが,私がニュージーランドで覚えた南の空とは季節が違うので正反対,マゼラン雲は地平線ギリギリにあるし,天頂には天の川と南十字星が輝いています。天の南極がわからず極軸あわせに苦労しました。
空が暗くなってきて次第に星座もわかってきて,なんと天頂にさそり座が見え,そこから北に向かっていて座の凄まじい銀河を肉眼で見たときは興奮しました。やはり星は写真でなくこの目で見なくては! 大型の双眼鏡を借りて片っ端から星団や星雲を見ました。40センチの望遠鏡で木星と土星も見ました。
こうして,生涯最高の星空を深夜まで満喫しました。

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オーストラリアは2度目です。昨年はブリスベンに降りましたがそのままニュージーランドに行ったのでオーストラリアへの入国はしませんでした。今回オーストラリアに行くことになってから調べてみると,オーストラリア入国にもアメリカのようにESTA登録が必要なことを知ってびっくりしました。危うく忘れるところでした。ニュージーランドは要らないのに…。
成田空港の第2ターミナルを歩いていて,さな ざまな行き先の待合所を見ると,ホノルル行きだけは雰囲気がまるで違います。華やいでいます。アメリカのシカゴ行きもあったのですが,何だかピリピリしています。私はこれまであれだけ何度もアメリカ本土に行ったのに,ハワイやオセアニアに行くようになると,だんだんとアメリカ本土のピリピリ感に怯えてアメリカ本土が遠く感じられるようになってきました。
いよいよ搭乗の時間になりました。少し遅い夕食を食べてなんとなく映画を見ていたら眠くなって,そのうちに早い朝食が出て,8時間あまりでブリスベンに到着しました。初冬ですが日本の10月のようなとても過ごしやすい気候です。
昨年はここの空港で時間待ちをしてニュージーランドに行ったのですが,今回はここが最終目的地です。手際よく入国を済ませ,レンタカーを借りて,私の宿泊するゲストハウスまでは3時間,なぁ〜んにもない道路を100キロで走り抜けて午前11時ころには着いてしまいました。ここに5日間滞在します。

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