しない・させない・させられない

アメリカ合衆国50州・MLB30球場を制覇した旅行記と,旅・星・四季のエッセイ,読書・映画・音楽の感想。

"I won't do or be made to do what I don't want to. I won't make you do what you don't want to."
Traveling US and Japan, watching beautiful stars and reading books on listening classical music make my life.

春はハワイです。
なかなか暖かくならない日本を離れてハワイ6島制覇をめざし,今年も旅立ちます。行き先はマウイ島です。
昨年の3月にオアフ島のホノルルに着いたとき,あまりの日本人の子供連れ家族が多くて,春休みを避け2月に来るべきだと思ったのですが,今年の2月はくだらない用事があったのでそれができず,今年もまた3月になってしまいました。私は満天の星を見るために新月前後に旅行がしたいので,3月のこの時期を選びました。
昨年は,ハワイに行くのがはじめてだったので,どうすればよいのかよくわからならないまま計画を立てました。まず,デルタ航空のサイトでホノルル乗り換えでハワイ島まで行く航空券を探しました。セントレア・中部国際空港からホノルルへの便があるのは知っていたのですが,なぜかデルタ航空の予約サイトにはセントレアからハワイ島までを検索してもそうした便が表示されず,成田から行く羽目になりました。また,ホノルルからハワイ島まで,ハワイアン航空の便は頻繁にあるのにもかかわらず,これもまた,デルタ航空のコードシェア便だけの接続の悪いものしか表示されず,ずいぶんと戸惑いました。
そこで今年は,その反省から,セントレアからホノルルまでの便だけをデルタ航空のサイトで予約をして,それとは別に,ハワイアン航空でホノルルからマウイ島までを予約することにしました。セントレアからホノルルの便は,なぜか,行きが水曜日発,帰りが1週間後の水曜日現地発のものを選ぶと安価なので,それを選びました。
これで順調に行けると思っていたら,問題が起きました。ホノルルからマウイ島までの便は接続時間のよいものをハワイアン航空で選んだのにもかかわらず,後日,デルタ便の時間が頻繁に変更になり,そのために接続時間が短くなり,予約しておいたハワイアン航空の便を変更しなくてはならなくなったのです。
しかも,ハワイアン航空のサイトで変更をしようとするとホームページが固まってしまって動かないし,ウェブページに記載された連絡先に電話をすると,土日も営業していると書かれてあるにもかかわらず,実際は土日はお休みだったりといういい加減さで,これが天下の観光地ハワイの実態だ! ということがわかってきたのです。
まあ,そんなことは日本以外ではよくあることなので気にもせず,結局,便の変更も無事完了し,さらにまた,行きのデルタ便の座席の無料アップグレードにも成功しました。
毎度考えてしまうのが服装です。日本と違って,現地は30度。短パンとTシャツでないと暑くていられないのです。日本からは何を着ていこうかな?
そんなこんなで,3月22日の夜9時30分,私はセントレアを離陸しました。

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●幟こそ日本の美観を損ねる最大要因だ。●
☆8日目 8月3日(水)
 デイズインには珍しくレストランがあって,私もまた珍しくホテルのレストランで高価な朝食をとることにした。しかもこの朝食はセルフサービスではないのである。
 今日はまず,そのときの朝食の写真をご覧いただこう。
 本来,旅行というものは,このくらいのリッチさと優雅さでするものなのである。学生ならともかく,私のような年寄りは,アメリカの長距離トラックの運転手が泊まるような安モーテルに宿泊してモーテルでの名ばかりの朝食やマクドナルドで朝食をとって,やらたと車で走り,などという貧乏旅行をするものではないのである。

 ところで,2枚目の写真のように,アメリカではレストランのテーブルの上にケチャップと塩と胡椒と砂糖が用意されているのだが,問題はこのケチャップである。
 上下さかささまに置けるのは非常に合理的な方法だと思うが,これは注意深く絞らないと,なかに空気が入っているから思わぬ方向に飛び散ってしまうわけだ。もう少し工夫をすればいいと思うのだが西洋人の合理性はある程度の機能に達すればそれ以上の工夫を放棄する。ひょっとすれば私の知らないマシな出し方があるのかもしれない。
 いずれにしても,日本のように,何事も必要以上に改良ばかりを繰り返して,その結果使いづらくなるのとは違って,たとえ服をケチャップで汚しても,この程度でいいという適当な姿勢に私は共感を覚える。

 せっかくだから,今日は,ケチャップだけでなく,ほとんどの日本人旅行者の気づかない話題を書くことにしよう。
 3枚目の写真は私がこの旅で乗っていた車の計器である。アメリカの車はどれもこのように中央に液晶ディスプレイがついている。この画面は初期値ではデジタルの速度メーターが表示されているが,切り替えるとこのよな空気圧の表示になる。そのことに私はこの旅で気づいた。すでに書いたことだが,ふとした誤操作でこの表示に変わってしまい,私は車のタイヤに異常があると錯覚したわけであった。
 そしてまた,これも近頃知ったことだが,長距離を走ることの多いアメリカの車のタイヤは,パンクをしてもその後ずいぶんと長距離が走れるようになっている(らしい)。そのためにもこうした空気圧表示が必要である(らしい)。

 そして,4番目の写真,これは単なるファーストフード店の店先であるが,注目してほしいのはこの店の幟である。近頃は日本でもこの形状の幟をみかけるようになった。アメリカで幟というのは珍しいが,たとえあったとしても,日本とは違ってこうした形状のものである。
 それにしても,日本にはコンビニの店先であろうとカーディーラーであろうと学習塾であろうと,いかなる店にも幟が立っていて,その幟の数が異常に多いのが私には気に入らない。この幟こそが日本の街の景観を台なしにしている最大要因だと思っているのだが,それはおそらく,幟業界の巨大地下組織が暗躍しているからに違いない。
 日本の幟は,景観を台なしにしているだけでなく,風が吹けは危ないし,私は喫煙のできる飲食店と同様,即刻すべて廃止すべきであると思っている。街は五月人形や合戦場ではない。

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 2017年の春が来ました。今年は年が明けてから寒く,梅の満開が2週間ほど遅れました。桜の満開も遅くなるかな?
 毎年この季節になると,昨年のこの時期を思い出して,もう1年が経ってしまったのか,と感じます。それとともに,この1年どれだけのことをしたのだろうかと思うようにもなりました。しかし,この1年振り返ってみると,ずいぶんいろんなことをしたものです。それでも,まだやりたいことがどんどんと増えてきます。
 「大学を卒業して社会に出るころには子どものころにもっていた自分の夢がひとつずつ少なくなっていく」というような歌詞の歌が昔流行ったように思うのですが,いわゆる定年退職の年齢になって社会から卒業するころに,あのころが蘇ってひとつまたひとつと夢が増えていくというのも不思議なものです。
 「精神年齢は(実年齢-40)歳で生きよう」と書いたことがありますが,まさにそんな感じです。
 今から40年ほど前の1975年ころに流行した音楽が現在テレビ番組でよく流れているのもまた,この年代の多くの人が「精神年齢は(実年齢-40)歳で」と思っているからなのでしょう。

 近頃は,私が学生のころに活躍していた人たちが鬼籍に入(い)るようになって,さらに特別な感慨を覚えます。私が若いころにすでに大人だった人たちについては,当然,その人たちの若いころを知らないわけで,歳をとれば死んじゃうんだわと思っただけで,そんな気持ちになったこともないのですが,私と年齢の近しい人たちの場合は,その人たちがだんだんと有名になって功を遂げていったその一部始終を見てきたものだから,そうした人たちの死を知ると,人生って何なんだろう,としみじみと思ってしまいます。
 何か美しい景色が見えるかと思って人生という山に登ってみたら,山頂の向こうに見えた景色はあの世の入口だった,という感じです。
 名を成し功を遂げたとしても,それが過去のことになれば,自分のことではないように感じるのではないかと思います。だれにとっても,現実は,「今」と不確かな未来の不安しかないのです。だからこそ,どんな偉業を成しとげた人でも「今」がむなしくなると自殺をしてしまうこともあるのです。人は過去の栄光では生きられないのです。

 これもまたいつも書いていることですが,人の幸せとはジグソーパズルのピースがきちんと収まる場所に「今」いることであって,人と競ったり同じ階段を上っていくことではないのです。地位とか名誉,なんていうのは,所詮,そのうちに滅亡する人間が作り上げただけの価値であって,そんなものには何の意味も持ちません。未来永劫地球上に墓を残したとしても,所詮,宇宙がなくなってしまうのだから,これもまた全く意味をもちません。
 私は,昔,自分が困ったことがあったとき,尊敬していた人たちに相談したら,実は,そうした人たちの多くは日ごろ言っていた偉そうなこととは正反対に,わが身が可愛いだけだったという姿に接して,ずいぶんと落胆しました。他人には努力だの忍耐だのと言っている輩や自分のことを棚に上げて他人に対して辛辣な輩や,あるいはまた,すぐにブチギレる輩こそ,特に,そういった人物であったことが多いのです。

 空を見上げれば,毎日,なんらかの面白い天体現象を見ることができ,旅をすれば,まだまだ知らないところがたくさんあり,音楽を聴けばときめきを感じ満ち足りて,スポーツを観戦すれば手に汗を握る…。これほど世界は驚きで満ちているのに,人とつまらない競争をしたり,醜い権力闘争をしたり,あるいは逆に何もすることなく退屈しているような,そんな暇などはなのです。
 どうせみんな死んじゃうんです。
 生きるというのは,「今」という一瞬一瞬を輝いて,そして,ときめいて過ごすことなのです。そのために,人と言葉を交わすことができる語学力を身につけたり,音楽に接したときに感動できる心があったり,旅先での風景をより美しくする文学や歴史を知っていたりすることが必要なのです。学問は,将来訪れるそのときの「今」という一瞬を楽しむ,そのためにするもので,名誉や地位を得るためのものではないのです。
 病気はお医者さんにお任せし寿命は神様にお任せし,俗世界から卒業した私は,これまでも,そして,これからも,「今」という一瞬一瞬を,この借り物の体を神様にお返しするまで,さらにときめいて生きることにしましょう。
 そう確信する2017年の春です。

◇◇◇
2016年がやってきた-精神年齢は(実年齢-40)歳で。

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 石薬師は落ち着いたとてもきれいな文化的な町でした。この町は,国道1号線から少し入ったところにあるので車もほとんど通らず,町は整備されていて,歩きやすいところでした。車で国道1号線を走っている限りこの町の存在には気づきません。
 いつかこのことを書こうと思っているのですが,明治以降,それぞれの町は,その町がもつ歴史や新しく作られた交通網などさまざまな条件で発展してきました。現在ではそうした町はとても美しく整備されたところや荒れるに任せたままようなところがあります。
 つまり,町の「でき」が違ってしまったのです。どういった理由でそうなったのかは様々でしょうが,この石薬師の高貴さは歌人の佐佐木信綱氏と石薬師寺の影響が強いのではないかと思いました。

 この町のメインロードは「信綱かるた道」になっていて,歌の碑が並んでいます。
 私は佐佐木信綱氏の名を「さらだ記念日」で有名な俵万智さんの先生として知っていました。佐佐木信綱氏は石薬師村(現在の鈴鹿市石薬師町)で歌人佐々木弘綱の長男として生まれました。東京帝国大学文学部古典講習科に進み,父と共編で「日本歌学全書」を刊行,森鴎外の「めざまし草」に歌を発表し,歌誌「いささ川」を創刊しました。
 御歌所寄人として歌会始撰者でもありました。
 町の中心には小沢本陣跡がありましたが,そこから少し坂を下ったところに小学校がありその隣に佐佐木信綱記念館がありました。記念館を少しだけ見学して,さらに坂を下りていくと,国道1号線を跨ぎその先に石薬師寺がありました。

 石薬師寺は真言宗東寺派の仏教寺院で,山号は高富山(たかとみざん),院号は瑠璃光院(るりこういん)といいます。本尊は薬師如来です。
 神亀3年(726年)に泰澄が巨石の出現を見てそれを薬師如来の示現と悟り草庵を設けて供養したことが開創とされています。
 その後弘法大師が,その巨石に薬師如来を刻み開眼法要を行い,人々の信仰を集めたことにより,勅願寺とし荘厳な寺院を建立して,名を高富山西福寺瑠璃光院と称したと伝えられています。
 そして,元和2年(1616年)に東海道五十三次の宿場となった石薬師宿にちなみ高富山瑠璃光院石薬師寺と改称し,今日に至っています。
 美しく気品のある寺でした。
 この寺のある場所で石薬師宿は終わりです。

 石薬師宿を過ぎると有名な石薬師の一里塚跡がありました。
 私は四日市からここまで歩いてきたので,四日市まで戻るにはどこか近くの駅で鉄道に乗らなければなりませんが,近鉄だとうつべ駅まで戻らなければなりませんし,JRの関西本線では,この先の加佐登(かさど)駅まで行かなければなりません。しかし,その加佐登駅があるのは石薬師宿のさらに次の庄野宿なのです。
 石薬師宿から次の庄野宿まではわずか6キロほどでした。四日市宿から石薬師宿までの長さに比べたら半分以下です。しかも,ここまでとは打って変わって,その間の旧東海道は田んぼのあぜ道がJRの線路伝いに続ているだけでした。
 やがて,加佐登駅に着きました。庄野宿は加佐登駅を過ぎてされに2キロほど歩いたところにある集落だったので,そこまで行ってみました。
 歌川広重が東海道五十三次で描いた庄野宿には「白雨」という名がついています。「白雨」とは夕立やにわか雨のことですが,突然の風を伴った激しい雨が坂道を往来する人々を襲っている様を生き生きと描写したこの絵は,広重最高傑作のひとつとして知られています。
 この絵には,強風に揺れる遠景の竹薮を輪郭線の無い二重のシルエットにして奥行きを出し,さらに降る雨の角度を変えるなどといった技法的にも新たな試みをして成功している,という評があります。

 庄野宿は,遠くからは,昔の名残りを残したのどかな宿場町のように見えたので,私はずいぶんと期待しました。ところが,庄野宿の入口を入りその後町のなかをどれだけ歩いてみても,この宿は,はっきりいって何もないのです。完璧なほどに何もないところだったのです。ただひとつだけ,町の中心部に江戸時代の面影を残した資料館があったきりでした。
 私はこのあたりで気の利いたお蕎麦屋さんで昼食をと思っていたのですが,駅前に焼き肉屋さんが1件とJRの駅に飲み物の自販機があっただけでした。
 私はどこかにお店がないものかと探しているうちに2キロも続く宿場を通り過ぎてしまい,お昼を食べる機会を逸しました。駅からは4キロも先の庄野の町はずれで旧東海道は国道1号線と交わっていて,そこに唯一コンビニがありました。しかたなくそこで食べ物を手に入れました。一体ここに住んでいる人はどこに買い物に出かけるのだろうかと思いました。
 このように庄野宿は期待外れの不思議な町でしたが,考えてみれば,これこそが日本の原風景といえるのかもしれません。

 この日,こうして,私は四日市宿,石薬師宿,そして庄野宿までの約20キロを佐佐木信綱記念館の見学やら食事の時間やらを含めると4時間弱で歩き通しました。
 東海道の宿場町といっても,このように,それぞれ趣が異なります。ただひとつ共通しているのは,どの宿も,自分の町が昔東海道の宿場町であったことを誇りにしているということですが,明治以降,こうした町がもっときちんと保存され,今でも調和がとれた発展をしていたらどんなにすばらしかったものかといつも思いますが,残念ながら,日本の近代化には,そんな余裕はありませんでした。

 私は結局,JRの加佐登駅まで引き返し,そこから四日市駅に戻りました。そして,そのあとでパラミタ美術館に立ち寄って,歌川広重の東海道五十三次を鑑賞することができました。
 実際に東海道の宿場町を歩いてみると,町のどこかしこに歌川広重の描いた浮世絵の面影だけは心に感じることができますが,実際の町の姿は,どこもそれほどの違いがない,さびれた日本の殺風景な家並みが続いているだけです。それがアメリカのマザーロードであるルート66と違うところです。
 日本の旧街道歩きには歌川広重の描いた東海道の姿が見られるといったそんな期待をしてはいけません。そんな面影は何も残っていないか,あるいは,残っているところは現在のブームに乗っかって新たに作られた人工的なものでしかないからです。

 次回は,暑くなる前に前回行くことのできなかった険しい静岡県の日坂峠を歩きたいと思っていますが,これがとても大変そう…。

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 今年もまた大阪場所はやはり最高でした。
 では,今日は,テレビにはあまり紹介されない裏側の写真を紹介しておきましょう。
 まず,1番目の写真は会場に入ったところです。横綱の実物大のパネルがあります。私はこういうのもこれまで興味がなかったのですが,稀勢の里のパネルと一緒に写真を写しました。中央には優勝したときにもらう天皇賜杯と優勝旗,そして,各優勝杯が展示されています。
 優勝旗は稀勢の里と書かれた幟が見えるようになっていますが,天皇賜杯の下の部分に刻まれた稀勢の里の文字が裏側にあって見ることができず,見にきていた多くの人が探していました。鏡でも置いてあればいいのに,と口ぐちに言っていました。

 2番目の写真は,入口を入って右手にある相撲協会公認グッズ売り場です。数年前は売るために買うと親方の直筆サインを書いてくれたりしたのですが,いまや大人気で,売り切れ続出の状況です。右に並んでいるのは,購入を待つ人たちです。
 この体育館はロビーが広いので,非常に気持ちがよいのです。国技館は別格として,愛知県体育館もロビーが狭く,九州は逆にロビーに売店があるだけで,それ以外の場所はせまく売店が全くありません。

 3番目の写真は単なる階段なのですが,この体育館の欠点はこの階段です。なにしろ凝っていて,そのために,階段の場所がよくわかりません。これでは,何かあったときに,きっと大惨事になります。また,トイレも階段を上った先にあるので,足の悪い人には大変不便です。
 はじめてこの体育館に行って,イス席にたどりつける人は皆無でしょう。なお,エレベーターは存在して,力士使用禁止と張り紙がしてあります。

 4番目はテレビの放送席です。テレビカメラもどんどんと進化していて,現在NHKでは4K,8Kといったスーパーハイビジョンの映像を放送センターに行くと見ることができます。私も見たことがありますが,すごく精細です。
 私は,それよりもアメリカのフットボール上のように3D映像とか,あるいは,会場内にいる人のスマホを対象にビデオ映像を即座に配信してほしいものだと思います。
 放送席は正面の最上段にあります。この席の下のイス席が報道のカメラマンの席です。カメラマンの人とお話をしたのですが,もっと別の角度から写したいけれど場所が決められているので,ここからしか写すことができないと不満を言っていました。
 若いころから相撲を見に行っていると,カメラマンの使用しているカメラの変遷がよくわかって大変に興味深いものがあります。
 なお,土俵下にもカメラマンがいて,彼らはスピードライトを使用していますが,発光口を体育館の照明によって違うフィルターで覆うのだそうです。

 そして,5番目の写真は正面のマス席のなかにあるラジオの放送席です。この日の解説は北の富士さんで,姿が見えます。大阪場所のラジオの放送席は結構土俵に近いところにあります。
 私は名古屋場所でラジオの放送席のひとつ後ろのマス席で見たことがあります。放送席にはモニターがあるので,とても見やすかった覚えがあります。そのときの解説は舞の海さんで,放送終了後に握手をしていただきました。
 アナウンサーも解説の人も,マイクに向かってしゃべっていても,周りにはほどんど何も聞こえません。それより,ラジオの大相撲中継ですが,実況をラジオで聞いていても雰囲気とどちらが勝ったかがわかるだけで,アナウンサーが苦労して描写している割に取組の様子は頭に浮かばないのですが,それは私だけのことでしょうか。
 昔のテレビ放送は,神風(正一)さんと玉の海(梅吉)さんというすばらしい解説陣がいました。ともに冷遇されてはやくして相撲協会を去った人です。そして,おふたりの後,同じように冷遇されて相撲協会を早期退職した北の富士さんをNHKが解説に迎えたのが大正解でした。
 人間的な魅力にあふれた人は組織から冷遇されるのです。しかし,人を悪人にしてしまう大きな組織の役員やら管理職などという仕事は早く見切りをつけたほうが幸せな人生がおくれるのです。

 この日も新横綱稀勢の里は完勝。こうして,私の楽しい今年の大相撲観戦も終わりました。来年はチケットとれるかなあ?

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 そんなわけで,十両の土俵入りから先は,席でじっくりと観戦です。とにかく今日来た目的は新横綱の土俵入りを見ることなのですが,うまく写真が写せるか,近づくにつれてだんだんと心配になってきました。
 数場所前は,宇良関,石浦関と,十両に小兵の人気力士がいて見逃せなかったのですが,今は,幕内に上がりました。また,数年前は,横綱白鵬とほかの力士に力の差がありすぎたのと,有望そうな若手が目につかなったので,幕内はおもしろくなかったのですが,このところ,若手の台頭が目覚ましく,誰が対戦しても上位陣に勝てるかもしれないという可能性があって,幕内の取組が非常に面白くなりました。

 いよいよ,幕内の土俵入りになりました。
 私は,この日白鵬が休場したということを知りませんでした。周りにいた人のおしゃべりから,なんとなく休場? みたいな感じが伝わってきましたが,これまで白鵬は飽きるほど見てきたし,もともと好きじゃないので,別に休場しても見られなくてもどおってことありません。
 ところで,白鵬の土俵入りですが,横綱になったはじめのころは今のような感じではなかったのです。その後,彼はどうやら敬愛する双葉山の土俵入りを研究したんです。で,昭和初期の横綱の土俵入りのような感じになった。つまり,3回目の四股を踏むときに手を上げない,しかもテンポも早くなったのです。それに文句を言ったファンがいるそうですが,そのファンは無知です。そして,それを記事にした記者は不勉強です。

 横綱の土俵入りが確立したのは明治以降であって,しかも現在のようなおおらかでゆったりとしたものになったのは大鵬からですが,私が見た横綱の土俵入りで最もかっこいいと思ったのはなんといっても北の富士です。ほとんど映像が残っていないのが残念です。
 雲竜型の北の富士と同時に横綱になった玉の海の不知火型の土俵入りもまた,現在の不知火型のふたりの横綱とは比べ物にならないほど美しい土俵入りでした。

 稀勢の里の土俵入りは堂々としていて力強いです。昭和45年(1970年),大鵬,北の富士,玉の海3横綱のころの土俵入りを思い起こさせます。
 稀勢の里は新横綱なのに,すでにもともと生まれながらの横綱のようです。やはり,横綱になるべくして生まれた逸材だったのです。しかし,もし,もっと若くして横綱になっていたら,きっと,現在ほどのフィーバーにはならなかったのかもしれません。それは,もう,みんなが見られないとあきらめかけていたときだからこそ,それが実現した今,夢にまで見た,とか,信じられない,という不思議な感覚になるからです。
 私も,何度見ても,本当に稀勢の里の横綱土俵入りを見ることができるのが信じられないと感じるし,見るたびに涙が出てきます。

 稀勢の里の横綱土俵入りがより素晴らしいのは,化粧まわしに品があることに加えて,太刀持ちの高安関と露払いの松鳳山関が横綱より若干背が低くしかも同じくらいの体格でともに浅黒く,非常にバランスがとれているということです。
 私は,大阪場所は本場所初の土俵入りということで初日に見たかったのですが,初日は高安-松鳳山という取組があったので,露払いが松鳳山関でなく輝関だったから,初日に来なくてよかったと思いました。これもまたツイています。おそらく,高安関は名古屋場所では大関でしょうから,この3力士のそろった美しい土俵入りが見られるのもあとわずかです。
 見にいくなら今です。

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 大阪場所の6日目は一番出世披露があります。
 序ノ口の取組前の前相撲は他の場所は3日目からですが入門者の多い大阪場所は2日目から行われます。前相撲はその場所前の新弟子検査に合格した者と序ノ口から番付外に陥落している者が行います。非公開ですが,大阪場所は前相撲の取組数が多いので,開場時間になって入ってもまだ続いていて一般でも少しだけ見ることが可能です。私も昨年見ました。
 前相撲で5日目までに2勝を挙げると一番出世となります。6日目から8日目までに2勝を挙げると二番出世,それ以外を三番出世とします。

 出世披露とは,師匠や部屋の関取の化粧廻しを身につけて土俵に上がり,場内アナウンスによって所属部屋,四股名,出身地が読み上げられます。そして最後に行司が「これに控えおきます力士儀にござりまする。只今までは番付外に取らせおきましたるところ,当場所日々成績優秀につき本日より番付面に差し加えおきまする間,以後相変わらずご贔屓お引き立ての程ひとえに願い上げ奉りまする」と口上を述べます。
 出世披露は三段目の取組中に行われます。客席から盛んに声援が飛んでいました。彼らの力士人生,これからが大変です。

 私はこれを見てから1階に降りました。これまで毎場所見てきたので,この日は力士の入り待ちをする気はなかったのですが,入口に立ち寄ったときにはすでに入り待ちをする人でごった返していたので,少しの間立ち止まって見ていましたが,幕下上位の取組に見たいものがいくつかあったので,2時までで引き上げることにしました。
 この日見ることができた力士は,休場していてこの日から出場を決めた豊ノ島をはじめ,千代丸関,千代の国関,宇良関,高安関などでした。
 他の場所では力士が入ってくると拍手や歓声がすごいのですが,なぜか大阪場所はそういう反応がないのが不思議です。
 ただ,後ろにいた妙齢の女性が「千代丸さんカワイイ~」とか叫んでいるのだから,彼女たちにとれば,お相撲さんというのは女の子が大切に抱きかかえているくまさんのぬいぐるみと同じような存在なのでしょう。

 2時になったので,席に戻りました。
 見たかった取組というのは阿炎(あび),貴公俊(たかよしとし),剛士,貴源治などの幕下上位の将来有望力士のものです。
 今日の一番下の写真が話題の貴源治ですが,現在19歳で西幕下1枚目,誰しもが認める逸材です。勝ち越せば来場所はいよいよ関取ですが,この日は惜しくも負けてしまいました。
 なお,貴公俊,貴源治は双子でそっくりですが,隣にいた女性ファンによれば,口元にほくろがあるのが兄の貴公俊だとか言っていました。ザ・ピーナッツでもあるまいし…。

 大相撲は,このように幕下以下の若者たちを見るのが楽しみです。BS放送で午後1時から放送されるようになって幕下の取組はテレビで見られますが,それ以下は今でも実際に場所に行かないと見ることができないので,私は少しでも早く行ってそれらを見るようにしています。
 多くの人は朝早くからやっていることを知らないし,テレビの放送時間くらいからはじまると思っている人もいるし,せっかくチケットを手に入れたのに4時過ぎに行く人もいるようですが,もったいない話です。
 こうして朝から見るからこそ,いかに上位の力士が強く偉大なのかがよくわかるのです。

 大相撲は最も封建的な社会のように思えますが,学歴もコネも関係なく強ければだれでも横綱になれるわけで,その意味では,日本でもまれな実力社会です。
 それが,引退後は部屋の派閥やらなにやらできわめて人間臭くなってしまい,しかも,現役時代の地位が学歴のように扱われるのもまた人の世の常でしょう。私は昔は引退して親方ともなれば悠々自適だと思っていたのですが,親方衆というのも当然いろんな人がいるだろうし,雑用もたくさんあるだろうし,しかも,後援会とのお付き合いはセールスのお仕事と変わらないだろうし,それはそれでかなりたいへんそうです。どの世界も同じです。

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 「大相撲を見るなら大阪に限る」ということで毎年楽しみにしている大阪場所ですが,相撲人気が過熱して年々チケットが取りづらくなってきました。それに加えて期待の稀勢の里関がついに横綱に昇進ということで,異常なフィーバーになってしまいました。 
 私の今年の目的は新横綱稀勢の里の土俵入りをナマでみることただ1点。そのためにはイス席もマス席も土俵だまりも関係なく新横綱の土俵入りがきちんと見える席でないと意味がありません。そこで,新横綱は果たして東なのか西なのかが場所前に話題になっていました。新横綱は横綱最下位なので,西だと私は信じていましたが,聞くところでは,ほかの2人の横綱がその前の場所に休場した例がないとか。だから,ひょっとすると東では? という噂もあったそうです。
 私はなんの疑問もなく西と信じていたので,正面かもしくは東方ということで座席を探しました。実際はそんな選択ができるような状況ではなく,チケットを入手することさえ困難でしたが,なんとか5日目のイス席を1枚手に入れて3月16日に行ってきました。しかし,たまたま手に入れた席が土俵入りを見るには最高の席でした。東方の正面寄り。毎度のごとくついています。
 私は昨年も偶然5日目に見にいったのですね。あれからもう1年が経ちました。
 新横綱の土俵入りのことはまた後日。

 さて,いつも大相撲を見にいくときは1番はじめの取組からなのですが,今年はその時間に着くのはあきらめて,早朝7時に名古屋を出発して,近鉄特急で向かうことにしました。難波に到着したのが朝9時過ぎ。難波から大阪府立体育会館までは正確に歩くと10分というところですが,何度来ても相変わらず道順がよくわかりません。難波の地下街の表示が最悪なのです。デザイン的に懲りすぎていて,肝心なことが把握できません。
 昨年「5番出口を出る」と書いたのですが,自分でもすっかり忘れていました。
 地上に出て,それでもわからず,何度も聞いてやっと見慣れた景色にたどり着きました。
 今回知ったのですが,大阪府立体育館を探すよりも南海電車の乗場を目指すほうがわかりやすいのです。そのほうが案内表示が多いからです。

 到着したときにはすでに5日目の取組は始まっていました。行く途中の歩道では前相撲を取り終えた若者や史上最弱力士の呼び声の高い服部桜とすれ違いました。せっかく今日服部桜の取組があったのに見られずそれだけが残念でした。
 彼が見切りをつけて辞めるまでに私は彼の取組を見ることができるだろうか? などということを思いました。
 当然当日券はすでに完売,というかイス席の端っこに僅かだけある自由席だけが当日券なのですが,それでも朝5時に並ばないと買えないということです。会場に入ると,まだ朝9時過ぎだというのに結構なお客さんがいました。この日は平日の5日目,最もチケットの売れない日なのでこの状況は信じられません。数年前なら最後まで売れ残ったマス席で結びの一番まで寝っころがっていられたのですが…。そんな話が嘘のようです。

 場内を歩いていると相撲協会公認グッズ売り場があって11時に開店ということでした。11時少し前に再び行ってみるとすでに黒山の人だかりでした。わたしはこういうのには全く興味がないのですが,今回だけは「稀勢の里キーホルダー」が欲しくなったので,早々に買い求めました。なぜかこれだけ定価の表示がなくて,でも,欲しい人が多くて,まあ,10,000円はしないだろうと冗談を言い合っていたのですが,実際は金700円也でした。人気は稀勢の里関と宇良関でしたが,特に「稀勢の里キーホルダー」の当日分は瞬く間に売り切れてしまいました。
 ほかにも「稀勢の里ジャポニカ学習帳」。これはすでに完売,今日の午後に何冊入るかなあ? ということでした。
 日本人はこういう商売が苦手で,メジャーリーグのように,もっとグッズを工夫して大々的に売ればいいのに,と思ったことでした。頭の古いおじさんの考えるような饅頭やせんべいや手ぬぐいばかりではいけません。新横綱である「今場所しか手に入らない」というレアものをいろいろと開発することが大切なのです。
 しかし,メジャーリーグのように,みんながひいき力士のTシャツを着て応援をはじめたら大相撲らしくなくなります。すでに「稀勢の里Tシャツ」を着た若い女性は結構見ましたが…。

◇◇◇
浪速の春の大相撲観戦①-人気の源流を探る。
浪速の春の大相撲観戦②-大阪場所は最高だった。
浪速の春の大相撲観戦③-アホの坂田師匠と神送りの儀式
浪速の春の大相撲観戦④-2016年もすごい盛り上がり
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 いよいよ「杖衝坂」です。
  ・・・・・・
  吾足如三重勾而甚疲
  わがあしは
  みえのまがりのごとくして
  はなはだつかれたり
  私の足が
  三重に折れ曲がってしまったように
  ひどく疲れた
                古事記
  ・・・・・・
 太古,倭健命が東征の帰路,病にとりつかれこの地を杖をついてようやく登ったところから「杖衝峠」,そして「三重」の名前の由来になったのだそうです。

 この坂は高さが約20メートルで,東海道のなかでも急坂のひとつということです。しかし,結論を先にいうと,この坂,まったく大したことありませんでした。というか,箱根は別格として,薩埵峠や宇津ノ谷峠と比べたら相手に失礼だと思います。
 それよりも,これまでしばらく平坦な道だった旧東海道が,この先険しい鈴鹿越をしなければならないかと思うことの方が,はるかに旅人の足取りを重くしたのではないかと思います。

 この「杖衝峠」の登り口には昔の家を利用した資料館があったのですが,この日はお休みでした。
 土日以外で三重県の旧東海道を歩くには,水曜日に限るというのが今回行ってみてわかりました。こうした資料館はどこも週末と水曜日だけ開館していたからです。いつものことですが,そんな情報すら知らずに出かけるほど,私は無計画でいい加減なのです。
 旧東海道は静岡県は県をあげて復元に取り組んでいて,どこも道路標示がしっかりと整備されています。それと比べると,三重県は今ひとつです。 
 それに加えて,まったく食事をするお店すらない,というよりも,コンビニの1軒,自動販売機の1台すらないのです。しかし,むしろこの方が昔らしくてよいのかもしれません。だから,俗化された観光地が好ましくない人にとれば,整備されていない今が訪れる最後のチャンスなのかもしれません。

 杖衝坂には,芭蕉の句碑もあって,そこには,
  歩行ならば杖衝坂を落馬かな
と書かれてありました。
 貞享4年(1687年),松尾芭蕉が江戸から伊賀への帰途にこの急坂で落馬してしまいその折に詠んだものです。
 今とは違って,昔はこの坂は舗装もされておらず道幅も狭いから,それなりに大変だったのかな,と思いました。
 坂を上がったところには集落がありましたが,この集落に住む人の姓はみな「坂上」さんでした。

 そのまましばらく歩いていくと,旧東海道はやがて国道1号線に合流して,国道1号線の歩道になりました。
 この日は春にしては異常に寒く,特にこの場所は峠の上だから,雪をかぶった鈴鹿の山々から木枯らしが強く吹きつけて雪交じりになって大変でした。まさに歌川広重の四日市宿の絵のようでした。きっと昔の旅人も同じような経験を味わったことでしょう。それにしても,国道1号線は大型トラックがひっきりなしに通り,私はすっかり現実に戻されました。
 歩いていいるとしみじみ感じるのですが,この国のどこもが,昔からの土地にある道路やら河川やらを無視するかのように,上から無関係に太く筆で線をかきなぐったようにして国道が作られています。そして,道路はゴミだらけで,人々は木造の朽ちかけたような家々に住んでいて,何におびえるようにしてささやかに暮らしているような,そんなふうに見えます。

 峠を越すと,再び旧東海道は国道1号線から離れ,並走した旧道を坂を下るようになります。反対に京から歩いてくれば,長い長い登り坂となるわけです。
 四日市宿の次の石薬師宿はこの坂の下で,まだまだ距離があるのですが,峠のさきから鈴鹿市になって,行政区分が変わります。それまであった「東海道」という標識もなくなり,私は,四日市市とは違って,鈴鹿市は旧東海道をリスペクトする心すらない町なのだなあ,としみじみ思ったことでした。
 そして,坂を下り終えると,旧東海道は再び国道1号線と合流し,国道1号線の地下道をくぐって横断し,再び旧道に入ると,そこには「石薬師宿」と書かれた大きな標札がありました。
 鈴鹿市も旧東海道を足蹴にしていたわけではありませんでした。

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●ボールパークの周辺の物乞い●
 ゲームはまだ途中であったが,ダルビッシュ投手が降板し,セブンスイニングストレッチも終わったので,ホテルに戻ることにした。
 アメリカ人の不思議なのは,こうしたゲームでは熱狂しているのやらそうでないのやらさっぱりわからないということで,7回くらいになると,さっさと家路に急ぐ観客がすごく多いのである。それは家が遠いからであろうか。しかも,夏時間だとゲームの開始時間自体が7時30分と遅いから,ゲームの終了まで見ていると次の日になってしまうことも多いのだ。
 私も特にナイトゲームの場合,ほどほどに切り上げて最後まで見た経験はほとんどない。
 以前,クリーブランドでクリーブランド・インディアンズ対ニューヨーク・ヤンキース戦を見たときに,あまりの大差でさっさとボールパークを後にしたが,その後インディアンズが猛烈に追い上げて,出るはずがないと思っていたクローザーのマリアノ・リベラ(Mariano Rivera)投手が登場した。それを見逃してしまったのは大失敗で,私のトラウマとなった。幸いにも,その数年後に,引退間近のリベラ投手をニューヨークで見ることができて,私のトラウマは帳消しになったからよかったものの…。

 ボールパークを出ると,ボールパークの周りにはすでに私のように客席から出てきた多くの観客がいて,ボールパークのまわりにあるモニュメントで写真を撮ったりしていた。歩いてボールパークの敷地を出てびっくりしたのは,多くの物乞いが金をもらうためにあちらこちらに座っていたことであった。
 私は西海岸のボールパークではそうした風景に出会ったことがなかった。サンフランシスコ近郊のオークランドのボールパークも決して雰囲気のよい場所ではなかったが,そこはボールパークからはそのまま地下鉄の駅に行くことができたから,地下鉄の終電が早いということを除けば安全なところだった。
 また,デトロイトでゲームを見たときは,パーキング代をケチったがために,ゲームの終了後,人っこひとりいないデトロイトのダウンタウンをパーキングまでさまようことになって身の危険を感じたが,それでも,物乞いは見たことがなかった。
 このあとに行くことになるワシントンDCでのゲーム観戦はデーゲームだったが,ここではゲームの開始前に,地下鉄の駅からボールパークに向かう間にも物乞いがたくさんいた。

 私は,この日,わずか3ブロック先にあるホテルまで,まったく身の危険を感じることもなく戻ることができてホッとした。
 ホテルの部屋に戻って,窓からまだ終わっていないボールパークの照明を眺めて,やっと,念願のボールパークに行くことができた喜びを感じたのだった。

 写真で見る限り,ボルチモアはとても美しい都会に見えるだろうが,実際にカムデンヤーズに行く計画のある方は,入念な準備をして,くれぐれも安全第一にベースボールを楽しんで来てください。

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 四日市宿から次の石薬師宿までは約12キロありました。徒歩は時速5キロくらいなので,3時間もかからず歩けます。私はこの日,9時過ぎに出発して11時前には到着しました。
 近頃,テレビでは製作費がかからないので旅番組をたくさんやっています。特に,路線バスを利用する旅番組では,バスが走っていない区間は歩いているわけですが,見ているだけで実際に自分で歩いてみないと,その距離感覚や辛さというのはわかりません。
 そこで実際に歩いてみると,10キロくらいなら問題なく歩けます。先日行った四国で出会ったお遍路さんは,車で1時間の距離が徒歩で1日だと言っていました。つまり,30キロから40キロということです。
 今回歩いた四日市宿から石薬師宿までは途中にある唯一の「難所」杖衝坂以外はほどんどが平坦なので,歩くには楽でしたが,その代り,前回書いたように,日坂の追分までは狭い道路なのに多くの車がすごいスピードで走っていて,旧東海道の面影が残っていて素敵なところだったのにも関わず,歩いていて楽しいところかどうかは別の話でした。

 私はこうしてすれ違う車に恐怖を感じながら四日市の市内から追分に着きました。ここから先,追分という名の通り,街道は東海道と伊勢道に分かれます。
 十返舎一九の「東海道中膝栗毛」にも書かれていますが,江戸からの多くの旅人はお伊勢参りが目的だったので,追分を左手に伊勢を目指します。そこで,この先東海道を進む旅人の数はずいぶんと減ったと思わます。道も活気がありません。
 追分には近鉄の「おいわけ」駅があって,私が線路に差し掛かったときに幸運にもちょうど踏切が降りて電車が通過し,ローカル線ムードいっぱいの雰囲気を味わうことができました。

 この先の旧東海道は地元の人が行き交うだけで,車も通らないので,のどかな道歩きができるようになりました。道幅も車がやっと1台通れるほどになって,ここから内部川までは絶好の散策コースです。
 この日のコースではこのあたりが最も心和むところでした。こうしたところは住んでいる人の心も和むものと見え,庭先には花が植えられていたりしていて,精神的な豊かさを感じました。また,ときどき,江戸時代にタイムスリップしたかのような家があったり,お寺があったり,道標があったりしました。
 道路は曲がりくねるのですが,案内がしっかりしているので迷うことはありません。

 近鉄内部線は「おいわけ」駅の次は「おごそ」駅で,その次が終点の「うつべ」駅です。
 旧東海道は近鉄の線路に沿った形で狭い道が続いていて,その北を国道1号線が並走しています。旧東海道を歩く限りは車の音もなく,タイムスリップしたかのような感じでした。
 やはり,日本は本来,モータリゼーションとは無縁の国であって,そこがもともとモータリゼーションで道路が整備されたアメリカや,馬車が行き交うために石畳で道が作られたヨーロッパとは違うところです。それが明治になり,車が増えてきて,道路は車が通るためのものに突然役割を変えたときに,この国は対処ができずめちゃめちゃになりました。
 車の通る道路と人の歩く道路が別であった場所はよいのですが,追分までの道のように,中途半端な幅の生活道路に車がたくさん走りはじめてしまうと,歩く人にとっても走る車にとっても,そのどちらにとっても不幸な状況になります。

 やがて内部(うつべ)まで来て,近鉄の駅が見えてきました。それとともに,内部川が旧東海道を遮断する形になって,旧東海道は国道1号線に吸収されてしまいました。
 この国のさらに不幸なことは,もともと行政に人を大切にする精神的な余裕がないから,道路を作るときには人が歩くことまでを考慮していないことにあります。そこで,車道の脇に歩道が作らているのならばまだましであっても,交差点では横断歩道すら歩行者を配慮して作られていなかったりするから,かなり遠くまで行かなくてはならなかったり,案内がよくわかなかったり,あるいは横断歩道すらなかったりするのです。
 近頃では,それに加えて自転車の問題もあります。
 もともと自転車が車道を通ることなど考慮せずに道路を作ったのにも関わらず,自転車が歩道から締め出されてしかも車道には元来自転車など走る余裕もないので,自転車は歩行者からも自動車からも嫌われる存在となりました。そしてまた,「自転車」という同じ名前であっても,サイクリング車とママチャリとではスポーツ選手と幼稚園児ほどの違いがあるにもかかわらず,同じように道路交通法で位置づけられてしまうものだから,問題が解決しないのです。

 私は,内部川にかかっている国道1号線の歩道を歩き,内部川を渡りました。渡り終えたらその先の旧東海道を見失いました。何の道案内もないので,どこへ行けばいいのかわからなくなったのです。橋のたもとに交番があったので引き返してなかに入ると,訛の強いお巡りさんが親切に道を教えてくれました。

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 3月7日,三重県の御在所のふもとに「パラミタミュージアム」(Paramita Museum)があって「歌川広重・二つの東海道五拾三次・保永堂版と丸清版」展をやっているというので,出かけることにしました。
 「パラミタミュージアム」はイオングループの岡田卓也さんの寄付による基本財産をもとに設立された岡田文化財団が運営する私設美術館です。 
 
 早朝に家を出て,美術館へ行く前に,まず,四日市から旧東海道を歩いてみることにしました。私が気になっていたのは四日市宿と石薬師宿の間にある「杖衝坂」でした。私は天気のよいときに静岡県のよく保存された旧東海道を時々歩いているのですが,果たして三重県の旧東海道はどうなっているのか? という興味もありました。
 この日は歩くにはちょうどいいくらいの寒さでしたが,半日ほどで四日市宿からどこまで行けるやら,その先のJRや近鉄の最寄りの駅がどこにあるのやらが地図ではよくわからず不安でした。

 スタートは近鉄四日市駅からです。
 様々なブログに書いてあるように,四日市宿の旧東海道は現在は諏訪神社から始まるアーケード街になっています。アーケード街を少し歩いて行くと大通りにぶち当たって,アーケード街はそこまでです。そして,その先は昔の街道と同じ幅の道路に当時の面影を残した家並みが5キロ以上続いていました。しかし,旧東海道はこの大通りを渡る横断歩道がなくさっそく迂回の洗礼です。
 旧東海道の南には国道1号線が並行して走っているので,車で国道1号線を走ってしまうとまったく気づかないところに,この旧東海道が残っていました。
 なかなか旅情をそそるよい雰囲気で,当時のままの家が残っていたり,お寺があったりと,興味が尽きることはありませんでした。なかでも,1852年に建てられた鈴木薬局の旧家や日永神社に今も残る東海道最古の道標,日永の一里塚の石標,名残松などは,なかなかのものでした。

 いつも書いているように,日本の風景は心で感じるもので,旧東海道を歩くときは,十返舎一九の「東海道膝栗毛」や歌川広重の「東海道五十三次」を知らなければ,その魅力のほとんどはなくなってしまいます。
 なかでも,広重の描いた四日市宿は,今の石油コンビナート四日市市からは想像がつかないのどかな風景なので,実感がわきません。しかし,こうして旧道を歩いてみると,四日市の街なかを過ぎていくにつれて,このあたりの風景なのかな? という感じがしてきました。
 ただし,問題だったのは,この旧道,やたらと車が通ることです。ここは日本にありがちな,車がすれ違うには狭い幅の生活道路でした。しかし,たまに車が通るのならともかくも,ものすごいスピードを出して頻繁に車が通っていくのです。
 こうした状況は,日永の追分までずっと続きました。
 私はアメリカをよく旅するようになって,日本人もつ決定的な3つの欠点がとても気になるようになりました。それは,街中だというのに車が異常な速度で歩行者の横を走り去ること,並んでいても平気で横入りをしたり譲り合ったりしないせこい人が多いこと,そして,手をきちんと洗わないことです。
 特に,歩行者がいるのに恐怖感をいだくようなスピードで車が通りすぎるなんて,異常すぎます。

 私には四日市という街は「渋滞するところ」というイメージしかありません。国道23号線なんて,まともに走れたことがありません。東名阪自動車道は,以前は快適な道路だったのですが,伊勢湾岸道や新名神自動車道が接続するようになって,これもまた四日市付近は慢性的に渋滞を起こすようになって,名古屋から奈良にスムーズに行く方法がなくなりました。
 しかも,どちらの道路もコンビナートの工業地帯で大型トラックばかりです。
 その一方で,近鉄の四日市駅あたりだけは,日本に多くある中規模都市と同じような感じで駅前にはアーケード街があってそこはアメリカでいうところのダウンタウンなのですが,大人の事情からでしょうか,この街もまたJRとは駅が離れていて,そのために不便で,JRの駅前は悲惨なほど寂れています。
 さらに,今回四日市宿から庄野宿まで歩いて驚いたのは,旧東海道に沿って,まったくお店がなかったということです。お蕎麦屋さん1軒どころか,なんと,コンビニの1軒,自動販売機の1台すら存在しないのです。

◇◇◇
東海道を歩く-往時の面影を残す薩埵峠①
東海道を歩く-石畳の箱根峠を越える①
東海道を歩く-宇津ノ谷峠と丸子のとろろ汁①
東海道を歩く-晩秋の浜名湖沿いの街道を行く①
東海道を歩く-「越すに越されぬ大井川」を渡る①

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●ダルビッシュの投球術は群を抜いている●
 私はダルビッシュ投手を一目見て,そのかっこよさに悩殺された。そして,私のこのゲームの目的は美しきボールパーク・カムデンヤーズ巡りからダルビッシュ投手の追っかけと転じてしまったのだった。
 もし,ダルビッシュ投手が先発でなければ,私は見晴らしのよい4階席でこのゲームをゆっくりと楽しむはずであったが,方針転換である。

 アメリカのボールパークは1階席を取り巻くように広いコンコースが一周している。
 これは,どのボールパークも同じ作りになっているが,ボールパークに限らず,バスケットボールなどの室内競技場もまた同様である。そして,そうしたコンコースには売店が並んでいる。アメリカのこうした施設が日本と決定的に違うのは,そうしたテレビに映らない場所の豪華さにある。
 1階席のスタンドに降りるには,コンコースから自分のシートのある通路口に係員がいて,そこでチケットを見せるという仕組みになっている。また,2階席以上はコンコースから階段やエスカレータ-があって上がっていくと,その階にも広場がある。
 係員は大概地元のお年寄りの場合が多く,アメリカのことゆえ,その仕事ぶりはものすごく厳格な人からまったくやる気のない人まで非常に個人差がある。さらに,そうした係員の対応はボールパークによっても程度の差がある。
 カムデンヤーズはゆるゆるであった。係員が別の客の接待に追われていたり,あるいは,どういうわけか係員が不在の通路が結構あって,そうした通路からは,いくらでも1階席に降りていくことができるから,グランドにいるプレイヤーを近くから写すことができるのである。

 私は,こうして,さまざまな席の間を移動しながらダルビッシュ投手の写真を撮りまくっていたのだが,ちょっと調子に乗りすぎて,バックネット裏にの最上級席まで降りていったときだけは係員がやってきて「チケット見せろ」と言われて困ってしまった。
 ちょっと写真を撮りに来ただけだ,とかいって潔く退散することになったが,罰金でも払わされたらどうしようかと一瞬凍った。

 このボールパークもまた,食事は大したものがない。ほかのボールパーク同様,ホッとドックやハンバーガーとコーラ,これだけで1,000円以上もする。しかも量が少ない。今回もそれで我慢をしてそこそこに平らげ,食事をする間も惜しんでダルビッシュ投手の一挙手一等足を観察していた。
 ダルビッシュ投手の投球ほど面白いものはない。彼は,テレビで見ていても投球術は群を抜いている。それをナマで見られるのだからなおさらである。しかし,どういうわけか,復帰後の彼は,球威が増して三振の数は以前よりもさらに増したのに,やたらとホームランを打たれてしまうのが不思議なことだった。
 どうしてなのだろう?
 この日のダルビッシュ投手もまた,6回と1/3投げて9三振を奪った好投だったが,なんとシングルホームランを3本も浴びて降板し,敗戦投手になってしまった。
 私は,ダルビッシュ投手が降板したのでもう用がなくなり,治安も心配だったので,セブンスイニングストレッチまでボールパークにいて,早々にホテルに引き上げることにした。

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 室戸岬では車を駐車場に停めて,岩の間を歩いたり,展望台に上ったり,中岡慎太郎像と写真を写したりしました。土産物屋の一軒もなく,中岡慎太郎像と一緒に写真を写すにもそれを頼む人さえなかなか見つからないと,日本の有名な観光地にはあり得ない状態で,私は非常に好感をもちました。
 この旅では,この室戸岬の先端の数キロだけが,私の心を満たしてくれました。それにしても遠いところでした。
 室戸岬から先は四国の東側の海岸に沿って走りました。高知市に泊まるということと室戸岬に行くということ以外は何の予定もなく出かけた四国への旅でしたが,わずか1泊2日,復路は淡路島を一挙に高速道路で走り抜け,そのまま帰宅しました。

 室戸岬から少し北東側にいったところに「御厨人窟」(みくろど)がありました。 御厨人窟は四国八十八箇所番外札所のひとつです。神明窟(しんめいくつ)も隣接しています。
 これらは隆起海蝕洞で,それぞれ祠が祀られており,御厨人窟には五所神社があり祭神は大国主命,神明窟は神明宮があり祭神は大日孁貴となっています。
 御厨人窟は平安時代の初期,弘法大師がこの洞窟に居住したと伝えられています。この洞窟から見える風景は空と海のみで,ここから「空海」の法名を得たとされます。また,神明窟で難行を積みその最中に明星が口に飛び込み,この時に悟りが開けたと伝えられています。
 現在は落石のため崖前の全面に柵が設けられていて,洞内への立入りはできません。

 ここで岐阜から来ているというひとりのお遍路さんに会いました。彼は私とほぼ同じくらいの歳で,毎回高速バスで来ては数日間歩いているのだそうです。私は,これだけ健康なら行けるうちに海外に出かければいいのにと思ったことでした。
 このあたり,車で走っていると,道路の脇はお遍路さんだらけですが,道が狭いので危険です。お遍路さんは,定年退職後の人や外国人ばかりなのですが,学生時代は「ブカツ」漬けで就職すれば残業ばかり,そうした人たちが定年退職して自分とはじめて向き合うために遍路旅をするという気持ちはわからなくもありません。そうした人生をおくらなかった私はやらないでしょうが。

 しかし,この四国八十八箇所巡礼といってもありがたいことばかりではなく,今の状況は1930年ごろに整備された四国を支える観光ビジネスで,所詮人間のやっていることだから欲得がらみの問題もあります。世の中なんてそんなものです。詳しく知りたい方は「62番札所」とでも検索してみてください。 
 ところで,私は先日胃カメラを使った検査をして,そのときに,突然,この結果次第ではこれで私の夢もすべて終わりだなあ,という焦燥感に襲われました。人生なんてたかがそれだけのものか,と。そう思ったら,時間がこれまで以上に貴重なものに思えてきました。それとともに,世の中の雑事やらさまざまな騒がしいニュースやら,そうしたことのすべてがより馬鹿らしく思えてきました。

 その後,夫婦岩を過ぎ,白浜海岸まで走ってそこで昼食をとりました。白浜海岸は四国屈指の遠浅の砂浜海岸で,夏になると海の家が設置され,大勢の海水浴客で賑わうといいます。ここは満ち引きの差が「普通じゃない!」ということです。遠浅の海岸で沖合まで約50メートルも浅瀬が続いているからです。
 このように,四国は,室戸岬あたりから東海岸の白浜海岸あたりまでが見どころで,そのあたりだけは風光明媚でとても素晴らしいところです。それにしても,本州から行くには高速料金は異常に高く,時間もかかり,せっかく到着してもほとんどの場所は山と軽トラばかり。九州の久住高原とは違って星を見るような空の開けた場所もありません。時間とお金とそれに見合った風景を考えると,ハワイへ行った方がはるかに安上がりだなと,これが私の結論でした。

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●男も惚れるメジャーリーガー「ダルビッシュ・有」●
 ダルビッシュ・セファット・ファリード・有(Sefat Farid Yu Darvish)投手は,1986年生まれ大阪府羽曳野市出身のメジャーリーガーである。

 2012年にレンジャーズと6年5,600万ドル+出来高400万ドルの総額6,000万ドルで契約,この年の4月9日のシアトル・マリナーズ戦でメジャー初先発し,シーズン通算16勝221奪三振を記録した。チームはレギュラーシーズンの最終戦で地区優勝を逃がしたがポストシーズンに進出し,ダルビッシュ投手はボルチモア・オリオールズとのワイルドカードゲームに先発したが敗退した。
 2013年は開幕2戦目のヒューストン・アストロズ戦で初先発し9回2死まで無安打無四球を記録したが,27人目の打者マーウィン・ゴンザレス(Marwin Javier González)選手に中前安打されて完全試合を逃し降板した。シーズン通算13勝9敗で両リーグ最多の277奪三振を記録し,野茂英雄投手に次ぎ日本人史上2人目の最多奪三振を獲得した。チームはレイズとのワイルドカード残り1枠を争うプレーオフに敗れてポストシーズン進出を逃した。
 2014年はボストン・レッドソックス戦で7回2死まで完全試合としたもののデビッド・オルティーズ(David Americo Ortiz Arias)選手の打席でエラーによって初出塁を許し,その後も9回2死まで無安打無得点を続けノーヒッター達成まであと1人の場面で,再びオルティーズ選手が二遊間を抜く打球を放ち,MLB史上3人目となる9回2死からノーヒッターを2度以上逃した投手となった。しかし,8月に右肘の炎症で15日の故障者リスト入りし,リーグ最下位となったチーム状況もあり残り試合の登板を回避した。
 2015年はスプリングトレーニングの初登板で右上腕三頭筋の張りを訴え,MRI検査で右肘内側側副靱帯の損傷が判明し,トミー・ジョン手術を受けることになり,1年を棒にふった。
 そして5年目となるこの年2016年は5月28日のパイレーツ戦でMLB復帰登板を果たし,レギュラーシーズン17試合に先発登板,7勝5敗を記録した。

 ダルビッシュ投手のすごいのは球種が多いということにとどまらず,ストレートのスピン量が1分あたり2529.1回転と,バーランダー(Justin Brooks Verlander)投手,シャーザー(Maxwell M. Scherzer)投手に次ぐナンバー3ということである。彼の投げるボールは「プッシュファストボール」と名づけられているが,この長身から繰り出す回転数の多いストレートと変幻自在の変化球など,見ていてこれほど楽しい投手はほかにはいないのである。

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●先発はダルビッシュ!!!●
 2015年にシアトルでメジャーリーグベースボールのゲームを見たとき,シアトル・マリナーズの対戦相手はテキサス・レンジャーズだった。私はマリナーズの岩隈投手とレンジャーズのダルビッシュ投手の投げ合いを期待したが,そううまい話はなく,この年のダルビッシュ投手は故障者リスト入りであった。しかし,幸いにもマリナーズの先発は岩隈投手であった。
 その翌年の2016年6月,つまり,このわずか2か月前,私は再びシアトルでマリナーズのゲームを見た。シアトルを出発してグレイシャー国立公園まで往復した折に,単に帰りのシアトルで時間ができたから見にいっただけのことであったが,その日の先発もまた岩隈投手であった。
 こんな強運がそう続くとも思えず,私は恐ろしくなった。

 これまでにもこんな幸運が幾度となく起きたという経緯に加えて,この旅でマーリンズのゲームを見にいったときに,これもまた偶然イチロー選手の2,998本目のヒットを目の前で見て,さらに翌日のゲームでは「あわや3,000本」というゲームを見ることになって,私は本当に怖くなっていた。
 それを見るためにおっかけているのならともかくも,単なる偶然がこれほど重なるとは…。だから3,000本目のヒットが出なかったことにむしろホッとしたのだった。
 そうそう,私は青木宣親選手をある意味おっかけているのだが,彼は私を避けるかのように,見にいくたびに故障していたりマイナーに降格していたりして,いままでその姿を見たことがない。これもまた,あり得ない!偶然が重なっているといえなくもない。
 上原浩司投手も一度は見たいと思っているが,ボストンに行けば雨で中止だし,私が見にいくゲームの対戦相手がボストン・レッドソックスであったことがなく,その夢も未だかなえられていない。
 不思議なものである。
 果たして,今年,シカゴ・カブスに移籍したから私の運も変わるであろうか?

 さて,今日のゲームの対戦相手がテキサス・レンジャーズであるとは知っていたが,ダルビッシュ投手が先発するとは全く期待せず,せめて姿くらい見らればいいなあ,と思っていただけであった。
 ゲームの開始前の練習で,私はレンジャーズの選手たちの姿をグランドで追っていてダルビッシュ投手をさがしていたのだが確認できず,かなりがっがりした。しかし,私のいた場所から最も遠いライト側スタンド前のブルペンで先発に備えて投球練習をしているのは,なんとダルビッシュ投手ではないか!!!
 私は大急ぎでコンコースを走りに走り,ブルペンまで急いだ。そこでは,先ほどの「TeamHOSHIO」の少年たちがダルビッシュの投球練習を食い入るように見つめていたが,それ以上に熱い視線を送っていたのが,彼らの付き添いの母親たちであった。
 とにかく,めちゃめちゃかっこいいのである。男の私でも惚れてしまった。

 やがて,ダルビッシュ投手は投球練習を終えて,メンバーたちとハイタッチをして私の目の前を通りブルペンからグランドに向かっていった。
 国歌斉唱がはじまって,例のごとく「O's」の大合唱があって,いよいよプレイボールである。

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 安芸を過ぎ,さらに国道55号線を走っていくと,しだいに交通量もほとんどなくなって,もちろん「軽トラ」もいなくなり,やっと私の思い描いていた美しい海岸線を快適に走れることになりました。今や日本にはこうした景勝地はほとんど残っていません。やっと,ここまで走ってきてよかったと思ったことでした。
 やがて,室戸岬の手前にある小さな町・室戸市を越えると一段と交通量が減って岬の先端に近づきました。そうするうちに右手に駐車場がありました。そこが室戸岬でした。私は広い駐車場や売店などがあると思っていたので驚きました。

 室戸岬は1928年に国の名勝および室戸阿南海岸国定公園に指定された高知県を代表する観光地で,安芸山地が太平洋に落ち込む南端が太平洋に大きく突き出しています。ここは泥岩・砂岩・斑れい岩によって海岸段丘や岩礁,奇岩が形成されていて,高台には室戸岬灯台が立っています。
 黒潮の流れる沖合いは台風銀座でもあり,室戸岬は強風で知られています。この地名が出てくるのはいつも台風シーズンで,そのために知名度は抜群なのですが交通の不便さもあって俗化されておらず,岬にはバス停付近に民宿が1軒あるだけでした。しかし,混雑や騒音には無縁なので,今でも雄大な風景を味わうには絶好の場所となっているわけです。夜になると満天の星空が見られるのですが,写真を撮るには灯台の光が邪魔をするのだそうです。

 桂浜の坂本龍馬像と並んで,ここに中岡慎太郎像があるということは知っていました。 
 中岡慎太郎は,土佐国安芸郡北川郷柏木村(現在の高知県安芸郡北川村柏木)に大庄屋の長男として生まれ,武市半平太が結成した土佐勤皇党に加盟して志士活動を展開し始め,京都での八月十八日の政変後に土佐藩を脱藩し長州藩に亡命,脱藩以後は長州藩内で同じ境遇の脱藩志士たちのまとめ役となりました。
 薩摩と長州の志士たちの間を飛び回り,亀山社中(後の海援隊)を結成した坂本龍馬や三条の随臣・土方久元を説き伏せて薩長の和解および薩長同盟を結実させたといわれています。
 京都四条の近江屋に坂本龍馬を訪ねたときに何者かに襲撃されました。龍馬は即死ないし翌日未明に息絶えたのですが,慎太郎は2日間生き延びて暗殺犯の襲撃の様子について谷干城などに詳細に語ったといいます。享年30歳でした。
 墓所は京都市東山区の京都霊山護国神社に坂本龍馬とともにあります。
 
 室戸岬に立つ銅像は本山白雲の製作。桂浜にある坂本龍馬像が向かう先と同じ方向を見ているのだと私は聞いたとこがありますが,実際は両者の像の向かう方向は全く関係がないそうです。

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 3月になりました。暖かくなるのはよいのですが,これからは春霞に黄砂,さらにはPM2.5など,星がますます見にくくなる嫌いな季節です。
 前回2月21日は3つ周期彗星を写したのですが,そのうちのひとつエンケ彗星(2P Encke)はすでに太陽に接近して見えなくなってしまいました。一方,本田・ムルコス・パイドゥシャーコヴァー彗星(45P Honda-Mrkos-Pajdušáková)とタットル・ジャコビニ・クレサック彗星(41P Tuttle-Giacobini-Kresak)はしし座にあって太陽から遠くほぼ一晩じゅう見ることができます。
 また,4月に地球に接近して6等星まで明るくなるといわれている新顔のジョンソン彗星(2015V2 Johnson)がヘルクレス座にあって午後10時には北東の空に昇ってくるようになりました。
 そこで,月が明るくなってきたこともあり,これからしばらくは彗星を写すのが困難になるので,3月3日の夕食後,星見に行くことにしました。

 昨年の秋に,10等星よりも明るい彗星がひとつも見られなくなって,「この秋は見るものがない。」と書いたのですが,冬になったら続々と有名な周期彗星が地球に接近するようになりました。それほど明るくもないので興味のない人には何の感動もないでしょうが,私には50年来の,名前だけを知っていた人にはじめて会ったようなときめきを覚えました。
 この日の晩はとてもきれいな星空で,特に北から東にかけては地平線まで星が輝き,すでに,アークトゥルスやスピカといった春の1等星が見えていました。そして,天頂を見上げると,時々,流れ星が見えました。
 そして写した今日の写真は,1番目が9等星のこれから地球に近づきつつあるタットル・ジャコビニ・クレサック彗星,2番目が地球から去っていく11等星の本田・ムルコス・パイドゥシャーコヴァー彗星,そして3番目が9等星のジョンソン彗星です。
 いずれもかわいい尾が伸びていて,それぞれ小さいながらも写真写りのよい姿をしていました。

 ジョンソン彗星ははじめて太陽に接近する新彗星です。私は,この彗星には個人の名前がついているので,ひさびさに天文台の大規模天体サーベイで発見された以外の彗星かと思ったのですが,残念ながら,この彗星もカタリナ・スカイサーベイで発見されたものでした。このカタリナ・スカイサーベイで発見された彗星にはカタリナという名のついたものと発見者個人の名前のついたものの両方があります。

 この彗星の発見を知らせた速報は次のようなものです。
 ・・・・・・
 ジェス・A・ジョンソン(Jess A. Johnson)の通報によると,(2015年)、11月3.5日UT,カタリナ・スカイサーベイの68センチシュミット望遠鏡で得たCCD画像から彗星を発見した。この天体はおよそ10秒~15秒のこぢんまりとしたコマと尾らしいものがあった。
 ・・・・・・

 以前書いたことがありますが,カタリナ・スカイサーベイ(Catalina Sky Survey) はアリゾナ大学の月惑星研究所(LPL) が組織的に行っている全天サーベイで,リニア(LINEAR)やニート(NEAT)と同様に地球近傍天体(NEO) の捜索を主な目的としています。カタリナ・スカイサーベイでは口径69センチ,f1.9のシュミット望遠鏡とCCDイメージセンサを用いてかなり低空まで捜索しているのが特徴です。

 私は,3月下旬,昨年と同様にハワイに出かけます。今年はマウイ島です。また,6月には冬のオーストラリア・ブリスベンに星を見に行きます。そのときに使用する予定の機材とカメラの操作を確認することも兼ねて,彗星を写したあとで,沈みゆくオリオン座を望遠レンズで写しました。
 わずか5分ほどの露出で,しかも空がそれほど暗くない場所なので期待していなかったのですが,HⅡ領域がきれいに写りました。これだけ写るのなら,今後さらに工夫をして,日本では見ることのできない南十字星のあたりの銀河や日本より高度の高いオリオン座のあたりの散光星雲を写すことができればいいなあ,と楽しみにしています。

◇◇◇
冬の僥倖①-本田・ムルコス・パイドゥシャーコヴァー彗星
冬の僥倖②-オールトの雲から来たネオワイズ彗星
冬の僥倖③-雲と月と金星と彗星と流星と
冬の僥倖④-星が消える! アルデバラン食を見た。
冬の僥倖⑤-本田・ムルコス・パイドゥシャーコヴァー再会
冬の僥倖⑥-エンケ彗星を「とりあえず」写した。
冬の僥倖⑦-2月は3つの周期彗星のそろい踏み

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●「TeamHOSHINO」と保護者たち●
 ボルチモア・オリオールズ(Baltimore Orioles)はメジャーリーグベースボール(MLB)アメリカンリーグ東地区所属のプロ野球チームである。名前の由来のボルチモアムクドリモドキはムクドリモドキ科の鳥でメリーランド州の州鳥である。チームのニックネームは「O's」または「Birds」という略称で呼ばれる。
 このチームで活躍した最も有名なプレーヤーのひとりはカルヴィン・エドウィン・リプケン・ジュニア選手(Calvin Edwin Ripken Jr.)であろう。メリーランド州ハーヴァー・デ・グレイス(Havre de Grace)出身の内野手で,歴代1位となる2,632試合連続出場を記録した。日本では2,215試合連続出場を果たした「鉄人・衣笠祥雄=和製カル・リプケン・ジュニア」選手が有名であるが,本場アメリカの鉄人こそこのカル・リプケン・ジュニア選手である。彼は現役時代の全てをボルチモア・オリオールズで過ごした現代では数少ないフランチャイズ・プレイヤーであった。

 引退後,彼は「カル・リプケン少年野球世界大会」を主宰しているが,この大会の日本代表が「TeamHOSHINO」である。
 リプケン選手の生まれたメリーランド州アバディーン(Aberdeen)には東京ドームの5倍近い約23万平方メートルの「リプケン・エクスペリエンス」と呼ばれるオリオールズのホームグラウンドであるオリオールパークをはじめとし,ボストン・レッドソックス,シカゴ・カブス,ニューヨーク・ヤンキーのボールパークを模した7面のグラウンドがある。この「リプケン・エクスペリエンス」で12歳以下の少年を対象にして毎年8月に米国10チームと海外6か国が参加し「カル・リプケン少年野球世界大会」が開催される。
 星野仙一さんが支援をする「TeamHOSHINO」の愛称で知られる日本チームがこの「カル・リプケン少年野球世界大会」に出場して「ワールドチャンピオン」に輝いているのだ。「TeamHOSHINO」では,日本の野球少年がアメリカの野球少年との野球というスポーツを通じての交流と共にホームステイをしながら文化を学ぶという活動をしている。彼らのなかからプロ野球選手も出ているということだ。
 実はこの日,この少年たちが,大会出場のご褒美ということで,このゲームを見に来ていた。少年たちとともに多くの保護者もいて,私はそのひとりに間違えられた。なにせ,日本人といえば彼らくらいしかいなかった。

 この日の対戦相手はテキサス・レンジャーズであった。レンジャーズといえばダルビッシュ投手である。
 昨年,シアトルでベースボールを見たときもシアトル・マリナーズの対戦相手はテキサス・レンジャーズだった。このとき,私は岩隈投手とダルビッシュ投手の投げ合いを密かに期待したが,なんと,マリナーズの先発は本当に岩隈投手だった。しかし,残念ながらダルビッシュ投手は故障者リストに入っていたからその姿すら見ることができなかった。
 2016年の途中で復帰したダルビッシュ投手だが,このゲームに先発することは全く期待していなかった。そこまで物事がうまくいくはずがない。私はせめてゲームの開始前の練習で姿くらい見てみたいものだと,3塁側のスタンドでグランドの投手陣のいる場所を探していたのだが,一向に見つからずがっかりしていた。
 と,遠くライト側スタンド前にあるブルペンを眺めると,そこで投球練習をしていたのが!!!

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 桂浜を後に,私は国道55号線まで戻って,室戸岬まで海岸線を走ることにしました。
 ここでも私はひとつ目的があったのです。それは「芸西村」です。
 昨日歩いた高知市で私は池谷・関彗星を発見した関勉さんのことを書きましたが,関勉さんの著書「夜空を翔ける虹」のなかから芸西村のことが書かれた部分を少し紹介してみましょう。
 ・・・・・・
 高知の空が汚くなって星が見られなくなった……。
 今年(1973年)にはいってからいよいよ空は悪くなった。
 解決はただひとつ,いさぎよく現在の生活を捨てて,都会を脱出する以外に道はなかった。
 冬暖かく,風光の明るい芸西村は,私は好きである。この芸西村からはるばると,幾人かの女性が私のところへギターを習いに来た。芸西村は全国的にも有名なビニールハウスによる農作物の産地である。昼間,このハウスを手伝い,夜はギターを習いに来ていた一門下生が,天体観測場所として適地があることを教えてくれたのである。
 ・・・・・・
 こうして,関勉さんは高知市の家から車で40キロの道をひとりで走ってきて,土地を開墾して,今日の1番目の写真のささやかな観測小屋を建て,そこに20センチほどの望遠鏡を設置して観測を始めたのでした。
 その後,望遠鏡は口径40センチとなり,同じ敷地に「芸西天文学習館」が作られ,銀色に輝くドームと口径60センチの望遠鏡が五藤光学から寄付されました。
 私は,この場所にも行ってみたかったというわけです。

 その著書は次のように結ばれています。
 ・・・・・・ 
 美しい朝やけとともに,やがてのぼってきた太陽は,土佐湾の海面を照らし,金波銀波のさざなみは,あたかも無限の可能性を物語るかのように,海一面に光輝いているのである。
 私の心は,このすがすがしい山の夜明けととともに,未知の星を求めて,大きくふくらむのであった。
 ・・・・・・
 私は,こうして,一度は訪れたかった芸西村まで走りました。
 私が想像していたよりは芸西村はずっと開けてしまっていて,今もまだ夜になると満天の星空を見ることができるのかどうかはわかりません。日本に満天の星空がみられる場所なんて,今やどこにもないからです。
 それでも,今から50年近く前に,星空を愛するひとりの男の人が情熱をもって,この地に観測小屋を自分の力で立てて,それがいまはドームが作られるほど発展したことが,なにか,とても素晴らしいことに思えました。

 私は芸西村を過ぎ,さらに室戸岬に向かって車を走らせました。
 高知市から芸西村までの国道55号線は片側1車線,ここもまた,例のごとく「軽トラ」が列を作り,交差点に信号があれば,そこで自然渋滞が起こり,動きませんでした。
 海岸沿いの雰囲気はどことなくニュージーランドのクライストチャーチにむかう海岸線と似ているのですが,この車の多さは,私がのどかな海岸を走るという夢を奪いました。
 それでも芸西村を過ぎたあたりからは車も少なくなって,やがて,安芸市まで来ました。

 ここは阪神タイガースの春季キャンプ地として有名な場所だということを思い出しました。私は日本の野球には興味がなく,まして,アリゾナやフロリダのメジャーリーグのキャンプ地を知っているから,日本のプロ野球のキャンプ地など訪れる気もなかったのですが,実際に見てみると,私が思っていたよりは設備が整っていることに驚きました。
 あいにくこの日はキャンプも休日でしたが,そのおかげでファンもいなかったので渋滞することもなく逆に私は助かりました。それとともに,近いうちにアリゾナ州に行くときは,こんどこそ,メジャーリーグのキャンプ地巡りをしようと,またまた行きたいところが増えてしまったことでした。

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 四国への旅も2日目となりました。
 昨日は室戸岬を経由して高知まで来る予定だったのに,淡路島で思わぬ時間がかかリ室戸岬に寄らずそのまま高知市まで来てしまったので,今日,室戸岬に向かうことになりました。しかし,それでは足摺岬とは逆方向なので,四国一周はまたの機会にしてそのまま室戸岬を経由して帰ることにしました。

 その代り,天気も回復したので,桂浜へ日の出を見にいくとにしました。この時期,日の出は6時40分過ぎなので,6時にホテルをチェックアウトして桂浜まで走っていきました。
 20分くらいで到着。車を停めることができるのかわからなかったのですが,着いてみると,広い有料駐車場は門も開いていて,係員もおらず,無料で停めることができました。
 そのまま歩いて桂浜まで行きましたが,暗くて,坂本龍馬像がどこにあるのかよくわかりません。なんとか見つけて行ってみたのですが,あたりは木々に囲われてしまっていて,海岸が望めません。私は龍馬像の向こうに日の出が見られたらいいのになあと期待したのですが,それはかなえられませんでした。

 海岸でしばらく待っていると,やがて東の空が次第に明るくなってきました。私が最も好きな瞬間です。
 残念ながらここは海からは太陽が昇りません。海から太陽が昇るのが見たければ室戸岬まで行かなければなりません。しかし,龍馬像の近くで日の出を見るなんて素敵ではないですか。
 来たときは観光客もまったくいなかったのですが,次第にちらほらと人の姿が見られるようになってきました。
 やがて太陽が昇ってきました。
 日の出を見終えて,龍馬像に行きました。龍馬さんの頭の上に鳥がとまっていたのが,ほほえましく思えました。
 なお,この坂本龍馬像は,高知県の青年有志が募金活動を行い,当時の金額にして2万5千円を集め,昭和3年に作られたものだそうです。和服姿に懐手,ブーツ姿の龍馬の像は高さ5.3メートル,台座を含めた総高は13.5メートルで,おそらく写真でしか見たことのない人がはじめて実物をみたらすごく大きく感じることでしょう。
 龍馬さんの誕生日でありかつ命日である11月15日をはさんだ2か月間は像の横に展望台を設置し,龍馬さんと同じ目線で太平洋を眺めることができるということですが,私は,そんなものはない今のほうが好きです。

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●カムデンヤーズこそナンバーワンだ●
 いよいよ開場の時間になった。列に並んでセキュリティを過ぎゲートをくぐった。なかに入った瞬間,本当にここのボールパークは素晴らしいと思った。
 アメリカのボールパークの素晴らしさは単に建物ではなく,周りの風景だとか,様々なイベントだとか,そういったものすべてにある。私はいつもボールパークに来ると,まずボールパークの外周を歩くことにしている。ボールパークの入口はたくさんあって,特別な人だけの専用ゲート以外は自分の座席がどこであろうとそこから入ることができる。
 この「カムデンヤード」はそうした他のボールパークとも違って,まさに遊園地の入口で,ゲートは建物の入口でなくて,ゲートのなかが公園の広い通路になっていた。そして,左手にかの有名な倉庫街があった。

 これを書きながら改めて写してきた写真を見直しても,再び行ってみたくなるし,このボールパークこそナンバーワンだということを実感するのである。
 ボールパークの敷地にはギフトショップやらファーストフード店やらが所狭しと並んでいたし,子供を対象とした遊園地もあった。このボールパークがさらに素晴らしいのは敷地が広いということで,ずいぶんとゆったりしている。
 日本からこのカムデンヤーズを見にいきたいのなら,一番の方法はデーゲームを選んでフィラデルフィアやワシントンDCなどから鉄道で行くことであろう。もしナイトゲームしかないのなら,私が宿泊したホテルを予約するのが最適であろう。
 ただし,ここは屋根がないから雨天中止という可能性があり得るので,絶対に見たいと思えば予備日も考慮にいれる必要がある。そういう意味では,開閉式の屋根のあるボールパークの方が日本からの旅行者にはうれしい。

 建物に入ると,ここにもまた,広いコンコースが一周していて,その通路もかなり広いものであった。
 通路から外を眺めると,フットボール(NFL)アメリカン・フットボール・カンファレンス(AFC)のボルチモア・レイブンズ(Baltimore Ravens)のホームグランド「M&Tバンク・スタジアム」(M&T Bank Stadium)を遠くに見ることができた。
 レイブンズという愛称の由来はボルチモアにゆかりのある作家エドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe)が1845年に発表した物語詩「ザ・レイヴン(大鴉=おおがらす)」である。
 「M&Tバンク・スタジアム」は1998年の建造で70,008人が収容できる。1998年の開場時の名前はここもまた「レイブンズ・スタジアム・アット・カムデン・ヤーズ」(Ravens Stadium at Camden Yards)だった。1999年PSIネットが命名権を20年1億500万ドルで取得し「PSIネット・スタジアム」(PSINet Stadium)へ変更されたが,PSIネットが2002年に倒産したためにスタジアム名は一旦以前のものに戻された。その後Maryland Stadium Authorityとレイブンズは新たなネーミング・スポンサーを募集し,2003年に15年7500万ドルの契約でM&Tバンクが新たなスポンサーに決定し,現在の名前となったものだ。

DSC_1075DSC_1074DSC_1078DSC_1080●カムデンヤーズは国歌で雄たけびをあげる。●
 そうこうするうちに開場の時間が近づいたので,怪しげなスターバックスを出て再びボールパークにもどった。
 今日は憧れだった「カムデンヤーズ」について詳しく紹介しておくことにする。

 このボールパークの正式名称は「オリオール・パーク・アット・カムデン・ヤーズ」(Oriole Park at Camden Yards)という。メジャーリーグベースボール(MLB)アメリカンリーグに所属するボルチモア・オリオールズのホームグランドである。
 かつてニューヨークのブルックリンにあったブルックリン・ドジャーズのホームグランド「エベッツ・フィールド」(Ebbets Field)をモデルにしたこのボールパークは,レンガと鉄骨を組み合わせた外観や左右非対称のフィールドなどといった新古典主義を初めて取り入れたボールパークとして今も人気を博している。このボールパークは21世紀の「フィールド・オブ・ドリームス」ともいわれ,その後に作られたボールパークに大きな影響を与えた。

 ボールパークの名前は次のようにして決められた。
 オリオールズのホームグランドであることから「オリオール・パーク」,ボルチモアで生まれたベーブ・ルースにちなんだ「ベーブ・ルース・スタジアム」,建設地に以前あった操車場の名前からとった「カムデン・ヤーズ」,前のボールパークと同じ「メモリアル・スタジアム」などの候補から,オーナーのエリ・ジェイコブスは「オリオール・パーク」を,メリーランド州知事のウィリアム・ドナルド・シェーファーは「カムデン・ヤーズ」をそれぞれ推し,結果的に妥協するかたちで両案を組み合わせることになったというわけだ。
 おかげで非常に長ったらしく覚えにくいが,しかし,1度覚えると得した気になる名前である。

 このボールパークは右中間までが比較的遠く,しかも高さ25フィート(約7.6メートル)のフェンスがあるので左打者には本塁打が出にくい。また,夏場には風の影響で打球がレフト方向へ飛びやすくなるので右打者に有利である。
 なんといっても最大の魅力は外野右翼席後方にレンガ造りの倉庫で,この景観がすばらしいのだ。19世紀の終わりに建てられたこの倉庫はその名を「Baltimore & Ohio Warehouse」といい,アメリカ東海岸で最長となる1,016フィート(約310メートル)の長さを誇っている。
 球場からは独立した建物であるが,スタンドにいるとくっついているように見え,屋根の上には照明灯さえ設置されている。この建物の内部には球団事務所のほか,カフェテリア,スポーツバー,ギフトショップなどが入居している。
 このように,1992年にオープンしたこのカムデンヤーズは,当時のオリオールズ副社長ジョー・フォスが「街とチームの歴史や伝統を生かしつつ,今のファンが見たこともないようなボールパークを作りたかった」 と語った通りの斬新な球場となった。ここに行かずして,メジャーリーグファンは語れないのである。

 私は,この憧れのボールパークについに来ることができた。
 まだゲームの開始には時間があるが,忘れないうちに,このボールパークではゲームの開始前の国歌斉唱で歌われる歌詞が少し違うので,そのことを書いて今日は終わりにしよう。それは… 国歌の歌詞にある「Oh」がここでは「O's」となるのだ。「O's」とは言わずと知れたオリオールズのことである。私はこのことを以前に聞いたことがあったのだがそのことをすっかり忘れていた。このボールパークで実際に歌を聞いていてそれを思い出した。そして、感動した。
 こういうこと知らないで見に行くと,せっかくの感動をひとつ見逃すことになる。だからこそ旅はおもしろい。

◇◇◇
愛しきアメリカ-アメリカのボールパーク⑥


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●スタバでは写真を撮る勇気すらなく●
 ベーブ・ルース博物館を見終えて,私は歩いてボールパークに戻ることにした。

 今日の1枚目の写真は,ベーブルース博物館のあたりをふらついていた浮浪者である。彼は,車が信号で停車をすると車の前に現れてドライバーに金をせびるのである。
 30年も前なら,こういう浮浪者はアメリカの大都市の至るところに見られたが,私はこのところお目にかかったことがなかった。昨年サンフランシスコへ行ったときに,ダウンタウンの治安が悪い場所として知られるテンダーロイン地区でそのころのことを思い出すよなうな光景に出会って,アメリカには今もこういう場所が残っているのかと驚いたが,この街はさらにもっとひどかった。

 ベーブ・ルース博物館を出てボールパークに向かう途中にあった銅像が2枚目の写真である。この銅像のプレイヤー・背番号5はブルックス・ロビンソンである。
 ブルックス・ロビンソン(Brooks Calbert Robinson Jr.)は1937年生まれ。ボルチモア・オリオールズでプレイした三塁手である。
 1955年に高校卒業と同時にボルチモア・オリオールズに入団しメジャーデビューした。以来オリオールズ一筋に23年間プレーし,1966年にシンシナティ・レッズから移籍してきたフランク・ロビンソンと共に「ロビンソン・コンビ」として大活躍した。
 フランク・ロビンソン(Frank Robinson)は移籍してきた1年目に三冠王に輝いたが,ブルックス・ロビンソンも23本塁打100打点という活躍をしてチームはリーグ優勝した。ワールドシリーズでもロサンゼルス・ドジャースを4連勝で破り初の世界一に輝いた。また,1970年のワールドシリーズでは攻守にわたる活躍でシンシナチ・レッズを破って2度目の世界一に輝きシリーズMVPに選出された。
 三塁手としてその守備が高く評価されたので「人間掃除機」(The Human Vacuum Cleaner)と呼ばれたプレイヤーである。日本でも読売ジャイアンツの長嶋茂雄選手がロビンソンのフィールディングを手本にしていたといわれる。

 こうしてボールパークまで戻ってきたがまだ少し開場まで時間があったので,どこかで休憩しようと,ホテル近くのダウンタウンまでさらに戻ったが,スターバックスがあったので,私はなかに入った。ところが,このスターバックス,怪しげな黒人たちのたまり場だったのだ。
 少しだけ存在したテーブルとイスは,日本のようなクッションのあるものでは当然のごとくあらず -なにせそんなものを置けばすぐに壊されてしまうのであろう- 私は,出るに出られなくなって仕方なくコーヒーを注文して,その固いイスに腰かけて周りを警戒しながらコービーを飲んだ。
 こういう場所で少しでも気を許せば財布などあっという間になくなってしまうだろう。
 店内の写真を写す勇気はさすがになかった。

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 夜8時に高知市に到着して夕食をとるために街に出ました。ホテルのあった場所は「はりまや橋」から歩いて10分くらいの便利なところだったので,そのまま歩いて市内観光ができそうでした。
 高知市といえば,高知城とはりまや橋と桂浜です。そして,最も有名なのは龍馬さんですが,私にはもうひとつ目的がありました。
 ともかくまずは「はりまや橋」。
 「3大がっかり」のひとつとして有名だそうですが,これほどの名所をがっかりといってしまえば,日本の名所なんてどこもがっかりだらけです。これもいつも書いているように,日本の観光地はその場所にまつわる文学やら音楽やら短歌やら歴史やらを知らねば,どこもそのよさのほとんどはわかりません。
 私は「はりまや橋」を見て,ペギー葉山の歌声が心のなかに響けばそれで十分でした。

 わたしの「もうひとつの目的」というのは,ここ高知市は,1965年に発見された有名な「池谷・関彗星」(1965S1)の発見者のひとりである関勉さんがこの彗星を発見した場所であって,その発見した場所を見てみたいということだったのです。
 私がこのごろ旅をしている世界中の場所の多くは,子供のころに読んだ「月刊天文ガイド」などに載っていた記事で知った場所で,そのころから一度は行ってみたいなあと思い続けていたことが動機になっているようです。そのために本田實さんの住んでいた倉敷にも行きましたし,近いうちにアメリカのパロマ天文台にも行ってみたいと思っています。ここ高知市もそうしたところのひとつで,私には関勉さんが彗星を発見していた町なのです。
 私は一度倉敷の大原美術館で偶然関勉さんにお会いしたことがあります。

 昔は今と違って個人情報が公になっていたので,地名が変更になっていれば別ですが,私は関勉さんの家の住所を知っています,というか覚えています。そこでその場所まで行ってみることにしました。
 目的はお宅をお尋ねするということではなくて,今から50年以上のことですが彗星を発見したのがどういう場所であったかということを知りたかったというだけのことです。
 「はりまや橋」を越えてさらに西に進み高知城を越えました。天守閣は小高い山の上にあってライトアップされ明るく輝いていました。
 以前行った熊本もそうですが,ここ高知もまた,戦国時代に尾張地方出身の大名が江戸時代になって論功行賞で手に入れた知行地です。高知に領地をもらって落下傘大名としてこの地に降り立ったのが山内一豊ですが,山内家は幕末まで取り潰しにもならず続きました。
 熊本に降り立ったのが加藤清正ですが,加藤家はすぐに取り潰しになってその後釜に細川家が続きました。加藤清正が「清正公さん」といって熊本では今でも非常に慕われているのとは違って細川家は人気がありません。
 一方高知では山内一豊はずいぶんと悪政をしました。それが幕末「薩長土肥」の原動力となった間接的な原因だと思うのですが,これもまた能力のない人物が人の上に立つとどうなるかというよい手本だと思います。
 そもそも,人の上に立つ器量でもない人がなんらかの間違いで人の上に立つとロクなことはありません。それでもバカ殿を演じるならまだしも,なまじっかプライドでもあれば自分の弱点を見せないためにやたらと威張りちらし部下をいじめるということになります。そんな輩は私の身近にも五万といました。それは要するに自分に余裕がないからです。

 やがて,高知城のふもとに広がる官庁街を過ぎるとここが県庁所在地だとは思えないほど,ずいぶんと暗い住宅地になりました。私には市街地が夜になれば今でもこんなに暗いことに驚いたのですが,それでも満足な星空が望めるほどではありません。しかし,今から50年も前には満天の星空が広がり,彗星の発見さえできたのです。
 そんなことを考えながらたどりついた場所にあったビルの一角に古い街路地図がありました。この地図にしっかりと「関ギター教室」の表示がありました。この場所こそ,「池谷・関彗星」が発見された場所なのです。

 この静かな住宅地には,龍馬さんの遺構もずいぶんとありました。
 私が以前日本史が大好きだったころ,ずいぶんと龍馬さんには傾倒しました。実際は無名の坂本龍馬が世に出たのは司馬遼太郎さんの功績によるもので,今我々が知る龍馬の姿は物語上の虚像ですが,死して100年以上経ってこんなことになってしまってさぞかし本人は天国でびっくりしていることでしょう。
 その後,私は「土佐の國・二十四万石」というお店で夕食をとりました。高知といえばやはり「かつお」でしょう。ということで,この日の夕食はおいしいカツオをいただくことにしました。
 旅というのは,こうしたたわいもないことが最も思い出に残るものです。これもまた,虚像です。

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 昨年の夏に長年ずっと行きたかった阿波踊りに行くことができて以来1年も経たないのに,これで3回目となった徳島までやって来ました。ここはすでに勝手知ったる道路です。
 もともとの予定はこのまま四国の東側の海岸線に沿って走って室戸岬まで行き,そこから高知市に行く予定でした。そして,明日以降の予定は未定で,そのまま足摺岬を通り,四国一周? とも思っていました。
 四国はハワイ島の2倍ほどの大きさなので大した広さでもないと思っていたのですが,なにせ,車と人がハワイの比ではなく,その感覚的な広さは想像を越たのです。

 徳島に着いたときにカーナビで調べてみると,このまま予定どおり進むと,室戸岬に到着するのがなんと午後8時! というではありませんか。そんな夜遅くに室戸岬に行ってみても何も見えません。海岸線だって暗いだけです。実は,室戸岬で満天の星空を見たいものだ,という密かな期待もあったのですが,天気も今ひとつで星も見られそうにありません。
 そんなわけで予定を変更して,そのまま最短距離で高知市まで行くことにしました。とはいえ四国は山ばかりなので,一般道を走れば,最短距離はいえ吉野川にそって延々と西に進み,阿波池田から南下するしか仕方がないのです。

 私は今から35年ほど前に竜馬像見たさに一度だけ高知市に行ったことがあります。
 当時は本州から四国に渡る橋もなく連絡船に乗って「四国V字」というコース,つまり,高松,高知,松山と観光をするのが定番でした。そのときに,大歩危・小歩危,という名を知ったのですが,今でも私はそれがどこにあるのかさえ知りません。調べればわかるのですが興味がなかったのです。今回,走ってみてそれがどこにあるのかもよくわかりました。

 私が日本で地方の片側一車線の一般道を走るのが嫌いな理由のひとつは「軽トラ」の存在なのです。なにせこの「軽トラ」,アメリカでいえば「ピックアップトラック」の存在に変わるものなのでしょうが,ピックアックトラックとは全く異なり,加速は効かないし一旦信号で停車すると動き出すのが遅いし,制限速度まで達するのにいい加減時間がかかるのです。こんな軽トラやら軽自動車やらがつながっているのだから,単に信号待ちだけなのに慢性的な渋滞になるのです。
 しかもお年寄りの運転手が多く,自転車代わりで長距離を走るわけでもないので,時速50キロ制限の道路を40キロくらいでのろのろと進みすぐに左折やら右折をするので,さらに時間がかかって,少しも距離が稼げません。

 四国も狭い島なのでほとんどの道路は片側一車線で,この道路状況はどことなくニュージーランドやらハワイやらと似ているのですが,ニュージーランドやハワイでは,こののろのろ状況はあり得ません。
 人も車も少ないニュージーランドは市外地に出れば片側一車線であっても100キロ制限だし,しかも,追い越し車線が数キロおきに存在します。ハワイ島は主要道路は片側2車線以上あって田舎の片側1車線道路はもっと車が少ないです。
 そのうち,四国山地に差しかかったら,大雨になってきました。そして,日が暮れてあたりは真っ暗になってきました。こんな状況でだらだらと走っていくのでまったく楽しくもなく,これは苦行以外のなにものでもありませんでしたが,どうにか夜の8時過ぎに高知市に到着することができました。
 私は晴れ男なので,あの土砂降りの雨はどこへ行ったのか,車を降りるころにはすっかり上がっていました。
 さっそくホテルでチェックインを済ませました。せっかく来たので夕食ついでに夜の高知市を観光しようと「3大がっかり」で有名な「はりまや橋」に出かけました。

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 海外旅行をするとき私はホテルをExpedia,Booking.com,Hotels.comで探しています。しかし,まれに国内を旅行するときは東横インが便利なので,これらのサイトを利用したことはありません。
 Booking.comはExpediaの子会社ですが,Expediaは予約をするとポイントが増えるのですがBooking.comは10泊すると1泊無料になります。しかし,最後に宿泊してから1年という有効期間があって,私はあと2泊というところで期限になりそうだったので,別にそんなもの無効になってもどうっていうことなかったのですが,せっかくだからこの機会に一度は行ってみたかった四国の室戸岬にでも行ってみようと,高知市の安価なホテルを予約しました。
 ということで,今回もまた,ほとんど思い入れもなく,2月23日になんとなく四国に出かけました。

 これもいつも書いているように,国内旅行は電車に限ります。車は高速道路が異常に高いし走りにくいし渋滞ばかりだし,海外で走ることと比較すればまったく楽しくないからです。今回もずいぶんといろんな行き方を考えたのですが,室戸岬は不便だし,結局,仕方なく車で行くことにしました。
 自宅から高知までは300キロくらいのものだから8時間も走れば着けるかなあといったいい加減な気持ちで朝8時ごろに家を出ました。そしてお昼前には淡路島まで来ました。淡路島は高速道路を一挙に走り抜けてもよかったのですが,前回,淡路島の北側の海岸線の一般道を走ってみてあまりの海岸の汚さにショックを受けたので,今回は南側の海岸線を走ることにしました。

 洲本まではなんということもない海岸線で愛知県の知多半島みたいなところでした。しかし,洲本まで来るとさすがに有名な観光地らしくきれいな町になったので少しだけ淡路島の印象が変わりました。ここで再び高速道路に戻ってもよかったのですが,せっかく来たのでさらに淡路島の海岸線を進むことにしました。
 ところが,その先が凄かった! 急に道路が険しくなり狭くなり山道を進んでいくことになったのですが,そこには信じられない光景が広がっていたのです。
 淡路島は洲本から南側には諭鶴羽山地(ゆづるはさんち)があって,その山の向こうの南の海岸線まで行くには峠を越える必要があります。その峠にあったのが生石山の展望台でした。せっかくだから行ってみようと寄り道をしてみたのですが,それがひどいことに,折れた木が道路をふさぎ動かせません。写真のようなありまさでした。これでは山頂の駐車場にたどりつけませんが,こんな状態なのにも関わらず道路の登り口には何の注意書きもなければ,この状況を復旧する気もなさそうでした。行政はどうなっているのでしょう? 不慣れな人ならここから狭い道路をバックで戻るのは至難の業です。崖から転落しても不思議ではありません。
 ともかくここまで来てしまったので,私はここに車を置いてあとは歩いて展望台まで行ってみました。

 展望台からは岬が眺められ,岬の周囲は海食崖が発達しクロマツや照葉樹が生い茂っていて,北の由良湾に「淡路橋立」と呼ばれる成ヶ島が長い砂州を伸ばしているのが眺められました。すでに梅が咲いていました。
 この生石山のある紀淡海峡は大阪湾防衛の要地とみなされていたために,明治23年(1890年)に旧陸軍により由良要塞が築かれたという案内板がありました。現在も付近には砲台や要塞の遺構が残っていて廃墟となし異様な雰囲気でした。
 車に戻りなんとか数メートルバックさせてギリギリUターンのできる場所を見つけました。ずいぶんと切り返して車の向きを変えました。

 無事に降りてさらに進むと,今度は水仙が見られるという怪しげな公園に出ました。ここは淡路島では灘黒岩水仙郷と並び2大水仙郷なのだそうです。1月から2月にかけて約500万本の水仙が太平洋に面した南向き斜面一面に咲き誇り独特の甘い香りを漂わせるということなのですが,偶然ちょうど旬な時期だったのですね。
 しかし聞くところではここは栽培による植栽がほとんどの観光農園,品種も地中海原産が多くを占める外来種ということなのでここもまたいかがわしさ満載です。
 おまけに,ここには「ハーハー笑うところ」「3倍おもしろい」といったキャッチコピーの看板とともに「UFO神社」「淡路島ナゾのパラダイス(秘宝館)」などの施設が併設されていました。なんでもそれらは,水仙は時期が限られるため通年で客を呼び込む目的で作られたものだそうです。こんな施設,民放の番組の格好のネタですが,私にはまったく興味もなくこんなところに寄っていては高知まで行けないのでパスしました。
 さらに道路を進んでいくと,次にあったのが,なんとモンキーセンターでした。これもパスして進んでいくと道路はついに海岸線に出ました。このあたりから,道路には猿がいっぱいたむろっているし,海からは波しぶきが打ち上げられて海水で水びたしだし,尋常でない状況になってきました。

 このように,真の淡路島を知るならば,この諭鶴羽山地の南のディープな地域に踏み込まなければならないと痛感しました。この後で行った高知市の桂浜にも水族館がありましたが,日本人というのは,どうしてこうした風光明媚で何もしないほうがずっと美しいところを保護するでもなくこうした金儲けのためだけに破壊して場末の施設を作ることにかけては天下一品なのでしょうか?
 私は,今回もまた,ここにも存在したゴミだめのような日本の観光地を見て絶望的な気持ちになりました。
 それにしても淡路島で思った以上に時間がかかり,ようやく鳴門大橋に差しかかった時にはすでに午後4時過ぎ。果たしてこれで今日のうちに高知までたどりつけたのでしょうか?

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●ベーブ・ルースが少年期をおくった家●
 今日は,このベーブ・ルース博物館について書くことにする。
 アメリカのこうした私設博物館は普通の民家であることが多く,通常,家の玄関の扉を開けて中に入ると受付があって,入館料を払うといったシステムになっている。入口とはいえ,小さな看板があるだけだから扉を開ける勇気が必要なのだ。しかし,一旦なかに入ると想像以上に観光客が入っていてびっくりする。
 ここの博物館もまた,小さな家で,私は意を決してなかに入ると,想像通りそこには受付があって入館料をはらってなかに入った。
 この博物館の正式名は「ベーブ・ルースの生誕地と博物館」(Babe Ruth Birthplace and Museum)という。

 通称ベーブ・ルース(Babe Ruth),正式名ジョージ・ハーマン・ルース・ジュニア(George Herman Ruth, Jr.)は1895年にボルチモアで生まれたメジャーリーガーである。
 彼はのちに「野球の神様」といわれ,アメリカ合衆国の国民的なヒーローとなった。
 1936年,最初にアメリカ野球殿堂入りを果たした5人の中の1人である。ちなみにのこる4人は,タイ・カッブ(Ty Cobb=デトロイト・タイガース),ウォルター・ジョンソン(Walter Johnson=ワシントン・セネタース),クリスティ・マシューソン(Christy Mathewson=ューヨーク・ジャイアンツ),ホーナス・ワグナー(Honus Wagner=ピッツバーグ・パイレーツ)である。
 ベーブ・ルースは本塁打50本以上のシーズン記録を初めて達成した選手でもあったし,1927年に記録したシーズン60本塁打は1961年にロジャー・マリスによって破られるまでの34年間にわたってMLBの最多記録であった。また,生涯通算本塁打数714本も1974年にハンク・アーロンに破られるまで39年間MLB最多であった。
 アメリカ国内において数多いプロスポーツの一つに過ぎなくなっていたベースボールを最大の人気スポーツにした事で「アメリカ球界最大の巨人のひとり」と評されている。

 ベーブルースの両親のケイト(Kate)とジョージ・ハーマン・シニア(George Herman Sr.)はドイツ系移民で,カムデン通り沿いで酒場を自営しており,家族はその2階で暮らしていた。
 ケイトはルースを含めて生涯に9人の子供を産んだが成人期を迎えることができたのはルースと5歳年下の妹マミー(Mamie)の2人だけであった。
 ルースは後年,自らの幼年期を振り返って「大変だった」と語っている。母は病弱であり,父は酒場の仕事で忙しく息子の世話に関わっている余裕はほとんどなかった。そのため,両親から適切な教育を受ける機会のなかったルースは大人の手にも余る腕白坊主へと成長し,勉強も完全に疎かになってからは学校をサボっては通りをうろつき町の不良たちと喧嘩に明け暮れ商店の品物を万引きしたり酒を飲んだり煙草を吸ったりするなど,様々な非行に手を染めた悪童であった。
 7歳になったころにはすでに親の手には負えなくなり「セント・メアリー少年工業学校」という全寮制の矯正学校兼孤児院に送られた。ルースはその後の12年間をセント・メアリーで過ごすことになったが,そこで少年たちの教官を務めていたローマ・カトリックの神父ブラザー・マシアス・バウトラー(Brother Matthias Boutlier)と出合い野球を教わったことがルースの人生に決定的な影響をもたらすことになったという。

 この博物館の内部は3階建てで,ベーブルースの住んだ居間や写真,トロフィー,ボール,バットなどがところ狭しと展示してあった。一見たわいもないものだが,ここに展示されたボールひとつでもオークションに出ればすごい値がつくものなのであろう。
 狭い博物館であったので,私は,博物館のなかを何度も行き来し,以前行ったことのあるニューヨーク州のクーパーズタウンの「野球殿堂」(National Baseball Hall of Fame and Museum)同様に,ここゆくまでこの博物館を楽しむことができた。

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●ベーブ・ルースの博物館を知らないか?●
 ホテルを出て,まず「カムデンヤーズ」に向かった。
 ボルチモアという街は,この旅で来るまで私にはアメリカンリーグ東地区オリオールズの美しいボールパークのあるところというイメージしかなかった。ワシントンDCに近いとはいっても,学校で使用されるような地図帳でさがすと一見どこにあるのかどまどうし,港があるといわれても内陸にあるこの都市にどうして港があるのかさえ理解できなかった。
 まして,治安が悪いというようなイメージはなかったから,たとえば,学校で自分の友人のことを別の人があいつは「ワルだよ」といわれたような,そんな戸惑いを覚えたものだった。

 ともあれ,ベーブ・ルース博物館はボールパークの近くにあるということだった,今日のゲームが終わった深夜に無事に歩いてホテルに戻る道順を調べつつ,まずはボールパークを目指し,そのあとでベーブ・ルース博物館まで行ってみようと思った。
 ボールパークはホテルからたった数ブロック歩くだけのところにあるのだが,到着したばかりの私には土地感がなく,恥ずかしいことに道に迷ってしまった。どうやら反対方向に歩いていってしまったたようある。
 途中で気づいて,歩いている人に「ボールパークはどこか?」と聞くことになった。すると「カムデンヤーズか?」と聞き返されたのには感動した。そう,ここオリオールズの本拠地=ボールパークは「オリオールパーク・アット・カムデンヤーズ」(Oriole Park at Camden Yards)というのである。
 要するに,甲子園球場を探して阪神電車の甲子園駅を降りたのに道に迷い,通行人に「野球場はどこですか?」と聞いたら「甲子園のことか?」と聞き返されたような感じだったのである。

 私はそうして,なんとかカムデンヤーズまでやってきた。カムデンヤーズのことは,また後日詳しく書くことになるであろう。
 私が到着したときは,今日のナイトゲームの準備に大勢の職員が忙しそうに動き回っていた。私はそのひとりに,ベーブ・ルース博物館の場所を聞いたのだが,彼は,意外にもベーブ・ルース博物館を知らないと言ったのだ。いや,ひょっとして知っていたが,私の聞き方が悪かったのかもしれない。
 そんなわけで,私は,自分で地図を頼りに広いボールパークの外周を歩いて博物館があるだろうと思われる方向まで行くことになった。それにしても,この街の独特のヤバそうな雰囲気をどう表現すればいいのであろうか?
 
 ボールパークを過ぎたあたりから町の様子が少しずつ変わってきて,一段と治安の悪そうなブロックにさしかかりつつあった。ベーブ・ルース博物館は広い通りには面しておらず,狭い路地を入っていったところにあってわかりにくい。日本とは違って看板などないから,けっこう探すのに手間がかかるし,違う路地裏にでも入ってしまうとえらいことなのだ。
 そうこうするうちに,私は,無事,写真のような小さな博物館に到着した。

DSC_6792sDSC_0583s_aDSC_0597s (2) (1024x677)DSC_0605s2 (3) 早いもので,2月も半ばが過ぎました。一向に暖かくなりませんが,夜空を見上げると,次第に春の星座がみえるようになってきました。
 ちなみに星占いの星座はその星座を見かけ上太陽が通過するときの期間を示しているので,深夜その星座を見ることができる時期とは6か月異なっています。

 今年は冬型の気圧配置といっても,なかなか快晴になりませんし,風が強く寒い晩が多いので,星を見る機会がありません。そして,私の目的としている彗星は夕方の西の空なので,日没が早いこの時期はまた別の意味で大変です。通常の会社勤めをしている人には不可能な時間です。
 2月はすでに満月も過ぎ月の出も次第に遅くなってきたので天気図とにらめっこをしていたのですが,21日は晴れそうだったので,彗星を3つ写真に収めようと西の空の開けた海岸の高台に向かいました。

 まずは,エンケ彗星(2P Encke)です。先日,「とりあえず」写したのですが,それ以降,光度は増せど高度は低くなり,結局同じような姿にしかみえませんでした。やはり,この国の夕方の空の明るさは絶望的です。
 結構明るい彗星であっても夕方の西の空でしか見ることのできないものはネット上でもあまり写真がありません。詳しい人にどうしてか聞いてみると,夕方の西の空の星が見える場所がこの国にはなかなかない,という話でした。であれば,多少明るくてもまだ私は恵まれているほうかもしれません。
 エンケ彗星は金星に近いので探しやすいのですが,この日は戸惑いました。数日前とはずいぶんと位置が違うのです。そして,最大光度を迎えた金星がやたらと明るいのですが,彗星は淡く,見つけるのに焦りました。戸惑っていると沈んでしまいます。
 もっと明るい姿を期待したのですが,がっかりしました。

 さて,その次は「タットル・ジャコビニ・クレサック彗星」(41P Tuttle-Giacobini-Kresak) でした。
 1858年にホレース・タットル,1907年と1951年にミシェル・ジャコビニ とルボール・クレサークがそれぞれ発見した周期5.4年の彗星です。この周期彗星もまた,私は50年も前から名前だけは知っていたのですが暗いものだと思い込んでいたので,ここで見ることができるのに感激しました。
 ホレース・タットル(Horace Parnell Tuttle)はアメリカ合衆国の天文学者で,多くの彗星の発見者です。ミシェル・ジャコビニ (Michel Giacobini)はフランスの天文学者です。なんといっても有名なのはニース天文台で発見した「ジャコビニ・ツィンナー彗星」(21P Giacobini-Zinner)です。この彗星はジャコビニ流星群の母彗星として有名です。ところで,松任谷由美に「ジャコビニ彗星の日」という歌がありますが,あれは「ジャコビニ流星群」の間違いです。ルボール・クレサーク(L'ubor Kresak)はスロバキアの天文学者で,2つの彗星を発見しました。スングースカ大爆発(Tunguska explosion)がエンケ彗星の欠片によるものだと発表したことでも知られています。
 彗星は現在しし座にあって11等星と暗く,4月にかけて地球に近づき,明るくなってきます。
 ところで,iPadのアプリ「iステラHD」という優れたソフトは天体を探すにはもってこいなのですが,欠点は彗星の位置が大幅に間違っていることがあるという点です。そこで,事前にPC用の「ステラナビゲータ」でしっかり準備してこないと,こんな暗い彗星は見失ってしまいます。現在は彗星がしし座の「獅子の大鎌」とよばれるわかりやすい位置にあったので,無事,しかも系外銀河NGC2903,NGC2905とともに収めることができました。

 そして最後は急速に暗くなりつつある「本田・ムルコス・パイドゥシャーコヴァー彗星」 (45P Honda-Mrkos-Pajdušáková)。現在かみのけ座にあって,早くも午後8時過ぎには東の空に昇ってくるようになりました。かみのけ座の銀河団に近く,彗星と銀河を間違えるほど暗い姿になってしまっていたのですが,淡いとはいえ,尾も見えて,無事に今回の接近の大役を終えた堂々とした姿に感激しました。2か月にわたって見ることができましたがおそらくこれで今回の回帰は見納めです。 
 実はもう少し遅い時間になるとすでに「ジョンソン彗星」(2015V2 Johnson)も写せるのですが,この寒さで長居は禁物,ジョンソン彗星はこれから明るくなるので,また次回のお楽しみとして,この日は,最後にばら星雲を写して帰宅することにしました。この晩はずっとカノーブスが輝いていたので,さぞかし長生きできることだろうと幸せな気分になりました。

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冬の僥倖①-本田・ムルコス・パイドゥシャーコヴァー彗星
冬の僥倖②-オールトの雲から来たネオワイズ彗星
冬の僥倖③-雲と月と金星と彗星と流星と
冬の僥倖④-星が消える! アルデバラン食を見た。
冬の僥倖⑤-本田・ムルコス・パイドゥシャーコヴァー再会
冬の僥倖⑥-エンケ彗星を「とりあえず」写した。

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