しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

アメリカ合衆国50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記。

21P_Giacobini-Zinner_20180917M45 (2)二重星団

 昨年もそうだったのですが,今年も天気が悪い日が多く,しかも,猛暑に台風と,まるで天が怒っているかのような気候が続いています。それでも,昨年は中秋の名月をはじめとして,天気悪くてもなにかイベントのあるときだけは晴れ,という状況だったので救いがあったのですが,今年はその逆で,好条件のペルセウス座流星群も,明け方の西空に沈みゆく皆既月食と火星という待ちに待ったイベントも,ともに天気が悪く,見ることがかないませんでした。
 彗星も,久しぶりに肉眼彗星となったパンスターズ(2017S3 PanSTARRS)は,もっとも好条件のころには月明かりがあり,そしてまた,ジャコビニ・ジンナー彗星(21PGiacobini-Zinner)は最も明るくなった時期はずっと天気が悪く見ることができませんでした。
 ジャコビニ・ジンナー彗星についてはすでに書いたブログをご覧ください。

 晴れそうな日をずっと待ちわびていたのですが,天気予報だとどうにか9月17日の深夜からの数時間晴れということだったので,彗星を写しに行くことにしました。
 現在ふたご座にいるジャコビニ・ジンナー彗星が北東の空に昇ってくるのが午後11時30分ごろだったので,夜の9時過ぎに家を出ることにしていたのですが,午後7時を過ぎても空一面に雲が広がっていて,本当に晴れるのかいな? と思いました。
 ところが天気予報は的中し,次第に雲が切れ,私が観測場所に着いたときは快晴で,天の川を美しく見ることができました。

 月が沈み,北東の空にはすばる(M45)が輝いていました。そこで,彗星が昇るまでの時間,いくつかの星団をを写しながら待ちました。
 やがて午後11時30分を過ぎ,地平線近くにふたご座が昇ってきました。
 予報では6.9等星ということだったので,場所を適当に決めて写真を写すと,尾を引いた明るい彗星を簡単に写すことができました。また,双眼鏡でも見ることができました。
 周期彗星はエッジワース・カイパーベルトと呼ばれる太陽系の領域がその住処で,オールトの雲から一度っきりやってくる新彗星とは素性が違います。このジャコビニ・ジンナー彗もまた,周期彗星らしい尾を引いた落ち着いた風貌の美しい彗星でした。この日は彗星の北側にモンキー星雲とよばれるNGC2174があって,その両方を一枚の写真に収めることができて,私は満足しました。
 この晩は,まだ初秋とはいえ夜も暑かったのですが,夜露で参考にしていた私の星図を収めたファイルが濡れていました。毎年,この時期はそんな感じになります。それにしても,この時期の里山はシカやクマが出没したりと,星を見るのも大変です。この晩は時折サルの鳴き声が聞こえ,何匹かのサルが周りで追いかけっこをしていました。
 
☆ミミミ
やっと晴れたか?夏2018①-ジャコビニ・ジンナー彗星

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 社会が最も未熟なときは力(腕力)がものをいいました。狩りで食料を得ていたので,力(腕力)のないものは力(腕力)のあるものを頼らないと生きられませんでした。だから,社会は力(腕力)のある者とない者の格差社会でした。農耕社会になったとき,協力しないと収穫ができないから,同じ集団に属している人はある程度,みんなが平等に豊かになっていきました。そして,社会制度を作って弱者を守るしくみができました。
 それが成熟して貨幣経済がはじまると,今度はお金をもっている人と持っていない人で,再び二分化しはじめました。これが貧富の差というものです。たとえば,同じ飛行機に乗っても,ファーストクラスとエコノミークラスというように,お金をどれだけ出すかによって,待遇が異なるわけです。
 その次にやって来たのはIT格差です。ITが使いこなせるか使いこなせないかということのほうがお金をもっているかどうかよりもずっと大きな格差になってしまいました。

 このように,今では格差もまた,二重構造と化しました。それは,今もなお昔の価値観で生きているITとは無縁の人たちと,ITを使いこなして生きているまったく別の価値観をもつ人たちです。それは,どんな御殿に住んでいても,その御殿に Wifi がつながっていないなら,Wifi の完備したワンルームマンションに住んでいるほうがずっと居心地がよいといった人たちです。
 大都会の繁華街にはブランド品を扱うお店がならんていて,そこにはブランド品に身を包んだ人たちが集まっています。海外旅行をしても,同じようにそうしたお店で買い物を楽しんでいる人たちを見かけます。方や,そんなことにはまったく関心なく,電気もない大自然のもとでキャンプをして楽しんでいる人たちもいます。
 あるいは,偉くなることに未だに価値をもつ人たちとそんなことよりも自由に生きることに価値をもつ人たちです。
 このように,今や,もつ者ともたざる者ではなく,もつことに価値をもつ者ともつことに価値をもたざる者の二極化に変化しているのです。社会の二分化は格差から価値観の違いに変化したのです。

 そうした社会では,ブランド品というものもまた,そこに絶対的な価値を見い出す人たちとそのことにはまったく価値をもたない人がいるわけですし,地位や名誉も,そこに絶対的な価値をもつ人とそんなことにはまったく興味を示さない人がいるわけです。愉快な時代になったものです。
 それなのに,未だに「学歴」やら「名品」とレッテルを張ったモノやらに価値があるというような,従来の価値感で出版物やらテレビ番組が数作られているから,本は売れないしテレビも見られなくなるし,いかに金融緩和をしてもモノは売れないのです。

◇◇◇
ブランド品とはそういうもの①-魚の釣り方を教えることが
ブランド品とはそういうもの②-ミッキーマウスの人?格

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●デスバレーは本当に「死の谷」なのか?●
 道路は下り坂になって,あたりは渓谷の様相を呈してきた。到着するのに,あとどれだけ距離があるのか,私には全く想像がつかなかった。
 すでに書いたことだが,地図では標高がわからないので,この先のようすが想像できなかった。それに,この日の私はかなり弱気であった。
 数年前にハワイ島に行ったときときはマウナケア山の山頂までためらいもなく登っていたのを思い起こせば,そのときとは精神状態がえらく違っていた。
 つくづく人はこころで生きているのだと思った。だから,同じ状況にいても,そのときの精神状態で,見えている景色がえらく違うのだ。しかし,それが物理的に解決できることでないのが難しいわけだ。

 デスバレー国立公園の中心はファーニスクリーク(Furnace Creek)という場所で,ここにビジターセンターがあるという。ファーニスクリークヘはこのまま州道190を走って行けば到達する。そしてそこを過ぎてさらに進むと,その先がデスバレーで最も標高が低い,つまり,最も暑いバッドウォーター(Bad Water)という地点であるが,この日私がこんな地獄のようなところまで行くことができるとは思えなかったから,ともかくビジターセンターまで行くことができれば,そこで,デスバレー国立公園に行ってきたという足跡だけ残して,さっさと帰るつもりでいた。

 私は,デスバレー国立公園の「見もの」というのがいまひとつよくわからなかった。
 たとえば,グランドキャニオン国立公園とかモニュメントバレー国立公園とか,行ったことはないがエジプトのピラミッドだとか,そういった場所ならば,これを見れば行った証拠になる,という有名なところがある。しかし,デスバレー国立公園というのは,名前こそよく聞くが,これこそがデスバレー国立公園のシンボルだというのは何だろうかと思った。だから,デスバレー国立公園で何を見ればそこで引き返しても後悔しないのか,さっぱりわからなかった。
 「クローレイ神父展望台」を過ぎてから走っていたまわりの風景は単調だった。だから,これがデスバレー国立公園の典型的な風景なのだろうか? こんな何もない景色が続いているだけの場所なのだろうか? と不安になった。さらにまた,他の国立公園なら,ビジターセンターに行けばレストランがあったりガソリンスタンドがあったりと観光地の高揚とした気分に浸れるが,デスバレー国立公園のような地獄の場所にはそんなものがあるとも思えなかった。
 このように,私は,デスバレー国立公園には特別,かつ,異常な恐怖を描いているのであった。

 今日の3番目の写真は,私が使っていたGPS,つまりカーナビである。カーナビというよりも大柄なスマホという感じであったが,使いにくいものではなかった。私の使い方がわるかったのかもしれないが,このカーナビは使用しているときは充電ができないのだった。USBケーブルで車に接続ができるのだが,カーナビの電源を切っているときには充電するのだが,道案内をさせているときは充電しない。そこで,前の晩にカーナビをホテルの部屋に持ち込んでしっかり充電しておかないと,次の日に使えないのであった。
 機械の大好きなアメリカ人なのに,アメリカの機械はこんな感じのものが多すぎる。ホテルのクーラーだって,未だに「グアングアン」と騒音を出すうるさいものしかない。ホテルの部屋にあるテレビは,いまや日本製は皆無で,そのほとんどは韓国のサムソン製だが,そのテレビに「DirecTV」のチューナーが接続されていることが多い。しかし,たいていは設定がむちゃくちゃで,うまく写らなかったりする。こんないい加減なことばかりなのに,そんな国が,日本ではできないような,飛行機を作ったり宇宙に人を送り込んだりしているのが不思議でならない。

 走り続けているうちに,私の運転している車の外気温の標示が華氏100度になった。
 以前書いたことがあるが,摂氏と華氏の変換は,華氏から32をひいて9で割って5倍すればいい。しかし,こんな大変な計算をしなくても,30引いて2で割ればおおよその数字はわかる。こうして計算をすると約35度になる。  厳密に計算すると華氏110度というのは摂氏37.8度であるから,すでに40度近いわけだ。しかし,時刻はまだ早朝の7時16分であった。お昼にかけてさらに気温がぐんぐんと高くなっていくのだ。
 私が向かっているデスバレーは本当に「死の谷」なのだろうか? と心配になってきた。

 若いころは何ともなかったのですが,このごろ,ひとりで旅に出ると人恋しくなってきました。これはいけません。これでは旅に出られません。と思っていたら,私は忘れていた大事なことがあったのを思い出しました。それは,「夢と勇気と知恵」という言葉だったのです。これからもこの言葉を忘れずに,旅に出たいと思います。
 ところで,私が不思議なのは,海外からどうして日本にこれほどたくさんの人がやってくるのか,ということです。狭い日本,わざわざやってきてまで特に見るべき場所もないのに,と私は思いました。確かに,日本の観光地は無防備に歩いていても,なんの気兼ねも必要ありません。狭いことが逆に利点となって,どこに行くにも便利だし,食べるところも事欠きません。珍しい食べ物もたくさんあります。しかし,どこも「異常に」混んでいます。
 そこで,海外に出かけるたびに,その理由を聞いてみるのですが,その答えとして,日本に出かけるのは「お得感」なのだそうです。安い。そして,対価が大きい。ということでした。そりゃそうです。自分の国の半分ほどの値段でお腹いっぱい食べられて,店員さんは親切ですから。
 そんなわけで,この国はゲストとして来るにはとてもよい国のようです。

 日本に住む私は,これまでに,白川郷も鹿児島も四国も,一度は行ってみたいと思っていたところには,ここ数年ですべて行くことができました。どこもそれなりに思った通りでしたけれど,また行きたいと思うようなところはまったくありませんでした。私が日本に期待するのは自然と古き日本の持っていたのどかさです。しかし,そんな自然など,いまやどこに行ってもありません。のどかさもどこかに消え失せました。これまでいいなあと思っていたところも少なからずあったのですが,そうした場所は開発され,破壊されていきました。
 そこに,観光というお墨付きが付くともういけません。すべては金儲けの媒体と化してしまうのです。恐らくははそれでいいのでしょう。観光立国としては。国がお金を稼ぐには,車1台売るよりも,外国人に来てもらってお金を落としてもらうほうがずっと効率がいいのですから。そしてまた,過疎地は投資をせずとも潤うわけですから。
 国はしたたかなものです。
 こうして,星がきれいだといえば,1泊2日で5万円もするツアーが組まれます。しかし,天候が悪ければそれで終わりです。星を見るのに5万円はないでしょう,と私は思います。

 そこで私は海外に目を向けるのです。しかし,いつまでも今のように海外に出かけて車に乗って旅をすることもできなくなることでしょう。そこで困っているんのです。
 おそらく,この先も私ができることといえば,海外であるなら,現地まではひとりで行ってそこで現地ツアーに参加することでしょう。国内旅行なら,それでもひとり旅ができるので,鉄道に乗ってどこかに定宿を見つけて,そこでゆっくりと過ごすような旅が理想です。
 そろそろ,人恋しいというのを利点として,新たな楽しみ方を考えたいと思っているこのごろです。

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●オーバーヒートの可能性大?●
 朝日を見ながら州道190を走っていくと,次第に道路は上り坂になってきた。この峠を越えて再び降りていったところがデスバレーである。
 それまでは走っていても全く車とすれ違わなかったが,このあたりになると,ポツポツ車とすれ違ったり,あるいは後ろから車に追い越されたりするようになった。こんな過酷な季節にデスバレーに行く人がいるのだろうかと思っていたが,私以外にもデスバレーから帰ってきたりデスバレーをめざす車があるのがわかって安心した。
 いつものことだが,案ずるより産むがやすし,という感じであろうか。
 私はカーナビと地図を見ながら走っているからおおよそどこを走っているのか見当はついているものの,地図だけでは標高についてはよよくわからなかったが,峠を登りきったら展望台があった。この展望台は休憩するのにもってこいであったので広い駐車場に車を停めた。

 この展望台は「クローレイ神父展望台」(Father Crowley Overlook)というところであった。
 クローレイ神父というのは砂漠の開発に尽くした神父だそうだ。この展望台からは視界が開けていて,ちょうど太陽が昇ったばかりだったので,太陽の光が山々に影を作り,とても景色がよかった。
 アメリカでドライブしていて快適なのは,景色のよい場所には必ずこうした展望台があることだ。そもそもドライブをするというのはこうした景色を楽しみにしてくるわけだから,道路と駐車場を一体として作るのは当然のことであろう。
 日本ではせっかく絶景が見られる場所なのに駐停車禁止であったりすることも多く,運転をしているとそうした景色を見損ねることがままある。しかも,まれに展望台があっても駐車場が狭かったり,あるいは,土産物屋が幅を利かせていたりして,楽しめないことが多い。
 口コミによると,この展望台では運がよければ戦闘機が飛んでいるのを見ることができると書いてあったが,こんな朝早くでは当然戦闘機なんて飛んでいなかった。
 家族連れやらカップルできている人たちの車が数台停まっていたので,私のようにこれからデスバレーに行く人がいることを知って,決して無謀なことをしているのではないと確信した。
 展望台を出発してさらに進んでいくと,道路は下り坂になってきた。デスバレーまではここからさらに1時間ほど走らなければならなかった。

 「地球の歩き方」の「アメリカの国立公園」編にはデスバレーへのアクセス方法がいろいろ書かれていたが,行く前は土地感がないので,読んでいてもよくわからなかった。帰国してから復習をして,やっと私はそこに書いてあった方法が把握できたのでここに簡単に書いておこう。
 デスバレーというのは名前のごとく谷底で,そこには南西から北東へと,北西から南東へとふたつの舗装道路が通っていて,中央で交差している。私の走ってきた州道190は南西から中央に向かって進み,途中の交差しているところで今度は右折して南東に進む道路である。つまり「Λ」の形になっている。だから,私のようにロサンゼルスからアクセスするときは,州道190を南西からデスバレーに向かって行けばいいし,ラスベガスからアクセスするなら,今度は反対に南東から州道190をデスバレーに向かって進めばばいい。これが一番簡単である。
 このように,私の走ったルートは最もわかりやすかったが,「地球の歩き方」には,
  ・・・・・・
 この間(「州道190をデスバレーに向かって行く間」の意味),峠をふたつ越えるのだが,これがけっこう険しく,春から秋にかけての日中はオーバーヒートの可能性大。水を忘れずに。狭いカーブで路肩もなないので,夜の走行も危険だ。ハードなルートだが,風景はすばらしい。
  ・・・・・・
と書かれてあった。確かに風景はすばらしかったけれど,本に書かれているのを読んで想像したほど道は険しくなかった。アメリカの道路の道幅は日本の山道よりもずっと広い。なお,2004年8月の豪雨でデスバレーはかなりの被害を受けて,その多くが閉鎖されていたが,今は復興していて,どこも問題なく観光することができた。

 さまざまな事情で中断していた「断捨離」を再開しました。
 はじめてみると,不要なモノがなくなるというのはやはりとても気持ちがよいものです。そのおかげで要らないモノが邪魔していて隠れていたいつも使うモノが目立つようになって,逆に使いやすくなったという利点もありました。モノがあふれている今の時代,モノは買うよりも要らないモノを捨てるほうがむしろ喜びがあるのです。
 しかし,モノを捨てることは買う以上に難しいのです。

 私が一番困っているのが,昔のビデオとかDVD,CDなどです。今ならこんな量のある保存媒体でなく,ハードディスクに保存できるのですが,当時はデータの保存というのはそれぞれ用途によって別のメディアだったので,メディアの量が膨大になっていました。
 しかし,結局,これまで保存してもあとで必要になったことなんてほとんどありません。それに,今改めて再生しようとしても,ファイル形式が異なってしまっていたり,再生する機械がなくなっていたりで結局使えないものさえたくさんあります。
 写真のフィルムも同様です。このブログに載せているほとんどの写真のように,今はデジタルカメラで写したものがハードディスクに保存してあるから,単にそこから取り出せばよいのですが,フィルムだと大変です。かといって,プリントした写真は劣化しています。
 このように,ディジタル時代になって,ずいぶんといろんなことが容易になりましたが,昔保存した媒体を維持するのは大変なのです。かといってむやみに捨てることもできないし,何を捨てていいのかを調べるだけでもずいぶんと時間がかかります。

 これまで「断捨離」をしてみて,最もむなしかったのが書籍です。そのなかには今となっては貴重な本もあったのでしょうが,それを仕分けるのも手間がかかるので,一挙に処分してしまいました。そのようにして売ってみてわかったのですが,それらはほとんどただ同然でした。その割に重く量がありました。
 そんなことを経験した結果,私は,本はよほど必要でなければ買わなくなりました。買っても読み終わったあとが困るからです。今は,どうしても読みたいものがあったとき,電子書籍がないかを探します。そして,なければ買うこともあきらめます。紙媒体の本を売りたのなら,本屋さんのカウンタの横に読み終わった本を引き取ってくれるような場所があればいいなあと思ったりします。

 モノが売れない時代,といわれます。必要なモノすら手に入らなかった時代ならともかく,今のようにモノがあふれている時代では,買うことよりも買ったモノを捨てることのほうが大変なのです。これではモノが売れるわけがありません。
 モノを売りたければ,簡単に処分できるシステムを充実することのほうが必要でしょう。

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DSC_2356オランチャDSC_2370DSC_2369DSC_2372DSC_2376

●行くべきか行かざるべきか?●
☆3日目 2018年6月27日(水)
 前日(2日目)の晩。
 部屋で食事をしながら,デスバレーに行くべきか行かざるべきか? ずいぶんと悩んだことだった。 
 それは,私が思っていた以上に過酷なところだということを知ったからである。インターネットで気温を調べてみると,ここ数日の最高気温は50度を超えていた。そしてまた,明日からは幾分涼しくなるということであったが,それでも,2度や3度低くてもそう違いはないであろうと思った。
 こちらに来る前,友人にデスバレーに行きたいのだが暑さが心配だと言ったら,いくら暑くても車から外に出なければ大丈夫だだろう,と気楽に答えたのだが,調べていくうちに,オーバーヒートしたらクーラーを切れとか,パンクでもしたらえらいことになるとか,そんな悲観的なことばかりが書かれてあった。

 歳をとるとやたらと心配性になるというのは事実であるから,「悠々自適」というのは嘘である。憂いもなく「悠々自適」に暮らせばいいのに,若いころは考えもしなかった事がいろいろと心配になってくるのだ。
 それは,知識と経験がありすぎて最悪の事態を予測できすぎるからなのだ。歳をとるとうつ病になったりする人が多いのは,おそらくそうした心配と不安のせいであろう。しかし,これはとてもよくないことだ。
 おそらく数年前の私であったらなら,何も考えずにデスバレーを目指して走っていったことであろう。
 話は少し横道にそれるが,このこところ,藤井七段の将棋に切れがなくなってきたように思う。特に持ち時間の多い将棋にそれが顕著である。それは,知識と経験が増したことで手が見えすぎて,相手もその次元で読んでいると錯覚して相手の実力以上の読みをしてしまうからだ,と書かれたものがあった。だから踏み込みを躊躇して苦戦する。
 先週の週末にAmebaTVで放送された早指しの対局では深く読めないので逆に踏み込みがよくなって,昨年の切れのよさが戻っていたから,おそらくそうなのであろう。
 藤井七段は若いから,これを克服するだろう。これはもうひとつ上のステージに上がるためのステップに違いない。
 しかし,私のような年寄り場合は,その反対で成長しないから,知識と経験がさらに邪魔をしていくわけだから悲観的なのである。

 しかし,今回の旅で行くことをやめたら二度とその機会はないであろうと思って,ともかく行ってみようと決意した。何事も「夢と勇気と知恵」。これまでそう思って旅をしてきたのに,この様は何事であろうか。
 改めて1日の気温を調べてみると,朝10時までなら40度は越えない。そこで,10時過ぎには引き返すことにして,早朝出発することにしたのだった。この日泊まっているモーテルからデスバレーまでは約100マイル,2時間で行くことができるから,朝5時くらいに出発すればいいであろう。

  ・・・・・・ 
 さて,3日目。 
 予定どおり,朝の5時にデスバレーを目指して,私は国道395を北に向かって走り出した。国道395はこの先ずっと町らしい町もなく,そのままオランチャ(Olancha)というところまで来た。
 地名があるから人が住んでいるのだろうが,見た限りでは,単に交差点があるだけだった。グーグルマップに載っているこの町の写真を載せておこう。それが2番目の写真である。このように,国道395には,私の泊まったモーテルのあるイニョカーンからデスバレーまで,泊ることができるような町はどこにもなかったのだ。
 帰路にはじめて私は知ったのだが,国道395をオランチャよりもさらに北に行くと,ローン・パイン(Lone Pine)という大きな町があって,そこにはホテルもあった。デスバレーに行くつもりなら,ローン・パインで泊まるのがベストなのだろう。しかし,私は,こちらに来るまで,いや,来てからも,デスバレーに行こうかやめようかと考えていたくらいだったから,そういう選択肢ははじめっからなかったのだった。

 オランチャで国道395を右折して州道190に入った。この州道190がデスバレーへのアクセス道路であるから,この州道190に入るジャンクションにデスバレーに向かう道路標示があった。まだこの先デスバレーは遠いが,迷うところはまったくなかった。州道190は原野をまっすぐに進み,やがてT字路になった。州道190はこのT字路を右折する。左からきた道は国道136という別の名前で,このT字路がその道の終点であった。T字路を左折して国道136を走っていくとどこへ出るのか,このときは知らなかったが,実はローン・パインに着く。
 夜明け前からずっと走ってきたが,やがて夜が白み,陽が昇ってきた。

 日本人の大好きな「おもてなし」。
 多くの店で未だにクレジットカードが使えない。公共トイレにハンドウォッシャーとペーパータオルがない。このふたつだけでも,日本が世界からずっと遅れてしまっていることに,海外に出たことのない人は気づいていません。これが日本の「おもてなし」です。
 今年の台風と地震で,大阪と札幌の空港が被害を受け,空の便の多くが欠航しています。なかでも,関西空港を使っていた国際線の多くが利用でなきなくなったことで,中部国際空港に到着する海外からの人が増えています。そこで,セントレア・中部国際空港から名古屋市内へのアクセス手段としての唯一の公共交通機関である名鉄電車に,これまで以上にそういった乗客が見られるようになりました。
 しかし,この名鉄,「広い視点の欠如」から,はじめてこの空港を使う海外から来た人にはかなり不便な鉄道なのです。おそらく,運営をしている人は一生懸命,精一杯のことをしているのでしょうが,どういう点が不便なのかという実態を知らないのでどうにもなりません。知らなことはできません。
 
 生まれてはじめて海外へ行く,たとえばニューヨークの空港に降り立った状況を想像してみてください。空港からマンハッタンに向かう鉄道の利用の仕方がわからなけらば不安になることでしょう。しかし,そこには親切な係り員が常駐しクレジットカードが使えます。それに対して,このセントレアからの鉄道はどうでしょうか。
 まず問題なのが,名鉄の乗車券がクレジットカードでは買えない,ということなのです。そこで,クレジットカードを使うにはわざわざ到着ロビーのトラベルセンターへ行く必要があるというのですが,はじめて日本に来た外国の人にとってこれほどバカげた話はありません。こんなことは,クレジットカードでマナカ(スイカの名鉄版)が購入出来るような自動販売機(もちろん外国語の表示がされるもの)を改札口に設置するだけで問題が解決するのですが…。
 さらに。名鉄の特急には座席指定のある車両があって,この車両を利用するには「ミューチケット」というものが必要です。おそらく,そういうシステムすら知らないと思うのですが,知ったとしても,そのミューチケットも当然クレジットカードでは買えないし,インターネットでも事前に購入(予約)できません。私が自宅から海外旅行に出かけて帰るまでに,唯一インターネットで予約できないのがミューチケットだった,という冗談のような本当の話があるのです。
 もうひとつは,河和線やら常滑線やらといった,その地方に住んでる人でなければわからないような路線名です。これもまた,イエローラインとかグリーンラインとか,そういった名称をつけて,それと同時にそのラインを走る電車が区別できるような外観のデザインにすればいいのです。これに加えて,特急以外の電車に乗ると,まったく英語の放送がないことも問題です。名古屋駅からセントレアに向かうとき,途中の太田川という駅で途方にくれている外国から来た人の何と多いことでしょうか。たとえば,名古屋駅からセントレアに行く8両編成の急行に乗ると,太田川の駅で前4両だけがセントレアに行き,後ろ4両は切り離されて太田川止まりというものがあります。あるいは,セントレアのある常滑線ではなく河和線に向かう電車があります。しかし,そのようなことを日本語では放送しても英語で知らせる放送がまったくないのです。私はこれまでずいぶんと太田川で戸惑っている外国人を「救出」しました。こんなことは,車内で空港に向かうであろう外国人を見つけたら車掌が英語で書かれたちらしを配るだけでずいぶんと解決します。
 このように,セキュリティ第一の空港という場で,空港利用者以外の人を集めるようなイベントをすることに知恵を絞るよりも,もっと空港利用の旅行者に対してしなければならない重要なことがたくさんあるのです。こういった実態こそが,日本の精一杯の「おもてなし」ではできない,つまり「日本人の知恵と発想の限界」なのでしょうか。

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この国の空港の不便さ-広い視点の欠如①
成田は東京より福岡のほうが近い-広い視点の欠如②

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●めざすイニョカーンへたどり着けない!●
 やっと町の灯りが見えてきたので,私はついにイニョカーンに到着したと思った。アメリカの夕暮れの風景は筆舌に尽くしがたきよきものである。日本でも,小京都といわれる小さな町のそれまた小さな宿に泊まって,夕暮れの町を散策するのは何ものにも代えがたい最高の贅沢である。
 私はこうした楽しみを味わいたいために旅に出るのかもしれない。

 ところが,夕暮れ迫るアメリカの大地の遠くにイニョカーンの町の灯りは見えても,一向にそこに行く道路も,降りるジャンクションも見つからないのだった。そのうちに,カーナビがここで降りるように案内した。その場所にはジャンクションは確かに存在したが,そこは工事で閉鎖されていた。
 こうなるとカーナビ頼りの私は手に負えなくなった。しかも,次第に辺りは暗くなってきて,それまでの哀愁はどこへやら,急に不安になってきた。
 その先どこまで走っていっても次のジャンクションがない。こうして,私の予約したモーテルのあるイニョカーンの町は遠くなっていき,それとともに,時間だけがどんどんと過ぎていった。
 私の不安な気持ちは心をさらに暗くした。まさかこんな事態に陥るとは夢にも思わなかった。

 帰国後に調べてみると,私がカーナビで案内されたのは,走ってきた州道14からジャンクションを降りて州道178に入るとそのままイニョカーンにたどり着くというものであったらしい。しかし,そのジャンクションが閉鎖されていたのであった。そして,その先にはずっとジャンクションはなく,州道178へアクセスできないから,工事中だったジャンクションを過ぎると,もはやイニョカーンへ行く方法はないのだった。しかし,このときはそんなことは全くわからない。
 どうしていいかわらず,仕方なくそのままさらに進んでいった。この時点で私はパニックに陥っていたからほとんど覚えがないのだが,どうやら,私が走っていた州道14はブレイディズ(Bradys)という町で自然と国道395と合流していたようで,結局,私は国道395を北上していたのだった。
 国道395はインターステイツとは違い中央分離帯にUターンゾーンがあって,そこでUターンををすることができた。しかし,たとえUターンをしたところで,再び今走ってきた道を戻るのなら,結局ジャンクションが閉鎖されているのだからどうにもならないなあと思ったが,これ以上先に進んでもそれこそさらにどうにもならないから,私はUターンを決意した。

 しかし,今度はブレイディズまで戻ったところで意識をしなかったが道なりに走っていって,今来た州道14ではなく,国道395をそのまま南に進んだらしい。そして,イニョカーンへつながる道路に降りるジャンクションに出た。このジャンクションは工事をしていなかったから,無事にイニョカーンへ向かう道路に降りることができたのだった。
 そういったことがわかったのは帰国後のことであって,走っている時点では,私は来るときは工事中だったはずのジャンクションに,不思議なことに今度は降りることができたと思ったから,キツネに騙されたようで,何がどうなっているのかさっぱりわからなかった。
 ともかく,無事にイニョカーンにつながる道路を,イニョカーン空港と書かれた道路標示にしたがって進んで行くことになった。
 私が予約したのは空港近くのモーテルであった。期待したのは新しく小ぎれいな立派なモーテルだった。以前にも書いたように,私の経験では地方都市の空港の近くにはそうした安価で掘り出し物のモーテルが多いのだ。
 ついにイニョカーンのダウンタウンに着いた。イニョカーンはメインストリートが1本あるだけの,本当に小さな町であったが,その道路に沿って,レストランとハンバーカーショップと,それに,スーパーマーケットがあったから,今晩は空腹で困ることはないだろうと思った。

 カーナビからモーテルに着いたという案内があったが,その場所にはそれらしきモーテルが見当たらなかった。仕方なくさらに進んでいくと,右手にイニョカーン空港があった。しかし,私の予想に反して,イニョカーン空港は定期便の着く空港ではなく,プライベートセスナが離着陸するような場所でしかなかった。そして,空港を過ぎさらに進むと,ついに町が終わってしまった。
 こうして,私は泊まるモーテルが見つからず,町はずれまで来てしまったが,改めて地図を調べると,予約したモーテルは確かに空港の手前にあるようなので,私は町はずれでUターンをして,元来た道を目を凝らしながら注意深く戻っていった。すると,空港を過ぎたあたりの右手に,私の予約したらしきモーテルの目立たない看板が暗闇に浮かんだ。これこそが私が期待した? 今日の宿泊先だった。

 ところで,私の愛するホームページのひとつに「city-data.com」というのがある。このホームページには,アメリカの大から小までのあらゆる町のデータが投稿写真とともに掲載されている。そのなかで,私は人口が1,000人に満たない小さな町の投稿写真を見るのが好きで,それらを見ながら,いつかこうした町に一度は泊ってみたいものだと思っていたが,この町こそ,私が夢見ていたそのような町なのであった。ただし,この町の人口は1,000人を数人だけ越えていたけれど…。
 期待が裏切らた失望感とともに,念願の小さな町に泊るという夢が期せずして実現した私は,複雑な気持ちでこのモーテルのチェックインをした。一旦部屋に入って荷物を片付けて,再び車に乗って,近くのハンバーガーショップまで行って夕食を買ってきて,部屋で食べた。私は,この期待はずれの,いや,夢にまでみた「しがない」モーテルに,なんと今日から2泊もすることになるのだった。

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●この先どこに人が住んでるのだろう。●
 地図で見た限り,ベーカーズフィールドからは東に進む州道178のほうがイニョカーンには最短距離のように思えるのだが,私が使っていたカーナビは,州道58を通るように案内していたから,私はそれに従って走っていった。おそらく州道178は峠越えのくねくね道なのであろう。
 州道58を南東に進んでいくと国道395にぶつかりT字路となって,そこで北向きに進路を変えてもいいのだが,それでは遠回りになるので,途中でショートカットとなる州道14を北東に進むようにカーナビが指示した。
 今日の1番目の写真は,その州道14である。こうした場所まで来るとアメリカもオーストラリアも,右側通行か左側通行かの違いだけで,それ以外はそう違ったものではなく,どちらも果てしなく大地が広がっているだけだ。ただ,私にはオーストラリアのほうが流れている風が優しく思える。
 まだ太陽が沈むには少し時間があったから,私は余裕をもって走っていたが,太陽が沈んでしまうと急に暗くなるので要注意である。そうなると知らない土地は急に心細くなってくる。

 今日の写真のような,まっすぐに続く1本の道を走ることに憧れる日本人は多い。こんな風景は,アメリカでもオーストラリアでも,郊外に出れはどこにでも見られるから珍しくもないが,日本には皆無である。たとえ北海道といえども,これだけの風景はない。
 こういう道路を走っていると,この先どこに人が住んでるのだろうと不安になってくるのだが,不思議なことに,ちゃんとその先にも人が住んでいる集落が訪れる。そうした町のほとんどは,昔は宿場町だったようなところで,それが価値を失ってしまうとゴーストタウンとなってしまった場所も多くあるが,車社会アメリカでは給油地としてかろうじて残っている場合も多い。

 国土が狭く,狭いだけでなく山ばかりの日本では,「国道」ならぬ「酷道」と呼ばれるような山の中のくねくね道があって,そうした道路は車がすれ違うことさえできないほどだが,そんな「酷道」でも,その先に少しでも平地があれば人家が存在する。要するに,日本には決定的に人が住める土地が少ないのだ。昔は獣道だったところを人が徒歩で行き来するようになり,やがて車の時代が急に来てしまって,大した計画もなくそうした道を単に舗装して名ばかりの「国道」としたのだろう。交通量が少なければ今もなおそうした「国道」が「酷道」として存在し,さらに交通量が増した場合,日本ではそうした道路をそのまま置き去りにして山にトンネルをぶち抜き新しいバイパスを作る。そして,忘れ去られた道路はそのまま廃道として,単に通行止めにし荒れるにまかせるわけだ。
 新しい道路を作ったらそれまでの道路は少なくともコンクリートは破壊してもとの土に戻すくらいのことをすれば自然の生態系は守られるのに,そうしたことをしないので,この夏のような豪雨でもあれば,山は崩れ,被害が及ぶ。そして,それを守ろうと,さらに斜面をコンクリートで固めるが,そもそも土に水が滲み,その土を木の根が守っているからこそ自然体系が守られているのに,それをコンクリートで固めて水の行き場をなくしてしまっていいわけがない。そうして,この国はどこもかしこもが破壊されていくわけだ。

 次第に陽が傾いて,西の空には夕日が,そして東の空には満月が昇ってきて,あたりは幻想的になってきた。
 そして陽が沈み少しずつ暗くなってきたころ,やっと遠くに町の灯りが見えてきた。そこがイニョカーンであった。

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 2018年9月6日にBSプレミアムで「世界わが心の旅」の再放送がありました。旅人は指揮者小澤征爾さん。題して「ボストン・家族のぬくもりの中で」。今から22年前の1996年に放送されたものです。
 このころのアメリカは本当にいい時代でした。おそらく,アメリカ建国以来,最高の時代だったと思います。すでに日本はバブル経済が崩壊して「空白の10年」がはじまり,街中には失業者があふれていましたが,アメリカは逆に,ITバブル経済と呼ばれる時代の幕開けのころでした。私はそのころに訪れたニューヨークの5番街で,星条旗がいたるところにはためいているのを見て,アメリカの強固な自信と誇りを感じて身震いした思い出があります。
 日本が誇る指揮者の小澤征爾さんがボストン交響楽団の音楽監督として活躍していたのもまた,そんな時代のアメリカでした。そして,この番組が収録されたころの小澤征爾さんは,ちょうど今の私の歳のころのことでした。
 そんなアメリカも,2001年に起きた,いわゆる「911」,アメリカ同時多発テロ事件ですっかりだめになってしまい,今は当時の面影もなく,殺伐としたとげとげしい国と化しました。

 私はこの番組を見て,いろんな感慨にふけりました。
 そのひとつは,人の老いです。
 私は昨年と今年,年老いた両親をあいついで亡くし,人の老いを目のあたりにしました。そして,この先,自分もこんなふうにして老いてゆくのだろうということを知りました。
 小澤征爾さんもまた,この番組の当時からはずいぶんと歳をとられて,今も指揮者として活躍はされていますが,当時の才気あふれる姿とは遠いものとなってしまいました。
 どんなに才能があろと,名声があろうと,人はだれしも老いるのです。そして,そのときに,過去の自分をどう感じるか,というのはひとそれぞれでしょうが,おそらく,自分は若き日に何かを成しえた,という充実感があればこそ,その先もまた生きていく勇気と力と希望をを与えてくれるものなのでしょう。

 ふたつめは,私のアメリカへの想いです。
 私は2013年,長年想いを募らせていた2度目のボストンにも,そしてはじめてのタングルウッドにも行くことができました。この番組を機に,再び,このときの旅を思い出して,そのときの旅が自分にはどんなに素晴らしいものであったかということを再確認しました。
 おそらく,このときの旅の経験があったからこそ,22年前に作られたこの番組を,深く,そして,いとおしく見ることができたのだと思います。
 1996年にこの番組が放送されたときに私がそれを見たかどうかは記憶にありませんが,おそらく,そのときに見ていても,行ってみたい,うらやましいという願望が強すぎて,今回見たときのような哀愁を私は感じることができなかっただろうと思います。

 いずれにしても,こうした気持ちを抱くようになれたことが,私の大きな財産なのかな,と思いました。やはり,人はこころで生きているものなのです。この番組の題名である「心の旅」というのは言いえて妙です。
 私が再びボストンの地を踏むことがあるかどうか今はわかりませんが,どちらにしても,こののち再びボストンに行っても,私が2013年に訪れたときのようなボストンへの想いを感じることはできないでしょう。そういった意味でも,そのとき,私もよい旅をし,よい思い出を残すことができたということを,この番組を通して再認識することができました。
 私は,その旅で感じた夢のようなタングルウッドの風の音と空気の香りを決して忘れることはないでしょう。私の心にも,ボストンは永遠に生き続けているのです。

◇◇◇
「おわらない夏」-おとぎの国タングルウッド
2013アメリカ旅行記-愛しのフェンウェイ①
2013アメリカ旅行記-雨のボストン⑤
春樹さんは「小澤征爾さんと,音楽について話をする」①
春樹さんは「小澤征爾さんと,音楽について話をする」②
春樹さんは「小澤征爾さんと,音楽について話をする」③
「おわらない音楽」-世界のオザワと途方もない人脈

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●デスバレーは遠く暑い。●
 私はこの旅の航空券を予約したときには,ロサンゼルスから北に行けば間単にセコイア国立公園とデスバレー国立公園に行くことができると気楽に考えていた。
 すでに書いたように,セコイア国立公園は子供のころに知って行ってみたいものだと漠然と思い続けていた場所であった。デスバレーは友人が若いころに行ってここはすごいところだったと言っていたのを聞いて,私も一度は,と思っていたところだった。
 しかし,このふたつの国立公園がどこにあるのか,そしてこのふたつの国立公園が距離的にはさほど遠くないところにあるということすら知らなかった。なんとなくロサンゼルスの北にあるという認識だけがあった。

 実際,この旅の具体的な計画を立てていて,ロサンゼルスからは思ったよりも遠いのに驚いた。そして,セコイア国立公園からデスバレー国立公園に行くのも地図上の直線距離は近けれど,シエラネバダ山脈がその行く手を阻んでいた。
 それにも増して,セコイア国立公園はまだしも,デスバレー国立公園の暑さに対して全く認識がなかったのは自分でも愚かなことであった。というよりも,真夏ならともかく6月なら大丈夫などと誤解をしていた。まったくもって自分でもあきれるほどだ。しかし,この機会を逃したら再び行く機会はなかろうとも思った。
 今から10年ほど前,私がアメリカに憧れていたころはいつでも行けると思っていたアメリカだが,このところアメリカ以外に興味が移ってしまった私にとって,精神的にアメリカはオセアニアやヨーロッパに比べてずっと遠い国になってしまったのだ。

 私は,セコイア国立公園もデスバレー国立公園も,行くかやめるかは同日決めるとしても,行く気になれば行くことができる程度の場所に宿泊先を探して予約した。そうしたわけで,1日目はロスアンゼルスに到着してスペースシャトルを見てから走っても夕刻には着くであろうとベーカーズフィールドに宿泊することになったのだった。
 ベーカーズフィールドは思ったよりも大きな都会であったが,その先のバイゼリアまでさらに1時間だったので,バイゼリアで宿泊してもよかったと,それは行ってみて思ったことだった。それはともかく,私は次の日,予定通りキングスキャニオン国立公園とセコイア国立公園に行くことができた。

 問題は翌日,つまりこの日の晩であった。
 デスバレー国立公園の近くにはめぼしい町がなかった。町の大きさというのは地図だけでは把握できず,行ってみなくてはわからない。それに,デスバレー国立公園に行くかどうかもわからなかったので,行くにつけやめるにつけ,どちらになってもかまわないあたりに泊ろうと思って探し出したのがイニョカーン(Inyokern)という奇妙な名前の町であった。
 イニョカーンからもう少し東にリッジクレスト(Ridgecrest)という町があった。実は,リッジクレストに泊ればよかったのだが,リッジクレストにあるホテルを探していて,宿泊代が安いというのに惹かれてその隣の町イニョカーンのホテル,というかモーテルを予約したのだった。イニョカーンには空港があった。経験上,空港の近くには新しくて安価なホテルがあることが多いから,私はイニョカーンもそうに違いないと思い込んだわけだったが,それは大いなる誤解であった。

 翌日,イニョカーンからデスバレー国立公園に行くには国道395を北に向けて走ることになるのだが,この間にほとんど町らしい町がない。あとで知ったことだが,国道395から右に折れるデスバレー国立公園へのアクセス道路を曲がらずにさらに国道395を進みローン・パイン(Lone Pine)という町まで行けばそこは結構大きな町でいいホテルがあったのだが,そんなことは知る由もなかった。
 国道395を「パノラマ街道」という。北はヨセミテ国立公園から南はロサンゼルスまで続く。インターステイツ5や州道99といった太平洋岸の主要道路などを走らなくとも,シエラネバダ山脈を越えた東の盆地を走るこの国道395は風光明媚で知られているが,私はそんなことさえも知らなかった。
 ともかく,そうした状況をまったく知らず,この晩はイニョカーンのモーテルを予約してあったから,そのモーテルを目指して,遅い昼食を「Jack in the box」でとってから,カーナビの案内に従って,まず州道99を南下し昨晩泊まったベーカーズフィールドまで戻り,そこを左折して州道58に入って南東に走り,さらに途中で州道14に入り北東に走っていった。
 道路のまわりはカリフォルニアの大地が広がっていて,きわめて爽快であった。
 はたして明日デスバレー国立公園へ行くことができるのだろうか? と思いながら,夕日の沈みゆくカリフォルニアの青い空の下をイニョカーン目指したのだった。

 今から50年くらい昔,私が将棋に凝っていたころは,後に十六世名人となる棋士・中原誠さんの若き時代でした。当時無敵を誇っていた大山康晴十五世名人をバッタバッタとなぎ倒して,タイトルをどんどんと奪取していきました。その経緯は雑誌「将棋世界」の今月号に詳しく載っています。棋士中原の将棋の指し手はまさに教科書通りで単純明快そのものでした。私は子供心に「そうか一番強い人のやっていることは単純なものなのだなあ」と驚き,感銘を受けたものです。
 おそらく,その「単純であること」が最も難しいのでしょう。
 それは将棋に限りません。何事も,このように「単純であること」が理想なのでしょう。単純であるということはよくわかりかつ明確なので,だれにでも理解しやすいのです。それは,こうした勝負の世界では勝ちにつながり,学問の世界では美しい学説となります。しかし,商売の世界では,そこに他人に罠を仕掛けることができないので,お金がもうからないのです。そこで,商売では,わざわざ工夫を凝らして,あえてわかりにくくするのです。それが資本主義の社会の仕組みというものです。

 たとえば,税金ひとつとってみても,その仕組みを理解している人は多くないでしょう。会社員の場合など,年末調整でいわれた通りに書類を出しているだけなので,そのからくりをまったくわかっていない人がほとんどです。様々な商品もまた同じです。それは携帯電話の料金しかり,電気料金しかり。日常不可欠なインフラでさえもそうした現状なのです。
 たとえば「健康祝い金付き生命保険」というものがあります。満期まで一度も保険を使わなければお祝い金として50,000円差し上げます,とかいうものです。しかし,「健康祝い金」というのは,実際は免責金額が書いてあることなのです。もし,保険で30,000円もらえるような事態が起きたとします。しかし,使わなければ50,000円戻るという保険なら,その時点であえて保険は使わないでしょう。要するに50,000円以下の保証は求めないということになる,そういうからくりなのです。ことばは悪いですがインチキです。このように,あえておかしな条件をつけて複雑にして,消費者からお金を集めているというだけなのです。
 「奨学金」という名の実情は「学生ローン」があります,これは奨学金などではなく単なるローンなのです。それを奨学金という言葉にしてだましているだけなのです。第二次世界大戦の昔から,「撤退」を「転進」と言い換えるのがこの国なのです。今でも,「一億総活躍」という甘い言葉に言い換えて,実際は国民に死ぬまで労働を押し付けようとしているのがいい例です。

 おそらく,こうした複雑さのなかその根本にある単純なたくらみを見抜く力こそが,すぐれた「不良老人」となるために必要な知恵なのでしょう。DSC_1685

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●私がセコイア国立公園を知った木●
 「シャーマン将軍の木」を見るにはずっと離れたところに駐車場があって,そこから走っている無料シャトルバスは,「シャーマン将軍の木」のあるジャイアントフォレストとジャイアントフォレスト博物館を結んでいた。「シャーマン将軍の木」はシャトルバスに乗らなくてもトレイルを歩けば行くことができる。ジャイアント博物館はそれよりかなり下ったところにあるが,博物館には別の駐車場があるので車で行くことができる。
 このあたりがセコイア国立公園のメインルートで,多くの観光客が集まる場所であった。

 「シャーマン将軍の木」の駐車場から車を出してそのまま帰路である南の方向に走っていくと,そこにジャイアントフォレスト博物館があったので,再び車を停めて博物館を見学した。
 私はこの時点ではまだクレセントミドウ・ロードの存在を知らなかったので,博物館を見終わったらそのまま帰るつもりでいたが,ここで知ったのがこのクレセントミドウ・ロードであった。博物館の右手にその道路の入口があったがわかりにくく見逃すところであった。
 クレセントミドウ・ロード(Crescent Meadow Road)は,1番目の写真のように,車がやっとすれ違えるほどの幅しかなかった。この道路を道なりに走っていくとくるりと一周してまたこの場所に戻ってくることができる。このセコイアの樹木のなかを走る狭い道路こそがセコイア国立公園最大の見どころであった。

 それは私が小学校のころのことだったが,今となっては学年を思い出せない。ずっと国語の教科書だと思っていたが,帰国後,昔の教科書が閲覧できる,とある図書館に出かけてそのころの教科書を探したのだが,見つけ出すことができななかったから,私の勘違いで,国語の教科書ではなく,何かの学習雑誌か補助教材だったのかもしれない。
 ともあれ,そこに載っていて知ったのが,巨大な木の幹をトンネルのようにくり抜いてその中を車が走っている1枚の写真であった。
 私は,それを見てアメリカというのはエライ国だと思った。そして,子供心に,ぜひセコイア国立公園に行ってみたいものだと思った。しかし,本当にそこに行けるとは思っていなかったから,その幸運が訪れたことに私は感謝した。

 車が通れるセコイアの木が倒れたというニュースをしばらくして知ったことは今も覚えているが,今回,帰国してから調べていくうちに,その木が倒れたという当時のニュース記事をインターネットで見つけた。その記事によると,木が倒れたのは2003年ということだった。
 そのころはもう,私は,アメリカはエライ国だ,というよりも,そんな客寄せのために木をくり抜いてしまうような愚を犯すから木が倒れてしまったではないか,かわいそうに,と思ったことだった。
 今回,セコイア国立公園に来て,倒れてしまった以上,その木はもはやこの国立公園には存在しないだろうけれど,当時その木があったのははたして国立公園のなかのどこだったのだろうと思った。しかし,それを探そうという気持ちは特になかった。

 現在,クレセントミドウ・ロードにはトンネルログ(Tunnel Log)といって,自然に倒れて道を塞いだセコイアの幹にトンネルをくり抜いて車が走れるようになっている箇所がある。そういう場所があることは来る前から知っていたが,それもまた,国立公園のどこにあるのかは知らなかった。
 それがこのクレセントミドウ・ロードにあった。しかし,それは私がこの国立公園を知った幹をくり抜いたセコイアの木とは全く違うものだから,偶然,私がその場所に行くことができて,しかも,私も車で通り抜けてみたが,特に感動もなかった。
 クレセントミドウ・ロードを一周し終わって帰ろうと思ったとき,オートログ(Auto Log)という立て札とその横に小さな道があるのを見つけた。実は,クレセントミドウ・ロードに入ったときにもこの立札を一瞬見つけたのだが,気にもせず通り過ぎていた。帰りもまた,同じように気にせず一旦は通り過ぎたのだが,その後で,ひょっとしたらあれこそが私がこの国立公園を知った幹をくり抜かれたセコイア木のあった場所ではないのだろうかと思い直して,引き返すことにした。

 立て札のあった場所まで戻って横の道を少し登ると駐車場があったので車を停めて外に出た。そこには説明書きがあって,その説明書きには,この場所は,昔,セコイア国立公園を紹介するときによく使われた有名な木のあった場所だということが書かれてあった。
 この場所こそが,私がセコイア国立公園を知った幹をくり抜かれたセコイアの木のあった場所なのであった。
 現在,木は倒れたまま半分土と同化していた。私は,この木と出会えた偶然に驚いた。そしてそしてまた,月日の流れを感じるとともに,人の愚かさに再び悲しくなった。
 しかし,木の幹をくり抜いて車を走らせるなどという愚行をしたことで私はこの国立公園の存在を知ったわけだから,もし,その写真を見なかったら私はこの国立公園に来ることもなかったということもまた事実なのである。

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 徳島の阿波おどり,京都の大文字の送り火など,一度は見てみたいと思っても,その方法がわからない,あるいは実際はどういう状況なのかわからない人は多いものと思います。パック旅行にでも参加するなら別ですが,個人で旅行をするとなるとなおさらです。そこで,実際に私が旅してみて,私ならこう旅をするという方法を書いてみたいと思います。
 今日は徳島の阿波おどりです。
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 今年はいろんなもめごとがあったので,毎年NHKBSで放送される日本の夏祭り,阿波おどりはやらないのかと思っていましたが,9月3日に例年どおり放送がありました。
 私は,この阿波おどりが見たくて,2年前の夏に徳島まで行ってきました。そのときのことはすでに何度かこのブログに書きました。そのときに訪れた阿波おどり会館で,職員の人が,実はいろいろ問題があってね,と言っていたのを聞いていたので,昨年から今年にかけての出来事を知って,やっぱりなあ,と思いました。
 2年前,私は,阿波おどりを見にいくに際して,どのくらい混雑するのだろうか,とか,泊るところはあるのだろうか,とか,桟敷席のチケットは購入できるのだろうか,とか,わからないことがたくさんありました。旅というのはいつもそうで,「安心・安全・快適」を旨とするパック旅行にでも参加すれば,そのすべては何の問題もなくクリアできるのでしょうが,そこには自由も生まれず,実際に行ってみても,それはテレビ画面で見ているのと変わらないと私は思うので,自分で行動できるうちは自分で旅行をしてみようとしているのですが,そうしたときにいつもこうした壁にぶち当たります。そこで私は,とりあえずは行ってみて,そこから自分なりの方法やら結論を見つけて,もし二度目の旅をするときがあれば,そのときはそのようにしようと考えています。つまり,どこに行くにも一度目はお試しです。
 そうした考えで出かけた阿波おどりでしたが,インターネットの販売ではとっくに売り切れだった桟敷席なんて,当日現地ではいくらでも売っているし,早朝に徳島市内内へ車で到着すれば,駐車場なんていくらでもあるしで,いろいろ工夫して宿舎を抑えたり,チケットをなんとか入手して行ったのに,たいへんがっかりしました。
 そもそも阿波おどりというのは,有名連という「見せる芸術」まで完成されたおどりと,そうでない一般の連の人たちの「自己満足」のおどりとの差が大きすぎて,自分も参加するという楽しみで出かける人は別として,桟敷席でお金を払っておどりを見にいくという私のような目的の場合,正直言ってがっかりした,というのが結論でした。「みせる芸術」としての阿波おどりはすばらしいので,何度でも見たいのですが,でありながら,そこに参加している人たちはプロではなく,出演料ももらっていないものなのです。そして,そうした金のとれる有名連を分散することで会場を増やして,足りない分は一般の連を参加させて少しでもお金をたくさん取ろうというシステム自体に矛盾があると感じたので,こうしたシステムがこの先ずっと維持できるわけではないだろうと,私はそのとき思いました。
 私にはそれ以上のことはわかりませんが,やはり,私が感じたような問題があったわけです。なにはともあれ,今年も阿波おどりが中止されることなく行われたことは喜ばしいことです。
 この阿波おどりに行ってみて,私がもっともたいへんだったのはその暑さでした。私の行った2年前でもたいへんだったのに今年はさらに暑かったから,もし,私がそんな夏に徳島市まで行ったとして,夜になるまで人混みのすごい街中で過ごすなんていうことをしたとすれば限界だったことでしょう。
 この先,私が再び阿波おどりを見にいくことがあるとすれば,今度は,長距離バスで行くか,あるいは,車で出かけて早めに駐車場を確保してから当日の桟敷席のチケットを手に入れます。そして,夜になるまでは電車に乗ってどこか郊外に行ってのんびりと観光をして,夕方に徳島市に戻り,阿波おどりを見終わったら,現地では宿泊せず,郊外の空いたビジネスホテルで宿泊する,あるいは長距離バスで行った場合はレンタカーでも借りて四国一周の旅でもするという方法をとることになると思います。
 そういった方法を思いつくことすら,一度は行ってみないとわからないことなのです。だからこそ,自分で旅をすることはおもしろいのです。

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私は「高等遊民」になりたい-私が行きたい日本
特別編の特別編・2016徳島阿波おどりを見にきました①
特別編の特別編・2016徳島阿波おどりを見にきました②
私が行きたかった日本-阿波徳島へ行ってきました①
私が行きたかった日本-阿波徳島へ行ってきました②

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●不思議なもので…●
 私は若いころからアメリカに憧れてはいたが,アメリカの国立公園のほとんどにこうして訪れることになろうとは夢にも思わなかった。国立公園に特に興味があるわけでもなかった。
 私のような世代は子供のころからアメリカにコンプレックスをいだき育ったから,一度はニューヨークに行ってみたい,サンフランシスコに行ってみたい… などとだれしも思っていた。私はそれを実現して,その次のステージとして,今度は,グランドキャニオンを見てみたい,アメリカには日本にない大自然があるぞということになって,国立公園に足を延ばしはじめたというだけことだったのだ。
 しかし,アメリカの多くの国立公園に行くには車がないとどうにもならないから,行きたくても行けない人も多いことだろう。私がそれを実現できてしまった幸運を不思議に思う。

 私の手元にある「地球の歩き方」の「アメリカの国立公園」編は2005年版の古いものである。常々書いているように,私はいい加減でずぼらだから,旅行に行く前にほとんど何も調べない。新しくガイドブックを買ったりもしない。つまり,行き当たりばったりである。というよりもむしろ,行く前に調べる気が起きない。それにしても不思議なのは,実際に行ってみてから後で積極的にガイドブックを読む気になることで,読んでからこんなところがあったのかと知って後悔するわけだ。
 毎回そんなことを繰り返しているわけだが,この「アメリカの国立公園」編を改めて読み返してみると,私はこの本に載っている国立公園のほとんどにすでに行ったことがあって,それもまた驚きである。さらには,私はアメリカでキャンプをするなんていうことがきるなんて当然思っていなかったが,この数年でそれさえ実現してしまったが,これもまた不思議なことである。

 多くの,というかほとんどの日本人には理解できないことであろうが,大都会を除くアメリカに暮らす人にとって,大自然というのは,それが無縁な日本人とは違って身近な存在でもあり脅威でもある。しかし,その大自然と友達にならなけらば,毎日が退屈で仕方がないと思う。日本のようにほんの数分外出すれば巨大モールがあるというのとはわけが違う。
 本当の大自然なんてまったくない日本なのに,自然に憧れて小さなキャンピングカーを手に入れて夏になればオートキャンプ場に行く人たちもいるようだが,アメリカのオートキャンプ場を知ってしまうと,日本のキャンプ場なんてままごと以下だということに気づいてしまうから,そういうことをしている人をとても気の毒に思う。
 どうやら私は知らなくてもいいことまで知り過ぎてしまったようだ。

 さて,シャーマン将軍の木を過ぎて,私が次に向かったのはクセントミドウ・ロード(Crescent Meadow Road)であった。ここがこの国立公園での一番の見どころなのである。この片道3マイル,約5キロのセコイアの樹林のなかを走る狭い道路はジャイアントフォレスト博物館(Giant Forest Museum)の南側から続いているのだが,その入口がわかりにくかった。
 私は,クセントミドウ・ロードに行く前に,ジャイアントフォレスト博物館の前にあった駐車場に車を停めて博物館に行った。博物館のなかには多くのセコイアに関する展示があった。国立公園でこういうお勉強ができるのも,また,アメリカらしいことである。展示を見てから,博物館の裏手にあったトレイルを歩いて,ラウンドミドウ(Round Meadow)という草原に行ってみた。この国立公園はセコイアの森ばかりなのに,突然,目の前に草原が広がってきて驚いた。

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●遠かった「シャーマン将軍の木」●
 キングスキャニオン国立公園でトレイルを歩きながらグラント将軍の木を見た後で,私は再び車に乗ってシーダーグローブ(Cedar Grove)を目指して細い山岳道路を走っていった。山岳道路になると,それまではセコイアの森に囲まれていたのが急に景色が変わって山並みの美しい風景になった。しかし,どこまで行っても先があるので,途中の展望台まで行って引き返すことにして,次にキングスキャニオン国立公園の南にあるセコイア国立公園に向けて再び走り出した。
 キングスキャニオン国立公園とセコイア国立公園は一体となっていて,途中にゲートがあったりはしない。セコイア国立公園に入っても依然として同じようなセコイアの森が続いていたが,やがて,ロッジポール(Lodgepole)というキャンプ場に着いた。ここには売店やレストランがあるということだったので昼食でもと思っていたが,あいにくレストランは閉まっていた。
 この国立公園はすばらしい景色が広がっていることにかけては満足したが,アメリカの国立公園にしてはゴージャスさには欠ける。というか,その素朴さがいいともいえた。
 西海岸のロサンゼルスとサンフランシスコから容易にアクセスできる国立公園であるとはいえ,アメリカは広く雄大で,この国立公園のほとんどもまた手つかずの大自然のままなのだった。

 セコイア国立公園で一番の見ものは「シャーマン将軍の木」であった。
 「シャーマン将軍の木」(General Sherman tree)というのは,セコイア国立公園内の原生林Giant Forestに生えている「セコイアデンドロン」(Sequoiadendron giganteum=ジャイアントセコイア)の巨木である。この巨木は1,487立方メートルに及ぶ体積を持つことから,地球上で最も大きな木であると同時に最も大きな生命体であると考えられている。樹齢はおよそ2,200年にもなる。
 この木の名前は南北戦争における北軍の指導者ウィリアム・シャーマン将軍(general William Tecumseh Sherman)に因んで,1879年にこの木の発見者で博物学者のジェームズ・ウォルバートン(James Wolverton)によってつけられた。ウォルバートンはシャーマンの指揮する第9インディアナ騎兵隊に中尉として参加していた。
 1880年代,近隣で設立された空想的社会主義者のコロニー 「Kaweah Colony」によってこの木は「カール・マルクス」(Karl Marx)と名づけられたこともあるという。
 一時,グラント将軍の木との間で世界一の座をめぐって論争になっていたが,1931年,シャーマン将軍の木が世界一の大きさを持つ木として認められた。
 2006年1月,この木の最も大きかった枝が折れてしまった。このL字型の枝は直径がおよそ2メートル,長さが30メートル以上あり,落下した際にこの木を囲むフェンスを壊し周囲の歩道に大きな跡を残したという。
 この木は,地面からの高さが83.8メートル,地面の位置での周囲の長さは 31.1メートルである。

 私は「シャーマン将軍の木」も車で近くまで行って簡単に見ることができると思っていたが,それは大きな誤解であった。セコイア国立公園を訪れる人のお目当てはこの木なのだから人気があり多くの人が訪れるから,広い駐車場があってそこに車を停めてからけっこうな道のりを歩かなないとこの木にたどり着くことができなかった。
 駐車場はこちらの標示にしたがってどんどんと山のなかの道路を登っていったらやがて駐車場に着いたのだが,駐車場には多くの車が停まっていて,なかなか車を停める場所が見つからかなった。ぐるぐると駐車場をまわって,やっと車を停める場所を見つけて,外に出た。そこから「シャーマン将軍の木」がある森までかなりの距離を歩いて行くことになった。「シャーマン将軍の木」の近くには障害者の人たち限定の駐車場があるが,一般の人たちはその障害者用の駐車場までシャトルバスが走っているほど遠いのだった。
 多くの人について私はそのトレイルを歩いて行った。やがて,ものすごい巨木が茂ったセコイアの森のなかに,「シャーマン将軍の木」があった。セコイアの森を歩きながら,大昔の地球はこんな森ばかりだったに違いないと思った。

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 東日本大震災で惜しくもその幕を閉じた白河天体観測所ですが,この観測所の影響を受けて,1980年代はアマチュア天文愛好家は個人のあるいはグループの天体観測所を作ることがあるいは作ろうとすることがブームでした。この歳になると,よほどしっかりした構想がなければ,そんなものを作ることのデメリットのほうが大きいことは容易にわかるのですが,若気の至りで,私もこれまでに2度ほどそうした観測所のまねごとを作ろうと思ったことがありました。そして,ほぼ行動に移し,ともにとん挫しました。

 そのひとつは自宅から3時間余りもかかる,ある山の山頂でした。ここはまあ,当時は空も暗く,星を見るには環境が悪くなかったのですが,遠すぎました。ふとしたことで話が進み,盛り上がり,数人の仲間とお金を出し合って,望遠鏡を買って,そこにそれを置く小屋を作ることになりました。そして,その小屋というのを自分たちで建てるというわけです。それはある年の夏の終わり,ちょうど今頃のことでした。
 しかし,結局,私には行くことさえ面倒な場所で,しかも冬になれば雪が積もって,行きたくとも行くともできませんでした。これではうまくいくわけがありません。結局,小屋はできたものの,私は一度も使うことがありませんでした。今はどうなってしまっているのだろうと思ったりもするのですが,モノを作るというのは作るエネルギー以上に維持するというエネルギーがいるのです。
 今,そのことを思い出すと,同時にひとつの歌が浮かびます。それは財津和夫さんが1979年に作った「虹とスニーカーの頃」という歌です。
  白いスニーカー汚さないように 裸足で雨の中僕らは歩いた
  びしょびしょぬれのトレーナーが 乾くまで抱き合った夏の昼さがり
という歌詞です。
 結局,当時の私は,星が見たかったのではないのです。そうした状況に夢を見ていただけのことでした。

 もうひとつは,それから数年後のこと,友人の家の近くに空き地があるからそこに小屋を建てようということになったのです。このときは望遠鏡を設置するなどという王業なものではなく,単に物置き小屋を買ってきて空地に建てるというだけのことでした。で,さっそく小屋を買ってきました。そうしてすぐに小屋ができたのですが,こちらもまた,一度も使わぬままになりました。車があれば,そんなもの建てなくとも,適当なところへ行けば星など見られたからです。
 今となっては,その小屋を建てた場所が本当に美しい星を見ることができた場所だったのかさえ不明です。こちらもまた,私には,そうした状況を夢見ていただけだったのですが,このときのことを思い出すと,今度ははしだのりひこさんが1969年に作った「風」という歌が浮かびます。
  人は誰もただひとり旅に出て 人は誰もふるさとを振り返る
  ちょっぴりさびしくて振り返っても そこにはただ風が吹いているだけ

 結局,私がやったのはそれだけのことです。その頃より歳をとって,少しは分別ができて,結局,人の夢というのは夢を見ているときが幸せだと気づいて,そして,同時に,なぜか当時流れていた歌が思い出として残っているのです。要するに,物質というのはそれだけのことで,それを手に入れると,その維持と,そして,その後の処分に困るのです。
 個人に限らず,モノを作ることには一生懸命でも,それを維持することの困難さを議論することがあまりに少ないのです。資本主義社会というのはそうしてモノを作って消費することばかりを考えていますが,それを維持することの困難さをあまりに軽視しているわけです。だから,この高齢者社会の日本では,これまでに作り上げてきた道路ひとつ,それを維持することもできなくなっていくのは明白なのです。
 「断捨離」の根本は,維持のできないモノは作らない,そして買わないことなのです。

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今日はアイスランド旅行LIVEの最後に,当日書かなかった2日目のゴールデンサークルの現地ツアーについて書くことにします。
私はこの旅の前,異常に人恋しくなっていて,精神状態が自分でも制御しかねる状況でした。そんな中で個人旅行をすることにずいぶんとためらいがありました。以前は,旅行中に日本人を見ても避けていたのに,このごろは自分から話しかけるようになってきました。要するになにがしか人とのつながりがないと不安なのです。そんなわけで,当地でもだれかお話相手ができればと思って,到着翌日は現地ツアーに参加することにして,出発前に予約をしました。はじめに予約をしたのが氷河の洞窟を探検するツアーでしたが,非常にツアー料金が高かったのと,内容がたいしたことがなさそうだったのでキャンセルして,改めてゴールデンサークルをすべて巡るという定番のモノに代えて,新ためて予約をし直しました。
このツアーは,京都市内観光バスや東京のはとバスツアーのようなもので,別に事前に予約しなくても当日窓口でチケットを購入することもできましたが,結果的に,このツアーを予約しておいたのは大正解でした。ツアーの参加者にはひとりの日本人もいなかったのは残念でしたし,ガイドは全て英語でしたが,それは別に問題はありませんでした。それよりも,地図を見ても複雑で,到着早々の自分では行くことが難しい場所に連れて行ってもらえました。
私の宿泊先は空港の近くで,レイキャビックからは遠く,送迎バスが来てくれないので,ツアーの集合場所はレイキャビックのバスターミナルが指定されましたが,そのためにこの便利なバスターミナルの存在を知ったことも利点となりました。
ベルトラで探して予約した現地ツアーはアメリカ資本のグレイラインのものでした。現地ツアーの大手はどうやらレイキャビックエクスカーションズという会社らしく,集合場所のバスターミナルもそのエクスカーションズのもので,グレイラインのツアーは単にその場所に送迎用のバンが停まっただけでした。しかし,そうした勝手がわからず,少し戸惑いました。バスターミナルには多くのバスが停まっていたのですが,それはすべてエクスカーションズのものだったのです。
送迎用のバンに乗ってしばらく行くとバンはグレイラインの会社に到着して,そこで大型バスに乗り換えました。
ゴールデンサークルというのは,レイキャビックの東側に広がる地熱地帯と地球の割れ目をすべて巡るコースですが,範囲が広く,道路も入り組んでいるので,自分で車を運転して巡るのは大変だったし,時差ぼけで寝不足だったので,このツアーに参加したのはよかったのですが,こうしたあなた任せの旅は帰ってからどこに行ってきたのか正確に思い出せないのが欠点です。ともかく,このツアーは,ゴールデンサークルの定番の見どころは全て網羅されていました。では,その見どころをあげておきます。
まずは,シンクヴェトリル国立公園でした。ここは地球の割れ目「ギャウ」を地上で観察できる場所です。アイスランドといえば「ギャウ」なので,まず,ここに来ることができて最高でした。次に訪れたのがグトルフォスという滝でした。この「黄金の滝」はかなりの迫力でした。アイスランドには多くの滝があるのですが,それぞれに個性があるのがおもしろいことでした。そして3番目がゲイシールという間欠泉でした。数分ごとに噴き上げる間欠泉は迫力がありました。こうした見どころをひとつひとつ結構な時間をかけて巡ることができました。はじめて京都にいって,金閣寺(鹿苑寺金閣)と清水寺と二条城を見てきたようなものです。
食事は場所だけが指定されていて,それぞれ好きなものを食べればいいのですが,どこも混んでいて,かつ高いので,おにぎり(そんなものはないけれど)を持参のほうがいいと思いました。私は当日の朝買った飲み物とマフィンをもって行ったのでそれでお腹を一杯にしました。
私が参加した現地ツアーはこれだけでしたが,レイキャビックに3泊するなら,毎日異なる現地ツアーに参加すれば,車がなくてもひととおりの観光はできることでしょう。
最後に。
私の借りた車にはUSB端子がついていたのですが,これを私の持ってきたiPhoneにつないだら充電と同時に車のステレオでiPhoneに入れてあった音楽を聴くことができて,とても便利で快適でした。おそらく,iPhone8はイヤホーン端子とlightning端子が同じになっているからでしょうが,便利な時代になったものです。

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今日は帰国の日。
朝6時,泊っていたゲストハウスを出て,空港に向かいました。空港までは10分足らずで到着しました。まず,レンタカーを返却して,空港の建物に入りました。アイスランドは根本的に人口が少ない国で,空港もまた,ほどんどが機械まかせでした。朝の空港はごった返していました。
数日前にネットで座席の指定と,ヘルシンキから名古屋までの便のアップグレードをしておいたので,機械で簡単にチェックインができました。そのままカバンだけをカウンタにもっていって預けて,セキュリティを抜けて,搭乗ゲートに行ってフライトの時間を待ちました。
搭乗ゲート付近は狭く,イスすらなく,そこにはまるでディズニーランドのアトラクションを待つように長い列ができていて,そこで搭乗時間まで立って待ちました。やがて時間になって飛行機に乗りました。
この旅で一番印象に残っているのは,この帰りのフィンランド航空の機内に入ったときの気持ちです。機内は暖かさに包まれていて,客室乗務員の笑顔にホッとしました。愛想とか心配りの皆無だったアイスランドに比べて,それは雲泥の差でした。アイスランドに行ってフィンランドがますます好きになったというのも皮肉なことでした。
アイスランドからフィンランドまでは飛行時間4時間弱,窓際の席をとったので,ずっと景色を見ました。行くことのできなかったアイスランドの氷河を機上から見ることができました。
フィンランドのヘルシンキで乗り換え。日本人と韓国人はパスポートで写真を照合するだけで簡単に手続きが終わります。そのまま名古屋へ行く便のゲートまで向かうと,まったく待ち時間なく飛行機に案内されました。
日本までのフライトは,行きと同じエコノミーコンフォートの一番前。隣の席はドイツに住んでいるという日本人の男性でした。話が弾んで,ヨーロッパについていろんな情報を聞くことができました。
アメリカへ行くのとは逆で,帰りは地球を240度進みます。時間は2倍進みます。つまり,夕方に飛び立って6時間で夜を抜け,朝の日本に着くわけです。飛び立った時は機上からヘルシンキの美しい風景を見て,その後はずっと暗闇を抜け,日本に近づくと夜が明けるわけです。機内で寝ても仕方がないのでずっと起きていましたが,どっちみち,日本に帰ってから3日くらいは体内時計がおかしいのわかっているから,じたばたしないのです。
セントレア・中部国際空港の帰国ゲートは顏認証の自動入国装置が導入されていました。こんなもの,ガラガラのこの空港にはまったく必要なく,税金の無駄使いです。といった批判を恐れ,そこに無理やり誘導されました。しかし,すぐに認証が済んでゲートを出て無事帰国… ではないのです。私は,というより,ほとんどの人はパスポートに帰国のスタンプが欲しいのです。そうした人は,再びカウンタに並びなおして,スタンプをパスポートに押してもらうわけです。つまり,従来よりもひと手間増えただけというバカげたことになったわけです。本当にこの国って,バッカじゃないの,と思いました。
最後に通関で書類を渡すときにどこから帰国ですか? と聞かれたのでアイスランド,と答えたら珍しいですね,と言われました。オーロラ見に行ったんだけれど,あんな晴れない国行っちゃいけないよ,と答えて,そのあと,ここでなぜか暇そうな係官と雑談。本当に変な国です。
こうして帰国したわけですが,行く前も帰ってからも,どうしてアイスランドに行ったのか,今もってよくわかりません。行きたくて行ったわけでもないし,想い入れがあったわけでもないし,行ってみてアイスランドが好きになったわけでもないのです。ただし,アイスランドは風景だけは世界一でした。
不思議な旅でしたが,けっこうたくさん貴重な体験をしました。

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6日目。いよいよ今日が最終日。明日の朝,帰国です。
この昨晩泊まったゲストハウスは素敵なところでした。このゲストハウスに泊らなかったら,私のアイスランドの印象はこれ以上にかなり悪いものだったことでしょう。もし晴れていれば,このゲストハウスは周囲が真っ暗なので,夜になると美しいオーロラを見ることができたことと思います。ここは宿泊代が安かったし,朝食は豪華だったし,新しくきれいだったし,部屋にシャワーとトイレがあったし,アイスランドに来るならここに泊るのが最高です。
現地でいろんな人に聞いてみたのですが,アイスランドは年中こんな天気なのだそうです。つまり,晴れません。1日のなかで目まぐるしく天気が変わります。したがって,よほど運がよく,まれに深夜に晴れ間が出ればオーロラが見られるのです。なにせ,2週間,毎日オーロラツアーに参加して一度も見られなかったという話があるくらい,この国は晴れません。この日の朝,私が部屋のテレビで見た天気予報もまた,その事実を物語っています。アイスランドはオーロラ帯の直下とはいえ,オーロラを見るために来るところではありません。
今日は特に行きたいところもないので,1号線でレイキャビックまで戻って,レイキャビックの観光をすることにしました。そして行ってみたのは,アイスランド国立博物館でしたが,そこは大変すばらしい博物館でした。
博物館といえば,レイキャビックでは,それ以外にはオーロラ博物館とかヴァイキングを主題としたサガ博物館などがありましたが,どちらも行ってみたところ大学祭の模擬店の域を出ていない民間のちんけなものだったので,中に入るのをパスしました。オーロラ博物館では係員の女性に「アイスランドって本当にオーロラ見ることができるんですか? ここはいつも天気が悪いんで来年はカナダでも行こうと思うんですが?」と話したら「そのほうがいいよ」と言われました。 
国立博物館を出た後で,「地球の歩き方」に載っていたベルクソン・マートフースというレストンランで豪華に昼食をとりました。
こうして私のアイスランド観光は終了しました。夕食は近くのマーケットでお寿司を買って食べました。私が来る前に6泊予約し,結局そのうち4泊したゲストハウスは本当にひどいところでした。途中で2泊,別の宿泊先を探して,そこに滞在したのが正解で,なんとか嫌な思いを払拭することができたおかげで,有意義な旅行になりました。
  ・・・・・・
最後に書き忘れたことの補足です。
アイスランドの名物といえば天然温泉です。そのなかで最も有名なのがブルーラグーンです。私の滞在した場所の近くにそれはありました。とりあえず一度行ってみたのですが,イモを洗うような混雑でした。ここもまた,名所といえばどこにでも主没する中国人たちが大勢たむろッていて,私はすっかり中に入る気をなくしました。

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ふたつの滝を見てから,レイニスフィラに向かいました。ここがアイスランドの最南端になります。
レイニスフィラに行く前にひとつ手前の道を右折すると,そこはレイニスフィラとは湾をはさんだ反対側の海岸で,断崖にはニシツノメドリの巣がたくさんありました。ニシツノメドリは大西洋と北極海に分布する派手な外見の鳥です。くちばしから油を排出して体中に付着させることによって水分を弾いているといいます。繁殖期に海に面した断崖の上の地面に集団で営巣します。この鳥はアイスランドでは狩猟の対象となっています。
次に行ったのがレイニスフィラでした。この海岸には無数の六角形をした石柱の山や洞窟がありました。この岩塊はレイニスドラゥンガルと呼ばれています。海岸には高い波が押し寄せていて,波にさらわれる被害が続出しているといいます。この海岸は最もアイスランドらしい風景だと思いました。
レイニスフィラを過ぎたところにヴィークという町がありましたが,そこもまた,想像以上に小さな町でした。
ヴィ―クを過ぎてさらに少し走っていったのですが,アイスランド最大の氷河であるヴィクトヨークトル国立公園まではまだ1時間以上先だったので断念して,途中で引き返すことにしました。はじめっからアイスランドを一周する気だったら6泊8日の私の旅でそれを実現することもできたのでしょうが,残念なことでした。
引き返す途中で,何があるのかわからないけれど多くの車が停まっている場所がありました。せっかく来たので私も車を停めて,多くの人が進む方向に歩いて行きましたが,その目的地に着くには1時間も歩く必要がありました。そうしてようやく到着したそこにあったのは,1973年に墜落した飛行機の残骸でした。
今日は少し贅沢な食事をとることに決めていたので,夕食はランガービングアイストラのレストランでフィッシュアンドチップスを注文しました。そして,いよいよ今日の宿泊先に向かいました。宿泊先のゲストハウスは新しく,部屋にシャワーやトイレもあり,想像以上にすばらしいところでした。

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5日目。
今日はアイスランドの南部を観光します。宿泊先は南部のランガービングアイストラとかいう町の近く,ド田舎のゲストハウスを予約しました。ネットの口コミでは極めて評価が高いので,かなりの期待でした。もともとホテルの少ないアイスランドでは夏場は事前に予約をしておかないとホテルがないという情報があったので,とりあえず,6泊すべての宿泊先を予約しておいたのが失敗でした。泊るところなどどこにでもありましたから,到着当日の夜だけを予約しておけばよかったのです。
さて,アイスランドの南部は1号線をひたすら東向きに走るだけなので,道に迷うこともありません。一旦レイキャビックまで行ってそこから1号線に乗るのが最も近いのですが,私はレイキャネース半島を42号線で南下してレイキャネース半島の南岸を427号線で走って,途中のセールフォスで1号線に合流しました。
セールフォスまでの風景が雄大でした。セールフォースを過ぎ,ランガービングアイストラで朝食をとりました。この国はこうした小さな町のガソリンスタンドに併設されたコンビニにテーブルとイスがあるので,そこでサンドイッチとジュースで朝食を済ませるのが朝食を安くあげるコツです。現地の人もそうしているようです。
その後,1号線を進み,今日行けるところまで,順に観光することにしました。運がよかったのは,今日もまたずっと雨模様だったのですが,見どころに着いて車を降りるときに限って雨がやんでいたことです。
まずはセーリャラントスフェスという滝でした。フォスというのが滝という意味のようです。1号線からかなり陸地に入るのかな,と思ったら,道路から左手に滝が見えました。滝へのアクセス道路を少し走ると駐車場があって,ここだけ有料でした。クレジットカードで機械に料金を払い,領収書を車のフロントに置いて出発です。この滝は滝の裏側を歩くことができるのがウリでした。当然のごとくべたべたになりました。
その次がスコゥガフォスでした。この滝は横に登る道があって,けっこう険しいのですが,ここを60メートルほど登りきると滝を上から見下ろすことができました。こちらの滝のほうが水量が多く,迫力がすごいものでした。多くの観光客はこれだけを見て1号線に戻るのですが,私はこのあと,滝の反対側にあったスコゥガル民族博物館に行きました。こうした博物館,中国人は来ないのです。いつも書いているように,博物館というのはいわゆるガラクタ置き場ですが,この博物館はかなり充実していて,アイスランドのことがとてもよくわかりました。野外には昔の住居が復元されていたし,博物館内にはレストランもありました。
私はこの日は節約しないで食事をすることにしていたので,おいしいスープとパンの昼食をのんびりと楽しむことができました。

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絶景だったスカイフェルスネース半島に比べてレイキャネース半島は小さく大したことがなさそうだったので行く気がなかったのですが,レイキャビックの主な見どころに行ってしまってもまだ半日残ってしまったので,午後はレイキャネース半島に行くことにしました。しかし,レイキャネース半島は見どころといってもグンヌクヴェルとブルイン・ミットリ・ヘイムサゥルヴァくらいしかなかったから,期待はしていませんでした。しかし,行ってみてよかったと思いました。
私は,まずレイキャネース半島を縦断する43号線を走ってレイキャネース半島の南岸まで行って,そこを右折して半島の先端まで行き,そこを時計回りに海岸沿いを走って北上,最後に宿泊先に戻るというコースを取りました。
半島の南岸を西に向かって走っていくと,溶岩台地に道路だけが続いていて,その先に白い噴煙が上がっていたので,なにかしかすごいものが見られるのではないかと期待しました。そして,その向こうに見えた灯台がさらに旅情を誘いました。噴煙を上げていたのは「怒れる女幽霊」がいるという地熱帯から硫黄泉が吹き上げている姿でした。ここの硫黄泉は間欠泉とは違って,常にモクモクと噴煙を上げていて圧巻でした。アイスランドは海底がそのまま隆起したようなところなので,いわば海底がそのままみられるといっても過言ではありません。つまり,この噴煙は生命の起源であるといわれる熱水噴出孔のようなものでしょう。
その先にある海の向こうに,悲劇の島・エルディ島がぽつんと見えました。このエルディ島が見える半島のさきには,さびしそうにオオウミガラスの像が建っていました。
ペンギンの祖先であるといわれるオオウミガラスは,1844年この地で絶滅したのです。
  ・・・・・・
オオウミガラスは世界で最初に「ペンギン」と呼ばれた鳥です。翼は短く飛ぶことはできませんでしたが,高速で泳ぐことができたので潜水してイカナゴなどの魚類やイカを捕食していました。
オオウミガラスは肉や卵を食用にするため,または羽毛や脂肪を採取するために8世紀頃から捕獲利用されていました。その後の大規模な乱獲で数百万羽いたとされるオオウミガラスはたちまちのうちに数を減らすことになりました。オオウミガラスは人間に対する恐怖心がなく,好奇心を持って自ら人間に近寄ってきたといわれます。1年に1個しか産卵しなかったことも絶滅に繋がったと考えられています。
1534年,フランスの探検家ジャック・カルティエの隊がニューファンドランド島に上陸し,1日で1,000羽以上のオオウミガラスを殺しました。この話がヨーロッパ中に広がってニューファンドランド島のみならず各地の海岸で無秩序にオオウミガラスが狩られ,あるいは卵が持ち去られることとなりました。そうして,1750年頃には北大西洋各地にわずかな繁殖地が残るだけとなったのです。
1820年頃,ついにオオウミガラスの繁殖地はアイスランド沖のウミガラス岩礁だけになりましたが,1830年に海底火山の噴火にともなう地震で岩礁は海に沈み,生き残った50羽ほどが近くのエルデイ島に移り住みました。
そして、運命の日1844年7月3日。
最後の個体はエルデイ島で確認された抱卵中のつがいでした。エルデイ島に上陸した3人の男達は島の絶壁で抱卵していた最後のオオウミガラス2羽を発見します。メスを守ろうとするオスを殴り殺し巣から離れまいとしたメスを絞め殺して彼らは最後のオオウミガラスの卵を投げ捨て死体を持ち帰ります。こうしてオオウミガラスは永遠に地上から姿を消したのです。
  ・・・・・・
半島をさらに北上していくと,右手に現れたのがブルイン・ミットリ・ヘイムサゥルヴァでした。ここは地球の表面を構成しているユーラシアプレートとアメリカプレートが隣接している場所で,このふたつのプレートを跨ぐように橋が架かっていました。まさに,この場所こそが「地球の割れ目」そのものでした。

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4日目。
昨晩はオーロラが見たいという淡い期待をもって,暗い空を求めて1時間以上走ったのに,天頂付近に輝く北極星をかろうじて見ただけで曇ってしまいました。真っ暗な道路を午前2時に戻ってきたために,ゆっくりめの朝を迎えました。
今日は首都レイキャビックの市内観光です。とりあえず昨日停めたバスターミナルの駐車場に車を停めてそこから街に歩いて行くことにしました。アイスランドはほとんどの場所が車停め放題なのですが,街の中心部だけパーキングメーターがありました。そういう場所に停めるのもわずらわしかったので,確実な場所に停めて歩くことにしたのです。
街の散策は,まず,この街のシンボルであるハットルグルムス教会からスタートしました。教会にある有料のエレベーターで最上階の展望台に上がると街が一望できるのですが,エレベーターが混んでいたので断念しました。この教会から北西の方角に,坂を下るようにしてバンカ通りというショッピング街があってにぎわっていました。坂を下りきったところにチョルトニン湖があって,湖を挟むようにして,小さな首相官邸と国会議事堂が建っていました。とても首都とは思えないくらい,日本で言えば小さな町役場みたいなところでした。それも当然で,この国の人口はわずか33万人,面積は北海道の1.3倍しかありません。
この小ささでユーロにも加盟せず,独自の通貨と言語を持っているのだから,国全体がママゴトみたいなものです。人が少ないから極めて治安はよいのですが,海外資本のファーストフード店はサブウェイとKFCくらいしかありません。マクドナルドは数年前のアイスランドの経済危機で撤退しました。ホテルは少なく高く,しかし値段の割に設備が悪いのだから救いようがありません。ホテルよりも,私の泊まったようなゲストハウス,つまり民宿が多く,それらはシャワールームやトイレが共有というのがほとんどです。
日本とは違って,この国の人口はずっと増加していて,物価が高ければ金利も異常に高く,高い物価もさらに毎年上がっているのです。物価とともに,住んでいる人の賃金も高く,アルバイトの時給は3,000円ほどだそうです,つまり,そういう慢性的インフレ状態なのです。しかし,外国通貨とのレートがその実情に伴っていないので,日本人からみれば異常な物価となるわけです。10年くらい前の旅行記を読んだのですが,そのころよりかなり物価が高くなっていました。
実は,アイスランドに限らず,ヨーロッパやアメリカなどの国々もまた,物価が高くなっています。日本は,ずっとデフレのままであるにもかかわらず,異常な,かつ,無理な金融緩和を続けているために,通貨レートだけが変わらないから,日本円はドルやユーロといった世界の通貨からはどんどんと弱くなっているのです。日本国内で生活するだけならわからないことですが,海外に出るとこのことを実感します。反対に,外国人観光客が日本に来ると,信じられないほどモノが安いのです。これが外国人観光客が日本に押しかける理由です。これではあと10年もすれば日本人は海外旅行ができなくなることでしょう。
そもそも,人口が増加していたときのような,モノの値段を上げて賃金も上げるなどという政策は,これだけ高齢者が多い日本では,賃金の恩恵を受けない年金生活者のほうが多く,しかも,金利が低いからこれまでに培った財産が目減りするだけなので,まったく意味がありません。
すでに海外旅行をする日本人は少なくなっていて,アイスランドもまた,日本人観光客はほとんど皆無でした。そして,この国でもまたやたらと目についたのが,「①自撮り棒にスマホをくっつけて持ち②品のない真っ黒なサングラスをかけ③女性はブランドバッグを肩にかけて男性はでかいカメラを持ち④やたらと大声を張り上げ⑤譲り合い精神のまったくない」という特徴をもつ中国人たちでした。2日前に参加した現地ツアーでも,数人のグループで来ていた中国人たちが,結構混んでいたのにもかかわらずそんなことはお構いなしでそれぞれひとりでずうずうしくバスの座席の2席を占拠していました。
さてレイキャビックの観光ですが,港にあるアイスランド交響楽団の本拠地であるハルパまで街をひと通り歩いたら,私はもう行くところがなくなりました。それでもまだ午前中だったので予定を変更して,午後はレイキャネース半島の観光をすることにして駐車場に戻りました。天候は今日もまた曇り時々小雨。雨を弾くパーカーを持ってきてよかったと思ったことでした。

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スナイフェルスネース半島は先端が国立公園になっていますが,先端部分だけでなく,この半島すべてが国立公園であってもなんの不思議もないところでした。さて,私は,反時計回りに先端をまわって,いよいよ南海岸にたどり着きました。
南海岸のはじめに見どころは,ジュパロゥンスサンドゥルという黒砂海岸でした。駐車場に車を停めて,海岸に向かってかなり歩いて行くと,やがて苔に覆われた溶岩に黒砂の海岸が現れました。海岸には1948年に難破したイギリス船の残骸が無残に散らばっていました。
その次の見どころがアルナルスターピでした。ここの海岸線からの景観は最高でした。溶岩でできた海岸線はハワイ島にも同じようなところがありましたが,こちらの方がずっと規模が大きく見事でした。空があまりに広く,そのために広さが逆に実感できませんでした。
最後の見どころがイートリトゥンガでした。ここに行く道路には何の表示もなくがわかりにくく,一旦は通り過ぎてしまいました。すぎてしまったことに気づいて引き返し,海岸付近に多くの車が停まっているで見当をつけて道を曲がりました。この道路は舗装されていなくて,凸凹道をかなり走る必要がありました。こうなるとパンクが心配になります。駐車場に車を停めてからさらに行くと海岸に出ました。海岸の岩の上にはアザラシのコロニーがあって,よく見ると多くのアザラシが寝っころがったり泳いだりしていて,北極圏であることを実感しました。
これでスナイフェルスネース半島の観光は終わりです。
帰り道は有料の海中トンネルをやめて遠回りをすることにしました。せっかく来たのに風景のよい道をスキップしてしまうのはもったいないと思ったからですが,観光にはこの迂回はよい選択になりました。
途中でヒツジが道路に出てきました。アラスカではトナカイ,ニュージーランドではウサギ,アメリカ本土の国立公園ではバイソン,オーストラリアではカンガルーと,いろんな動物と遭遇しますが,轢いてしまうとあとが大変なので要注意です。
結局,この旅の間で青空が見えたのはこの日だけでした。夜,せっかく晴れたのだからと宿泊先を出て,あてもなく1時間,市街地の灯りのなくなるレイキャネース半島の南岸まで走っていって,そこで偶然発見した無料のキャンプ場で午前1時まで空を見上げました。しかし,次第に曇ってきて雲の合間にやっと星を見ることはできましたが,オーロラの姿はありませんでした。この国はオーロラベルトの下にあるというのがウリのようですが,実際はほとんど晴れず,オーロラなんてめったに見られないというのが現実でした。
これで3日目が終わりました。

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太川陽介さんのやっていたバス旅では「魔の3日目」ですが,私の場合は「幸せのはじまる」3日目です。毎回,時差ボケと土地勘がなく右往左往するはじめの2日は,いつももう旅行なんてするものかと思うのですが,それを乗り越えるとやっと旅気分になれるのです。
昨晩はシャワーも浴びてよく寝て,朝はホテルでまともな朝食が出ました。これをおなかいっぱい食べてやっと体制が整いました。
今回のアイスランド旅行では,物価が異常に高いことが致命的でした。フィンランドも物価が高いようですが,私がそう感じなかったのは,宿泊したホテルの朝食が豪華だったからでしょうか。
ほとんど決まっていなかった旅のスケジュールもやっと決定しました。いくら行く前に調べても,来てみないとわからないことが多すぎるのです。今回は,わけのわからない,かつ,疲れがピークの2日目は現地ツアーに参加したのですが,これが正解でした。
さて今日はスナイフェルスネース島を観光することにしました。この半島はレイキャビックから北に2時間ほどですが,半島のつけ根の場所に泊まったので,そのまま54号線を進むだけでした。途中で半島の北側に出る56号線と二股になるので右折して56号線に移り,島の北側に出て反時計回りで半島を一周することにしました。
キルキュフェトル山をまず見学してから,半島の北側を西に半島の先端まで行きました。そこには絶景が広がっていました。

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この旅は1日目に泊まった極めて安価なゲストハウスに6泊するように予約が入れてあったのですが,トイレとシャワーが共用で,しかも石鹸やタオルすらないので,参りました。2泊くらいなら我慢もできますが,6日となると気が滅入りました。そしてまた毎日同じ場所に戻ってくるのでは移動ができません。大失敗でした。
ということで,このゲストハウスの予約はそのままにして,滞在中の中で2日ほど別のホテルに泊まることにしました。そうして探した,そのうちの1泊目の宿泊地として選んだのがスナイフェルスネース半島の入口にあるボルカルネースという田舎町のはずれにあるモーテルでした。
レイキャビックからは車で北に1号線を1時間30分ほど行ったところで,現地ツアーが終わったあとそのまま直行しました。1号線は元々は途中の入江を大きく迂回していたようですが,有料の海底トンネルが作られていました。しかし,有料トンネルだという表示はアイスランド語なのでさっぱりわからず,したがって料金所もどこなのかわからず素通りしてしまったようで,トンネルを出たところの赤信号で止められました。日本と違ってゲートがないので困ります。係員が出てきてお金を取られただけで済みました。
モーテルは海に面したところにありました。シャワーもありコーヒーも飲み放題でやっと救われました。
夕食を探しに近くの町には出ました。バスターミナルにはフードコートがあって,スープとパンで2,000円相当の夕食にありつけました。隣にはデイスカウントセンターがあって,やっと120円相当のコカコーラを発見したので買いました。
夜,晴れていればおそらくオーロラが見えるのでしょうが,この晩も全面曇りでした。深夜1時に限って目が覚めたので外に出ると,雲の合間からカシオペア座と天頂近くに北極星が見えました。そのあたり,雲にしてはおかしな動きをするので,あれがオーロラだと思って寝ることにしました。

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アイスランドはほとんどの交差点はラウンドアバウト(ロータリー)なので,信号を見かけることはめったにないのですが,それでも信号が少しはあります。信号は黄色が出てから青が出るので,黄色になると走り出すのです。それと,水道から出る水が硫黄臭くて温泉の匂いがします。国が変わると色々です。
朝はまず,昨日予習したように,ホテルから現地ツアーのピックアップ場所まで車で行って駐車しました。
昨日書いたように,この国の物価の高さをなんとかしないと破産しそうです。下手にコーラでも買えば500円くらい吹っ飛びます。そこで,朝食はツアーバスのピックアップ場所だったバスターミナルに隣接したところにあったガソリンスタンドのマーケットでサンドイッチとアップルジュースを買って店内にあった座席で食べました。これでも約1,000円です。そしてバスターミナルに行ってターミナルの売店でマフィンと水を買いました。これが昼食です。今日参加するツアーには食事時間だけが含まれていますが、昼食に3,000円は出せません。
正直言って,この国を旅行するのは全く楽しくありません。物価高すぎです。日本の3倍くらいします。コーヒーは800 円です。ガソリンは3倍はしませんが,それでも1リットル240円くらいです。これではおみやげも買おうと思わないし,食べるのだけでも一苦労です。物価がこれほど高くなければのどかないいところなのですが。
さて,今日は1日グランドサークルをめぐる現地ツアーに参加しました。グランドサークルというのは,アイスランドにある「地球の割れ目」のわかる場所を周遊するコースで,この国の観光の目玉です。参加してわかったのは,自分でまわっていたら大変だったなあということでした。とにかくすごいスケールなのですが,この国というかこの島自体が,大自然しかないような,いわば絶望的なところなので,それに溶け込んでいました。 詳しくはまた帰国後に紹介します。
今日はずっと曇りの天気だったのですが,そのおかげでツアーの帰りにきれいな虹を見ることができました。

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今回の旅はわからないことが多すぎて楽しみというよりも不安だらけでした。
ヘルシンキに着いてアイスランドへ行く飛行機を待っていたら1組の日本人家族に会いました。お話をすると家が近くでびっくりしました。アイスランドをレンタカーでまわるのだそうです。私以外にもいるんだなあと思いました。
アイスランドまでのフライトは3時間と少しで意外に長く感じました。荷物を受け取りATMでわずかだけ両替をしました。アイスランドの通貨は現地でないと手に入りません。
レンタカーを借りていよいよ出発です。レンタカーもアイスランドはマニュアル車が一般的だそうで,事前にオートマチック車を予約してはあったのですが,もしマニュアル車だったらどうしようかと心配でした。心配をよそにちゃんとオートマチック車を借りることができました。
予約をしたのは空港の近くのゲストハウスでした。心配をよそにすんなりと場所を見つけることができて,これまた一安心でした。このゲストハウスはチェックイン時にスタッフがおらず事前にはルームキーの受け取り方法のメールが来たのですが,これまたうまく行くのか不安でした。しかしこれも問題なくうまくいって無事に部屋に入ることができました。
まだ明るかったので,明日は1日現地ツアーに参加することにしたので,その集合場所のレイキャビックのバスセンターまで行ってみました。車で20分の距離です。その帰り,軽くハンバーガーの夕食をと思ったのですが,単なるハンバーガーセットが1,999クローナ,日本円で2,000円もしてビックリしました。物価が高いとは聞いていたけれどこれほどとは。

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