しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

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 国技館のある両国というところはとても雰囲気のよいところです。大相撲のチケットをもっていなくても,このあたりを散策するだけで異次元空間に入ったような錯覚を覚えます。今回大相撲を見る前に少しこの辺りを散策してみました。
 このあたりには相撲部屋も多くあって,歩いていると意識しなくてもいくつか目にすることができます。今日の1番目の写真が八角部屋で,2番目の写真がそのお隣にある錦戸部屋です。八角部屋というのは現在解説者の北の富士さんが九重親方だったときに育てた横綱北勝海が八角親方として起こした部屋ですが,むしろこちらのほうが北の富士さんが九重親方だったときの直系です。そして,横綱千代の富士が名前としては九重親方として部屋を継いだ形となっていますが,むしろ分家のような感じです。ちなみに九重部屋もこの近くにあります。
 現在両国に部屋を構えるのは結構大変で,よほど昔からの伝統がある部屋かまたは後援会が強くお金があってこのあたりに土地を手に入れることができた部屋に限られてしまっているのが残念なことです。

 3番目の写真は葛飾北斎生誕の地という立て札で,この場所には葛飾北斎美術館もあります。江戸情緒一杯です。
 そして4番目から6番目の写真がその近くにある野見宿禰(のみのすくね)神社です。野見宿禰神社というのは相撲の始祖とされる野見宿禰を祀る神社で,兵庫県たつの市にも同名の神社があります。
 1884年(明治17年),この神社の東側に部屋があった初代高砂浦五郎によって元津軽家の屋敷跡に創建されたものです。境内はさほど広くないのですが,ここには歴代横綱之碑というのが二基あります。そのひとつは1952年(昭和27年)に建立されたもので,初代明石志賀之助から46代朝潮太郎までの名が刻まれています。もうひとつは47代柏戸剛以降の歴代の横綱の名前が刻銘されていて,最後が稀勢の里です。新しく横綱が誕生した際にはこの神社の神前で土俵入りを披露する慣例があります。

 野見宿禰というのは土師氏の祖として「日本書紀」に登場する人物で,天穂日命の14世の子孫で,第12代の出雲国造である鵜濡渟の子であると伝えられています。 
 相撲の最古の記録は「古事記」にあり,そこには,葦原中国平定で建御雷神(たけみかづち)の派遣に対して出雲の建御名方神(たけみなかた)が「然欲爲力競」と言ったのちに建御雷神の腕を摑んで投げようとした描写があります。これが相撲の起源とされていますが,これは神々の世界のこと。
人間同士の相撲で最古のものは「日本書紀」にあり,紀元前23年(垂仁天皇7年)に,垂仁天皇の命により,野見宿禰が当麻蹴速と角力(=相撲)をとるために出雲国より召喚され当麻蹴速と互いに蹴り合った末にその腰を踏み折って勝ったと言い伝えられているものです。
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 朕聞當麻蹶速者天下之力士也,各擧足相蹶則蹶折當麻蹶速之脇骨亦蹈折其腰而殺之
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 蹴り技の応酬ののち,最後に宿禰が蹴速の脇骨を蹴り折り,更に倒れた蹴速に踏み付けで加撃して腰骨を踏み折り絶命させた
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と書かれています。こうしたことから,野見宿禰は相撲の始祖として祭られているというわけです。 

 時代は進み,奈良時代から平安時代にかけて,宮中行事のひとつとして相撲節会が行われるようになり,毎年40人ほどの強者が選抜されて宮中で天覧相撲をとりました。要するに宮中のお祭りのひとつだったのでしょう。力自慢がそれを競い合い,それを見て楽しもうという考えは自然なものです。
 その最初の記録は734年(天平6年)にありますが,時代が下るにしたがって次第に重要な宮中行事となっていきました。しかし,都の政情が不安定になっていくとともに相撲節会は滞るようになり,1174年(承安4年)を最後に廃絶になりました。
 その一方で,神社における祭事として相撲をとる風習が生まれ,これは,農作物の豊凶を占い五穀豊穣を祈り神々の加護に感謝するための農耕儀礼として,現代も地方で続いています。
 相撲はまた,組み打ちの鍛錬として武士の間で広まっていきました。源頼朝は特に相撲を好み,鎌倉を中心に相撲が盛んに行われました。江戸時代に入るとそうした武家相撲は存在意義を失いましたが,土地相撲が興行化して民衆一般に広がり,興行主はこれを神事相撲の「勧進」にことよせて勧進相撲と称した見世物と化し,庶民の娯楽としてさらに隆盛するようになっていきました。そして,職業相撲としての営利的興行へと変化し,スター力士が登場,江戸相撲は黄金期を迎えることとなって,1833年(天保4年)には勧進大相撲が一大歓楽地であった両国を定場所としたのです。

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 9月26日,将棋の木村一基九段が第60期王位戦七番勝負の第7局に勝ち,4勝3敗でタイトルを獲得されました。私もうれしくて泣けました。「将棋の強いおじさん」とファンに親しまれる「いい人」は,精神的にも人間らしい弱さが勝負師としては仇となっていたのですが,無欲となったことで勝負の神様がほほえんだようです。
 若いころはものすごく強く,タイトルも間近だったのに何度挑戦しても跳ね返され,このごろはタイトル挑戦者よりも解説者としての存在となっていて,今回もまただめなのかな,と思っていただけに,この結果には驚きました。
 しばらく低迷していた木村一基九段でしたが,一念発起,新たに将棋の研究により多くの時間打ち込むようになって往年の強さを取り戻し,今年は,第60期王位戦挑戦者決定戦で羽生善治九段に勝利し,豊島将之王位への挑戦権を獲得,また,第32期竜王戦では本戦トーナメントを勝ち抜いた結果,挑戦者決定三番勝負を同じく豊島将之王位と対戦することとなって,同時期に行われる王位戦七番勝負と合わせて「十番勝負」を行っていました。
 竜王戦挑戦者決定三番勝負は惜しくも1勝2敗敗で敗退したものの,王位戦では4勝3敗で勝ち,十番勝負は5勝5敗という結果に終わりましたが,ついに初のタイトル王位を獲得しました。これまで初タイトル獲得の年長記録は有吉道夫九段の37歳6か月でしたが,木村一基新王位は46歳3か月とこの記録を9歳あまりも更新しました。
 
 木村一基新王位は居飛車党の棋士で,受けが得意であり,守りと粘りの棋風。柴田ヨクサル作の漫画「ハチワンダイバー」の登場人物である中静そよの異名「アキバの受け師」をもじって「千駄ヶ谷の受け師」という異名があります。棋士仲間の間で「勝率君」と呼ばれていたほどプロになってからの勝率が非常に高く,通算500局以上対局している棋士の中で通算勝率が7割を超えていたのが羽生善治九段との2人だけという状態が長く続いていました。しかし,タイトルにはなかなか手が届きませんでした。
 はじめて挑戦をしたのが2005年の竜王戦。決定したときには盤の前にひとり残り涙を流したといいます。しかしタイトル戦は1勝もできず敗退しました。さらに,2008年,王座戦で挑戦権を獲得しましたが,やはり1勝もできず敗退しました。また,2009年は棋聖戦と王位戦の挑戦権を獲得しましたが,棋聖戦は第3局まで2勝1敗とリードしたものの敗退,王位戦は第3局まで3連勝したもののそれ以後4連敗を喫しました。
 2014年王位戦の挑戦権を獲得しましたが,2勝4敗1持将棋でまたしてもタイトルの獲得はならず,2016年にも王位戦で挑戦権を獲得し第5局の時点で3勝2敗と先行しましたが,結果は3勝4敗でした。
 私は2018年の朝日杯将棋オープンを観戦したときに,解説者として登場した木村一基新王位を真近で見たことがあります。これだけ強くて人柄がよくてファン思いで,それでいながら,何度もタイトル戦に挑戦したのに一度も夢がかなわないなんて,将棋の神様はいないのかと思っていたのですが,やっと夢がかないました。
 インタビューで泣いていたその姿に私も泣けて泣けて仕方がありませんでした。
 「将棋の強いおじさん」タイトル獲得おめでとうございます!

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 大相撲を見にいく楽しみは,アメリカMLBと同様に,テレビでは映らないさまざまな風景をみることができることです。そして,そうした風景を写真に撮ることです。テレビで見ていると結果ばかりが気になるのですが,実際に見にいくとそれほど結果にはこだわらなくなるの不思議なことです。
 今一番の人気は,1番目の写真の炎鵬関です。以前,金沢巡業ではじめて見たときは,あんな小さな体でこれから強くなるのかしらンと思ったのですが,幕内で活躍をしています。この日に勝って勝ち越しましたが,歳をとった私は,そういうのを見るだけで泣けてきます。
 宇良という人気があった小兵力士はその後ケガをしてしまい,今場所も休場をしています。一度ケガが癒えて復帰したのですが,また同じ場所をケガしてしまい,なかなか再起ができません。どうしても小さな力士はこうしたケガが致命傷になってしまいます。
炎鵬関はなんとかケガをしないでこれからも活躍してほしいものです。

 2番目の写真は照強関の塩まき,3番目の写真は阿炎関の四股です。こうしたその力士独特のパフォーマンスも魅力のひとつです。前回名古屋場所を見たときも同じようにこうしたパフォーマンスの写真を撮っていたのですが,照強関の塩まきはすっかり頭から抜けていたので,今回はぜひ写そうと狙っていました。
 こうして高らかに塩をまく力士は,昔の水戸泉関,それに続く北桜関といたのですが,現在は照強関です。

 水戸泉関は水戸市出身で高砂部屋所属。最高位は東関脇で現在の錦戸親方です。新十両の場所の8日目から,付人の奄美富士の「勝ち星に恵まれないときはせめて塩だけでも景気よくまいたらどうですか」という進言により大量の塩を撒くようになったといいます。はじめの頃は1回目から大きく撒いていたということですが,後に制限時間いっぱいの時にのみ大きく撒くようになりました。1回にとる塩の量は何と600グラムでした。
 ロンドン公演で「ソルトシェイカー」と紹介されたというのは有名な話で,私はそのときにシェイカー(shaker=振る人)という英単語を覚えました。それ以降,日本でも「水戸泉といえば豪快な塩まき」として定着しました。
 北桜関は広島市出身で北の湖部屋所属。最高位は西前頭9枚目で現在の式守親方です。 制限時間一杯のとき大量の塩を撒くパフォーマンスで有名になりましたが,そのパフォーマンスをはじめたきっかけは,2000年の名古屋場所14日目の対水戸泉戦でした。初対戦時に負けていたため気迫で負けぬようにと対抗して多くの塩を撒いて勝ったことによります。翌秋場所で引退した水戸泉関は北桜関を「ソルトシェーカー」の後継に指名し,観客に喜ばれる塩撒き法を伝授したといいます。
 塩を撒く前にはゆっくりと大きな深呼吸し,塩を撒いた後には雲龍型のポーズをとって土俵内に入る事でも知られていました。

 四股というのは,両足を開いた状態で膝に手を添え,そのまま片方の足を高く上げて踏み下ろすといった動作を繰り返すものです。力士の足腰を鍛える基本動作で,相撲界では,もっぱら四股を踏まずして強くなることはないといわれています。逆にいえば,強い力士はそれだけよく四股を踏んでいるともいい換えられます。
 四股の語源は「醜(しこ)」という言葉にいきつくとされています。これは四股が大地を踏んで邪鬼払い的な意味があることを示唆していて,その「醜」という言葉を嫌い当て字として用いられたのが「四股」となります。つまり,足で地を踏むことで邪鬼,すなわち醜を払っている神事ともいえます。取組前に力士が土俵で行う四股は,単に準備運動を行っているだけでなく,土俵の邪鬼を払い清めているということにもなるのです。

 今,阿炎関の四股がキレイ! と話題になっています。そんなことを知らずとも,その姿を見ればそれだけでほれぼれします。私は話題になっていることは知りませんでしたが,見ていて思わずこうして写真に収めました。
 お相撲見物のおもしろさは勝ち負けだけに限らず,というよりも,むしろ勝ち負けなどどうでもよいくらい,力士が土俵に上がってから相撲を取るまでの様々な動き=所作にもあるのです。
 阿炎関の四股は,最初は少し膝を曲げながらゆっくりと片足を上げ,その足をピンとまっすぐ伸ばしますが,その状態でも身体がふらつくことがないのです。そして,その上げた足をつま先から土俵にのめりこむように下ろしていきます。

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 服部桜という力士がいます。
 通算3勝164敗1休みというこれまでの成績は,相撲史上最弱という名をほしいままにしています。
 服部桜が勝つところをみるのは,横綱白鵬が負けるのを見るよりも大変です。そもそも15日のうち7番しか取組はなく,しかも登場は一番はじめとなれば,取組を見ることすら困難なのです。
 私はなぜか,いつかはそうしたい,いつかは見てみたい,いつかは行ってみたいと思い続けていたことは奇跡的に実現してきたのですが,今回,この服部桜の取組を見ることができました。いつも13日目までに取組を終えるので期待していなかったのですが,なぜか,14日目に取組がありました。しかも,取組開始の30分ほど前,国技館の建物の外にふと出た時,偶然にもその場所入りに遭遇しました。これを奇跡といわずなんというのでしょう!
 しかし,4勝目は実現せず,順当に165敗目となってしまいました。

 服部桜は神奈川県茅ヶ崎市の出身で式秀部屋,つまり北桜関の起こした部屋所属の力士です。
 身長177センチメートル,体重85.1キログラムで,これまでの最高位は西序ノ口15枚目です。
 小学校時代にテレビで幕下の取組を見て相撲に興味をもち,中学卒業後高校に進学せず陸上競技の活動を継続すべく独自の筋力トレーニングを研究している最中,四股や摺り足が陸上競技に必要な筋肉の鍛錬に最適であることを知り入門を決意しました。
 式秀部屋に単身で訪問し入門志願を直訴,両親の承諾を得たことで正式に入門が認められ,2015年秋場所で初土俵を踏みました。つまり,これでまる4年となります。
 次の九州場所に序ノ口として番付に四股名が掲載されて以降全く勝てない場所が続いていましたが,2016年夏場所6日目の澤ノ富士戦において通算23戦目にして初白星を挙げました。
 皮肉にも服部桜が有名になったのは2016年秋場所3日目,錦城を前に立ち合いで相手に触れる前に転ぶという敗退行為で,これがマスメディアや相撲愛好家に取沙汰された上,師匠の式秀親方が事情聴取及び口頭注意を受けたことによります。これは,稽古で首を痛め立ち合いで恐怖心を感じていたゆえに行為に及んだということでした。
 このとき引退も考えたのですが「今逃げると負け犬になるぞ」と式秀親方から叱咤されて続投を決意したということです。  
 2018年初場所6日目に敗れた時点で70連敗達成,双葉山の連勝記録69を上回る事態となりましたが,2018年名古屋場所3日目颯雅に腰砕けがあったため勝利し,2勝目を挙げ,ついに連敗を89で止めました。そして,2019年初場所9日目に峰雲に寄り倒しで勝利し,3勝目をあげました。
 現在はこの日負けて31連敗中です。

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 今日の1番目の写真のように,両国国技館のチケット売り場は,開場前このような人だかりになっていました。これはわずかな枚数の当日に売り出される自由席券を手に入れて,だれよりも先に会場に入り,よい席に座ろうとする人たちでした。それにしても,よい席といったところで,国技館の最上段の一列でしかありえません。どこに座ろうとたいして差がなさそうに私には思えるのですが,これはこれでこの人たちは一生懸命です。話しかけてみると,並んでいる人には常連さんが多く,私は入り込めますが,一元さんには入れないムードいっぱいでした。
 こうした人たちがいる一方で,午後4時過ぎに観光バスで現れる団体さんもいます。私は,せっかくチケットがあるのに,午後4時から見るのではもったいないなあと思うのですけれど…。はじめの一番から見てこその相撲見物です。

 2番目の写真は先の夏場所の千秋楽でアメリカ合衆国トランプ大統領が優勝者に手渡した優勝杯,通称トランプ杯です。夏場所後は相撲博物館に展示されてありましたが,場所がはじまって,優勝杯などとともに並べてありました。ただし,これが優勝力士に贈られるのは初場所だけだそうです。
 あの騒動は夏場所千秋楽ことだったのですが,今にして思うといったいなんだったのでしょう? 大統領はMLBのボールパークのイメージしかなかったのでしょう。しかも,あれだけ準備して忖度して,来た本人は少しも楽しそうでありませんでした。それにしても,このトロフィーが優勝賜杯よりも大きいというのもなんだか複雑な気持ちです。

 そして,3番目が国技館名物の焼き鳥です。国技館といえば焼き鳥でしょう,というわけで,これを食べ,ビールを飲んで相撲見物をするのが定番となっています。ついでにみつ豆というのもまた国技館名物だったりします。私はビールはめっぽう強いけれどめったに飲まないので,この日もまた焼き鳥とお茶でしたけれど…。
 この焼き鳥は国技館の土俵の下にある秘密? 工場で作られているというのは知る人ぞ知るトリビアなのですが,もっと暖かければいいのに,それが残念なことでもありました。
 国技館というのは,日本の昔から延々と続く「芝居小屋」が今に残る建物で,およそ海外の,特にアメリカのスポーツ施設とは根本的に発想が異なります。それはそれでその国の個性だからいいのですが,升席がせまく4人も座ればぎゅうぎゅう詰め,しかも4人集まらないとチケットも買えないのが難点です。それでもまだ,国技館には2階のイス席がたくさんあり,そのイスも座り心地が悪くないので許せますが,地方場所ではイス席が少なく,しかも,そのイス席というのも駅のベンチのような固いものなので,そんなところに何千円も出して何時間も座らされるのは耐えられません。

 4番目はちゃんこです。
 お相撲は一時人気がなくなったころに結構さまざまな企業努力をして相撲以外にさまざまな企画をはじめたことで,今もそれが続いていていろいろと楽しめるようになりました。託児所もあるようですが,アメリカのMLBのボールパークのように,子どもがもっと楽しめるような遊び場があればいいのになあと思います。一度相撲関係者はアメリカのスポーツ施設を見学に行って研究するといいと私は思います。
 このちゃんこは人気で列ができるのですが,お客さんの回転が早いのでけっこうすぐに食べられます。この企画がはじまったころは相撲教習所でやっていて,なかなか入ることのできない相撲教習所に入ることができたのですが,今は,国技館の地下の会議室,といっても豪華な場所ですが,そこでやっています。せっかくやっているので,会場に大きなテレビでも設置すればいいのに,ここには何もないから,せっかくお相撲を見にきたのに,ちゃんこを食べている間は相撲が見られないというのはかなり残念なことです。
 1杯300円で量はそれほど多くないのですが,それがよくて,これだけでおなかが一杯になってしまったら,ほかのものが食べられなくなってしまうからこれで十分でしょう。私の隣に並んでいた若者はおなかが減ったと2杯頼んでいましたが。

 そして,5番目の写真は力士の入り待ちを待っている人たちです。せっかく相撲を見に来て,土俵を見ず,こうして力士が来るのを待っている人が多いので,午後3時くらいまでは館内が空いてるというわけですが,国技館では,大関以上は車で駐車場に入ってしまうので,ここに立っていても見ることができません。それ以外の力士は待っていると間近に見ることができます。本当は来る力士を待つ「入り待ち」よりも帰るときの「出待ち」のほうが力士がリラックスをしているので,一緒に写真を写したりサインをもらえるのでよかったりします。
 こうした方法は,以前は国技館だけで,地方場所ではやっていなかったのですが,これもまた,人気回復のために地方場所でもはじめました。しかし,昨年の名古屋場所が暑すぎで熱中症で見ていた人が倒れるということが起きてから,名古屋場所では中止となりました。一番見やすいのは大阪場所です。大関や横綱も見ることができるし,入口が狭く,力士とお客さんの入口が同じ場所です。
 私はこの日,ここにいる予定もなかったのですが,ちゃんこを食べて席に戻る途中でふと立ち寄ったまま,3時過ぎまでここにいることになってしまい,そんなわけで結局今回もまた,ほとんど取組を見ないで終わってしまいました。お相撲を楽しむにはどうやら体がふたつ必要なようです。

 東京へ行くと,この国はどうして首都だけが繁栄しているのだろうと,いつも疑問を感じます。行くたびにどこかかしかの工事をしています。交通網も文字通り網の目のように完備され安価でどこにも簡単にいくことができますし,Suica を持っていれば電車にも乗れるだけてなく売店でモノも買えるのでストレスフリーです。東京に住んでいる人は,この国の地方の廃退と過疎化を思い浮かべることもないでしょう。
 東北地方,九州地方など,自然災害でどこも大きなダメージを受けているにもかかわらず,その復興よりもオリンピックのための様々な建設が優先されているようにも感じます。そこで,先日のオリンピック日本代表を決めるマラソンをテレビで放送していたときに見た新国立競技場に行ってみました。アメリカのMLBのボールパークの豪華さには遠く及びませんが,それでもこんなに巨大なものを作っちゃっているんだなあと思いました。周りの道路もまた,尋常でない夏の暑さを少しでも緩和しようと,再舗装されていました。しかし,オリンピックが終わったら,オリンピック関連で作られた多くの施設は,おそらくその維持だけでも莫大な費用が発生し,その負担を今の若い人たちがずっと背負っていくのだろうと思うと,開催を素直に喜ぶこともできません。

 大相撲秋場所を見にいったとき,隣に座っていた人が言っていました。
 先日の台風で被害を受けた南房総には,定年を迎えて,全財産を投資して家を建て移り住んだ友人が多く住んでいるのだそうです。残りの人生を悠々自適に過ごそうと手に入れた土地と新居と夢でした。ところが,そうした人達は,この台風で新しく建てた家は破壊され,再び作り直す財産もなく,将来が真っ暗になって立ち直ることもできず困っているのだそうです。その一方で,これまでは高くて手が届かなったこの地方の物件が,この被害で暴落したのを絶好の機会とみて,それを買いあさろうと虎視眈々と狙っている人がいるのだそうです。
 これではハゲタカです。
 一体,この国はどうなっているのでしょう?
 この話を聞いて,やはり,モノというのは持たないに限る,この国ではモノを手に入れるということのリスクは,凡人の想定をはるかに超えているのだなあと,改めて実感したことでした。

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 9月20日金曜日から21日土曜日,東京へ出かけて,20日はNHK交響楽団の第1919回定期公演を聴き,21日は大相撲秋場所を見ました。どちらもすばらしく,とてもよい週末になりました。NHK交響楽団のことは後日書くことにして,今日は,私の見にいった翌日22日に御嶽海の優勝で終わった大相撲のことを書きます。
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 一時よりはチケットが購入しやすくなった大相撲ですが,今回は,14日目と千秋楽の抽選の申し込みをして,14日目が当選しました。大相撲に限らず,1日を楽しく過ごすことができればいいので,とても楽しみに両国の国技館に行きました。
 晴れ男の私なのに,どういうわけか両国に足を運ぶときはなぜか天気が悪く,いつも,両国界隈を散策しようとする目的が果たせません。この日もまた,雨こそ降らねど,なんとなくはっきりしない天気でした。しかも,早朝しJRの両国駅を降りたら,何となく小雨が…。しかし,雨はそれ以上は降ることもなかったので,開場まえに,やっと両国界隈を散策することができました。
 このあたり,たくさんの相撲部屋があったり,葛飾北斎や芥川龍之介の住居跡があったりと,なかなかよいところなのです。ちいさな家々がが多いのですが,駐車してある車が高級車ばかりなのがまたおかしなところで,そのアンバランスがまた興味深いところでもあります。
 
 大相撲は14日目と千秋楽は開始時時間がおそく,この日は取組のはじまるのは午前10時45分でした。
 8時の開場時間には,わずかだけ販売される自由席の当日券を買い求めた人たちが列を作り,我先に少しでもよい席をとるために競争を繰り広げていました。
 お相撲を見に来たお客さんのおもしろいところは,こうした自由席を買って毎日のように見に来る人やら,土俵溜まりで毎日観戦している人やら,チケットは持たず国技館の外で力士の場所入りを追っかけている人やら,いろんな人がいることです。しかし,共通するのは,そのどのタイプの人でも,お相撲の話をするとすぐに意気投合してしまうことにあります。
 私は,いつものこと,開始時間から最後までを楽しむために,一番はじめに会場に入って,相撲を見たり,力士の場所入りを見たり,ちゃんこを食べたり,などなど,快適な1日を過ごしました。いつも書いているように,横綱白鵬が出ないときの大相撲はおもしろいのです。それに加えて,この場所は優勝争いが最後までもつれて,一層おもしろい場所になりました。
 では,今日は私がこの日に写した,千秋楽に3敗で並んだ御嶽海関,貴景勝関,隠岐の海関の写真をご覧ください。

3日目の朝になりました。外は大雨でした。これでは外を歩けません。
朝食を終えてフロントにいた男性に聞くと,フィンランドは7月ごろは天気が悪いんだよ,でも,この時期はまだましでねえ,と言っていました。まあ,雨の日は部屋にいるほうがいいんじゃないの,だそうです。といっても,1日を無駄にもできません。予定通り,今日は,マリメッコの本社にメトロで行くことにしました。
それにしても,ものすごい雨でした。救いはお昼過ぎには上がりそうだということでした。メトロの駅までさほどの距離はないのですが,歩道は水びたし,スニーカーにも水が入ってきて,気持ちがわるいことこの上ない状態でしたが,なんとか駅に着きました。
はじめてメトロに乗ったのですが,何の問題もなく,最寄りの駅までいくことができました。最寄りの駅はヘルシンキの郊外にあって,日本と同様に地下鉄も地上を走るようになっていたので,駅は地上にありました。ところが駅に着くと,先ほど以上の雨,これでは,駅から徒歩10分ほどのマリメッコの本社までとても歩けません。
駅でしばらく雨宿りをすることにしました。

雨宿りをしていると,初老の男の人が私に話しかけてきました。彼はフィンランド語しかできないようでした。フィンランドの語学教育が日本の英語教育とは比べ物にならないとはいえ,やはり,この時代の人は日本と変わらないなあ,と思ったのですが,私が何度英語でフィンランド語はわからないといっても,話をやめません。そんなわけで,私が英語,彼がフィンランド語というように,わけのわからない会話が続き,疲れました。
雰囲気でわかったことに,彼は金持ちでした。ブランドモノの腕時計をして,多額の年金をもらっているようでした。ただし,彼は酔っぱらっていました。どの国も,年寄りは人恋しいように思いました。
雨が少し小ぶりになって来たので,彼と別れて,マリメッコの本社まで歩いて行きました。
ショールームが開くにはまだ10分程度時間があったのですが,社員食堂ではコーヒーが飲めるようでした。そこで,コーヒーを飲みながら体が乾くのを待っていると,そのうちに徐々に来客が増えてきました。みな日本人の女性でした。
やがて,ショールームが開いたので,ウィンドウショッピングです。私は買う気もないので,単に見に来ただけ。そのうちに多くの日本人女性客でいっぱいになってきました。
マリメッコからの帰り道,メトロの駅までの間にも,どれだけの日本人女性とすれ違ったことか!

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 日本では海外からの旅行者が急激に増えているという報道がありますが,それは決して日本だけのことではなりません。世界的に旅行者が増えているのです,と前回書きました。
 その結果,有名な観光地は,どこも人がひしめき合っています。東京ディズニーランドやハワイのワイキキビーチはレジャーセンターだからともかくして,富士山さらにはエベレスト山まで,人であふれかえっています。地球上にひとつしかないところに世界中から人が押しかけ,しかも観光客の絶対数がふえているのだからどうしようもありません。裕福になった人が増えて,その結果旅行をする人たちが増大して,世界の名だたるところにだれもが行きたいと思うからこういうことになるわけです。
 こうした「オーバーツーリズム」のおかげで,これまでの観光地は,秩序もへったくれもなくなってしまいました。

 観光地としては,多くのお客さんに来てもらえれば潤うからよいのですが,それも度を越すと,それまでのよさがなくなってしまい,常連さんの足が遠のき,その先見捨てられることにもなりかねません。短期的な利益を追い求めることで,長期的には不利益になることは歴史が証明しています。
 また,行く側としても,何の知識も持たずに興味半分に出かける人は,観光地にとって,一時の利益をもたらしても,所詮リピーターにもなりえないのだから,迷惑な存在です。たとえば,天体観察ツアーで懐中電灯をふりまわす輩とか,コンサートホールで私語を辞めない輩とか,立ち入り禁止の場所にも入り込んだり,植物を無断で採集したりと,およびでない人たちが多すぎます。

 私が若いころは,たとえばニューヨークの自由の女神といえども,当日チケットを購入して入ることができました。しかし,今や,事前にネットで予約しておかないとどうにもならないようなありさまです。しかもたちが悪いのは,これまで穴場とされていたところさえ,情報網の発達で穴場でなくなり,どこかしこもが観光客だらけになってしまったことです。「アンダーツーリズム」を追い求めても,そのうち,というか今でもすでに「オーバーツーリズム」を避けて,そうした人の行かないところを追い求める人が増えてきつつあるから,そうなると今度はそうした場所までもまた観光客で一杯になってしまったら,もはや,地球上には出かけたい場所はどこにもなくなってしまうのでしょう。本当に若い人は気の毒です。

私がヘルシンキ発ロヴァニエミ行きの夜行電車のことを知ったのは,「世界の村で発見!こんなところに日本人」というテレビ番組で,榊原郁恵さんがフィンランドの最北部の町ウツヨキに住む女性を訪ねるときに利用したのを見たときでした。ちょうどその番組が放送された数日後にロヴァニエミに行ったこともあって,とても身近に感じたものでした。私はヘルシンキからロヴァニエミまで飛行機を利用しましたが,こんな電車があるんだ,と思いました。そしてまた,その当時はフィンランドといえばロヴァニエミしか知らなかったので,ヘルシンキという町,そして,ヘルシンキの中央駅に興味をもちました。
私がロヴァニエミに行ったとき,オーロラ鑑賞ツアーに参加したその帰り道で,幸運にも,ちょうどロヴァニエミ発ヘルシンキ行きのこの電車が走っていくのに出会いました。
そんなこともあって,おそらく実現はしないでしょうが,いつかこの電車に乗ってフィンランドを旅したいという想いができました。私が宿泊しているホテルが中央駅に近いこともあって,私は,ぜひ,この電車を見てみようと思い立ちました。そこで,夜10時過ぎにホテルを出て,電車を見るためにホームに行ってみました。

この電車を通称「サンタクロース・エキスプレス」(Santa Claus Express)といいます。フィンランドVRグループが運行する夜行列車です。ヘルシンキ、トゥルクとサンタクロースの故郷とされるロヴァニエミを結ぶことからこの愛称があります。「大人のためのファンタジー列車」と紹介されているものです。ヘルシンキ中央駅とロヴァニエミを1日2往復しています。電車は14両から18両編成です。54号車とかいうので,そんなに長いのかと思うのですが,車両番号は1からつけられているのではありません。
車両は,デラックス寝台車と普通寝台車の指定席,そして,リクライニング2等座席車の自由席,さらに食堂車があります。
定刻の30分ほど前にホームに電車がバックでゆっくりと入ってきました。ホームには大きな荷物を持った乗客がたくさん待っていました。先頭まで行ってホームで写真を撮っていると,ホームに列車を牽いてきた機関士さんが降りてきたので,この電車に憧れて見にきたと話したらうれしそうでした。
やがて時間になって,電車が出発しました。これから800キロメートル,12時間をかけての旅の開始です。
なんだか,とても胸が熱くなりました。
こうして,私のヘルシンキでの長い,そして,楽しい1日が終わりました。

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ヘルシンキ到着2日目の夕方になりました。昨日到着して午後から街歩きをはじめて2日足らずで,私は,ヘルシンキの見どころのそのほとんどに行きました。今回の旅もいつもと同様に,きちんと何をするのかも決めず,とりあえず,絶対に行ってみたいところとできれば行きたいところくらいの場所だけを予定して旅をしているのですが,残るはまだ6日もあるので,これなら思ったよりもいろんなところへ行けそうだと思うようになってきました。今日はこのあとはホテルに帰るつもりでいましたが,その途中に,カンビ礼拝堂というところに寄ってみることにしました。
この教会は,東京・有楽町の数寄屋橋交番のあるようなところに位置している変わった形の建物です。この小さな建物のなかに礼拝堂があるのですが,内部は撮影ができません。ここはだれしも入ることができる静かな空間で,私語は厳禁,人々が祈りをささげるためだけのところです。一旦外に出ると都会のど真ん中の喧騒なのに,中はとても静かでそれがおどろきでした。建物は曲げた木を何層にも重ねられて作られたものです。入ってきた人がみな戸惑い,ある人はイスに腰かけてしばし沈黙し,ある人は場違いな雰囲気を感じ,すぐに出て行ってしまいました。私は旅歩きの疲れもあって,しばらくの間座っていました。
ホテルから5分くらいの場所にヘルシンキ中央駅があって,その近くのビルの中にフードコートがありました。夕食はおなかが満たされればいいと思ったので,そのフードコートで中華料理と日本料理のビュッフェがあったので,そこで食べました。1,200円程度で食べ放題でした。フィンランドは物価が高いと思われがちですが,それほどのこともなく,しかも,私が旅をしていたころは異常な円高だったので,より安く思えました。とにかく,昨年の夏に行ったアイスランドの物価が異常に高かったので,それと比べればどこへ行っても安く感じます。

これでこの日の予定は終えてホテルに戻ることにしていたのですが,なにせ日が沈むのが遅く,まだ明るく,部屋に戻ってもやることもありません。そこで,再び夕方に行ったシベリウス公園に行って,夕日を見ることにしました。この日はとても天気がよく,こういう機会は逃してはいけません。天気予報では明日は残念ながら雨。旅行中に雨の予報というのも,昨年の,いつも天気が悪いアイスランドを除けばほとんどないことで,ちょっとショックでしたが,この晩の天気から,明日雨になるとは信じられませんでした。
シベリウス公園についても,まだ太陽は地平線の上にあって,夕日を眺めることができました。しかし,海に沈むという期待は外れて,海の向こうの陸地に沈んでいくので,少しがっかりしました。
公園に「レガッタ」というテラスカフェがありました。結構人が並んでいたのですが,ここでドーナッツを食べることにして並びました。ここは「都会の真ん中に田舎の風景を残したい」というのが願いだとかで,なかなかいい雰囲気でした。
フィンランドでは,どこでもこうした感じのよいオープンカフェがあって,くつろぐことができます。

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テンペリアウキオ教会を出て,次に向かったのがヘルシンキ市立美術館でした。入口に大きな鳥のモニュメントがあって,象徴的でした。この美術館はテンニスパラッチという大きな建物になかにあります。テンニスパラッチ(Tennispalatsi)というのは1940年に行わる予定だったオリンピックのテニス競技場として建造されたものです。
ヘルシンキに行くと,市内の北に,オリンピックで使われたという競技場の広い公園があります。そのオリンピックというのは,第二次世界大戦後の1952年7月に行われた夏季オリンピックです。ヘルシンキでのオリンピックは,現在,NHKテレビの大河ドラマ「いだてん」でとりあげられている1940年に東京で予定されていたオリンピックが日中戦争激化を理由に中止となり,その代替として繰り上げ開催される予定になっていました。しかし,第二次世界大戦の勃発により開催が返上され,12年後の1952年に開催されたものです。なお,この大会で日本が第二次世界大戦後初の,16年ぶり夏季オリンピックの参加となりました。また,1952年の開催では,テニス競技は行われませんでした。

この美術館での見ものはムーミンを描いたトーベヤンソンの原画です。
病院の壁にかかれたという絵は,ムーミンの挿絵を思い起こしました。また,「都会のパーティ」「田舎のパーティ」というふたつの大きな壁画はもともとは市役所のホールに描かれ,それが現在この美術館にあるものですが,この絵には,ムーミンが密かに描かれています。そのときのホールの照明もそのままここに移されました。
私は,この美術館で,ひとりの若い日本人の女性に会いました。彼女は会社の夏休みを利用して,1週間ほど,ふたり旅で来ていて,友達は買い物出かけたそうです。フィンランドでは,日本人の女性のひとり旅,ふたり旅によく出会いました。日本よりずっと治安がよいことと,北欧デザインなど,女性の興味をひくものがたくさんあることなどが理由です。話をしていると,フィンランドに来てみて,やはり,日本の鬱積した社会に不安や疑問を感じるようになったそうです。

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升田幸三

 2016年7月10日のブログに「53歳の名人誕生か?-升田幸三・生涯最後の大勝負」を次のように書きました。
  ・・・・・・
 今日では将棋など人がコンピュータに勝つか負けるかくらいしか話題にならなくなりました。
 簡単にいうとおもしろくないのです。
 そもそも将棋というのは中盤のねじり合いが一番面白いのに,現代の将棋はほとんどの指し手が体系化されて,一部の熱狂的なマニアとプロ以外にはまるで量子力学の講義を聞くような難解なものになってしまいました。しかも,棋士も勝負師ではなく学者のようになってしまったから,そこには人間ドラマが介入しないので,これでは素人が見て楽しむものではありません。
 スポーツを楽しむようなわくわく感などまるでないのです。
  ・・・・・・

 ところが,あれからわずか3年とは思えないのに,V字回復を遂げた将棋。その立役者はいうまでもなく藤井聡太七段の活躍ですが,それとともに,人工知能を装備した将棋ソフトととてもうまく融合して,将棋の魅力が増しました。一時は,人間がコンピュータに勝てない将棋なんて,といわれかけていましたが,今や,コンピュータあっての将棋観戦となったのです。すごい時代です。ということで,私も自分のコンピュータにコンピュータ将棋のプログラムとして思考エンジン「dolphin1」に評価関数「Kristallweizen」を実装した「やねうら王」を使って将棋の観戦をしています。

 そこで思いついたのが,升田幸三実力制第四代名人が晩年に指したかずかずの将棋を,この「やねうら王」を使って検討してみようということでした。そして,その結果を参考にして,当時の観戦記を味わってみたのですが,それが,予想以上におもしろいものでした。
 おそらく,今の若い棋士はご存じないと思われる今から40年以上前,第30期将棋名人戦で「升田式石田流」を引っ提げて戦い,惜しくも敗北した升田幸三実力制第四代名人が,その名人戦とその後引退するまでの数年,つまり,1970年から1975年まで,途中1972年と1973年の病気休場をはさんだわずか4年間にA級順位戦で戦った将棋はとても魅力に富んだものでした。特に,2回の中原誠十六世名人,大山康晴十五世名人との対局,そして,1972年の加藤一二三九段との対局などは,今コンピュータ将棋のプログラムで検討しながら鑑賞すると,いかに当時の将棋がすごかったかが,改めてとてもよくわかります。
 観戦記を担当したのは「紅」というペンネームで朝日新聞に執筆していた東公平さんでしたが,今検討してみると,その勝因となった,あるいは,敗因となった指し手が,観戦記で指摘したものと同じであったり,あるいは,まったく異なっていたりして,それがまた読んいて人間臭くておもしろいのです。
 しかし,一番感動するのは,今のような精密にコンピュータで分析された将棋とは違って,人間の頭脳を振り絞って考えぬいたあか抜けしない将棋だったのにもかかわらず,両者の指し手に微妙に均衡が保たれていて,ずっとほぼ互角のまま終盤戦に突入していたり,あるいは,不利になっても容易に差が開かない指し手を続けていたということなのです。要するに,升田幸三,大山康晴,中原誠,加藤一二三という棋士はとてつもなく強かったのです。
 私にとって,40年以上も前の将棋が,今の時代の人工知能の力を借りて新たによみがえり,その魅力が再発見できたことが驚きでもあり,感動でもありました。

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e92e1cba (2) ところで,月刊誌「将棋世界」に連載されているアマチュアに段位を与えるという企画「昇段コース」のなかの最も難しい四・五・六段コースに掲載された第389回の問題の第4問を試しに「やねうら王」で検討してみました。
 この問題の正解はなんと「▲2一飛不成」なのですが,これを「やねうら王」は解くことができませんでした。「やねうら王」がひねり出した答えは「▲2一飛成」だったのですが,これでは勝てません。
 しかし,「▲2一飛不成」の後の指し手をこの雑誌に書かれた解答の解説のとおりに入力していっても,いつまでたっても有利にならず,それどころか評価値がどんどん開いていって,マイナス2,000点を越えて後手勝勢になってしまうのです。ところが,さらにその先まで進めていくと,「やねうら王」の気づかないある一手で後手玉に即詰みが発生し大逆転してしまいました。
 私はこれを見て,人工知能もまだ人間の能力にはかなわない「こともあるんだ」なあと大変驚きました。この問題の作者は人工知能に挑戦しているのかもしれません。しかし,こうでなければいけません。
 コンピュータの力を借りてカンニングすれば,だれだって六段が認定されてしまうようではいけないのですから,今や出題される問題はこうでなくちゃあねえ! それにしてもよくこんな問題が作れたものです。駒の配置の不自然さにも苦労がしのばれます。いったい作問にどれほどの時間がかかったことやら…。雑誌を作る人にとってもまた大変な時代になったものです。
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 海外旅行をしたいと思っている今の若い人は本当に気の毒です。それは次のふたつの理由によります。
 そのひとつは海外の物価が高いことです。日本のずっと続くデフレに加えて,それを何とかしようとして失敗を繰り返す円安政策によって円の価値はどんどんと下がっています。そこで,海外に行くと,およそどの国も日本に比べて物価が異常に高くなってしまったことです。物価だけならともかく,留学しようとしても外国の大学の学費が高く,それを払うことが非常に困難になってしまっているのです。
 海外に自分で出かける意思のある優秀な若者は海外から日本を見ているからそいういうことを知っているのですが,今から30年ほど前,日本が世界の一流国に躍り出たと錯覚した,あぶくのような一瞬のバブル時代の価値観をずっと引きずっているだけで,海外旅行といってもツアーでなければ行くことができないようなおじさまたちは,今や日本が世界から遅れてしまっていることすらご存知ありません。かつて日本の一流といわれた企業の多くが様々な問題を抱えているなさけない状況にある原因はそこにあるのでは,と私は思います。

 もうひとつの理由は「オーバーツーリズム」です。今から30年ほど前,発展途上国の人たちの多くはまだ海外旅行をする余裕がなかったので,私が海外に旅行をしても今のようには混雑していませんでした。今より治安は悪かったのですが,ずいぶんと楽しく旅ができました。今は,世界中の観光名所といわれる場所はどこもとんでもない人混みになってしまいました。日本では,さも日本が魅力に満ち人気の観光地だから多くの外国人観光客が押しかけているかのような報道がなされていますが,それはまったくの誤解です。日本に限らず,世界中どこもが観光客でごった返しているのです。 
 たとえば,世界一星がきれいだという触れ込みのニュージーランドのテカポ湖。私はこれまで2回行きました。そのときのことはすでにブログに書きましたが,実は,この場所もものすごい観光客で,私がだましだまし写した満天の星空の写真を見て行ってみたいと思う人もいるのですが,実は,テカポ湖では満足に星空を楽しむことなどできないのです。オーロラもまた,団体ツアーで行くことができるような場所は,どこも観光客でごった返しています。 
 今年の3月に行ったオーストラリアのエアーズロックは,今年2019年10月22日以降は登頂ができなくなるということもあって,この夏はとてつもない状況だったそうですし,あの険しいエベレスト山でさえも,登山客が犇めきあっていて,まるで富士登山のようです。
 一般の観光地も,京都に限らず,イタリアのローマ,中国の万里の長城,アメリカのニューヨーク,インドのタージマハル…,などなどはどこもとんでもない状況なのです。そりゃ,たとえば,自由の女神といっても,ダビンチのモナ・リザといっても,それは世界にひとつしかないから,だれしもそれを見たいと思って押しかければ,混雑するにきまっているわけです。
 このように,もはや,私が若いころにしたような旅行は,今の若い人には不可能なものになってしまいました。

 私はこれまでに多くの観光地に行くことができて,自分の行ってみたい,見てみたいということはおよそ達成してしまったので,もう未練はないのですが,若い人はそういうわけにいきません。それが気の毒な限りなのです。今の私はもうそのような観光地めぐりは卒業して,今楽しみにしている世界の天文台めぐりやクラシック音楽の作曲家のゆかりの場所などは,多くの人の興味とはちょっと違うので,海外旅行をしても,ほとんど観光客が訪れない場所であるのが,まったくもって幸せなことです。
 実際,私がこれまで旅をしてみて,よかったなあ,また行きたいなあ,と思う場所の多くは,有名な観光地ではなく,人の少ない,そして,ゆっくり滞在したいと思う場所がほとんどでした。そう考えると,今や,日本だけでなく,海外もまた,旅は心でするものなのでしょう。何もないところほど,実際は魅力に富んでいたりするものです。「オーバーツーリズム」ならぬ「アンダーツーリズム」,これこそがこれからの本当の旅の醍醐味なのでしょう。

ヘルシンキに来て,はじめてトラムに乗りました。ウィーンもそうでしたが,公共交通は待っているとすぐに来るのでとても便利です。私はヘルシンキカードというものを持っていたので,乗ってからバーコードを機械にかざす必要があったのですが,乗降口の近くにその機械があって,何の問題もなくそれをすることができました。
それにしても,ヘルシンキに限らず,ウィーンでもこれだけ頻繁にトラムやバスが走っているのが私には不思議です。日本では公共交通は結構待ち時間があるし,それでも,赤字だとかいって,その営業にさまざまな問題があるのに,どうしてこういうことが可能なのか不思議でなりません。
また,改札というものがなく,地元の人がどういうチケットを持って乗っているのかもよくわかりません。定期券のようなものを持っているのでしょうか? いずれにしても,日本のように,毎回料金を払ったりするわずらわしさがありません。それは何も公共交通に限ったことではないのですが,人が生きる支援というものに対してお役人のやっていることが根本的に何か違うような気がしてなりません。

さて,まだ時間が早かったので,次に,私はシベリウス公園に行くことにしました。この公園は,カイヴォブイスト公園とは正反対の方向にあります。東京でいえば,浅草と池袋くらいの感じです。
多くの人にとってフィンランドといえは,サンタクロースにムーミン,オーロラ,そして,マリメッコといったところでしょうが,私には,それに加えて,シベリウスがあげられます。そこで,今回の旅ではシベリウスに関した様々な場所にも行ってみたいと思っていました。
シベリウス公園はトラムの最寄りの駅で降りてからずいぶんと距離がありました。この公園は名前のとおり,シベリウスを記念して作られた公園ですが,シベリウスに関したものといっても,有名なエイラ・ヒルトゥネンの作ったパイプオルガンをイメージしたモニュメントの横にシベリウスの像があるくらいでした。
西側が海が面していて,夕日がきれいということでしたが,まだ時間が早く,太陽は高く,もっと遅く来るべきだったと後悔しました。これでは単なる地元の公園です。そこで,シベリウス公園を後にして,国立オペラ劇場を経由して,テンペリアウキオ教会に行ってみることにしました。テンペリアウキオ教会は自然の岩に囲まれた洞窟教会で,この類を見ない斬新なデザインが有名です。
途中でトラムに乗って,教会に着きました。中に入ると,ちょうどパイプオルガンの演奏が行われていたので席について聞き入りました。とても荘厳な雰囲気でした。

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ヘルシンキの中心街の南部はいわゆる下町です。こうした場所は観光客よりも地元の人が多くて,その土地の様子がとてもよくわかります。前日に行った「かもめ食堂」もこの地区にあります。
この日私が目指したのはフィンランド建築博物館とデザイン博物館でした。
フィンランド建築博物館は,20世紀フィンランドの建築家に関する資料や設計図,デザイン,建物の写真や模型などがフロアに展示された場所でした。普通の建物のなかにあって,少し入りずらい感じでした。実際,ここは博物館というより,建築の専門家にとって貴重な資料が集められた企業展示場のようなところでした。
その隣のビルにあったが,デザイン博物館でした。こちらのほうは,外観からしてまるでお城のようで,中にはいると,1階がフィンランドデザインが歴史に沿ってわかるようになっている常設展,地下1階と地上2階は企画展が行われていました。
この博物館のあるあたりを「デザインディストリクト」といって,200を超えるクリエイティブなショップ,レストラン,ホテルなどが集まっています。北欧デザインとして有名なフィンランドのデザインに興味のある人にはたまらない場所でしょう。

こららの博物館からさらに南に行くと,カイヴォブイスト公園にたどり着きます。ここは,海に向かってなだらかな斜面になっていて,高台に登ると,海の眺めが最高でした。緑豊かな公園内は市民の憩いの場で,夏には野外コンサートも開かれるところです。多くのヨットやボートが行き交う海沿いには遊歩道もあります。なお,ここには「かもめ食堂」にも登場した海辺のカフェ「ウルスラ」(Ursula)があります。
この公園にはフィンランドの独立宣言の碑があるということだったので,ぜひ見たいものだと思ったのですが,何も考えず公園に入って,あまりの広さに,その碑がどこにあるのかまったく見当もつかず,どうしようもなくなりました。だれかに聞こうと思っても,なかなか人とすれ違いません。あきらめて帰ることにしたのですが,ここまで来ると,さすがに再び歩いてホテルまで帰るには遠すぎます。そこで,はじめてトラムに乗ることにしました。そうして,トラムの乗り場に向かって歩いていくと,なんと,その途中に私が探していた独立宣言の碑がありました。
毎度のこと,私はいつもこうして偶然うまくいってしまうのです。
フィンランドがロシアから独立したのは1917年のことでした。

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◇◇◇
 Harvest Moon 2019.

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この旅は6泊8日で,最終日だけはバルト海をフェリーで渡ってエストニアの古都タリンに行くことにして,すでにフェリーのチケットが購入してあったのですが,それ以外の日程は未定でした。1日目,つまり,到着した日にヘルシンキの市内観光をして,土地勘ができました。2日目の午前には,スオメンリンナ島に行って,公共交通を利用する方法もわかり,これからどうするかと考える余裕ができてきました。明日3日目からは,ヘルシンキ中央駅から鉄道に乗って,近郊のさまざまなところに行くことができればいいなあと何となく思っていましたが,さすがにムーミンワールドは遠く,この時点には行くことをあきらめていました。

昼食を終えて,再び,マーケット広場に戻ってきました。朝,スオメンリンナ島に向かうフェリーに乗るころにはまだ閑散としていたのですが,この時間になると多くのお店が開店していました。私はお土産を買うという習慣がまったくないのですが,それらを見ることと,さらに,料理はしないのですが,その土地で売られている野菜やらお肉などを見るのは旅の楽しみです。北欧は野菜は安くないなあと思いましたが,魚や肉は日本よりずっといろんな種類のものが売られていました。
ヘルシンキは食べることに関してはまったく苦労しません。どこに行っても何か食べるところがあります。特に,シナモンロールはどこでも手に入りますが,これが日本にはあまりありません。こうしたパンやコーヒーはウィーンとはまったく違う文化です。
午後はマーケット広場から西にエスプラナーディ公園を歩き,そのあと南に向って歩きました。昨日は「かもめ食堂」しか行くことができなかったので,その近くにあるデザイン博物館と建築博物館に行ってみることにしました。私がヘルシンキに到着して空港の観光案内所で購入したヘルシンキカードには,こうした博物館や美術館にはすべて無料で入ることができるので,こうなれば行かなければ損,というわけでもありました。
エスプラナーディ公園を歩いて行くと,まず,「カッペリ」という老舗のカフェが目につきました。今回の旅では結局中に入る機会はなかったのですが,外から見ているだけでもいい雰囲気のカフェです。ここはシべリウスも通ったというお店です。さらに進むと,公園の中央にユーハン・ルードヴィーグ・ルーネベリの像があります。ユーハン・ルードヴィーグ・ルーネベリ(Johan Ludvig Runeberg)はフィンランドのヤコブスタード出身で,フィンランド人の国民詩人です。その北にはマリメッコのミコンカツ本店,さらに西に行くと,ヘルシンキ最大の書店「アカデミア」がありました。この書店は「かもめ食堂」で出てきたところで,2階にはサエコとミドリが出会った「カフェ・アアルト」があります。
このように,ヘルシンキはただ歩いているだけで十分に楽しい街なのでした。

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スオメンリンナ島から戻って,港から歩いて,ウスペンスキー寺院に行くことにしました。ここは北欧最大のロシア正教の教会です。1868年に作られたロシア正教の総本山です。赤レンガ造りで青い屋根が美しい教会,ヘルシンキ大聖堂とは対照的でした。なかに入っても,鮮やかな内装で,これもまたヘルシンキ大聖堂とは対照的でした。壁に描かれたキリストと12使徒のテンペラ画,シャンデリア,そして宗教芸術品が見ものでした。
フィンランドの国教として定められているのは「フィンランド福音ルター派教会」と「フィンランド正教会」のふたつです。このうち「フィンランド福音ルター派教会」には国民の70%に当たる385万人が所属しているのに対して,「フィンランド正教会」は所属しているのは人口のわずか1.1%の約6万人程度にとどまっています。
なお,フィンランドでは国教である「フィンランド福音ルター派教会」や「フィンランド正教会」に所属していれば所得税と合わせて「教会税」を納める必要があってその税率は1~2%で年間の教会税は3万円ほどとなるそうです。
フィンランドにキリスト教が導入されたのはスウェーデン統治時代の16世紀からで,当時宗教改革が導入され,フィンランドにキリスト教が宣教され,フィンランドのキリスト教はスウェーデン国教会の一部でした。その後,フィンランドの統治権がロシア帝国に渡り,フィンランド福音ルター派教会(The Evangelical Lutheran Church)の法的な地位がロシア皇帝に認められたため,フィンランド福音ルター派教会が確立されました。
フィンランド独立後,憲法によって国民の宗教自由が保障され,人々には自由に宗教を信仰する権利が与えられました。現在,フィンランド人の宗教信仰率において40歳以下の人々の信仰率は60%以下と低くなっています。
ヘルシンキにあるオールド教会,ヘルシンキ大聖堂,セントヨハネス教会などはフィンランド福音ルター派教会に所属している教会です。フィンランド正教会(Finnish Orthodox Church)は本来ロシア正教会の一部で,これはフィンランド独立前にロシア統治時代から関連しています。ウスペンスキー寺院がまさにフィンランド正教会の教会です。

その次に,スカイウィール・ヘルシンキという観覧車に乗りました。数か月前に乗ったオーストラリア・ブリスベンの観覧車同様,日本の観覧車と違って,乗り降りするときに観覧車は止まります。そして,何台かの観覧車に乗り込むと,一挙に観覧車は日本の観覧車より早い速度で回り始めて,3周します。日本とは考え方が違っていておもしろいです。下から見ていたよりも見晴らしがよく,ヘルシンキの街並みを遠くまで見渡すことができました。
この観覧車のユニークなところは,私は利用しませんでしが,サウナのついたゴンドラがあるというこでした。
観覧車を降りて近くのカフェで待望の昼食をとりました。サーモンスープが非常に美味でした。

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 私が6月14日に聴きにいったNHK交響楽団第1916回定期公演のことはすでに次のように書きました。
  ・・・・・・
 第1916回定期公演のメインプログラムはブルックナーの交響曲第3番でした。
 私はブルックナーが大好きですが,第3番はほとんど聴く機会がありません。そこで,この演奏会を楽しみにしていました。この演奏会の指揮者はまたまたパーヴォ・ヤルヴィさん。私はここ半年で何度パーヴォ・ヤルヴィさんの指揮する演奏会に足を運んだことでしょうか。パーヴォ・ヤルヴィさんの指揮はいつも安心して聴くことができます。それにしても,本当にレパートリーの豊富な指揮者です。
  ・・・・・・

 このコンサートのプログラムはブルックナーのほかに2曲あって,その1曲目がバッハが作曲しアントン・ヴェーベルン(Anton von Webern)が編曲したリチェルカータ(ricercata),2曲目がアルバン・ベルグ(Alban Maria Johannes Berg)のヴァイオリン協奏曲「ある天使の思い出のために」(Dem Andenken eine Engels)だったのですが,私には難しすぎて,さっぱりわかりませんでした。そこで,今回Eテレでこのコンサートが放送されたのを機に,改めて調べてみました。
 私が思っていた以上に,このプログラムは奥が深いものでした。しかし,その意をくんで聴くにはかなりの予備知識が必要で,このコンサートを味わうには,「世紀末ウィーン」のこと,アルマ・マーラーのこと,そして,アルバン・ベルグ自身のこと,これらのことを知らねばならなかったのです。私はそんなことをまったく知らずに聴いていたのですが,今になって自分の愚かさに気づかされました。これだけ熟慮されたプログラムが演奏されたことがすごいのです。

 ではまず,「世紀末ウィーン」からはじめましょう。
 「世紀末ウィーン」とは,19世紀末に文化の爛熟を示したウィーンで展開された多様な文化の総称です。ドイツから閉め出されたオーストリアには,アウスグライヒ(Österreichisch-Ungarischer Ausgleich=妥協)によってオーストリア・ハンガリー二重帝国が成立しましたが,「世紀末ウィーン」はこの政治の混乱と凋落によって人々の関心が文化面に向かった結果起きたものです。
 ウィーンにはフランツ・ヨーゼフ1世の王妃で「シシィ」の愛称をもつ悲劇のヒロイン・エリーザベトがいました。ギリシア語やラテン語だけでなく,シェイクスピア作品を原語で読め,かつ,その1節をエリザベス朝期のドイツ語で言い表すことができたというほどの語学の才に恵まれていた「シシィ」はハンガリーの風土と文化を心から愛していたといいます。「世紀末ウィーン」というのはこうした時代でした。

 美術では,アカデミックな芸術家団体「クンストラーハウス」の保守性を嫌った人々が結成した「ウィーン分離派」(Wiener Secession)が活動し,グスタフ・クリムト(Gustav Klimt)が出ました。また,ウィーン工房に参加したものの終生独自の道を歩んだ画家としてアルマ・マーラーとの愛欲を描いた「風の花嫁」で知られるオスカー・ココシュカ(Oskar Kokoschka)がいました。
 ここで登場するアルマ・マーラー,つまり,アルマ・マリア・マーラー・ヴェルフェル(Alma Maria Mahler-Werfel)はオーストリアの作曲家グスタフ・マーラー(Gustav Mahler)の妻でしたが,華麗な男性遍歴で知られます。彼女は作曲家アレクサンダー・ツェムリンスキー(Alexander von Zemlinsky)に入門し歌曲の作曲を開始しましたが,アレクサンダー・ツェムリンスキーより前にグスタフ・クリムトと深い仲にあったといいます。
 そののち,アルマはグスタフ・マーラーと知り合い,グスタフ・マーラーからの求愛に応えて結婚を承諾しました。当初こそマーラーを支えることに愛を見いだしたアルマでしたが,やがて夫婦中は冷えきりました。グスタフ・マーラーが亡くなり未亡人となったアルマは,画家のオスカー・ココシュカと関係を深めながらもヴァルター・グローピウス(Walter Adolph Georg Gropius)と再婚,ヴァルター・グロピウスとの間にもうけた娘がマノン(Manon Gropius)でした。そして,マノンのことをことのほかかわいがったのがアルバン・ベルクでした。
 1935年,マノンが18歳という若さで急死します。アルバン・ベルクは,この訃報を知るとヴァイオリニストのルイス・クラスナー(Louis Krasner)から委嘱されていたヴァイオリン協奏曲を「ある天使の想い出のために」捧げるものとして作曲にとりかかります。曲は完成しましたが,敗血症を起こしたアルバン・ベルクはそれから間もなく急逝。この曲は自分自身へのレクイエムになってしまいました。
 …とまあ,この曲には,「世紀末ウィーン」のオールスターキャストが登場するこれだけの伏線があるのです。

 この作品では,アルバン・ベルグの恩師アルノルト・シェーンベルク(Arnold Schönberg)譲りの12音技法が使われています。
 第2楽章では,12音技法によってマノンの闘病が描かれます。やがて,激しい死神との戦いの音楽がふと消え失せて,古来の調性による昇天の音楽が演奏されます。この音楽はヨハン・ルドルフ・アーレ(Johann Rudolf Ahle)によるものなのですが,アルバン・ベルクはこれをバッハのカンタータ第60番「おお永遠よ,汝おそろしき言葉よ」(O Ewigkeit, du Donnerwort)と思っていました。
  ・・・・・・
 Es ist genug:
 Herr, wenn es dir gefällt,
 So spanne mich doch aus!
 Mein Jesus kommt:
 Nun gute Nacht, o Welt!
 Ich fahr’ ins Himmelshaus
 Ich fahre sicher hin mit Frieden
 Mein grosser Jammer bleibt darnieden.
 Es ist genug!
  ・・
 もう十分です
 主よ,どうか私に休息を与えてください
 私のイエス様がいらっしゃる
 この世界よ,さようなら
 苦しみはこの世に残して心やすらかに
 私は天国へと旅立ちます
 もう十分です
  ・・・・・・
 コラールが過ぎ去ると,第1楽章で提示した基本の12音音階が美しく光を放ちながらあちらこちらで天へと昇っていき,最後にヴァイオリンの4つの解放弦の音が鳴り響くのです。
 アルバン・ベルグは,この曲でまた,さまざまな数字の暗示を織り込んだようです。2楽章の冒頭の死のダンスまでへのカデンツが22小節,コラールも22小節,曲の副題「Dem Andenken eines Engel」は22のアルファベット。この22という数字は,マノンの命日から来ています。また,2楽章の最後の和音が18個の音で構成されているのはマノンがこの世を去った年齢を表しているといわれます。
 …とまあ,これだけの予備知識が必要だったわけです。やはりウィーンは奥が深いです。また行ってこよう!

◇◇◇ 

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 朝日新聞に連載されている鷲田精一さんの「折々のことば」#1575に次のような文章がありました。
  ・・・・・・
 翔太はパパと,施設で暮らす祖母を訪ねるが,誰かわからないようで悲しくなる。帰りに寄った動物園で,檻のなかで安楽に暮らすのと,アフリカで怯えながらも気ままに暮らすのと,どっちがしあわせかと語り合う。
  ・・・・・・
 さて,どちらがしあわせでしょう。
 この文章は,痴呆症になった祖母を見舞った帰り,パパが,施設にいても親身になって世話をしてくれる介護の人がいるのはしあわせだといったという内容なのですが,どっちがしあわせかという二者択一の質問が私にはどうもひとつ意味がはっきりしません。

 昨年亡くなった私の母は,晩年,サービスつき高齢者住宅(=サ高住)にいました。そこはオートロックがあってプライバシーが守られ,ボタンひとつでお湯が出る浴槽があり,トイレがあり,キッチンがあり,BS放送も見られ,また,広い食堂がありと,至れり尽くせりのところでした。今の若い人ならば,そんなところに住めるのがうらやましいような部屋でした。
 それでも,老人は,そうした部屋にひとりで過ごしても孤独を感じるだけで,本人はしあわせそうでありませんでした。かといって,グループホームのようなところで,人間関係に悩みながら日々を過ごすのは,孤独を感じることはないでしょうが,今度は逆に,人との付き合いがわずらわしく感じるかもしれません。

 話は変わりますが,個人旅行をするのと,ツアーで旅行をするのを考えても,同じようなことがいえます。
 「安心・安全・快適」なツアー旅行は,至れり尽くせりですが,そこには自由がありません。どこか自分だけ行きたい場所があっても,そこに行くことはできません。それに対して,私がいつもそうしている個人旅行は,自由にさまざまなところに行くことができますが,絶えず不安がつきまとっています。しかも,何か起きたときには自己責任で対処しなければなりません。
 
 このような相反した二者からどちらをとるかといった選択肢そのものが正しくないのです。何事も,こうしたふたつのことには,メリットもデメリットもあるわけので,そのどちらを選ぶのかということでそれに結論づけてしまうのはまちがっているし,そうしなければならないこともあるのです。
 そこで,そのもととなることがどちらであっても,あるいは,どちらにされたしまっても,そのデメリット少しでも改善していくといったそうした工夫こそが大切なわけです。また,そのどちらも,メリットを生かしていくことが大切なのです。
 つまり,何事も受け身ではいけないのです。もともと自分が置かれた環境が決まってしまっていても,その上で,それを少しでも自分に快適なものに変えていく,そうした能動的な行為が,いつも場合も大切なことなのでしょう。そしてまた,自分でそれができないときは,周囲がそうしてあげることが必要なのでしょう。

島に到着したのが早く,まだ,どの店も開いていませんでした。そこで,私は,島を一周することにしました。この島は歩く以外に移動の方法がないのですが,それほど広くもなく,予想以上によいところでした。まず,島の中央から西に橋を渡って行ったのですが,軍の施設があるだけでした。そこで引き返し,今度は南に歩き,海の眺めのよい高台の公園から,大砲がずらりと海にならんだところまで行きました。もちろんこの大砲は今は使われておらず,その昔の雄姿を形だけとどめていました。このあたりがよく写真に出てくる要塞の跡です。キングス・ゲート・キーというところが南の波止場で,そこまで行って引き返すことにしました。
引き返しはじめたころには,次第に多くの観光客がやってくるようになりました。また,レストランや博物館も開館しはじめました。そこで,スオメンリンナ博物館に行くことにしました。博物館のある場所は島の中央に当たるところで,博物館はビジターセンターを兼ねています。博物館は意外と大きくて,いろんな展示もあり,さらに,25分のビデオで島の歴史を学ぶことができました。

その次に,潜水艦ヴェシッコ号に行きました。この潜水艦はホンモノで,第2次世界大戦で実際に使われた全長40メートルのものです。中は現役のときのまま残っていて,図鑑などで見たことがある潜水艦の内部はこういうものなんだということがとてもよくわかったのですが,意外と狭いという印象でした。寝室など寝返りも打てません。こんなものに乗って海の底に潜って任務を遂行するなんて,とても大変です。
このあと,現地の人に英語で声をかけられました。なんでも,観光で来ている人にインタビューをしているのだそうです。そこで,しばしインタビューにお付き合いをすることにしました。いろんな経験ができるものです。そのあとで,エーレンスヴァールド博物館,軍隊博物館へ行きました。
エーレンスヴァールド博物館はスオメンリンナ島の初代総督であったエーレンスヴァールドの邸宅を利用した博物館で,当時の生活がしのばれました。私は,これまでこうした博物館に数多く行きましたが,それらと比べると結構規模が小さい邸宅だと思いました。軍隊博物館はフィンランドの軍隊で使用した兵器や車両が展示された博物館でしたが,これもまた,もっと大きな博物館へ行ったことがあるので,こんなものか,という感じでした。
最後に,スオメンリンナ教会へ行きました。教会内はなんの装飾もなく,これもまた,拍子抜けでしたが,地元に根づいた教会とすれば,まあ,それ相応のものなのだろう,とは思いました。
お昼近くなったので,どこかで食事をとも思ったのですが,どのレストランも混んでいていやになりました。フェリーに乗れば15分でヘルシンキに戻れるのだから,お店の多いヘルシンキで食事をすればいいやと,早々にフェリーに乗って,スオメンリンナ島から離れることにしました。
スオメンリンナ島に限らず,観光地というのは朝早く行って混む前に引き上げるのが得策です。人と同じ行動をとっても混み合うだけでろくなことがありません …とこれは,私が長年,京都の大渋滞のなかを観光して身につけた経験です。

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スオメンリンナは4つの島からなっていて橋でつながっています。この島々はかつてフィンランドの南海岸の防衛線で「スオメンリンナの要塞」(Fortress of Suomenlinna)が築造されていました。現在はユネスコの世界遺産に登録されていて,観光客のみでなく地元民にとっても美しい行楽地として人気がある場所です。また,島には1,000人余りの人が生活をしています。私がこの島に上陸しようと待っていたフェリーがヘルシンキのマーケット広場の港に着いたとき,朝早かったこともあって,島からは通勤で多くの人が降りてきました。
島にはフェリーで行くというと大変そうに感じたのですが,20分ごとに往復する船に乗り込んでわずか15分で行くことができる場所でした。
船からの景色がとてもきれいでした。

「スオメンリンナの要塞」は,当初の名前はスヴェアボリ(Sveaborg=スウェーデンの要塞)といいましたが,1918年に愛国主義的な理由からスオメンリンナ(=スオミの城塞)と改称されたもので,星型要塞の一例でする。1748年にスウェーデン=フィンランドはロシア帝国に対する守りを目的として要塞の建造に着手しました。総責任者に任命されたのはアウグスティン・エーレンシュヴァルド(Augustin Ehrensvärd)で,その当初案には当代きっての築城の名手ヴォーバン領主セバスティアン・ル・プレストル(Sébastien Le Prestre, Seigneur de Vauban)の思想の強い影響が見られました。 セバスティアン・ル・プレストルはフランス国王ルイ14世に仕えた17世紀に活躍したフランスの軍人で,150の戦場の要塞を建設あるいは修理し53の城塞包囲攻撃を指揮したといわれます。近代的な稜堡式の要塞の築城法を体系化し「落ちない城はない」といわれたほどの要塞攻城の名手でした。
フィンランド戦争中の1808年5月3日に要塞はロシア軍に占領され,1809年のロシア軍によるフィンランド占領の足がかりとなりました。この時には実害がほとんどなかったのですが,1855年のクリミア戦争のときにはイギリス海軍とフランス海軍による艦隊の艦砲射撃で損害を被りました。
1973年には民政下に置かれ1991年に世界遺産に登録されましたが,現在も,島の一部にはフィンランド軍の施設があって立ち入り禁止となっています。

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 昔,メディアといえば新聞だったころ,朝日新聞の夕刊に月に一度程度掲載された音楽評論家・吉田秀和さんの「音楽展望」は,それはそれはおもしろいものでした。それを読むために新聞の夕刊をとっていたようなものです。
 今とは違って,クラシック音楽の知らない曲を聴くには,高いお金を出してCDを買ってくるか,NHKのFM放送を丹念に調べて,その曲がかかるのを探すといった方法しかなかった時代,その代わりに「音楽展望」を読むことで,曲を聴いたりコンサートに出かけた気になるか,はたまた,自分の知らない知識を手に入れて急に賢くなったような気がしたものでした。
 今,そんな知的好奇心をくすぐるような新聞の記事はありません。
 それをきっかけとして,私は吉田秀和さんの書いた本をずいぶんと読みました。書いてある内容が理解できたかどうかはさておき,この高貴な内容の本を読んで理解したふりをすることで,自分もそうした世界を知ったような,知識人になったようなそんな気持ちになるのが楽しかったのです。
 それは,まだ日本の大学に権威があったころ,大学の構内を散歩すると賢くなって,もっと学問をするぞという決意が沸き起こってきたそんな高揚感と同じものでした。

 私にとって,吉田秀和さんはそのような存在だったので,ほとんど本を買わなくなった今になっても,書店でKAWADEムック・文藝別冊「吉田秀和-孤高不滅の音楽評論家」という本を見つけて,思わず買ってしまいました。
 買っておいてこんなことを言ってはいけませんが,河出書房新社の出版しているこの文藝別冊の出版目的というものが私にはいまひとつよくわかりません。いろいろ調べてみても何も書かれてありません。ある情報では,「KAWADEムック」というのは「KAWADE夢ムック」というシリーズだと書かれてありましたが,この本のどこを探しても「KAWADEムック」とは書かれてあっても「KAWADE夢ムック」とは書かれていませんでした。いずれにしても,「KAWADE夢ムック」というシリーズが何を狙いとして出版されているのかもいまいちわかりません。どうして今になって,吉田秀和さんを特集した本が出版されたのか,それが私にはいまいちよくかかりません。それは,当然新たに著者にお願いして執筆してもらった原稿が載っているというわけでもないし,これまでに発表された著作から適当に集めてきただけの本だからです。生誕何年とか,何かの記念日ならともかく,そうしたものが特にないのに,今になって,吉田秀和という人の著作を集めたムックを作る意味が不明です。こんなものを買うのは,私のような著者のファンくらいのものでしょう。

 それはそれとして,この本のなかで私が一番おもしろかったのが中河原理さんの書いた「吉田秀和ノート」でした。そして,もうひとつ。この本には吉田秀和さん個人像が書かれている文章があって,それを読むと,これまで私は吉田秀和さんを聖人君主のような人だと思っていたのですが,結構お金にうるさく,女好きのおじさんということがわかって,この人もだたの人間だったなんだなあと,ホッとした半面,それまでのイメージがが崩れ去りました。
 かつて,私の父親ほどの年代の各界のリーダーだった人たちは,ずいぶんと偉大な人が多く,それとともに,確かに偉大ではあったけれども,威張っていて気難しい人が多かったようです。もし,身近にそういう人がいたら,きっとたいへんだっただろうと,今ではそう思います。だから,そうした偉大な人に原稿を依頼しにいくのはめんどうだったことだろうし,一緒にお酒を飲んでもまったく楽しくなかっただろうと,歳をとった私は思います。おそらく,偉大な人というのは,身近な存在ではなくて,物語上の,あるいは歴史上の人物としての英雄であるほうが,きっと好ましいのです。
 それはさておき,吉田秀和さんの著書のほとんどは今,電子書籍では手に入りません。電子書籍なら iPhone に保存して,いつでも気軽に飛行機の機内でも読めるのに残念です。そしてまた,この文藝別冊は文庫や新書よりも大きいので,いつも携帯するには不便です。それが私には残念です。

☆☆☆
Approach of the Moon and the Jupiter.

無題 (3)

◇◇◇

旅の2日目になりました。日本から西に向かう場合,お昼間の時間が増えるだけなので,時差は気になりませんが,体内時計がくるっているので午前4時に目覚めました。そこで,早朝にシャワーを浴びるのです。私の泊っているホテルは,ネットの口コミでシャワーでバスルームが水びたしになると書かれてあったので心配しました。実際,シャワールームには何の境もなく確かにバスルームが水びたしになります。しかし,口コミを書いていた人のように,バスタオルで敷居を作って…などという努力などしなくても,そのまま利用すれば,やがて乾くので何の問題もありませんでした。日本人はこうしたどうでもいいことに時間と情熱を注ぐので働きすぎになるのです。
ホテルには豪華なビュッフェ形式の朝食がついていました。これは予想外のことで,大変助かりました。前回ロヴァニエミに行ったときに宿泊したホテルもそうでしたが,フィンランドではホテルの豪華な朝食はふつうなのかもしれません。アメリカとはえらい違いです。そしてまた,けっこう大きなホテルだから大勢の人が泊っていると思うのですが,日本の,私がよく利用する東横インのように,朝食時間に長蛇の列ができる,ということもなく,ストレスフリーでした。

今日の予定は世界遺産のスオメンリンナ島へ行くことです。ヘルシンキといえば,昨日行ったヘルシンキ大聖堂とスオメンリンナ島,というのが有名どころで,とりあえずはその有名どころから抑えます。
私は,アメリカ旅行をするときは車の移動がほとんどなので問題はないのですが,こうして公共交通機関を使って観光をするのはどうも苦手です。現金でなくクレジットカードが使いたい,できれば乗り降り自由のパスが使いたい,といった希望があって,その塩梅がよくわからないからです。まして,フェリーともなると,利用する前からわずらわしさ満載です。一度利用してしまえば何ということもないのでしょうが,それまでの敷居が高いのです。おそらく,海外から日本に来る外国人も同様でしょう。
今回はヘルシンキカードというものを空港の観光案内所で購入したので,これを使えばよいのですが,ともかく,はじめての使用ではどうしていいのかよくわかりません。とにかく挑戦です。

スオメンリンナ島行きのフェリーはマーケット広場から出るということだったので,歩いて行きました。フェリーは公共フェリーとJTラインという私営のモノが出ていて,ヘルシンキカードで乗れるのは公共フェリーだけです。しかし,JTラインの乗り場はあれど,公共フェリーの乗り場がわかりません。
40年ほど前の学生の頃に仙台の松島に行ったとき,国鉄だったかJRだったかの乗り放題周遊券を持っていて,これが使えるフェリーの乗り場の前に私営のフェリーの乗り場があって,そちらに乗せられてしまった苦い経験をしたのですが,これを思い出しました。
何度も聞いて,公共フェリーの乗り場を見つけました。こちらの人はとても親切です。乗り場にカードリーダーがあって,乗る前にその機械にヘルシンキカードのバーコードをかざすとあったのですが,よくわかりません。ちょうど待っていた人に聞くと,地元の人はそんなもの使わないので,やはりよくわからなそうでしたが,親切になんとか教えてくれました。これで,すべての悩みが解決しました。
あとはフェリーに乗るだけです。
フェリーが来るまでマーケット広場を散策しました。マーケット広場の北側には連邦政府庁舎,大統領宮殿,最高裁判所,スウェーデン大使館,市役所と並んでいるのですが,とても官庁街という感じではないのが不思議な町です。
マーケット広場の青空市はまだ準備中でしたが,こういうのを見ると,ヘルシンキに来たなあ,という実感を覚えました。天気もよく,涼しく,最高の1日のはじまりです。

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私はこの旅でヘルシンキに6泊して,ヘルシンキ市内のことはほとんどわかりましたが,この時点ではまだ,どこに何があるのかさえわかっていませんでした。そこで,この日はホテルに帰る途中で,ヘルシンキ大聖堂に寄ることにしました。ともかくヘルシンキに来た以上は第一にヘルシンキ大聖堂でしょう,というわけでした。
マーケット広場からヘルシンキ大聖堂はとても近く,坂を少し登っただけでしたし,そもそもヘルシンキの市街地すべてが徒歩圏内でした。教会はどこもたいていは入場無料で,しかも,ヘルシンキ大聖堂は24時まで開いているので,この日のように夜に訪れるのにはもってこいの場所でした。
ヘルシンキ大聖堂前の階段には多くの人が座って,港のほうを見ていました。この日はプーチン大統領がヘルシンキに来ているということで,歓迎という大きな幕を張った車が停まっていて景観を害しているというかなんというか,それはこの日だけだったのですが,この日にはじめて来た私には意外な感じがしました。
私は1999年8月,ハンガリーのブダペストに行ったことがあるのですが,ブダペストの高台にある王宮に,日本の某宗教団体の教祖の名前が大きく書かれた垂れ幕があって,びっくりしました。それがどうしてなのか,何の行事があったのかは知りませんが,今回のヘルシンキはこの後も滞在したのでこのイメージはなくなりましたが,ブダペストはこの1日だけの滞在だったので,この時以来,私はハンガリーというとそのイメージしか浮かびません。

ヘルシンキ大聖堂(Helsingin tuomiokirkko)はフィンランド福音ルター派教会ヘルシンキ教区に属している教会で,1917年のフィンランドの独立までは「聖ニコラウス教会」と呼ばれていました。
フィンランド福音ルター派教会(Suomen evankelis-luterilainen kirkko)はフィンランドの国教で,フィンランド国民の約80.6%が会員です。ルター派(=ルーテル派)はプロテスタント最大の教派です。ルターの教説を信奉する福音主義(宗教改革の立場を採る考え方)の教会です。宗教改革者ルターの信仰に共鳴し,同調した人々ははじめローマ・カトリック教会の中にとどまって教会改革を志したのですが,結局みずからの教会をもたざるをえなくなり,1520年代後半からドイツの各領邦をはじめ,北欧諸国ごとに教会組織化を進めたものです。
ヘルシンキの中央の市街の風景の特色あるランドマークであるこの教会は,1830年から1852年にかけてネオ・クラシック様式に改築されました。カール・エンゲルによって独自にデザインされ,後継者であるエルンスト・ロールマンによって継承されたものです。毎年350,000人を越える人々が教会を訪れるということです。大聖堂の屋根には12使徒の真鍮の彫刻があり,これは世界最大の真鍮彫刻のコレクションです。
なかに入ってみましたが,思った以上に質素で,ウィーンの教会の豪華な装飾に比べて見劣りがしました。これは私には意外でした。

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「かもめ食堂」のなかは,日本人の女性客であふれていました。ちょうど玄関にひとりの若い女性がお店から出てきたので聞いてみると「私は毎年来ています」ということでした。なんでも,昨年は隣にもコーヒーを販売するお店があったそうですがそれがなくなっていたということで,日本人だけ相手の商売ではシーズン以外は厳しそうです。私はすでに夕食を済ませてしまっていたので,コーヒーだけでもと思って入りました。
ここは,日本食も食べられます。映画で出てきたおむすびもあります。
お店をやっていたのはフィンランド人の女性でしたが,日本語が話せました。

お店を出てもまだ明るかったし,ヘルシンキの街並みを知りたかったので,来たときとは別の道を歩いてホテルまで戻ることにしました。
「かもめ食堂」から東に歩いていくと海沿いに出ました。ここはエテラ港というところで,海岸沿いに北に進むとマーケット広場,さらに北に登っていくとヘルシンキ大聖堂と,ヘルシンキの代表的な景観になります。
海岸沿いを歩いていくと,オールドマーケットホールのあたりから歩道が通行止めになっていて,ものすごい数の警官でした。私はこのときまでマーケット広場の北側に大統領官邸があることを知りませんでしたが,調べてみると,要するに,プーチン大統領がこのあたりにいるわけです。多くの人が歩道に立っていたので,ずっといれば姿を見ることができたのかもしれません。
それより私はネスプラナーディ公園にあるステージでの演奏のほうが気になったので,行ってみました。多くの人が音楽を楽しんでいました。日本で言えば首相官邸の近くの日比谷公園で野外コンサートをやっているようなものですが…。

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 私がフィンランドに行って,もっとも知りたかったのはシベリウスの足跡でした。
 昨年ウィーンに行ったとき,モーツアルトの生家や博物館はすごい人でした。ベートーヴェンはそれに比べればたいしたことなく,ハイドンに至っては,ほとんど人がいませんでした。マーラーのお墓にも行ったのですが,多くの花で飾られていたモーツアルトやベートーヴェンのお墓に比べて,確かに不便なところとはいえ,来る人もなく寂しげでした。
 ということで,クラシック音楽という,人のこころを最も熱くする芸術は,一部の愛好家を除けば無縁のものであると,こうした観光地に行ってみると実感するのですが,単に話題になったからとか雑誌に載っているからといって多くの人が訪れる場所でなく,私は,こうした本当にそれを愛してやまない場所に行くことのほうがずっと落ち着くし旅をしている実感がわきます。
 今回のフィンランド旅行では,シベリウスに関した,ヘルシンキのシベリウス公園,ヤルヴァンバーという町にある自邸「アイノラ」,そして,トゥルクにあるシベリウス博物館の3つの場所に行きました。またそのことは後で詳しく書くことになるでしょう。いずれにしても,シベリウス公園は別として,「アイノラ」もシベリウス博物館も心落ち着く場所でした。そしてまた,こうした場所の空気を吸ったことで,シベリウスの音楽をこれまで以上に深く聴くことができるようになりました。

 ジャン・シベリウス(Jean Sibeliu)は,1865年に生まれ1957年に亡くなった後期ロマン派から近代にかけて活躍したフィンランドの作曲家です。7曲の不滅の交響曲とともに,「フィンランディア」(Finlandia),「カレリア組曲」(The Karelia Suite),ヴァイオリン協奏曲,「クレルヴォ」(Kullerv),トゥオネラの白鳥」(The Swan of Tuonela)などの代表作があります。日本人の琴線に触れるというか,感性が合うので,特に日本で人気があります。
 1924年から1926年といいますから,シベリウスが60歳のころに書いた交響曲第7番など数曲の作品の完成を境に,残りの30年間は作品を書かず,自邸「アイノア」(Ainola)のあった地名から「ヤルヴェンパーの沈黙」(The Silence of Järvenpää)とよばれるなぞの隠居生活をおくりました。何でも,自宅にあったラジオで,世界中から流れる自分の交響曲を聴きながら幸せな晩年を過ごした…,とこれは日本の作曲家である西村朗さんが言っていた話です。
 フィンランドの音楽学者でシベリウスの伝記作家であるエーリク・ヴァルナル・タヴァッシェルナ(Erik Werner Tawaststjerna)は,シベリウスの晩年の逸話を次のように紹介しています。
  ・・・・・・
 彼が習慣にしている朝の散歩から帰ってきた。浮き立った様子の彼は妻のアイノにツルの群れが近づいてくるのを見たのだと話した。「来たんだよ,私の若いころの鳥たちが。」彼は声をあげた。突然,鳥たちの中から1羽が陣形を離れてアイノラ上空でいちど円を描いた。するとその鳥はまた群れに戻って旅を続けていったのである。
  ・・
 He was returning from his customary morning walk. Exhilarated, he told his wife Aino that he had seen a flock of cranes approaching. "There they come, the birds of my youth," he exclaimed. Suddenly, one of the birds broke away from the formation and circled once above Ainola. It then rejoined the flock to continue its journey.
  ・・・・・・
 その2日後,シベリウスは91年の生涯を閉じました。

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到着した日から市内観光をはじめたのですが,次第に街の大きさや位置関係がわかってきました。はじめて行ったところを知るには,まずは歩くに限ります。来る前はどのくらいの気温なのかがよくわからなかったので,持ってくる服にとまどいました。摂氏25度から摂氏15度程度ということだったので長袖と半袖に戸惑いましたが,こうして歩いて観光をすると意外と蒸し暑く,半袖だけで十分でした。
また,北欧のこの季節は夜が遅く,しかも夏時間なのでいくらでも時間があります。
そこで,次に映画「かもめ食堂」のロケをしたというお店に行くことにしました。歩いて行けない距離でもなかったので,歩くことにしました。三人の鍛冶屋像のあたりを通ってさらに南に街の中心部から離れた下町まで,少し迷って,でも,なんとか到着しました。

「かもめ食堂」のことは以前このブログに書きました。「かもめ食堂」(ruokala lokki)は,群ようこさんの小説を原作とする2006年公開の日本映画で,個性的な面々がフィンランドのヘルシンキを舞台にゆったりと交流を繰り広げていく様子を描くというまったり感満載の映画です。ヘルシンキのようすがよくわかります。
そのときのブログに,
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「かもめ食堂」の撮影が行われた場所は,現在「Ravintola KAMOME」というレストランになっているそうです。小さな町ヘルシンキの中心街から歩くこと10分のところにあって,ヘルシンキの透き通った水色の空と看板がよく合っているレストランなのだそうです。看板メニューは「おいしいフィンランドボックス」というもので,旅行でフィンランドを訪れた人たちが短い滞在の間にいろんな種類のフィンランド料理を楽しんでもらえるようにと考えられたそうで,小さなシナモンロールもついてきます。私もこの夏に行ってくるとしましょう。
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と書きましたが,その場所についにやってきました。

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次に行ったのが国立現代美術館キアズマでした。アメリカ人のスティーブン・ホールという人が設計した現代アートの美術館で,玄関のマンネルヘイム元帥の像が印象的でした。海外に行くと大きな都会には大概現代美術館があるのですが,そこに展示されているものははっきり言って私にはまったくわかりません。現代美術館というのはどこも空いています。いくら感じ方は自由といっても,その前提となるなんらかの知識,そして,製作した人の意図を知るための手がかりが必要でしょう。「猫に小判」です。

国立現代美術館キアズマから中央駅を越えたところにアテネウム美術館がありました。こちらのほうはフィンランドを代表する美術館で,カール・テオドール・ホイヤーという人が設計し1887年に建てられたものだそうです。ここに展示されているのは1750年以降の世界中の美術品で,建物も展示品もすばらしい美術館でした。「美」と日本語で書かれた壁が印象的でした。
フィンランドには「カレワラ」(Kalevala)という民族叙事詩があります。日本でいう古事記のようなものです。私は先日このカレワラを題材にしたシベリウスの作品「クレルヴォ」をN響の定期公演で聴いてから関心が深まって,それが縁で少し勉強しました。「カレワラ」は,医師であるエリアス・リョンロートという人が編纂した,フィンランド各地に伝わる古い伝説や歌を集めてそこにストーリーを加えた50章に及ぶ物語です。
この美術館には,この「カレワラ」を題材としたコレクションがあって,とても興味深く見ることができました。
また,この美術館にはカフェ「アテネウム・ビストロ」が併設されていて,ここで夕食を楽しみました。このカフェではお昼にランチビュッフェを楽しむことができるそうです。

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 私が涼しいフィンランドに行っている間に,日本ではさまざまな旅番組が放送されましたので,今日は趣を変えてその話題です。
 私「でも」 Amazon の prime video を見るようになってからは,わざわざ番組表で見たい番組がいつ放送されるかを調べて録画設定をしたり番組を見ることが煩わしくなってきたのだから,若い人たちは,もはや,テレビの番組など見なくなっているのかもしれません。今日では,テレビも新聞も,それ以外の楽しみがなかった時代に生きた老人だけの娯楽のようです。そこで,テレビも新聞もそうした老人向けの旅番組やら若返り商品の宣伝やら,そんなものばかりです。
 しかし,旅番組ももはやネタ切れという感じがしないでもなくなってきました。そうなると,何を狙いとした番組かということが明確でないと,見ているほうは戸惑うだけです。まあ,時間つぶしとして見ている分には,楽しければそれでいいのですが…。しかし,私には知っていることが何度も出てきても飽き飽きしてしまいますし,教養のない出演者がつまらない質問をしていると白けてしまいますし,期待した内容でなければがっかりしてしまいます。
 とはいえ,音楽好きといってもそのジャンルによって好みが分かれるように,旅好きといっても何を求めて旅をするかによってまったく求める情報が違うので,番組作りもたへんです。それに,狭い日本,魅力的な場所や話題がそうあるものでありません。

 今回のNHKBSプレミアム「ニッポン国道トラック旅」は中山道でした。この番組は,はじめは高速道路を走り,その次に国道1号線から順に日本列島を走っていたのですが,日本の国道の番号づけは順番に走ればいいというものではないので,前回の北海道に続いて今回は中山道ということに方針変更となったのでしょうが,そんなことなら,第1回の国道1号線は東海道とでもすればよかったものを,おそらくはじめのうちはこんなふうにシリーズ化するとは思っていなかったのでしょう。
 しかし,そもそもたった1時間30分で中山道を網羅すること自体に無理があるので,こうした番組を製作しなければならない担当者の苦労というものがわかります。旧街道の名所を紹介する番組にするのなら,すでに中山道を歩くという番組がありました。その土地の人と触れ合うなら,家族に乾杯という番組があります。ゲストとのトークも魅力ですが,それもまた,同じような番組がほかにもあります。そうなると,この番組の大型トラックを使うメリットは道路を走っているときの目線が高い,という以外に何もありません。
 どの旅番組も同様ですが,ゲストの力量次第で番組がまったく変わってしまいますが,それならトーク番組と同じです。となると,最終的にはぐっさんの個性,ということになるのでしょうが,それならぐっさんの出ているよく似た番組と違いがありません。そんなわけで,私には番組としてはおもしろかったのですが,この番組の狙いがよくわからなくなってしまって,この先番組を続けるのならどうするのだろう,と思ってしまいました。

 ところで,今年も徳島の阿波おどりが録画で放送されました。
 私は,以前ブログに書いたように,阿波おどりを見たくて,ずいぶんと情報を集めて,実際に出かけたことがあります。阿波おどりは,踊る楽しみとは別に見る楽しみがあって,有料の桟敷席があります。私も行ったときには桟敷席で見ました。有名連,と言われる連の人たちのものはすばらしいものでしたが,それ以外の連は,やるほうの自己満足以外のものではなく,見ていてもおもしろいものではないなあ,というのが私の印象でした。それに加えて,暑すぎるので,私はリピートする気をなくしました。
 阿波おどりを中継する番組もまたいつも同じ内容で,マンネリ化していて今年は見る気も起きませんでしたが,それでも,何となく見ていたら,今年は違いました。
 阿波踊りは昨年のごたごたで「総踊り」というものがなくなったのが,今年は復活しました。番組はこの「総おどり」が中心に取り上げられていて,これが圧巻でした。特に,昨年のごたごたで苦労した人たち,特に天水連の連長である山田実さんの,「総踊り」が終わったあとの満足した笑顔がとてもすばらしいものでした。この「総踊り」を放送で取り上げたことで番組に芯ができました。
 おそらく,こうした,人がすべての情熱をささげたものを直に見ることができたとしたら,そのことこそが正真正銘の旅のだいご味というものなのでしょう。また,今年もまた有名連「娯茶平」の連長である岡秀昭さんのお元気な姿を見ることができて,ホッとしました。

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やっとヘルシンキ・ミュージックセンターが見えてきて,私がどこを歩いているのかわかってきました。それとともにだんだんと土地勘ができてきました。ミュージックセンターは日本人の豊田泰久さんが設計したものだそうです。入口が開いていたので中を通って先に進みました。
さらに行くとフィンランディアホールが見えてきました。この建物はアルヴァ・アアルトという人が設計したものだそうで,左右非対称のデザインが特徴の建物です。
そこで道路を渡ると国立博物館がありました。なぜかこの日,このあたりは警官だらけでした。いくら国立博物館の隣りが国会議事堂といっても何か様子がおかしいのです。そもそもフィンランドというのは治安のよい国と聞いています。何があったのでしょう?

国立博物館に入りました。建物はサーリネン,リンドグレン,ゲセッリウスという3人の人の共同設計だそうです。ここは石器時代から現代までのフィンランドの資料が展示してあります。一番豪華だったのは19世紀にフィンランドを統治していたロシア皇帝アレクサンドル1世の玉座でした。フィンランドに来るとロシアの影響をずいぶんと感じます。
展示や規模は,昨年行ったアイスランドの首都レイキャビックにあった国立博物館に似ていました。
国立博物館を出て国会議事堂の前を歩いていると多くの人がまるでパレードを待っているように歩道に立っていました。その中のひとりに何があるのか聞いてみると,なんとロシアのプーチン大統領が空港から大統領官邸に向かって通るという話でした。そこで少し待っていたら,大統領の車列が通って行くのを見ることができました。車列を見ただけで車に乗っている姿を見ることはできませんでしたが,フィンランド到着早々,すごいものに遭遇したものです。フィンランドがロシアと陸続きで以前植民地となった国だということをさらに実感しました。旅行をする限りはその国の歴史と文化を知らなければ訪れる国に失礼だと,あらためて自戒したことでした。

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ホテルに到着したのが午後3時だったので,とりあえず,市内観光に出かけることにしました。
ヘルシンキ市内は徒歩で回れます。旧市街はウィーンと同じくらいの規模です。ホテルを出て中央駅に向かって歩いていたらなんとホームに着いてしまいました。改札がないのです。この駅はエリエル・サーリネンという人が設計して1919年に完成したものです。
ホームを歩いて駅舎に入って(なんか逆ですねえ),とりあえずは駅周辺からスタートです。

まず,駅の東側にある国立劇場の外観です。この建物はオンニ・タルヤネンという人が設計して1902年に完成したフィンランドアール・ヌーヴォーを象徴する建物だそうです。中に入れないので外から見るだけにして先を急ぎます。
この後は駅の西側に回って,国立近代美術館,そして,国立博物館を目指すことにしました。しかし,到着早々で距離感がわかりません。地図を見ながら歩いていても,いまいちどこなのかわかりません。ここが博物館の建物かなと思ったところは図書館でした。とはいえ,この時点では図書館ということもわかりませんでした。どこにいるかわからなくなってしまったので,駅の西横にある中央郵便局まで戻ろうとしたのですが,郵便局の建物も,同じビルに入っている郵便局の隣のスーパーマーケットの看板がやたらと大きくて,そこが郵便局だということすらなかなかわかりません。フィンランド語に苦戦しています。
そうこうするうちに,なんとかヘルシンキ・ミュージックセンターを見つけることができました。

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