しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

カテゴリ:アメリカ合衆国50州 > ミズーリ州

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 ジョン・スタインベック(John Ernst Steinbeck)の小説「怒りの葡萄」(The Grapes of Wrath)から,ルート66について書かれた部分を紹介しましょう。
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 Highway 66 is the main migrant road. 66 - the long concrete path across the country, waving gently up and down on the map, from Mississippi to Bakersfield - over the red lands and the grey lands, twisting up into the mountains, crossing the Divide and down into the bright and terrible desert, and across the desert to the mountains again, and into the rich California valleys.
 66 is the path of a people in flight, refugees from dust and shrinking land, from the thunder of tractors and shrinking ownership, from the desert's slow northward invasion, from the twisting winds that howl up out of Texas, from the floods that bring no richness to the land and steal what little richness is there. From all of these the people are in flight, and they come into 66 from the tributary side roads, from the wagon tracks and the rutted country roads.
 66 is the mother road, the road of flight.
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 ルート66は幹線道路である。内陸を横断するこの道は,上下にゆるやかにくねって,ミシシッピ川からベーカーズフィールドへ至るが,赤くまた灰色の大地を越え,山脈を登り分水嶺を横切って砂漠に下り,さらに山脈に入り,やがて豊饒なカリフォルニアに至る。
 ルート66は逃亡する人たちの道である。老廃した土地から,衰微する所有者から砂漠から嵐から洪水から非難する人たちの道だ。彼らはルート66へと集まってくる。
 ルート66はマザーロードだ。逃亡の道だ。
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 私は今から25年ほど前にシカゴに行ったことはありますが,そのころは,ルート66のことはほとんど知りませんでした。
 人生とはかくも短いもので,かつ,未来はわからないので,あとでふりかえったとき,もっと計画的に旅をしていればよかったと思うのですが,それは無理なことです。
 ということで,私は,そのときの旅でシカゴから西にアイオワ州をめざしてしまったので,シカゴからセントルイスまでのルート66は走っていません。しかし,アイオワ州に行ったために,偶然,フィールドオブドリームズやマジソン郡の橋に行くことができたのだから,それもまたよし,という感じでしょうか。

 今日の写真は,数年前に行ったセントルイスからスプリングスフィールドまでのミズーリ州のルート66です。
 次回書くことになるこの先のオクラホマ州はルート66を大切にしている雰囲気があって,道路標識などがきちんと設置されていたり,当時通った町に多くの看板などがあるのに対して,ミズーリ州はそういうこともないので,十分に準備をしないと道がわからなくなります。それでも,走っていると,当時の面影を感じるところが多くあって,しかものどかなので,なかなかいい雰囲気です。
 このように,ミズーリ州はなかなかおもしろいところです。


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 先日,このブログに「シェ―ナンド国立公園」のことを書こうと,関連して「カントリーロード」の歌を探していて見つけたのが「ザ・ピーターセンズ」(The Petersens)というグループでした。彼らの歌声が気に入って調べてみると,「ザ・ピーターセンズ」はミズーリ州ブランソンを拠点に活動するブルーグラスバンドということでした。
 ブランソンといえば,私が2016年に行ったことがある場所です。どんな因果なのでしょう。
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 「ザ・ピーターセンズ」は家族5人とその友人1人のメンバーで構成されていて,ブランソンのリトルオープリーシアター(Little Opry Theathre)で公演を行っています。載せた写真にはかつてグループに属していた父親も写っています。
 彼らの繊細な声から紡がれる何とも爽やかなハーモニーとふんわりとした空気感がとてもすてきです。

 ブルーグラス(Bluegrass Music)は,日本ではあまりなじみがありませんが,フォークソングとカントリーミュージックを足して2で割ったようなものです。使用する楽器は,フィドル(ヴァイオリン),バンジョー,アコースティック(ギター),マンドリン,コントラバス,リゾネーター(ギター)です。ブルーグラスのはじまりは17世紀から18世紀のヨーロッパ人のアメリカへの移民の時代に遡ります。
 ブルーグラスは,また,ケンタッキー州の別名で,ケンタッキー州出身のビル・モンローのバンド「ブルーグラス・ボーイズ」に由来しています。スコットランド,アイルランドの人々がアパラチア地方に多く移り住み,開拓の合間にフィドルの伴奏でダンスに興じ,故郷のバラッド(民謡)やヒム(讃美歌)を楽しんだのですが,そうした開拓時代の音楽的な歴史のなかで,スコッチ・アイリッシュ的なものに奴隷として働いていた黒人音楽を加味して形成されたもののようです。
 リゾネーターという楽器は知りませんでしたが,ユニークな音色が楽しめます。また,バンジョーという楽器はとてもアメリカ的だと私は思うのですが,こうして1年以上もアメリカに行くことができない今,とても懐かしくなります。
 いつかまた,ブランソンに行ってみたいものです。


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 「2015夏アメリカ旅行記その3」をはじめるにあたって,まずは復習から。
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 2015年5月,この年1度目のアメリカ旅行として中南部をドライブした。
 このころの私はアメリカ合衆国全50州制覇を目指していて,何かにとりつかれたかのように頻繁にアメリカを行き来していた。以前,ピッツバーグ,シンシナチ,クリーブランドなどをドライブしたときにセントルイスだけは行ったことがあったが,それよりもさらに「深い」アメリカの中南部は行ったことがなく,私には縁遠いところだった。
 当時,MLBに夢中だった私は,カンザスシティ・ロイヤルズという,いわば地の果てにあるようなチームの本拠地をぜひ見たかったし,ルート66も走ってみたかった。そこで,なんとかカンザスシティに行ってみようと思ったのだが,フライトの接続が悪くどうやって行こうか,考えあぐねていた。
 なぜかそのころは,何度飛行機を利用しても,いつもなにがしかの小さなトラブルが起きた。この2015年春の旅でも,苦労してフライトスケジュールを組んで旅に出たものの,カンザスシティからの帰り,デトロイトまでのフライトが離陸後にトラブを起こし引き返してしまったので,デトロイトで日本への帰国便に乗り遅れてしまった。
 苦労をした旅であったが,そんなハプニングでもあったほうが,後で記憶に残っているものだ。
 カンザスシティ・ロイヤルズのゲームも見たし,ルート66も走ったが,その中でもとりわけ深い印象を残したのがブランソンという町であった。そこで今日は,ブランソンについて書くことにする。

 ブランソンという町は2015年春の旅に出かける少し前に知った。
 ブランソンには多くの劇場があって,そこでは毎日さまざまなショーが行われていた。ブランソンには,日本では無名でもアメリカでは有名なタレントが多くいるが,そのなかでも,ショージ・タブチさんのことはすでにこのブログにも書いたように,実際に会ってお話することもできた。アンディ・ウィリアムスさんの劇場もあったが,残念ながらその数年前に亡くなってしまい,見ることがかなわなかった。
 ここで見たダットンズ(Duttons)のショーもまた,すばらしかった。メンバーの人と話をすることもできた。ダットンズは,今もアメリカ各地でショーを行っているということだが,私がブランソンで懐かしく思い出すのがこのダットンズのショーである。日本の演歌歌手のショーみたいなものなのだが,これぞ古きよきアメリカ,という感じがした。
 ダットンズは,の公式ホームページには次のように紹介されている。
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 ダットンズ(Duttons)はブルーグラス音楽を演奏するダットン一族のアーティスト集団です。これまで,アメリカのフィドリングコンテスト,クラシックバイオリンコンクール,および,スタジオミュージシャンとしての賞と評価を獲得して,そのショーはバイオリン,ギター,ベース,ビオラ,バンジョー,マンドリン,キーボード,ハーモニカ,ドラムなどさまざまな楽器で行われます。また,器楽の妙技に加えて,歌手やダンサーとしても熟練しています。
 今日,ダットンズは,ブランソンに独自の劇場を所有しており,年間300以上のショーを行っています。また,劇場に関連するホテル,レストラン,ギフトショップを所有しています。さらに,アリゾナ州のメサにも別の劇場を所有していて,ここでは,12月から4月にかけて上演をしています。
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 できることなら,いつか再びブランソンに行ってみたい。そしてこんなショーをまた楽しみたい。なぜか,このごろそう思うのである。

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●当時の自分がまぶしい。●
 2015年というから,早いもので今から5年前のことになるのが夢のようだ。
 この年,私は5月から8月にかけて3度もアメリカ旅行をした。当時,このブログに,
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 旅行の様子は「2015春アメリカ旅行記」「2015夏アメリカ旅行記」として,後日詳しくお伝えする予定です。
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と書いた。しかし,「2015春アメリカ旅行記」は書き終えたが,「2015夏アメリカ旅行記」は途中で中断している。それは,そのころ頻繁にアメリカを旅していた私は,それ以外の旅の旅行記で書くことがあまりに多く,続きを書く時期を逸してしまっていたからである。
 コロナ禍でしばらく海外旅行もできそうにないで,この機会を利用して「2015夏アメリカ旅行記」の続きを書きたいと思う。

 2015年に旅をしたあとも,私はずいぶん多くの旅をし,いろんな経験をした。その間には思わぬ出会いもたくさんあった。2015年の時点では,私はその後に夢中になったハワイも,オーストリアやフィンランドといったヨーロッパの文化も,オーストラリアやニュージーランドで見た南天の星も,2017年の皆既日食も,そしてまた,ロヴァニエミやアラスカでのオーロラも知らない。
 今,2015年の旅を思い出すと,ずいぶんと自分が未熟であることに気づく。今なら,もっとスマートに旅ができるはずである。しかし,当時の感動やときめきは,今では決して味わうことができないとも感じる。あのころの自分がまぶしく,そして寂しくもある。
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 ということなので,この旅行記の続編は,単に旅行の足取りを追うのではなく,現在の自分からみた5年前の姿を書いていくことにしたい。

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●帰国の日 −旅は非日常だからこそ−●
☆再び9日目 5月17日(日)
 すでに書いたように,私は,この旅の最終日に予想もしなかった出来事が起きて,帰国が1日遅れた。しかし,そんなことが起ころうとは思いもしないきょう17日は,帰国の日であった。
 話は前後するが,その前日の晩は大荒れの天気という予報であった。
 夜,確かに,大雨が降ったから,私は,この時ばかりは,ベースボールを見る日がこの日でなくてよかったと思った。そして,チェックインをしたときに,きょう見にいくといっていたフロントの若者が気の毒になった。

 宿泊したホテルは空港に近く,周辺にはできたばかり,あるいは,現在分譲中の住宅街やモールなどが広がっていて,まるで,映画「バック・トゥー・ザ・フューチャー」に出てきたシーンのようなところであった。
 私のようにアメリカを旅行する計画があって,しかも,レンタカーで移動できるのなら,宿泊するホテルは,こうした郊外にするとよい。安価で,しかも新しく,そして,サービスのよいホテルがたくさんある。
 このホテルも,朝食は朝の4時過ぎには食べることができた。

 1年前の3月に行ったサンアントニオのときもそうだったが,日本への帰国便は朝が早い。というか早すぎる。そこで,なるべく空港の近くに宿泊するのだが,それでも,朝,もし,起きられかったらどうしよう,という不安がよぎるのだ。あてにできないと私が信じて疑わないのは,部屋にある目覚ましやモーニングコールである。
 ともかく,無事,朝3時起床。
 帰り仕度を済ませた頃にはすでに朝食は準備されていたから,さっそく食事をとって,いよいよチェックアウトをした。 
 長かったのか短かったのか,どこへ行ったのか行かなかったのか,何をしたのかしなかったのか,そのすべてのことがよくわからない今回の旅も,これで終わりだなあ,と思った。

 アメリカの地図を見ていただくとおわかりになるだろうが,アメリカの中南部なんて,どのように旅行をすればいいか,皆目見当もつかない事であろう。そしてまた,あまりに情報が少ない。
 そして,今回もまた,日本人はひとりも見なかった。
 先に書いた帰国便のこともそうだが,こうしてアメリカへ頻繁に出かけるようになって,改めて思うのは,西海岸は近いということだ。そして,国内線への乗り換えの必要な,今回のような旅をしようとすると,行きは到着が深夜近くなり,また,帰りは深夜に起きなくてはならないわけだ。

 この年2015年は,まだ来月も,その次の月もアメリカへ来る予定があったから,私は,日本に一時帰国するような気持でホテルを後にした。
 外からホテルを眺めると,できたばかりのホテルなのに,一角が破壊されていた。きっと竜巻の被害だろう。
 アメリカで生き抜くことも容易ではない。旅は,非日常だからこその旅である。
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 今回で「2015春アメリカ旅行記」はおしまいである。これで47州を制覇した。残りは3州である。
 この旅の,この後に起こったことは,すでに書いたので,それをお読みください。
 
◇◇◇ 
2015春アメリカ旅行記-フライトが遅れる③

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●5月にこの地方を観光することは…●
 カンザスシティのダウンタウンを走り抜け,ダウンタウンの北西に位置する国際空港近くの今夜宿泊するホテル・スリープイン(Sleep Inn)に向かって,走っていった。
 市街地を出ると,道路は作りたて,ホテルも作りたて,そして,売り出し中の分譲住宅や,大きなスポーツグラウンド,モールやショッピングセンターが,広い大地に果てしなく続いていた。
  ・・
 ホテルに到着して,駐車場に車を停めて,まず,チェックインをした。
 フロントにいたスタッフの若者に,日本から来てベースボールを見てきたといったら,「私も今晩行きます」という返事であった。相手がヤンキース戦ということもあるのだろうか,私がカンザスシティで話しかけた人は,みな,同様にベースボールを見にいくというのだ。
 部屋はきれいで広く,宿泊代は安く,治安もよく,アメリカを車で旅するには,こうした郊外のホテルに宿泊するに限ると思った。私の宿泊したホテルの周りには,他にも多くの全国チェーンを展開するホテルがあった。
 私がアメリカのいろんなところに行って次第にわかってきたことは,アメリカには,ロサンゼルスやニューヨークといった大都市やグランドキャニオンのような大自然にある有名な観光地の顔と,こうした「ふつうのアメリカ」の顔,その二面性である。
 ほとんどの日本人は大都会しか知らないし,大自然といえばあまりに有名な観光地しか知らない。しかし,本当のアメリカは,そのどちらでもなく,外国からの観光客がそれほど行かないような「ふつうのアメリカ」,つまり,手つかずの大自然や一面に広がる大農場と,広く美しい住宅地にある。
 どちらが魅力的かと問われれば,私は,躊躇なく,後者のほうを選ぶ。

 この季節は1年のうちで最も日が長く,しかも,アメリカは夏時間だから,もう夕方5時過ぎなのに,写真にあるように,お昼間そのものだった。日没は8時過ぎである。
 私は一度部屋に入り,夕食をとるために,再びホテルを出た。
 ホテルから道路を隔てた向かい側にあったのが,トヨタの営業所であった。営業所とはいえ,それはそれはとんでもない広さであった。日本の高等学校のグランドくらいあった。何だこれは,と思った。その隣には,ホンダやら日産やら,さらには,フォードやらフォルクスワーゲンの営業所が並んでいた。
 こういう世界から見ると,日本は,まるで箱庭である。そんな日本で高級車に乗るのは,動物園の狭い檻のなかのライオンのように思える。車の立場になってみても,日本で走らさせる車はかわいそうだ。

 ホテルの周りの広く作りたての道路を,インターステイツを遠目に見て適当に走っていくと,分譲売り出し中の新興住宅街を過ぎたところに,御殿場のアウトレットをさらに大きくしたような町があった。私は,その町の端にあった大きな駐車場に車を停めて,その町の中へ歩いていった。
 そこは,ゾナローザ(Zona Roza)という郊外型のショッピングプラザであった。それがまた,めちゃくちゃ広いのだった。
 日本では,10年以上前に広い駐車場を構えたそれぞれの店舗が1件ずつ独立して軒を並べたようなモールができた。これは,アメリカの真似であった。そして,その次に,イオンモールやアピタタウンのような,巨大な商業施設ができた。これもアメリカの,たとえばミネアポリスにある「モールオブアメリカ」の真似であった。
 そして今,アメリカでは,その時代をとうに過ぎ,こうした,アウトレットモールのような巨大ショッピングタウンがいたるところにできはじめたが,それがまた,信じられないくらい広いのだ。それをまねて,日本でも御殿場や土岐アウトレットモールのようなものができはじめた。しかし,いかんせん,大きさが決定的に違うし,広いからアメリカのほうが客密度が低い。

 しかし,こんな広いショッピングプラザを歩いていても,私ひとりで夕食を食べるような,日本でいう吉野家のような適当な場所がない。ひとりで贅沢なものを食べても,たかが知れているし楽しくない。そんなわけで,私は,このモールの中にあったサブウェイに行くことにした。
 「マクドナルドが夕食で許せるか」というブログを以前書いたが,「サブウェイで夕食は許せるか」という感じである。こちらのサブウェイは,日本のようなハーフサイズのパンがメインではないから,かなりのボリュームがあるので,私には許せるのだ。
 食事をとって,さらに,このショッピング街を歩いてみたが,買いたいものがあるわけでもなく,それは日本でも同様であるが,まあ,それだけのことであった。 
 ホテルへの帰り道,今度は,スポーツ施設を見つけた。そこにあったのは,巨大なプールや数えきれないほどのテニスコート,4つもある野球場などであった。そこはティファニーヒルズパーク(Tifanny Hills Park)というところだった。
 何もかもが,あまりに巨大すぎる。

 ホテルに帰って,テレビでニュースを見ていたら,なんと,これから,嵐のような雨になるという。
 私は,昨日ベースボールを見にいったことを感謝した。それと共に,今日見にいくといったホテルのスタッフのことが気になった。
 ベッドに横になると,外はすさまじい雨が降りはじめたのが聞こえた。
 この日,ベースボールが行われたのか中止だったのか,この雨がホテルの周りだけだったのかは,これを書いている今,記憶から抜け落ちてしまっていて,私にはわからない。いずれにしても,5月という,最もトルネードの多発する時期にこの地方を観光旅行するは間違いだということが,浅はかな私は行ってみてはじめて身にしみたのだった。

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●こんなことならもう1日●
 ネルソンン・アトキンズ美術館を出て,これで大体カンザスシティの見どころは見終えたので,私は,南から北に向かってダウンタウンをドライブしながら,今日宿泊するホテルに向かうことにした。

 アメリカでもっとも古い郊外型のショッピングセンター,今でいうモールが,カンザスシティにある。
 それは1922年に作られたカントリー・クラブ・プラザ(The Plaza)で,55エーカー(220,000平方メートル)の広さに姉妹都市であるスペイン・セビリヤの町に似せた150以上のショップやレストランが並んでいるのだという。
 私は,美術館の帰り道に,このプラザを車で走ってみることにした。
 結構な人込みで,車を停めてまで行く気がしなくなったので,車窓から見た風景だけだったが,そこにはいたるところに彫刻や,カンザスシティ名物の噴水があって,美しい街並みが広がっていた。人々は,思い思いに食事をしたりショッピングを楽しんだりしていた。

 カントリー・クラブ・プラザを過ぎて,次に左手に見えたのが,ユニオン駅(Union Station)であった。
 ここはカンザスシティの中央駅で,アムトラックのチケットセンターと待合室があるという。駅の中にはサイエンスシティ(Science City)も併設されているということだ。
 私もいつか,車ではなく,アムトラックでアメリカを旅してみたいものだが,荷物や駅からの移動手段を考えると尻込みしてしまう。

 ユニオン駅を通り過ぎた右手にあったのが,クラウンセンター(Crown Center)であった。
 このあたり,東京の新宿副都心から東京都庁の感じに似ていた。
 クラウンセンターは,1968年にホールマーク(Hallmark)社の社長ジョイス・ホール(Joyce C. Hall)とその息子ドナルド・ホール(Donald J. Hall)が作ったものである。ここにはショッピングセンターやレストラン,劇場,ホテルなどがある。
 ホールマーク社とは王冠のマークで知られる世界最大のグリーティングカードの会社である。
 このクラウンセンターの一角にホールマーク社のビジターセンターがあって,そこでは,1910年の会社創立からの歴史やカード制作の行程を14のコーナーで知ることができるような展示がされているという。
 カンザスシティ・ロイヤルズのスコアボードに王冠が模られている理由がこれでわかったように思った。

 もう1日余裕があったら,,このカンザスシティのダウンタウンを楽しんでもよかったように思う。ガイドブックにはほどんど触れられていなくても,どの町にもそれなりに楽しく過ごせる場所がたくさんあるものだ。そう考えると,人の一生は短すぎる。そして,意味のない雑事が多すぎる。この旅は日程の余裕がなく,あわただしくなってしまったのが残念だった。
 それなのに,帰りのカンザスシティからデトロイトへのフライトにアクシデントがあって,デトロイトから日本への帰国便に乗り遅れて,帰りの日程が1日遅れてしまい,デトロイトで無意味な1日を過ごすことになってしまった。こんなことなら,はじめっからもう1日ここで過ごすことができればよかったと,意味のない後悔をするのだった。
 いずれにせよ,最も気象の悪い時期に,そうとは知らず竜巻多発地帯を旅した私は,無事帰国したことだけでも感謝しなくてはならない。

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●ヘンリー・ムーアの彫像コレクション●
 次に私は,ネルソン・アトキス美術館の近くに車を停めて,歩いて美術館に向かった。ここはものすごく大きな美術館であったが,それが無料であるのが一番の驚きだった。中に入ると,中央の吹き抜けに出た。吹き抜けの下に中庭があって,そこにはロゼレコートレストラン(Rozzelle Court Restaurant)があって,食事をとることができた。
 ここでは,くつろいだ雰囲気の中で音楽の生演奏を聴きながら,おいしい料理をあじわうことができるのだ。
 このとき,私は,第1次世界大戦博物館ではなく,ここで昼食をとればよかったと少し,いや,大いに後悔した。
 クリーブランドの美術館に行ったときも,木曜日の夜は美術館の中のレストランで音楽の生演奏を聴きながら食事をすることができて,多くのお年寄りのカップルが訪れていた。この精神的な豊かさはGDPやらの指標では現れない。人の頭しか見えない上野の美術展など行きたくなくなるというものだ。

 ネルソン・アトキンス美術館(The Nelson-Atkins Museum of Art)は,「カンザス・シティ・スター」紙の創設者であるウィリアム・ロックヒル・ネルソン(William Rockhill Nelson)により創設された。
 ネルソンは1915年に亡くなるが,亡くなった後の財産は公共のために美術品を購入するようにとの遺言を残したので,未亡人であったメアリー・アトキンス(Mary McAfee Atkins)は30万ドルを美術館建設のために寄付した。そして,その資産は運用され,1927年の時点では70万ドルに増えていた。さらに,別の人物からの遺産があったために,当初はふたつの美術館の建設が計画されたが,財団の理事たちはこれらの資金をひとつにまとめることにして,この大きな美術館を建設することにした。
  建物はカンザスシティの建築事務所ワイト・アンド・ワイト(Wight and Wight)がボザール様式で設計し,1933年に開館した。

 美術館は1983年に「ネルソン・アトキンス美術館」と名前が改められるまでは,西翼のアトキンス・ミュージアム・オブ・ファイン・アート,東翼とロビーのウィリアム・ロックヒル・ネルソン・ギャラリー・オブ・アート(The William Rockhill Nelson Gallery of Art)のふたつの部分に分かれていた。
  ウィリアム・ロックヒル・ネルソンは個人コレクションの寄贈ではなくお金を寄付をしたために,学芸員たちは美術館のために幅広い美術品を収集することができた。
 そしてまた,大恐慌の時代,多くの美術品がコレクタから市場に売りに出されたが,あまり買い手がいなかったのが幸いして,ネルソン・アトキンス美術館のコレクションを拡大する大きな機会となった。そのために,この美術館は短期間にアメリカで最も大きなコレクションを持つ美術館のひとつとなった。 

 館内は,クラシカルな美術とモダンな美術の両方の作品が展示されていた。
 また,アメリカンインディアンコレクションでは,アメリカ先住民族の陶器や宝飾品が展示してあったし,ジャパニーズルームには,日本の屏風や着物が展示してあった。さらに,古代アートコレクションには数千年も昔の品が展示されていた。
 そして,アフリカやヨーロッパ,中国やアメリカなどの美術品も,この美術館には取り上げられていた。  
 さらに, ウィレム・デ・クーニング(Willem de Kooning)やジャクソン・ポロック(Jackson Pollock),アンディ・ウォーホル(Andy Warhol)などの現代芸術家の作品を集めたブロックビルディングと,写真の歴史を紹介し,世界的に知られた写真を展示する有名なホールマーク コレクション(Hallmark Art Collection)も必見であった。
 ここは,一般市民向けの著名な美術史家の講義が受講できるし,スペンサーアートリファレンス図書館(Spencer Art Reference Library)には18万冊もの書籍が集められているということだ。

  美術館の周りには,ドナルド・J・ ホール彫刻公園(Donald J. Hall Sculpture Park)があった。広さ22エーカー(89,000平方メートル)のこの緑の広場には,30点以上の美術品が散りばめられていた。私には,アメリカ合衆国最大のヘンリー・ムーア(Henry Moore)の彫像コレクションが飾られているのがとても印象的であった。これ,美術の教科書で見たことあるぞ,と思った。

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●芸術をリスペクトする国●
 第1次世界大戦博物館博物館を見学した後,私は,そのまま車で南に向かった。めざすは,ネルソン・アトキンズ美術館であった。
 カンザスシティは,ダウンタウンから南に走るメイン・ストリート(Main Street)の周りはすごく美しい街並みが続いていた。
 次第に町の郊外になって,大きな家の連なる静かな住宅街になったが,道を1本入ると,そこは広大な芸術村であった。
 この芸術村のあたりは,ネルソン・アトキンズ美術館だけでなく,美術大学やケンバー現代美術館などがあった。いわば,東京でいう上野のようなところであったが,もっと広く美しく気品があふれていた。
 こういう場所を見ると,日本とは国力の違いと芸術に対するリスペクトの違いに愕然とする。しかも,このふたつの美術館は無料なのである。

 この日は角帽をかぶった若者とその親らしき人がたくさんいた。
 美術大学では卒業式が行われているようだった。
 アメリカの学期は9月にはじまり,5月の半ばに終わるから,この時期に卒業式というのは当然なのだが,私は,はじめそれがわからず,というのは,こうして旅をしていると,今がいつなのかということすらわすれてしまうからなのだが,どうして今卒業式なのかしら,と思った。
 カンサスシティ美術大学(Kansas City Art Institute)は1885年の創立,ウォルト・ディズニー(Walt Disney)も学んだ歴史ある芸術専門大学である。当初はアートについて語り合うサロンのようなものだったが,近年は施設設備の拡充に取り組んでおり,2006年には新しいスタジオスペースがオープンした。
 コミックアーティストのリチャード・コーベン(Richard Corben) ,コンセプチュアルアーティスト=前衛芸術家のクリスチャン・ホルスタッド(Christian Holstad),彫刻家,画家のロバート・モリス(Robert Morris)などもここで学んだ。
 余談だが,この大学の学費は年間約400万円。これは,日本の4倍というところか。アメリカは大学の学費が異常に高い。
 
 私は,森に囲まれたこの芸術村につながる通りを興味深くドライブしていたが,まず先に見つけたケンバー現代美術館の駐車場に車を停めて美術館の中に入った。
 ケンパー現代美術館(Kemper Museum of Contemporary Art)は1994年に作られたミズーリ州最大の現代美術館である。この美術館には,1913年のアーモリーショー=国際現代美術展(Armory Show)後に作成された700以上の現代アーティストの作品が集められている。
 その代表的なものは,ロバート ・ マザウェル(Robert Motherwell),ロバート ・ ラウシェンバーグ(Robert Milton Ernest Rauschenberg),ジャスパー ・ ジョーンズ(Jasper Johns),ジム ・ ダイン(Jim Dine),ヘレン ・ フランケンサーラー(Helen Frankenthaler),デイビッド・ホックニー(David Hockney),ブルース ・ ナウマン(Bruce Nauman),ウィリアム・ウェグマン(William Wergman)など蒼々たるものである。
 広さは23,200平方フィートで,鋼鉄およびガラスに覆われた建物は,1992年から1994年に660万ドル(8億円)かけて作られたのだという。

 広い館内は美しく気品にあふれていたが,ほとんど人もおらず,落ち着いた雰囲気であった。
 私はこうした美術館に立ち寄ることは多いが,ほとんど美術のことはわからないから,猫に小判のようなものだが,それでも,こうした人間の心からの創作物こそが人を豊かにするのだということだけは感じることができた。

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●教わらないからそれしか表現方法がない●
 第1次世界大戦博物館(The National World War I Museum and Memorial)は,アメリカで唯一の第1次世界大戦をテーマにした博物館である。
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 第1次世界大戦は,1914年7月28日から1918年11月11日まで,バルカン半島におけるドイツ・オーストリアとロシアの対立に,軍事同盟を結んだそれぞれの陣営が同調して起きた人類最初の世界戦争であった。
 戦闘の多くはドイツの東部戦線や西部戦線で展開されたが,他に西アジア,アフリカ,中国でのドイツ権益に対する日本の攻撃など,地球的規模で戦争が広がった。戦争の形態は高度に技術化され,飛行機,潜水艦,毒ガスなど新しい武器を出現させ,一般市民をまきこみ,広範な犠牲を人的,物的に及ぼす戦争となった。
 やがて,戦争の長期化,戦線の拡大,国民生活への犠牲の増大は,次第に各国での厭戦気運を高めていったが,1917年5月のアメリカの参戦は西部戦線におけるドイツの前進を阻み,11月の第2次ロシア革命は東部戦線での単独講和の可能性を生み出した。さらに,ドイツ国内でも兵士・労働者のドイツ革命が起こったことによって,1918年11月に,ついに戦争は終結した。
  ・・・・・・

 この博物館は,1926年に国のために戦った兵士たちの勇気や愛国心をたたえる自由記念館として一般に公開された。1998年に一旦,劣化および構造上の問題と安全上の懸念のために閉鎖されたが,再興する機運が高まり,2004年に新しく8万平方フィートの規模で着工され,2006年12月に再びオープンした。
 建物の中央には,リバティ・メモリアル・タワー(The Liberty Momorial Tower)がそびえ,遠くからも目につく。
 博物館自体は,エジプトの古代遺跡を模して造られていて,半地下に下っていくような形でエントランスがあった。そして建物の中に入ると,土産物売場と博物館のチケット売場があった。
 私はさっそくチケットを購入して,博物館の中に入った。

 内部に続く床下にはひとつが1,000人分を表す9,000もの戦死者を悼む表す赤いケシが並べられていて,その上を通って博物館に入場するようになっていた。
 この博物館は, 第1次世界大戦がどうして起きたか,また,大戦中の戦地や町の様子などが説明・展示されていた。また,戦車や兵器,遺品などの実物が多く並べられていた。
 さらに,1914年,1918年の休戦,および1919年パリ講和会議の起源からそ戦争の終結までが詳しく説明されていた。そして,最後のコーナーにあるホライズンシアター(Horizon Theater)がこの博物館で一番の見どころであった。
 ここには,大型のスクリーンの前に戦士や戦場のジオラマが並べられていて,当時の戦場が臨場感たっぷりに再現してあった。そして,ダイナミックな音と光とともに,戦場を描写した映像を見ることができた。

 博物館はそれほど大きな規模ではなかったが,丁寧な展示やジオラマ,そして,資料と,非常に充実したものであった。
 私は,以前,サンアントニオで太平洋戦争博物館に行ったことがあるが,アメリカでは,こうした博物館もまた,日本とは違って充実しているし,内容や思想がある。変に入場者に媚びていないのである。そして,多くの人が訪れて,一生懸命に説明書きを読んでいる。
 私は,こういうものひとつ,そして,来館者の態度を見ても,日本とは社会に真剣に向かい合う態度が全く違うと感じる。いつも書いているように,日本では,プリントに答えを書くことだけが「頭を使う」ことだという訓練を受けて成長しているから,自分で物事の本質を理解し,自分の考えを持つことをしない。
 ネットの書き込みを見ても,すぐにアカだの国籍が違うだのという極論で悪口を書き並べるしか自分を表現できない人が多くいる。議論が出来ないのである。彼らはそうした議論の仕方を教わらないで育ったしまったから,それしか表現方法がないのである。だから,真摯な話し合いが成り立たない。
 こんなことは,国語の科目を変えようなそんなことでは解決しない。この国の中等教育のカリキュラムをどう変えようと,所詮はプリント学習をし,塾が栄え,入試のための補習をするだけだからである。そして,指導する側にもそういう教育しかされてこなかったのだから変えようとしてもその方法を知らない。制度をいじることだけは大好きだが,予算をかけて指導者を育成しないのだから,何をやっても同じなのだ。
  ・・
 私はこの博物館を充実した気持ちで見学した。
 その後,この博物館の階下に「Over There Café」という素敵なレストランがあったので,そこで昼食をとることにした。

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●日本は私には不思議な国である。●
 今日の写真でおわかりのように,天気が今ひとつさえなかったが,雨も上がり,今晩のゲームは大丈夫そうであった。シティマーケットを出て,次に目指したのが,第1次大戦博物館であった。
 今日はまず,カンザスシティの見どころの位置関係を紹介しよう。
 地図にあるように,中央がダウンタウンで,その西にカウンティスタジアム,そして,昨晩泊まったホテル,二グロリーグ博物館,という位置関係になっている。
 ダウンタウンの北側にシティマーケットがあって,そこから南に第一次世界大戦博物館,カントリクラブプラザ,ネルソンアトキンズ美術館とある。
 北西には国際空港と今晩宿泊するホテルがある。
 このような位置関係なのである。
 先に書いたように,ガイドブックにはこうした位置関係がすぐにわかる地図がないのが,最も不便なところなのだ。最も困るのは,ホテルを予約するときである。地名が書かれてあったとしても,それがどこなのか全くわからない。
 これは,日本の都市のホテルを予約するときも同様である。

 さて,私は,シティマーケットを出てから,一気に南に第1次世界大戦博物館を目指して走っていった。
 地図を見た感じと,このブログの写真をご覧になって,どうお思いになるであろうか?
 地図上では,この町はかなりごみごみとした感じを抱かれるであろうが,実際は,このような広い道路が続いているのである。
 シティマーケットから第1次世界大戦博物館までは,2.4マイル,つまり,4キロメートルほどの距離であったから,車で走れば,わずか10分ほどである。
 はじめに私は,ガソリンを入れようとして,困ってしまったのだった。
 アメリカでは,市街地から郊外に出ると,いくらでもガソリンスタンドが存在するし,その位置もインターステイツのジャンクションにあるから,とても分かりやすい。しかし,市街地に入ると,それがとんとわからなくなってしまうのだった。
 私は,ミズーリ川沿いをさまよいながら,やっとガソリンスタンドを見つけたと思えば,そこは車が一杯で断念したりして,を繰り返しながら,それでも,やっと何とかガソリンスタンドを見つけることができた。

 ここで,余談を書く。
 車を運転していて,一番の問題はガソリンであるが,アメリカでは,どのスタンドもクレジットカード1枚でガソリンを入れることができる。ただし,まったくガソリンスタンドのないところがあるから,ガソリンが半分なくなったら必ず補充することを忘れてはならない。
 私は,ごみごみしているだけで,どこかへ行ってもたいしたところもないから,必要がなければ日本でドライブをすることはほとんどないが,それでも,たまに郊外に出ると,ガソリンスタンドを探すのにさんざん苦労をする。さらにどう考えても解せないのが,高速道路のサービスエリアにあるガソリンスタンドだ。どうして,あんなに市場よりも高い値段を付けることができるのだろうか? これではガソリンスタンドとして機能していないではないか。
 本当にこの国は,携帯電話の料金にせよ,高速道路のスタンドにせよ,常識外れの値段を付けて,それで成り立っているのが私には不思議である。
 また,「田舎」へ行くと,今度は「エネオス」しかない。
 都会だと「エッソ」だの「シェル」だのといろんなガソリンスタンドがあるが,田舎へ行くと自民党の政治家しかいないのと同じように「エネオス」のスタンドしかないのである。この国には「多様性」は存在しない。
 これもまた,本当に不思議な話である。

 私はダウンタウンを一挙に南下して,第1次世界大戦博物館に到着した。
 敷地には,広大な芝生広場が広がり,道路に沿って駐車帯があった。私も,そこにスペースを見つけてに車を停めて,入口までずいぶんの距離を歩いていった。

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●「で,だからそれが何だ?」●
 週末にファーマーズマーケットが開かれていたのはリバーマーケットという地域であった。
 リバーマーケットは,カンザスシティのダウンタウンの北側にあるがその北はミズーリ川に面しているので,リバーマーケットというのだろう。
 「地球の歩き方」のようなガイドブックを見るたびに,このくらいの都市の分かりやすい地図が記載されていないのに,私は不満をもつ。地図に必要な情報は,ダウンタウンと官庁街の場所,空港の場所,主な見どころの場所だけなのである。私は,こうした規模の都会に行くと,いつも,そ宇した場所の位置関係がさっぱりわからないのだ。

 ところで,このリバーマーケットには,シティマーケッという店舗形式のショッピングセンター,そして,中央の広場に開かれれていたファーマーズマーケット以外に,アラビアスチームボート博物館があった。そして,周りには,小売り店やレストラン,倉庫街などが立ち並んでいた。ここもまた,治安がいいのか悪いのか,さっぱりわからなかったが,週末の朝市があって,市民がたくさん訪れるところだから,カンザスシティの下町,いわば,浅草や築地のようなところなので,特に問題はないだろう。
 私は,ファーマーズマーケットを見終わって,シティマーケットの周りを歩いていたら,「中國城」(Chinatown Food Market)と大きく漢字で書かれた小汚いビルを見つけた。多くの人がそのビルの中に入っていくので,興味がわいて,私も中に入ってみることにした。
 中は,単なるマーケットであったが,売っていたのは,アジアンフードであった。
 日本食もたくさん売っていた。
 それが,きょうの2番目の写真である。
 私は,この次の2回の旅で,多くのマーケットに行く機会があったので,今ではアメリカのこうした店舗についてはとてもよくわかったが,このときはまだ,日本食を売っているマーケットというのがとても珍しい存在であった。
 それにしても,ロスアンゼルスとかニューヨークならともかく,カンザスシティでもこういった店舗があるということに驚いたのだった。

 再びシティマーケットに戻ってその中を歩いてみると,日本のキャラクターグッズを売っている店舗があった。それが,3番目と4番目の写真である。
 実は,現在アメリカで大人気なのがどういうわけかNHKの「どーもくん」なのだ。
 私自身がこういうものに全く興味がないので,というか,こういうものを買う,ということ自体が理解できないのでよくわからないのだが,日本でも,東京駅の八重洲の地下街にアニメのキャラクターグッズを売っている多くの店舗がある。それと全く同じような店であった。
 今や,日本からの輸出品のナンバーワンは,こうしたアニメのキャラクターである。ただし,グッズ自体はメイドインチャイナであるが…。

 最後に,アラビアスチームボート博物館というところに行ってみた。
 アラビアスチームボート博物館(Arabia Steamboat Museum)は,シティマーケットの建物の中にあった。
 1856年,ミズーリ川を航行していた大型の蒸気船アラビア号が200トンもの貨物を積んだままミズーリ川に沈没したのだそうだ。その132年後に,その残骸が発見されて,発見した一家によってそれが公開されている,というのがこの博物館であった。
 入ろうかどうか迷ったが,単に個人が金儲けでやっているまがい物のような博物館なのに入場料が結構高かったこと,あまり興味が湧かなかったこと,そして,特に,「で,だからそれが何だ?」と思ってしまったことで,生まれつきへそ曲がりの私は,入る気をなくしてパスした。
 そして,私はリバーマーケットを後にすることにした。
 早朝に車を停めた場所は,停めたときはあれだけ空いていたのに,この時間は満車でスペースが空くのを待つ車の列ができていた。

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●この価値観の多様さこそ●
 このマーケットは,ある意味,とても日本の市場と似ているところでもあり,また,とても,アメリカらしいところでもあった。
 私も,この朝市を楽しみつつ,どこか朝食ができるところはないかと探していた。いわば,築地の場内で食事をするところを探しているようなものだった。そして,人がたくさん並んでいたパン屋さんを見つけた。こういう未知のお店で何を頼めばいいのかもどういうシステムかもさっぱりわからなのだが,しばらく様子を見て,同じように陳列棚にあったパンの中からシナモンロールを指名して,コーヒーとともに注文して,それらを手に入れることができた。
 このパン屋さんの外にはイスとテーブルがあったので,そこに座って,私は,朝食をとることができた。
 このシナモンロールは大変おいしかった。

 パンを食べながら周りを観察していたら,何やら人が集まっている一角があった。
 そこでは,若い女性がふたりアクロバットを始めるところであった。
 上手なのか下手なのか,彼女たちは,これで生計を立てているのか,単に目立ちたいだけなのか,私には全く分からなかったが,見ている人たちを巻き込んで,おかしなショーを繰り広げていた。
 私も食事をしながら見ていた。
 食事が終わって,さらに,もう少し端まで歩いて行ってみたら,そこでは,ひとりの女性と4人の男性からなるグループが演奏をしていた。
 パンフレットを配っていたので,私も貰ってそれを読んでみると,このバンドの名前は「The Knobtown Sskiffle Band」ということであった。彼らは,ブルース,ラグタイム,ブルーグラス,ジャグ・バンドなど様々なジャンルの1920年代と1930年代のものを演奏しているグループだと書かれていた。このバンドは2012年に結成して,古いナショナルギター,洗濯板などを楽器として,このシティマーケットなどを活動の場として演奏をしているのだという。
 
 アメリカでは,何をするにしても,楽しむということが第一である。だから,このマーケットでも大道芸はやっているし,音楽は演奏しているし,さらにパフォーマンスはあるし,歩いているだけで十分に楽しいところだった。
 それとともに,私は,人が生きるということの大変さやら面白さやらをも味わうことができたのだった。
 この価値観の多様さこそ,日本人の持ち合わせていない根本的な生き方なのだろう。
 私は,朝市へ行ったのは初めての経験だったが,以前,ニューオリンズに行ったとき,フレンチマーケットという常設の市場を歩いたことがある。本当は,こうしたところで,何かを買ったり,売っている人とおしゃべりできたりすれば,もっと旅の楽しさが味わえるのではないかと思うが,なにせ,買うものがないのだった。
 結局,本当の旅の究極的な愉しみは,こういう場所を訪れて,現地の人と交わることにあるのではなかろうか。
 アメリカへ行かれるのなら,機会があれば,観光用のショッピングセンターではなく,ぜひ,一度は,こうしたマーケットに行かれるといいと思う。

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●ほんとうに情けない話である。●
☆8日目 5月16日(土)
 この旅もいよいよあすの早朝には帰国であったから,きょう8日目がこの旅の実質上最後の1日であった。実は,その帰国の日,私の乗った飛行機にトラブルが発生して空港に引き返してしまったので日本への帰国便に乗り損ねてしまい,私は,予定よりも1日帰国が遅くなった。
 この9日目に起きた出来事については,すでに書いた(2015春アメリカ旅行記-フライトが遅れる③から⑧)ので,それをお読みいただくとして,この「2015春アメリカ旅行記」は,8日目の1日で終了ということになる。

 前日は,終了後の混雑を恐れて試合終了の前にボールパークを出てホテルにもどった。
 少しおなかが減っていたので,ホテルの近くにあったKFCで夜食をとろうと歩いて思って出かけてみたのだが,すでに,ドライブスルー以外は閉まっていた。仕方なく,その隣にあったマクドナルドへ行くことになった。深夜の店内には他に客もおらず,少しおびえながら食事を済ませ,ホテルに戻ったのだった。

 そして朝が来た。
 私は,明日の帰国便の出発が早朝だったので,今晩宿泊するホテルは空港の近くに予約をしたから,宿泊していたホテルは早朝チェックアウトすることにした。このホテルにも朝食がついてたが,食堂に行ってみると,まだ6時過ぎと時間が早く,準備ができていなかったので,私は,そこで朝食をとることをあきらめた。
 この日は,特に決めた予定というものもなかったが,カンザスシティの見どころを見学することにした。
 カンザスシティには見どころはそれほど多くなくて,昨日行ったニグロリーグ博物館,アメリカン・ジャズ博物館以外には,ネルソン・アトキズ美術館,ケンバー現代美術館,第1次世界大戦博物館といったところだろう。いずれにしても,それほど大きな都会でもなく,道路も広く,移動が楽なので,今日1日で十分に見て回れるようだった。
 今日は幸い土曜日だったので,ファーマーズ・マーケットが開催されていた。
 私は,数え切れないほどアメリカの都会へ行ったから,どこの都会にもあるような場所は食傷気味であったが,ファーマーズ・マーケットにはこれまで行ったことがなかった。ファーマーズ・マーケットというのは,日本の飛騨高山の朝市のようなものだ。
 そこで,何はともあれ,今日は,まず,そのファーマーズ・マーケットへ行ってみることにした。

 カンザスシティのダウンタウンにシティマーケットという一角がある。
 1857年にできた昔ながらの市場街,今でいうモールであるが,そこの中央の広場で,週末に,このファーマーズ・マーケットという朝市が開かれているのだ。
 現地の様子がわからず,駐車場があるかどうかも不安であったが,ともかく行ってみることにした。こういうところは,とにかく,人より早く行くというのがコツである。
 近くまで行ってみると,地元の人の買い出しで,すでにずいぶんと車が溢れていたが,多くの駐車場があった。数ブロック離れたところは無料で,そこには,まだずいぶんとスペースがあったので,そこに車を停めて歩いて行くことにした。
 ファーマーズ・マーケットは,広場にテントが一杯張ってあって,それぞれのテントの中には,地元民がそれぞれ取り立ての野菜やらを売っていた。歩いて見て回ったが,これがまた大変面白かった。アメリカの野菜の値段をチェックするだけでも楽しかったし,日本でなじみのある野菜や果物やそうでないものなど,人々の生活が大変よくわかった。

 人が生きる力というのは,本当にたいしたものだと思う。
 私は,小さい頃から,勉強ができればいい,という間違った教育を受けて育って,ある年齢まではその価値感を絶対的に信じて生きてきたのだが,そんなことは間違いだと気づいて以来,自分があまりに無知であり,無能力であることを恥じてきた。私は,今でも,こうした農作物を見ても,あるいは手に入れても,それを食事にする手段を持たない。本当に情けない話である。

◇◇◇
2015春アメリカ旅行記-フライトが遅れる③
2015春アメリカ旅行記-フライトが遅れる④
2015春アメリカ旅行記-フライトが遅れる⑤
2015春アメリカ旅行記-フライトが遅れる⑥
2015春アメリカ旅行記-フライトが遅れる⑦
2015春アメリカ旅行記-フライトが遅れる⑧

DSC_1524DSC_1528DSC_1530DSC_1531●「パインタール事件」の主役●
 ベンチ裏でなにも得るものもなく,このボールパークにもヤンキースのプレイヤーにも憤慨していたら,やがてゲーム開始が近づいてきた。写真を見る限りではとても美しいボールパークであろう。私の座席はバックネット裏の上段だったから,いつもテレビ中継で見ている,外野席後方のインターステイツ70の景色は実際にはこういう位置関係になっているんだということがよくわかった。

 アメリカでは何事も単純でどこも同じだと書いたことがあるが,ここのボールパークも,やはり,客席を取り囲むコンコースを一周できるた。ここカウフマンスタジアムは,外野の裏がものすごく広く,ここからの眺めが一番素晴らしかった。また,この場所には,3体の銅像があった。それが今日の写真である。
 この外野の通路にある3体の銅像は,ロイヤルズの永久欠番となっている3人のプレイヤーである。
 ひとつ目は,背番号20のフランク・ホワイト(Frank White Jr.)二塁手である。ふたつ目は,背番号10のディック・ハウザー(Dick Howser)(監督)である。そして,最後に,背番号5のジョージ・ブレッド(George Howard Brett)三塁手である。
 フランク・ホワイト二塁手は,軽快な守備と,長打力こそやや低いが勝負強い打撃でロイヤルズ一筋にプレーした1970年代後半から1980年代を代表するプレイヤーであった。1980年のヤンキースとのリーグチャンピオンシップシリーズではチームをワールドシリーズに導き,MVPに選ばれた。
 ディック・ハウザー選手はヤンキースで活躍した遊撃手であった。1980年にヤンキースの監督に就任し,いきなりこの年103勝をあげ,地区優勝を果たしたのだが,チャンピオンシップシリーズでカンザスシティ・ロイヤルズに敗れた。この時の采配が原因で,ジョージ・スタインブレナーGMが干渉をし,それを拒否したが,このシリーズの敗退後に,ハウザーは解任された。その後,ロイヤルズの監督となり,1985年,セントルイス・カージナルスとのワールドシリーズで1勝3敗の窮地に追い込まれるが,そこから3連勝してチームを初のワールドチャンピオンに導いた。
 ジョージ・ハワード・ブレット選手は三塁手・一塁手であった。ロイヤルズ一筋でプレイした「フランチャイズ・プレイヤー」であり,通算試合数・打数・得点・安打・二塁打・三塁打・本塁打・打点・四球の各部門で球団記録を保持している。1999年に資格初年度でアメリカ野球殿堂入りをした。現在はロイヤルズの球団副社長を務めている。
 このプレイヤーは「パインタール(松ヤニ)事件」の主役として有名である。
 1983年7月24日ニューヨークでのヤンキース戦のことであった。
 3-4とロイヤルズが1点ビハインドで迎えた9回表2死1塁で,ブレットが打席に立ち逆転の2点本塁打を放った。しかし,ここで当時ヤンキース監督だったビリー・マーチンが,ブレットのバットに塗られた松ヤニが規定の範囲を超えていると抗議した。球審がこれを認めて違反バットを使用したブレットはアウトとなり,一旦はヤンキースの勝利で試合が終了したのだった。これが後に,ロイヤルズの提訴が認められて,本塁打を有効として5-4の9回表2死から試合が再開することになったのだった。
 25日後の8月18日に行われた試合の残りは10分足らずで終了し,騒動はようやく終結したのだった。
 ジョージ・ブレット選手とフランク・ホワイト選手は長年のチームメイトで,1914試合に共に出場した。これは,1995年まで,守備位置を問わず,ふたりの選手が同じチームで出場した試合数のアメリカン・リーグ記録であった。

 私は,このボールパークでゲームが見られればそれで満足だったので,これを書いている今,ゲーム内容なんて,まったく記憶にない。覚えているのは,値段の高い席しかWifiが通じないということだけであった。デンバーでもサンフランシスコでも,ボールパークは全席Wifiが通じた。それに比べて,どうなんだろう。
 どちらが勝ったかということも当然覚えていない,というか,私は8回の途中でボールパークを後にした。
 こんな広い駐車場,帰りの渋滞に巻きこまれたらどうしようもない,と思ったからだった。
 しかし,心配したとおり車を探すのに戸惑った。
 来たとき,ずいぶんとしっかり場所を覚えたつもりだったのにもかかわらず,わけがわからなくなった。車自体がレンタカーだから,自分の車のイメージすら明確でないのだった。
 私は,駐車場をずいぶんとさまよった挙句,やっとのことで車を見つけることができた。
 ところが今度は,ボールパークからインターステイツ70に入るのが,大変だった。
 道路は目の前なのである。しかし,交通規制で道路が閉鎖されていて,かなり遠回りをしなくてはならなかった。こうなると,カーナビは役立たない。指示した方向に進んでくれないから,すっかり迷うばかりであった。
 どうにか,私は,ホテルにたどり着くことができたのだった。

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●わずか1ドルとはいえ●
 このボールパークは,2007年のシーズン終了後から2億5000万ドル,つまり,300億円というから,新国立競技場の総工費の10分の1,ヤンキースタジアムの5分の1もの費用をかけて,大規模な改修工事を行い,2009年にオープンさせた。その結果,外観がモダンなガラス張りとなり,センター後方の巨大な王冠スコアボードはハイビジョンに変わり,レフト後方にチーム殿堂博物館,そして,噴水シート,ライト後方にはレストランが新設された。
 私は,このリニューアルされる前の,日本の陸上競技場のようなコンクリートむき出しの古臭いカウフマン・スタジアムに来てみたかったと思った。確かに,新しくはなったが,やはり,新たに作られたボールパークには及ばず,ボストンのフェンウェイ・パークのような,徹底的なレジェンドにも及ばない。つまり,中途半端な近代性を身に着けてしまっていたからである。

 私がこのボールパークに着いたときはまだ開門時間には早く,ゲートに人が集まり始めていた時だった。
 それにしてもものすごく蒸し暑かった。
 確か1ドルだったと思うが,余分に払うと,優先入場できるということで,せっかく来たので,そのお金を支払って,私は,優先入場をすることにしたのだが,優先入場の特典が何か,そして,いったいどのゲートから入れるものかもよくわからなかった。アメリカは人から何だこうだといって余分にお金を吸い取ることは得意だが,日本と違って極めていい加減な国だから,聞いたところで,幸運にもそのことを知っている人ならば教えてくれるが,たとえ係員だろうと知らない人の時はどうにもならない。
 私のように,わからずにうろうろしている人が大勢いた。
 なんとか,ここに並べばいいらしい,という列を見つけたので,そこに並んでいると,私の前に娘とその父親らしき人がいた。その娘というのは,私の娘と同じほどの年齢であった,ということは,父親というのが私と同じくらいの年齢なのだろうが,彼女はメジャーグおっかけのようであった。彼女はサインをしてもらうためのボールとボールペンを持参していて,いろんな私がくだらないと思うようなことにすごく詳しかった。
 近頃,日本の大相撲にも,それとほとんど同じ感じの女性ファンがあふれているが,そうした女性ファンとほとんど同類であった。
 彼女によれば,ボールにサインをしてもらうには,青ボールペンでなければいけないのだという。その女性に限らず,選手の写真の入ったアルバムを用意して,それぞれのプレイヤーにサインをしてもらうのに命を懸けている女性とか,このボールパークには,そういった女性がうろうろしていた。
 女どものやることはどこの国も変わらない。

 蒸し暑い中を並んでいると,開門の時間になって,1ドル余分に支払った我々は,とりあえず,チーム殿堂博物館に誘導された。
 まず,この博物館を優先的に見ることができるらしかった。
 博物館の展示は極めて充実していて,それは多くのメジャーリーグのボールパークの中でも1,2を争うものであった。前の年のディビジョンシリーズで出場した青木宣親選手の名前もあった。
 青木選手は,私が行った年の前年,ここロイヤルズのメンバーとして大活躍をして,チームはディビジョンシリーズまで進出したが,守備力がないとみなされていて,ワールドシリーズでは指名打者制度のないナショナルリーグ主催のゲームで出場することができず,活躍の場もなく,要するに,このチームでの居場所がなくなって,ある意味,干されていた。それが理由だと思うが,彼は,翌年,不思議なことにナショナルリーグのサンフランシスコ・ジャイアンツに移籍した。
 私が思うに,青木宣親選手は,好不調の波が激しすぎることで,アメリカでは今ひとつ信用あるプレイヤーとみなされていないから,こうした扱いを受けてしまうのだ。だから,これだけ貢献したにもかかわらず,この博物館で彼の写真が1枚あるわけでもなく,その存在を知ることができるものは,唯一メンバー表のみであった。
 その翌年,つまり2015年の6月,私は,その年に属していたサンフランシスコ・ジャイアンツのゲームを見にいったが,サンフランシスコでも,青木選手のユニフォームすら売っていなかった。日本でいろいろ報道されていても,実はアメリカでは,その程度の位置づけでしかない,というのは,実際,行ってみないとわからない。日本の報道とは,そんなものである。

 博物館の見学後,優先的にスタジアムに入って,運が良ければ選手にサインをしてもらうことができるということだった。
 このカウフマンスタジアムは作りが悪く,スタンドの一番前に行っても,そこからさらにフィールドが遠く,選手と直に接することができない。私は,他の観客と同様に,この日のビジターチームであったヤンキースのベンチの横で,選手を待っていたが,ヤンキースのプレーヤーはまったくファンサービスをする気もなく,それはそれはひどいものであった。
 そんなわけで,わずか1ドルとはいえこのお金を支払ったおかげで,私は,このボールパークにもヤンキースにも,悪い印象以外の何物も得ることができなかったのだった。

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●夢にまで見たボールパーク●
 MLBのボールパークは,1960年代,モータリゼーションの発達で巨大な駐車場が必要となったために,郊外に,アメリカンフットボールとの兼用スタジアムが数多く建設された。そんな中で,1970年代のはじめに,カンザスシティは,郊外に,あえて,ベースボールとフットボール,各々の専用スタジアムを建設したのだった。
 1990年代以降,郊外型の兼用スタジアムは全て時代遅れとなって,今度は,ダウンタウンの再開発のシンボルとして,都心に新しいベースボール専用のボールパークが作られるようになった。しかし,カンザスシティのふたつの専用スタジアムは今も健在である。
 私は,30年くらい前にこのボールパークの写真をはじめて見て,その豪華さと規模の大きさに,さすがアメリカだ,いつかはそこに行ってみたいと思い続けていた。

 アメリカに頻繁に旅をするようになっても,カンザスシティは遠かった。メジャーリーグ30球団の中でも,おそらく,一番縁遠いところに違いない。そしてまた,ロイヤルズは1985年のワールドシリーズ進出を最後に低迷して,ずっと弱小球団のままであった。
 写真で見る限り,このボールパークがあるのはアメリカの中でも,ど田舎で,かつて,野茂英雄投手もこのチームに属したことがあるが,そこは,まるで地の果てのようなところだと,私は思った。
 マック鈴木というメジャーリーガーがいた。
 高校生のとき,学外で傷害事件を起こし自主退学。その間にもさらに2件の傷害事件を起こし,日本で野球が続けられなくなって渡米した。やがて,1Aアドバンスのサリナス・スパーズに球団職員兼任練習生として参加,シアトル・マリナーズとマイナー契約後,メジャーリーグに昇格し,村上雅則,野茂英雄に次ぐ日本人3人目のメジャーリーガーとなった。
 彼は,日本プロ野球界を経由しない初の日本人メジャーリーガーであった。
 そして,カンザスシティ・ロイヤルズに移籍したのだが,その彼が,ロイヤルスで登板して。9回まで完封したのを,私は日本のテレビで見たことがあった。
 私は,そのとき,いかにも,そんな男にふさわしいチームだと思ったものだった。
 今回,そんなカンザスシティ・ロイヤルズのボールパーク,カウフマンスタジアムを,私は訪れることにしたのだった。
 私にとって,このボールパークは,それほど思い入れのあるところだった。

 インターステイツ70をセントルイスから走ってきて,はじめてこのボールパークが見えたときは感動した。それと共に,私がずっとど田舎だと思い続けていたのが,完全な誤解だということに気がついた。
 この地のロケーションは,ドジャースタジアムとさほど変わらない。ドジャースタジアムも,ロサンゼルスの郊外にあるのだが,むしろ,ドジャースタジアムのほうが,ずっと,都会から離れている感じがする。
 デイトン・ムーア氏がロイヤルズのGMとなった2006年当時も,このチームは,最弱であった。彼は,チームの立て直しを図り,ボールパークをリニューアルした。以前は,外野には座席がなく,全面噴水だったが,今では,それも縮小された。外観も模様替えされて,中途半端に豪華な包みに覆われた。それとともに,チームは強くなり,ついに,昨年,ワールドシリーズを制覇してしまった。
 そんなカウフマンスタジアムに私は到着した。駐車場はだだっ広いのに自由に車を停められるわけではなく,安くもない駐車料金が必要だったし,停める場所さえ指定された。しかも,自分の停めた場所が,あまりの広さで,一体どこなのかを覚えるのも一苦労であったし,駐車場からスタジアムへ行くのも大変なくらい遠いところであった。
 私が到着したときは,すでに雨は上がっていたが,日本の夏のようにものすごく蒸し暑くなった。
 夢にまで見たこのボールパークの現実を知るのに,時間はかからなかった。

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●いつの間にか雨はやんで●
 彼女の言った通り,いつの間にか,雨はやんだ。私は,一度ホテルに行ってチェックインを済ませて,ベースボールを見に行くことにした。
 ニグロリーグ博物館とアメリカン・ジャズ博物館のあったのは,カンザスシティのダウンタウンから東南東に2マイル(3.2キロメートル)のところであり,ベースボールのゲームがあるカウフマンスタジアムは,東南東に6.5マイル(10キロメートル)インターステイツ70を走ったところ,そして,私が予約したホテルは,さらに3マイル(5キロメートル)インターステイツ70を走ったところと,どこも,とても近かった。そこで,一般道を走って,一度,ダウンタウンまで遠回りをしてホテルへ行くことにした。
 なにせ,はじめて行くこうした規模の都会は,行ってみなければよくわからない。
 日本で,はじめて,鹿児島市とか福岡市へ行ってみるのと同じである。

 今日の写真にあるように,カンザスシティもまた,とても道路の広い,美しい都会であった。
 この日走ったのは,ダウンタウンといっても,いわゆる繁華街ではなく,官庁街であった。
 アメリカの都会の官庁街は,とても広く,巨大なビルがその威厳を保っている。カンザスシティでは,官庁街は高台にあって,とても見晴らしのよいところであった。ただし,道路工事中のところも多かった。
 私は,アメリカの都会に住んだ経験もないから本当のところはよくかわからないが,もし住むとすれば,カンザスシティよりももう少し規模の小さな,たとえば,モンタナ州の州都ヘレナのような都会のほうが居心地がよい気がする。この広さというのは,うらやましくもあるが,自分なりの楽しみをもっていないと,どこへ行くにも何をするにも遠すぎる,といえなくもない。
 日本のように,ちょっと買い物,といって,歩いてモールに行けるようなところではないのである。

 このことも書いたことがあるが,多くの日本人が知るアメリカ人は,1割程度の上流階級と2割程度の下層階級だけである。そして,日本人の知るアメリカの姿というのは,映画に出てくるような戦争や暴力,そして,日本でニュースとして伝えられる銃犯罪ばかりである。そして,そういった情報だけで多くの人はアメリカは怖い,と言う。そして,観光で行くのは,ニューヨークやサンフランシスコといった観光地だけである。
 また,留学で行くときは,勉強に忙しく旅をする時間もあまりないだろうし,仕事で行くときは,会社の用意した日本人コミュニティが中心であることが多いから,日本人がアメリカの実態をどれだけ知っているかと考えると,本当はほとんどのことを知らないのではないか,と思う。
 むしろ,アメリカの実態に近いのは,「バック・トゥー・ザ・フューチャー」とか「マジソン群の橋」で出てくるようなところだと私は思う。行ったこともなく,自分で経験したこともないのに,偏見を持って「アメリカ? あんな危険なところへ…」と言う言葉を聞くたびに,そうした世界を知らない人をとても気の毒に思う。あの雄大な風景を知らずして一生を終えるのならどんなお金持ちになろうと出世しようと,私はごめんだ。
 
 ともかく,私は,今日の写真にあるようなカンザスシティの「普通の」街並みを走って,ホテルに到着した。
 私が今晩予約したホテルもまた,アメリカの都会のどこにでもある,安価な「モーテル」であった。このホテル,アメリカのホテルにしては写真写りがよくない。写真で見ると,結構「ヤバそう」な感じに見える。しかし,実際はとても快適なホテルであった。
 私は,こうしたところに泊まって,メジャーリーグでも見て,大自然をドライブして,日本にはありえない景観を味わえることができれば,それだけで,他に何もいらない。日本では,そうした経験はどこでも味わえない。

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●「ジャズ発展の地」●
 ニューオーリンズが「ジャズ発祥の地」であるなら,カンザスシティは「ジャズ発展の地」である。1930年代,現在,このジャズ博物館のあるカンザスシティのエイティーンス・アンド・ヴァイン(18th and Vine-Downtown East)地区の周辺で発展したジャズは,地元のクラブで今もジャズファンを集め続けている。
 カンザスシティはジャズピアノ奏者のカウント・ベイシー(William "Count" Basie)が大成功した都市であり,サックスの天才で,しかもカンザス生まれのチャーリー・パーカー(Charles Parker Jr.),トランペット奏者のディジー・ガレスピー(Dizzy Gillespie),ドラマーのマックス・ローチ(Max Roach)が出会って数時間後にインプロビゼーション(Improvisation)スタイル=即興演奏を生み出した地でもある。
 このスタイルがビバップ(bebop)の妙技に発展して,今日まで受け継がれているのだ。
 ビバップとは,最初に決まったテーマ部分を演奏した後、コード進行に沿った形でありながらも、自由な即興演奏を順番に行う形式のことである。

 こうしたカンザスシティの豊かなジャズの伝統の起源は禁酒法時代にまでさかのぼる。
 当時,地元の政治家トム・ペンダーガスト(Thomas Joseph Pendergast)が飲酒に目をつぶっていたために,国が禁止していた飲酒はカンザスシティでは自由に行われていた。そこで,他の都市で失業したミュージシャンたちがこの地に集まり,1930年代までには人種差別により隔離されていた活気あふれる黒人居住地区の中心地であったエイティーンス・アンド・ヴァイン地区の周辺に煙が充満したクラブが瞬く間に60軒以上建ち並んだのだった。

 その豊かな音楽の歴史が展示されているのが,ここアメリカン・ジャズ博物館(American Jazz Museum)であった。
 ここは「アメリカのクラシック音楽」と称されるジャズミュージックを専門とするアメリカ唯一の博物館である。
 この博物館の開設は,近隣地区全体を活性化するために2,650万ドルを投じた再開発プロジェクトの目玉であった。ジャズ歌手エラ・フィッツジェラルド(Ella Jane Fitzgerald)のピンクのイブニングガウン,ジャズミュージシャンであったルイ・アームストロング(Louis Armstrong)のトランペット,チャーリー・パーカーの有名なアクリル製サックスなど,100点以上の歴史的記録や思い出の品が陳列され,館内にはジャズが流れていて,ジャズファンなら,思わず雰囲気に酔いしれてしまうことだろう。マックス・ローチ,ジャズピアノ奏者でありジャズ歌手のジェイ・マクシャン(Jay Mcshann),ジャズピアノ奏者のシャーリー・ホーン(Shirley Horn)らにスポットを当てた博物館オリジナルの映画も上映されていた。
 私が行ったときには他には誰もおらず,自由に館内を歩き回ることができた。

 館内の一角には,1930年代のナイトクラブそのままになっている人気の高いジャズクラブ「ブルールーム」(The Blue Room)という場所がある。ここは昼間は博物館の展示の一部となっているが,夜になると,今でもジャズクラブになるのだそうだ。かつて2000年ごろに,渡辺貞夫さんが,尊敬するチャーリー・パーカーが育ったこの「ブルールーム」にわざわざ来て,演奏して帰ったこともあったという。
 また,道路を隔てた向かい側には,1912年にオープンしたジェムシアター(Gem Theater)があって,落ち着いた輝きを放つネオンサインも新たに復元され,建物の正面にはガラスタイルが施されていた。

 私は,特にジャズに興味があるわけでもなかったので,ぐるりと一回りしただけであったが,なかなかいい雰囲気だった。
 アメリカ文化を味わうためには,アメリカンフットボールやジャズも理解する必要があるのだろう。
 こうしてニグロリーグ博物館とアメリカン・ジャズ博物館を見終わって建物の外に出ると,外は大雨であった。
 車を停めた場所までは数十メートルの距離であったが,そこまで走って行くことさえ不可能であった。私がためらって建物の中に戻って雨宿りをしていると,ちょうど,同じように雨宿りをしている女性がいた。
 私が「今晩ベースボールを見に行くのですが,この雨では…」と話しかけると,「私も見に行くのですが」といわれたのにはびっくりした。アメリカではこういうことがとても多い。これほどベースボールが根付いているわけだ。
 そして,彼女は「この雨すぐにやむから大丈夫よ。ここは,いつもこんな感じだから」と付け加えた。

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●「ニグロリーグ発祥の地」●
 このニグロリーグ博物館(Negro Leagues Baseball Museum)は,年間5万人が訪問するカンザスシティの名所である。ジャズ博物館と同じ建の中にあって,結構広いのだが,アメリカの数多くあるこうした博物館と比べると,それほどの規模ではなかった。
 入場料を払って中に入ると,中央にグランドを模した展示があって,それを取り囲むように,様々なコーナーが作られていた。

 ニグロリーグとは,アフリカ系アメリカ人を中心としたベースボールリーグのことだが,狭義では,リーグ運営が比較的順調に行われていた1920年から1948年の間に存在したベースボールリーグのことを指す。
 1860年にニュージャージー州ホーボーケン(Hoboken)のエリシアン・フィールド(Elysian Fields)で行われたゲームがアフリカ系アメリカ人のチームによる初めてのゲームとされている。その後,1860年代後半になると,主に東海岸を中心にアフリカ系アメリカ人のベースボールチームが形成されていった。
 また,メジャーリーグでは,1884年にトレド・ブルーストッキングスに在籍した捕手モーゼス・フリート・ウォーカー(Moses Fleetwood "Fleet" Walker),投手ウェルデイ・ウォーカー(Welday Walker)の兄弟が,「アフリカ系アメリカ人最初のメジャーリーガー」とされていたが,近年の研究によると,その5年前の1879年にプロビデンス・グレイズから出場した内野手ウィリアム・エドワード・ホワイト(William Edward White)がアフリカ系アメリカ人として最初にメジャーリーグに出場した選手ではないかといわれている。

 1880年代後半になると,メジャーリーグやマイナーリーグからの有色人選手排斥の流れが強まって,アフリカ系アメリカ人選手は1900年頃までにはメジャーやマイナーリーグから姿を消してしまった。
 1890年代になると,リーグに所属しない巡業プロチームが興行を成功させたりプロのチームが作られて,アメリカ中西部を中心に巡業を行うようになっていった。また,20世紀に入ると,アフリカ系アメリカ人によるプロ野球球チームは,ニューヨークやフィラデルフィアなどでも見られるようになった。
 1911年にシカゴ・アメリカン・ジャイアンツを設立し所有していた実力者ルーブ・フォスター(Andrew Rube Foster )は,アメリカ合衆国の第一次世界大戦参戦による混乱が収まった1920年,他の球団所有者たちとカンザスシティで会合を開き,アフリカ系アメリカ人による野球組織を提唱,アメリカ北西部を中心とした8球団によるニグロナショナルリーグを発足させた。また,その3年後の1923年,ヒルデール・デイジーズの所有者エド・ボールデン(Ed Bolden)が中心となり,アメリカ東部を中心としたイースタン・カラード・リーグが発足した。
 両リーグは1924年からニグロリーグの「ワールドシリーズ」も開催するようになり,クール・パパ・ベル(Cool Papa Bell),マーティン・ディーゴ(Martín Magdaleno Dihigo Llanos),ウィリー・ウェルズ(Willie Wells)といったスター選手も輩出するようになっていった。

 1920年代になると,大恐慌の影響もあり,イースタン・カラード・リーグ,ニグロナショナルリーグは一旦崩壊したが,ニグロリーグの火は絶えず,1933年に第二次のニグロナショナルリーグが組織しなおされたのに続き,1937年にはニグロアメリカンリーグが再結成され,再び2リーグ制が確立した。
 ニグロリーグにおける東西対抗形式のオールスターゲームも行われるようになった。
 この時代にはサチェル・ペイジ(Satchel Paige),ジョシュ・ギブソン(Joshua Gibson)ら多くのスタープレイヤーが登場し,こうして,ニグロリーグは全盛期を迎えた。
 白人社会から追われた黒人選手はニグロリーグで稼ぐことはできたものの,苦労は絶えなかった。
 大半のレストランやホテルが黒人を拒否。裏口やバスの中で食事をして,教会や葬儀場に泊まり,森の中で用を足した。白人至上主義団体「KKK」による襲撃や嫌がらせも受けた。
 1945年,当時ドジャースのオーナーであったブランチ・リッキー(Wesley Branch Rickey)は,ドジャース配下のマイナー球団にアフリカ系アメリカ人選手を所属させるようになる。その後,1947年にジャッキー・ロビンソン(Jackie Robinson)がメジャーリーガーとなり大活躍した事により,他のメジャーリーグ球団もニグロリーグの選手を引き抜いていくようになり,1948年にはニグロナショナルリーグが解散,ニグロアメリカンリーグも1960年には立ち行かなくなり消滅した。

 かつてカンザスシティーを訪れた黒人のチームや芸能人が宿泊できたのは,博物館のある限られた地域だけだったという。
 逆境の中でも選手たちのプレーは,魅力にあふれていた。記念館の見学経路の最後にはフィールドがあり,ニグロリーグのベストナインと呼べる選手の銅像が並んでいた。
 ニグロリーグ史上最高の投手は,サチェル・ペイジ(Satchel Paige)。
 武器の快速球は,大リーグで「火の玉投手」と呼ばれたあのボブ・フェラーでさえも「自分の速球なんて(ペイジに比べたら)チェンジアップみたいなもの」と脱帽した。外野手をベンチに引き揚げさせて打者と勝負し,三振を奪って観客を沸かせていたという。48年には42歳でメジャーリーグのインディアンスに入団し,同年7月に42歳でメジャーデビュー。50歳を過ぎてもマイナーでプレーを続け,59歳となった65年にはカンザスシティー・アスレチックスに所属。史上最年長で登板し,3回を無失点に抑えた。
 最高の打者は,ジョシュ・ギブソン捕手(Joshua Gibson)であった。
 右打ちで通算本塁打は800本とも900本以上ともいわれる。最長飛距離は177メートルで「黒いベーブ・ルース」の異名をとった。
 また,クール・パパ・ベル外野手(Cool Papa Bell)の韋駄天伝説というのもあった。
 スイッチ打者でベース1周が12秒。二塁から外野への犠飛で生還することも珍しくなかった。その俊足ぶりは「寝室のライトのスイッチを切り,暗くなるまでにベッドに入った」とまで例えられた。

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●あたりが急に暗くなってきた●
 まだホテルのチェックインには時間があったので,ホテルの場所だけを確認して,カンザスシティのダウンタウンに行くことにした。ホテルの場所はインターステイツ70のジャンクションの袂にあったので,そこからインターステイツ70に乗った。
 MLBファンの方は,テレビ中継のとき,カンザスシティ・ロイヤルズの本拠地カウフマン・スタジアム(Kauffman Stadium)の外野席後方に高速道路が走っているのが写るのをご存知であろう。私も,こうした映像を見たり,関連の本に載っている写真を見たりして,このスタジアムが,カンザスシティの郊外の広大な平原にあると思っていた。

 現在,アメリカでは,MLBの本拠地を大都市のダウンタウンに誘致して,再開発を進めているところが多い。日本でいえば渋谷にボールパークをつくるようなものだ。したがって,交通の便がよく,ゲームの終了後も安全にホテルに帰ることができるのだが,車で行くとなると駐車場に困るのだ。
 その反対に,1990年以前に作られたものは大都市の郊外にあって,車でなければ行くのも大変なものも多い。そこには広い駐車場がある。こういうところに観光で日本から行くのは一般の人には大変であろう。
 私は,以前行ったテキサス・レンジャーズの本拠地がまさに大平原の真ん中にあったから,カウフマン・スタジアムもそれを想像していた。
 インターステイツを西に,ダウンタウンに向かって走っていると,左手,つまり南側に,テレビで見慣れたカウフマン・スタジアムが見えてきた。アメリカで感動するもののひとつがこれである。ここでも,さすがに私は感動したのだか,それとともに,意外とダウンタウンに近いことに,意外な気がした。ちょうど,東京から浦安のディズニーランドに行くようなものだ。

 さらに進んでいくと,正面にカンザスシティのビル群が見えてきた。
 この風景も,また,とてもアメリカらしいものだが,日本ではこれほど高層ビルが林立する大都市はあまりない。
 ガイドブックによると,カンザスシティの見どころは,第一次大戦博物館,カントリー・クラブ・プラザ,アメリカン・ジャズ博物館,ニグロリーグ野球博物館などらしい。この日,私は,カンザスシティ・ロイヤルズのゲームのチケットを持っていたので,開門前の数時間を過ごすために,ニグロリーグ野球博物館に行くことにして,カーナビで場所を検索して,案内に従って走って行った。
 1880年代までは,アフリカ系アメリカ人もメジャーリーグでプレーをしていたが,1876年,アフリカ系アメリカ人の公共施設の利用を制限する「ジム・クロウ法」の施行によって,1900年にはアフリカ系アメリカ人選手はメジャーリーグから姿を消した。
 1920年2月,カンザスシティにアフリカ系アメリカ人選手ばかりの球団を所有するオーナーが集まった。
 そして,ルーブ・フォスターの呼びかけで「ニグロリーグ」が発足したのだった。

 ニグロリーグ野球博物館はイースト18番ストリートという,ダウンタウンから東の郊外にあった。
 あたりは荒れたところという感じではなかったが,アフリカ系アメリカ人の多く住む場所であった。私は,今でも,この町の治安については,本当によくわからない。
 道路に車を停めることができたので,私は適当なところに車を停めた。
 アメリカン・ジャズ博物館とニグロリーグ野球博物館は同じ建物にあった。
 私はうかつにも,この日,全く天気の心配などしていなかった。なにせ,雨の予兆すらなかったからだ。
 ところが,私が車を降りると,あたりが急に暗くなってきた。

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●禁酒法が機能していなかった町●
 私が今日宿泊を予約したホテルは,アメリカンイン(American Inn)という安価なものであった。場所は,カンザスシテイのダウンタウンから東に20マイル(34キロメートル)インターステイツ70を走ったところにあった。
 長い長いドライブももう少しでゴールである。
 私は,カンザスシティからこの旅を始めたが,車を借りてすぐにカンザスシティを離れてしまったから,この町の様子はまだよく知らなかった。治安が悪いという話もあれば,治安はいいという話もあったし,街中噴水だらけだということも聞いたことがある。
 いずれにせよ,私がここに来た理由は,カンザスシティ・ロイヤルズのベースボールを見たいということだけであった。待望のゲームは今晩である。 
 実際,カンザスシティは,行った後でも,よくかからないところだ。
 大いなる田舎であった。きっと,カンザスシティ・ロイヤルズが存在しなければ,一生行くこともなかっただろう。そしてまた,もっと広々とした大平原を予想していたが,そういう感じのところでもなかった。

 20世紀初頭の禁酒法時代,フィクサーであったトム・ペンダーガストという人物に支配されていたカンザスシティでは,禁酒法は,事実上機能していなかった。ペンダーガストの庇護のもとに,ナイトクラブも違法営業され,マフィアが台頭していた。
 1933年には,カンザスシティ虐殺事件と呼ばれる銃撃戦が起こり,警察官・FBIエージェントの4人が殉職した。また,1970年代にもギャングに関わる事件が起きた。このリバー・クエイ・エンタテイメント地区で起きた闘争で3棟の建物が爆破されたのだが,この一連の事件は後に小説に著されて,1935年に公開されたロバート・デ・ニーロ主演の映画「カジノ」の題材ともなった。
 現在,カンザスシティにおける殺人発生件数は126件で,人口10万人あたり28.5件。これはセントルイスほどではないものの,ニューヨークの4倍以上,ロサンゼルスの2倍以上である。
 カンザスシティの市内には200か所以上の噴水があり,そのため「噴水の街」(Fountain City)と呼ばれている。また,古くは畜産の中心地であったことから,カンザスシティはステーキやバーベキューで知られ,「牛肉の町」(Cowtown),「世界のバーベキューの都」(BBQ Capital of the World)とも呼ばれている。さらに,アメリカの地理重心と人口重心の両方が町の400キロ以内に位置することから,「アメリカの中心」(Heart of America)と呼ばれている。

 私はガーデンシティでガソリンを入れて,再び州道7=1番目の写真 に戻った。
 この道路をそのまま西北西に走って,ついに,インターステイツ49に到達した。それが今日の2番目の写真である。
 このまま道なりに北北西に走ってもカンザスシテイにたどり着くのだが,私の予約したホテルは,最初に書いたようにカンザスシティのダウンタウンより東にあったから,ここからは真北の方角であったし,インターステイツを走るよりも一般道のほうが町の様子もよくわかって面白いので,一旦入ったインターステイツ49をすぐに,到着したハリソンヴィル(Harrisonville)という町で降りて州道291に入り,その道を北上した。
 州道291は3番目の写真である。

 地図で見るのと,実際に行くのとでは,想像ができないほどの違いがある。
 もう,カンザスシティのダウンタウンは間近なのだが,写真のように,ここはまだ,のどかな田舎の片側1車線道路であった。
 このブログで何度でも書くが,こうした道路に必ず引かれたセンターのイエローラインに注目していただきたい。やたらと道路を不規則に塗りたくるだけで,ハゲハゲで汚くわかりにくい日本の道路とどちらが走りやすく事故が起きないかは明白であろう。日本人の能力と思考はその程度である。
 しばらく北上していくと,州道291は,リーズ・サミット(Lee's Summit)というところで国道50のジャンクションに差し掛かった。そのまま国道50を少しだけ北西に走って,インターステイツ470を越え,さらに,国道350と名を変えたこの道を北西にしばらく走ったところでノーランドロードに降りて,片側1車線の一般道を北に走っていくと,ついに,カンザスシティを東西に走るインターステイツ70にたどり着いた。
 そして,その手前の右側に,私の予約したアメリカンインが見つかった。
 ちょうどお昼の12時であった。

◇◇◇
Broncos Stun Panthers to Win Super Bowl 50.

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●親しくもないのに交流のある友人●
 私には珍しく,午前8時頃というとても遅い? 時間にブランソンを出発して,カンザスシティを目指して走り出した。
 ホテルを出発したときは,まだ霧が残っていた。
 まず,ブランソンのダウンタウンから国道65まで,霧の中の高原道路を走った。これが,今日の1番目の写真である。写真で見ても,こういうところを知ってしまうと,日本でドライブをする気持ちなんて本当になくなる。そして,国道65に入ってから,そのままスプリングフィールドまで北上していった。
 国道65は,昨日も通った道路だが,眼下にはブランソンの街並みが見えて,道路は,2番目の写真のように岩を切り裂いて作られた見晴らしの良い片側2車線の道路であった。こうした道路が地平線の向こうまで続いていた。昼間は車が通っているのだが,まだ朝早く,ほとんど車の姿は見えなかった。

 スプリングフィールドのダウンタウンの北側に,東西に走るインターステイツ44が走っている。私はこの道を昨日東から走ってきたのだった。今日は,このインターステイツ44に左折して入り,6マイル(9.6キロメートル)ほど西へ向かって走った。
 これが,3番目の写真である。
 そして,そこから今度は右折して,州道13に入り,北北西に85マイル(136キロメートル),クリントン(Clinton)まで走っていったのだった。
 4番目の写真は,この州道13を1時間ほど走ったところにある湖,トルーマンレイク(Truman lake)を道路から眺めたものである。

 クリントンは大きな町で,久しぶりにこうした町に出会った。5番目の写真は,そのクリントンのダウンタウンである。
 クリントンで州道7に乗り換え,西北西に40マイル(64キロメートル)行くとハリソンヴィル(Harrisonville)へ到達する。
 そこからインターステイツ49で40マイル(64キロメートル)北上すれば,いよいよカンザスシティなのである。
 そして,今日の6番目の写真は,州道7を走りながらガソリンスタンドを探していると,案内掲示があったので,それに従って州道を降りて,カントリーロードを走って行って見つけたものである。そこはガーデンシティ(Garden City)という小さな田舎町のガソリンスタンドであった。
 今,これを書きながらGoogleMapsでストリートビューを見ていると,私の写した写真と同じ風景が出てきたりするのが,当たり前のことでも不思議な気持ちがする。
 特に,このガソリンスタンドを写したのと全く同じ構図の写真が見つかったときには,可笑しくなったほどだ。

 私は今回,このようにしてカンザスシティへ向かったのだが,実際は,スプリングスフィールドでインターステイツ44をインターステイツ49に至るまでまで西に行って,インターステイツ49をそのまま北上するほうがずっとインターステイツで通行できるから,距離は長いのだが時間としては早い。しかし,時間もあることだしのどかな田舎の一般道を楽しみながら走ろうと思ったので,こうした経路をとったのだった。
 今日は,このたどった道からの景観を順に紹介している。これまで,この旅では道路の写真ばかりであったが,それも,今日が最後である。
 それにしても,私は,いつも時間に追われて距離を稼いでいたから,こんなのどかな道を,長い時間にわたって楽しく走ったこともあまりなかった。

 ミズーリ州は,都会としては,東の端のセントルイスと西の端のカンザスシティを挟むようにして,大いなる自然が横たわっていて,平原だけではなく湖もあり,結構変化に富んだ風景が眺められる。
 セントルイスとカンザスシティ,この2つの都会は,治安がよいのやらわるいのやら,観光地なのやらそうでないのやら,何やらよくわからない不思議なところであった。
 あえて行きたいと思うようなところでもないし,ツアーもないが,行ってみて失望するようなところでもない。
 私は特に思い入れがないのに,なぜかこれまで2度も来ることができたし,また,きっと今後も来る機会があるだろう。
 特に親しくしているわけでもないのにずっと交流のある友人,というのと同じだろうか。

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●またブランソンに来るであろう●
☆7日目 5月15日(金)
 こうして,私は,心おきなく,ブランソンという町を楽しむことができたのだった。
 今日の写真のように,ブランソンという町は,片側1車線の道路の左右に,レストランやシアター,アミューズメントパーク,そして,ホテルがたくさんあるリゾートであった。私が行ったのはシーズンオフであったから,人も少なかったが,ハイシーズンはどのような様子であるだろうか。いずれにしても,日本の軽井沢のような芋を洗うような混雑ではないような気がする。とにかく広いところだからである。
 しかし,田舎のリゾート地だから,ラスベガスとか,そういうリゾート地とは違う。なにせ,カジノがない。

 私は,こうして,さまざまなところを旅して,結局のところ,人間がいかようにj人工の施設を作っても,結局はその魅力は自然を超越することはできない,と思うようになった。ディズニーランドも,所詮,満天の星空の魅力にはまったくかなわないし,ユタ州の広大な国立公園にはまったく歯が立たない。それとともに,人間が自ら行動したり表現するスポーツや芸事というのは,とても奥が深く,心を豊かにするものだと思う。
 だから,人工の施設を作るなら,それは自然を心から楽しむことができるような,あるいは芸術を楽しむことができるような劇場や美術館を作ることが一番豊かな社会だと思うのだが,実際は,単に自然を破壊したり,せっかくの星空を,意味のないネオンで台無しにしてしまうことのほうがはるかに多い。

 この日の朝は霧であった。
 ここブランソンは,周りが川で囲まれているので,こうした霧が発生しやすいのだろう。
 私が星を見に行く場所のひとつも同じような地形なので,早朝に霧が出やすい。
 そういえば,アメリカで霧といって思い出すのは,ノースダコタ州に行ったときの霧である。あの時の霧はすごかった。
 私は,このように自然を相手に遊び歩くようになって,こうしたことがよくわかるようになってきた。結局,私がこれまで机の上でやってきた勉強なんて机上の知識だけで終わるのならなんら得るものなんてなかった。しかし,ずっとそうして生きて来たから,それが一番大切だと思い込んできたが,それは大いなる誤解であった。そのことをもっと早く気づけばよかったといつも後悔する。

 3日前は,朝食もとらず早朝にホテルをチェックアウトしてしまったが,この日は,ホテルでゆっくり朝食をとることができた。
 旅も終盤。あとはカンザスシティでMLBを見るだけだ。
 ブランソンからカンザスシティまでは,まず,国道65でスプリングスフィールドまで戻り,そこから北北西に州道13を走って,約230マイル(368キロメートル),わずか4時間だったから,のんびりと戻っていけばいい。そして,今晩,ベースボールを見ることだけが,決まっている予定であった。
 朝食後もホテルでのんびりと,フロントでスタッフとお話をしたり一緒に写真を撮ったりして過ごした。
 この旅で,はじめは行く予定さえなかったブランソンであったが,こうしてとても素晴らしい思い出がたくさんできたのだった。きっと,また,数年後に,私はここに来ることになるであろう。

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●年寄りはわけのわからぬものを平気で買う●
 ダットンファミリー(The Duttons)のショーは,バイオリン,ギター,ベース,ヴィオラ,バンジョー,マンドリン,キーボード,ハーモニカー,ドラムなどバラエティに富む楽器が演奏され, 歌やダンスが繰り広げられる。一族全員が参加する物量作戦,とでもいったらよいか。
 彼らは,一族で,振り付け,編曲,マーケティングまですべてを共同作業でプロデュースしている。
 一族の父親はディーン(Dean),母親はシーラ(Shelia)である。彼らは,家族の絆を深める目的で子供たちに音楽の教育を行った。当初はプロにするのが目的ではなかったようだが,最終的に,それが今日のダットンファミリーとなった。彼らはブランソンで自分たちのシアターを持ち, 年間300以上のショーを行っている。また,ホテル,レストラン,ギフト ショップを経営し,また,アリゾナ州にもシアターをもって12月から4月までショー行っているのだ。
 こういうのをアメリカンドリームというのだろう。

 ショーが始まる前に,ディスプレイ画面にメンバーの紹介があったので,それを参考にして,ここにまとめてみる。
 ディーンとシーラは,現在,多くの子どもと孫たちに囲まれて,おじいちゃん,おばあちゃんと呼ばれることに生きがいを感じているという。
 長男はティム(Tim)。その妻ジュヂス(Judith)はピアノと・ヴォーカルを担当。子どもが4人。
 次男ジョナサン(Jonathan)はメインバンジョープレイヤー。その妻ベレ(Belle)はサモア人で,子どもが4人いる。
 長女のエイミー(Amy)はブランソン一のヴァイオリニスト。夫のルーディ(Rudy)は法律の専門家で照明ディレクターも担当している。彼らには4人の子どもがいる。そのうちの一人が白血病(leukemia)になったが,全快したという。
 三男のベン(Ben)。彼は,いとこのスペイン人ジュリオ(Julio)と共に,コミックショーも担当している。 彼にはブランディ(Brande)との間に4人の子どもがいる。
 次女のアビー(Abby)と夫のアダム(Adam)にも4人の子どもがいる。
 さらに,現在は参加していないが,三女のジェニー(Jenny),コンピュータエンジニアの四男のジョシュ(Josh)。ジョジュには,妻エベット(Evette)との間に4人の子どもがいる。
 とまあ,ここに書いているだけでもややこしいくらいだが,要するに,ディーンとシーラには子どもが6人,孫が19人。その多人数の一族がいて,その中の多くメンバーでショーを繰り広げるわけだ。

 写真にあるように,入口を入ったところにギフトショップがあったが,シアターの中の一角にもCDショップが設けられていた。
 面白かったのが,ショーが始まる前と幕間に,日本のお祭りの夜店で売っているような蛍光トーチのおもちゃを売り歩いていたことで,そんなものが確か10ドルもした。そして,ここで買うとプラスチックバッグ,要するに単なるスーパーでくれるビニール袋なのだが,それが特別に付くのだという。いかにも・いかにもアメリカらしいのだが,こんなもの買う人いるのかと思ったら,観客の多くがご老人で,彼らは,孫の土産にそれを買っちゃうのだ。あるおじいさんなんて,それを買おうと,100ドル紙幣をポケットから取り出したではないか。これには売り歩いていたスタッフさえたまげていた。
 日本と違って,100ドル紙幣なんて,アメリカじゃあ,ほとんど通用していないから,私も大変びっくりした。アメリカで100ドル紙幣を使う姿など,初めて見た。とともに,どこの国でも,年寄りは,わけのわからぬものを平気で買うのだということを再認識した。
 私がつねづね不思議に思うのは,月に人類を送り込む科学技術をもつこの国が,これほどちんけなまがい物を土産として売っている姿である。アメリカでは,鉛筆の芯だって,真ん中に収まっていたら奇跡だ。

 ショーの様子は自由に写すことができるが動画はダメという放送があった。大いにSNSで宣伝してくれともいっていた。ショーが終わってステージからメンバーが降りてきたので,私は,その中のベンさんに話しかけることができて,一緒に写真も写した。彼に,私は,日本から来たのだが,このショーを日本のテレビ番組で紹介していたから興味をもってわざわざ見に来たんだといったら,彼は,そりゃ興味深いといって,おかしそうに笑った。
 いつも書いていることだが,アメリカという国は単純で,こうしたショービジネスも,マジソンクスエアガーデンでやっているプロレスも要するに大衆芸能はみんな同じようなスタイルだ。
 日本には,芝居小屋文化というものがあって,歌舞伎やら大相撲やらはマス席があったり幕間には弁当を食べたりとみんな同じような形式だが,アメリカから入って来たショービジネスはそれをおかしな方向にひん曲げて取り入れる。そして,日本では,和式と洋式のトイレが混在して,しかも洋式トイレにウォシュレットなんかを開発して自分たちのものにするから,いろんな文化が入り乱れている。日本語という言葉自体ががそうだ。その根底にあるのは脇目も振らぬ物まねと商魂で,自分たちの思想があるのかないのかそれは知らぬが,いろんなものが無秩序にくっちゃくちゃに存在している。日本のプロ野球のサッカーだかアメフトだかわからない応援なんていい例だ。
 余談だが,MLBのキャンプインは2月中旬から。だから,サンディエゴ・パドレスは,それまではどっちみち施設が空いているから,日本ハムにキャンプ地を貸してくれる。ピオリア(Pioria),行ったことありますが,いいところですよ。それにしても,わずか2週間,こんな寒い時期にわざわざ遠い日本から高いお金を出して箔をつけるためにキャンプをしに来る日本のチームはいいお客さん(カモ)だ,と内心思っているだろう。そんな金があるなら,有望な若手を1年アメリカのマイナーリーグに入れて苦労させたほうがよほどいい。

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●人はだれでも平等に歳を重ねる●
 3日前にブランソンに来たときに,見たかったのに見られなかったのが,ダットンファミリーのショーと,アンディ・ウィリアムスシアターで行われているオズモンズのショーであった。ブランソンには多くのシアターがあるのだが,私が知っていたのは,ショージ・タブチシアターを含めてこの三つであった。

 ブランソンに行ったときには,ブランソンというところの位置づけがいまひとつよく分からなかったのだが,今にして思うに,ここは大衆芸能の聖地のようなところであった。例えば,軽井沢の郊外に,小林幸子シアターだとか和田アキ子シアターだとか北島三郎シアターを作って,常設で興行を行い,併せて,映画館やアミューズメントパークを作って,リゾート地にしたようなものだと思えばいい。
 だから,ニューヨークのブロードウェイとか,メトロポリタンオペラとか,そういった世界で有名なアミューズメントパークというよりも,地元の人,特に,子供や老人向けのアミューズメントパークである。
 だから,日本ではほとんど無名なのである。
 しかし,文化というものは様々な側面があり,ミュージカルやオペラだけが人々の楽しみではないから,こういう場所は存在意義があるのだろう。

 私は,年末12月31日の夜は,EテレでN響第九演奏会を見て,そのあとは,クラシックハイライトを見るというのが楽しみなので,巷で視聴率がどうのとか司会者がどうのとか噂の紅白歌合戦とかいうものは見たこともなければ興味もないのだが,そういう番組を楽しみにしている人も多いことだろうし,こうした好みは人それぞれだから,そこには上下も左右もない。
 ただ,私が気に入らないのは,視聴率がどうのとか,人気がどうのとか,そういうことでその価値を決める側面が強すぎることである。そして,そういうことに振り回されている人がなんと多いことか! 経済的効果とか,そういうことがビジネスとして大切なことは分かるが,価値観や嗜好は人それぞれである。

 ともかく,私は,ここブランソンに戻ってきて,見損ねたこの2つのショーを見ようと思った。
 しかし,オズモンズショーは,残念ながら私の滞在するときはやっていなくて,次の日から始まるということで断念するしかなかった。
 オズモンズ(The Osmons)をご存じだろうか?
 オズモンズというのは,今から40年以上前,日本でも人気のあった兄妹グループで,きっと50歳以上の人はカルピスのコマーシャルで見た覚えがあるだろう。
 私は,1970年の大阪万博の会場で,アンディ・ウィリアムスショーが行われたときに会場にいたのだが,アンディ・ウィリアムスショーに一緒に参加したオズモンズがオフの時間に会場を散策しているのを目撃したことがある。
 帰国してから改めて調べてみると,Youtubeでこの次の日からブランソンで行われたオズモンズショーがアップロードされていて,それを見ることができた。それによると,すでにメンバーの多くは引退をしていて,活動しているのは3人程度であった。
 人は,自分は歳をとってもあのころ見たタレントは歳をとらずそのままの姿だと思っているから,突然ああいう姿を見ると40年という月日を実感して,感慨深くなる。人はだれでも平等に歳を重ねるのである。

 ダットンファミリー(The Duttons)というのは,ダットン一族がステージで弦楽器を中心としたショーを行うもので,いかにもアメリカのエンターテイメントという感じのものである。
 チェックインしたホテルを出て,まずこのシアターに行って,この日の晩のチケットを手に入れた。
 シアターはショージ・タブチシアターのような超豪華なものではなく,一時代前の日本の田舎町にあった映画館のようなものであった。外の駐車場には巨大なダットンファミリーのバスが駐車してあって,なんだか,プロレスの興行? のような感じであった。また,シアターの裏には,ダットンインとかいうホテルもあって,彼ら一族は,ここでいろいろな経営をしていることが分かった。
 彼らは,オーディションへのチャレンジを繰り返しながら知名度を上げて,ここブランソンにシアターを建てて興行している実業家グループとでもいえようか。

 私は,チケットを購入してから,ショーが始まるまでの時間,夕食をとることにした。
 この日こそ日本食にしようと,ブランソンに3件あった日本食レストランのうちの1件「和」という名前の店に思い切って入ることにした。
 中に入ると,まだ,時間が早いので,別に1組のカップルがいるだけであった。この店は,日本人が経営しているというわけではなかった。私は,メニューから,夕食セットなるものを注文した。出てきたのは,白米にお寿司に天ぷらに枝豆に餃子というわかったようなわからないような代物であったが,結構美味であった。値段は16ドルだった。とはいえ,アメリカではさらにチップが必要なのをお忘れなく。

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●非日常と日常は僅かな違いである●
 私は,こうしてのんびりとドライブを楽しんで,スプリングフィールドまでやってきた。ここからは一挙に南にブランソンに向かって国道65を南に下るだけだった。ブランソンまではわずか40マイル(64キロメートル),40分であったが,このことを私は3日前まで知らなかったのだ。

 スプリングフィールド(Springfield)は,ミズーリ州南西部に位置する中都市で,群馬県伊勢崎市の姉妹都市である。人口は約15万人。
 最初の住民が住みついたのは1830年で,1838年に市となったときの人口は300人であった。この地は南北戦争の激戦地のひとつである。
 1905年,3人のアフリカ系アメリカ人の男性が白人女性を強姦したとしてリンチにあったが,実際には強姦の事実はなかった。しかし,この事件によって,アフリカ系アメリカ人の市外流出が始まって。現在においても,スプリングフィールドのアフリカ系アメリカ人の人口比率は非常に低い。
 また,スプリングフィールドは「ルート66発祥の地」としても知られている。
 1926年にスプリングフィールドには2本の重要な国道が創設された。ひとつはスプリングフィールドと東海岸バージニア州のバージニアビーチを結ぶ国道60,もうひとつはシカゴとロサンゼルスを結ぶ国道66であった。この国道66のもととなった道がスプリングフィールドとセントルイスを結ぶ古い道であったことから,スプリングフィールドは「ルート66発祥の地」と呼ばれるようになった。
 1990年,スプリングフィールドに全米はじめての「Historic Route 66」の標識が立てられた。
 また,スプリングフィールドは俳優ブラッド・ピットが少年期を過ごした町としても知られている。

 国道65は,私が地図から想像していた道路とはまったく違っていて,ちゃんとしたインターステイツ状の道路であった。
 本当に3日前にこのことを知っていたら,延々と田園地帯を北海道のような狭いくねくね道を走らずとも,国道60をそのままスプリングフィールドまで行ってそこから国道65を南下すればよかったのだ。
 ブランソンは,思ったほど不便なところでななかったのだ。国道65を順調に走って行くと,次第に,慣れた景色が見えてきた。
 私は,こうして,再び,ブランソンに到着したのだった。
 初めて来たときにあれだけ戸惑っていたこの町も,わずか1日来ただけで,もう,長年住んでいるかのように勝手知ったところになってしまうのが,おかしかった。
 「非日常」と「日常」というのは,このようにかくも僅かな違いなのである。
 私はいろんなことを経験してみて,ともかく,やったことがないことは挑戦してみることや未知のところへは行ってみることが一番大切だと思うようになった。そして,そうした積み重ねが足し算でなく掛け算となって,いろんな思い出につながっていくのだ。

 再び,ホテル「ビクトリアン・パレス」(Victrian Palace)に到着した。ホテルのフロントでは私のことをよく覚えていてくれて,この前と同じ部屋でいいですね,といわれて,11日,つまり,3日前と同じ部屋に案内されたのだった。
 例えてみれば,次のようなものである。
 ある外国人が福岡市の民宿に1泊した。そして,翌日,東北を1周するドライブに出かけて,3日後に再び福岡市の民宿に舞い戻ってきた…。
 このわずか数日の間に,私が2,000キロも走ってきたことが,自分でもなにか不思議な気がしたのだった。

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●自然災害との戦いでもある。●
 バドワイザーの見学ツアーを終えて,私は,セントルイスを後にした。
 今日は6日目5月14日(木)。今回の旅行は,今日を含めて実質あと3日。翌日7日目である5月15日(金)のカンザスシティ・ロイヤルズのナイトゲームのチケットを持っていたから,私は,15日のお昼までにカンザスシティに行くつもりであった。
 5日前にカンザスシティを出発して,たいした予定も立てず,行けるところまで行こうというだけの旅であったが,毎日毎日めちゃめちゃたくさん走って,結局,カンザス州,オクラホマ州,アーカンソー州,ミシシッピ州,アラバマ州,テネシー州,ケンタッキー州,インディアナ州,イリノイ州,そして,ミズーリ州とわずか5日で10もの州を走り抜けた。長距離トラックでもないのに,こんな距離を稼ぐだけの旅など,今後は決してすることもないであろう。
 ともかくそうしたことで不可能と思えたマンモスケイブ国立公園まで到達することもできた。

 それでもまだ1日余裕ができたので,このあとをどうしようかと思った。
 当初は,セントルイスからそのままインターステイツ70を西にミズーリ州を横断してカンザスシティに戻って,カンザスシティを観光するつもりであった。しかし,どうしても,私にはブランソンが忘れられない。ブランソンではショージ・タブチ・ショーを見たが,ここには他にも見たかったショーがあった。しかも,ブランソンなんて,この先,またいつ行けるかわからないではないか。
 ということで,私は,再びブランソンへ迂回することにした。
 ミズーリ州の東の端がセントルイスで,西の端がカンザスシティ,そして,ブランソンは南の端にあるから,「–」をやめて「V」の字に走ればいい。しかも,ブランソンは数日前に行ったときに町の様子はすっかり把握したので,今回は迷うこともない。
 そこで,今晩はブランソンに1泊することにして,2日前に宿泊した同じホテルを予約した。
 こうして,私は,セントルイスを南西方向に,インターステイツ44をブランソンの玄関口であるスプリングフィールドに向かって,走って行ったのであった。
 スプリングフィールドまでは,わずか216マイル(345キロメートル),3時間程度であった。

 途中,マクドナルドで遅い朝食をとったり,ガソリンを入れるついでに,ホットドッグをほうばったりと,すっかり現地人になってしまった勝手知った私は,のんびりとアメリカのドライブを楽しんだ。
 距離はちょうど東京・名古屋間を東名高速道で走るようなものだが,写真のように,アメリカのインターステイツのほうがはるかに美しく,広く,車が少ないから,最高のドライブコースであった。若いころあれほどあこがれていた「アメリカを心おきなくドライブする」ということが日常になっている自分に驚く。
 今日の最後に,この旅の後に起きたこの地の災害について書いておかなければならない。
 昨年末,この地は異常な水害の襲われた。これまでにないほどの災害であった。アメリカの中南部で生きるのは,日本では絶対に手に入らない雄大な景色とともに,また,過酷な自然災害との戦いでもある。

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●私はどんどん追いやられる●
 アメリカでもっとも飲まれているビールがバドワイザー(Budweiser)。
 バドワイザーは,セントルイスに本社を持つアンハイザー・ブッシュ社が生産・販売するビールである。1876年に生産が始められ,今では世界一の販売量を誇っている。
 バドワイザーの名称は,チェコ・南ボヘミア州のベーミッシュ・ブトヴァイス(Böhmisch Budweis)にちなんだもので,ドイツ系アメリカ移民のアドルファス・ブッシュが,ビール名産地のブドヴァイスにあやかろうと,自らが発売したピルスナータイプのビールにバドワイザー・ラガー・ビール(Budweiser Lager Bier)と命名して誕生したのだという。
 私は,ミュンヘン・札幌・ミルウォーキーというように,確かにミルウォーキーに行ったときに大きなビール工場があったから,バドワイザーの工場はミルウォーキーにあるのだとばかり思っていた。しかし,ミルウォーキーにあるのはミラービール(Miller Beer)である。

 ミシシッピ川の川畔にあるこの会社は,遠くからでも茶色の建物群が目を引いていたが,駐車場の入口が分からず,私は,会社の周りを一周する羽目になってしまった。どうにか入口を見つけてやっと無料の広い駐車場に車を停めて,正面の立派な外観の建物に入った。
 この日の天気は雨。
 この工場の見学は外を歩くので傘が必要だったのだが,そんなことは知らず,私は傘を持たずに車を出て,あとで後悔することになった。
 このビール工場のエントランスの建物の中は非常に豪華であった。
 中央にクラシックカーが置いてあり,周りには,いろいろな種類のビールが展示してあったり,バドワイザーの歴史や製造方法の紹介,そして,土産コーナーなどがあった。
 無料の工場見学ツアーは,ビルの左奥に集合する場所があって,予約の必要もないが,入ったところの受付で参加するツアーの時間を登録する必要があった。私は,その日の開場直後の時間に行ったから,もちろん一番早い回のツアーであったが,ツアーの開始までは時間があったので,ぶらぶらと時間をつぶしていた。
 やがて,ここにも,中国人団体御一行様が騒々しく大挙してバスで現れ,いつものように場の雰囲気を台無しにし始めた。
 街灯や意味のない光がじゃまをして天体観測の場がどんどんと追いやられるのと同様,私の,のんびりとしたけだるいアメリカ旅行も,日本ののどかな観光地も,こうした御一行様のおかげで,どんどんと追いやられているようだ。

 やがて時間になって,いよいよ見学ツアーが開始された。
 集合場所に20人ほどが集まっているところにガイドさんが現れて,彼女について行くことになった。
 初めの説明場所は馬舎であった。
 ビール工場の見学なのに馬? と思っていると,バドワイザーは,アメリカで禁酒法が執行されたとき大ピンチになりながらもなんとかそれを凌ぎ,1933年,やっと禁酒法が解かれたとき,ルーズベルト大統領へ感謝のプレゼントと称してビールを載せた馬車を引いてセントルイスからワシントンまでビールと届けたのだという。それ以来,馬がバドワイザーのシンボルになったという話であった。
 次に行った場所でビール作りの工程の説明があって,その後,雨の中を歩いて行ってひんやりとした工場内に入って,タンクやら製造工程をまわった。
 工場の外壁はヨーロッパを感じさせる造りで,昔の外観のまま,内部だけが最新式に作り直されている,という感じであろうか。このあたりが,古いものは全部壊して,美的感覚も尊厳もない単に機能的なだけの現代的な工場を作ってしまう日本とは違うところだと思った。

 最後は試飲コーナーであった。
 ここにはバーテンダーがカウンターにいて,自分の飲みたいビールを頼めるのだが,私は車だったのでパスをした。ビール試飲はもちろん無料で,工場で生産しているビール10種類以上の中から好きなものを2杯飲めるということであった。
 私は,アルコールは底なしなのだが,別に好きではない。味の違いも分からないし,興味もない。
 しかし,ほとんど,というか,全ての人たちは車で来ているのに,どうやら,この国は,飲酒運転はもちろん厳禁のはずだが,そんなことはどおってことがないらしい。
 ツアー自体は1時間くらいで終了したが,正直いって,ここのツアーは,無料とはいえ,アメリカには珍しくあまりやる気も感じられず物足りないものであった。

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●「西良し東悪し・南良し北悪し」●
 1998年といえば,今からすでに20年近くも前になるということが信じられないが,セントルイス・カージナルスにマーク・マグワイア(Mark David McGwire)という強打者がいた。この年はシカゴ・カブスのサミー・ソーサ(Samuel Sosa Peralta)とシーズン最多本塁打記録争いを繰り広げていた。思えば,いい年だった。
 当時の私は,今以上にアメリカに憧れが強く,行きたいところ,知りたいことだらけだった。
 マグワイヤ選手が新記録となる1シーズン70ホームランを達成するかという日の朝,日本のテレビがセントルイスから中継をしていたのを見て,セントルイスに行きたいなあ,と思ったのを思い出した。当時の私には,セントルイスは地の果てほど遠いところであった。そして,未知のところであった。

 セントルイス(St. Louis)は,ミシシッピ川とミズーリ川の合流点に位置する商工業都市,カージナルスが強豪なので日本でも有名な都会であるが,人口はわずか35万人なのである。
 そして,実は,セントルイスもまた,先に書いた隣接するイーストセントルイスとともに,1,000人当たりの暴力犯罪発生率は18.6パーセント,殺人件数は113という,全米有数の犯罪都市なのである。東部のイーストセントルイスと同じように,北部にも荒廃したスラムが広がっている。
 しかし,セントルイスは「西良し東悪し・南良し北悪し」といわれるほど,治安の度合いに地域の明白な差があって,危険地域にさえ踏み入らなければ比較的安全という二面性を持っている。また,アメリカの大都市圏で最も物価が安く,交通機関も整備されていることから,生活しやすい都市のひとつにも挙げられている。
 日本人の居住者も多い。

 セントルイスでは,1904年に万国博覧会とオリンピックが開催された。1910年代には鉄道のハブとして鉄道関連の産業が発達し,1920年代以降は東西を結ぶルート66とルート40の通過地となり,さらに,クライスラーが主要工場を構えるなど,デトロイトに次ぐ自動車工業都市として繁栄,他にも「バドワイザー」のアンハイザー・ブッシュ,航空機マクドネル・ダグラス,化学薬品モンサントの本社があり,以前はトランス・ワールド航空のハブ空港もあった。また,ワシントン大学やセントルイス大学,連邦準備銀行が置かれるなど,1950年代以降は商業,経済中枢であった。
 しかし,1970年代以降,老朽化と産業不振により治安,環境が悪化し,急激な人口流出が始まったのだった。
 2001年にトランスワールド航空がアメリカン航空に吸収合併され,ハブ空港としての地位を喪失したほか,マクドネル・ダグラスがボーイングに吸収合併されて工場の規模が縮小,また,クライスラーの工場が閉鎖されるなど,人口と産業の郊外流出が目立ち,その後は衰退の一途を辿った。
 近年は再開発によって都市圏全体での人口は回復基調にあるものの,依然として市街地の空洞化が問題となっている。
 このように,セントルイスは,決して楽観して観光のできるところではない。

 私が2002年に来た日は,ちょうどアメリカの独立記念日で,この地で独立記念日を祝うパレードも見たし,ブッシュスタジアムでは,ゲームの開始前に戦闘機が祝賀で空を舞った姿も体験した。ゲートウェイアーチにも登ったし,西部開拓博物館にも行ったので,ここでの観光の見どころは全て見ていた。そこで,特に今回,この地を観光する予定はなかった。
 インターステイツ70でミシシッピ川を越えて,そのままインターステイツ44に乗りかえて南下してダウンタウンに来ればよかったものの,私はミシシッピ川を越えたところで一般道に降りてしまったものだから,早朝,まさに「西良し東悪し南良し北悪し」のごとく,セントルイスの治安の悪いといわれる北地区をさまよう羽目になってしまったのだった。そして,さらに,前回書いたように,イーストセントルイスまでわざわざ行って,まるで,セントルイスで肝試しをしているような感じになったのだった。
 さらに,ダウンタウンでも,2002年に来たときはゲートウェイアーチのあたりは美しい公園だったが,今回来たときは,再開発の途中で,どこもかしこも工事中であった。

 バドワイザーの工場見学ツアーの始まるのは10時であった。まだ30分くらい時間があったが,私は,一般道を南に走って行った。
 途中,飲み物を買おうとガソリンスタンド(アメリカでコンビニを探すにはガソリンスタンドを探せばいい)に寄ったが,その店舗も,なにか物騒な感じであった。その後,せっかくなので,工場へ行く途中で,私は,フォレストパーク(Forest Park)に寄ってみることにした。
 フォレストパークはダウンタウンの西7キロメートルのところにあって6平行キロメートルに渡って広がる公園で,万国博覧会の開場だったところである。現在は,美術館,博物館,動物園などがあって,市民の憩いの場となっている。
 実際,セントルイスの西と南は,北と東とは違う都会のように思えるほど,その雰囲気が異なっていた。

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●死ぬまでに一度は行ってみたい?場所●
 「死ぬまでに一度は行ってみたい場所。」というウェブページのなかに「 荒れ果てた都市・イーストセントルイス」というのがあった。
 読んでみると,どうやらこのウェブページを書いた人は,ネットから情報を集めているだけで,実際に行ってみたわけではないようだ。いわば日本人の好きな「ドリラー」である。学校教育の「調べ学習」の功績なのかもしれない。
 旅は行ってみての旅である。でなければ,テレビで旅番組をみたりガイドブックを見ているだけと同じである。本で得た知識だけで生徒に実社会を語るかつて私の出会った無能な教育者と変わらない。
 しかし,今から30年以上前の退廃したニューヨークの地下鉄に乗った,というのが私のちょっとした自慢だったりするのは,旅というよりも,肝試しとさしてかわらないかもしれない。だが,旅は,決して肝試しではないはずだ。けれど…。

 イリノイ州イーストセントルイス(East St. Louis)は,ミズーリ州セントルイスとはミシシッピ川をはさんで対岸に位置する。インターステイツ55,私の走ってきたインターステイツ64,そしてインターステイツ70が交わって,イーストセントルイスで1本の道となり,ミシシッピ川を渡ってセントルイスへと通じている。いわば,現在でも,交通の要所である。
 また,イーストセントルイスへは,セントルイスからは近郊電車であるメトロリンク(Metrolink)でアクセスすることができる。メトロリンクは,イーストセントルイスに,イースト・リバーフロント(East Riverfront),フィフス・アンド・ミズーリ(5th and Missouri),エマーソン・パーク(Emerson Park),JJKセンター(JJK Center)の4つの駅がある。このメトロリンクは,セントルイスのダウンタウンやワシントン大学を通り,ランバート・セントルイス国際空港へと通じている電車である。

 かつて,イーストセントルイスはミシシッピ文化の中心地で,蒸気船による水上交通の要衝であり,鉄道が敷かれると鉄道関連の産業や製鉄業で栄えた。さらに,国道66が開通すると黄金時代を迎え,ダウンタウンにはレストランや劇場,ナイトクラブなどが建ち並んだ。
 しかし,1950年を境に,イーストセントルイスは凋落への道をたどった。
 市の負債が増加し,それに伴って資産税率も上がったことで工場は次々と閉鎖して犯罪が増加し,街にはギャングがあふれた。そこに公民権運動による暴動が追い討ちをかけた。
 下水道の敷設は失敗に終わり,ゴミの収集は給与不払いにより行われなくなった。警察のパトロールも滞った。企業のオフィスや大規模商業施設の誘致はその後も成功せず,人口は全盛期に比較して半分以下にまで減少し,今もなお減り続けている。
 現在の人口は約27,000人で,1950年のピーク時の3分の1である。その多くは貧困層で,市の全域にわたってスラム化が進行し,廃墟や空き地も目立っている。最盛期に建設されたダウンタウンの美しかった歴史的建造物も朽ち,廃墟と化し,やがては無くなろうとしている。
 イーストセントルイスの犯罪発生率は全米最悪の水準である。殺人発生率は人口10万人あたり102件を記録し,全米平均の約18倍。殺人で悪名の高いデトロイトやボルチモアの2倍,ワシントンDCの3倍,強姦発生率は人口10万人あたり260件を超え,全米平均の約9倍に達するのだ。

 私は,セントルイスから一般道でミシシッピ川を渡り,メトロリンクの踏み切りを越え,イーストセントルイスに入った。
 実際,そこは想像を絶するところであった。
 ここに比べたら,デトロイトはまだマシだった。
 車に乗っていても,アクセルを踏む足が震えてきた。もし,車が故障でも起こしたらどうしようかと思った。車から降りて,付近を散策する気も失せた。
 行ってみなくてはわからない,とはこのことだが,私には,メトロリンクに乗ってもここに来る勇気はない。2ブロックほど車を走らせて,すぐに,来た道を戻ることにした。ほとんど人影のない町にも,目をぎらぎらさせた所在無げな若者が早朝だというのにふらついていて,どこかで人と接触したら,それこそ一大事だと思った。
 現在のアメリカは,都市の再開発が進み,昔のような不気味なところはほとんどなくなったが,ところによって,今だにこうした吹き溜まりが残っている。
 私は,このようにして「死ぬまでに一度は行ってみたい? 場所。」に行き,無事帰還することができたのだった。

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