しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

カテゴリ:アメリカ合衆国旅行記 > 旅行記・2016春

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●来春もハワイに行くのである。●
☆8日目 4月5日(火)
 このホテルはホノルル国際空港の滑走路に面してはいるが,空港から歩くには遠すぎる。ホテルにはプールやレストランやカラオケバーもあって,一見豪華そうに見えるが実は古臭いところであった。そしてまた寝るだけの私には,それらはまったく関係のない設備であった。
 それにしては値段の高いホテルだったから,実につまらないお金を使ったものである。

 朝の7時にチェックアウトをして,ちょうど空港に出発するところだったホテルのシャトルバンに乗って,午前7時10分過ぎには空港に到着した。
 空港に着いてしまえばこちらのもの,これまではハワイアン航空だったが,ここからは勝手知ったデルタ航空の領域である。急にお金持ち気分になってすべてがプライオリティ扱いである。
 まず,チェクインをして荷物を預けて,プライオリティセキュリティで通り抜けて,デルタワンラウンジへ行った。
 ホテルには朝食がついていなかったが,このラウンジで朝食をとることもできればWifiも使えるので,搭乗手続きの時間までを快適に過ごすことができるのだ。

 私が飛行機を利用するときはこれまで毎回なんらかの遅れやらトラブル続きであったが,今回は予定通りに出発して,8時間ほどで日本に帰国できた。帰りの機内はずっと起きていて映画を見て過ごした。
 乗客のほとんどは日本人であった。私がこの時期にハワイに行ったのは,このこともすでに書いたが,星を見るために月明かりの時期を避けたからである。もし月明かりがなければ,3月の学校が休みになる以前に出かけていたであろう。しかし,3月の下旬に出発して月を「マタギ」4月に帰国すれば少しは空いているであろうという私の期待はまったくの幻想であった。
 考えてみれば,ハワイなどという四国よりも狭い島にこれだけの観光客が世界中から押し寄せて,しかもその多くはリピーターなのだから,いつだって混雑するはずである。

 日本では新しい新幹線ができて北海道も北陸も観光客が増えたといっているが,所詮数年だけのことであろう。そして,そのあとに控えるのは,新幹線の開業でむしろ在来線がなくなって不便になった地元民の苦境と観光客目当てに投資をした観光業界の不況であろう。
 まったくもって懲りない国民だ。同じことがこれまで何度繰り返されたことであろう。そんなことははじめっからわかっているはずなのに,目先のことしか見えない。観光地はリピーターなくして成り立たないのだが,この国でリピーターが期待できるのはディズニーランドと京都くらいのものであろう。
 なにせ数日滞在すればそのほとんどがわかってしまうくらい,どこもかも狭いだけだからである。
 日本に外国人観光客が増えたのは日本が素晴らしいというのではなく,円が異常に安いというのが本当の理由だということを忘れてはいけない。

  成田に着いた私は東京までバスで戻ろうと思ったが乗り場がわからず,一刻も早く帰宅したくなったので,成田エクスプレスで品川へ行ってそのまま新幹線に乗って帰宅した。
 この時期は桜が満開であった。
 後で考えると,せっかく桜が満開だったから,千鳥ヶ淵あたりで夜桜見物でもすればよかったと後悔したが,このときの私にはそんな余裕はなかった。
 ハワイはとても楽しいところであった。ここに住みたいと思う人も多いだろうし,本当に別荘を建てた日本人もいるらしいが,その気持ちがわからないこともなかった。ただし,私は,ショッピングにも食べ物にも興味がなく,泳ぐわけでもなく,単に満天の星空が見たいだけなのだけれど。
  ・・
 今回の旅行で私はすっかりハワイの虜になってしまった。
 そこで,すでに,来春3月,今度はマウイ島にホテルを予約し,航空券も手配を済ませてしまったのである。

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●ボーイング717●
 やっと出発の時間になって,私は飛行機に乗り込んだ。
 飛行機好きの人には有名な話かも知れないが,ハワイアン航空の主要機種はなんとボーイング717 (Boeing 717)であった。 私はずいぶんとたくさんの飛行機に乗ったが,ボーイング717ははじめてであった。というよりも,ボーイング717などという機種があることすら知らなかった。
  ・・・・・・
 ボーイング717は,ボーイング社が製造した100席級のナローボディの双発ジェット旅客機である。
 当初はマクドネル・ダグラスによりMD-95として開発が進められていたが,マクドネル・ダグラスがボーイングに吸収合併されたことでボーイング717の名前が付けられた。つまり,ボーイング717はもともとはダグラスが開発したDC-9の発展型で,DC-9由来の胴体断面,低翼配置の主翼,T字型の尾翼を備え,胴体尾部の左右に1発ずつターボファンエンジンを備えている。1995年にMD-95の正式開発が決定されたが,途中でマクドネル・ダグラスがボーイングに吸収合併され,合併後も唯一開発・生産が継続されたのである。
 ボーイング717は1999年にエアトラン航空によって初就航した。ボーイングはボーイング737との売り分けを考えていたが受注は伸び悩み,2006年に最終機の引き渡しが行われて生産が終了した。717の総生産数は156機であった。
  ・・・・・・
 
 もう外は暗く,行きと違ってほとんど地上の景色を見ることはできなかったが,やがてオアフ島が近づくにつれて,ホノルルの明るい夜景が見えてきた。
 アメリカの夜景は日本と違ってそのほとんどが黄色い光である。それに比べて日本は宝石をちりばめたような色彩に満ち満ちているが,私にはそんな光よりも星空のほうがずっと美しいと感じられる。
 ホノルルに到着したのはすでに夜の9時であった。明日の朝10時10分発の便で私は成田に帰る。そこで,寝るだけのために決して安くもないホノルルのホテルに1泊する必要があった。しかもこの帰りの日程については,再三再四変更があった。
 私はずいぶんと早く予約を入れたのだが,どうも団体客か何かの都合で,私の予約が適当に変えられているかのようであった。あるときは最終日の成田便の出発が夕刻になったり,また,朝に戻ったりしたが,結局最後に決定したのは,はじめに予約した時間とほとんど同じであった。

 この晩予約を入れたのはホノルルの空港に接した格安のホテルだったのだが,空港から近いといっても歩いていける距離でもなく,ホテルのシャトルバンによる送迎があるということだったが,それに乗るのにどうすればいいかわからなかった。これはかなり迂闊であった。
 空港はものすごく混雑していてシャトルバスの受付コーナーには大勢の人が並んでいた。私の目当てはこうした一般のシャトルバスでなくホテルの送迎用のものだったのだが,その予約の手立てがわからないのであった。
 一般のシャトルバス乗り場の列を整理していた係員がいたのでともかく聞いてみると,なんと親切にホテルのシャトルバスを電話で呼んでくれるではないか。こんな親切はアメリカ本土では考えられないことであった。
 係員が言うには,空港から外に出たところにある喫煙コーナーの横の空地に星条旗をつけた赤いバンが20分後に来るということだった。本当に来るのかなあと不安に思いながら待っていると,ひとりの女性が空港ビルから歩いてきて,声をかけてみると,どうやら私の待っているのと同じ赤いバンを待つように指示されたということだったので気を強くした。
 20分も経たずバンが来た。運転手の話す英語はかなり訛りが強くてさっぱり要領をえなかったのだが,なんでもオーストラリア生まれで大学で数学を専攻したということだった。
 こうしてなんとか無事にホテルにチェクインすることができたのだった。

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●レイと激辛カップ麺と●
 ハワイといえばレイである。
 いや,これは,私が子供のころに放送されていた「アップダウンクイズ」の影響であろう。
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 「アップダウンクイズ」は,1963年10月から1985年10月まで毎週日曜日に放送されていた視聴者参加型クイズ番組で,ロート製薬の提供,日本航空の協賛で放送されていた。
 6人の参加者がクイズに参加し,早押しで正解すると乗っていたゴンドラが1段ずつ上がっていって,10問正解して頂点に上がるとファンファーレが鳴り,天井に吊るされていたくす玉が割られて,「日航で行く夢のハワイ旅行」と賞金10万円獲得となった。
 最上段から降りてくるのは飛行機のタラップを模した階段であった。そして,解答者がタラップを降りてくると客室乗務員に扮した女性からレイをかけられて航空会社のショルダーバッグが贈られるのである。
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 多くの日本人にとってハワイ旅行なんて夢のような時代に,この番組によってハワイも日航=日本航空も航空機のタラップもレイも知ったのである。そして,ハワイは日本人の憧れとなった。
 私は飛行機に乗れば航空会社のショルダーバッグがもらえてハワイに到着してタラップを降りるとレイがかけられるものだと思っていた。

 レイ(lei)は,頭・首・肩などにかける装飾品で,主にハワイにおいて用いられる。観光用に用いられる花のレイが一般的に知られているが,その種類はシダ,海草,貝殻,羽毛,果実,鮫の歯など多岐にわたる。
 観光用としてだけでなく,誕生日,結婚式,卒業式,葬式など日常の様々なシーンでも用いられるという。
 5月1日はレイ・デイとしてレイ作りコンテストなどが開催され,古き文化の継承に努めてあいるのだそうだ。また,6月11日のカメハメハ大王の日には,カメハメハ大王の像に多数のレイが掲げられる。
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 ハワイにおけるレイの文化は,12世紀頃にやってきたポリネシア人たちによってもたらされたと考えられており,古来より魔除や供物,社会的地位の象徴として用いられた。その後,19世紀頃に旅行者や移住者によって持ち込まれた植物(カーネーション,クチナシ,ジャスミン,マリーゴールド,パンジー,プルメリア,バラ,スミレなど)を利用することで大きな進化を遂げた。
  ・・・・・・
 空港のレイ売り場で,私は,そういえばレイというのがわれわれの子供のころのハワイのイメージだったのだということを思い出したのだった。

 まだ出発にはずいぶんと時間があったが,空港内でコーヒーでも飲むことにしてセキュリティを通った。
 ハワイの空港で私が最も不自由したのがフリーWifiがないということであった。ずいぶん昔からWifiに不自由しなかったアメリカ本土に比べて,ここは一昔前の日本と同じであった。アメリカ本土に行くときは不要だがハワイにいくときは「いもとのWifi」の契約が必要であろう。
 空港内のレストランはお客さんがひとりもいなかったが営業はしていて,私はそこでハンバーカーとジュースを所望した。
 食べ終わってもまだずいぶんと時間があって,空港のロビーに行ったが特にすることもなかった。
 なにせ,私の乗る便の出発がかなり遅くて,それよりも前に頻繁にホノルル便が出発していくのである。ぜったいに何かがおかしいと思った。実は,ハワイアン航空の便のうちのいくつかの不便な時間のものだけがデルタ航空のコードシェアになっているようで,デルタのマイレッジに加算されるそうした便が限られているというのがどうやら真相らしい。しかし,ホノルルからヒロまでのマイルなんてたかが知れているから,そんなものにこだわらず,ハワイアン航空のチケットは別に買うほうがよかったのであった。

 というわけで,ずいぶんと待ち時間があったので再びお腹がへってきて,空港のロビーの端にあった売店でカップヌードル(らしきもの)を買って,お湯を入れてもらった。カップヌードルというのは「農心」という会社の辛(シン)ラーメンであった。これしか選択肢がなかった。
 「農心」(ノンシム)は大韓民国の製麺,インスタント食品,スナック菓子会社である。1965年に設立され当時の社名はロッテ工業株式会社といった。設立当初製造していたラーメンのブランド名はロッテラーメンだった。 同社の商品のひとつである「辛(シン)ラーメン」は高いシェアを持っている。日本にも農心ジャパンという会社があったが,2010年に業務提携は終了したという。
 私は残念ながら辛いものがからっきしだめで,せっかく買ったのに,このカップ麺を食べることはほぼ不可能であった。

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●「missing children」●
 ハワイ島のすべての観光を終えて,私はヒロ国際空港にむかった。
 空港のとなりにあるのがエディスカナカオレスタジアム(Edith Kanakaole Stadium)であった。ここはメリーモナークフェスティバル(Merrie Monarch Festival)の行われる会場としても有名である。
 メリーモナークフェスティバルとはフラダンスの競技会として最も権威のあるもので,毎年イースターの翌週に行われるが,私はそんな競技会自体あることも知らなかったが,ちょうど私がハワイ島に行った時期に行われていて,そのライブ中継を現地のテレビで見てすっかりはまってしまった。そして,私はそれ以来,フラダンスの虜になってしまったのだった。

 ハワイ島には空港がふたつある。そのひとつはコナ国際空港(Kona International Airport)である。以前はその地名に由来し,ケアホレ空港と呼ばれていたが,1996年日本航空が成田空港からの直行便を就航させたのを機に,現在の名称になったという。
 国際線は日本航空の他にエアカナダがバンクーバーから乗り入れている。国際空港という名がついているが,ポリネシア風の平屋の建物でハワイらしい素朴な感じをいまだ色濃く残しており,リゾート感いっぱいである。ホノルル空港からはハワイアン航空,GO!航空,アイランドエアーの3社が乗り入れている。
  コナ空港からコナ市内へは,レンタカー,タクシー,シャトルバスサービスといった移動手段がある。
 もうひとつがヒロ国際空港(Hilo International Airport)である。
 ホノルル空港からはハワイアン航空,GO!航空が乗り入れ,アメリカ本土からの直行便も乗り入れている。  
 コナ空港がリゾート客で賑わっているのと比べると,こちらはひっそりとした生活者向け路線といった趣きで空港内に日本庭園を模したスペースなどもあり,日本の田舎に来たような,そんなほっとした雰囲気を醸し出している。
 ヒロ空港から市内へはここもまたレンタカー,タクシー,シャトルバスサービスの3つの移動手段がある。 

 私は今回,ホノルルとの行きも帰りもヒロ国際空港を利用することになった。
 このこともすでに書いたが,ホノルルの国際空港が中途半端に広くもなく狭くもなく,新しくもなく古くもなく,つまりそれは,ホノルルが昔からの観光地であるから今さら新たに空港を建設するにも場所がなく,そのまま年月が経ってしまったという感じであった。私ははじめてハワイに来た! というときめきよりも,少し落胆した,という気持ちのほうが強かったのだが,それは,これまでアメリカ本土のとてつもなく広く大きく新しい空港をたくさん見過ぎたせいであろう。
 それにくらべて,ここヒロ国際空港の素朴さは素晴らしかった。

 空港を出たところに広い駐車場があって,その端に平屋建てのレンタカー会社のオフィスが並んでいる。今回の旅もまたいろんなことがあったが,ともかく無事にレンタカーを返却することができた。
 私の乗る便まではまだずいぶんと時間があったので,空港に入るには早かったから,空港の周りをぐるりと1周してみた。そこにはレイを売る店や観光案内所があったが,人っこひとりいなかった。
 掲示板があったので凝視してみると,あいにく写真をとるのを忘れてしまったが,その掲示板に貼ってあったのが「missing children」のポスター,つまり,ここ数年の間にハワイで行方不明になった子供たちのリストであった。
 私はその数の多さにびっくりしたのだった。

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●天文台の基地とウミガメの繁殖地と●
 ヒロのダウンタウンで昼食をとり,ヒロがどういうところなのかを納得した私は,国際空港にむかうことにした。いよいよこの旅も終わりである。
 空港まではわずかな距離なので,まず,ハワイ大学へ寄り道して,その次に,ヒロに来た日に泊まったコテッジのあたりまでドライブすることにした。
 ハワイ大学に行ってみたかったのは,残念ながらこの日は休館日だったので行くことのできなかったイミロアアストロノミーセンターがどういうところかを見ておきたかったからだし,コテッジに行ってみたかったのは,そこがどういう場所にあったのかを納得したかったからである。
 どうやら,私にとっての旅というのは,名所旧跡を見たりおいしいものを食べたりショッピングをするためではなく,自分に沸き起こる疑問を解決するためのもので,それがわかれば満足する,というものであるらしい。

 ハワイ大学ヒロ校(University of Hawaiʻi at Hilo)は,ヒロに本部を置く州立大学で,1941年に「Hawaii College」として設立され,1970年に「University of Hawaiʻi at Hilo」に改名された。ここはハワイ大学システム(University of Hawaiʻi System)に所属する大学のひとつで,約3,500人の学部生と約600人の院生が在籍している。
 多様性と国際性に富み,近年では全米で6番目の「最も多様な民族が集まる大学」としてランクづけされている。また,海洋学,生物学,運動学,政治学,社会学,心理学,コミュニケーション学が学生の人気が高い専攻となっている。

 この大学の構内にあるのが「イミロアアストロノミーセンター」(Imiloa Astronomy Center of Hawaii)で,マウナケア山頂にある天文台の基地となる研究所のある場所に併設された一般向けの博物館である。
 円錐形の形をした建物で,つくづくここに来ることができなかったのを残念に思った。きっと,私は数年のうちにはここに来ることになるであろう。私の人生いつもそんなものだ。

 ハワイ大学の構内をドライブしてすっかり学生気分に浸った私は,次にヒロの町を東に越えて,海岸沿いを進んでいった。
 私が泊まったコテッジは,もっと辺境にあったような気がしていたのだが,改めて訪れてみると海岸沿いの素晴らしいリゾートだった。そして,そこからさらに先に進んでいくとそこにあったのは,リチャードソンオーシャンパーク(Richardson Ocean Park)であった。
 この公園はハワイ島が溶岩の島であることを実感させるところのひとつで,別名を「黒砂海岸」という通り,黒い溶岩と砂のビーチであった。
 ここがウミガメが来ることで有名だということを知ったのは帰ってからのことであった。
 ウミガメが来る場所といえば,つい先日行ってきた四国の日和佐だって同じではないか。地球は狭いものである。いかん。こんなことを書いていたら,今度はウミガメが見たくなってきた!?
  ・・
 ウミガメは15フィート以内に近づいてはいけないということだが,実際には真横で子供が遊んでいたりしているのだという。また,天気がよければ甲羅干しいている亀がゴロゴロいるのだともいう。
 また,ここは地元では人気のシュノーケリングスポットで,岩場で水の透明度が高く,沖合ではパドルサーフィンも盛んに行わている場所であった。

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●「逃れの地」●
 ヒロはゆっくりと散歩をするととても快適なところのようだった。それは私が子供のころの日本の町を思い出すような場所であった。
 しかし,私の訪れた季節でさえこの暑さだったし,1年中気温はそれほど違わないそうだから,もう少し涼しければいいのに… と思う。
 ヒロのダウンタウンから北に美しい海が眺めれる。そして,その手前には広い公園が続いているが,暑くてそこまで歩いていく気力がなくなったので,私はダウンタウンに停めた車まで一旦戻って,車で公園まで行ってみることにした。

 どの駐車場に車を停めたらいいのかよくわからなかったが,とりあえず適当な広い駐車場に車を停めて外に出た。やはり,ネットにも同じようなことが書かれてあった。曰く「最初,地図を見た時にはここの駐車場がどこにあるかわかりませんでした。公園の中とはわかるのですが,公園がとても広く駐車場の位置が書いてなかったからです。でも,現地に行ってみたらちゃんと案内版が出ており無事に到着する事が出来ました」。
 その公園というのは,モオヘアウ郡立公園(Mo'oheau County Park)であったが,そこは,単に広い芝生広場があるだけのところだった。
 その東隣がワイロアリバー州立公園(Wailoa River State Park)であった。ここはハワイに三体あるカメハメハ大王の銅像のひとつがある公園である。また,緑がとてもきれいで大きな木もありここに住む人たちの朝の散歩コースとなっているようだった。
 さらにその東がリリウオカラニガーデン(Liliuokalani Park and Gardens)で,ハワイ王朝の女王様の名前がついた海沿いの公園である。ここには,日本庭園があって,確かに 石灯籠や鳥居がそれを象徴していた。この石灯籠は約100年前にヒロ在住の日本人が建てたということだ。
 そのさらに東にワイホヌ池(Waihonu Pond),その北にはココナッツアイランド(Coconut Island Park)があった。
 ハワイには「プウホヌア=逃れの地」(pu'uhonua)とよばれるばれる聖域がいくつかあるが,そのなかで最も知られているのはカイルアコナにあったプウホヌア・オ・ホナウナウである。
 かつてハワイの人々はカプとよばれるタブーを守り生活していた。カプを破った者は必ず死をもって償わなくてはならなかった。ただし,カプを破っても生き伸びる方法がひとつだけあった。それはだれにも捕まらずにプウホヌアへ逃げ込むことであった。命がけでたどり着くことができれば,カフナ(司祭)から禊の儀式を受け家に戻りやり直すことが出来たのだ。
 そんなプウホヌアと呼ばれた場所がヒロにもあって,それこそがこの小さな島ココナッツアイランドだったのである。
  ・・
 そこからまたさらに東に行ったところがリーズベイビーチパーク(Reeds Bay Beach Co Park)で,そこはちょっと奥にあるため人が少ない公園であった。面した海は波がほとんどないから公園は静かで,のんびりと読書をしている人たちがいた。

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●ファーマーズマーケット●
 私はハワイ島に来る前「ヒロは雨が多くコナは雨が少ない」と聞いていたが,実際に来てみるとそういう印象は全くなかった。それよりも,ハワイ島は四国よりも狭い島なのに,あまりに場所や標高によって天気がコロコロと変わることに驚いた。

 しかし,実際ヒロは降水量が多いということである。ただし,午前中は雲が切れて晴れることがよくあるという。
 人口4万人余りのヒロの町は北側がヒロ湾に面していて,そこには広いワイロア州立公園がある。その西側に1キロメートル四方ほどのダウンタウン,東にはヒロ国際空港がある。
 私がハワイ島に到着したのはヒロ国際空港であったが,到着した日に泊ったのは空港からさらに海岸線を東に行ったところであり,次の日にはダウンタウン手前の州道11を南に走ってヒロのせまいダウンタウンを迂回する形で西に方向を変えて島の西側に走っていったので,これまでダウンタウンを通る機会がなかったのだった。

 ヒロのダウンタウンのメインストリートはケアヴァ通り(Keawe Street)である。
 そこは高いビルがなく,古い映画館,カフェ,昭和初期の映画にでてくるような小さな店が立て込んでいた。
 私はこうした町の雰囲気は大好きなのだが,そうした町を楽しむための歩き方を知らない。それはヒロに限らず,日本でもそうである。だから,たとえば渋谷の道玄坂を歩いてもすることがない。
 アクセサリーショップなど入ったこともないし,どこかのコーヒーショップに入って休憩をするということもしないから,私にはどうしてこういった店がたくさんあって,どこも商売繁盛しているのかさえ理解できない。
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 旅に出ても,町では何を楽しめばいいのか? 私にはそれがわからないのである。それはここヒロでも同様であった。だから,私は寿司を食べてからはこのダウンタウンをなんとなく歩いただけであった。
 ヒロのメインストリートに並行して海岸に沿ってカメハメハアベニューという広い道路があった。
 ダウンタウンとは好対照にこのカメハメハアベニューに面したところにはしゃれた店が並んでいるのだが,私はそこにも何の用事もないのだった。

 この島に来た日に参加したマウナケア星空観察ツアーで一緒になった人が「ヒロに比べてカイルアコナには何もない」と言ったのが私はずっと私は気になっていたのだが,私にはその逆で,カイルアコナならどれだけ滞在してもいいけれど,ヒロにいてもすることがない。
 ただし,「コナには何もない」と言った人の意味するコナは私の宿泊したカイルアコナのことではなく,彼が宿泊したサウスコハラコーストのリゾートタウンの中だけのことなのである。
  ・・
 それよりも私にとっておもしろかったのはファーマーズマーケットであった。
 ヒロではファーマーズマーケットはダウンタウンの一角の広場で開かれていて,それは観光客のためのものではなく,住んでいる人向けのものである。私は,どこでも,ファーマーズマーケットが開かれているとそこに行くのを楽しみにしているのだが,それは売っているものや集まっている人を見るためであって,決してそれを買うことはない。マーケットで売られているものを見ると,そこに住んでいる人たちの生活が垣間見られるのがおもしろいのである。

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●おいしいお寿司を食べた。●
 ヒロはさほど広い町でないから,徒歩で観光することができる。
 アメリカ本土にも,昨年の夏に行ったワシントン州のセクイム(Sequim)や今年の春に行ったアイダホ州のカーダレーン(Coeur d'Alene)のように,ちょうどこんな感じの小さな町がたくさんあるが,私は,この程度の町が大好きである。
 ハワイ島にあるヒロがアメリカ本土の同じような規模の町と様子が違うのは町全体が古臭くて日本語が見られて観光客が多いということだ。
 また,ハワイ島では東にヒロ,西にカイルアコナというふたつの町があるとガイドブックには書かれてあるが,ヒロは確かにこじんまりとした町であるが,カイルアコナというこじんまりとした町はない。
 私がずっと宿泊していたのはカイルアコナであったが,その場所がいわゆる「コナ」のことを意味しているのかどうかも,私には今もってよくわからない。いわゆる現地の人が住む住宅街を「コナ」というのなら,それはカイルアコナからすこし高台に行った場所のことになるであろう。

 ヒロのダウンタウンの道路は駐車禁止ではなくどこでも車を停めることができたので,私は空いていた場所を探して車を停めてヒロの町を散策することにした。
 とりあえずは昼食である。
 ハワイはとても日本的なところだが,日本と違うのは,お休みをしっかりととるということで,この日は月曜日だったからほとんどのレストランは終日休みであった。また,休みでなくとも,午後1時を過ぎると閉店してしまう。
 日本だって,数十年前までは今のように休日返上でさらに終夜営業なんていう店はほとんどなかったし,店員は意味もなく頭ばかり下げていなかったし,学生のリクルートスーツだって葬式のように黒づくめでもなかったのだが,思えばバブルの崩壊がこの国の労働条件を崩壊させ,激悪にした。
 そういう意味でも,ここはバブル崩壊以前の数十年前の日本が残っているようなところで,今の日本よりもずっと居心地のよい町であった。

 私は昼食にお寿司が食べたくなった。
 ヒロの町を歩いていると「BENTO」と書かれた店もあったし,日本食が食べられるところはいくらでもありそうだったが,私が目をつけたのは「Ebisuya(戎屋)」という一軒の小さなお寿司やさんであった。中に入ると,カウンタで寿司を握っている日本人が笑顔で迎えてくれた。そして日本人の女性が注文を取りに来たので,私はカリフォルニアロールを注文した。
 アメリカ本土の日本食のレストランは,およそ日本食とは程遠いものがあったりするが,さすがにここはハワイであった。

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●ハワイ島における津波の被害●
 今日の1番目の写真は私がヒロのダウンタウンに行くときに通った道路に面したところにあった「ヒロユニオンエレメンタリースクール」つまり小学校である。
 さほど広くないヒロの町なのだが,走っているとそこらじゅうに学校が目につく。それは住宅に比べて学校の敷地がえらく広いことによるのだろう。

 ヒロにはふたつの高等学校とハワイ大学ヒロ校,そして,ハワイ・コミュニティーカレッジを含む,多数の教育施設がある。このふたつの高等学校とはヒロ高等学校とワイアケア(Waiakea)高等学校である。
 ヒロ高等学校は1909年に最初の卒業生を出している。ヒロ高等学校ができるまでのヒロは,30マイルも南に行ったところにカウ(Kau)高等学校とパハラ(Pahala)小学校,同じくらい北に行ったところにホノカア(Honokaa)高等学校と中学校しかなかった。
 1906年に設立されたヒロ高等学校はその後2回目の移転ののち現在の場所に移った。通りの向かいにはヒロ中学校もある。
 そして,ヒロにできた2番目の公立高校であるワイアケア高等学校は1980年にはじめての卒業生を出した。
 ハワイ大学ヒロ校のことについてはまた後日書くことにしよう。

 また,ヒロは湾の構造と南米沖からの地理的関係のために,たびたび津波の被害に遭っている。民間伝承としてだが,過去には津波が山の上を越したというものも残っている。
 1960年に起きたチリ地震では,本震の15時間後に10.5メートルの津波を観測し61人が死亡した。そのときは,到達予定時刻の5時間前に警報が出されていたが,津波は震源地のチリがある南東方向からやって来るから自らの場所は安全だと思い込んだ見物人に多くの犠牲者が出た。それはチリ地震の津波の波長が極めて長かったために,津波がうしろからも回り込んだためだった。
 また,東日本大震災による津波は太平洋の反対側まで広がったが,その途中にあるハワイの被害は3,000万ドル相当にも達し,州政府が連邦政府に支援を求めるまでになった。なかでも一番被害がひどかったのはヒロではなくコナコーストで,コナビレッジとリゾートは閉鎖となり,200人の従業員は職を失い,多くのバンガローやレストランが破壊されてしまった。
 ヒロの町を歩いていると,写真のような津波博物館や津波が起きたときの避難経路をしめす看板があってハワイでも津波による被害が身近な脅威として存在することを実感させられた。

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●ついにヒロのダウンタウンを見た●
 この日私が乗っていたのは車高の高いジープであったが,日頃乗りなれていない車高の高い車で急な坂を走るのは大変であった。降りていくときも同じであったが,登るときは,特に,ものすごい急坂だから前に見えるのは空だけで,道路が見えないのである。
 しかし,こんな急坂にも人が住んでいるのだから,ハワイ島で生きるのも過酷で険しい。
 先人たちはこうした海岸からハワイ島に上陸して,苦労してコーヒー農園を開拓し栽培して生きてきたのだ。
 そんなことも知らずして現在の整備されたコーヒー農園だけを見学して,そこでコーヒーを試飲してコナコーヒーをお土産に買って家に帰り,コーヒーを飲みながらハワイ島のウンチクをブログに書いていてはいけないのだろう。
 そんなことをするのは,行ったことも見たこともないのにその土地の地理を知ったかぶりで語る学校の教師と同じになってしまうではないか。

 こうして海岸沿いの謎が解けた私は,ヒロに行くのに州道11を北上して,途中にあるY字路を,カイルアコナにむかう左側の道路は通らずに,右側の州道180をはじめて通ることになった。
 州道180は両側にコーヒー農園が広がる「コーヒーロード」で,ここには日本のUCCの農園や土産物屋などが並んでいた。私は農園や土産物屋は特に見学をせずに単に見るだけで走りすぎていった。
 やがて州道180はいつも走っていたカイルアコナから来る州道190と合流した。そして,いつものように州道190をT字路まで北上していって,これもまたいつものようにT字路で右折して,州道200をマウナケア山を左手に見ながらヒロをめざして走っていった。

 思えば,ハワイ島に来てこの島のことなどなにも知らずはじめてこの道を西に向かって走ったとき,右手に見えたマウナケア山の山頂に光るドームを見つけて感激したのはまだ数日前のことだ。
 こうしたほんの些細な感動を味わうことすら,実際は「いつかは…」とずっと思い続けていながらもなかなか実現せずに終わってしまう人がなんと多いことか!
 私はこの旅でそれを実現させたのだ。
 それ以来,この旅では何度かこの道を通ったのだが,いつも天気が悪く,山頂に光るドームを再び見ることはできなかった。ところがどうであろう。私が帰るこの日は再び快晴であった。初日にこの山の山頂にあるドームが見られたのはかなり幸運なことだったのだ。そしてまた,最終日にそれと同じ幸運を味わうことができたのだった。
 私は,左手の山頂に輝くドームを見ながら感慨にふけっていた。この旅では,長年の憧れだったマウナケア山の山頂まで行き,ケック望遠鏡を見ることもできた。帰国した今,マウナケア山のことがニュースなどで出てくるたびに,私はこのときのことを思い出しては幸せな気持ちになるのである。

 さて,これからめざすのは,ヒロのダウンタウンである。
 ヒロ(Hilo) はハワイ島で最大の地方自治体地域である。人口は約4万人。ホノルルに次ぐハワイ諸島第二の港湾都市であり,ハワイ島では西海岸のコナと共にリゾート地としても知られている。地名についての定説はないが,「新月の最初の夜」か,あるいは「ポリネシア人の航海者」にちなんで命名されたものであろうといわれる。
 ここはまた,数千種類のランの栽培地としても知られ,「果樹園の町」または「ハワイのランの中心地」の異名がある。日系人も多く居住し,市内には日本庭園で知られるリリウオカラニガーデンがある。
 私は地図でしっかり確認しながら,はじめてヒロのダウンタウンに車を進めて,いつものように,ともかく近かろうが遠かろうが,空いていた駐車のできる適当な場所に車を停めて,様子見に少し歩いてみることにした。

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●最終日の謎解き●
 まったく下調べもせず期待もせずやってきたハワイ島だったが,ハワイ島は魅惑に満ちた島であった。そして,たとえ内容が不十分であろうと「地球の歩き方」(この本の「ハワイ編Ⅱ」に載っているハワイ島の情報はずいぶんと片手落ちである)すら当時は持っていなかったので,私はまさに手さぐりでこの島を観光していたわけだ。だから,実際に行った場所の正確な位置関係もわからず,私には,最終日まで謎に包まれていたことがたくさんあった。
 一昨日に乗船したサンセットクルーズも,ハワイ島のコナコーストを南下して航海していたことはわかっていてもいったいどこまで行ったのか,そして,どの湾に停泊したのかも知らなかったし,ハワイ島に到着した日の晩に泊まったヒロ郊外のコテッジだって,それがヒロのどのあたりにあったのか,そこがどういうところなのかもよく知らなかったのである。
 さらに,ヒロという町自体,いつもダウンタウンは迂回して走っていたから,その市街地を見たことがなかった。
 今考えてみてもかなりめちゃめちゃな旅だった。

 十数年前にインターステイツ90を走行中に交通事故にあって入院したモンタナ州のビュートという町も,当時は同じことだった。
 いきなり救急車に乗せられて病院に担ぎこまれ,夜の病室の窓から見えたのは黄色い街灯がところどころに光るだけの小さな町だったし,後日,どうにか病室を出て廊下を歩けたときに,ナースステーションの背後にあった大きな窓から見た雄大なロッキー山脈はまさにおとぎの国の風景だった。ここはいったいどこなのだろうと思った。
 私はこのときに見た不思議な景色とそのときの記憶を生涯忘れないだろう。
 こうした謎が思い入れの原点になって,それこそがその後の行動の動機となるのだ。そうして,そういった思い出こそが人生そのものを形作るのである。
 地位だの名誉だの財産だのというものをいくら手に入れても,生きることは,そういったことを経験することに比べたら,まったく無意味なものに思われる。謎があればそれを解きたいと思う。だから,謎をもたないうちに答えなど用意しないほうがいい。
 私は,この旅の最終日に,こうしたハワイ島の謎解きを楽しんでいるのだった。

 コーヒー農園を見学したのち,私はヒロに向かってハワイ島を横断するのにのどかな田舎町を走っていこうと思っていたが,結局この島にはそんな道路はなく,カイルアコナのある西海岸から東海岸のヒロにもどるには,はじめてヒロからカイルアコナに来たときと同じ道を逆にたどるしか選択肢がなかった。
 しかし,西海岸のコナコーストのまわりには私がいまだ謎だった場所が残っていたので,コーヒー農園からカイルアコナに戻る前にそれを解決しようと思ったのだった。その謎だった場所とは,コナコーストの沿岸の高台を通る州道11から見おろしたところから広がる海岸沿いの場所であった。
 コーヒー農園を過ぎて少し南に行った交差点を,私は「意を決して」右折した。「意を決して」とは大げさな表現だが,どの交差点も日本の田舎道のような狭い道路で,どの交差点を右折すれば海岸まで降りられるのかわからなかったからだ。
 結論からいうと,私が右折した交差点は正しい選択で,そこから海岸まで降りていくことができた。しかし,高台を走る州道11は,私が思い描いていた以上の高台で,そこから海岸まで降りていくにはものすごい急坂をくねくねと走っていく必要があったのだ。これではまるで広島県の尾道… いや,尾道とは違ってかろうじて車がすれ違えるほどの車幅はあったが,まあ,似たようなところであった。

 道を降りていく途中には,リゾートホテルやらコテッジなどがところどころにあったから,この場所を深く研究すれば,とても素晴らしい自分だけの隠れ家的な宿泊場所を見つけることができるかもしれない。このように,ハワイ島はかくも奥が深いのである。だから,旅行社のオプションツアーなどでオアフ島から2泊3日でハワイ島に来て,豪華なリゾートホテルに宿泊するような旅をしていては,ハワイ島の魅力のほとんどはわからないわけだ。
 私はやっとのことで海岸まで降りることができた。道路はさらに海岸線に沿ってずっとつながっていたので走っていくと,その先端にあったのが,なんとケアラケクア湾州立歴史公園だった。その場所こそ,私が一昨日サンセットクルーズで船が停泊した場所だったのである。
 「déjà vu」そこに数日前のサンセットクルーズで海の上から見たのと同じクック記念碑を見つけたときは,ほんとうにびっくりした。

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●バナナの木に咲くグロテスクな花●
 私がこの旅までハワイに行きたくなかった理由は,日本人にとってあまりにポピュラーな観光地であることだった。それは日本人観光客が嫌いということではなく,私が「非日常」を楽しみたいという気持ちでからであった。
 それでもさすがにハワイ島まで足をのばすと日本人の観光客も少なくなって,非日常を楽しむ旅ができた。さらにまた,私が宿泊したのは日本資本の入っているようなリゾートではなかったから,ほとんど日本人に出会うこともなく毎日を過ごすことができた。しかし,キラウエア火山やヒロのダウンタウンのような日本でもよく知られたところに行くと,それまでどこにいたのか,というくらい日本人が「湧いて出てくる」のだ。
 それはアメリカ本土でも同じことで,この夏に行った東海岸でも,ランカスターとかゲティスバーグ,ウィリアムズバーグ,モンティチェロなど,日本からのツアーもなく車でなければアクセスが困難な場所を訪れるとまったくといっていいほど日本人はいないのだが,フロリダ州のケネディ宇宙センターやワシントンDCにあるスミソニアン博物館などへ行くと,ここもまた同様にそれまでどこにいたのかというくらい日本人が「湧いて出てくる」のだった。

 そのことに問題はないのだが,観光客のなかに「私は旅のツーよ」みたいな,でも本当は単なる「ミーハー」的な,そういった -特に若い女性に多いのだが- 人がまれにいるのだ。そして彼女たちに共通するのは「私は英語できるわよ。あなたとは違うわよ」的な,およそ日本人のもつアイデンティティとは正反対の横柄さなのである。
 海外で活躍する日本人の女性たちはみな謙虚でありながら実はものすごく優秀で,肩に余分な力が入っていないきわめてスマートで素敵な人たちが多いと,これは私の率直な感想だが,私が鼻につくのはそういう人たちとは真逆の人種なのである。
 私はそういうタイプの女性のひとりにニューヨークのヤンキースタジアムで出会ったが,同じ匂いのする女性にこの農園で遭遇した。
 私がこのコーヒー農園のことを書こうと思ったときにまず思いだたしたのは,このことであった。

 それはともかくとして,私が見学に来た「グリーンウェルファーム」はハワイ島で最も有名な農園のひとつだということだ。おそらく私がここで書かなくてもいくらでも情報は見つかるだろうから,ここへ行きたい人はそれをご覧いただくとして,私は行ってみた感想だけを書くことにする。
 この農園が有名であるのは「商売上手」ということなのであろう。つまり「やり手」なのである。大手旅行社と上手にタイアップして,ツアーバスが来るように手配してあるからみんなが来るし,宣伝が上手で日本語が通じる,とまあ,そういうことだ。
 また,ここの農園のコナコーヒーの品質はナンバーワンだという評判だ。私は今回のハワイ島への旅で「コナコーヒー」というものをはじめて知って,酸味の強い値段の高いコーヒーだという認識をもったが,私はグルメではないから,それがおいしいと表現するものかどうかはよくわからない。要するにこれが「ブランド」というものなのだろう。

 私はこの農園を教えてくれたコナコーストの観光案内所のおじさんから聞いたまま州道11を走ってきたが,右手に広い駐車場があって,この農園の看板が見えたところで車を停めた。
 建物まで歩いていくとすでに多くの観光客が集まっていた。そこには試飲コーナーがあって,ストロングコーヒーからウィークコーヒーまでが順にポットに入っていて試し飲みができるようになっていた。
 京都伏見にある月桂冠・大倉酒造の工場見学と同じようなものだと思えばいい。
 そして,ここにはダニエルさんという有名人がいて(私はなんせ日本の民放は見ないのでこの人が有名人だということも知らなかった),外見はまったくのアメリカ人だっから私が英語で話しかけると,私より上手な日本語で説明を始めたのだった。彼が自己紹介するには,和歌山県の出身で長く日本に住んでいて,アメリカンスクールで宇多田ヒカルや西田ひかるを教えた事もあるとかいう話であった。

 私も試飲のあとはそのダニエルさんの勧めにしたがってコーヒー農園見学ツアーに参加した。
 ハワイ島西海岸のコーヒーは収穫は手摘みであり,コーヒーの木も低く保たれているという。というのもハワイ島の西側は乾燥地帯で,豆に栄養が十分に行き渡るように低く伐採しているのだそうだ。ホシダナも木を低く保つのも日本人移民の知恵なのだそうだ。
 ここでは、コーヒー畑や豆の処理施設などをガイドさんの説明を聞きながら見学することができたのだが,私の参加したツアーのガイドさんはやる気がなく,というか,自分の長っが~~い話だけに夢中で,その次の,女性がガイドをしていたツアーのほうがずっと楽しそうであったのがかなり残念だった。
 そんなわけで,ここで私の印象に残っているのはコーヒーでははく,バナナの花であった。
 長いだけでつまらないガイドさんの説明に飽き飽きしていたのは私だけではなくとなりにいた人もどうやら同じだったらしく,一緒に指をさして興味深げにバナナのへんちくりんな花を眺めて雑談をしたものであった。
 今日の写真にあるバナナのグロテスクな花,見たことありますか?
 吉本ばななさんはこの花がお好きなんですよ。

DSC_3805 (1024x683)DSC_3808 (1024x683)DSC_4200 (1024x683)DSC_4201 (1024x683)●ハワイ島にもマクドナルドが●
☆7日目 4月4日(月)
 私はハワイ島に来たそのすべての目的が達成されて,すっかり満足して最終日を迎えた。
 すでに書いたことだが,ハワイ島から一旦オアフ島へ渡って,オアフ島のホノルルから日本に帰国するのだが,ヒロからホノルル便の時間が遅く,ホノルルから成田までの乗り継ぎのためだけにホノルルで1泊する必要があった。あれからいろんなことを知って,今ではそんなくだらないことをする必要などないことがわかるのだが,このときはそういう帰り方しかないのかな,と思っていた。
 そのために私は,夜遅くホノルルに到着して,その晩に泊まるホテルに行くのに苦労することになるのだが,うかつなことにそれが大変なことだという心配など,このときはまったく頭の端にもなかった。
 それほど,私がハワイ島で楽しい日々を過ごしていたということだ。

 あす早朝にホノルルから帰国することになるから,今日は,ハワイ島というよりも今回のハワイ旅行の最終日であった。はじめから,最終日は空港のあるヒロのダウンタウンを観光することに決めていた。そんなわけで,私は,この日になってはじめてヒロという町の様子を知ることとなった。
 思えば,はじめてのハワイ旅行というのに,一般とはずいぶんと異なる旅をしたものだ。このブログで,私はハワイ島で一箇所だけ行くことができなかったところがあったと書いたが,それは「イミロアアストロノミーセンターオブハワイ」のことであった。
 私が今でもハワイ島にはよい思い出しかなく,また行きたいと思っているのは,きっと,これだけ十分にハワイ島を楽しんでも,すべてを成し遂げることができなかったことがその理由であろう。
 博物館に行くことができなかた理由は,この日があいにく月曜日,休館だったからである。まったくもって情けない話だ。これまで何度でも行く機会などあったのだから…。しかし,私はこういうとき,いつかはそれを必ず実現しているから,おそらく,数年うちにはこの博物館を訪れるに違いない。

 そんなわけで,私は急いでヒロに行く理由ももなく,半日ぐらいはコナコーストをドライブしてからヒロに行くことにして,ホテルをチェックアウトした。
 まず,ヒロのある東ではなく南に車を走らせた。目指す目的地は「グリーンウエルファームズ」というコーヒー農園であった。
 ここは,2日前にカイルアコナを散歩していたときふと立ち寄ったディスカウントツアーを取り扱っていた観光案内所のおじさんと雑談をしていたときに教えてくれたところである。
 その観光案内所というのは,ハワイ島のオプショナルツアーを安価で斡旋していたところで,金券ショップのような店舗であった。さまざまなツアーが売りに出されていた。そのなかには,私が参加した潜水艦ツアーもあったし,マウナケア星空観察ツアーもあったし,へリコブターツアーもあったが,値段が全然安かった。
 この店がまともかどうかは私にはわからない。いずれにしても,当日になってツアーに空きがあればそれはディスカウントになるのが資本主義の道理だから,おそらく問題ないにちがいない。しかし,こういうことを知ってしまうと,日本の代理店で正規にお金を出して高額のオプショナルツアーを予約するのは本当にバカらしくなる。
 「グリーンウエルファームズ」は州道19を南に走って行ってマクドナルドを越したところにあるといわれたので,今日の朝食はマクドナルドということにした。ハワイ島にもマクドナルドはあるのだ。

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●夢はこうして実現したのだった。●
 時刻は夜の9時ごろであった。家族連れが帰るときに,子供たちが「お星さまさようなら」と大声で言うのが聞こえたし,星空観察ツアー御一行様らしき団体さんも帰途につくところであった。ここはハワイ島の天体観察のメッカ,いわば観光地であったのだ。
 とはいえ,非常に条件がよいから,星を見るにも写真を写すにも,観光地であっても日本とは全く違って非常に快適であった。

 私は,来る前,ハワイ島でこんなに楽しく星を見ることができるとは思わなかった。
 それまでは,日本の山で美しい星空を見たという人の話をうらやましく思っていたのだが,ここは標高が24,000メートルもあるからそれ以上だし,車で簡単に来ることができるし,空は真っ暗であった。しかも日本では見られない南十字星も見られる!
 私はここで星を見てすっかり満足した。というよりも,この後,日本で星を見る情熱がすっかり冷めてしまったのだった。
 夜も9時を過ぎると,ビジターセンターの駐車場からは車も人もどんどんと少なくなっていった。どうやら星見の観光客の門限は午後9時であるらしい。だから,心置きなく星を見るには,この後の時間が最適であるのに違いない。そして,この季節は,南十字星が昇ってくるのがまさにこの時間なのである。

 この日の天気は,眼下に雲が流れていたがここは雲の上だから快晴であった。
 いつもこの場所がこの日のように晴天なのかどうかは知らないが,この晩はなぜか絶対に晴れているという確信があった。
 それよりも一番私がびっくりしたのは,あまりの暗さに目の前に三脚を置いても,それさえ見えないということであった。
 日本ではどんなに暗いところに星を見に行っても,懐中電灯などなくてもどこに何があるかなんてはっきりと見ることができるから,この暗さはとても信じられないものであった。

 ここマウナケア山のビジターセンターの駐車場からは東の空が開けていて,南十字星が昇るのを見るには最適であった。
 私は,まず,昇りつつある「偽十字」を目を凝らして探した。
 「偽十字」(False Cross)というのは南半球で見られる十字型の星の配列の通称である。ほ座のδ星κ星とりゅうこつ座のι星ε星を結ぶと十字型に見える。これらは南十字星と見間違えることからこの名がついた気の毒な星々だ。あまりに有名な南十字星は南十字座のα星β星γ星δ星を結んだこじんまりとした十字型の4つの星なのだが,それよりも大きくて,しかも,南十字星よりも早く昇ってくるので,初めて見るとこちらを南十字星と勘違いするのである。それが今日の1番目と2番目の写真である。
 日本からは見えないのであまり知られていないが,実はこの偽十字のあたりは,りゅうこつ座の大散光星雲が天の川に浮かんでいて実に素晴らしい,というか,全天で最も素晴らしいところなのだ。そしてまた,この最も素晴らしい星空を見るには,この時期が最高なのである。
 やがて,南十字が昇ってきた。私の夢は,こうして実現したのだった。
 3番目の4番目の写真をご覧ください。この気品のある姿をどう例えればいいのだろう! まさに,全天一の星座であった。

 実際に両方の十字星を見比べてみると,本物の南十字星のほうがずっと貫禄があるのだが,偽十字のほうがすぐに目につく。それが偽十字だということを知っていれば本当の南十字と違うというのは容易に判断がつくが,知識がないと偽十字を本物の南十字と勘違いするというのもわからないことではない。
 私は小学生の頃に名古屋市科学館の「星の会」でそういう知識を得たのだが,ドリル学習しかさせてもらえない今の子供たちはそんなことすら知らないだろう。

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世界一の星空が見られる絶好の場所
 明るく赤く輝くボルケーノの火口を見て納得した私に残るのは,満天の星に輝く南十字星を見ることだけであった。
 私はハワイ島で南十字星を見たかったのだが,ハワイ島に来た日に参加した星空観察ツアーでそれを話すと「南十字星なんてまだ昇ってこないよ」というつれないコメントがツアーガイドから返ってきた。このツアーは,ハワイ島までわざわざ星を見にきた人が何を期待しているのかをまったく理解していないのだった。それでも私はツアーから帰ったあとで,幸運にもカイルアコナのホテルからコナコーストから昇る南十字星を,本当に「奇跡的」に目撃することができた。
 その後,こうなったらすべてを達成して帰国しようと固く決意した私は,満天の星の下で再び南十字星を見ようと思った。そこで,深夜のマウナケア山に行くことを決めたのだった。

 マウナケア山に来るのは今日だけでも2度目,通算で3度目になった。ただし,私がこの晩目指したのは4,205メートルの山頂ではなく標高2,400メートルにあるビジターセンターの広い駐車場であった。ここで十分に星空見られるはずであった。すでに勝手知ったところであるとはいえ,実際に深夜のビジターセンターがどんな感じになっているのかが,今ひとつよくわからなかった。
 ともかく行ってみるしかないと決意して,キラウエア火山から再びヒロを経由して夜の州道200を走らせた。
 このこともすでに何度も書いたが,この夜の州道200は街灯はなく真っ暗なのだが,車を走らせるときだけ道路の端と通行帯の区切りにひかれたホワイトラインとセンターにひかれたイエローラインが車のライトに照らされてくっきりと光り輝く。そこで,まったく街灯がないにもかかわらず非常に走りやすい。しかも空は真っ暗だから星を見る環境が保たれているのだ。
 これもまた,もう書くのにも疲れたが,日本の深夜の山道が,意味のない街灯が空に輝きわたり星の光を消し,しかもドライバーの目にはまぶしく,そのくせ,道路にひかれたラインは消えかかって見にくく,道路はどこが端なのかがさっぱりわからないからものすごく危険なくせに,気が向いたところだけ錆びたようなガードレースが設置されてわざわざ景観を台なしにしていて,しかも事故を誘発しているのとは,まったく対照的なのだった。

 私の見たい南十字星が東の空に昇ってくるのは夜の9時頃だから,焦ることもなく車を走らせて,やがて,マウナケア山のビジターセンターの駐車場に着いた。
 ところがどうであろうか。
 私の不安をよそに,ビジターセンターの駐車場は多くの星空観察ツアーのバンをはじめ,一般のビジターの車で一杯であった。
 考えてみれば,この日は日曜日だったのである。いつにも増して人が多いのはきっとそのせいであろう。いや,曜日に関係なくいつもそうなのだろうか? 私はそのことに驚くとともに,ここは正真正銘,世界一の星空が見られる絶好の場所で,星空に飢えた世界中の人がここに集結しているということを認識させられた。それとともに,星を見るのにこれほど安全な場所があろうかとも思った。
  ・・
 これだけ車があふれているのにもかかわらず,空を見上げると満天の星が輝いているのである。
 時折,山に登って来る車や降りていく車のライトが道路に映えるのだが,駐車場は広く道路は遠く,しかも上手に植えられた木々がその光を遮るので,そんなものが少しばかり光っても一向に気にならないのである。しかも,確かに寒いことには違いがないが,別に耐えられない寒さということもなかった。
 私もむちゃくちゃ広い駐車場の空きスペースに車を停めて,車のトランクから持ってきた三脚と簡易赤道儀とカメラと取り出してそれを接続して,南十字星を含めた星空を写すために,人の少ない駐車場の端まで歩いていくことにした。
 西の空には沈みかけのオリオン座が輝いていた。

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●私には表現の仕様がない。●
 すでに展望台には大勢の人がいたが,さらにごったがえしてきた。何度も書くようだが,この時期は春で夏休みではないのだが,そう錯覚するほどの混雑であった。私はすでに一度来ていたから勝手知ったるところだったので,見やすい場所に陣取った。
 まだ日が暮れるには少し時間があったが,ここで場所を譲るわけにはいかず,気長に待つことにした。火口から白い煙がただ上っているだけなのは前回と変わらず,私は,こんなものが赤く見えるのかいな? とかなり懐疑的であった。

 ところで,私はこのキラウエア火山を何かと勘違いしているような気がずっとしていたのだが,これを書きながらそのわけにやっと気がついた。それはロッキー山脈の山火事であった。
 アメリカ本土のロッキー山脈は夏になると山火事が頻発する。山火事はインターステイツを走っていても見ることがあるし,飛行機の窓からもものすごい迫力で見えたりする。
 キラウエア火山の噴煙は,この山火事と比べたらまったくもって大したことがないのだ。だから私はこの火山を「がっかり」と表現したのだった。

 次第に空が暗くなってきた。
 時折,火口の一部が「バチ」と音を立てて(本当に音がしたのかどうかよくわからないのだが)赤く光るのだ。そして,そのときに見ている人が「ワーッ」と歓声を上げるのである。
 それがしばらく続くこともあれば,すぐに何事もなくなることもあるのだが,私は,そのときもまた,なんだこれだけのことか,と落胆した。
 今もって私がわからないのは,こうした赤い煙は,お昼間にも同じように出ているのだが,それが空の明るさよりも負けているから見えないだけなのか,それとも,夜になると気温が下がったりすることによって赤くなるのか,ということである。
 ともかく,空が暗くなっていくにつれて,火口はどんどんと赤くなっていった。

 しかし,火口から溶岩がどろ~と出てくるわけでもないし,火の粉が巻きあがるわけでもなく,煙が赤く赤く立ち上っていくだけのことであった。これが実はものすごいこと… なのだろうか? 私には表現の仕様がない。要するに,私には興味がないというだけのことである。
 ただ,この火口は夜見に来なくては意味がないということだけは実証された。
 きっと,私がこの後で見にいって大感動をすることになる南十字星だって,興味のない人にはなんということもないのかもしれない。私があれだけ行きたい見たいと思っている南半球のマゼラン雲だって,せっかくニュージーランドまで行っても見もしないで帰ってくる人が多くいるのと,まあ,同じようなものだろう。

 私はこのあとでさらにマウナケア山まで行って南十字星を見ようと思っていたから,まだ完全に空が暗くなりきれていない時間だったが,キラウエア火山から帰ることにした。
 私は帰り道,カーナビがわけのわからない指示をだしたので,道に迷って軍の宿舎か何かにに入りこんでしまったが,なんとか道路に戻ることができた。
 国立公園のゲートは夜間も開放されていたが,すでにレインジャーはいないので入園料は不要という感じであった。つまり,ハワイ島に行ってキラウエア火山を見たい人は,この時間から行けばいいということなのだった。

◇◇◇
Congrats! Go-ei-do captures 1st career Cup.
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●火山は暮れてからくるものだ。●
 私はうまくカーナビを使うことができない。特に日本の車のカーナビは機能がありすぎて全くよくわからない。そういえば,私はガラケーというのも使えない。しかし,iPhoneはとてもよくわかるし使いこなせる。
 要するに,メニューが複雑な階層になっていて,作った人の頭のなかだけの理屈で構成されるとだめなのだ。
 小学校や中学校のときに私は理科が苦手だった。高校生になって,授業ではまだ習っていなかったが自分で数学の教科書を読んで微積分というものを知ってから,物理の教科書に載っていた公式はこんなものはみんな微積分すれば導けるんじゃないの,とわかったら,なんの問題もなくなって得意になった。

 原理だけを教えてもらえばあとは自分で導けるものなのに,そうした根っこを知らずに花やら葉っぱやらだけを教えられても,全く理解できないのだ。ガラケーは,そのメニューの仕組みが納得できないから使えないわけだ。その点,iPhoneはよくわかる。
 それと同じように,地図も,その町の様子を広域図で見て町の概要や歴史的な発展を知った上で道案内をされれば,その場所がその地域のどういう位置関係にあるのか納得できるのだが,単にカーナビで次は右だの左だのと命令されたところで,目的地には到着できるのだろうが,どこをどう走ったのかという疑問だけが残るし,道路が渋滞していたり工事中だったりしてカーナビどおりに行くことができないときに修正の仕様がないではないか。
 だから,ハワイ島に到着した1日目の夜,すでに外は真っ暗で,ヒロの空港からカーナビの道案内だけで行ったホテルがヒロからどういう位置関係だったのか,そこがどういう場所だったのかさっぱりわからなかったし,それから何度もヒロからマウナケア山に向かう州道200をカーナビに従って走ってはみたが,それがヒロの町のどういう場所を通っているのかさっぱり理解できていなかった。

 この日もまた同様で,私はレインボー滝からヒロの市街地を通ることなく一旦州道130を走って海岸へ行ってから,ヒロの市街地を迂回する形でキラウエア火山に向かうことになったから,もう,明日がハワイ島滞在最後の日だというのに,依然としてヒロという町の様子は謎のままであった。
 結局,次の日にきちんと地図で確認しながらヒロのダウンタウンを歩くことができたから,帰国した今はとてもよくわかっているのだが,このときはまだそういう状況でしかなかった。
 ともかく,この日はヒロのダウンタウンを通ることもなく,州道11を南西にキラウエア火山をめざして走っていった。市街地を出てしまえば,あとは片側1車線の単調な道路を走るだけだったし,はじめて走る道でもなかったから,私は悠々と州道11を走っていった。
 そして,道を間違えた。
 まだキラウエア火山のある「ハワイイボルケーノズ国立公園」の入口に到着していないのに,1本手前の道路を知ったかぶりで右折してしまったのだった。そして,ちいさな町に紛れ込んだ。まるで日本の山村のなかに入り込んだような錯覚に陥ってずいぶんともとにもどるのに戸惑ってかなり遠回りをしたが,どうにか州道11に戻ることができて,今度こそは国立公園の入口を見つけて右折して,国立公園のゲートに到着した。

 情けないことに,先日この国立公園に来たときにデートで支払った領収証を私は持ってくるのを忘れてしまったから,再び入園料を支払わなけれならなかった。この入園料はたしか1週間ほど有効であったはずだったからもったいないことをした。しかも,クレジットカードを出すと,パスポートを見せろと言われた。クレジットカードを出してパスポートを見せろと言われることはたまにあるが,国立公園のゲートでそんなことを言われたことはこれまで一度もなかったし,このゲートを先日通ったときも言われなかった。いつもパスポートはすぐに出せるようにしているのだが,このときはたまたま運悪くパスポートを入れたカバンが車のトランクに入っていて戸惑ってしまった。後ろに結構な車が列を作っていて,私がごちゃごちゃやっていたので,レインジャーは見せなくてもいい,といった。いい加減なものだ。それならはじめっからそんなことを言わなくてもいいじゃないか,と思った。
 ここで思い出したので余談を書く。
 アメリカでは20ドル札より高額の紙幣は受け取ってもらえないことが多いから使うことができず不便なのだが,たとえ20ドル札であってもそれを受け取った店員が透かしを確認している姿によく出会う。現金というのははじめっから信用されていないようなのである。アメリカのそういう実情を知らず,はじめて旅行をする人が日本の10,000円札のような感じで100ドル札を何枚ももっていくのは絶対にやめたほうがいい。現金など10ドル札が5枚もあれば事足りて,ほとんど場合クレジットカード1枚で十分である。

 ここに来たのはもう2度目だったのでよくわかっていて,空が暗くなったころにトーマスジャガー博物館のある展望台からキラウエア火山のカルデラを見ればいいのだから,それまでまだ少し時間があった。しかし,すでに入口を入ったとところにあるビジターセンターは閉まっていたので(というか,アメリカでは閉館時間を1秒でもすぎれば閉館になり,なかにはひとひとりいなくなる),ビジターセンターをそのまま通り過ぎてトーマスジャガー博物館の途中にある「蒸気の噴気孔」のあたりまで行ってそこの広い駐車場に車を停めて遠くからカルデラを見ていた。
 すると,けっこう多くの車がこの駐車場を通過してトーマスジャガー博物館のほうに走っていくので,こんなところでのんびりしていてはトーマスジャガー博物館の駐車場が一杯になってしまうと焦って,私も急いで博物館の駐車場まで行ってみた。
 もうすでに駐車場には車が一杯だったが,なんとかスペースを見つけて車を停めて私も展望台に向かった。展望台は前回太陽が高いときに来たのとは大違いで,すでに大勢の人でごった返していた。
 やはり,この火山は火が暮れてからくるものだと,このとき実感したのだった。

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2016春アメリカ旅行記-がっかりキラウエア火山③


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●この島には「秘境」が一杯●
 次に行ったのがレインボー滝であった。レインボー滝はヒロの町からワイルク川に沿って上っていくワイアヌエヌエ通りの右手にある。思っていたよりもずっと町なかにあって,こんなところに滝なんてあるのかいな? と意外に思うほどの場所であった。広い駐車場があって,そこに車を停めて歩いていくとまもなく展望台があって,そこから滝を見ることができた。しかも,滝の上まで見渡すことができて,それもまた珍しいものであった。
 ナイアガラの滝ならともかく,華厳の滝とか養老の滝とか那智の滝のような日本の滝を思い出してみればわかるように,滝は下から見上げるものと相場が決まっているから,こういうのははじめてであった。高さはわずか15メートルのもので,まあ,これもハワイ島「三大がっかり」のひとつであろう。
 この滝はその規模に比べて非常に水量が多いということで,風が吹くと水しぶきが舞ってそれが太陽光を反射して虹が出ることから「レインボー滝」という名がついているのだそうだが,私が行ったときには,こんなところに虹が見られるとは想像さえできないただの小さな滝であった。話によれば,ここで滝を見るには午前中がよいということだが,それほどこだわって虹をみるほどの場所でもあるまい,と私は冷淡に思ったのだった。

 ヒロの町を観光する予定はこの日はなかったから,あとはキラウエア火山に行くだけであったが,まだ日暮れにはずいぶんと時間があった。
 地図を見ていると,ハワイ島のそのほとんどすべての道路はすでに走ったのだが,ヒロから東に少し突き出た場所があって,そこに盲腸のように州道130が出ていて,そこだけ走っていないことに気づいたので,寄り道をすることにした。 
 後で調べてみると,この場所は意外な穴場で面白い観光地だったのだが,このときはそんなことは知る由もない。ヒロから近いので,私がここで書かなくてもよく知っている人も多いに違いないが,ツアーでホノルルからハワイ島2泊3日といった旅行をする観光客には無縁のところであるだろうから,ここで紹介しておくことにしたい。

 州道130をしばらく走っていくと,奇妙な形の木が生い茂った場所に出た。
 ここがラバ・ツリー州立公園(Lava Tree State Monument)であった。約69,000平方キロの広さで環状トレイルからは珍しい溶岩樹型を観察できる。1700年代に溶岩流がこの地区を押し流した際にオヒアの木の幹を覆った溶岩がそのまま時間の経過とともに冷えて固まり背の高い溶岩樹型となったものである。「ラバツリー」とは「溶岩木」を意味している。私は見ることはなかったが,ここには野生のニワトリやマングースなどの動物が多く生息しているのだそうだ。
 無知な私はトレイルを少しだけ歩いただけで,しかも,ラバツリーというのが背の高い怪しげな形の木のことだと思っていたから,まったくもって情けなかった。後で知って,こんなことならもっとしっかり見ておけばよかったと後悔したことであった。

 そこからさらに進むと,地図には道があるのやらないのやらさっぱりよくわからなかったが,実際はすれ違いができないほどの狭い道路がさらに延々と続ていて,そこを進んでいくとやがて海岸に出た。そして,その近くの駐車場にはすでに多くの車が停まっていて,海岸で多くの人が遊んでいた。
 そこはアイザックヘイルパーク(Isaac Hale Park)という名の公園であった。
 で,私は,それを後で調べてみてびっくりした。私はてっきりこの海岸こそがアイザックヘイルパークだと思っていたのだが,そうではなく,アイザックヘイルパークは海岸から奥まったところにある秘境の温泉だったのだ。
 ハワイに温泉があることはあまり知られていないが,ハワイ島には2か所で温泉が湧いているのだそうだ。それらは「アハラヌイパーク」と「アイザックヘイルパーク」で,そのどちらもハワイ島南東部の海岸にあるのだという。
  公園としてして整備され家族連れで賑わう「アハラヌイパーク」とは対照的に「アイザックヘイルパーク」のほうはまさに秘湯といった感じで,海岸から15メートルほど離れたジャングルのような林のなかの木々に囲まれた窪地に水が溜まっていて,それはどう見てもただの池のようであるが実は10人ぐらいは入れそうな天然の露天風呂ということだ。

 とまあ,わかったようなことを書いてはみたが,行ったときはそうとは知らず,ハワイ島にはおもしろいところがたくさんあるものだ,と思った程度であった。
 この島は,このようにものすごく有名な観光地であるにもかかわらず,無名な見どころがたくさんあってかなり奥が深いのだ。
 前回,リピートをする気持ちがわからないと書いたが,その言葉を撤回したい。私もぜひまた行ってみて,今度こそこんなディープな場所をたくさん探ってみたいものである。

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●たったひとつの場所を除いては●
 アカカ滝から州道19に戻り,もう間もなくヒロであった。
 夜明け前にホテルのあるハワイ島の西海岸カイルアコナを出発して,ハワイ島の中央にあるマウナケア山に登って日の出を見て,車の警告灯に気づいて一旦ヒロまで行って車を交換してから引き返し,今度はハワイ島の北海岸に沿って走って,楕円形にハワイ島の北半分を1周して再びヒロまで戻ってきたというわけであった。
 この日はヒロの町を観光する気はなく,私はそのままさらに島の東海岸を南下して,日が暮れたあとのキラウエア火山を見に行くつもりであった。そして,そのあと,再びマウナケア山に行って,満天の星に輝く南十字星を見ようという,まさにめちゃくちゃな日程を立てたのだった。昨日のまったりムードとは大違いであった。それというのも,この日がハワイ島で泊まる最終日であったからだ。

 ヒロに行く途中に気になるところがあと2箇所あった。そのひとつがハワイトロピカルボタニカルガーデン,つまり,熱帯植物園であり,もうひとつがレインボー滝であった。しかし,ともに絶対に行きたいというほどのこともなく,なんとなく行けたらいいなあという程度であった。
 まず,ヒロに向かって走っていったら自然とハワイトロピカルボタニカルガーデンに到着した。
 駐車場は無料で,その横に売店があった。道を隔てた反対側が植物園の入口で年取ったおじ(い)さんがいた。チケットはどこで買うのかと聞いたら,向うの売店だと不愛想に答えたのに少しムッとした。これが日本人の悪いところだ。別に愛想などよくなくてもそれが普通なのに。
  外から見るとあまり期待できそうになかったし,えらく暑い日だったので,どうしようか迷ったが,ともかく行ってみることにした。ところがどうだろう。園内は別世界であった。

 入口を通り抜けると綺麗に整備された木道とその先下って行く両側には背の高い木々が生い茂っていて,まさにジャングルであった。トーチジンジャー,ウナズキヘリコニア,インドネシアンワックスジンジャーなど熱帯地方の花々が色鮮やかに咲き誇っていた。園内を進みジャングルを抜けるとそこは海であった。滝もあり海の景色は壮観だった。
 ここは予想以上にとてもすばらしいところであった。日本の植物園には温室があって,そこに熱帯ジャングルというコーナーができていたりするが,ここにはまさに温室抜きの熱帯ジャングルが再現されていた。
 植物園を出るとき,あの不愛想なおじ(い)さんが,えらく愛想よく「Thank you.」と言ったのにおどろいたことをなぜかしっかりと記憶している。

 この植物園のことは「地球の歩き方」にも載っていない。この植物園はヒロに近いのに,ネットには何度もハワイ島に来ていても行ったことがないという書き込みもあった。
 ハワイ島に何度も来ている人は,仕事で来ているのかもしれないが,もし観光旅行だとしたら,確かにハワイ島は素敵な島ではあるけれど,世界にはほかにもたくさんおもしろいところがあるのに,このような小さな島に何度もリピートして,しかも植物園すら行かないでいったい何をしているのだろう… などと生意気にも思ってしまうのだった。また,ハワイ島に来る前にオアフ島のダイヤモンドヘッドへ行ったとき,毎年(ダイヤモンドヘッドに)来ていますと言った家族連れがいたけれど,せっかくハワイまで来て,ほかにも行くところがたくさんあるのに毎年ダイヤモンドヘッドへ行くというのもまた,私には理解できないことであった。
 まあ,人それぞれだけれど。
 この後,私は予定通り夜のキラウエア火山と満天の星に輝く南十字星を見ることになる。そして,次の日はヒロのダウンタウンを観光することになる。こうして,はじめてのハワイでしかもオアフ島ではなくハワイ島に来て,わずか数日の滞在でハワイ島の主だった見どころのほとんどに行ったし,それに加えてマウナケア山の山頂に2回も登って夕日も朝日も満天の星も見ることができたのだった。
 たったひとつだけ行くことができずに心残りになってしまった場所を除いては。

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◇◇◇
Red Sox Four-Game Sweep Yankees since 1990.

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●たとえ滝全体が見られなくとも●
 ワイビオ渓谷の景観を堪能して,私は,ハワイ島の北海岸を東に向かって走りはじめた。今度は右手,つまり南側にマウナケア山があるのだが,うっそうとした森が迫っていて山を見ることはできなかった。その代り,左手はとても美しい海岸線が続いていて,ときどき小さな町があった。
 ハワイ島といっても,場所によってこれほど雰囲気が違うのかと思ったが,私は,ハワイ島でこの北海岸がもっとも美しいところだと思った。なにせ,観光地化されていない,観光客があまりいない,ツアー客がいないということが素晴らしい。

 やがてラウパホエホエの町に着いた。ラウパホエホエ(Laupāhoehoe)は,ホオカアとヒロの中間に位置する人口470人ほどの町である。1946年4月1日に高さ9メートルの津波に襲われて24人が死亡したことから,ラウパホエホエの町は現在の場所へ移設されたのだという。
 さらに進むと,ホノムという町までやってきた。ホノム(Honomu)は,アカカ滝のほとりにある人口540人ほどの小さな町で,かつては砂糖産業で栄えたという。

 地図を見ると,ここから南に山の中に入っていくとアカカ滝(Akaka Fall)という滝があるということはわかったのだが,かなり海岸から遠く山深いところにありそうで,広域地図では道もなく,どうやって行くのかよくわからなった。しかし,実際はホノムに着いてみると,道路標示があって,それに従って舗装した片側1車線の道路を行くだけのことであった。マウナケア山北側の雄大な高原が広がっていた。
 このアカカ滝は,この後で行くヒロのレインボー滝と並んでハワイ島では有名なのだそうだ。
 アカカ滝は縦に長い滝で,126メートルもの高さを誇る。ここは州立公園に指定されていて,滝のまわりを周遊できるように遊歩道がきちんと整備されていた。

 滝に行くための遊歩道の入口に広い駐車場があったのだが,多くの車が停まっていた。
 この旅では常夏のハワイということでいつも錯覚するのだが,私の行った時期は夏ではなく,春。その時期にこれだけ観光客がいるのだから,きっと夏は大変なことであろう。
 やっと場所を見つけて車を停めたが,どうやらこの駐車場は有料であるようだった。というのは,駐車券を発券する機械があったからだが,説明もゲートすらなく,本当に有料かどうかもよくわからなかった。
 すると,機械の横に,これもやる気があるのかないのかよくわからない係員がボーッと立っていて,車を停めた人が自発的に機械ではなくその人にお金を払っていた。こんないい加減な状況だから,お金を払わずに遊歩道に行ってもなんの問題もなさそうなのに,アメリカ人というところのよくわからないことは,こういうことにはみなものすごく正直なことだ。
 私もお金を払った。

 駐車場から遊歩道に入って歩いていくと,はじめは遠目にしかみることができなかった滝がだんだんと大きく迫ってきた。さらに進んでいくと滝の落ちるj豪快な音が聞こえてきた。
 10分ほどでアカカ滝が真正面に見えてきた。そこには少し広い展望台があった。
 この滝のあまりの落差と展望台に設置された高い柵に邪魔されて,展望台からは滝つぼがみられなくて,少し後ろに下がったり角度をかえたりして,みんな苦労をしていた。この展望台の設計自体がよくないのだ。
 今日の写真にはちゃんと滝つぼが写っているが,この滝の全貌をこのように写すのは並大抵なことではない。私は広角レンズをつけて,手を上に伸ばしてノーファインダーで写したのでこうして滝全体を入れることができたのだが,背伸びをしてもこの滝つぼは見えないし,スマホでは画角がせまく滝全体が入らないのである。
  しかし,たとえ滝つぼが見られなくとも,豪快に水しぶきを上げて滝が落ちていくさまは,ハワイ島の大自然の雄大さと素晴らしさと体験するのに申し分のないものであった。

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●ここは聖地であった。●
 4日目にハワイ島の最北端に行ったときにボルロバレーオーバールックで断崖絶壁を見て,この先にあるのがワイピオ渓谷だと書いた。この日,私はこのワイビオ渓谷に行こうとしているのだった。
  ・・・・・・
 ワイビオ渓谷はハワイ島北海岸のハマクアコーストの西側に位置する。
 ハマクア(Hamakua)とは,ハワイ島北部の地域のことであり,ここはかつて砂糖産業プランテーションの中心地として栄えたところである。ここにあるホノカア(Honoka'a)はワイピオ渓谷の東に位置する人口2,200人,サトウキビプランテーションで労働に従事した移民が作った町で,現在の住民の多くもその子孫である。1873年に創業したホノカアシュガーカンパニーが1993年に製糖工場を閉鎖して以降は,観光業を主体とした町へ生まれ変わりを果たし,ハマクア最大の町となった。この町の図書館には,ハワイで最初の組合活動家として労働者の地位向上に貢献した日本人移民であるゴトウ・カツの記念碑が建てられているそうである。
  ・・・・・・

 ワイメアから州道19を北東にハマクアコーストに向かって走っていくとこのハマクアに着き,そこから海岸に沿って細い道を西に走っていくとククイハエレという人口300人ほどの小さな集落に出る。そのいちばん奥にあるのがワイビオ渓谷なのである。
 ククイハエレ(Kukuihaele)とはハワイ語で「歩く光」を意味しており,ハワイの神話クムリポにあるたいまつを持ってワイピオ渓谷へ向かう戦士の亡霊からつけられた名称である。
 ククイハエイはのどかな町ではあったが,ここに住んでも不便なだけだなあ,と私は率直に思った。

 ワイビオ渓谷の展望台はまさに絶景であった。
 ハワイ島へ行って,ここへ行かないという選択肢はないが,車でなければどうやってアクセスするのだろうと思った。駐車場に車を停めて展望台からその谷を眺めていると,谷底までも道路が伸びているではないか! 調べてみると,このワイビオの谷底まで降りていくには一般のレンタカーでは危険この上ないということであった。そして,この谷底まで降りてつれていってくれる現地ツアーがあるということだった。
 1,000年以上も前から人が住み着いていたというこのワイビオ渓谷はハワイの主食であるタロイモの栽培に適した環境にあって,ワイビオ川はボラやマスの養殖にも向いているのだそうだ。人が生きるというのは,こうした食べ物に恵まれているというのが絶対条件なのであるから,ここに住むことを不便と感じた私は恥じるべきなのだろう。
 ここには昔から偉大な族長が多く埋葬されていて,そのマナ(霊力)に守られた聖地だった。

DSC_4032 (800x533)DSC_4034 (800x533)DSC_4036 (800x533)DSC_4038 (800x533)●「案ずるより生むが易し」●
 車が新しくなって何の憂いもなくなった私は,時間が少し遅れたけれど,再び今日の予定を再開することにした。
 昨日はかなりのまったりムードであったが,考えてみれは,明日ハワイ島からオアフ島に戻らなけらばならなかったから,実質1日ハワイ島で観光ができるのは今日が最後だった。そこでやり残したことをすべて実行するには今日だけしか猶予がないのだった。

 旅に限らず,はじめての体験でうまくやるというのはいかに準備を周到にしても無理なのである。大切なことは,初めからうまくやろうと意気込むよりも,うまくいかなかった経験を2度目に生かせるかどうかということで,それが人の価値を決めるのだろう。
 だから,仕事でも,初心者にはとにかくやらせてみて失敗したことを次の機会にその教訓を生かせる人材なのかどうかを見極めれはいいのだ。そうしなければ人は育たない。しかし,私がこれまで出会ったバカな上司たちはそれができなかったから,人を使えなかった。このように,親にしても教師にしても会社の上司にしても,はじめっから手を出しすぎる人や失敗をすぐに叱る人は人を育てられない。
 私は,次回またハワイ島に行くなら今度はどんな旅をするか,というアイデアはたくさんもっているが,このときのハワイ島の旅では,ずいぶんと後悔することもあった。しかし,ビギナーズラックなのだが,それにもまして無知であったが故の幸運にもたくさん出会ったのだった。まさに「案ずるより産むが易し」である。

 当初,今日の予定はハワイ島の北の海岸線である「ハマクアコースト」(Hamakua Coast)を走ることであった。そして,その後夜のキラウエア火山を見に行こうと思った。さらに時間があれば,マウナケア山に行って,満天の星空の下で南十字星を見ようと思っていた。しかし,そのすべてを達成できるかどうかは皆目見当がつかなかったし,深夜のハワイ島を走るということ自体かなり無謀なことなのかな,という不安もあった。
 しかし,日本に帰ってからそれをしなかったという後悔はしたくないという気持ちのほうが強かった。

 実際は,日の出をマウナケア山で見るという予定外の行動からこの日がはじまって,しかも,車を交換するためにヒロに行くというさらに想定外の出来事がか起きてしまったのだった。
 車を交換するためにせっかくヒロまで来たけれど,ヒロの町を観光するのは明日の予定だったから,私は再び来た道を引き返し州道200をいつものT字路まで行って,そこを右折して州道190でワイメアまで行くことになった。いわば「リセット」であった。そして,ワイメアから北東に州道19を進んでハマクアコーストに向かうことにした。
 前にも書いたが,T字路からワイメアまでは道路が「∠」という形に進んでいくので,そこにはサドルロードという近道「\」がある。しかし,少し走ってみたところサドルロードは「~」状の上下のくねくね道で,それがあまりの急坂だったので私は恐れをなして断念した。なにせ車は交換したばかりの車高の高いジープで,坂を登ろうとすると目の前には空しか見えなくなるのだった。
 サドルロードといえば,ハワイ島に来た日にマウナケア山の星空観察ツアーに参加したときにドライバーがウケを狙って走った道であった。その星空観察ツアーといえば,すでにこのブログに書いたように,高いお金を出して参加したのにもかかわらず,マウナケア山の山頂にも行けなかったし夕日も満足に見られなかったし星を見せてもらった望遠鏡のピントは狂っていたし,散々だった。私は時間が経てば経つほど,あのツアーのことを思い出すともう少し良心的な商売があるのではないかと腹が立ってくるのだった。

 州道190からは右手にマウナケア山が望まれて,その山頂にすばる望遠鏡のドームを見ることができる。これもすでに書いたが,せっかくハワイ島へ行ってマウナケア山の山岳道路を登っても完全に4,205メートルの山頂まで登りきらないと全くすばる望遠鏡のドームを見ることはできない。唯一下界からかろうじてドームを見ることができるのはこのワイメアまでの州道190のほんの少しの場所だけなのであるからハワイ島ですばる望遠鏡のドームが見たいと思っている方は注意していただきたい。
 私はすばる望遠鏡のドームが山頂に見え隠れするほとんど車の通らない州道190を走っているうちにワイメアに着いた。
 ワイメアは何度来ても美しい町だ。この町がハワイ島で一番好きだ。
 今日は予定よりもずいぶん遅れているので,ワイメアで朝食をゆっっくり食べるというつもりであったが時間もなくなり,コンビニで菓子パンを買った。そして,これを朝食代わりにして食べながらさらに運転して,ワイメアからは州道19を北東に海岸沿いの小さな町ホノカワ(Honoka'a)に向けて走っていったのだった。

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●車がジープに変わった。●
 私はハワイだけでなくアメリカ本土をこれまで約30,000キロメートルは走っていると思うのだが,今もってわからないことがたくさんある。それは日本の車にない警告灯やら表示灯がアメリカの車には装備されているということだ。そして,それらが本当に危険を知らせるものなのかそうでないのかもよくわからない。
 日本の車に装備されていないものなのだから,およそどうでもいいものだ,と考えるのがもっとも自然であるように私は思うが,なにせ,日本とは走る距離自体が違うから,たとえそれが日本と同じ名前のついた日本車であっても,どうやら車の作り方そのものが違っているようなのである。
 今日の一番下の写真は上がアメリカのカローラ,下が日本のカローラのスピードメーターであるが,このようにカローラに限らず,アメリカで走っている車はメーターの中央に大きなディスプレイがあって,ここに様々な情報を選択して表示できるのである。
 さらに,この国では日本とは違って,オイル交換もブレーキランプの交換も自分でするというのが基本だから,本質的に車のメンテナンスの考え方も異なっている。

 日本で車に乗っていて心配されるトラブルというのはパンクくらいのものだろう。そして,そういったとき,多くの人はタイヤの交換などしたこともないから,JAFを呼ぶかディーラーやガソリンスタンドに行けばいいと思っているであろう。近頃の日本の軽自動車は交換するタイヤすら積んでいない。そしてまた,そんなアクシデントすらめったに起きることはほとんどない。
 アメリカでもそれは同様なのだが,運転をしていると,大概毎回出くわすのが,このわけのわからない警告灯や表示灯が点灯することなのである。本当にいいかげんにしてほしいと思うほどだ。
 そういったとき,自分の車なら対応のしようがあるが,レンタカーだと「で,どないするねん?」ということになる。

 一番多いのが日本の車にはない「メンテナンスリクワイアード」(MAINT REQD)という警告灯の点灯である。
 はじめてこの警告灯が点灯したとき私は動揺した。マニュアルを読んでもエンジンオイルを交換しろ,と書かれてあるだけで,そうしないとどうなるかなど,さっぱりわからない。それに,レンタカーのエンジンオイルをどうして私が交換しなくてはならないんだ!
 結局,その時はレンタカーの営業所まで走っていって車を交換してもらったのだが,帰国後に調べたり聞いたりしたところでは,これは単にエンジンオイルの交換時期だという標示なのだそうだ。であったから,その後は点灯しても無視することにした。

 そして,今回はタイヤの空気圧の表示であった。
 日本の車でもタイヤの空気圧が減れば警告灯が点灯するものがあり,私も一度経験があって,そのときはすぐにディーラーに行ったら,タイヤに小さな釘が刺さっているのがわかった。つまり,この警告灯は日本でも必要なのだが,近頃の車には見当たらない。
 しかし,このときの空気圧の表示は空気圧が減ったという警告ではなくて,単に4つのタイヤの空気圧が車のディスプレイに表示されたというものであった。アメリカの車にはこの表示がついていて,これを表示するかしないかはハンドルの部分に切り替えスイッチがあるのだが,私がそのことを知らずにスイッチにさわったものだから表示されたというだけのことであった。
 今の私はそれを知ったから,むしろタイヤの空気圧表示を有効に利用しているけれど,このときはそんなことも知らず,この車はパンクをしたのかと思って,かなりの恐怖感を抱いたのだった。

 実際このときは車の左前のタイヤの空気圧が低かったから,ガソリンスタンドで単にタイヤの空気圧を調整すればよかっただけだったのだが,そんなことさえ無知だった私は,恐る恐る60マイルも走ってヒロの空港にあるハーツの営業所まで行って車自体を交換した。
 途中で少しでも異常が感じられたらロードサービスを呼ぼうと覚悟して走っていたが,当然パンクなどしていなかったから,車はなんの問題もなくヒロに到着した。
 こうして交換した今度の車は完全な新車のジープであった。
 このときから私の車はヒュンダイからジープに変わった。

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●雲海から昇る日の出●
 やがて星が見えなくなって,空が白んできた。
 これを読んでいる方は日没や日の出をゆっくりとご覧になることはおありだろか? 私は,星を見にいくときに日没や日の出を見ることは多いが,星を見るために出かけるだけなので,地平線や雲海に沈んだり昇ったりする太陽をゆっくりと見るという機会はそれほど多くない。
 すでに書いたが,夕暮れは日が沈むころよりも30分程度早い時間に太陽が地面を輝かせる,いわば夕焼けの時間がもっとも美しく,日が沈んでしまうと,それまでの美しさは何だったのか,と思うほど何もなくなってしまう。そして,そのうちに星がひとつまたひとつと見えてくる。
 その反対に,日の出は,空が白んで星が見えなくなるのは日の出の時間よりもずいぶんと早い時間で,それから日の出までの時間が非常に長く感じられるが,太陽が昇るころが一番美しい。しかし,太陽が完全に昇ってしまった瞬間から,もう,まったくその余韻が残らない。
 私はこれまでに見た一番美しい日の出は,紀伊半島那智勝浦のホテルの屋上にあった露天風呂で海から昇ってくるのを眺めたものであった。

 やがて,太陽が昇る時間になって,ついに,雲海から太陽がその姿を現した。
 神々しい,というのは,このためにある言葉だ。太陽の赤い光が雲に反射して,そして空に輝いて,この世のものとは思えない姿であった。この感激は日没では決して味わえないものだ。
 やがて,すっかり太陽がその姿を現すと,すぐに現実の世界に引き戻された。
 私は,こうして,マウナケア山で,念願の雲海からの日の出を見ることができたのだった。

 ホテルに戻ることにして,車のエンジンをかけた。すると,私の車のディスプレイに変化が起きた。それは,タイヤの空気圧の表示であった。いったい何が起きたというのだろうか?
 車から降りてタイヤを調べても,見た目には特に何の異常も感じられなかった。おそるおそる走ってみても,パンクをしているようにも思えなかった。こんな山の上ではレスキューを呼ぶこともできないので,ともかく,こうなったら下山するしかないと思った。ふもとまで行ってから,タイヤを交換するか,レスキューを呼ぶか,幸いにもレンタカーのオフィスまで行くことができれば,そこで,車自体を交換してもらうのが一番だと思った。
 この場所からは私の泊まっているカイルアコナよりもヒロのほうがわずかばかり近いから,私はホテルに帰る予定を変更して,1時間ほどかかるが,ヒロの空港にあるレンタカーのオフィスまで行けるのなら行ってみることにした。

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●再びマウナケア山頂に登る。●
☆6日目 4月3日(日)
 早朝3時過ぎに目が覚めた。私は起きるまでその気があったわけではなかった。
 満天の星空のなかに輝く南十字星を見たいとは思っていたが,マウナケア山の山頂に日の出を見に行くというのは,あまりにも無謀ではないか。ただし,昨日のサンセットクルーズで出会った日本人の家族の人たちが星空観察ツアーに参加した日に私が見られなかったマウナケア山頂で夕日を見たという話を聞いてうらやましかったこともまた事実であった。
 私は,この時間に目覚めたのは神のお告げだと思った。こうなったら,マウナケア山の山頂へ日の出を見にいくしかないと思った。日の出の時刻は6時過ぎだから,今から車でマウナケアまで行けば十分に間に合うのだ。
 そんなわけで,私は,三脚とカメラを持って車に乗り込んだのだった。

 アメリカの深夜の道路を走るなどということを私はこれまでしたことがなかったが,連日ハワイ島を走ってみて,ホテルからマウナケア山までは道路の状況もよく,何の問題もないように思われた。私は,日本では星を見に行くために深夜のドライブは慣れている。夜も12時を過ぎると急に世間は寝静まり,日本でさえも星がきれいに見えるようになる。
 来る前には,まさかマウナケア山の山頂まで日の出を見にいくとは夢にも思っていなかった。星空観察ツアーには夜明け前の星空と日の出を見るというものもあるが,きっと,夕日よりも参加者はずっと少ないであろう。私がハワイ島に来た時期は下限の月が深夜に東の空に昇ってくるので,明け方の星空観察ツアー自体が実施されていないときでもあった。

 いつものとおり,ホテルから州道190を北東に向けて走らせたが,さすがにこの時間では全く対向車は通らず,走っているのは私だけという状況だった。道路は,コナの市街地だけは街灯があったが,それでも日本のように白い光がまぶしく輝くということもなく,黄色く鈍い街灯があるだけだった。それよりも,道路の端のホワイトラインと中央のイエローラインがすべて蛍光になっていて,車のライトで照らされると真っ暗な中でそれだけが明るく輝き,安全で走りやすい道路がずっと続いていた。
 ここでもまた,どうして日本はこうした道路の整備ができないのだろうかと改めて感じたのだった。空には満天の星空が輝いていた。
 40分程度走って右折し,全く街灯のない真っ暗な州道200に入ったが,この道路もまた同じで,車のライトでホワイトとイエローのラインだけが輝いた。
 次第にあたりは霧に包まれて何も見えなくなったが,それでも道路のラインだけは車のライトで照らされて明るく輝いていたから安全だった。州道200に入ったあたりで霧になるのはいつものことであった。このくらいの標高になると霧が発生するのだろう。そして,いつものようにもう少し高いところまで登ると雲の上に出て,再び満天の星空が見られるようになる。

 州道200を左折して,マウナケア・アクセス・ロードに入った。次第に標高が高くなっていくと,思った通り霧が晴れてきた。
 ビジターセンターに着いた。ビジターセンターは当然すでに閉まっていたが,駐車場にも全くほかの車はなかった。空には明るく月が出ているので明け方の星空観察ツアーが実施されていないからにちがいなかった。それでもビジターセンターから先の道路はそのまま開放されていたので,私はためらうことなく登っていった。
 2度目のマウナケア山への登頂であった。
 未舗装道路を過ぎて再び舗装道路を走り,山頂の手前の広場に着いたので一旦車を停めて外に出ると,満天の星であった。月が明るいとはいえ,それでも日本の新月のころの空よりもずっと暗かった。外は思ったほど寒くもなく,ジャケット1枚着ただけで十分だった。
 再び車に乗り込んでそのまま山頂まで走って行くと,天文台は観測の最中であった。コンピュータやら空調やらがゴーゴーと音を立てていて,巨大なドームがなにかものすごく威厳のあるものに思え,身震いした。
 やがて空が次第に白んできて,星の数がひとつまたひとつと少なくなってきた。そして,ついに空に見えるのは月だけになってきた。夜明けの風景は見慣れていたが,なにせここは標高4,000メートルを越える山の山頂であったから,雲海が眼下に見えた。
 そのころになると,時折,日の出を見るためなのか車が昇ってくる。
 いよいよ夜明けが近くなってきた。

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●これほどすばらしい夕日を●
 ケアラケクア湾に着くと船が停泊した。まだ日が沈むには早いので,ここに停泊してゆっくりと食事をするのである。聞こえるのは波の音とハワイアンミュージックのライブ演奏だけであった。
 これほどすばらしい時間があるだろうか。
 私はこの旅でも天気に恵まれ,たいして下調べもしなかったのにとても充実した日々を過ごすことができた。そして,ほとんど思い入れもなかったハワイにすっかりハマってしまったのだった。

  ・・・・・・
 ケアラケクア湾はハワイの発見者となったジェームス・クック船長が不慮の死を遂げた場所である。白亜の記念碑は,そのクック船長を悼むものである。
 1728年生まれのジェームズ・クック(James Cook)は,イギリスの海洋探検家であった。通称キャプテン・クック という。一介の水兵から,英国海軍の勅任艦長(Post Captain) に昇りつめた。
 太平洋に3回の航海を行い,オーストラリア東海岸に到達,ハワイ諸島を発見し,自筆原稿による世界周航の航海日誌を残し,ニューファンドランド島とニュージーランドの海図を作製した。
 彼は10代を石炭運搬の商船船員として過ごした後,1755年に英国海軍に水兵として志願し,七年戦争に加わった。船員としての能力を認められたクックは1757年に士官待遇の航海長に昇進し,英国軍艦Solebay号の航海長としてセントローレンス川の河口域を綿密に測量し海図を作成した。
 やがて,クックは南方大陸探索の命を受けて,英国軍艦エンデバー号を指揮し1766年に第1回の航海に出帆,多数の地域を正確に測量し,いくつかの島や海岸線をヨーロッパに初めて報告した。
 しかし,第3回航海の途上にハワイ島で先住民との争いによって1779年に落命した。
  ・・・・・・

 やがて,船は再びハワイ島の西海岸を北上しはじめた。それとともに夕日が美しく海に輝き始めた。
 日没は沈む直前よりもその少し前の景色が最も美しい。そして沈んでしまった直後から何も美しくなくなってしまう。面白いことに,夜明けはその逆で,日が昇るまでが格段に美しく,一旦太陽が地平線から昇り切ってしまうと,まったく美しくもなくなってしまうのだ。
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 私は普段でもよく星を見に行くので,夕方や明け方の空の美しさは見慣れているつもりだが,ハワイは別格であった。この日の日没がさらに格別だったのは,水平線までまったく雲や靄がなかったことであった。そこで,太陽が完全に海に隠れるまでをしっかりと見届けることができたのだった。
 これほどすばらしい夕日を見たのは記憶にない。ああ,本当に来てよかったと,こころから思った。

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●食事は焦らずとも豊富にあって●
 やがてサンセットクルーズの出港時間が近づいてきたので,私はカイルアピアの集合場所へ行った。
 アメリカ本土は違って,ハワイは今だに日本という国の存在感があって,中国人を見るのはまれであり,日本語も幅を利かせている。このクルーズに乗船したのも,私のほかには,家族で来ていた日本の人とモンタナ州から来たというお年寄りの女性の団体など,そういう人たちであった。ずうずうしく人を押しのけ大きな声を張り上げ場の雰囲気を台なしにする中国人の団体客がいなかったことだけでも,このクルーズが楽しいものになるのが予感できた。

 このような夕食つきサンセットクルーズはアメリカ本土でもいろんなところで実施されていて,どこもとても楽しい。私は,数年前に行ったバーモント州のバーリントンでシャンプレイン湖(Lake Champlain)のサンセットクルーズに乗船してすばらしい経験をしたのを思い出した。
 こういったときのクルーズ船はたいてい1階と2階に座席があって,通常みなオープンデッキの2階に行くのだが,このクルーズでは,1階にビュッフェ形式の食事が並べられていたので,2階に座った乗客はそれをとるために階下に降りる必要があった。また,1階の客席ではハワイアンミュージックのライブ演奏がはじまっていた。

 この日は非常に天気がよく,すばらしいクルーズになった。これをお読みになってこのクルーズに参加したいと思われる方がぜひ思えておくとよいことがたったひとつある。それは,座る座席の位置である。
 このクルーズは,カイルアピアを出港してハワイ島の西の海岸を南下していくのだが -そうそう,これを書きながら気がついたが,ハワイ島でのサンセットクルーズは西海岸だからこそできることだからカイルアコナに宿泊する以上,これに乗船しないという選択肢はない- 南下していくときはまだ日が高く見どころは地上の景色であるから,地上を見ることができる側に座るべきなのだ。
 この船はコナ南部のケアラケクア湾(Kealakekua Bay)まで南下していってその湾に停泊して日没の時間まで時間待ちと食事をする。そして,そこでUターンをして北上を開始して夕日が沈むのを見ながらカイルアピアに戻ってくるので,今度は日没の見られる側に座るべきなのだ。
 つまり,つねに同じ側,進行方向に向かって左側に座らないといけないということなのだ。

 話は脱線するが,アメリカ本土でMLBを見るとき,アメリカは夏時間なのでナイトゲームといっても日没は8時過ぎになるし,デーゲームならなおさらのこと,太陽の直射日光を受けない座席を選ばないといつも直射日光にさらされるから,とんだ悲劇が訪れる。つまり,こうしたクルーズでもMLBの観戦でも,座席を選ぶときに最も考慮しなくてはいけないのは太陽の方角だということである。

 船は,ガイドさんが吹く,古式ゆかしい笛の音とともに出港して,西海岸沿いを進んでいった。
 海岸に沿った景色にはすべて詳しい説明があるので,ハワイ島の歴史などもよくわかって,とても楽しいものであった。そのうちに,1階で食事の準備ができたという放送があったので,それをとるために2階の乗客は降りていったのもだから,ビュッフェにはすごい列ができてしまった。私は,せっかくのどかな船旅なのに食事をするのにこんなに並ぶ必要があるのかと気が重くなったが,それははじめのうちだけのことであった。
 そんなに焦らずともゆっくりと構えていれば十分なのであった。食事はたっぷりと用意されていて,そのうちにビュッフェにはだれも列を作らなくなったのだった。
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 やがて,ケアラケクア湾に着くと船が停泊した。

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●ハワイ島の歴史が味わえる町●
 潜水艦ツアーを終えて,私は地上に戻ってきた。
 まだ午前中であったが,今日の残りの予定は夕方からのサンセットクルーズだけであった。たまにはこういう日があっても悪くない。
 この旅行記で書いているハワイは2016年の3月に行ったものだが,私は,この年の夏にはアメリカの東海岸に行ってきた。今これを書きなからハワイを思い出すと,同じ国だというのにこれほどの違いがあるのか,ということだ。東海岸のすさまじいほどの車の洪水や人々の多忙さに比べると,ハワイは本当にのどかでいいところだ。しかし,ここに住んでみると,行くところは限られるし,アメリカ本土や海外に行くのもけっこう大変だ。
 アメリカでも東海岸に住んでいる人に聞いてみると,ハワイというのは日本からハワイよりも遠いようなのだ。 
 だから,ハワイというのは,日本から年に一度くらい行くところであって,住むところではないのかもしれない。

 この日は,サンセットツアーまでのずいぶんの時間,私はカイルアコナを歩き回ったり,車に乗ってハワイ島の西海岸をドライブしたりした。
 そこで,今日はカイルアコナの紹介をしてみよう。
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 潜水艦ツアーやサンセットクルーズが出発するこのカイルアコナの埠頭を「カイルアピア」という。
 カイルアピアは,1918年に牛の積み出し用の埠頭として建造された。このこカイルアピアでは毎年10月に行われるトライアスロン世界選手権と毎年夏に開催されるハワイアンインターナショナルビルフィッシュトーナメントが行なわれるのだそうだ。
 カイルアピアの西側にはハワイの平和,農耕,繁栄の神である「ロノ」に捧げて建立された「アフエナヘイアウ」がある。「アフエナヘイアウ」はカメハメハ大王専用の別荘であったが,現在,アフエナヘイアウは復元されて,シュロで作られてた屋根の家と木製の像「キイ」が建てられている。また,このアフエナヘイアウに隣接したキングカメハメハズコナビーチホテルの敷地はカメハメハ大王の王宮跡である。
 このホテルの外には大きな売店があったので,私はそこで昼食を買ってカイルアピアを見ながら食事をとった。

 次に,カイルアピアから左手に行くと,広い緑に庭があって,その庭にある白い建物が「フリヘイパレス」であった。ここは1838年に2代目の総督であったジョンアダムズクアキニ(カメハメハ大王の妻カアフマヌ王女の弟)が自分の個人的な屋敷として建てたものである。彼の死後,ハワイ王家の別荘となり,1925年にハワイが購入して博物館として現在に至っている。
 私は,入場料を払ってこの建物を見学した。
 外はとても暑かったが,クーラーの効いた室内はとても涼しく,窓からは太平洋が美しく眺められた。非常に丁寧な説明があって,しばらく充実した時間を過ごすことができた。ちょうどこの日は結婚式が行われるということで,庭では食事の準備が忙しそうに行われていた。

 フリヘイパレスからアリイドライブをさらに進んでいくと,私がこの日の朝に行ったモクアイカウア教会がある。
 1820年4月14日,ハワイ最初のキリスト教宣教師がカイルア湾に到来した。カメハメハ大王の長男リホリホ大王自身はキリスト教に改宗しなかったが,他の宗教を認めここにハワイで最初のキリスト教会の建設を許可しこの地を与えたのだ。
 この教会は溶岩とサンゴを砂と珊瑚のモルタルで繋ぎ合わせ建てられ,教会内の信徒席の長椅子と説教壇はハワイ原産のコアの木で作られた。また,112フィートの高さの尖塔はコナ地区で最も高い建築物となった。
 再び中に入って,サデアス号とよばれた宣教師たちの船が展示されているのを見ることができた。
 教会を出た後,一度ホテルに戻って,車で海岸線を南に走ってみた。この道は海岸線から離れた高台を走っているので,周りには多くのコナコーヒーのプランテーションを見ることができた。
 このプランテーションでは見学や試飲ができるということなので,私はカイルアコナの最終日に行ってみることにして,この日はホテルに戻ってきた。

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●海底30メートルへ●
 私の乗ったのは「アトランティス」という潜水艦であった。
 このツアーを運航しているアトランティス・サブマリーン社は世界8か所でこうしたツアーを実施しているということだが,ハワイでは,オアフ島,マウイ島,ハワイ島で同じようなツアーがあるので,オアフ島でこのツアーに参加した人も多いかと思う。
 潜水艦とはいっても観光用のもので,48人乗り,半数ずつが分かれて相対して座り,窓越しに海を眺めるというものである。沖合に停泊している潜水艦の上部に入口があって,そこからひとりずつ乗り込むのだがかなり入口が狭くて,大きなバックパックを背負っていると中に入れない。
 ヘッドセットをつけて説明を聞くようになっていて,日本語も選べるのだが,私があてがわれたヘッドセットはまったく音が出なかったから,これは意味がなかった。ヘッドセットなどなくとも,室内では大きな音で(もちろん英語で)説明が流れていた。もし,日本語しかできない人がこの日本語のヘッドセットを渡されたらどうするのだろうと思った。

 カイルアコナの沖合いには25エーカー(約3万坪)にわたって天然のサンゴ礁が生育しているという。この広大な天然サンゴ礁は18,000年前に海に流れ込んだ溶岩の堆積物の上に生成したもので,我々が潜った水深35メートル前後の海中にはこのサンゴの海に多種多様な海洋生物が生息しているので,それほど深くない海でも窓から外をみると変化に富んでいて,なかなか面白いものであった。
 きっとスキューバダイビングをすれば,こういう姿を自由に見ることができるのだろう。私はまったくの素人であったが,少しもぐっただけで,水族館とかにいる熱帯魚そのものが泳いでいるのにはびっくりした。また,海の中は,かくも変化に富んだ場所なのだということを初めて認識した。

 潜水艦は海底付近を静かに「進んで」いく。いや,ずいぶんと「進んで」いるような気がするが,実際はシャトルボールと周りをぐるりと一周しているだけであろう。
 途中に,船が2隻沈んでいた。沈んだ船のなかや周りは魚の住処になっていて,多くの種類の魚が群れをなして泳いでいた。大きな魚は一匹でその存在があるが,小さなものは,群れをなすことでそれと対抗しているのは,人間社会と変わるものではない。
 沈んが船をよく見ると,マストに骸骨が括り付けられてあった。
 いったいこれはなんだ?
 船は沈むときに船長はその船と運命を共にするのだとどこかできいたことがある。昔,太平洋戦争のミッドウェイ開戦を取り扱った映画があって,そのなかに,船長が沈む船に自分を縛り付けるシーンを見て,子供心にそれがおそろしかったのを私は思い出した。
 しかし,ここの骸骨は完全な観光用なのである。船も沈んだのではなくて,魚の住処として沈められたものなのであった。
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 パンフレットによると,このツアー,ワイキキで実施されているものは私の乗った潜水艦よりも大きい64人乗りのもので,窓がずいぶんと大きいのだという。また,マウイ島では,12月から4月ころまでは,シャトルボートの上から,あるいは,潜水艦からもクジラの姿を見ることができるのだそうだ。

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●コナコーストにまた朝がきた●
☆5日目 4月2日(土)
 翌日の朝になった。
 アメリカに行くと,到着した日の晩は時差のためにぐっすりと眠れない。何度も目が覚めるのだ。なんだかよくわからないまま2日目がきて「もう二度と来るものか」という後悔の念にさいなまれるのである。地獄の苦しみである。そして3日目の朝がくる。
 おもしろいもので,眠ろうと思わなくとも極限まで眠たくなるとなんの問題もなく眠れるのだ。さすがに2日目の夜ともなるとぐっすりと眠ることができるので,ついに3日目の朝からはバラ色の日々がやってくる。
 私は普段も5時間睡眠で生活していて朝は4時過ぎには起きているので,時差ぼけというのはほとんど感じないのだが,それでもこうなのだから,きっと若い人は時差ぼけの克服が大変かもしれまない。

 そんな到着直後の寝不足状態で車の運転をするのはやはりずいぶんと不安になる。アメリカでの車の運転は単調な道路ばかりだかりだから,そうでなくても眠くなる。この眠気を抑えるのにはコツがある。
 そのコツというのは冷たい水を飲むということで,冷たくないとだめなのである。だから,コンピ二でペットボトルに入った水を買っても意味がなく,大きなカップに氷をたくさん入れてそこに水や清涼飲料を注ぎ込んだものが必要となる。アメリカのコンビニだと,自分でコップに氷と清涼飲料を入れてレジで精算するという方法でこれを入手するのが手っ取り早い。あるいは,ソフトドリンクがお代わり自由のマクドナルドで,店から出るときにお代わりして持って出るのがいい。
 コップ(といっても日本のものよりかなりでかい)に入っていれば運転中にストローで飲むこともできるし氷だけをなめてもかなりの効果がある。
 飴やらガムはあまり意味がない。私は,ときどきガムを噛みながら運転することもあるが,これはガムがやめられなくなるだけで,実際はほとんど意味がないように思う。

 さて,この日はすでには5日目だったから,私は絶好調であった。それに加えて,この旅ですでにやりたいことをすべてやってしまったという満足感もあって,私としてはめずらしくまったりモードの1日となった。
 潜水艦で海の底に行くというツアーは,カイルアコナの桟橋に送迎用の船が来て,そこから海に停泊している潜水艦まで行くというものだったので,その桟橋に集合すればよかった。何事もそうなのだが,アメリカでのこうしたレジャーは,大げさな看板とかがまったくなく,集合場所といってもなんの表示もない。申し込んだときにそういわれるだけだ。だから本当にここにいればいいのかな,と思いながら待っていると,やがて,同じツアーに参加する人がだんだんと集まってくるという感じになる。
 この潜水艦ツアーは,日本語のパンフレットにも紹介されていて,あるいは日本の旅行代理店のパンフレットにも記載があるが,そのどのツアーを予約しても,私が参加したのと同じツアーである。潜水艦など,そうたくさんあるものではないからこれは1社独占である。
 ハワイ島には,ほかにもマウナケア山星空観察ツアーをはじめ様々なツアーがあるが,そうしたツアーは1社独占でないから,玉石混交で値段もずいぶんと違う。一般に,日本の代理店が紹介するものは,前にも書いたように「日本語」ということだけでずいぶんと高額であるが,この潜水艦ツアーのように,単に現地ツアーを斡旋しているだけのものも少なくない。
 どんなツアーを選ぶか? 旅というのは究極の知恵比べなのである。

 私は,集合時間よりもずいぶんと早かったので,ひとまず,このツアーを企画しているお店に立ち寄ってみた。そこで今日のツアーを申し込んだという話をしたら,ずいぶんと親切に対応してくれて,日本語のパンフレットもくれた。
 集合時間までまだ早く,特にすることもなかったので,朝のコナコーストを散歩した。さすがに早朝ではどこもまだお店は開いていなかったので,町のランドマークになっているモクアイカヴア教会(Mokuaikaua Church)に行ってみた。この教会は1823年にハワイで最初に建てられたキリスト教の教会で,白亜の外壁と尖塔が特徴であった。

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●本当にこの島は最高だった。●
 食事を終えたころには太陽はすっかり沈んでいたが,カイルナコアはムード満点であった。ここは大きなビルがあるではなく,人が多いわけでもなく,落ち着いた,それでいて,魅惑に満ちた場所であった。人はそれぞれ,適当な店でお酒を飲んだり食事をしたりしていた。
 私は,たいしてして何も調べず期待もせず,単に日本人だらけのオアフ島を避けて,マウナケア山があるというだけでハワイ島に来て,マウナケア山への星空観察ツアーの出発点がヒロでなくカイルアコナだということで,コナコーストに適当なホテルを探して予約しただけのことだったが,ここは,最高の場所だったのだ。

 数日前までアメリカ合衆国東海岸の旅行LIVEを書いていたのでお読みいただいた方もあると思うが,実はその前にこのハワイ島に行ってしまったがために,私は,その旅ではこれ以上の場所を見いだせなくなっていたのだった。
 10年以上前に行ったときはあれほど感動したフロリダ半島の最南端キーウェストだって,ハワイ島に比べてしまったらまるで勝ち目はないのだった。

 私はお酒を飲んだわけでもないから酔ってはいなかったが,この雰囲気にすっかり気持ちだけ酔ってしまい,そのままホテルに戻らず,明日の予定を立てるために,1軒の観光案内所に入っていった。
 そこには,ハワイ島を観光するためのさまざまなツアーのパンフレットが並んでいた。私はカウンタにいた男性に,明日1日この島を楽しむためのツアーを紹介してほしい,と告げた。せっかく目の前に海があるのだからそれを味わいたのだが,残念ながらシュノーケリングはできないと言った。そこで紹介されたのが,潜水艦で海の底へ潜るというツアーと夕日を見にハワイ島の海に出るクルーズであった。
 これで明日の予定は完璧だと思ったから,私はさっそくそのふたつのツアーを予約した。
 このようにして,明日,私は1日中ハワイ島のまわりに広がる広く美しい海に魅了されることになったのだった。

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