しない・させない・させられない

Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.

USA50州・MLB30球場を制覇し,南天・皆既日食・オーロラの3大願望を達成した不良老人の日記

カテゴリ: 「感想」

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 グスタフ・マーラ―の交響曲第3番は,演奏時間が約100分もあり,当時,世界最長の交響曲といわれました。私がこの曲をはじめて知ったときは,確か「夏の朝の夢」といった表題があったようですが,現在は聞きません。これだけ長いのに,もともとはもう1楽章あって,割愛された楽章は次の交響曲第4番の第4楽章となったそうです。
 はじめに第2楽章から第6楽章までが作曲されて,最後に第1楽章が書き上げられたようです。

 この第1楽章は,高貴な雰囲気でもなく,特に美しいわけでもなく,私は,ちょっと長すぎるのでは,と思います。表現は悪いのですが「だらだらと」続いてしまうので,ちょっとうんざりします。そして,これだけ長いと,ぬるい温泉につかりすぎた感じになってしまい,それを冷ますのにずいぶんと手間がかかるのです。逆にいえば,先に作曲された第2楽章から第6楽章まで,というか,もともとは第7楽章までの前座を担うには,これだけの長さが必要になってしまったのかもしれません。
 井上道義さんは,第1楽章だけでお疲れになって,この楽章が終了したところで,座り込んでしまい,最後まで演奏できるのかな? と私は心配になりました。
  ・・
 口に水を含みなんとか立ち上がったマエストロが,だれかが思わず拍手をしたのを制して,静かに第2楽章がはじまりました。
 交響曲第3番は,第4楽章と第6楽章が聴かせどころだと私は思うのですが,第4楽章をはじめの見せ場にするには,第2楽章と第3楽章が必要なのでしょう。どちらかなくてもいいかな,と考えても,第2楽章の次に第4楽章があったら変だし,第2楽章を省略して第3楽章では,やはり,うまくないです。先に書いたように,長大な第1楽章の熱さましをするには,第2楽章と第3楽章が必要になってしまうのです。
 いずれにしても,マーラーは,このあたり,音楽をどこにもって行けばいいのか迷いさまよっている感じがして,この交響曲で一体何がいいたいのかな,何を表現したかったかな,という疑問が,私には起こります。

 しかし,そんな疑問は第4楽章で吹き飛びます。交響曲第3番は,第4楽章からが魅力的です。ここでは
  ・・・・・・
 O Mensch! Gib Acht!
 Was spricht die tiefe Mitternacht?
 „Ich schlief, ich schlief –,
 Aus tiefem Traum bin ich erwacht: –
 Die Welt ist tief,
 Und tiefer als der Tag gedacht.
 Tief ist ihr Weh –,
 Lust – tiefer noch als Herzeleid:
 Weh spricht: Vergeh!
 Doch alle Lust will Ewigkeit –,
 – will tiefe, tiefe Ewigkeit!“
  ・・
 おお人間よ! 注意して聴け!
 深い真夜中は何を語っているのか?
 「私は眠っていた
 深い夢から私は目覚めた
 世界は深い
 昼間が思っていたよりも深い
 世界の苦悩は深い
 快楽-それは心の苦悩よりもさらに深い
 苦悩は言った。滅びよ!と
 だが,すべての快楽は永遠を欲する
 深い永遠を欲するのだ!」
  ・・・・・・
と,アルトが歌うのですが,これは,ニーチェ(Friedrich Nietzsche)の「ツァラトゥストラはこう語った」(Also sprach Zarathustra)の第4部第19章「酔歌」の第12節「ツァラトゥストラの輪唱」から採られたものです。
 これを歌った林眞暎さんが本当にすばらしかった!

 そして,第5楽章ですが,ここでは一転して,児童合唱が鐘の音を模した「ビム・バム」を繰り返し,アルトと女声合唱が
  ・・・・・・
 Es sungen drei Engel einen süßen Gesang,
 Mit Freuden es selig in dem Himmel klang,
 Sie jauchzten fröhlich auch dabei,
 Daß Petrus sei von Sünden frei.
  ・・
 3人の天使が美しい歌をうたい
 その声は幸福に満ちて天上に響き渡り
 天使たちは愉しげに歓喜して叫んだ
 ペテロの罪は晴れました!
  ・・・・・・
と歌うという,ユニークなものです。この歌詞は,交響曲第4番につながっていきます。
 このように,交響曲第3番は,交響曲第2番で「復活」しちゃったのを第4楽章で終結させて,第5楽章で交響曲第4番で天国に昇天させるための橋渡しとしているのでしょう。そのために子供たちと女性の声が必要なのです。男性の声があると,天国よりも地獄,ショスタコービッチの「バビ・ヤール」になってしまいます。

 いよいよ,最後の第6楽章。
 交響曲第3番は,この第6楽章ですべてが救われます。Langsam. Ruhevoll. Empfunden. (ゆるやかに安らぎに満ちて感情を込めて)とありますが,実際は「アダージョ」。
 この楽章の美しさと神々しさは,筆舌に尽くしがたいものです。そして,マーラーの音楽の数々のすばらしい「アダージョ」のなかでも,第3番の第6楽章は癒しの「アダージョ」であり,真骨頂です。井上道義さんは,こうしたメロディアスな楽曲を指揮すると,本当にいい。

 今回はじめての,すみだトリフォニーホールと新日本フィルハーモニー交響楽団でした。外に出ると,スカイツリーが迫ってきます。このホールは,規模的にもホールの形状もウィーンの楽友協会に似ていて,同じような響きがしました。ただし,それがホールのせいなのか,オーケストラのせいなのか,私の席のせいなのか,専門家でないのでわかりませんが,今回の演奏では,弦と管のバランスがちょっと悪かったです。というか,管が昭和時代のオーケストラのようでした。私は,管をもう少し抑えたほうがいいように感じました。
 何はともあれ,美しかった第6楽章で,長い長い交響曲のすべてが報いられました。そして,いつものように,今回もまた,井上道義さんのスタンディングオベーションがいつまでもいつまでも続きました。

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 名古屋フィルハーモニー交響楽団とのブルックナーの興奮も冷めやらぬ2024年3月9日,今度は,すみだ平和祈念音楽祭2024として,すみだトリフォニーホール大ホールで,アルトの林眞暎(まえ)さんを迎えて,井上道義さんが新日本フィルハーモニー交響楽団を指揮する,マーラーの交響曲第3番を聴いてきました。林眞暎さんは,2023年11月18日に,同じく井上道義さんが指揮をした読売日本交響楽団の演奏会でマーラーの交響曲第2番「復活」ですばらしい歌声を聴かせた人です。
 私は,新日本フィルハーモニー交響楽団も,すみだトリフォニーホールもはじめてでした。このような演奏会がなければ,そのような機会はなかったことでしょう。墨田区というととても遠い印象ですが,すみだトリフォニーホールはJR錦糸町にあって,東京駅からほんのわずかな距離で,私がよく行くNHKホールのある渋谷区とはまったく異なる,下町情溢れる場所でした。また,新日本フィルハーモニー交響楽団は,1972年に,小澤征爾さんと山本直純さんの掛け声の下,楽員による自主運営のオーケストラとして創立したもので,ここでもまた,小澤征爾さんの偉業がひとつ,世に残りました。私は,そのころのいきさつをよく知っています。そうした経緯もあって,当時,山本直純さんが司会をする「オーケストラがやってきた」というクラシック音楽啓蒙のすぐれた番組があって,新日本フィルハーモニー交響楽団が出演していたのですが,このごろは,テレビでは見る機会もめっきりなくなりました。

 今回の曲目であるマーラーの交響曲第3番,私はよく聴くのですが,生演奏を聴いたのは,どうやらはじめてのことでした。この交響曲は,第6楽章まであり,というか,もともとは第7楽章まで構想されていたということですが,第1楽章だけでも30分と,通常の交響曲ほどの長さがあるから,全体はものすごく長く,しかも,途中に女性のソロがあり,その後で合唱が入りというように,この時期のマーラーがやりたかったことを全部入れ込んだ,そんな感じがする大曲です。しかも,第1楽章,そして,急にけだるくなる,でも,優美な第2楽章,第3楽章,そして,アルトが歌う第4楽章を,子供たちがステージ上で何もせず座り続けるのも大変で,一体どうやって演出するのか? という問題もあり,演奏会で実演するのは,大変な曲に思っていました。
 しかし,私には,その大きさとは反対に,地味で,というか,軽く,第2番「復活」の思い入れのある深いテーマの交響曲や,天国の快楽を愉快に奏でる第4番の間にあって,その存在感が希薄なのです。交響曲第2番で,「蘇らせてしまった」マーラーが,このあと,一体何を奏でたいのだろうか? と聴きながら思ってしまうわけです。第2番を彷彿とさせる第4楽章が異質ですが,全体として,この曲は,次に何がくるか,その展開が予測でき,しかも,予測通りに展開するので,気分がよく,聴いていてさわやかで疲れないのです。

 今回は,第3楽章の終わりのところで,林眞暎さんと子供たちが音もなくステージに姿を現すという粋な演出で,一体どうやって演出するのか? という私の謎は解けました。
 感想は次回書きますが,私が最も印象に残ったのは,最終楽章である第6楽章の美しかったこと。この曲を作曲のは1895年から1896年なので,マーラーが35歳のときと,まだ若いのですが,私は,この楽章が,交響曲第5番の有名な第4楽章アダージェットや最後の完成作となった交響曲第9番の第4楽章につながるものだと思いました。静謐感に満ちた美しい楽章こそ,マーラーの,最も優れたものだと,私は,いつも思います。そして,引き込まれてしまうのです。

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 奇妙な風貌で興味をもった神奈川フィルハーモニー管弦楽団と京都市交響楽団でコンサートマスターをする石田泰尚さんが率いる13人の弦楽グループ「石田組」。どういうものだろうかと単なる好奇心で,2023年8月6日に,愛知県芸術劇場コンサートホールで行われたコンサートに行きました。その時は,こうしたコンサートははじめてだったので,とまどいもあり,よくわからなかったこともあって,今回,2024年3月3日に,今度は,アクトシティ浜松大ホールでコンサートがあるというので,再び聴いてきました。
 13人というのは,毎回,そのメンバーが代わっているということです。今回は,東京都交響楽団の団員さんが多数いました。また,13人といえば,「最後の晩餐」(L'Ultima Cena)と同じ人数ですが,これと関係があるのかないのか? 石田泰尚さんがイエス・キリストで,残りの12人が弟子。ならば,ユダは?
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 イエス・キリストは12人の弟子たちとともに食事をしていました。すると突然,イエスは12人の弟子たちに「あなたがたのうちのひとりが私を裏切ろうとしている」と言いました。ペテロがヨハネにそれが誰なのかを尋ねて欲しいと言い,ヨハネはイエスに尋ねました。そこでイエスは「わたしと共に鉢に手を浸した者がわたしを裏切る」と答えました。その時鉢の中に手を浸していたのがイエスとユダだったため,裏切り者がユダであることが明るみになり,ユダはその場を飛び出して行きました。
 その後,イエス・キリストは,パンを取って,賛美の祈りを捧げてパンを割いて弟子たちに与えながら「皆,これを取って食べなさい。これはあなた方のために渡されるわたしの体だ」と言いました。また,杯をとって感謝の祈りを捧げると「皆,これを受けて飲みなさい。これはわたしの血の杯,あなたがたと多くの人のために流されて,罪のゆるしとなる。新しい永遠の契約の血」と弟子たちに与えて言いました。
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 今回の曲目は,第1部がシベリウスのアンダンテ・フェスティーヴォラター,ホルストのセントポール組曲,ラターの弦楽のための組曲,そして,第2部がバルトークのルーマニア民俗舞曲,C・M・シェーンベルクの「レ・ミゼラブル」メドレー,ローリング・ストーンズの悲しみのアンジー ,レッド・ツェッペリンの天国への階段,クイーンのボーン・トゥ・ラブ・ユー,そして,アンコールでした。
 「石田組」というのは,その仕掛け人がしたたかで,どうすれば,大衆を動員できるかを知っているのでしょう。だから,石田泰尚さんという優れたヴァイオリニストをカリスマにして,大衆受けをする音楽を並べて,ヴァイオリンでどれだけロックが演奏できるか,というような試みで,多くの人が集まるのです。おそらく,多くの観客は,クラシック音楽ファンとは無縁の人たちでしょう。
 だかといって,優れた演奏家を集めて,小難しいクラシックの曲目を演奏しても,人は来ないのです。これがクラシック音楽の興行の難しい問題なのです。しかし,私は,それとは逆に,第2部よりも第1部の曲目のほうがよく知っているから,話になりません。それに,いくら演奏が上手でも,私は,こうした曲には感動しないのです。それは,「石田組」のせいではなくて,私が場違いだったというだけのことですが,結論からいえば,ちょっとがっかりしました。今回のコンサートを聴きながら,私は,小さなホールで,ショスタコービッチの弦楽四重奏曲を聴きたくなりました。

 アクトシティ浜松大ホールは広すぎ,観客が多すぎ,しかも,設計が古く,座席が狭く,入口の階段は混み合い,カーテンコールで写真撮影もできない,というように,音響は優れているかもしれませんが,音楽を楽しむ雰囲気にまるで欠けていました。私はもう2度と行かない。そして,会場内は,例えれば,すてきな時間を過ごそうと思って,ちょっと高級なしゃれたカフェに行って中に入ってみたら,おばさんたちが大量にいて,話に夢中でうるさくて仕方がなかった,そして,自分の居場所がまるでなかった,というようなときに味わう感じと同じでした。
 それに,私は,この前日に,井上道義さんの指揮する,すばらしい演奏会に行ったばかりで,その余韻が残っていたので,これもまた,影響しました。エスプレッソのコーヒーを味わった後で,甘いコーヒー牛乳が出てきたような…。
 まあ,そんなわけですが,わざわざ出かけた浜松で,結局,並んでまでして,昼食で浜松餃子を食べることができたのだけが救いでした。そして,帰りの電車まで時間があったので,夕食の代わりに,浜松駅の構内の,私以外にだれもいなかった店で食べた立ち食いそばがものすごくおいしかったこと。

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 ブルックナーの交響曲は,マーラーの交響曲に比べれば,形式は古典的なので,わかりやすいです。しかし,それぞれの楽章がかなり複雑で,つねに煮え切らず,だらだらとしていて,次にどんなメロディーがくるのか予測不能なところがあります。まるで,ぐずぐずしているモテない男のようで,女性にブルックナーが苦手,という人が多いのも納得がいきます。
 特に,第5番はそうした煮え切らなさが顕著です。
 私が,これまで第5番をほとんど聴かなかったのもそんな理由からでした。しかし,今回,はじめてまともに聴いてみて,こりゃすごい,ということがやっとわかりました。

 第4番は自然の中を彷徨しているような感じがするのですが,第5番は古びた荘厳な教会を思わせます。奥まったところは暗く,不気味です。
 マエストロ井上道義は,この重厚な交響曲の第1楽章を,ゆっくりめのテンポでありながら重くならず,指揮をしていきました。第2楽章が緩徐楽章で,第3楽章がスケルツオというのは,ブルックナーの第7番までの流儀で,第8番と第9番は,ベートーヴェンの第9番と同じように逆になっています。
 この第5番の緩徐楽章の美しかったこと! まさに,井上道義さんが名フィルとの決別を惜しむかのように聴こえました。そして,第3楽章は,スケルツオとはいいながら,これはメヌエットでもあり,井上道義さんお得意の踊る指揮,ダンスが見られました。
 第1楽章と第4楽章は,同じようにはじまります。まず,これが驚きです。そして,第4楽章は,第1楽章,第2楽章,第3楽章の旋律が出てきてはそれが否定されながら,盛り上がっていくので,伏線回収,ベートーヴェンの交響曲第9番をほうふつとさせます。しかし,これまでの楽章を否定したところで,だから,歓喜の旋律が出てくるのかと,期待しても,何も起きないのです。これこそが,煮え切らないブルックナーなのです。
 しかし,何も起きずとも,これまでの旋律が複雑に絡み合いながら巨大な建築物ができ上って行くのです。そんな第4楽章の盛り上がりが見事でした。

 マエストロ井上道義は第5番をはじめて指揮をしたということなので,演奏し慣れた曲のような,力の入れ方や聴かせどころのツボはわかっていないと思うのですが,それがいい効果を生んでいました。曲の最初から最後まで緻密な演奏だったのです。
 私は,来週は東京で,マエストロ井上道義のマーラーの第3番を聴くことになるのですが,こちらは指揮し慣れたものです。この対比が,いまから楽しみです。

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 2024年3月2日,豊田市コンサートホールで井上道義さんが指揮する名古屋フィルハーモニー交響楽団の特別演奏会が行われたので聴いてきました。これは,井上道義さんが名古屋フィルハーモニー交響楽団を指揮するラスト・コンサートで,曲目は, モーツァルトの歌劇「ドン・ジョヴァンニ」序曲とブルックナーの交響曲第5番でした。なお,「ドン・ジョヴァンニ」序曲は,豊田市ジュニアオーケストラとの合同演奏でした。
 このところ,井上道義さんの追っかけをやっているような感じになっていて,つい先日は東京のNHKホールでショスタコービッチの「バビ・ヤール」を聴いたばかりですが,今回はブルックナーです。演奏会のチケットは発売早々に手に入れたのですが,満員札止めとなっていました。私はこの日をとても楽しみにしていました。
 ブルックナーの交響曲は,ブルックナー指揮者という名前で語られるように,齢を重ねたマエストロに似合います。これまでにも,多くのすばらしい歴史的な演奏がありました。しかし,井上道義さんは,特にブルックナー指揮者という感じではなく,多くの作曲家の作品を取り上げています。そんなマエストロが,果たして,ブルックナーをいかように? と興味がありました。

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 ブルックナーの交響曲の中で,第5番は第8番と並んで規模の大きなものです。対位法の技法が活用されていて,音の横の流れを多層的に積み重ねて,壮大な音の大伽藍を築き上げていることに特徴があります。
 第5番は,第4番を完成させた翌年,ブルックナー51歳の1875年に作曲に取りかかり,紆余曲折ののち,1878年に完成しました。しかし,初演の機会に恵まれず,交響曲第8番完成後の1894年になって,ようやく初演されました。すでに老齢であったブルックナーは立ち会うことができませんでした。そして,ブルックナーが亡くなったのは,その2年後のことでした。
  ・・・・・・
という解説が載っています。

 私は,ブルックナーの交響曲の中では,第4番を最も好んでいて,第5番を聴くことはまれでした。ブルックナーの他の交響曲とは少し趣が異なっているなあ,と思っていたくらいのものでしたが,実は,これまで,根を詰めて聴いたことがないのです。昨年10月,NHK交響楽団の定期公演で,マエストロ・ブロムシュテッドがこのブルックナー交響曲第5番を取り上げるということだったので,そのときに勉強しようと思っていたのですが,演奏会は中止となってしまい,その機会を逸していました。
 さらに実は,何と,井上道義さんがブルックナーの交響曲第5番を指揮したのは,これがはじめてだったという話でした。本当かな? 引退を前にして,やりたいことはみんなやる,という感じでしょうか。
 そんなわけで,私には,とても刺激的な演奏会でした。
 感想は,次回。

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 NHKBSで放送がはじまった「舟を編む〜私,辞書つくります〜」がおもしろいです。
 あらすじは
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 元読者モデルで出版社編集部員の岸辺みどり。担当していたファッション誌の廃刊が決まり,突然辞書編集部への異動を言い渡されてしまう。みどりを待ち受けていたのは,超まじめな上司・馬締光也をはじめとする,クセの強いメンバーたち。
 彼らは一冊の辞書「大渡海」編さんのために,並々ならぬ情熱と十数年にわたる歳月をかけていた。
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というものです。
 「舟を編む」は三浦しをんさんの原作で,2011年に単行本が発売されました。そして,その2年後に映画化もされて,私は,当時,原作も読んだし,映画もみました。
 原作とそれに基づく映画は
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 「玄武書房」の社員たちが,「大渡海」という広辞苑レベルの中型事典の編纂にかけた10年以上もの作業と,その間に起こった人間模様を描く。
 大学院で言語学を学んだがコミュニケーション能力ゼロの若手社員馬締光也が,辞書作りを通して,コミュニケーションの大切さを知り,体現していく。
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というもので
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 時は1995年。「玄武書房」の辞書編集部では,編集者の荒木が,定年と妻の病気を理由に部署を去ろうとしていた。荒木に代わる編集者として見つけたのが,大学院で言語学を学んだオタク風のコミュニケーション力など皆無の馬締。馬締に「右という言葉を説明してみろ」と言うと、ぼそぼそと「西を向いたとき北に当たる方」と答える。彼の言語感覚に感心して,馬締を辞書編集部に引き抜く。
 それから13年後,ファッション誌の編集部にいた岸辺みどりという若い編集者も加わり,翌年の3月に決定した「大渡海」の出版は,最後の確認作業に学生アルバイトもたくさん雇ってごった返していた。
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 という内容だったので,今回のドラマは,主人公を岸辺みどりとして,原作からちょうど13年後の姿を描こうとしているのかもしれません。

 はじまったばかりなので,ドラマがどのように進展していくかは知りませんが,第1回の放送で私が興味をもったのが,「なんて」という言葉でした。ドラマでは,岸辺みどりが「なんて」の意味を悟る場面で三省堂の「大辞林」の解説が効果的に使われていました。
 私は,手元にあった三省堂の「新明確国語辞典」と,もっとも信頼している岩波書店の「国語辞典」を引いてみたのですが,何も書いていない,というほど,内容に乏しいもので,がっかりしました。
 これでは埒が明かないので「ChatGPT」に聞いてみましたが,これがすばらしいものでした。そこで,さらに,「ChatGPT」にいくつかの文章を英訳してもらうことにしました。これもまた,すばらしいものでした。もう辞書「なんて」いらないなあ,と思いました。
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 実は,私は,これまで,「新解さんの謎」をきっかけとして,国語辞典にはかなり興味をもっていて,こだわりもあったのですが,この13年という月日は,それを変えてしまったようです。つまり,辞書「なんて」引かなくても「ChatGPT」に聞いたほうが早く,かつ,おもしろいのです。

 今の時代,スマートフォンの普及で,一時,一眼レフカメラの存続が危ぶまれました。今は,それぞれの役割分担が次第にわかってきて,何とか共存をしているようです。また,将棋AIが開発されたことで,将棋界は,はじめは不正疑惑などもあって迷走をしていたのですが,藤井聡太という新星が現れたこととと相まって,それをうまく活用することで,あらたな顧客を生み,今のところ,とりあえずは共存に成功しています。
 また,昔は,どの家庭にも百科事典というものが存在していましたが,今や,死滅してしまいました。辞書はそれとは若干異なるものでしょうが,それでも,多くの人にとっては,辞書もまた,同じでしょう。
 辞書の在り方を真剣に考えないと,今後は,百科事典と同じく,死滅の道をたどることになるのかもしれません。私は,そのことの方に興味があります。

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 2024年2月17日,大西順子さんが愛知県の東海市芸術劇場大ホールでソロピアノコンサートを行うというので,聴いてきました。客席は満員でした。

 惜しくも,2024年2月6日に亡くなった小澤征爾さんですが,私が今でも印象に残っているのが,2013年に行われたサイトウ・キネン・フェスティバルです。
 2013年のサイトウ・キネン・フェスティバルは,8月12日から9月7日まで10公演が行われたのですが,その最終日9月6日を飾ったのが, 小澤征爾さんが指揮をしたガーシュウィンの「ラプソディー・イン・ブルー」を,サイトウ・キネン・オーケストラと大西順子トリオが共演したものです。これは,2012年夏,突然の引退宣言をした大西順子さんでしたが,小澤征爾さんの猛烈な誘いに負け,一夜限りの復活とし出演を決めたものです。そして,小澤征爾率いるサイトウ・キネン・オーケストラと大西順子トリオの共演は,大きな話題となりました。
 小澤征爾さんは,2010年に大病を患ったのですが,この公演は,その後に行われたものです。
 私は,公演の様子をテレビで見ましたが,それはそれはすばらしいものでした。そして,そのときに私が知ったのが,大西順子さんでした。今回のコンサートの中で,大西順子さんがそのときの共演についても話していたのですが,観客の中で何人がそれを知っていることか?
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 1967年生まれの大西順子さんは,ジャズ・ピアニストです。渡米し,ボストンのバークリー音楽院に学び,その後,ニューヨークに移り,アップタウンのジェシー・デイヴィス・クインテットのレギュラー・ピアニストとして活動しました。
 日本へ帰国後は,バークリー時代の仲間とトリオを結成,ニューヨークの名門ジャズ・クラブヴィレッジ・ヴァンガードに,日本人としてはじめて自分のグループを率いて出演しました。
 以降,活動中止や再開を繰り返し,2015年に,何度目かの活動再開をしました。
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 私は,ジャズには疎く,また,大西順子さんも,先に書いたサイトウ・キネン・フェスティバルの放送でしか知らないので,これはまさに,将棋のルールも知らないのに,藤井聡太八冠の将棋を観戦するのと同様に,「豚に真珠」「猫に小判」「馬の耳に念仏」でした。はじめのうちは,現代音楽を聴いているような感じに思えて,正直かなり苦痛でした。
 しかし,次第にわかってきて,楽しくなりました。
 クラシック音楽のピアノとは違って,ジャズのピアノは,即興を旨とするのですが,それは,ベートーヴェン以前,協奏曲のカデンツァを演奏者が即興で演奏していたのを拡大したようなものです。そこで,オリジナルをどのように奏者が変化させ創作するのか,というのが腕の見せどころとなるわけで,いかにして聴き手を引き込んでいくのかが聴かせどころです。
 残念ながら,私は,そのオリジナルをも知らないのだから,話にならないのですが,それでも,次第に,次にどう来るか,ワクワクして聴けるようになってきました。そして,こりゃすごい,と思うまでになりました。偉いものです。
 今回もまた,私が長年味わうことがなかった感動をひとつ手に入れることができました。

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 2024年2月3日のNHK交響楽団第2004回定期公演Aプログラム,曲目はヨハン・シュトラウスII世のポルカ「クラップフェンの森で」,ショスタコーヴィチの舞台管弦楽のための組曲第1番-行進曲」「リリック・ワルツ」「小さなポルカ」「ワルツ第2番」,交響曲第13番「バビ・ヤール」(Babi Yar)でした。
 指揮は井上道義さん,歌はバスのアレクセイ・ティホミーロフ(Alexey Tikhomirov)さん,そして,オルフェイ・ドレンガル(Orphei Drängar)男声合唱団でした。今回が,2024年末で引退を表明している井上道義さんのNHK交響楽団との定期公演出演の最後となります。
 今回の定期公演の目玉はなんといっても,井上道義さんお得意のショスタコーヴィチから,交響曲第13番「バビ・ヤール」です。私は,演奏会では,はじめて聴きました。
 ショスタコービッチには15曲の交響曲があります。第2番「十月革命に捧げる」,第3番「メーデー」,第11番「1905年」,第12番「1917年」は聴いたことがなく,また,聴きたいとも思いませんが,それ以外の11曲は聴きごたえがあります。特に,私は交響曲第15番が大好きなので,ショスタコービッチ独特の響きは琴線に触れ,歌詞がわからずとも大丈夫です。それに,交響曲第13番「バビ・ヤール」は5楽章形式でわかりやすく,楽しめます。
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 それにしても,今年度のNHK交響楽団定期公演Aプログラムは,楽しみにしていた指揮者ヘルベルト・ブロムシュテッドさんとウラディーミル・フェドセーエフさんが来日できないというように受難続きであったことと,マーラーの交響曲第8番「一千人の交響曲」をはじめとして,なじみの薄い過酷な曲が続きます。私には,定期会員でなければ,チケットを買うこともないような曲目ばかりで,こんな機会でもなければ,聴くこともないから,それはそれで是としましょう。
 せっかくなので,今回は改めて勉強して,何度も録音を聴いてから出かけました。

 交響曲第13番「バビ・ヤール」は,エフゲニー・エフトゥシェンコ( Yevgeny Yevtushenko)の詩によるバス独唱とバス合唱つきの5つの楽章からなっていて,第1楽章の標題である「バビ・ヤール」をこの交響曲の通称とします。歌詞はロシア語だし,なじみの薄い曲なので,翻訳を見なければさっぱりわかりません。
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●第1楽章「バビ・ヤール」
 「バビ・ヤール」に墓碑銘はない」(Nad Babim Yarom pamyatnikov nyet)という暗くおどろおどろしい独白からはじまり,ユダヤ人の迫害や恐怖の歴史を歌い,反ユダヤ主義をナチス・ドイツに絡めて非難し,弔いの鐘が鳴り続けます。
●第2楽章「ユーモア」
 「王様や権力者たちはすべてを支配したいのだろうけれどユーモアだけは支配出来ない」(Vlastiteli vsei zemli, Komandovali paradami, No yumorom, no yumorom ne mogli)と歌います。ショスタコービッチが1942年に作曲した「イギリスの詩人による6つの歌曲」(6 Romances)の中の「処刑台の上で踊り出すマクファーソン」(Makferson pered kazn’ju)のダンスが使われています。
●第3楽章「商店で」
 「レジの列に立ちっぱなしで体が冷える。女たちはすべてに耐えてきた!」(Zyabnu, dolgo v kassu stoya, Vsyo oni perenosili)と、ロシア名物の行列と女性の忍耐強さを歌います。
●第4楽章「恐怖」
 「ロシアで恐怖が消えてゆく」(Umirayut v Rossii strakhi)と歌います。「密告の恐怖」や「外国人と話す恐怖」が登場します。
●第5楽章「出世」
 「ガリレオは常識外れだ。だが,時の流れが証してみせた。常識外れこそがほんとうは賢い」(Shto nerazumen Galilei, No, kak pokazyvayet vremya, kto nerazumnei, tot umnei)と歌います。
 力なく微笑むような不思議な脱力感のあるコーダで曲は消えていきます。チェロ協奏曲第2番,交響曲第15番と共通するショスタコービッチお得意のフィナーレです。
  ・・・・・・
 交響曲第13番「バビ・ヤール」は,舞台中央にバスがひとり,その背後に男だけの大合唱がユニゾンで,「ユダヤ人」とか「虐殺」を連呼し,ロシアにおける「恐怖」や「不条理」や「死後の出世」を歌うのです。

 ベートーヴェンの交響曲第9番で「人類は皆兄弟」(Alle Menschen werden Brüder)と歌うのも,マーラーの交響曲「大地の歌」で「春になれば花は咲き新たな緑は萌えてくる,永遠に…永遠に…」(Die liebe Erde allüberall Blüht auf im Lenz Ewig... ewig...)と歌うのも,そして,ショスタコーヴィッチの交響曲「バビ・ヤール」で「バビ・ヤールに墓碑銘はない」と歌うのも,創造主が何かの間違いで地球上に作ってしまった愚かな人間が,その英知とやらを振り絞って,かなえられない願望や,あきらめや,そして,懺悔などを音楽で表わしているのです。そして,それらが受け入れられ人々に感銘を与えるのは,人間の性(さが)と自分の力ではどうしようもない現在の世界情勢を反映しているからです。
  ・・
 今回の演奏会は,満員の観客のそのほとんどが知らないロシア語で語られる歌を約1時間延々と聴かされて,それでも,女性の声が聞こえるのなら救いがあるけれど,バスと男性だけの大合唱では,まったく救いがない曲だ,と思いました。
 私は,ふと我にかえったとき,狂気の中にいるような錯覚を覚えました。そして,どんなに演奏がすばらしくとも,いや,すばらしければすばらしいほど,これは音楽をはるかに超えて,人を大虐殺する人間の恐ろしさとそうした社会に生きなけらばならない恐怖を感じて,切なくなりました。

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 2024年1月21日,愛知県稲沢市の稲沢市民会館で「NEWYEAR2024洋と和の弦楽CONCERT~新春ストリングスの祭典~」が開催されたので,聴いてきました。出演は,ゲストコンサートマスターとして石田泰尚さんを迎えた「Durare Chamber String Ensemble」という名古屋の弦楽合奏団と「べべん~BEBEN~」という国内トップクラスの9人の三味線奏者が新たな音楽シーンを創造する邦楽ユニットでした。
 第1部は「べべん~BEBEN~」による津軽三味線の演奏,第2部が「Durare Chamber String Ensemble」による弦楽器の演奏で,その中に1曲,クラリネットが加わりました。
 第1部の津軽三味線の演奏,私は,先日,弘前市に行ったときに津軽三味線の演奏を生で聴いて,その音色に感動したこともあって,とても楽しめました。津軽三味線は,弦楽器の要素に打楽器の要素が加わっていて,人間の鼓動に直接訴えます。いかにも日本の楽器です。
 また,第2部の弦楽器の演奏は,曲目がポピュラーなものだったこともあり,ゲストコンサートマスターが石田泰尚さんということもあり,石田泰尚さんのすばらしい高音の音色に,今回もまた,すっかり聴き惚れました。

 名古屋市内のプレイガイドなどでは,チケットは完売だったらしいのですが,当日の入りは半分くらいで空席が目立ちました。チケット,もっと卸さなないと…。
 私も偶然稲沢市のLINEで知っただけで,危うくこのコンサートを知らずに終わるところでした。これでは宣伝が下手です。おそらく,行きたいけれど知らなかった,という人も少なくないと思われます。これだけのすばらしい演奏,もっと多くの人に聴いてもらわないとちょっともったいないです。
 いずれにしても,今回のコンサートは少数の石田泰尚さんおっかけもいましたが,地方都市で行われる催しでは,こうしたコンサートにほとんどなじみのないという人も少なくなさそうでした。このような楽しく気軽に聴くことのできる演奏会に接する機会があるのは悪くないものだと思いました。
 「べべん~BEBEN~」の人たちはずいぶん工夫を凝らしていましたが,「Durare Chamber String Ensemble」も,もっと初心者向けの何かしらの解説やら何らかの楽しい趣向があってもいいのになあ,と思いました。せめて団員さんの紹介だけでも。せっかく石田泰尚さんが来ているのに…。
 クラシック音楽はいくらいい演奏でも,なじみのない人には敷居が高いです。NHK交響楽団でもそうしているのだし,せめてカーテンコールは写真撮影OKにするとか。今や,何事もイケイケの時代。コロナ禍以前のような殿様商売ではいけません。お客さん呼びたければ宣伝しなきゃ。SNSで口コミがかけるようにしなきゃ。

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 2024年1月13日,上野の森美術館で開催されている「モネ 連作の情景」(Claude Monet: Journey to Series Paintings)を見てきました。
 以前の私は,モネとマネの区別すらつかなかったのですが,このごろ,やっと,その違いがわかってきました。その違いは,すでに書いているように,1840年生まれのモネは印象派の巨匠,1832年生まれのマネは近代美術の巨匠で,曰く「モネがマネのまねをした」とか何とか…。
 2020年1月8日にコート―ルド美術館展に行って,マネの傑作「フェリー・ベルジェールのバー」(Un bar aux Folies Bergère)を見て痛く感動しましたが,これがマネです。一方,モネはなんといっても「睡蓮」(Les Nymphéas)で,モネの絵を模した「モネの池」なるものがいろいろな場所にあります。モネは「睡蓮」というブランドで客寄せができるのです。

 さて,今回の「モネ 連作の情景」は,「印象派」の誕生から150年目を迎えることを記念して開催され,国内外40館以上のクロード・モネ作品を厳選して展示するもので,期待して出かけました。
  ・・・・・・
●モネの連作絵画に焦点を当てた展覧会 
 モティーフの一瞬の表情や風の動き,時の移り変わりに着目したモネは,同じ場所やテーマを異なる天候,異なる時間,異なる季節を通して描き,「連作」という革新的な表現手法により発表しました。
 この「連作」に焦点を当てながら,時間と光とのたゆまぬ対話を続けた画家の生涯を辿ります。
●100%モネ!! 展示作品のすべてがモネ
 日本初公開となる人物画の大作「昼食」を中心にした「印象派以前」の作品から「積みわら」や「睡蓮」などの多彩なモティーフの「連作」まで,「100パーセントモネ」の贅沢な展覧会です。
  ・・・・・・
 ということだったのですが…。

 コロナ禍以前の美術展は,人だらけで,作品を見るよりも人の頭を見にいくようなものでしたが,ここ数年は,入館制限もあって,非常に落ち着いた中で鑑賞することができました。
 今回は,そこまではムリだとしても,人数制限もあるから,マシだろうと思ったのですが,さにあらず。作品を見るよりも,人の頭を見るだけのものでした。こんな状況では,「連作」を見比べることも能わず,モネの絵画に描かれた光を味わうこともできず,何も感じませんでした。土曜日の午後,というのが失敗でした。これは美術展ではありません。人数制限などあってないようなもので,たくさん人を入れて入場料で稼ごうとするだけの魂胆です。これでは,もう,東京で開催される美術展は,行く気が起きません。平日の早朝に大阪展へ行くほうが少しはマシか?

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 2024年1月13日に行われたNHK交響楽団第2001回定期公演Aプログラムは,指揮がトゥガン・ソヒエフ(Tugan Sokhiev)さんで,前半の曲目がビゼー(シチェドリン編)のバレエ音楽「カルメン組曲」(Georges Bizet / Rodion Shchedrin Carmen Suite, ballet)後半の曲目がラヴェル(Maurice Ravel)の組曲「マ・メール・ロワ」(Ma mère l’Oye,suite(Mother Goose))とバレエ音楽「ラ・ヴァルス」( La valse, ballet)でした。
 私は,フランス音楽は苦手ですが,指揮者がお気に入りのトゥガン・ソヒエフさんということと,これらの曲目なら大丈夫,ということで,期待して聴きにいきました。

  ・・・・・・
 トゥガン・ソヒエフさんは1977年にロシアのウラジカフカス(Vladikavkaz)に生まれました。2022年,愛する母国がウクライナに侵攻したことに心を痛めて,ボリショイ劇場(the Bolshoi Theatre)とトゥールーズ・キャピトル劇場管弦楽団 (the Orchestre national du Capitole de Toulouse)の両方のポストを辞任したことで,男を上げ,以後も世界中から引く手あまたの指揮者です。
  ・・・・・・
 今回の曲目は,近代フランス音楽の「バレエ上演された」管弦楽曲の特集です。
  ・・
 バレエ音楽「カルメン組曲」は,ロシアの作曲家ロディオン・シチェドリン(Rodion Shchedrin)が妻でバレリーナのマイヤ・プリセツカヤ(Maya Plisetskaya)のためにバレエ版へ編曲したものです。この曲は,弦楽と4群の打楽器から成っていて「カルメン」の「運命の動機」を要所に出現させて,それがまあ,とても子気味いいのです。
 ちょっと長いかな,とは思いましたが,打楽器奏者が多くの打楽器を手を変え品を変え,弦楽奏者の後ろを動き回るのが愉快というか,大変というか。これは一見に値します。後日放送されるテレビでの映像が興味深いです。また,多くの打楽器がすべて弦楽器奏者の後ろ管楽器の前に配置されていたために,この曲の終了後のわずか20分の休憩でステージの配置を変更するのがかなり大変そうでした。
  ・・
 組曲「マ・メール・ロワ」はピアノ連弾組曲をバレエ化したものです。シャルル・ペロー(Charles Perrault)の「教訓付き昔話-マザーグース(マ・メール・ロワ) の話」から「眠りの森の美女」をバレエの筋書の中心に据えて,そこに前奏曲や間奏曲などを挿入し生まれた作品です。定期公演でたびたびこの曲は取り上げられていて,私は何度も聴いたことがあるのですが,この曲もまた,とても新鮮に聴こえました。
  ・・
 そして最後がロシア・バレエ団の興行主ディアギレフ(Sergei Diaghilev)から委嘱され作られた「ラ・ヴァルス」。
 「1855年ごろのウィーンの皇帝の宮殿」から「うずまく雲の切れ目からワルツを踊る男女たちの姿がときおり垣間見える。雲が少しずつ晴れてきて,輪を描きながら踊る人々であふれかえる広間が見える。次第に舞台は明るくなり,シャンデリアの光が燦然と煌めく」(Through rents in swirling clouds, couples are glimpsed waltzing. The clouds disperse little by little: one sees an immense hall peppered with a whirling crowd. The scene is gradually illuminated. The light of the chandeliers bursts forth at fortissimo.)という想定です。
 ラヴェルがワルツに見出していたのは,根源的な「生きる喜び」ということだそうで,トゥガン・ソヒエフさんは,うってつけの指揮者でした。

 トゥガン・ソヒエフさんの指揮は,音楽を体で表現するというもので,体の動きに従って魔法のようにオーケストラから音楽が紡ぎ出されるので,まさに,バレイ音楽には適任。第2000回の「一千人の交響曲」の次の第2001回がバレー音楽なんて粋な組み合わせでした。
 楽しかった。

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 今日の写真は,オーストリア・バーデンのベートーヴェンが第九の構想を練った散歩道です。
 ベートーヴェン作曲交響曲第9番ニ短調作品125「合唱つき」。これを聴かずして年が越せない,という人もあり,お祭り好きの国民性もあり,必ず集客が見込めるのでオーケストラのお金儲けもあり,毎年暮れ,日本中でこの曲が鳴り響きます。
 私が「第九」を聴き通したのは,紅白歌合戦とやらが午後9時からはじまっていた子供のころ,その前に午後7時45分から午後9時まで,当時は教育テレビといった現在のEテレで岩城宏之指揮のものを見たのがはじめてでした。そのときは,1時間も越すような曲があることにまず驚きました。
 その後,若いころは,毎年,地元名古屋フィルハーモニー交響楽団の第九演奏会に毎年のように行っていたのですが,ある年の第九があまりに退屈で,単にオーケストラがノルマを果たしているだけのコンサートのように思えて,それ以来,行くのをやめました。今は,実際に聴きにいくことはまれです。しかし,NHKFMとNHKEテレで放送される「N響第九」は,かれこれ50年以上必ず見ています。

 このごろは,よほど行きたいと思う指揮者のときにNHK交響楽団の第9演奏会に行こうと毎年思っているのですが,なかなかそういう気になることもなく,最近私が第9演奏会に行ったのは,2015年のパーヴォ・ヤルヴィ指揮と2016年のヘルベルト・ブロムシュテッド指揮でした。
 昨年は,井上道義指揮で,行こうかどうしようか迷った結果,都合がつかなくてやめました。
 今年の指揮は下野竜也さんでした。ホームページには
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 正攻法のアプローチで音楽に無類の生気や躍動感をもたらす日本屈指の実力者。年末のN響第9初出演となる意欲と楽団の厚き信頼度を反映した清新かつ濃密な名演が期待される。
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とありました。N響正指揮者となったことを記念しての抜擢だと思いますが,私は今年もまたその気にならず,足を運びませんでした。ところが…。

 下野竜也さんは,去る11月26日に名古屋フィルハーモニー交響楽団と第九を指揮したのですが,そのときのXに「下野マエストロの「第九」解釈はとてもユニーク!(でも思いつきではなくしっかりとした根拠があります)」とあったことで少し興味をもちはじめました。
 そして,12月31日のEテレでの放送。
 毎年のように,はじめは何となく見ていたのですが,そのうちに,引き込まれていきました。すべてが特別な策を講じるわけでもなくあえて奇をてらうわけでなく,きちんとしているのです。これがとても小気味いい。そして,第4楽章でソリストがうたいはじめたとき,私は度肝をぬかれました。
 特に,ソプラノとメゾ・ソプラノ。
 こりゃ,オペラのアリアだ,と思いました。第九でこれほどの独唱を聴いたことがありませんでした。そこで,調べてみると
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●ソプラノ・中村恵理
 新国立劇場オペラ研修所を経て,2008年英国ロイヤル・オペラにデビューし注目を浴びる。
 2010年から2016年にはバイエルン国立歌劇場のソリストとして専属契約を結び,多くの作品で主要キャストを務める。(中略)様々な公演で絶賛を博している。
●メゾ・ソプラノ・脇園彩
 東京藝術大学を経てイタリアに留学し,ミラノ・スカラ座研修所などで研鑽を積む。
 2014年ペーザロのロッシーニ・オペラ・フェスティバルで,イタリアでのオペラ・デビューを果たし,以後イタリアを中心に活動。
  ・・・・・・
とありました。私は,はじめて知る名前でしたが,そういえば,脇田彩さんは,少し前のNHKラジオ深夜便に出演されていました。
 それ以来,私は「下野竜也の第九」にハマってしまい,毎日のように何度も録画を見ているのですが,こんなことははじめてです。2011年にスクロヴァチェフスキー指揮の第九をよほど聴きにいこうと思ったけれどやめたことを今も後悔していますが,2023年の第九もまた,聴きにいかなかったことを,今になって後悔することになりました。

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 大河ドラマ「平清盛」を続けます。
 第15回「嵐の中の一門」で,常盤御前が登場しました。常盤御前は源義経の母です。
 私は,子供のころ,よく京都の鞍馬寺に連れていってもらったので,そこで,「義経背比べ石」というものを身近に見ていました。また,市バスが五条大橋を渡るので,「京の五条の橋の上,大のおとこの弁慶は長い薙刀ふりあげて,牛若めがけて切りかかる。牛若丸は飛び退のいて...」という歌があることを聞いて,牛若丸と弁慶という名を知りました。しかし,そうした知識は童話的であり断片的でした。1993年に放送された大河ドラマ「炎立つ」で,源義経が東北の藤原三代に匿われたことが取り上げられていて,どうしてこの地に源義経が関わっているのか? と驚いたことすらありました。
 また,旧中山道を関ヶ原宿から柏原宿まで歩いていたとき,途中に「常盤御前の墓」があって,これもまた驚きました。どうしてここに常盤御前?
  ・・・・・・
 1138年(保延4年)生まれの常盤御前は, 近衛天皇の中宮・九条院(藤原呈子)の雑仕女でした。
 雑仕女の採用にあたり,藤原伊通の命令によって都の美女千人を集められ,その百名の中から十名を選んだ中で,聡明で一番の美女であったといいますが,これもまた,「平清盛」で描かれました。
 やがて,源義朝の側室になり,今若,乙若,牛若を産みました。
  ・・・・・・

 第28回「友の子,友の妻」では,源頼朝の助命と常盤御前について描かれています。
  ・・・・・・
 平治の乱で捕らえられた源頼朝が平家盛の幼いころに姿が似ていたことから,母の池禅尼が哀れんで清盛に頼朝の助命を訴えたとありますが,ドラマでは,これをもとにしています。
 また,常盤御前は子供たちを連れて雪中を逃亡したのち,平清盛の元に出頭し,子供たちが殺されるのは仕方がないことだけれども,子供たちが殺されるのを見るのは忍びないから先に自分を殺して欲しいと懇願しましが,その様子と常盤御前の美しさに心を動かされた平清盛は源頼朝の助命が決定していたことを理由に,今若,乙若,牛若を助命しました。「義経記」や「平治物語」では,平清盛が常盤御前によしなき心を抱き,子供の命を盾に返答を強要したという内容が記されています。
 その後については、侍女と共に源義経を追いかけたという伝承があり,常盤御前の墓とされるものは岐阜県関ケ原町をはじめ,各所にあります。 
  ・・・・・・
 源頼朝や常盤御前の生んだ子供たちの命が救われたことが,やがて,平家滅亡につながるので,このあたりをうまく描く必要があります。でないと,ドラマは成立しません。「平清盛」では,こうした資料をもとにして,うまく物語が作られています。

 さて,平清盛に助命を認められた今若,乙若,牛若は,それぞれ別の寺院に送られました。
 今若はのちの阿野全成,乙若はのちの義円,そして,牛若がのちの源義経ですが,彼らの姿は「鎌倉殿の13人」にうまく描かれています。
 無知な私は,源義経については知っていましたが,阿野全成と義円が源義経の実の兄弟ということすら知りませんでした。
 このように,「平清盛」を見てから,改めて「鎌倉殿の13人」を見ると,まさに,伏線回収。その奥深さにのめり込むことになりました。これでまた,日本各地を旅する楽しみが増えたというものです。

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 第10回「義清散る」では,佐藤義清なる人物が詳しく語られるのですが,「佐藤義清=西行法師」だなんて,私には「何だ,そうならはじめにそう解説してくれよ」という感じでした。そう知っていればずいぶんと想い入れもできるのですが,知らずに見ていてもそれがわかりません。
 旅をしていると,吉野山の西行庵をはじめとして,西行法師ゆかりの場所がいろいろなところにあるのですが,私は,これまで,西行法師は和歌の達人,というイメージしかありませんでした。これを機会に調べてみると,もっともっとドラマのある人物でした。
 佐藤義清以外にも,「平清盛」では,明子,時子といった平清盛の妻や,鳥羽天皇の中宮皇后・待賢門院璋子(たいけんもんいんたまこ),美福門院得子(びふくもんいんなりこ)といった女性が出てきますが,もともと女性の顔の違いが認識できず,みな同じ顔に見えてしまう私にはすぐには区別がつきません。また,待賢門院璋子の子である崇徳天皇は顕仁(あきひと)という名だし,後白河天皇も雅仁(まさひと)だし,美福門院得子の子である近衛天皇は躰仁(なりひと)ですが,幼名だけで語られても,一度では理解不能です。せめて「後の〇〇天皇」といった字幕でもあればいいのですが…。

  ・・・・・・
  ながからむ 心も知らず 黒髪の 乱れて今朝は ものをこそ思へ
    待賢門院堀河
  身を捨つる 人はまことに 捨つるかは 捨てぬ人こそ 捨つるなりけれ
    西行法師
  ・・・・・・
というような,佐藤義清と待賢門院璋子の関係を暗示して,効果的に取り上げられている和歌も,この和歌を知ってはいても,こんなシチュエーションで詠まれたのか! と驚きました。いや,実際は,そんなシチュエーションで詠まれたものではないでしょうが,そんなシチュエーションを思い起させる歌だということでしょう。
  ・・
 「ながからむ 心も知らず 黒髪の 乱れて今朝は ものをこそ思へ」は百人一首にある歌ですが,これは待賢門院璋子が詠んだものではなく,待賢門院璋子に出仕した待賢門院堀河が詠んだものですが,いずれにしても,関わりがあるのです。そう学べば,学生時代,百人一首の勉強にもう少し身が入ったものを,高等学校で習う百人一首は,参考書には文法については必要以上に詳しく書かれているのに,それを詠んだ人物や時代背景にはほとんど記述がありません。もし,その時代や人と人との関りを知っていれば,さぞかしおもしろかったのになあ,と悔しい思いをしました。
 このように,「平清盛」は,一度見るだけではわからないことが多いので理解不能ですが,時間のある今,何度も見直したり,わからないところは徹底的に調べながら見ていると,それがまあ,奥が深いドラマだ! ということがわかり,とても興味深いのです。また,真実かどうかは別として,その時代の逸話をさまざまな古文書から探し出して,それらをドラマの中にこれだけ多くちりばめられているのもすごいものだと感服しました。

 将棋の棋力がない人が難解な藤井聡太八冠の将棋の本当のおもしろさが理解できないように,このドラマを評価するには,ものすごく多くの知識が必要なのでしょう。そうでないのに,容易に批判するのは,自分が無知であるということを吹聴し,天に向かって唾を吐くようなものです。脚本家はそれをすべて計算づくで,浅学のあなたにはわからないんでしょう,とほくそ笑み,批判する人を値踏みしながら優越感に浸っていたのかもしれません。
 一方,現在は過保護な時代で,また,視聴率を気にするあまり大衆に媚びを売っています。大河ドラマでは,さまざまな関連番組が放送されたり,解説本が出版されたり,ドラマの冒頭でもていねいなあらすじの説明がありと,無知な私が見ても,理解不能ということはないのですが,以前は,そうではありませんでした。
  ・・
 話は飛躍します。
 こうしたドラマに限らず,リヒャルト・ワーグナーのオペラや,シェイクスピアの劇など,人類の財産ともいえる多くの芸術は,「平清盛」とは比べられないほど,もっと難解で,多くの知識がなければ,理解できません。それでも,それを評価し,楽しんでいる人がいるわけです。私はそれがとてもうらやましいです。せっかく生まれてきて,人類の財産である芸術作品のよさを味わえる能力さえ身についていないて,人生はなんと短いこと!

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 昨年,隠岐諸島に行ったとき,知夫里島で,文覚上人の墓,というものを見て以来,文覚上人なる人物に興味が湧いたことから,NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で市川猿之助さんが演じた文覚上人をまた見たくなりました。そこで,保存していた総集編を見直してみのですが,まったく出てきませんでした。そこで,「鎌倉殿の13人」の全話を見るにはどうしたらいいか,と思っていたら,NHKオンデマンドで見ることができるということがわかったので契約して,やっと見ることができました。
 文覚上人を登場させなくても,「鎌倉殿の13人」という物語は成り立つのでしょうが,脚本を書いた三谷幸喜さんが,その時代について調べているうちに,文覚上人は非常に興味をもった人物であるらしく,また,大河ドラマは真実を描いていない,などという学者気取りの人をあざ笑っているかのように,それをおもしろおかしくドラマに取り入れていたのが,脚本家の矜持というものでしょう。大河ドラマは歴史を題材としたあくまでドラマであって,でないと,単に受験勉強用の学校の歴史教材になってしまいます。
 せっかく契約したのだからと,NHKオンデマンドに存在する他の番組を調べていたら,「鎌倉殿の13人」以外にも過去の大河ドラマが多数存在していました。そこで,今日は,そんな過去に放送された大河ドラマのお話です。

 私がはじめてNHK大河ドラマにはまったのは,1973年に放送された「国盗り物語」でした。
 それ以来現在まで,最後まで見たもののあれば,途中で断念してしまったものもあります。途中で断念してしまったものには,つまらなかったものと,本当は興味があったけれど難しくてわけがわからなくなってしまった,というものがあります。そうしたもので,私がずっと気になっていたのが「勝海舟」「平清盛」「義経」の3作でした。
 「勝海舟」は,総集編だけ存在していてそれを見ることができました。総集編では物足りなかったのですが,とにかく,流れはわかりました。「義経」は,現在,NHKオンデマンドでは見ることができません。現在,すべてを見ることができるのは「平清盛」でした。
 私は,日本の歴史で,戦国時代と幕末にはすごく興味があったのですが,平安時代末期のことはそれほど興味もなく,大学受験で必要だった知識以外,ほとんど知りませんでした。「鎌倉殿の13人」も,放送する前はまったく興味がなかったのですが,見ているうちに引き込まれて,この時代に興味がわいてきました。
 「平清盛」は,主役が「どうする家康」でユニークな演技をしていた松山ケンイチさんということもあり,「鎌倉殿の13人」と今年放送される「光る君へ」の間の時代を描いたものということもあり,「平清盛」をきちんと見てみることにしたのですが,それがまあ,おもしろいこと!

  ・・・・・・
 「平清盛」は,2012年に放送された51作目のNHK大河ドラマです。
 平清盛の生涯を中心に、壇ノ浦の戦いまでの平家一門の栄枯盛衰を,源頼朝の視点を通して描いたものです。
 第1回から父・平忠盛が亡くなる第16回までが第1部,平清盛が平氏一門の棟梁となった第17回から保元の乱と平治の乱を経て公卿となった平清盛が嚴島に経典を納める第30回までが第2部,その後の第31回からが第3部です。内容豊富,ボリューム満点のドラマです。
  ・・・・・・
 このドラマは,放送当時,かなり不人気でした。その一方で,一部の人たちにはものすごく評価の高いドラマでした。私は,視聴率,などというものはどうでもよく,他人が見ようと見まいと,人気があろうとなかろうと,人は人で,どうでもいいのですが,それよりも,自分が興味があるのにわからない,ということが悔しかったのです。
 改めて見ると,このドラマが不人気だったのは,画面が汚いなどということを言った人がいるとかいないとかですが,実は,難しすぎたから,ということを再認識しました。このドラマを理解するには,山川出版社の「詳説日本史」なる高等学校の教科書程度の知識では不十分であり,書かれていないことばかりなのです。そもそも,この時代は,教科書程度の知識でも,保元の乱,平治の乱が,源と平の対決といった単純なものではなく,利害関係が複雑に入り交じっているし,人物の名前も似たようなものばかりだったので,受験勉強をしていたころの私は,さっぱりわかりませんでした。

 このドラマは,院政といって,白河天皇が幼少の子供に皇位を譲り法皇となって権力をほしいままにしているところからはじまります。次の堀河天皇は若くして亡くなったのでドラマ「平清盛」には出てこず,次のその鳥羽天皇がその不安定な地位に格闘しているというのが第1部です。
 第1部では,平清盛は白河法皇の落胤だった? とか,鳥羽天皇の本当の父は白河法皇だった? とか,崇徳天皇の父も鳥羽天皇ではなく白河法皇だった? とか,そのように伝わっている逸話などが取り入れられています。
  ・・・・・・
 「平家物語」の語り本系の諸本は,白河法皇の寵愛を受けて懐妊した祇園女御が忠盛に下賜されて,平清盛が生まれたとしています(=白河院落胤説)。また,読み本系の延慶本では,平清盛は祇園女御に仕えた中﨟女房の腹であったというように書いています。
 崇徳天皇は鳥羽天皇と中宮・待賢門院璋子(たいけんもんいんたまこ)の第1皇子ですが,「古事談」には,崇徳天皇は白河法皇と待賢門院璋子が密通して生まれた子であり,鳥羽天皇も実父は祖父・白河法皇で,崇徳天皇を「叔父子」とよんで忌み嫌っていたという逸話が記されています。
  ・・・・・・
 こういう逸話を取り入れてドラマが作られているので,大河ドラマは史実に忠実でない,と批判する人がいたわけのですが,それが真実であろうとなかろうと,歴史の授業であるまいし,歴史を題材とした作り話,でいいじゃないか,と私は思います。このほうがおもしろいし,人間の本音を露骨に描くことができます。
 以下,次回に続きます。

◇◇◇


◇◇◇
ISS.

2024年1月6日午前5時39分。
月齢23.9の月と金星の間を横切る国際宇宙ステーションです。
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「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

💛
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 今回は,NHK交響楽団定期公演の第2000回記念ということなので,ある意味,お祭りです。どれだけのお客さんがマーラーの交響曲第8番「一千人の交響曲」を理解して足を運んでいるのかは知りませんが,もちろん満員で,私が座っている2階席後方のあたりは,いつもはほどんど誰もおらず快適なのに,この日だけは,ぎっしりと座っていて,窮屈に感じるほどでした。
 ベートーヴェンの交響曲第9番は,合唱があってもその意味をつかむのは容易です。マーラーの交響曲第2番や第4番,また,「大地の歌」も同様です。また,これらの交響曲には音楽だけの部分も多く,音楽の美しさにも惹かれます。しかし,交響曲第8番「一千人の交響曲」はそうはいきません。確かに,規模が大きくて,話題性に事欠かないにせよ,この曲は,ほとんどが意味のわからない声楽ばかりで,こうしたコンサートでもない限り,私は聴きたいと思うようなものではありません。
  ・・
 交響曲第8番「一千人の交響曲」は,他のマーラーの交響曲とは異なるものです。大仰なのです。
 先日聞いた交響曲第2番も大仰ですけれど,それはそれで,若気のいたりというか,情熱というか,そういうものを感じて,とっつきやすいのです。第3番は第2番にくらべたら,二番煎じの感じがしないでもないけれど,この曲もまた,聴きにくいものではありません。
 私が大好きなマーラーの交響曲は,第9番は別格として,第4番と「大地の歌」ですが,それに比べると,第8番は「やりすぎ」ちゃっているのです。しかし,マーラーは,第8番で,生命の泥臭さや高貴さをすべて吐き出してしまうことができたので,それに続く「大地の歌」や第9番の枯れた境地にたどり着けたのではないでしょうか。
  ・・
 交響曲第8番「一千人の交響曲」は,マーラー自身が初演し耳にすることのできた最後の作品でした。大規模な管弦楽に加えて8人の独唱者および複数の合唱団を要する巨大なオラトリオのような作品で,2部構成をとり,第1部は,中世マインツの大司教ラバヌス・マウルス(Rabanus Maurus Magnentius)作といわれるラテン語賛歌「来たれ,創造主たる聖霊よ」(Veni, veni creator spiritus),第2部は,ゲーテの戯曲「ファウスト第2部」(Faust part 2)の終末部分に基づいた歌詞が採られています。オラトリオとは「宗教的な題材を扱った演奏会向けの長編の声楽曲」で,基本的にはオーケストラの演奏を伴います。日本語では「聖譚曲」(せいたんきょく)といいます。
 マーラーはこの作品を妻のアルマに献げました。
 「一千人の交響曲」(Symphonie der Tausend )という名前は,初演時の興行主であるエミール・グートマン(Emil Gutmann)が話題づくりのためにつけたものです。この商売気たっぷりのたくらみが功をそうしたのか,マーラー生涯最大の成功を収めました。

 私がこの曲を聴くときの最大の問題は,キリスト教とか文学に疎いことです。ゲーテなんて名前くらいしか知らないし,もちろん,小説を読んだこともないのです。
 キリスト教的人生感,生と死。私にはそれが理解不能なのです。
 「ファウスト」では,この宇宙で人は孤独であること,だからこそ,孤独をまぎらわすために人との繋がりを求めること,不安をかき消す光を求めて自分たちは生きていること,そして,生きている限り不安や悩みは尽きることはないけれど,それでも自分たちは光を求めて歩いていくというのが救いになること,そうしたことが語られているらしいのですが,正直いって,私にはわかりません。だから,交響曲第8番「一千人の交響曲」の本当のよさを理解するには至れないのです。
  ・・
 クラシック音楽を聴くために足を運ぶのは,もちろん我慢大会ではないわけですが,この齢になると,この曲が理解できるように勉強しようとか,そんな向上心もなくなる代わりに,80分という曲を聴いても,退屈することもなく,聞きとおせてしまうのが救いです。だから,NHK交響楽団定期公演の第2000回記念のイベントに参加できた,ということだけでも,意義があったということにしておきます。

 「一千人の交響曲」と銘打っているのですが,ステージ上には500人弱の演奏者でした。合唱が上手なので人数が少なくてもよいということでしょうか。それにしても,聴きながら感心したのは,ステージにいるNHK東京児童合唱団の子供たちでした。客席はもちろんのこと,ステージ上でこの曲を聴いていて飽きたりしないものか…。という話を帰ってからしていたら,ある人が「私「一千人の交響曲」を演奏会で歌ったことがある」というので,さらに驚きました。
  ・・
 コンサートが終わって外に出たら,クリスマスマーケットのライトアップでとてもきれいでした。でも,ものすごい人混みでした。これが日本の実社会だと,現実に戻されました。
 いずれにしても,私は,このごろすっかりマーラーづいてしまっているわけですが,次に聴くのは,2024年3月9日に行われる井上道義指揮・新日本フィルハーモニー交響楽団の交響曲第3番です。

  ・・・・・・
●「ファウスト」第1部
 悪魔メフィストフェレス(Mephistopheles)が,多くの学問を究めてきた老博士ファウストの前に登場します。
 ファウストは,どんなに知識を学んだところで未知なることは無限に存在するし,自分の人生は学ぶ前も学んだ後も結局何ひとつ変わらないではないか,と嘆きます。生きることの充足感を求めていたファウストに,メフィストフェレスは,ファウストが死んだ後に魂を引き渡す代わりに,彼の欲望をすべてかなえようという「契約」をもちかけます。
 ファウストはメフィストフェレスの誘いに乗り,「時よ止まれ汝は美しい」(Werd’ ich zum Augenblicke sagen : Verweile doch! du bist so schon!)という言葉を言えば自分の魂を捧げる,というメフィストフェレスとの「契約」を結びました。
 メフィストフェレスの力で20代の姿となったファウストは,グレートヒェン(Gretchen)と出会い恋仲になるのですが,ファウストとの逢引のため,グレートヒェンは母に誤って致死量の睡眠薬を飲ませ死なせてしまい,さらに,彼女の兄もファウストとの決闘で殺されてしまいます。これが原因でグレートヒェンは次第に精神を病み,ついにはファウストとの子も殺し,自らも亡くなってしまいます。
 メフィストフェレスの計画は失敗に終わります。
  ・・
●「ファウスト」第2部
 絶望したファウストですが,アルプスの自然と精霊に囲まれ活力を取り戻し,メフィストフェレスの手引で神聖ローマ皇帝に取り入ります。ファウストは女神ヘレネー(Helen)の美貌に魅せられ,メフィストフェレスの力で神代の世界へ飛び,ヘレネーと結ばれます。しかし、彼女との間に生まれた息子は墜落死してしまいます。
 失意と共に現代へ帰ったファウストはメフィストフェレスの力で戦争に勝利し領地を得て,理想の国家を作ろうと大干拓事業に乗り出すのですが,立ち退きを求めていた地元の老夫婦を誤って殺害し,その報いとして盲目にされてしまいます。
 メフィストフェレスは手下にファウストの墓穴を掘るよう命じますが,盲目になったファウストはその音を土地の造成が進んでいるものと思い込むことで幸福を実感し,「時よとまれ汝は美しい」と呟き,人生の幕を下ろすのです。
 「契約」に従ってメフィストフェレスがファウストの魂を奪おうとしたとき,天上から天使が降り立ちます。かつての妻・グレートヒェンが聖母に捧げた祈りが届き,ファウストの魂は救済されるのでした。
  ・・・・・・

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 2023年12月16日,NHK交響楽団第2000回定期公演,マーラーの交響曲第8番「一千人の交響曲」を聴きにいきました。
 NHK交響楽団の定期公演は1927年からはじまったそうですが,それが今回2000回目を迎えたということです。コロナ禍で,2020年2月の第1935回定期公演のあと,2020年4月から6月まで1936回から1944回が予定されていたのが中止となりましたが,1年置いて,改めて2021年9月に1936回として再開されたので,切れ目なく続きました。しかし,2023年10月に1992回の定期公演が中止となったことで1回飛んでいるので,厳密には,今回は1999回なのです。というか,それ以前にも中止があったかもしれません。

 さて,記念すべき2000回の曲目は,事前にファン投票がありました。
 候補曲は,フランツ・シュミットのオラトリオ「7つの封印の書」,マーラーの交響曲第8番「一千人の交響曲」,シューマンのオラトリオ「楽園とペリ」でした。これら3曲から,となると,最も有名なマーラーの交響曲第8番「一千人の交響曲」になるのは,はじめからわかっていた,とブログに書いた人がいました。
 ちなみに,残りの2曲は,もし選ばれていたらN響初演ということだったので,それもありかな,と私は思っていました。というのも,私は,マーラーの交響曲第8番「一千人の交響曲」を生で聴く機会どころか録音でさえも聴くことなどまずないのですが,それでも,過去に1度生で聴いたことがあるのです。それは,私の地元名古屋で,1985年の年末,朝日新聞社名古屋本社発刊50周年記念特別演奏会として,外山雄三指揮,名古屋フィルハーモニー交響楽団の演奏したものを聴きにいったのです。こんな大曲,2度と聴くことはできないだろうと思って足を運んだのです。
 近年のNHK交響楽団では,N響90周年記念特別演奏会として,パーヴォ・ヤルヴィ指揮で2016年にNHKホールで行われたことがあるのですが,この演奏会は聴きにいきませんでした。FMでは放送されず,ただ1回だけテレビで放送されたようですが,私はそれも見逃しました。

 近年,ベートーヴェンの交響曲第9番は,テンポは早く早く,そして,オーケストラも小規模になって演奏されはじめました。これを仮に21世紀的演奏とします。それに対して,マーラーの交響曲第8番「一千人の交響曲」は,贅肉たっぷりのコテコテ演奏を聴衆は期待しているから,21世紀的演奏は似合いません。でないと,感激も何もなくなってしまいます。
 パーヴォ・ヤルヴィさんの指揮は,ベートーヴェンを指揮するときは21世紀的演奏になるのですが,ブルックナーやマーラーでは,そこに上手な味つけがされて,聴かせどころは聴かすのですが,コテコテにはならず,シンプルさを残して,分離と融合の使いわけがうまいので,20世紀的演奏に21世紀的な味つけがあってすばらしいものという評価だったので,それを聴いてみたいものでした。
 それに対して,今回は,ファビオ・ルイージ指揮です。
 私は,パーヴォ・ヤルヴィ対ファビオ・ルイージというのは,まあ,塩ラーメンと味噌ラーメンの違いのような気がするのですが,それはどちらがいいとかいうのではなく,持ち味が違うので,どちらも楽しめるのです。
 演奏のことは多く書かれるでしょうから,これくらいにして,私は,昔話をします。

 今から55年ほど前のこと。
 当時私が通っていた中学校は,今では考えられないほど大人びていました。ろくに英語もできないのにドイツ語の勉強をしたり,授業なんて最後の5分だけ聞いていればわかるからとずっと芥川龍之介を読んでいたり,ものすごく優秀なのに字が下手すぎて名前が読めないからお前はもう勉強しなくていいから書き方の練習をしろといって先生から字の書き方のドリルをもらったり,とそんな生徒だらけだったし,まったく勉強もしないで放課後も遅くまで教室に残ってしゃべくっていただけの女子生徒がめちゃくちゃ賢かったりしました。みんな後に偉い人になりました。
 学校の音楽の授業では,音楽家になるわけでもないのに,音楽大学さながら,小難しい音楽史やら楽典を習ったし,歌のテストの課題はドイツ語でベートーヴェン作曲の「Ich liebe dich」(きみを愛す)だったりしました。だから今でも歌えます。
  ・・・・・・
 Ich liebe dich,so wie du mich,
 Am Abend und am Morgen,
 Noch war kein Tag,wo du und ich
 Nicht teilten unsre Sorgen.
  ・・
 あなたを愛しています、あなたが私を愛するように、
 夕方でも朝でも。
 あなたと私が悩みを分かち合わない日など
 1日もないのです。
  ・・・・・・
 週末ごとに東京に通ってヴァイオリンの指導を受けていた生徒もいたのですが,彼女は,やがてプロになって,今はアメリカのオーケストラでヴァイオリンを弾いています。
 私は無知な生徒で,完全に落ちこぼれだったので,楽器も弾けませんでしたが,そんな環境の中で育ったので,自然に覚えたのがクラシック音楽でした。当時はレコードを買ってくるか,FM放送で流れなければ聞きたい音楽を聴くこともできない時代でしたが,帰りにレコード屋さんに行っては,こんな曲があるのだ,と語る友人の影響を受けて,知識だけが増しました。それは,たとえば,ニールセンには「不滅」などという大げさな題名の曲があるとか,ブルックナーには交響曲第0番やマイナス1番があるとか,マーラーには千人で演奏する交響曲があるとか…。
 それでも,今,コンサートを聴きに行くだけの知識ができたのだから,それでよかったのでしょう。今回のように,マーラーの交響曲第8番「一千人の交響曲」を実際にコンサートで聞く機会があると,そんなことを思い出します。

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 NHK交響楽団定期公演,10月のヘルベルト・ブロムシュテッドさんに続いて,11月のウラディーミル・フェドセーエフさんも体調不良で来日が不可能となりました。2月連続で90歳を越える高齢の指揮者ということで,心配はしていたのですが,それが現実となってしまいました。
 先月は時間がなかったこともあって,Aプログラムだけが中止となり,BプログラムとCプログラムは指揮者を変更して行われましたが,今月の定期公演は,すべて指揮者を変更して行うということでした。指揮者の変更は,コロナ禍のころずいぶんとありましたが,私は,こういう場合,指揮者の変更なんてよくないなあ,公演は中止,という意見です。そもそも,この指揮者だからチケットを購入した,という人にとっては,そりゃないぜ,です。せめて,中止ができないのなら,行く気のなくなった人にはキャンセルを認めるべきでしょう。その指揮者がウリで大きな写真を載せたパンフレットがあるのに,別の人が出てくるわけですから。
 ということだったのですが,Aプログラムで代わりに抜擢されたのは,NHK交響楽団指揮研究員の平石章人さんと湯川紘惠さんで,それぞれが前半と後半を受け持つということでした。私は,先週,読売日本交響楽団の演奏会に行ったこともあって,今回はパスしようと思っていたのですが,ウラディーミル・フェドセーエフさんだから行ってみようと改めて思っていたから,やはり,指揮者が変更になるのならパスかな,と思ったのですが,抜擢されたのが若手だったので,興味が湧いて,聴きにいくことにしました。
 2023年11月25日でした。

 曲目は,前半がスヴィリドフの小三部作,プロコフィエフの歌劇「戦争と平和」から「ワルツ」(第2場),A・ルビンシテインの歌劇「悪魔」のバレエ音楽から「少女たちの踊り」,グリンカの歌劇「イワン・スサーニン」から「クラコーヴィアク」,リムスキー・コルサコフの歌劇「雪娘」組曲,後半がチャイコフスキー,フェドセーエフ編のバレエ組曲「眠りの森の美女」でした。
 私の知らない曲ばかりでした。特に前半なんて,代りができる指揮者がいるとは思えません。そんな事情もあって,若手の抜擢となったのかもしれません。思いついた人,グッドアイデアでした。
  ・・
 演奏の出来不出来なんて,はじめて聴いた曲だし,私にはまったくわかりません。
 ただいえるのは,無難にこなしたなあ,ということですが,それはまあ,NHK交響楽団の団員さんが優秀だから,もし,うまくできなかったとしても,何とかしてくれたことでしょう。
 一時代前なら,団員さんも一癖二癖あったから,こんな場合,抜擢された若い指揮者には,リハーサルが,さぞかし,たいへんだったことでしょう。何せ,あの,小澤征爾さんですら揉めたくらいです。しかし,今は,きっとやさしい団員さんばかりだから,暖かく見守ってくれたのではないだろか,などと想像してしまいます。それでも,本番はドキドキだったことでしょう。そして,いい経験になったことでしょう。 
 聴いていた観客の人たちもとてもやさしい空気がNHKホールを包んでいました。たまには,こういう演奏会も悪くないと思いました。子供の発表会を聴きにいくみたいな。代々木公園の美しいイチョウの黄葉を見ながら帰路につきました。

 さて来月は,いよいよ,ファビオ・ルイージさんが指揮するマーラーの交響曲第8番「千人の交響曲」です。2000回目の定期公演を祝して,でしたが,10月の1992回が中止となったので,実は1999回目ではないか。などという野暮なことはいわず,今度こそ,プログラムどおりに演奏会が行われると信じています。

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 私は,あの,なまめかしさに抵抗があって,しばらくマーラーを聴かなかったのですが,再びそのすばらしさに目覚めたのは,ウィーンでマーラーの墓に行ったときでした。これまでに私は2度ウィーンを訪れたのですが,1度目はマーラーの墓が見たくて,そして,2度目は1度目に見損ねたアルマの墓が見たくて,2度ともマーラーの墓を詣でました。
 マーラーの墓は,ウィーンの国立中央墓地に並ぶ数々の作曲家の墓とは違って,人里離れた地に埋葬されていて,その墓にわびしさと孤独を感じました。 マーラーの墓には,マーラーの名前しか刻まれていません。それは,生前
  ・・・・・・
 Jeder, der mich sucht, wird wissen, wer ich war, und der Rest muss es nicht wissen.
  ・・
 私の墓を訪ねて来る人は,私が何者だったか知っている。そうでない人に知って貰う必要はない。
  ・・・・・・
と言ったからだそうですが。
 そして,墓の印象とともに,ウィーンでのマーラーの足跡が伴って,作曲された音楽にそれが重なり合って増幅され,やっと本当の魅力が理解できるようになったのです。若き日から,死に怯え,そして,向き合ってきた作曲家は,その地で,永遠の眠りについているのでした。

 さて,第4楽章に続く第5楽章は,長大でソナタ形式をベースとしています。いよいよクライマックスです。
 後半になると,金管のバンダが入ります。ステージから遠く離れたところから響くその音色は天上から聴こえてくるかのような錯覚に陥りました。そして,アルトが入ります。ラストは合唱が入り,壮大に盛り上がって曲を閉じるのです。
  ・・・・・・
 Aufersteh'n, ja aufersteh'n, wirst du,
 mein Staub, nach kurzer Ruh!
 Unsterblich Leben! Unsterblich Leben wird, der dich rief, dir geben.
 Wieder aufzublüh'n, wirst du gesät!
 Der Herr der Ernte geht
 und sammelt Garben
 uns ein, die starben.
 O glaube, Mein Herz, o glaube:
 Es geht dir nichts verloren!
 Dein ist, ja dein, was du gesehnt!
 Dein, was du geliebt, was du gestritten!
 O glaube: : Du wardst nicht umsonst geboren!
 Hast nicht umsonst gelebt, gelitten! 
 Was entstanden ist, das muß vergehen!
 Was vergangen, auferstehen!
 Hör' auf zu beben!
 Bereite dich zu leben!
 O Schmerz! du Alldurchdringer!
 Dir bin ich entrungen!
 O Tod! du Allbezwinger!
 Nun bist du bezwungen!
 Mit Flügeln, die ich mir errungen,
 in heißem Liebesstreben werd' ich entschweben
 Zum Licht, zu dem kein Aug' gedrungen!
 Mit Flügeln, die ich mir errungen,
 werde ich entschweben!
 Sterben werd' ich, um zu leben!
 Aufersteh'n, ja aufersteh'n wirst du,
 Mein Herz, in einem Nu!
 Was du geschlagen,
 zu Gott wird es dich tragen!
  ・・
 よみがえる,そうだ,おまえはよみがえるだろう。
 私の塵よ,短い憩いの後で,
 おまえをよばれた方が不死の命を与えてくださるだろう。
 おまえは種蒔かれ,ふたたび花咲く。
 刈り入れの主は歩き,我ら死せる者らのわら束を拾い集める。
 おお,信じるのだ,わが心よ,信じるのだ。
 何ものもおまえから失われはしない!
 おまえが憧れたものはおまえのものだ,おまえが愛したもの,争ったものはおまえのものだ!
 おお,信じよ,おまえは空しく生まれたのではない!
 空しく生き,苦しんだのではない!
 生まれ出たものは,必ず滅びる。滅びたものは,必ずよみがえる!
 震えおののくのをやめよ!
 生きることに備えるがよい!
 おお,あらゆるものに浸み渡る苦痛よ,私はおまえから身を離した!
 おお,あらゆるものを征服する死よ,いまやおまえは征服された!
 私が勝ち取った翼で愛への熱い欲求のうちに私は飛び去っていこう。
 かつていかなる目も達したことのない光へと向かって!
 私が勝ち取った翼で私は飛び去っていこう!
 私は生きるために死のう!
 よみがえる,そうだ,おまえはよみがえるだろう。
 わが心よ,ただちに!
 おまえが鼓動してきたものが
 神のもとへとおまえを運んでいくだろう!
  ・・・・・・

 それにしても,何という劇的な交響曲なのでしょう。まるで,本当に天に昇るように感じてしまいます。聴きにきて本当によかったと思ったことでした。
 井上道義さんのブログには次のように書かれています。
  ・・・・・・
 マーラーは本当の意味で指揮と作曲両方が出来た人。ブルックナーやブラームス,ベートーヴェン,ショスタコヴィッチたちとはそこが違う! 80分の長丁場,(私は)足腰が怪しくなりはじめて,終楽章のおわり数分は,深呼吸,深呼吸,深呼吸でした。
  ・・・・・・
 ついこの前まで病気で入院をしていた井上道義さんが,80分の大曲を無事に終えられただけでも感服するのに,演奏はすばらしいものだったし,さらに,曲が終わっても帰らぬ聴衆に,楽団員の去ったステージに再び現れて,聴衆の前でおどけてみせたりして,本当にうれしそうで,安心しました。
 まだまだこれから1年間,多くの演奏会が控えているので,どうか,お元気で,と祈らざるをえませんでした。
 3月に,今度は,新日本フィルハーモニー交響楽団の演奏会でマーラーの交響曲第3番を指揮すると知って,早速チケットを買い求めました。私は第3番こそライブで聴いたことがないので,今から楽しみです。

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 現在は,カリスマ指揮者も減り,この指揮者なら聴きにいきたい,という人も少なくなってしまいましたが,マエストロ井上道義は,私が聴いてみたいと思う数少ない指揮者のひとりです。しかし,井上道義さんは,2024年末に引退すると表明してしまい,それ以来,精力的に日本中のオーケストラを指揮しています。そこで,私も,気に入った演奏会を見つけては出かけています。
  ・・
 2023年11月18日,読売日本交響楽団の演奏会で,井上道義さんの指揮するマーラーの交響曲第2番「復活」(Auferstehung)が,東京芸術劇場で〈東京芸術劇場マエストロシリーズ〉として行われることを知って,早速チケットを購入し,聴いてきました。
 東京芸術劇場では,これまでに,マーラーの交響曲として,井上道義さんは2018年に交響曲第8番「一千人の交響曲」,2019年に交響曲第3番,そして,2021年には「大地の歌」を指揮したそうです。そして,今回が交響曲第2番「復活」でした。
 私は,交響曲第2番「復活」をライブで聴いたことがこれまでなかったなあ,と思ったのですが,思い出してみると,NHKホールで,一度,パーヴォ・ヤルヴィさんの指揮で聴いたことがありました。しかし,あのだだっ広いNHKホールに比べて,東京芸術劇場では,迫力が違いました。そして,井上道義さんの渾身の指揮と大音量のみごとな演奏に,私は,打ちのめされました。

 マーラーの交響曲第2番「復活」は,1888年から1894年に,マーラーが,ソプラノとアルトの独唱,合唱を含む,野心的な交響曲として構想して作曲した曲です。
 井上道義さんはブログで
  ・・・・・・
 若きマーラーが悩み,戦い,のた打ち回り,日々の心の不安を作品として客観化して,自分をコントロール下に置き,夢,天上世界への憧れと,死が近いはかない人生とを, 新国立劇場合唱団と共に,ここに来てくれた2,000人の人たちの耳と目に具現化してくれた。
  ・・・・・・
と書いています。
 実際,この交響曲が作られたのは,マーラーがまだ30代のころで,最後に作られた交響曲第9番にくらべれば,そこには,気負いもあれば,大げさな感じが否めないものです。それは,たとえば,ブラームスの交響曲第1番と第4番,ピアノ協奏曲第1番と第2番の対比と似ています。
 しかし,実際の演奏を聴くと,その若さに,私は圧倒されてしまいました。

 ゆっくりめのテンポではじまって,しかし,緊張感がたまらない第1楽章は,地獄のような音楽です。このあとの第2楽章,第3楽章では,安らぎとおどけと,そして,ある種のあきらめの音楽が流れます。そして,第4楽章で,歌曲集「子供の不思議な角笛」(des Knaben Wunderhorn)の第7曲「原光」(Urlicht)が取り込まれ,アルトの林眞暎(まえ)さんが歌いあげます。
  ・・・・・・
 O Röschen rot!
 Der Mensch liegt in größter Not!
 Der Mensch liegt in größter Pein!
 Je lieber möcht' ich im Himmel sein!
 Da kam ich auf einen breiten Weg;
 Da kam ein Engelein und wollt' mich abweisen!
 Ach nein! Ich ließ mich nicht abweisen:
 Ich bin von Gott und will wieder zu Gott!
 Der liebe Gott wird mir ein Lichtchen geben,
 Wird leuchten mir bis in das ewig selig Leben!
  ・・
 おお 赤い小さな薔薇よ!
 人類はこの上ない苦悩の内にいる!
 人類はこの上ない痛みの内にいる!
 こんなことなら私はむしろ天国にいたい!
 天国に行こうと私は一本の広い道へとやってきた。
 すると天使がひとりやって来て,私を追い返そうとした。
 そうはいくものか。私は追い返されなかった!
 私は神のもとから来たのだから,また神のもとへ帰るのだ!
 神は一筋の光を私に与えてくださり,
 永遠にして至福の生命に至るまで照らしてくださるだろう。
  ・・・・・・
 私は,これでもう,マーラーの魔術にすっかり参ってしまいました。

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 芸術の秋,食欲の秋-
 何度も書きますが,本当に今年の秋は気持ちがいい日々が続いています。夏が余りにひどすぎました。2023年10月30日,そんな秋の1日,稲沢市荻須記念美術館に行ってみました。毎年,この時期は何がしかの美術展が開催されているのです。
  ・・・・・・
 稲沢市荻須記念美術館は,1983年(昭和58年)に開館した荻須高徳さんの個人美術館です。建物は稲沢公園に隣接していて,緑多いしずかな場所です。建物のなかには展示室のほかに荻須高徳さんがパリで使用していたアトリエを復元した部屋があって,一般に公開されています。
  ・・・・・・
 今年開催されていたのは,「長谷川潔展-京都国立近代美術館コレクション-」でした。
  ・・・・・・
 長谷川潔さんは,1891年に生まれ,1980年に亡くなった版画家で,1901年に生まれ,1986年に亡くなった荻須高徳さんと同時期にパリに滞在し,フランス文化勲章を受章するなど高い評価を受けました。
 西洋の版画技法を学び取るだけではなく,現在でも再現が難しい特殊な版画技法を次々と生み出し,その卓越した才能は早くからフランス画壇で大きな注目を集めました。
  ・・・・・・・
 この展覧会では,京都国立近代美術館所蔵の版画62点と油彩画4点が展示されていました。
 また,併せて,常設展示室で「荻須高徳展・画業の変遷を辿る-新収蔵作品と主要展覧会出品作を中心に- 」が開催されていて,このふたりの芸術家の生きた時代と価値観がわかるようになっていました。

 美術館で静かな時間を過ごしたら,小腹が減ってきました。この美術館にはカフェがないのが残念ですが,その代わり,道を隔てて「カフェタナカ」があって,ここでは,今回の展覧会にちなんで,展示中の「狐と葡萄(ラ・フォンテーヌ寓話)」(Le renard et les raisins(Fables de La Fontaine))から着想を得たという宝石のような葡萄のスイーツ「シャインマスカットのスペシャルショート」があるというので,食してきました。
  ・・・・・・
 「ラ・フォンテーヌ寓話」は,イソップ童話を下敷きに,17世紀,詩人ラ・フォンテーヌがルイ14世の6歳の王太子に捧げたといわれる寓話集で,無知な友より賢明な敵のほうがまし,遠くから見ればたいした人物だが近くから見るとろくでもないといった,寓話集から引き出した含蓄ある教訓話が42編収められています。
 イソップ寓話の「狐と蒲萄」では,熟したブドウを見つけたキツネが跳び上がって取ろうとするがどうしても届かないので「どうせまだ酸っぱいブドウだろう」と捨てぜりふを吐いて去るといった,負け惜しみは見苦しいという教えですが,ラ・フォンテーヌ寓話では,愚痴をこぼすよりもましなことを言ったではないかとキツネの態度を肯定し,手が届かない富や地位をうらやむのは愚の骨頂という異なる教訓になっています。
  ・・・・・・

 なお,日本には坪田譲治さんの書いた「きつねとぶどう」という絵本があって,こちらは自分の子ども(=子ぎつね)を守るために,母きつねが自分の身を挺して守り抜いたというまったく別の話です。
  ・・・・・・
 子ぎつねを守るため,危険を知らせるため大きな声で鳴いて知らせてその結果猟師に見つかってしまいます。子ぎつねは母さんを亡くしてしまいますが,山の中で無事成長し,あるとき,出会ったぶどうがお母さんきつねが残したものだと気づき,母親の愛情を思い出します。
  ・・・・・・
 このふたつを区別するためなのか,前者の「狐と蒲萄」の話を「すっぱい蒲萄」という邦題にしていることもあり,余計にわけがわからなくなっています。

 私は,絵画や版画は雰囲気以外のことはよくわからねど,スイーツのおいしさは理解できました。よい時を過ごしました。

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「しない・させない・させられない」とは
「Dans la vie on ne regrette que ce qu'on n'a pas fait.」とは

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 2023年10月14日に行われる予定だったNHK交響楽団10月Aプログラムが中止になりました。そろそろ「お元気に来日されました」というニュースがあるころだなあ,とこころ待ちにしていたところに飛び込んできた速報でした。
 2023年9月のNHK交響楽団の機関紙「フィルハーモニー」によると,マエストロ・ブロムシュテット(Herbert Blomstedt)に「N響100周年(2026年)を一緒にお祝いしたい」と言ったら「ウィーン・フィルとは,私の120歳のバースデー・コンサートを開く約束をしている」と述べたということだったので,今年もまた,お元気な姿を見ることができると楽しみにしていた桂冠名誉指揮者ヘルベルト・ブロムシュテットさんの10月の定期公演でしたが,残念ながら,健康上の理由で来日がかないませんでした。
 昨年は思わぬアクシデントがあって,直前に予定されていたヨーロッパでの公演が軒並みキャンセルになったことで来日が危ぶまれ,大変心配しましたが,無事,来日を果たし,マーラーの交響曲第9番を指揮されました。私には,忘れられないコンサートになりました。このときのコンサートはかなり衝撃的なものでしたが,この偉大なマエストロに悲劇性はふさわしくありません。その後はみるみる健康を取り戻し,明るく,さわやかなマエストロの姿に戻っていました。

 中止になってしまった今年の曲目は,ブルックナーの交響曲の中でも最高傑作とされる交響曲第5番でした。
 ブルックナーの交響曲第5番は,「対位法上の傑作」であるとともに,複数の主題を伸縮自在に組み合わせるポリフォニーの技術が駆使されていて,特に,第1楽章や第4楽章の展開部,第4楽章のフーガなど,その荘厳な響きに魅了されます。ブルックナーの交響曲は,オーストリアの雄大な大地を想像させるのですが,第5番はそれとは少し異質で,この長大な交響曲では,複数の旋律を重ね合わせ,そのおのおのの特徴を生かして調和させていきながら,音楽の中にヨーロッパの大寺院を思わせる壮大な音の建築物を出現させているものです。
 「レンガを一枚一枚ていねいにに積み重ねていくかのよう」と表現されるマエストロ・ブロムシュテットにとって,まさに,ブルックナー,特に第5番の交響曲はふさわしいものであり,それを味わうことができる喜びは,ほかの何ものにも代えがたい経験となるはずでした。しかし,聴くのもたいへんな大曲が無事に指揮できるのかという心配もありました。それもこれも,かなわぬこととなってしまいました。

 私は,これまでも,桂冠名誉指揮者だったヴォルフガング・サヴァリッシュさん(Wolfgang Sawallisch)のキャンセルとなった最後の定期公演,エフゲニー・フョードロヴィチ・スヴェトラーノフさん(Yevgeny Fyodorovich Svetlanov)が指揮をする予定だった最後の定期公演などのチケットを持っていたのですが,そのいずれも,代役が指揮をしました。今回は直前のキャンセルだったために代役もなく中止となってしまったのですが,コロナ禍のときのさまざまなコンサートでも痛感しましたが,私は,オーケストラのコンサートに指揮者の代役はふさわしいものではないと思っています。その指揮者だからこそ,聴きに行くからです。
 それよりも,どうかお元気になられて,再び,日本でその姿を見せていただけるようにこころから祈っています。

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 東京には多くのオーケストラがあります。それぞれのオーケストラの特徴を知りたのですが,そうしたことが書かれたものがなかなかありません。探しても,ランキングとか,どこが上手だとか,そういういかにも日本らしい比較ばかりです。私が知りたいのは,そういう話ではなく,それぞれがどういったことをウリにしているのか,というようなことです。
 もし,私が東京に住んでいたら,どのオーケストラを贔屓にするか,きっと迷うことと思います。定期会員のよさは,毎回,苦労してチケットを買わなくていいということなので,どこかのオーケストラの定期会員になるだろうけれど,その選択は,オーケストラが上手,下手とかはさておき,どの会場が便利であるかとか,プログラムが自分好みであるかとか,聴いたあとで満足できるか,そういうことで決めるだろうと思います。

 さて,2023年9月27日,豊田市のコンサートホールで,東京都交響楽団の演奏会があるというので,チケットを購入しました。行くことにした理由は,まずは,プログラムがブラームスのヴァイオリン協奏曲と交響曲第4番という私の大好きな曲目だったからです。ふたつ目は,ヴァイオリン協奏曲を演奏するのが,服部百音さんだったことです。そして,最後に,私が豊田市のコンサートホールの友の会の会員で,優先的にチケットが購入できることでした。
 指揮者はオランダ人のローレンス・レネスさん(Lawrence Renes)という人でしたが,私はよく知りませんでしたが,なかなかすばらしい指揮者でした。
 数年前に一度,東京で東京都交響楽団のコンサートを聴いたことがあります。以前,NHK交響楽団に在籍していたビオラの店村眞積さんとか,コントラバスの池松宏さんが首席で在籍していて,のびのびと演奏していたのが好印として残っています。たえず,テレビカメラの目にさらされているよりも,このほうがいいのだろうと,私は思いました。

 服部百音さんは,難しい曲を選ぶことが多く,それがストイックさにつながっているだろうと思うのですが,そうした無理がたたったのかどうか,体調を崩してしまい,しばらく入院していたので,とて心配しました。そして,ずいぶんとやせてしまいました。何かにつかれたようなストイックさから卒業して,力を抜いて演奏が楽しめるようになったとき,服部百音さんは,もう一段高みに達することができるだろうと,私は思っています。
 前回私が聞いたのは,名古屋フィルハーモニー交響楽団の定期公演でバルトークのヴァイオリン協奏曲第2番という,これまで聴いたこともない難曲を演奏する姿でしたが,今回は,ブラームスという,非常にポピュラーな曲をだったので,より楽しみにしていました。考えてみれば,私は,ブラームスのピアノ協奏曲は何度もライブで聴いたことがあるのですが,ヴァイオリン協奏曲はほとんどライブで聴いたことがありません。長くてむずかしいから,らしいです。

 今回の演奏会では,服部百音さんの弾くブラームスは,やはり彼女らしく,力強く,躍動感があって,時折,指揮者と対決するような感じでした。また,交響曲第4番,これがまたとてもよかったです。
 ちなみに,アンコール曲は,ヴァオリン協奏曲のあとがクライスラーの「レチタティーボとスケルツォ」からスケルツォ,交響曲第4番のあとがブラームスの「ハンガリー舞曲」第1番でした。
 私は専門家でないので,演奏のよし悪しなんて技術的にはまったくわからないのですが,とにかく,聴いていて元気になれるものがいいと,このごろ思います。もう,この歳になると,何の憂いもなく,自分が楽しいとおもうことだけが,耳に入り目で見ることができればそれでいいのですが,そんな私でも,これはいい演奏だなあ,とこころから思いました。これほどすばらしい演奏会をひさびさに聴きました。
 また,今回の演奏会に限らず,他の演奏会のプログラムを見ても,東京都交響楽団は,私の聴きたくなる曲ばかりなので,もし,東京に住んでいたら定期会員になってもいいなあ,とも思いました。
 平日の夜,名店で,極上の食事を味わうような,こんな演奏家を楽しむことができたのは,この上なく幸せなことでした。

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 例年,新しい年の1月や2月に行われているNHK交響楽団の名古屋公演です。しかし,どういうわけか,2024年のはじめに行われるはずが,今回は,2023年9月23日でした。そこで,今日のブログの題名に困ってしまい,「2024?」となった次第です。
 今回の曲目は,NHK交響楽団9月定期公演Bプログラムと同じで,モーツァルトの交響曲第29番,フルート協奏曲,そして,交響曲第39番と,オールモーツアルトプログラムでした。私が先日東京で聴いたオールリヒャルト・シュトラウスのプログラムに比べたら,ずっといいです。
 ただし,ちょっと短いです。もう1曲,モーツアルトのオペラ序曲があってもよかったなあ。
 それにしても,よく練られているもので,Aプログラムがリヒャルト・シュトラウスで,Cプログラムがワーグナーと大編成が続いたものだから,Bプログラムではモーツアルトをプログラムにあげて,多くの団員さんをお休みにしよう,という感じです。時折,こんなプログラムがあります。しかし,何といってもモーツアルトです。この,異常に暑かった今年の夏の終わりの9月には,これ以上の清涼剤はありません。
 これほどポピュラーな3曲だから,曲の紹介は必要ないでしょう。 ということで,それは割愛します。

 今回は,指揮者がトン・コープマンさん(Antonius Gerhardus Michael Koopman)でした。すでに,NHK交響楽団には,2017年と2019年に客演してオールモーツァルトプログラムを披露しているということですが,定期公演ははじめてということで,私は,これまで聴いたことがありませんが,当然名前だけは知っていました。トン・コープマンさんで私が連想するのは,バッハですが。
 トン・コープマンさんは,1944年オランダのズヴォレ生まれというから,79歳ですか。いいおじいちゃんです。
 自ら設立したピリオド楽器によるアムステルダム・バロック管弦楽団とともにバロックから古典派に至るレパートリーを取り上げ,作品の成立した時代のスタイルと奏法に基づく演奏によって高い評価を得てきた,ということなので,今回は,ピリオド奏法なのか? と思ったのですが,単にオーケストラの規模が小さいだけでした。なにせ,第1ヴァイオリン,第2ヴァイオリンがそれぞれ8人,ヴィオラが6人,チェロが5人,コントラバスが3人,そして,木管と金管で,全部で30人足らず。フルート協奏曲に至ってはさらに1割ほど少ない,というこじんまりとしたものでした。
 名古屋市の次は伊那市だそうですから,少人数で楽しい演奏旅行です。

 2曲目のフルート協奏曲のソリストは,NHK交響楽団首席フルート奏者の神田寛明さんですが,時折,NHK交響楽団の定期公演では,首席奏者がソリストを務めます。その,神田寛明さんが3曲目の交響曲第39番では,オーケストラ席でフルートを担当していました。大忙しです。
 今回のコンサートマスターは,長原幸太さんという読売日本交響楽団のコンサートマスターが務めました。長原幸太さんはテレビで読売日本交響楽団のコンサートが放送されるときに,時折見たことがありますが,こうして,入れ替わり立ち代わりコンサートマスターが代わると,以前書いたように,本当に,NHK交響楽団は次のコンサートマスターを探しているような感じがします。さすがに,NHK交響楽団に神奈川フィルハーモニー管弦楽団のコンサートマスター石田泰尚さん,という手はないでしょうが,一度,そんなコンサートを見てみたいものです。

 モーツアルトは,当然ですが,いいです。ザルツブルグの香りがします。今回の演奏の特徴といえば,交響曲第39番でティンパニを強調してオーケストラを引っ張っていたことでしょうか。
 モーツアルトほど,演奏者の力量次第で聴く側のこころに響く力が異なるものもないと思うのですが,私が先日聴いてきたリヒャルト・シュトラウスの半分以下の規模で,これだけのコンサートができるとなれば,複雑な気持ちがしてきます。
 ということで,暑さも少しは和らいだ9月の土曜日の昼下がり,充実した時間が過ごせました。
 それにしても,愛知県芸術劇場コンサートホール,できれば,行きたくないホールです。ホール自体は音がよいということですが,建物の作りが悪すぎます。通路は狭いし,まっすぐに進めないし,エスカレータは混みあって,慢性的渋滞。地震であったらどうするのでしょう? これだけひどいものがどうやったら作れるのか,と思うほどの設計です。何とかならないものなのでしょうか? 災害でも起きなければ改善されないのでしょうか?

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 9月。NHK交響楽団の定期公演が帰ってきました。今シーズン最初の,2023年9月9日の第1989回 Aプログラムを聴きました。コンサートマスターは篠崎史紀さんで,これがいいんだなあ。引き締まります。指揮は首席指揮者の ファビオ・ルイージさんで,今回の曲目は,私が苦手とするリヒャルト・シュトラウスの3つの作品でした。
 ここで,私が以前書いた「リヒャルト・シュトラウスのよさとは」を再び載せます。
  ・・・・・・
 ヨーロッパのクラシック音楽が華やかなりしころの終焉と幕引き,それを感じつつ,最高傑作「ばらの騎士」を聴き,その勢いで,交響詩を鑑賞して,そのチャラさに理解を示し,オーケストラの鳴り響くさまから,演奏家の自己満足を同化しつつ,結局は,「最後の4つの歌」で,人間の不条理さを救いに転じる。
  ・・・・・・
 要するに,リヒャルト・シュトラウスを味わうというのは,リヒャルト・シュトラウスのチャラさを理解する,ということになるわけです。NHK交響楽団の演奏がチャラいというわけではありませんよ!
 それはそれでいいのですが,私がクラシック音楽を聴くときに求める,こころに染みる,という感じはまったく味わえません。

 さて,今回の定期公演,まずは,交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」(Till Eulenspiegels lustige Streiche)からはじまりました。この曲のチャラさは,ディズニーの映画音楽みたいなもの,ということだと私は思います。1895年に作曲されたこの曲で,主人公ティル・オイレンシュピーゲルをホルンで描くのは,リヒャルト・シュトラウスの父へのオマージュだそうで,反権威主義的な,乾いた挑発の哄笑と独創性がその底に沈んいます。
 「むかしむかしティル・オイレンシュピーゲルは…」ではじまり,リヒャルト・シュトラウスのさまざまな作品同様に,何がメロディーかもわからないロンド形式の堂々巡りを繰り返し,最後にティル・オイレンシュピーゲルが悲鳴を上げて処刑にされるような音楽が終わると,すべてをあざ笑うかのように,再び「むかしむかし」のテーマが繰り返される,というだけのものです。

 2曲目は「ブルレスケ」(Burleske)で,この曲ははじめて聴きました。
 「ブルレスケ」というのは下品な笑劇のことで,リヒャルト・シュトラウスが作曲した2曲の左手のためのピアノ協奏曲「家庭交響曲余禄」(Parergon zur Symphonia Domestica),「パンアテネ神の大祭」(Symphonische Etuden in Form einer Passacaglia)と並ぶピアノ独奏とオーケストラのための作品だそうです。ピアノは1982年生まれのマルティン・ヘルムヒェン(Martin Helmchen)さんでした。
 冒頭の4台のティンパニによるソロは子気味よく,かつ,挑発的で結構楽しめましたが,これもまた,それだけのことでした。解説では,ブラームスのピアノ協奏曲の影響が濃厚,という話ですが,私には,まったくそうは思えません。しいていえば,ブラームスのピアノ協奏曲第2番のチェロとピアノの掛け合いみたいなものを連想しますが,ブラームスのほうがずっといいです。いずれにしても,リヒャルト・シュトラウスがピアノ協奏曲を作るとこうなる,ということでしょう。それにしても,アンコールのシューベルトの「即興の時」のほうがこころに染みるのだから,困ったものです。

 最後が,交響的幻想曲「イタリアから」でした。
 当時のヨーロッパの上流家庭では,20歳くらいになると息子に見聞を広めるため,イタリア長期旅行をさせる習慣があって,リヒャルト・シュトラウスもそれに習ったそうで,ローマとナポリを中心に名所旧跡を見て回り,鮮烈な印象を受けて,帰国後に完成させたのがこの作品ということでした。
 第1楽章は「エステ荘から眺めた灼熱の太陽に燃えるローマのカンパーニャ」を描いたもので,ドイツ的なものへの訣別とラテン的なものへの志,第2楽章はソナタ形式で意外なほど古典主義的な音楽でメンデルスゾーンのよう,と解説にありましたが,メンデルスゾーンの交響曲第4番「イタリア」のほうがずっといいです。第3楽章は「風にそよぐ葉、鳥の歌、自然のひそやかな声、海の遠い波、岸辺に届く寂しい歌」を描いたもの,だそうですが,これもまた,何がメロディーかもわからない堂々巡り。まあ,別に,という感じです。
 極め付きは第4楽章です。リヒャルト・シュトラウスは,ナポリ民謡だと思い込んでいた「フニクリ・フニクラ」をパラフレーズしたものということで,フィナーレでこうした俗謡を引用すること自体,ロマン派の真面目くさった交響曲伝統への嘲笑であって,まさにチャラさ絶好調のようでした。
 リヒャルト・シュトラウスには家庭交響曲とかアルプス交響曲という名前の交響曲らしきものがありますが,それらもまた,実体は交響詩であって,この曲こそが,リヒャルト・シュトラウスの交響曲でしょう。

 ということで,今回の定期公演は,だれでも知っている交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」で客寄せをしておいて,そのあとに,チャラさ絶好調のリヒャルト・シュトラウスなりに作曲したピアノ協奏曲と交響曲を,まあ,一度は聴いてみてごらん,というものだったと私は理解しました。
 演奏者にとれば,多くの団員が参加できて,しかも,思い切り演奏できるリヒャルト・シュトラウスは,久しぶりの定期公演の肩慣らしにちょうどいいのかもしれません。それにしても,観客の方は,私の座っていた2階席のうしろのあたりはガラガラでしたけれど。
 さて,来月は,待ちに待った巨匠ヘルベルト・ブロムシュテットさんのブルックナー。きっと満員でしょう。お元気で来日されますように!

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石田泰尚による熱き指揮者無しアンサンブル。
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 一度知ったら忘れられない,そり込みを入れた短髪に色つきレンズの眼鏡をかけた石田泰尚さんは,現在,神奈川フィルハーモニー管弦楽団のソロコンサートマスターであり,京都市交響楽団の特別客演コンサートマスターでもあります。
 それにしても,どのオーケーストラも,コンサートマスターはアクが強いものです。そして,そのアクの強さがオーケストラの個性となって,人気をよぶのです。今日は,そんなコンサートマスターについてのお話です。

 コンサートマスター(concertmaster)は,オーケストラの各奏者を統率して,指揮者の意図を音楽に具現する役職で「第2の指揮者」ともいわれます。第1ヴァイオリンの首席奏者が務めます。
 実際,コンサートを聴きにいくと,よほど信頼された指揮者以外の場合,楽団員はコンサートマスターを見て演奏しているような気がします。一度,NHK交響楽団の定期公演で,指揮者のアシュケナージさんが指揮棒を手に刺してしまい指揮不可能となり,コンサートマスターの堀正文さんが,チャイコフスキーの交響曲第4番全曲を,演奏しながら指揮したというのを見たことがあるのですが,このときはすごいものだなあ,と思いました。それとともに,指揮者なんで要らないじやん,とも思いました。
 本当は,オーケストラはコンサートマスターの指示で演奏をしていて,指揮者はその音楽に合わせて踊っているだけのような…。そんな気がしないでもない。
 そんなコンサートマスターですが,いわば,それぞれのオーケストラの顔なので,その人材を探すのがたいへんそうです。

 私がよくわからないのは,コンサートマスターの肩書に,ソロコンサートマスター,プリンシパルコンサートマスター,第1コンサートマスターのように,様々なものがあることです。そして,その違いについて説明がされていることもまずないので,何が違うのか,客である私にはさっぱりわかりません。さらには,アシスタントコンサートマスター,副コンサートマスターなどというものもあります。これらは,コンサートマスターがふたり以上いたときにその格づけのため,さまままな飾りをつけているように思えます。プライドの高い人たちですから…。しかし,ソロコンサートマスターと第1コンサートマスターの違いなんて,わかりかねます。
 であっても,ここまでは,そのオーケストラの正式の団員ですから,まだなんとなく理解ができますが,客員コンサートマスター,特別客員コンサートマスター,ゲストコンサートマスター,アシスタントゲストコンサートマスタ-となると,??? という感じです。客員とかゲストとかいうのは,このオーケストラのコンサートマスターは大したことないから,別のオーケストラの立派なコンサートマスターを高いお金を出してよんできたよ,という気がしてしまいます。しかし,オーケストラの肝をお客さんで済ませてしまうのはダメでしょう。オーケストラの中心になる人は,きちんとこのオーケストラに所属している人であるほうが,オーケストラの音楽作りにはいいと私は思いますが。

 私の友人が,コンサートマスターにゲストなんていうのはいけなんじゃない,と言っていましたが,私もそう思います。きっと,ゲストをよんでこなければならないほど,そのオーケストラの専属コンサートマスターはだめなのか,あるいは,集客のための「顔」がほしいのだと思ってしまいます。
 その一方で,Yahoo知恵袋だったかに,「先日聴きにいったコンサートの地方公演で,ゲストコンサートマスターとあったのですがどうしてですか? 格下ですか?」という質問があって,その回答に,「地方公演だから,正規のコンサートマスターはギャラが高いから来なかったんです」というバカげたものがありました。そんなふうに思っている人もいるのです。そういう誤解を解いてほしいものです。
 それにしては,こだわっているわりに,コンサートのPRで,指揮者や独奏者の名前はわかっても,コンサートマスターがだれなのかは通常行ってみないとわかりません。だから,石田泰尚さんがコンサートマスターのときの神奈川フィルハーモニー管弦楽団のコンサートに行ってみたいと思っても,その日のコンサートのコンサートマスターが石田泰尚さんとは限らないのです。

 いったい,どの職名までが本当の意味でのコンサートマスターなのかわかりませんが,コンサートマスターは名誉職ではないし,たくさんいればいいというものではないでしょう。なのに,こうもたくさんいて,さまざまな名称があるのは,おそらく,確固たるコンサートマスターにするには決定打に欠ける,ということなのかもしれません。要するに,人材難なのでしょう。そして,人気・実力を兼ね備えた人は取り合いをしているのかもしれません。
 NHK交響楽団でも,ソロコンサートマスター・堀正文さんが引退し,その後継者だった第1コンサートマスター・篠崎史紀さんも勇退してしまい,今は「次」を探しまわっているような感じがします。かといって,だれでもいいというわけにもいかず,専任になってくれそうな人もなかなか見つからず。また,お声がかかるほどの名手なら,オーケストラの専属となって長時間拘束されるよりも,ソロ活動をしているほうがいいけれど,NHK交響楽団コンサートマスターという肩書があれば箔がつき,自分のコンサートの集客力がアップするとか? だから,話をもっていくと,「ゲストなら」とか「期限つきなら」みたいな大人の交渉で契約しているような…。そんな気がしないでもないこのごろです。

 なお,今日の写真は,すべて,NHK交響楽団定期公演のカーテンコールで写したものですが,上から順に,特別コンサートマスター・篠崎史紀さん,コンサートマスター ・伊藤亮太郎さん,ゲストコンサートマスター・郷古廉さん,客演コンサートマスター・川崎洋介さん,そして,ゲストコンサートマスターだった白井圭さんです。


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 その風貌からずっと気になっていた,異色のヴァイオリニスト・石田泰尚さん率いる「石田組」でしたが,2023年8月6日にコンサートが愛知県芸術劇場コンサートホールで行われるというので,聴いてきました。
  ・・・・・・
 「石田組」は,ヴァイオリニスト石田泰尚のよびかけにより,2014年に結成された弦楽合奏団です。
 プログラムによって様々な編成で演奏をするスタイルを取っていて,メンバーは「石田組長」が信頼を置いている首都圏の第一線で活躍するオーケストラメンバーを中心に,公演ごとに「組員」が召集されます。
 レパートリーはバロック音楽から映画音楽,プログレッシブ・ロックまで多岐にわたり,各々のスタイルをぶつけ合いながら織り成す演奏スタイルは,弦楽アンサンブルの新しい世界を切り拓く存在として各方面から注目されています。
  ・・・・・・
というのがネットにある紹介です。

 コンサートは満員でした。
 演奏された曲目は,前半は,ニールセンの「ボヘミア・デンマーク民謡」,レスピーギの「リュートのための古風な舞曲とアリア」第3組曲,芥川也寸志の「弦楽のための三楽章」,後半は,バルトークの「ルーマニア民謡舞曲」が演奏されたあと,がらりと趣向を変えて,団員紹介の後は,シルヴェストリの「バック・トゥ・ザ・フューチャー」,A・メルケンの「美女と野獣」より「時は永遠に」,レッド・ツェッペリンの「移民の歌」と「天国への階段」,クイーンの「ボーン・トゥ・ラブ・ユー」でした。そして,最後にアンコールが3曲ありました。
 途中の紹介で,「石田組」は約60人だかの「組員」がいて,そこから,石田泰尚組長が毎回12人のメンバーを選抜してコンサートを行っている,という話がありました。だから,一概に「石田組」といっても毎回サウンドが異なり,それが何度も足を運ぶ動機となる… 商売が上手です。今回は,名古屋でのコンサートということもあって,メンバーの多くは地元出身でした。

 私はこうしたコンサートに行ったことはこれまでなかったのですが,なかなか楽しいものでした。
 このようなコンサートに来ている多くは,おそらく,マーラーだとかブルックナーなんて縁がない,という人がほとんどだと思うのですが,クラシック音楽のコンサートでは,よほど人気のあるソリストや指揮者が出演しなければ,集客力に限度があって,その壁を越えることが困難です。いかに名手とはいえ,オーケストラの首席であるような人が数人集まって弦楽四重奏を演奏するコンサートを開いても,なかなかお客さんは集まりません。そのよさを理解できる人が多くないからです。
 石田泰尚さんは,いい意味で,したたかで,コンサートの組み立てや曲目の選択など,あらゆる手を使ってコンサートを盛り上げようとしていることがわかります。そして,独特な風貌がカリスマとなって,人気をよんでいるのです。行列のできるレストラン同様,一旦,人気に火がつけば,あとは加速的なのです。そこで,その人気にあやかって,多くのすぐれた演奏家が集まってくるのでしょう。いい循環をしているわけです。

 たまにはこういうコンサートもいいものだと思いました。
 私には,NHK交響楽団の定期公演は豪華なフランス料理,という感じなのですが,「石田組」のコンサートは,小さな町にある人気のイタリア料理店で軽く食事をしたような感じでした。おいしかった。

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 NHKFMに「朗読の世界」という番組があります。ラジオNHK第1にも「朗読」「らじる文庫」という番組があるほか,それ以外にもさまざまな番組の中に朗読のコーナーがあるようです。若いころは,こんな番組だれが聴くのだろう? と思っていたのですが,今の若い人も同じことを言っていました。しかし,本を読むのも,特に,小説を読むのも面倒になってきた私は,こうした番組の意義がわかってきました。喜ぶべきか悲しむべきか…。
 その「朗読の世界」で,太宰治の「津軽」が全35回で取り上げられていたので,聴きました。
 先日,青森県を旅して,太宰治の生まれた家,現在の「斜陽館」に行ったこともあって,これまでは存在だけを知っていた小説「津軽」に興味をもったのですが,思ったよりも分量が多くて,また,この時代の小説は読みにくいので,断念しました。そんなことこともあり,まさに,ちょうどいい時期にこの小説の朗読に出会ったのです。

 「津軽」は,1944年,太宰治が34歳のときに書かれた小説です。紀行文ですが,その中にフィクションが交えられていることから小説に分類されているそうです。太宰治が,生まれ故郷である青森県津軽を訪れ,過去に世話になった人々と出会いながら津軽出身者という自分のアイデンティティを確立していくという,美しくも,切ない物語です。
 「津軽」では,太宰治,本名・津島修治を「私」と称し,越野タケを「たけ」としています。
  ・・・・・・
●序編
 私は,現在の五所川原市である青森県金木村に生まれました。親は大地主でした。
 出版社の編集者から「津軽の事を書いてみないか」と言われたことから,津軽人とはどんなものであるかを見極めたくて,当時住んでいた東京を出発し,津軽半島を3週間ほどかかって1周することになりました。
●巡礼
 青森に着いて,かつて私の実家である島津家に仕えていたT君の出迎えを受けます。
 T君は,昔,金木家で一緒に遊んだ仲間だったのですが,私がT君を親友だと思っているのに対して「あなたはご主人です」と答えるT君でした。
 明日,T君とともに,青森県蟹田へ出かけます。
●蟹田
 蟹田で出会うのは中学時代の友人であるN君です。今は蟹田の町会議員となっていて蟹田になくてはならない人物です。
 蟹田の山へ花見に行き,その後,蟹田分院の事務長をしているSさんの家にお邪魔し,熱狂的な接待を受けますが,津軽人である自分自身の宿命を知らされた気になり,「津軽人としての私を掴むこと」を目的とする私は,津軽人の愛情の表現は少し水で薄めて服用しなければならないと感じるのでした。
●外ヶ浜
 N君と農業について語るうち,青森の郷土史に5年に1度は凶作に見舞われているのを発見し,哀愁を通り越し憤怒を感じます。
 翌日,N君の案内で外ヶ浜街道を北上し,竜飛岬にたどり着きます。竜飛は,烈風に抗し怒涛に屈せず懸命に一家を支えて津軽人の健在を可憐に誇示していました。
 竜飛の旅館で歌いながら寝てしまった翌朝,寝床で,童女が表の路で手毬唄をうたっているのを聞き,希望に満ちた曙光に似たものを感じて,たまならい気持になるのでした。
●津軽平野
 竜飛で1泊した翌日,私はひとりで,生まれた土地である金木町へ出発します。
 金木の生家に着くと,実家には長兄の文治と次兄の英治,長兄の長女の陽子,陽子のお婿さん,姪ふたり,祖母などがいましたが,あまり会話が弾まず,気疲れがします。
●西海岸
 翌日,金木から父の生まれた五所川原の木造駅に行きます。五所川原へ戻った私は,3歳から8歳まで育ててくれた女性たけに会うために,小泊を訪れました。
 小泊港に着き,たけの家を見つけたのですが,戸に南京錠がぴちりとかかっていて固くしまっています。筋向いのタバコ屋に聞くと運動会へ行ったとのことでした。
 運動会でたけと再会したのですが,たけは私を小屋に連れて行き「ここさお坐りになりせえ」と傍に座らせただけで何も言いませんでした。いつまでたっても黙っていると,たけは肩に波を打たせて深い長い溜息をもらしました。「竜神様の桜でも見に行くか。どう?」
 竜神様の森の八重桜のところで,能弁になったたけは「30年近くお前に逢いたくて,そればかり考えて暮らしていたのを,はるばると小泊までたずねて来てくれたかと思うと,ありがたいのだかうれしいのだか,かなしいのだか。よく来たなあ」。
 兄弟の中で,私がひとり,粗野でがらっぱちのところがあるのは,この悲しい育て親の影響だったという事に気づいて,このときはじめて,育ちの本質をはっきり知らされたのでした。
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 作品のなかでは,たけとの会話がクライマックスになっていて,それが「津軽」の中核をなしていますが,実際は,ひとことも言葉を交わすこともなく,太宰治はひとり離れて周りの景色を見ていた,といいます。おそらく,これは,太宰治の願望を表わしたものでしょう。そして,自分のどうしようもなくいたたまれない本質の源流が越野タケのせいだと言いたかったのかもしれないなあ,と私は思いました。そういう意味では,この小説は太宰治の狂気です。
 「津軽」は,太宰治のことをよく知り,また,実際に津軽の地を見てくると,より作品を深く味わうことができるのだろうと思います。だから,先に「津軽」を読んで,その想い入れを持って実際にその地を訪れるか,あるいは,私のように,その地を知ってから「津軽」を読むか,そのどちらにしても,その両方をしなければ,作品は理解できないでしょう。
 私は,小説「津軽」に接して,いつかまた,再び津軽の地を旅してみたいと思いました。


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 「西洋絵画の見方がわかる世界史入門」という本を読みました。
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 絵画は歴史の中で描かれます。つまり絵画作品は,様式や傾向も含めて,歴史の動きや流れとなんらかの関係があると言ってよいでしょう。
 本書では,作品が生まれた背景や歴史的位置づけ,そして絵画の見方について,世界史の流れや変化とともに解説していきます。近世から現代まで,どんな絵画や芸術運動が生まれ,それらにはどのような特徴があるのかを世界史の中で理解することができます。その過程で絵画の存在意義が問われ,「わかりにくい」と言われる「現代アート」が生まれていった理由も見えてくるでしょう。
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というのがAmazonにあったこの本の紹介です。

 私は,クラシック音楽は好きですが,絵画はわかりません。
 旅に出ると,よくその土地にある美術館に行くので,多くの有名な作品は見たことがあるのですが,これでは「猫に小判」。もったいない話です。
 中学校の芸術の授業で,音楽は音楽史から詳しく学ぶことができたのに,美術では作品を作るだけで,美術史どころか,絵画の見方すら習わなかったことも影響しているのでしょうが -と人のせいにしてもしかたないのですが- 日ごろ,残念な気持ちになっていて,よくわかる本がないかなあ,と思っていたときに出会いました。およそ私の知っている作品を中心に歴史の流れとともに説明がしてあって,読みごたえがありました。
 しかし,絵画を見る,というのはどういうことなのかな? という本質的なことに混乱をしています。要するに,絵画のはじめは宗教画,なのでしょうか。それは,クラシック音楽でも同様なのですが,それが発展して今につながっているのでしょう。私は,キリスト教がわからないから,そもそも,その時点で理解ができないのです。
 クラシック音楽もそうですが,私は,もし,この絵画が部屋の壁にかけてあったら気持ちが落ち着くかな? といったような感じで鑑賞することが多いです。だから,見ていて,思わず別の世界に引き込まれるような絵画が好きです。
 宗教的な難しいことはわかりません。

 美術の世界についてはこれ以上は語れないので,ここで音楽の話に振ります。
 現在,チャイコフスキー国際コンクールが行われています。
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 チャイコフスキー国際コンクール(International Tchaikovsky Competition)は,ロシア連邦政府とロシア連邦文化省の主催で4年ごとに首都モスクワとサンクトペテルブルクで開催されるクラシック音楽のコンクールで,ソビエト連邦時代の1958年にはじまりました。ベルギーのエリザベート王妃国際音楽コンクール,ポーランドのショパン国際ピアノコンクールとともに世界3大音楽コンクールのひとつとされています。
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 しかし,2022年,国際音楽コンクール世界連盟はロシアのウクライナ侵攻を受けて,チャイコフスキー国際コンクールの排除を決定しました。
 今年もまた,日本からも参加者がいるのですが,このことに関しては賛否両論があるようです。
 芸術は政治とは関係がないという人もいるのですが,今回取り上げた「西洋絵画の見方がわかる世界史入門」でもわかるように,芸術ほど政治とかかわりのあるものもないわけです。そこで,芸術家はこんなときにどう対応するかが問われるのです。これもまた難しいものです。

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 NHK連続テレビ小説「らんまん」を楽しく見ています。6月いっぱいで松坂慶子さんが演じた主人公槙野万太郎の祖母たきが亡くなったことで前編が終わって,これからの3か月が後編です。私は,見ていて辛くなるドラマは嫌いだし,主人公がいじめられるのもダメですが,このドラマは,登場人物はいい人ばかりなので,こころ穏やかに見ることができます。
 なお,実際の牧野富太郎博士はひとりっ子だったし,祖母とは血のつながりがなかったということなので,このドラマの槙野家の家族は創作ですが,ドラマだから,これでよいのでしょう。

 そんな楽しいドラマですが,このドラマを見るたびに,私は,忸怩たる思いに駆られます。
 それは,このところ,2020年2月,2022年10月,2023年1月と3回高知県へ出かけて,さまざまな場所に行ったのにも関わらず,ドラマの主人公である牧野富太郎博士にちなんだ場所をすべて見落としてしまっていた,というかパスしてしまっていたということです。
 牧野富太郎という名前は子供のころから知っていました。学校で借りた伝記を読んだのです。しかし,特に興味をもったわけではありませんでした。元来,私は「生物」という教科が好きではありませんでした。それがこんなに偉大な人だったとは…。失礼しました。
 だから,高知県立牧野植物園なんて,私が高知県へ行ったころは,こんな場所に大きな植物園があって,だれが来るのだろう? と思ったほどでした。しかし,高知県立牧野植物園の横を通ったときに臨時駐車場があったほどだから,いったいどうして? とさえ思いました。こうして,何度も行く機会があったのにそれを逃してしまいました。また,牧野富太郎博士の生まれ故郷である佐川の町も通ったことがあるのですが,きれいな町だなあ,と思っただけでした。
 日本の旅はこころでするものといつも書いている私が,実は,このように,自分が無知であったために,価値のあるものを見逃していたのです。これを恥じます。

 高知県立牧野植物園だけでなく,高知県佐川町には牧野富太郎ふるさと館,また,東京にも練馬区牧野記念庭園があるということなので,今はドラマが放映されている最中なのでおそらく多くの人が訪れているだろうから,ドラマが終わったころに,ぜひ行って見たいものだと,楽しみにしてます。
 ああ,情けない。

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Buck Moon 2023.

梅雨の晴れ間。
久しぶりに満月が見えました。
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 情報をすべて遮断してみると,ほとんどは快適なのですが,手持無沙汰な時間があることに気づきました。今まで,そうしたときに何をしていたのかを思い出すと,意味もなく雑誌を手に取っていたということに気づきました。つまり,雑誌の類もまた,単なる暇つぶしだったのです。また,雑誌は,暇つぶしのための絶好な武器なのです。
 ということで,何らかのそうした暇つぶしの雑誌でも,と少し考えてみて,やはり,今の私には,そういう選択肢はない,というのが結論になってしまったのが,残念なことでした。

 今から少し前,私が毎月購入していた雑誌は,「アサヒカメラ」「月刊天文ガイド」「将棋世界」の3冊でした。もっと以前には,こうした雑誌には,「アサヒカメラ」には「毎日カメラ」あるいは「日本カメラ」,「月刊天文ガイド」には「月刊天文」,「将棋世界」には「近代将棋」というように,必ずといっていいほどライバル誌があって,なかなかおもしろい時代でした。それも,インターネットがなかったからこそでした。
 さて,こうした雑誌を毎月読んでいたときは,発売日が楽しみで,購入したあとも,毎日,ほとんどすべてのページをきちんと読んでいました。ところが,インターネットから情報が入るようになると,雑誌に載っている記事の内容が,すでに知っていたことが多くなり,だから,雑誌を作る苦労がはじまりました。

 カメラ雑誌は,現在「CAPA」という雑誌以外は休刊となってしまったのですが,「CAPA」はカメラのスペック比べが主で,「アサヒカメラ」の代用とはなりません。しかし,現在のように,カメラがスマホにしてやられる以前に,すごい勢いで創刊された雑誌は軒並みだめになったのですが,その理由は,読者のニーズに応えられていなかった,ということに尽きます。
 天文雑誌は,今も健在です。私が日本の天文雑誌に魅力を感じなくなったのは,雑誌のせいではなく,私の興味が変わったからにほかなりません。私は,もっと深く掘り下げた天文情報を読みたいのに対して,雑誌の内容は,日本らしい,メカ中心,または,アマチュア天文家が老後の楽しみに私設天文台を作って超新星を発見したとか,さらには,依然として,読者の投稿写真のコンテストとか,そんなことを競っているような他人の自己満足を見る気もありません。
 将棋雑誌は,よほどのマニアでないと,難しすぎます。一時,デジタル版に駒が動くという機能をつけたことがあって,こりゃすごい,これならわかる,と思って感激しtことがあるのですが,おそらく,そうした手間がコスト的に釣り合わなかったのでしょう。今は単に紙ベースがデジタル化されただけになってしまいました。内容は,手の解説をされても,読んでいるだけでは追えないし,詰将棋とか次の1手とかは難解すぎて,まったくできません。

 ということで,日本の雑誌を購入しても,ぼんやりと写真を眺めているだけなので,そんな目的に1,000円以上も投資するのは自分には割が合わないという結論になってしまいました。

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