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●私がセコイア国立公園を知った木●
 「シャーマン将軍の木」を見るにはずっと離れたところに駐車場があって,そこから走っている無料シャトルバスは,「シャーマン将軍の木」のあるジャイアントフォレストとジャイアントフォレスト博物館を結んでいた。「シャーマン将軍の木」はシャトルバスに乗らなくてもトレイルを歩けば行くことができる。ジャイアント博物館はそれよりかなり下ったところにあるが,博物館には別の駐車場があるので車で行くことができる。
 このあたりがセコイア国立公園のメインルートで,多くの観光客が集まる場所であった。

 「シャーマン将軍の木」の駐車場から車を出してそのまま帰路である南の方向に走っていくと,そこにジャイアントフォレスト博物館があったので,再び車を停めて博物館を見学した。
 私はこの時点ではまだクレセントミドウ・ロードの存在を知らなかったので,博物館を見終わったらそのまま帰るつもりでいたが,ここで知ったのがこのクレセントミドウ・ロードであった。博物館の右手にその道路の入口があったがわかりにくく見逃すところであった。
 クレセントミドウ・ロード(Crescent Meadow Road)は,1番目の写真のように,車がやっとすれ違えるほどの幅しかなかった。この道路を道なりに走っていくとくるりと一周してまたこの場所に戻ってくることができる。このセコイアの樹木のなかを走る狭い道路こそがセコイア国立公園最大の見どころであった。

 それは私が小学校のころのことだったが,今となっては学年を思い出せない。ずっと国語の教科書だと思っていたが,帰国後,昔の教科書が閲覧できる,とある図書館に出かけてそのころの教科書を探したのだが,見つけ出すことができななかったから,私の勘違いで,国語の教科書ではなく,何かの学習雑誌か補助教材だったのかもしれない。
 ともあれ,そこに載っていて知ったのが,巨大な木の幹をトンネルのようにくり抜いてその中を車が走っている1枚の写真であった。
 私は,それを見てアメリカというのはエライ国だと思った。そして,子供心に,ぜひセコイア国立公園に行ってみたいものだと思った。しかし,本当にそこに行けるとは思っていなかったから,その幸運が訪れたことに私は感謝した。

 車が通れるセコイアの木が倒れたというニュースをしばらくして知ったことは今も覚えているが,今回,帰国してから調べていくうちに,その木が倒れたという当時のニュース記事をインターネットで見つけた。その記事によると,木が倒れたのは2003年ということだった。
 そのころはもう,私は,アメリカはエライ国だ,というよりも,そんな客寄せのために木をくり抜いてしまうような愚を犯すから木が倒れてしまったではないか,かわいそうに,と思ったことだった。
 今回,セコイア国立公園に来て,倒れてしまった以上,その木はもはやこの国立公園には存在しないだろうけれど,当時その木があったのははたして国立公園のなかのどこだったのだろうと思った。しかし,それを探そうという気持ちは特になかった。

 現在,クレセントミドウ・ロードにはトンネルログ(Tunnel Log)といって,自然に倒れて道を塞いだセコイアの幹にトンネルをくり抜いて車が走れるようになっている箇所がある。そういう場所があることは来る前から知っていたが,それもまた,国立公園のどこにあるのかは知らなかった。
 それがこのクレセントミドウ・ロードにあった。しかし,それは私がこの国立公園を知った幹をくり抜いたセコイアの木とは全く違うものだから,偶然,私がその場所に行くことができて,しかも,私も車で通り抜けてみたが,特に感動もなかった。
 クレセントミドウ・ロードを一周し終わって帰ろうと思ったとき,オートログ(Auto Log)という立て札とその横に小さな道があるのを見つけた。実は,クレセントミドウ・ロードに入ったときにもこの立札を一瞬見つけたのだが,気にもせず通り過ぎていた。帰りもまた,同じように気にせず一旦は通り過ぎたのだが,その後で,ひょっとしたらあれこそが私がこの国立公園を知った幹をくり抜かれたセコイア木のあった場所ではないのだろうかと思い直して,引き返すことにした。

 立て札のあった場所まで戻って横の道を少し登ると駐車場があったので車を停めて外に出た。そこには説明書きがあって,その説明書きには,この場所は,昔,セコイア国立公園を紹介するときによく使われた有名な木のあった場所だということが書かれてあった。
 この場所こそが,私がセコイア国立公園を知った幹をくり抜かれたセコイアの木のあった場所なのであった。
 現在,木は倒れたまま半分土と同化していた。私は,この木と出会えた偶然に驚いた。そしてそしてまた,月日の流れを感じるとともに,人の愚かさに再び悲しくなった。
 しかし,木の幹をくり抜いて車を走らせるなどという愚行をしたことで私はこの国立公園の存在を知ったわけだから,もし,その写真を見なかったら私はこの国立公園に来ることもなかったということもまた事実なのである。